畠 博之
ラジオ日本でしか外界のニュースを知ることができない僕が感じた、最近の感想が上の表題だ。昨年の地球温暖化防止京都会議の一過性の環境論議、そして今年の金融ビッグバンにともなう経済状況の過剰な危機感をあおるニュースの洪水に、いささかしらけ気味に聞いている。昨年、二酸化炭素排出削減のため、大量生産大量消費の産業構造や消費者のライフスタイルに疑問が投げかけられたはずなのに、今年は景気回復のため減税をし消費を大いに伸ばさねばという。
経済発展理論に対する素朴な疑問。長崎大学の経済環境学の中村おさむ氏がラジオ日本で言っていた。「成長発展は何のため?」
昨日夕方、写真を撮りながらあたりを散歩した。今は四月。日本では桜の季節そして春の緑が芽生える季節。しかしここネパールでは乾季の真っ只中、一番緑が少ない季節だ。田畑は赤茶けた土が露出しその上を乾いた風が吹く。林の木々の葉は枯れ葉色に変色し、乾いた風が吹くたびかさかさと落ちてゆく。春は落ち葉の季節でもある。
遠くの畑にくすんだ緑がある。麦がまばらに生えているのだ。正確には「植えられている」といったほうがいいのだろうが、痩せた土地、貧弱な肥料と水ゆえ、生産活動からはずれて自然に生えたように、貧弱な緑かそこにある。
もう少し水利をよくし、生産性を上げて収量を増やすこともできるのだろうが、と思いつつもそれを否定する事実に行き当たる。たくさん作っても売れないのだ。食べる分だけ作る、売れる分だけ作るというのがこの山村の経済なのだ。地域外に持ち出して売るにはポーターたちの労働が必要だ。車で運び出せばよいなどとは言わないでほしい。ここは石油文明とはまだ無縁なのだ。流通が発達し市場が拡大し生産量が増えるという「経済発展」は石油の賜物である。
「食べる分だけ作る、売れる分だけ作る」という「経済成長率」がゼロあるいはマイナスの状態は本当に悪い状態なのだろうか?「経済成長率」の低下への恐怖は工業化社会の強迫観念に過ぎないのではないか。

Photo-26 稗の穫り入れ
ここ数年コンピュータの導入による業務の効率化がめざましい。われわれ理工系の古い人間にとっては、コンピューターは人間がやると何日もかかる計算をあっという間にしてしまう「計算機」だった。このおかげでわれわれ人間はどんなに楽になるだろうと思ったものだ。いろんな分野にコンピューターが使われ、仕事や家事が楽になるはずのものだ。しかし実際はますます忙しく、コンピューターの処理速度が速くなればなるほど、これに追い立てられている。コンピュータ−が人間を楽にする方向に使われているのではなく、「経済のマイナス成長」という悪魔の姿をまぶたから払拭しなければという、強迫行動に基づいて使われているからだ。
中村氏は環境という側面から今日の「経済成長万能主義」に疑問を投げかけていた。「経済構造」も「経済理論」も人間が作り出したシステムなのだから、今の「成長」や「発展」に重きをおく理論のほかに、環境に重きをおく理論もあるはずだという。もっともなことだ。でも僕は経済の素人としてもっと素朴な疑問、「マイナス成長って本当に悪いことなの?経済成長しても、ちっともわれわれがヒマにならないのはなぜ?」と豊かな時間を過ごしているネパールの山村の人々を見てそう思う。
1998年4月4日 パルンタールにて
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