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1966年 秋1967年 初夏1967年 秋片寄先生の文

1968年 秋金銀銅賞完成期1996年11月10日 出雲後記


十亀正司の吹奏楽コンクール入門

1996年 秋

 我々は木管五重奏の演奏会を無事終え、明日のクリニックを控えて地元の先生方との親睦を深めつつ大いに盛り上がっていた。ここは島根県出雲市。今朝一番の飛行機で東京を発った疲れも手伝い酔いの回るのが早い。明日5時間で25人教えることを考えるとそろそろ横になりたかったが、話はいつしか吹奏楽コンクールの話へと発展していった。そして翌日、その日は突然にやってくるのである。

 全日本吹奏楽コンクールの歴史は昭和15年にスタートし3回目まで開催した後に戦争で中断し、戦後は31年から再び毎年1回開催され今年で44回目を迎えたことになる。毎年参加校は今なお増え続けている。それではぼくが経験したコンクール14回仙台大会から話を始めることにしよう。

1966年 秋

昭和41年、東京、ぼくが中学2年のある秋の朝のことである。
一つの電話がぼくの眠りを破った。その時その電話が全日本吹奏楽コンクール史上まれにみる発展をなす画期的な時代の幕開けのベルであったなどと言うことを眠い目をこすりながら受話器に向かうぼくには解ろうはずもなかった。

 「おい、十亀、うちの高校2位になったぞ!」その晴れ晴れとした電話の声の主はぼくの2年先輩のチューバで実はこの年、板橋高校の1年生部員として仙台に於ける全国大会の舞台に立っていたのだ。「1位は天理高校だ、これで天理は3年連続 と言うことになるな。来年の東京大会は招待演奏だ。コンクールに参加しないのはちょっと残念だけど、たくさん聞けるかもしれないからそれもまあいいか。」先輩が矢継ぎ早にコンクールのことをまくしたてているのをぼくは羨ましさでいっぱいの思いで聞いていた。当時の天理高校といえば目下向かう所に敵なしという状況で、一体どこがそれに次ぐ2位になるかがぼくには興味があった。しかもぼくが大変お世話になった先輩の高校が初参加しているのだからなおさらである。「これは快挙だ。」ぼくも信じられない思いで興奮をしていた。実は、板橋高校を志望しようと心に決めていたのである。仙台からの早朝電話は続く。「それがもっと大変なことが起きたんだ。今津が負けたぞ。」ぼくはその時一瞬彼が何を言っているのか分からなかった。板橋高校のことで頭がいっぱいだったからである。「え?」ぼくは聞き返した。「だから十中 が一位で今津が二位。今津が破れたんだよ。」ぼくは電話を切ってからも驚きでいっぱいだった。西宮市にある今津中学と言えば昭和35年に初優勝してから負け知らずである。そして仙台大会がちょうど二度目の三年連続優勝の年に当たっていた。天理高校も同じく三年目に当たっていたためほとんどの吹奏楽ファンは来年の東京大会は天理と今津が招待演奏をするものと予想していたのである。

 そのころの東京の中学生みんながそうだったに違いないが十中の演奏は東京大会や音楽会などでわりと聞く機会があったが、今津の演奏というものは聞いたことがない。その年の十中の自由曲は(板橋高校も同じ曲でのぞんでいた)ワグナーの楽劇「ローエングリン」よりエルザの大聖堂への行進<M1・豊島十中。M2・板橋高校>で、東京大会のその演奏は大変静かで且つダイナミックなもので、中学生だった当時のぼくが感動に体が震えたのを今でも忘れない位すばらしいものであった。だけどその十中が何回挑戦しても勝てない今津はもっとうまいはずであったのにそれが破れたという今、またかえって今津中学校の演奏を今まで以上に聞いてみたくなった。そして最初のチャンスはその一年後にやってくる。

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1967年 初夏

 その年ぼくは中学最後のコンクールに悔いが残らないようにと毎日毎日勉強もせずにブラスバンドに熱中していた。(これがぼくにとっては後々災いとなるのだが)コンクールの課題曲が発表され、二週間もすぎたであろうか、ある日の部活動が始まる前のことである。ぼくは顧問の先生に職員室に呼ばれ(その当時ぼくは指揮も任されていた)あるテープを聞かされた。そのテープとは課題曲<服部公一作曲・北の国から>のクリニックが関西で行われ、先生がそれを録音したものだと言うのである。上手いの一言であった。この課題曲には、今までにないいろいろな新しい試みがなされていた。八分の七拍子や二拍三連。そんなものなどこの課題曲の譜面を手にするまで中学生のぼくは見たこともなく、理解するのにしばらく時間がかかったほどだった。それがちゃんと演奏されているのである。ぼくは、「ふーむ、よしこれは参考になるな。」と、そのとき先生が信じられない言葉を口にした。「この演奏は今津中学校が・・・・」何を訳の分からないことを!!だって課題曲が発表されてから二週間しか経っていないのだ。職員室からどうやって出たかは今もって記憶がない。

 夏休みにもまだ入っていないこの時期にもうぼくは今津の生の演奏を矢も盾もたまらず聞きたくて仕方がなくなっていた。半年も先の全日本吹奏楽コンクールを、しかし悲しいかな、その時点ではその演奏を確実に聞けるという保証はまだどこにもない 。

 我が赤塚第三中学校 の自由曲はタンホイザー行進曲である。夏休みも終わりに近づき、我々の音楽性の範疇ではもうこれ以上何をどうやって練習すればいいのかわからなくなっていた頃である。先生が「今度の日曜日十中の練習を見に行かないか。」と言い出された時、ぼくは一も二もなく何人かの部員と胸を踊らせながら十中まで足を運んだ。その練習方法の徹底したやり方(チューナーやリズムボックスなどを取り入れてのトレーニング)、生徒の態度、今まで見たことのない楽器 、どれをとってもぼくには初めての経験であった。そして圧倒的に上手い。自由曲のジークフリートの葬送行進曲は昨年全国を制覇したあのエルザよりも上手かった。完璧なまでの音程、信じられないPPの奏法、そして音楽。戦わなければならない相手の演奏なのにも関わらず、中学生であったぼくにとって、その時はまるで次元の違う感動を味わうばかりだったのである。

 東京都の予選本選と十中の演奏を聞いていくに従ってその評価はいっそうはっきり高まってきた。「去年よりも上手い。今津もやってくるが今年も十中が優勝するに違いない。」仲間ともその話で持ちきりであった。我々にはこれ以上の演奏がどういうものか想像がつかなかったのである。

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1967年 秋

 昭和42年11月に全日本吹奏楽コンクール全国大会の中学、高校の本選会が開かれた。チケットはなかなか手には入らない。この頃は全国大会が各地で持ち回りだったために都内の中学校には何枚かのチケットが回ってくるだけのものだった。案の定、誰がコンクールを聞きに行くかで先生も悩んでおられた。抽選にしようかと言う声も当然上がったが、そこはくじ運の極端に悪いぼくが猛然と阻止したのは言うまでもない。めでたく当日の厚生年金会館には、二階席を我がもの顔で陣取りまだかまだかと十中の出番を待っているぼくたち3年生がいた。

 中学校の部は1日目の11月22日の午後1時から始まる。出場校は10団体だが、なんといっても我々の関心はまず十中が今までどうりの演奏をするかどうかにあった。ぴんと張りつめた空気。これが全国大会なのかと初めて味わう全国大会の雰囲気にぼくも緊張していた。いよいよ三番目の十中の出番だ。演奏が始まる。課題曲に続く自由曲。十中の皆んなの見慣れた顔。堂々と演奏しているように見える。なんといっても東京の代表である。ぼくは誇らしくも思えた。「よし、いいできだ。」心の中で祝福する。さて3校を聞き終えたところで、誰かがご飯を食べにいこうと言いだした。その日は土曜日で学校から会場へ直行したためお昼を食べ損ねているのだ。次の目当てである今津の演奏は9番目まで待たなければならない。ほかの学校にはほとんど興味のない食べ盛りどもは連れだって席を立っていった。そしてあの奇跡の演奏はその間に始まるのである。十中の後三校をおいて舞台に上がってきた出雲第一中学校はそれまで3位にも入ったことがないので全く知識にない。席に残っているぼくは何気なく聞き始めた。課題曲の「北の国から」<M3・出雲第一中学>を聞き終えた時、拍一杯を使ったトロンボーンのグリッサンドの奏法に始まりどこの学校とも違う独特の雰囲気にぼくは戸惑った。続いての「トッカータとフーガ」<M4・出雲第一中学校>も確かに上手いし音の張りも充分でなにか神憑っているようにも聞こえる。しかしその時のぼくには今まで自分なりに思い描いていた吹奏楽のイメージと(ぼくにとっては十中が目標だった)それはあまりにも違いすぎてどう解釈したらよいのか皆目わからなかった。しかし本選会がどんどん進み何校かの演奏を聞いても出雲の印象はいよいよぼくの心にはっきりと刻みつけられていた。「ああ、本当にあれが聞けてよかった」と。そのうちに仲間が揃い、さあ待ちに待った生まれて初めて聞く今津中学の生の演奏である。それが鳴ったその瞬間、ぼくは愕然とした。今津も十中とはまるで違う。全体の音の張りが、音圧が、音楽のスケールが、ひとまわり大きいのである。中学生のぼくにも、ぼくの回りの同級生たちにもその違いは歴然としていた。お互いに顔を見合わせ、口々に驚きの声を押さえられずにいる。これが今津中学なのか。演奏が終わった。全員丸刈りの男子生徒ばかりの部員が、特殊な楽器は一切持たず、見慣れた楽器だけを手に堂々と立っている。ふっと、昨年のコンクールで十中に破れた後に得津先生 が雑誌で語ったコメントが思い出された。「来年は絶対勝つ。ステージで楽器の品評会をすれば勝てるのか。来年もし、また十中に負けたら今津の男子生徒の***を切り取って十中の女子生徒に送ってやる。」この一年間死にものぐるいで練習をしていたに違いないその演奏はまさに得津先生の言葉を裏付けるものになっていたのかもしれない。

 それからいよいよ天理高校の招待演奏が始まった、その時の録音テープは残っているのだがなにぶんオープンリール のため曲目等詳しいことはよく覚えてはいない。ただフィンランディアを演奏していたのとトランペットがポップな曲でフラッター奏法をしていたのはよく覚えている、それと金管楽器のスタンドプレイのときラッパのベルの位置が全員全く同じ高さにあるのが子供心にも不思議であった。演奏はひたすら明るくのびのびとしていたくらいにしか印象としては残ってはいない。(いろいろな意味で招待演奏なのだから仕方がないが)。

 この年の高校の優勝校は福岡電波高校であった、この高校も後に伝説となってかたりつがれる高校なのだが、この前年、福岡電波はNHKの音楽コンクールで優勝していた、通常このコンクールはオーケストラが毎年優勝していてブラスバンドが優勝するのは非常に難しいとされていたコンクールである、ちなみに同じ年の中学校の部の優勝は天理中学校 であったように記憶している、(定かではないがテレビで見たような気がする)テレビでしか聞くことはできなかったが相当上手かったように思えた。そしてこの年見事に全国制覇である、その演奏は自由曲にレスピーギのローマの松よりアッピア街道の松、<M5>見事な盛り上がりを見せていた、しかしぼくがすごいと思ったのはむしろ課題曲の方である兼田敏のバンドの為のディベルティメント<M6・阪急百貨店>この曲は今でもぼくがもっとも好きな課題曲である。クラ、ラッパ、たいこ、にそれぞれアンサンブルのカデンツアがあり、フーガが始まり曲が終わる。名曲である。レコードでは阪急の演奏しか聞くことはできないのでみんなに聞かせることができないのが残念である(ぼくが持っているNHKで放送した実況録音はあるのだがいかんせんAMラジオのため音が悪い)ちゃんとした録音があるのならばもう一度よく聞いてみたいと思う演奏の一つである。東京での福岡電波高校の本選前の練習場所は武蔵野音楽大学内にあるベートーベンホールであった、音大生も物珍しさに見学にきていたのだが、その演奏のすばらしさに皆驚きうちの大学の吹奏楽よりもうまかったというのが未だに語り草になっているくらいだ、

 がしかしこの年は天理が招待演奏であり、福岡電波とは戦ってはいない、どちらが勝つのか雌雄を決するのは来年に持ち越される。

 全部の演奏も終わりいよいよ審査の発表の時間になった。まずは中学校の部からである。固唾をのんで発表を待つ会場の人々。審査委員長が壇上へと上る、今津か、十中か、出雲の演奏を聞いていない何人かのぼくの仲間はそう思って発表を待っているに違いない、ぼくは今津と出雲の演奏は甲乙つけがたいものだと思ってはいたが、今まで無名の出雲がまさかとも思っていた、「第一位島根県出雲市立第一中学校」とアナウンスされた、会場内がざわついている、そのうちに誰かが我に返ったように拍手を一人二人とそして会場が割れんばかりの拍手の渦に飲み込まれていく、多くの聴衆もやはりぼくと同じ考えだったかのごとく、もしかしたらとは思っていてもまさかと思うそんな風に。結局今津が二位で十中が三位であった、今津がまた破れたのだ今まで中学校のブラスバンド界に君臨していた今津がまさに新しい時代の到来となるような予感がした。ぼくの仲間の何人かの早弁組はまさかの結果に一位の演奏を聞いていないため涙を流さんばかりの後悔を見せていた。涙と言えば十中の男子生徒も大泣きをしていたのをよく覚えている、(あのとき一番泣いていたトランペットを吹いていた部長の目黒君は今どうしているのだろうか)今まで三位など経験をしたことがないであろう十中であるどんなにか悔しかったことか。後日NHKで各上位校の実況録音が放送された、この頃は毎年放送していたのだが、金賞銀賞になった年からしなくなったように記憶しているその放送を聴いてみてあらためて出雲一中のすごすぎる演奏にみんなで驚いたものである。その後この激動の4年間の名演のレコードが発売された、そのプログラムノートを読んでまたまた考えさせられてしまった、それは出雲一中の指揮者である片寄先生の文と今津中のそのころの生徒が書いた文とによってである。まず片寄先生の文を次に紹介しよう。

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片寄先生の文

 地区予選である人曰く、「こんなバッハもあったのか、さぞかしバッハも地下でびっくりしていることだろう。」

 内面的な価値を持っているバッハの作品、無我の境地にさそいこむ音の流れ、練習すればするほどその奥深いものを感じさせてくれる。然しできあがった曲は、現代的なシャープな音楽になっていた。ある人の批評が痛烈に私の心をしめつける。けれど、古くて新しい感覚を持っているのがバッハの特徴かもしれない。

 生徒とともに楽屋裏へ退場する私の心は晴れ晴れとしていた。曲のもたらす偉大な力なのか。演奏の終わった安心感なのか。いや、数千の聴衆が私たちの演奏したトッカータとフーガを心から聴いてくれた喜びなのか。

 親は子に夢を託す。OBは後輩にすばらしい演奏を期待する。演奏の終わった生徒たちは、午後は東京の渦の中に流れ込んでいった。表彰式頃は帰りの汽車の都合で東京駅、会場にはOBたちだけが残っていた。

 結果の発表、夢に見た最高の結果だ。私とOB10名がステージへ、夢に見た優勝旗はOBの手を経て後輩にもたらされた。新幹線で追いかけた私たちは、静岡市でローカル列車「出雲」に合流し、客車の中は喜びと、感激の渦巻く広場と化した。

 42年のトッカータとフーガの二短調の現代版として、44年にジェリコ・ラプソディー<M7> をとりあげた。モートン・グールドがブラスの特質を生かし描写的に作曲したものだ。生徒らとともに曲の流れ、雰囲気、情景等を語り合いながら創造していった思い出はなつかしい。

 冒頭の狂詩的な旋律はトッカータににている。ファンファーレの吹きながしは集結を意味するか、やがて堂々たる進撃が開始され、ジェリコのメロディーが顔を出す。中間部より8分の6拍子となり小太鼓のリズムに乗ってバスクラリネットとEsクラリネットの旋律がおもしろい。やがて突撃だ、高らかに鳴り響くトランペットとともに城壁が崩れ落ちていく・・・・・戦いの後の静けさより終結部へダイナミックな追い込みとなり、冒頭のテーマの再現を見て曲は終わる。

 この文章を読んでどう思われるでしょうか中学校のブラスバンドの取り組み方、曲への洞察、すばらしい先生だと思ったものだ。

 そして翌年今度は今津が見事にワグナーのさまよえるオランダ人序曲<M8>で過去二年のうっぷんを晴らす名演を聴かせ優勝したのだ、この三年間の演奏はどれも甲乙つけがたい演奏で今までのブラスバンドの歴史さえ変えてしまいそうな三年間であったように思う。

今津中 中西昌文

さて、この曲に関するエピソードですが、今あの頃使っていた楽譜をあけてみると、いろんなものが目につきました。・・・・・・・・etc しかし今に思えば中学生のぶんざいでこの難曲をよく征服できたものだと感心します。クラリネットに例をあげてみると、始めから終わりまでの3分の2近くのほとんどが16分音符で飾られ、与えられたテンポの6分の1くらいの速さの練習からよくあのテンポに持って行けたと今さらながらに思います。この曲は3度音を欠くニ短調の主和音で始まり、ホルンの壮麗な出だしからだんだんと盛り上がっていくのですが全体の不気味な海の嵐の感じをバイオリンの代わりにクラリネットが奏でているのでワーグナーの感じを出すには少し弱いように聞こえるかもしれませんが・・・・・・・・・・・etc

さてやはりこの文を読んでみてどう思われるだろうか。曲への取り組み方がとても自分の中学生時代と比べると同じ中学生とは信じがたく、このくらいの取り組み方をしないとあんな演奏はできないんだなあとつくづく考えさせられたものです。ワグナーらしい16分音符っていったい何なんでしょうか。普通ではない。

1968年 秋

 高校はと言えば夢の対決ともいえる福岡電波と天理の対決である。この勝負は三十数名しかステージに上らなかった福岡電波のチャイコフスキーの交響曲四番 の圧倒的うまさの前に天理は破れてしまうのである。天理が負けたのは初めてではなかっただろうか。来年はどうなるのだろうか楽しみであった、しかしこの両校の対決は電波高校の吹奏楽部解散という事件で二度と聞けなくなってしまうのである。

 今、気がついてみるとあの今津中学校や天理高校が破れた1966年からの何年間かが、日本におけるアマチュアの吹奏楽の一つの転機だったのかもしれないとぼくは思う。1970年から1位、2位、3位と言う順位が廃止され、金、銀、銅賞、と言う名のフェスティバルに変わっていくのである。しかしこの最後の数年間の激闘はもしかしたらこのことを知っていたのか知らずか最後に1位という栄誉を、名前を残したいという予感みたいなものがあったのか。そんな気持ちだけではないのかもしれないが。或いは、我々がそれを期待していたのかもしれないが。(我々の思い過ごし)

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金銀銅賞

 いずれにしろ金銀銅賞になってからの何年間かは正直いってなんだか気が抜けたような状態だったように思える。傑出した演奏がなくなってしまったのである。しかしこの間飛躍的に吹奏楽の底辺が広がっていき、いろいろな個性が芽生え、おもしろい時代であったのも事実である。(このいろいろな個性の中で、1位2位を決めろと言うのは無理なのかもしれない、特に審査委員にそこまでの決断を求めるのは想像するだけで難しいことになってしまっているようにも思える、しかし毎年それでもみんな生徒も先生もやってくる。 地方大会を勝ち抜いて、スポーツではないのにも関わらずみんな勝ち抜こうと思っている。ぼくはアマチュアの吹奏楽コンクールの一ファンである。これからどうなってほしいというものでもない、またコンクールはファンのためにやっているわけでもない。)

或いは、傑出した演奏がなかったと思えたのは全体にレベルがあがったためにそう聞こえたのかもしれない。そして、その個性がいくつかの流れとも言うべきものへと発展していく。昔からの伝統的なブラスバンドの伝統を守る流れであり、ロマン派を取り上げる流れ、フランス印象派から近代ものを取り上げていく流れ、邦人作品を取り上げていこうとする流れ、外国のオリジナル作品を取り上げていこうとする流れ。そしてその何年か後にそれらのいろいろな個性をも見事に完成させていく力にはただただ敬服するのみである。

(こうしてみると70年から数年間の間は何かを探しているような時代に入っていたとも言えるかもしれない、それまでの4年間があまりに壮絶でレベルの高い時代だったから、そのころの日本の吹奏楽が追い求めていたある程度の回答がでたように思う。それがちょうど金銀の時代と一致しただけなのかもしれないが、だからこれから何をやっていったらよいのか探し求めていたのかもしれない。だが確実に底辺は広がっていく、これもそれまでの時代による功績は大だそしてそれぞれの路を見つけそれに磨きをかけていった。)

70年から75年にかけて特にぼくが気になった演奏をあげてみると。

70年吹奏楽のための交響曲4番−ジェイガー−天理高校<M9>

70年ロシア領主たちの入場−ハルセボン−徳島市立富田中学校<M10>

71年行進曲「輝く銀嶺」*−斉藤高順−今津中<M11>

73年吹奏楽のため寓話*−兼田敏−出雲一中<M12>、

75年吹奏楽のための小練習曲*−郡司孝−出雲一中<M13>

75年吹奏楽のための神話−小栗裕−富田中<M14>

 大ざっぱではあるがこんなところである。ちなみに*はその年の課題曲である。こうしてみると常連校ばかりであるが、十中がいないのと、そのかわり富田中が新しく顔を出しているのがわかる。特に70年に渋谷公会堂で聴いた富田中学であるが個人的に好きであったので注目していたところ75年にすばらしい演奏を聴かせてくれたので70年の演奏もいれておきます、70年の時は回りの中学校は難しい曲に取り組み過ぎて、なかなか消化しきれず演奏している学校が多い中、富田中は比較適簡単な曲を余裕ある、そして素朴な演奏がとても印象に残っている。

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完成期

 そうこうしているうちに76年、77年と2年にわたり突然完成期がやってくるのである。数年間のいろいろな迷いから覚め、その結果76年から77年にかけての傑作の森とも言うべき名演の数々が生まれてくるのである。

1976年

ドビュッシーの3つのノクターンより祭り−玉川学園高校、<M15>

ストラビンスキーのペトルーシュカ−秋田南高校、<M16>

イベールの交響組曲「寄港地」よりチェニスからネフタ・ヴァレンシア−銚子商業高校<M17>、

そしてあの奇跡のラヴェル作曲ダフニスとクロエ第2組曲−出雲第一中学。<M18>

1977年

ヴェルディーの運命の力序曲−今津中学<M19>、

シュミットのディオニソスの祭り−銚子商業高校。<M20>

なぜかここにきて中学校の部で、他校に比べ一段、上手い演奏を聞かせてくれたのは今津と出雲なのであるこれが伝統の力なのか、先生が変わっていってもなぜ出雲はずっと上手でいられるのか。実はこの前年の76年、今津中学は銅賞をとってしまったのである、そのマイスタージンガーの演奏はひどいものであった。もうここまでなのか今津には力がないのか或いは時代遅れになってしまったのかと思ってしまうほどであった。77年にぼくがコンクールを聞く最大の関心事は今津が今年はどんな曲でどんな演奏をするのかであった。もしかしたら自分たちが今まで守ってきたスタイルを変えてしまうのではないかとさえ思った。しかし得津先生の答えはノーであった。見事にぼくの危惧ははずされてしまうのである、そして想像を上回る演奏で答えを出してくれたのである。今津の伝統の流れを守りつつ最高の演奏で。

 この年ぼくは芸大の三年生である、ここで少しぼくの大学の吹奏楽のことをお話ししようと思う。

・・・・・・中略・・・・・・

 1977年この年のコンクールを最後に、生でコンクールを聴きに行くことはなくなった。なぜだかこの年に聞いた今津中学校の運命の力や銚子商業のディオニソスの祭りを聞くに至って11年間追い続けていたものの答えだったような気がしたのか。或いはもうこれ以上聞いても答えがでないと思ったのか。とにかく突然ぼくは吹奏楽を聞かなくなる、コンクールに挑むということ、また中学生や高校生の演奏水準を極限にまで上げると言うことに何かもっとそれぞれの先生方の深い考えがあるのかもしれない、これからはいろいろな先生とお話をもっとし、いつまでも納得のいかない感動の答えを出していかなければいけないのかもしれない。しかしそんな機会も持つこともなくただ漠然と。

 そしてそれからちょうど20年の月日が流れる。決して音楽への情熱はとぎれることはなく。あれもやってみたい、これもやってみたいと、子どもの頃からの夢を次々と実現させながら、 そしてこの日は突然やってきた。

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1996年11月10日 出雲

 その日の前の晩、地元の先生方と民宿で、その日の我々の演奏会の慰労もかねての宴会が行われた。何時間かが過ぎ、ぼくも少し酔いが回ってきた頃、出雲にいるのでせっかくだから吹奏楽の話しでも聞こうかと思いその話に持っていったのがきっかけで、思わぬ展開になってしまった。片寄先生を明日呼ぼうと言うのである。あの片寄先生を、その時何かがよみがえったような気がした。東京にいて、東京で教育を受け、東京で就職をし、ただ吹奏楽のファンであるぼくには想像もつかなかったことなのだ、電話一本で片寄先生を呼んでしまう、臆せず友達でも呼ぶように、うらやましい限りである、地域との密着性ということがこれほどまでに自然に素直に行われているということが。東京では全く考えられないことなのだ。地元の出身である人たちが出身の地で互いに中学や高校の先生をしながら切磋琢磨しあう。コンクールは今まで一ファンとしては大変におもしろいものではあったが、なぜあんなに、何のために、先生だけの満足のため、と思うところもあった、しかしそこで吹奏楽を学び育った人たちがまた子供らに教えたいと思う気持ちを持ち続け実現していく姿を見、今まで自分の中でさけていた気持ち、ただファンなんだと思い込んで、<納得のいかない感動>の答えを見つけようとする気持ちをもう一度持ってみようかと思ったのである。もっともっといろいろなことを勉強し、今自分が置かれている立場にたってやっていかなければならないことが、今現在ぼくにはたくさんありすぎるのでなかなか答えを出すまでには時間がかかるかもしれないが。

 そして翌日約束どうり先生は思い出の向こう側から思ったよりも静かにやってこられたぼくが中学三年の時、新宿厚生年金会館大ホール客席から一方的にお会いしてから30年ぶりにこの日は突然やってきた。

そしてこの日はとても晴れ晴れとした一日だった。

・・・片寄先生やそこに集まる先生たちに感謝をこめて。・・・

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後記

 もともとこの文章はあの日の宴会で盛り上がったとき他のメンバーの何人かがその当時の演奏を是非聴いてみたいといいだし、ではぼくがテープをつくって渡そうと言うことになりテープだけではおもしろくないのでついでにエピソードも添えてと書き始めたのが発端になっているのですが、書き始めてみるとついいろいろな思いが巡り膨らましすぎてしまい最終的には何のために誰のために書いているのかがはっきりしない文章になってしまいました。それ故読みづらくなってしまっていると思われますがお許し下さい。それとこの文章は片寄先生にお会いしてから一ヶ月あまりの間に書き上げてしまったのですが自分の記憶だけで書いてしまうのがちょっと恐かったので、その当時のプログラムやエピソードなど確かめるために秋山紀夫先生のお宅を訪ねいろいろとお話をお聞きしているうちに、案の定記憶違いの場所やまた新たなエピソードなど続出してしまいもう少し膨らませてからと思っているうちに半年あまりがたってしまいました、秋山先生にはいろいろと手間をかけてもらったりぼくも知らなかったいろいろなエピソードお話下さり本当に楽しい時間を過ごすことができ、ありがとうございました。そのことなども含め機会があったらまた書きたいと思っています、ただこの文章で語った事実は自分なりにこれからの音楽界にとって必要になってくるときが必ずやってくるはずだと思っているので自分だけの思い出としてだけではなくことあるごとに語っていきたいとは思っています。ブラスバンドおたくと人に言われようとも、事実あの日以来酔うと(酔わなくとも調子に乗ると)管楽器奏者達に情熱的に語っている自分がいて、まるで大学時代に吹奏楽に夢をもっていた自分を見ているかのようです、(しかしその大学時代のブラスバンドへの挫折についても今回中抜きになっている部分ですがまたの機会にということで、また長くなりそうですが)

 そしてそれを言い換えれば今日本で活躍している管楽器奏者の何人かが中学や高校の頃ブラスバンドに熱中していたということも事実であるということです、今ざっとぼくが知っている人たちをあげてみるだけでも、前述の福岡電波高校の松崎さん、東京の城西高校のブラスバンドでクラリネットを吹いていたN響の横川さん、 また今津中が運命の力で復活を遂げたちょうどそのコンクールの高校の部東京都代表日大二高の自由曲で腰が浮かんばかりの際だったソロを聴かせてくれたのが、(このときのことをぼくはよく覚えているのですが)、やはりN響クラリネット奏者アッキーこと加藤君、うちのオーケストラのクラリネット奏者の佐川さんはかつて名門であった秋田県山王中学出身です。今だに佐川さんはブラスバンドに熱中し、全国を駆け回っています。全国大会へもここ何年か続けて指揮者として出ているようです、そしてやはり同じ山王中、秋田南高(M6)、出身で現在神奈川フィルでクラリネットを吹いている森川君、出雲中がジェリコラプソディで三位だった時の一位今津中のローマンカーニバルのソプラノサックスのソロを吹いていたのが日本フィルでファゴットを吹いている木村君、その演奏を関西大会の舞台袖で聞き絶対に自分もあんな風に吹けるようになりたいと思いプロになった上甲子園中出身キャトルロゾーサックスカルテットの池上君、76年に玉川学園高校(M15)でサックスを吹いていたアルモサックスカルテットのリーダー中村君、まだまだたくさんいるのですが次回またゆっくりとお話ししたいと思っていますが、この事実はぼくにとってある意味では大変なことだと思っています。最後になりましたが片寄先生とは少ししかお話ができませんでしたがトッカータとフーガのワンツースリーフォーかけ声の真相や芸大の委託生として来られていたときのぼくの恩師でもある北爪先生(片寄先生がクラリネットが専門だということはこのとき初めて知りました。)のお話とても楽しく聞くことができ、ありがとうございました。そして先生を呼んでしまった吹奏楽がだい好きでそこに集まる先生方本当にありがとうございました。

追伸

 今年の45回全国大会初出場平田中学 の古川先生、同じく初出場出雲北綾高校の片寄先生ほんとうにおめでとうございます。

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人目の吹奏楽大好きさんありがとう。