畠 博之
「君が代」・「日の丸」の法制化の後、憲法「改正」、「昭和の日」制定の動き、教育勅語是認など、きな臭い流れの中、森首相の「神の国」発言があった。多くの人々がその「確信犯」的真意を感じ取ったにもかかわらず、当事者は誤解には陳謝するが、発言は取り消さないという。
森首相は「教育改革」にも熱心で、さかんに「愛国心」を培う教育を主張してきた。しかしそもそも「愛国心」をどうやって測るのだろうか? 時の政府に反抗せず、「国のため」に銃をとれる人間をさしていうのだろうか? 中山建設相は吉野川可動堰に関する住民運動のメンバーのひとりの前歴を取り上げて、「国をつぶそうとした者」というレッテルを貼り、市民運動との対話を拒否している。この人たちにとって、「愛国心」とは「愛政府心」のことかもしれない。いや偏狭な「愛党心」だろうか。
地域を愛し、国を愛し、地球を愛する心の発露はさまざまな形をとる。企業活動に専念するもよし、環境運動にかかわるもよし。こんな大げさなことでなくとも、社会のルールやマナーを守り、隣人と仲良く暮らすことでも十分なのだ。
毎年数百万人もの人々が日本を離れ、海外の生活を経験している。海外生活経験者は、日本のよさを感じ「愛国心」を感じているはずだ。また日本のいたらない点についても、日本はこうあってほしいと真の「愛国心」から願っている。また「国籍」はなくとも在日外国人はまた違った形で、日本への愛着を示すことができる。
かくいう私もネパール王国からの「愛国心」いっぱいの帰国者の一人のつもりなのだが、当ネパール「王国」国歌以上の君主賛歌である「君が代」が、「民主主義国家」日本の「国歌」であることに戸惑いを覚える。ややもすると、「非国民」のレッテルを貼られかねないようだ。
教育現場では、子供たちの能力を点数や偏差値という一元的な指標のみで測るのではなく、多面的に評価しようという動きが定着しつつある。その教育現場で、「君が代」、「日の丸」、元号を踏み台にして、教師たちの「愛国心」を一元的に評価しようという動きがあることは許されない。
相手を想い、国や地域を愛し、世界の人々のことを考える心が、「愛国心」という言葉で矮小化され、さらに一元的指標で私たちの行動が評価されようとしている。物事を多元的にとらえる文化環境を早急に取り戻さなければならない。
(2000年6月4日)
| エッセイの扉の ページの戻る |
| トップ・ページに戻る |