畠 博之のごあいさつ




11年の活動を終えるにあたって 

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[初仕事]
 と、題を書いてみてハタと困った。そう言えば初仕事と呼べるものはなかったなあ。赴任校はサラスワティ小学校。記録には「第一日目、バーブラム・シュレスタ校長の授業を見る。」「第二日目、ハリ・クマール・シュレスタ先生の授業を見る。彼は識字学級でも教えているだけあってていねいだ。」「ずっと一日一人の先生について見学しようと思う。」などと書かれてある。要するに気楽に見学ばかりしていたわけだ。
 四月五月はフーリー・バタース(暴風雨)の季節。乾季から雨季へのモンスーン(インド洋季節風)の流れが変わるときで、気候が不安定になる季節だ。日中は亜熱帯のカンカン照りかと思うと、午後は雷をともなう大陸性暴風雨が吹き荒れる。教師の仕事は遠くの雲行きをみきわめて、授業を切り上げて生徒をすばやく家に帰すことだ。みきわめを間違えると、校舎に閉じ込められる。もちろん授業どころではない。かつて何度も暴風で吹き飛ばされては打ち付けられた穴だらけのトタン屋根からは、水しぶきとともに耳をつんざく豪雨音・雹音。隙間だらけの窓板・戸板を閉めると中は真っ暗。話もできず、じっとやり過ごすしかない。屋根が飛ばなきゃいいがなあと。
 そんなある日、理科のケッシャル先生が心配顔で聞く。「カミナリ恐くないか?」 「家や建物のなかはだいじょうぶよ。」とぼく。ネパールでも雷は落ちると表現するらしい。「何が落ちるんだ?」と真顔できく彼に、「まさか、からかっているんじゃないだろうな」と言葉をつまらせる。答えあぐねているぼくに、「石が落ちるのじゃあないのか?」と一言。えー?? そこで電気のそもそもの話を、この理科の先生にすることが初仕事になった。「ほんとにそれだけか?」 「そう、電気が流れるだけだ。」 「わしは(石が落ちてくると)そうきいたぞ。」
  彼らの電気とは、懐中電灯とラジオ。要するに村では乾電池の電気しかないのだ。都会の電灯やテレビは知っているだろうが、感電などしたことなどないはずだ。雷が電気なんて理解できないのも当然だ。乾電池は人を殺さないもんねェ。



Photo-2   嵐によって倒されたトウモロコシ



[病気]
 ぼくは寒さにメチャ弱い。ぼくの病気の定番は、風邪から気管支炎のコースをたどる。今までは肺炎までのフル・コースは頂いたことがないのが幸いだが。その反面、亜熱帯の病気にはのんきにかまえていた。かつて1年間ほど、南アジアや東南アジアをケンヤク旅行(いわゆるビンボー旅行)をしたことがある。安宿に集まった他の日本人たちが、やれ肝炎だ、マラリヤだ、赤痢だ、腸チフスだとお互いに病気自慢をする中、ぼく自身は自慢するものもなく小さくなっていたものだ。
 ところがようやく自慢できる(?)病気が訪れてくれた。着任3カ月たった頃だったかな。訪れは夜中に唐突であった。時間を考えて訪問してくれてもいいようなものだけど、ここはネパール。人を訪問するのにもアポイントメントをとる習慣がないから仕方がない。こわごわトラの出そうな闇夜を遠くのトイレまで急ぐ。後は書かない。高尚なこの文章を汚したくはないから。経験者はご想像を。
 さてこの厄介な病気は、手持ちの下痢止めなどという、一般薬では治らない。ジアルジア・アメーバ赤痢などの原虫症用の薬でおとなしくなるが、すぐ再発する。はじめはそのうち治るだろうと気楽に考えていたぼくも、上腹部や背中から肩にかけて、刺すような痛みが常駐するようになると考えも変わってくる。腎炎か?はたまたアメーバ性肝膿瘍か?手もとの医学書から可能性のある病名をつけて遊ぶゲームにはまる。こうなると、孤立した派遣員なんてもろいものだ。ポジティブ思考が一気にネガティブ思考に。とどめは大島医師(現JECSスタッフ)から送られてきた、アメーバ性肝膿瘍の死亡症例のえげつない臓器写真。「大島先生も意地が悪いわ」と思いながらも、ティーチング病院(カトマンズ)の検査結果で帰国を決心。
 87年8月14日ネパール出国。ちょうど6か月で派遣員挫折というわけだ。



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