畠 博之のごあいさつ |
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[着任]
1987年2月13日の金曜日仏滅という最低の忌日の飛行機をもまったく気にせず、意気揚々と伊丹の大阪国際空港を出発。ぼくにとっては1年ぶりのネパールだ。カトマンズの風景を見て「わー、なつかしー」と感激し、カトマンズでの仕事もおざなりのままバンディプルへ。
バンディプルはぼくが赴任するゴルカの南西に位置するタナフン郡の古き街。当時離任直前だったJOCV隊員(青年海外協力隊)の談儀氏(現JECSスタッフ)のもとで語学研修を、との本部の指示が出ていた。しかし軟弱な体力のぼくは、バンディプルへ地獄の登り坂でダウン。風邪から気管支炎をおこし、ベッドの上で煤けた部屋の天井を見ながらの語学研修となる。
ようやく起き出した頃は、談儀氏の送別会を彼の赴任校でやる日。おりしも教育記念日の式典日。ここでネパール人のバーサン(演説)を、病み明けのボーとした頭にいやというほど聞かされる。さっぱりわからなかった。一つだけ「シッチャー、シッチャー」と、どの演説者もアホみたいに繰り返すので、気になって談儀氏に聞く。しかし、彼は意地悪からか(ごめん)笑って答えてくれない。ずうっと後で「シッチャー」とは「教育」であることがわかり一人赤面。これから教育関係の仕事をする派遣員が、「教育」という言葉も知らなかったのだから。ぼくのネパール語の語学力はこんなもんだった。

Photo-1 サラスワティ小学校の卒業生と
(右から3人目が畠)
[任地パルンタールへ]
バンディプルを去る談儀氏と共に、街道筋のドゥムレまでおりて来たのはいいが、手紙で連絡したはずのパルンタールからの迎えが来ていない。自力で行くことも考えたが、途中で日が暮れたらどーしよう。はたして宿があるのか、飯は食えるのか、さっぱりわからんかった。ドゥムレでぐずぐずしていて、5日目にひょっこり現れたのが、石田代表の友人でパルンタール出身のジャガットさん。ポカラからカトマンズへ向かう途中、たまたま昼食でドゥムレに立ち寄ったところ、「変な日本人が『パルンタール』を何度も口走っている」と聞いたので、宿まで訪ねたという。彼の紹介で、同じくパルンタールの村人がぼくを案内することになる。アマル・ジョティ高校に当時いたアメリカ人教師のピウン(使用人)であった。どうやらドゥムレまで、彼女の郵便物や荷物を取りに来た帰りらしい。つまりパルンタールまでは郵便物は届かないってことなのだ。どおりでいくら手紙を出しても迎えにこないわけだ。ここでネパールの田舎の郵便事情を初実感。(その後いやというほど再実感)
ここからトゥルトゥレまでは、未舗装だが一応自動車道路がある。雨季は閉鎖されるが、当時は乾季。土埃をまき上げながらも、トラックやジープが日に何台か走っていた。でもこのピウン氏、「あれ、今トラックが見当たらないな」、と言ってぼくの重い荷物を娘に担がせ、さっさと歩き出す。「えー、もうちょっと待って、ジープでも見つけていこうよ。それにこんなちっちゃな女の子に担がせて大丈夫?」と言っても(言ったつもりでも)、乏しい語学力の限界だったみたい。しっかり無視された。途中でぼくらを追い越すトラックを恨めしそうにみながら、覚悟を決めて歩くしかない。彼にしてみたら、お金を払って車に乗るという発想はなかったのだ。車に乗らず、ポーター代を稼ぐチャンスだったのだから。
以後11年、車代をケチって何時間も歩く人々や、村の店より50パイサ、1ルピー(日本円で1円ないし2円)安いからと、半日かかる遠いバザールに買い出しに行く村人を、数多見ることになる。「時は金なり」を別の意味で実感する。現金収入が限られる村では、有り余る時間をお金をケチることに使うのだ。
さて、くたくたになって着いたところが先ほどのジャガット家。カウンター・パートになるバーブラム・シュレスタ氏宅に下宿するように、本部は事前に話をまとめてあった。しかし翌日彼の家の部屋を見て、食事を食べてみて、ぼくの頭と舌は恐慌状態(バーブラムさんごめんなさい)。ドゥムレでジャガットさんが別れ際、「わしの家に(とりあえず)泊まったらいいよ」と言った言葉を、「下宿してもいいよ」とここで勝手に拡大解釈する。そして「ぼくはここに下宿することにする!」と留守を守るジャガットさんの奥さんに宣言し、強引に居すわることにした。それが11年も居すわることになろうとは、ぼく自身はもとより、奥さんやジャガットさんも思いもよらなかっただろう。
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