八幡小学校区同和教育協議会 研修大会 講演
−−11年間のネパールでの民間教育援助活動を通して−−
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(添付写真は講演時映写したスライドです。クリックすれば、拡大写真と説明が見られます。写真には複数の文書からリンクが来ています。元に戻る時に迷わないよう注意して下さい。)
(6)日本の豊かさの裏側
兵庫県では「トライやるウィーク」というので、中学生を1週間ほど、労働現場に出しますよね。これはたいへん親にも子供にも好評だったと聞いています。私もたいへんいいことだと思います。ただちょっと気になるのは、学校主導でなされたということですね。家庭や地域社会主導でできればもっといいと思います。社会や家庭は学校に期待を寄せすぎていますね。今の学校は本当に忙しすぎます。
時間的に忙しいというだけでなく、情報的に忙しすぎます。「情報的に忙しい」というのは変な表現ですが、要するに処理すべきことや熟慮するべき情報が多すぎるということです。
(6)−(ァ)一人の人間が世話をできるのは何人?
興味深い調査があります。日本のずっと昔、戦前の田舎の調査です。関東での調査ですが、その頃の村はさらに小さな自然部落(集落)でできていました。各々の部落には、親方または顔役がいて、その部落を行政的にそして司法的に、農村共同体としてまとめていたわけですね。まとめる基本は全戸出席の部落の寄り合いで、決定は全会一致が原則でした。多数決というのは西欧民主主義の影響で日本に入ってきたもので、国会ぐらいにしか機能しません。部落で絶対してはいけないことは、盗み、放火、アカそして「村を割ること」でした。ですから親方または顔役は寄り合いで意見が分かれて、部落が分裂することを避けるために腐心します。普段から子分またはヒラ(平)の世話をし、よく把握しておかねばなりませんでした。そうすることによって少々意見が違っても、「まあ、あの人が言うことだから」「みんなの言うことだから」とまとまるわけです。
それでも、うまくまとまる部落とまとまらない部落が出てきます。もちろん顔役の人柄にもよりますが、部落の規模にもよることが分かりました。自然部落ですから、分家や移住で増えた減ったりします。うまくまとめるにはどのくらいの規模(戸数)がいいと思いますか?だいたい10軒から12軒だそうです。顔役は日常の農作業のトラブルの処理から、ヒラの冠婚葬祭や個人的な借金の世話までするわけでたいへんです。これ以上の戸数になるヒラを把握できなくなり、結果として顔役は部落をまとめられなくなるのです。
この中には村で隣保長をされている方がいると思います。あるいはそうでない方でも、もし自分が隣保長で、隣保のすべての人々、戸主だけでもいいですが、把握しようと思ったら、隣保は何軒ぐらいが適当だと思いますか?今は昔のようにこまごまとしたことをする必要がなく、かなり事務的に物事を処理しますので、15軒ぐらいでもいいと思いますが、それでもたいへんだと思います。
(6)−(イ)人間の情報処理能力の限界を知ろう
私はネパールで42校の学校をみてきましたといいました。最初は10校で、次の年は16校、そして19校、25校、32校と増えていきました。最初は戸主に当たる校長先生の名前と顔はもちろんのこと、平の先生方の名前や指導教科、学校の校舎や設備の状況などすべて把握していました。ですから、校舎建設や設備品の支援などのプロジェクトの立案で、ここの学校は今年はこうしようとか、合同運動会では、あそこの学校のあの先生は体育専門だから、ここを手伝ってもらおうとか、世話をするにも、されるにも非常にスムーズに事が運び、参加も盛況でした。ところが20校を超えるようになると、私も委員会のネパール人先生もすべてを把握できなくなり、学校番号をつけてファイル化せざるを得ませんでした。
私たちはサルからヒトへと進化し、社会を作り上げていく上で、10−20の家族で原始共同社会を作り上げてきたといわれます。現代は数百の家族が一つのマンションに暮らしたり、電子メールやインターネットなどで、世界中の何十万の人々と付き合っているような錯覚をさせられていますが、実際の付き合いはもっと少な目です。年賀状を100枚くらい交換し、付き合いの多さを自慢する人もいるでしょうが、実際普段から親密に付き合っている人数は意外と少ないものです。私たちがアドレス帳(住所録)の中で普段から付き合っている人を数え上げると、やはり10−20という数が出てくるそうです。会社組織などでも10人に一人くらいで、係長やグループ長を置くのが、ヒラをまとめる上で、そして組織を動かす上で適切だといわれています。
近代化によって都会に何十万人の人がかたまり、情報社会の発展によって大量の情報が飛び交っていますが、この状況はほんの数十年の出来事です。それに対して、私たちの遺伝子は数百万年も相変わらずで、脳の情報処理能力も原始共同体の頃と何ら変わりません。
(6)−(ウ)身の丈にあった社会のシステムを
学校の教師だって同じです。昔のように教科だけ教えるだけならば、クラスに40人も50人もいても可能でしょう。しかし今のように子供たちの生活背景や心の問題にまで把握しようとすると、10−20人が限界です。これは大脳の生理的限界です。教師は生徒付き合いのプロだから、もう少し多くて25人くらいでも把握できるかもしれません。先進国のやはり日本と同じように、子供たちの心の問題を抱えている国では、1クラス20−30人ですね。
限界を超えると個々の人間の個性も歴史も消え、番号付きのカードになるといいます。私が支援していたネパールの学校をも、番号化せざるを得なかったことは先ほど述べました。多すぎる情報を番号化せざるを得ないところに、今の日本の社会の悲劇があります。もし日本の学校の問題を解決したいのなら、教師の「身の丈に合った」クラスの規模にすることが大切ですね。もちろん社会や家庭などの、子供を取り巻く環境の改善も重要な要素ですが。断っておきますが、私は今、日本の学校には何の利害関係もありません。教職員組合の回し者ではありません。誤解のないように。
言いたいことは、文明が進歩し、コンピューターが発展して、情報処理のスピードと量が桁違いに大きくなって、私たちはそれに躍らされていますが、人間の脳の処理能力は太古のままなのです。「身の丈にあった」社会のシステムを造らない限り不幸は続くでしょう。
(7)最後に
生態学(エコロジー)が教えるところは、多様性の安定性です。多様な生物がいるから、自然は多少の環境変化に対しても緩衝作用を持ち、安定するのです。しかし先進国では、効率至上主義の名のもと、できるだけ単純で、巨大な人工のシステムを導入しようとしています。現代科学技術の助けを借りて、特にコンピュータの助けを借りて、ですね。
大都市の電気・水道・電話や巨大な流通など、これらがいかにもろいものか震災で明らかになったと思います。八幡町は田舎臭くていかんと言われる人もいますが、田舎はエコロジー的に非常に安定な社会です。地球に優しい生き方として英語で、Live
locally, think globally という表現がありますが、私はこれを「身の丈に合った生活をし、地球規模の想像力を持とう」と訳させてもらいます。これからもいい八幡町であることを願いつつ、


今日の私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。
(講演終了)
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