世界のニュースあれこれ
  2011年10月入手情報


ジョージは、20年前にブルース・ボイトラーのノーベル賞受賞を予想していた!

10月3日のニュースで、2011年のノーベル生理学・医学賞受賞者の一人が、スクリップス研究所のブルース・ボイトラー(Dr. Bruce Beutler)先生と報道されました。このニュースは、免疫学分野の研究者以外では、あまり関心のないことかもしれません。また、今回の受賞に日本人の先生が入らなかったとか、ノーベル賞発表後、受賞された先生がなくなられていたとかいうニュースだけが大きく報道されていました。日本の一部の新聞では、カリフォルニアにあるCity of Hope研究所の大野乾先生がブルース・ボイトラー先生の研究の進路に影響を与えたとかいう記事で、ボイトラー先生と日本人の関係について触れていたのが、どうしても日本に関連付けたいという内容になっていました。

ブルース・ボイトラー先生に会ったこともない私ですが、以前スクリップス研究所にいましたから、その点でうれしいことです(さらに、今年のノーベル物理学賞のブライアン・シュミット先生は、以前私が所属していたオーストラリア国立大学の教授で、今年ののノーベル賞の発表を大変喜んでいます)。しかし、そんなことより、今回は、20数年前にブルース・ボイトラー先生のノーベル賞を予想していた人のお話をします。

20年前に、スクリップス研究所(前身は、Scripps Clinic and Research Foundationスクリップス医学研究所)で、ジョージ・デール先生(Dr. George Dale, 現在、オクラホマ大学医学部教授)は、「ブルース・ボイトラー先生は、将来、ノーベル賞を受賞するよ」と言っていたのを思い出します。日本の報道では、ブルース・ボイトラー先生の本当の姿がはっきり報道されていませんが、若いときからアメリカでは注目されていた医学研究者で、ノーベル賞を取るべくして取った研究者ということになります。この人の場合、たまたま運が良かったというより、ノーベル賞を狙っていたのではないでしょうか。そして、ご家族を含め、その周辺の人たちも、きっとノーベル賞を受賞すると思っていたということでしょうか。さらに言えば、家族も友人もボイトラー先生の周りの人たちもノーベル賞への道を信じて、向かっていたのではないでしょうか。すばらしいことです。

ブルース・ボイトラー先生は、1957年12月生まれですから、現在53歳。ということは、私がこの話を聞いた時、彼は若干30歳の時で、今回受賞理由となった直接の研究はまだ始めていませんでした。ただし、
ロックフェラー大学やテキサス大学で研究実績をどんどん積み上げ、今回の受賞のテーマにつながりました。ジョージ・デール先生からその予想を聞いた時には、ふーんという感じでした。しかし、この予想に関してはずっと気になっていたので、ジョージ・デール先生の「ノーベル賞予想」は、よく私の家族や一部の人には話していました。本当に受賞され、驚きました。お見事!


ジョージ・デール先生とは、スクリップス時代、ブルース・ボイトラーのお父さん、アーニー・ボイトラー (Dr. Ernest Beutler) 先生の研究室で一緒に研究を行いました。ジョージ・デール先生は、カリフォルニア大学大学院修了以来、ボイトラー先生(父)の研究室にいたので、ボイトラー先生のことや家族についてよく知っている一人で、いろいろなことを私に話してくれました。ジョージ・デール先生は、大変優秀な研究者です。一方、私の方は、大学院終了する前に20数通の就職問い合わせの手紙を書いて送付し、アーニー・ボイトラー先生(父)のところで、やっと雇ってもらうことができました。このデールと私の組み合わせをアレンジしていただいたのが、偉大な指導者、アーニー・ボイトラー先生(父)なのです。

さて、ブルース・ボイトラー先生の簡単な経歴をインターネット情報で調べてみると・・・。南カリフォルニアで生まれ、パサデナにある名門高校Polytechnic Schoolを卒業後、カリフォルニア大学サンディエゴ校へ、そして18歳で卒業。そして、飛び級でシカゴ大学医学部へ入学、卒業23歳という優秀な方です。そして、そのお父さんは、血液学者のアーニー・ボイトラー(Dr. Ernest Beutler)先生です(補足1)。ボイトラー先生(父)が、City of Hope研究所の血液学部門に18年間いた関係で、ブルース・ボイトラー先生は、お父さんの研究室や同研究所の他の研究室で、長期の休みや他の機会を利用して、実験を手伝っていろいろな経験を積んだそうです(アメリカではよくある学生時代の過ごし方で、優秀な学生は、大学の研究室に出入りして先端の研究に接することができるようになっています。それも一つの分野だけでなくいろいろと。小学生から高校生までのスポーツでも同じで、日本のようにバスケット一筋とかいうことはほとんどなく、野球、バスケット、アメフトなどシーズンにふさわしいスポーツを楽しむ違いがあります)。
高校、大学時代に
City of Hope研究所の大野乾先生や他の優秀な先生方との交流が、その後のブルース・ボイトラーの研究にプラスになったことは間違いないと思います。たぶん、お父さんが息子のためにノーベル賞への道を目指して、いろいろ経験することをアドバイスしたのではないでしょうか。

ボイトラー先生(父)が、その当時、もっとも残念に思った出来事がその後の息子への教育へ拍車をかけたことも事実です。それは、X染色体の不活性化(女性のX染色体のうちの1本は働らいていない状態)に関して研究の発表で遅れをとったことです。早くから気付いていたことを発表しなかったことをずっと悔しがっていました(少なくとも20年後まで)(補足2)。当時としてはノーブル賞級の研究だったのではないでしょうか。

あの父にして、この息子ありということで、ボイトラー親子の努力がノーベル賞受賞ということになりました。本当におめでとうございます。

ジョージ・デール先生の予想、的中でした。 すばらしい。

補足1: アーニー・ボイトラー(Dr. Ernest Beutler)先生についての解説。7歳のとき、ヒトラーの反ユダヤ政策により家族と共にアメリカに移住。その後、15歳でシカゴ大学へ入学(これまた飛び級です)、学部卒業、医学部入学、
卒後教育を終わり医師免許取得は21歳の時でした。第二次世界大戦中は、陸軍でマラリアの研究からスタートし、その後も溶血性貧血、赤血球酵素異常症などの研究を中心に。800の論文、19冊の本を出版、本一部を分担して書いた章も300に上ります。発表した論文では、多くが第一著者としてのもので、共同研究をして積み上げたというよりも、自分が引っ張って行った研究が多いのも特徴です。医学研究では若手が筆頭著者になり最後がそのグループのトップという論文が多いので、珍しいパターンです。2008年10月に80歳で亡くなられました。

補足2: 歴史的には、1959年にCity of Hope研究所の大野乾先生が、哺乳類のメスのX染色体の一つがクシャクシャと丸まって見えると報告し、そして翌年1960年、それは、以前、カナダのマレー・バー先生によって確認されていた「バー小体」と呼ばれるものが、メスのX染色体の1本だという発見をしました。大野乾先生の「X染色体とバー小体」の話を聞いていた、同僚のアーニー・ボイトラー先生(父)は、X染色体の不活性化に気づき、たびたびセミナーなどでこの仮説を皆さんに話していました。ただし、論文を書いていませんでした。X染色体上の遺伝子が作る酵素活性は、なぜ女性の方が男子より
高くないのかという簡単な疑問からスタートし、それを、X染色体不活性化(一対になっているX染色体の一本が働かない状態)という点に着目し説明したのでした。X染色体の不活性化を証明する実験の方は、自分が得意とする赤血球酵素の異常の一つ、グルコースー6−リン酸脱水素酵素
(G6PD)で行いました(G6PDは、X染色体の遺伝子が作る酵素)。実験の方は簡単ながらお見事というもので、論文は1962年に発表されました。それに先立って、イギリスのメアリー・ライアン先生は、バー小体の発見からX染色体不活性化の仮説をNatureに提唱しました(1961)。実験では、アーニー・ボイトラーの方が、X染色体不活性化について明確に示しているのですが、その後、分子生物学技術を使った実験により、X染色体の不活性化の詳しい機構が分かる
まで、「ライアンの仮説」ということになりました。「ボイトラーの仮説」になりませんでした。
(これ以来、アーニー・ボイトラー先生は、アイデアが浮かんだらすぐ実験をして、できるだけ早く論文を書くということを実行し、他の人にもそうするように話していました。車を運転しながら、デープレコーダーにその内容を吹き込み、後で、秘書がタイプをして、論文の草稿を書いていたと噂?されるくらいでした。まあ、それだけ自分自身で書いていた論文が多かったということです)

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