マイベストSFイヤー
大迫公成

 ベストSFイヤーを選ぶというのは、ある意味では至難の技です。あまりにも毎年毎年がSFに満ちていて、どの年が最良だったのか。なかなか決めることができないからです。しかしあえてあげれば1960年と、1982年をあげたいと思います。
 我が日本にSFという用語が紹介される以前の時代、それは私にとっては後にSFという便利な言葉でしめされる、なにか大きなものを渇望しつづけた時期であったのですが、その全くSF的な視点に大きく衝撃をうけたアーサー・C・クラーク「太陽系最後の日(=レスキューパーティ)」が掲載されたSFマガジン創刊の年、つまり1960年を最初のマイベストSFイヤーと呼ぼうと思います。
 書店で創刊号を手にした瞬間から進むべき方向がわかったかのごとく、ファンダムへの参加も始めたのですから、ベストイヤーというよりもファーストイヤーと呼ぶ方がふさわしいかもしれません。
 アーサー・C・クラークが数々の傑作を経て、後にキューブリックの2001年に至ったことを考えると、その翻訳がSFマガジンで紹介され、存在価値を日本の読者に広く知らしめたこの1960年がまず第一のベストイヤーです。
 手塚漫画を知り、アメージングストーリィズ日本語版でSFの面白さを子供心に味わい、ガモフ全集で科学の楽しさと可能性の素晴らしさを教えられつつ、しかし本当に飛び込める世界を求めていた時に読んだ本格的SF、それが「太陽系最後の日」です。この一篇の衝撃でもってこの1960年は忘れられない年になったのです。もちろんそれから優れた翻訳が立て続けに掲載されたのですから、忘れられない興奮の年だったといえます。
 第二番目のベストSFイヤーは1982年です。
 つまり初めてアメリカのシカゴで世界SF大会へ参加した年です。
 矢野さんや柴野ご夫妻それに石森章太郎さんの大会レポートを読んでいましたが、まさか自分たちのワ−ルドコン行きが実現しようとは。このときから妻の道子と参加しているので二人共通のイヤー(年)ということになります。
 柴野拓美ご夫妻に、アメリカへ行くのならワ−ルドコンへ行きなさい、絶対楽しいから、と薦められたのがきっかけですが、この時は翻訳でしか知らなかった著名な作家やBNFと会えて興奮の坩堝にたたき込まれたものです。
 ハル・クレメント、フィリップ・ホセ・ファーマー、R・A・ラファーティ、アッカーマン(4E)夫妻などなど。
 いや本当に楽しくアメリカSF界の歴史とファンダムの幅の厚さ、すごさを思い知らされたのもこの大会でした。
 この第二の年の選定理由はワ−ルドコンであり、作品ではないことになります。日本内部でのSF活動を越え、初めて、大げさにいえばこの惑星規模でのSFへの参画を果たした年ですが、SFの動きに対する考え方が変わりました。
それは、まだまだ日本のSF界は、世界の仲間たち(プロもアマチュアも)に向かっていまだ一方通行で、それを余り感じてもいないという認識です。すさまじい勢いで海外SFが翻訳されているのに日本のSF、作家も作品も殆ど知られていないという事実です。
 非常に優れた作品があるのに、ただ日本の中でのみ読まれて世界からは知られもしない。
 この意外で残念な確認を迫られたという、このことで1982年を第二のベストSFイヤーに決めました。
 しかし少年の頃、真空管式の並三ラジオで浪花節を聞いていた人間が、現在はパソコンを使って遠くの友人とメールを交わす、これは私にとって全くSFです。今までの“ん”十年が、そのまま私自身のベストSFイヤーなのかも知れません。


 大迫さんには、86年の日本SF大会で、ハリスンの通訳など、いろいろとお世話になったことがある。宮城博のワールドコン・レポートを見てもわかるが、柴野さん、大迫さんというとSF大会での顔である。ワールドコンで、日本人がめずらしくなくなって久しい。しかし、仕事があると、そうそう毎年参加はできない。大迫さんも既に管理職である。聞くところによると、長期計画をねって、自分の部下ごとSF教育したそうである。

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