いま、見えない年
巽孝之



 「贅沢は敵だ」といったひとがいたが、いっぽう「人生に無駄は必要だ」といったひともいた。各人にとって最も重大なSFの年がいつであるかは、おそらく各人がこのふたつの至言のうちどちらにくみするSF(活動)観を抱いているかに左右されるであろう。しかし、そのことを思弁する前に、右の至言の中には、あらゆる至言の例にもれず、ひとつの理論トリックがまぎれこんでいるのを、確認しておかなければならない。
 そもそもこの場合、「無駄」とは何か。それは、人生をあとからふりかえって、ああ、あれはあのときは無駄だと思ったけれども、いまになってみるとよかった、だからあの無駄は必要だったのだ、と判断される何ものか、であろう。そしてこの至言をのたまった人物は、たまたまそのようなたぐいの無駄に人並以上の確立で遭遇していたため、彼自身にとっての特殊が一般にも当てはまるものと信じたにすぎないのであろう。フーコー主義者であれば、この場合の無駄を「あとから必然化された無駄」と定義しつつ、さらに特殊を一般化して「そもそも無駄という範疇じたいが歴史的/任意的に造られた概念」にすぎないと指摘するにちがいない。
 ただし、同時にひとつの逆理が浮上する。「必然化された無駄はもはや無駄の名に値しないのではないか」という議論である。なるほど、そのころ無駄と思われたことでもあとで役にたったというなら、そのような営為は無駄と言うより「投資」と呼びかえられるべきものだろう。フロイト的精神分析学であれば、無駄がいずれ投資と判明した時点でひとはかつてそれを無駄でしかないものとばかり思いこんでいた価値体系などまったく忘却してしまうのが──無駄という病(概念)から治癒(分離)してしまうのが──当然とされる。とはいえ、誰も「人生に投資は必要だ」などとはいわない。あくまで「人生に無駄は必要だ」とだけいう。当初は「無駄」に思え、のちに「投資」であったことが判明したものをふたたび「無駄」と呼んでみるのは、それこそ「無駄」に関する記号論的無駄であるといってしまうのなら、ズバリ「至言のテクスト構造」を解明することにはなろうか。
 だが、それではなにもわかったことにならない。わたしがいま、それじたい無駄かもしれぬ労力を費やして、なおこだわりたいのは、「人生に無駄は必要だ」という名言が吐かれたとき、その発話者はこの「無駄」という記号を百パーセント「投資」あるいは「必要な無駄」と等号で結びきっていたとはかぎらないのではないか。ひょっとしたら数パーセントあるいは数十パーセント「真正の不必要な無駄」が含まれる概念だったからこそ、あえて最後まで「無駄」の名に固執したのではないか、というようなことがらであった。
 以上をジャンク論と読むSF論は、ここでいう「無駄」を中心に対する周縁、ジャンルに対するサブジャンル、マジョリティに対するマイノリティといった出来合の「構造」概念に組みこもうとする。だが、中心があるから周縁もあるといういいかたは、甘く口当たりはよいけれども、けっきょくはその甘さのなかにジャンルもサブジャンルも一気にからめとってしまおうという謀略の産物である。それは、少なくとも許婚者同志、結婚直前までは駆使し合う甘言のたぐいにすぎない。だが、結婚直後よりそのようなレトリックの必要がなくなるのと同様、主流文学と対比された瞬間、SFからは「無駄」という性格が抹消される。SFの位置が、この対比によって百パーセント必然化されてしまう。(ポスト)構造主義的SF批評の限界は、ここに潜む。
 SFは投資でもなければ必要な無駄でもないかもしれない。しかし、それは真正の不必要資」あるいは「必要な無駄」と等号で結びきっていたとはかぎらないのではないか。ひょっとしたら数パーセントあるいは数十パーセント「真正の不必要な無駄」が含まれる概念だったからこそ、あえて最後まで「無駄」の名に固執したのではないか、というようなことがらであった。
 以上をジャンク論と読むSF論は、ここでいう「無駄」を中心に対する周縁、ジャンルに対するサブジャンル、マジョリティに対するマイノリティといった出来合の「構造」概念に組みこもうとする。だが、中心があるから周縁もあるといういいかたは、甘く口当たりはよいけれども、けっきょくはその甘さのなかにジャンルもサブジャンルも一気にからめとってしまおうという謀略の産物である。それは、少なくとも許婚者同志、結婚直前までは駆使し合う甘言のたぐいにすぎない。だが、結婚直後よりそのようなレトリックの必要がなくなるのと同様、主流文学と対比された瞬間、SFからは「無駄」という性格が抹消される。SFの位置が、この対比によって百パーセント必然化されてしまう。(ポスト)構造主義的SF批評の限界は、ここに潜む。
 SFは投資でもなければ必要な無駄でもないかもしれない。しかし、それは真正の不必要な無駄ばかりかといえば、そうともいいきれまい。破局のアシンメトリー、このいらだたしさ。あるいは、その矛盾律の両極さえやがて一気に再回収できると信ずるならば──それを愛と信ずるならば──ひとによってはいまなおこの苦境さえ快楽の別名で呼ぶのだろうか。むろん、ひとつの(サブ)ジャンルが、「必要な無駄」か「不必要な無駄」かと考えることじたいが最大の無駄である。だが、このような「無駄な議論」を抜きにしては語れないカテゴリーが存在するのもまた、事実なのだ。ただし、そのカテゴリーすなわちSFなり、と「逆も真なり」の理論を容易に最適用できるかどうか──ここにも保証はない。
 わたしにとってSFがこのようなものであるなら、最重要なるSF年もまた、このように、「必要な無駄と不必要な無駄の空隙について考えるという無駄」を最も多く含む年だったはずである。それはいつの年だったか。しかし、すでに本論にはいる前にこれほどにも無駄な議論を行なってしまうと、もはやそれがどの年であったかさえ、定かには思いだせない。最大のSF年を考えるために、考える。それは明日を思い出すこと、明日の明日の、そのまた明日を思い出すこと。
 それは永遠に見えない年であるのか近々見える年になってしまうのか、どうか──その判定じたい、さほどやすやすと見えるのだろうか。

 巽孝之氏の“基調”論文である。といっても、そういう趣旨の原稿を依頼したわけではない。
 しかしながら、氏の定義する、最重要なるSF年=ベストSFイヤーとは、「必要な無駄と不必要な無駄の、空隙について考えるという無駄を、最も多く含む年」である。これを編者なりに解釈するなら、「今日のSF(または個人)にとって、もっとも直截的、間接的な影響を与える事件があり、評価がいくつにも分れる年」となる。これは本誌の趣旨とも合致する。
 20年以上前、巽孝之氏は、きゃぴきゃぴの中学生SFファンとして、華々しくSF界に登場した。当時の巽孝之氏から、今日の姿を想像しえた者は、誰一人いなかったといわれる。とすると巽孝之氏の必要な無駄(現在の巽孝之)と、不必要な無駄(きゃぴきゃぴの中学生)との空隙には、おそるべき謎が隠されているはずである。この軌跡のはざまには、はかりしれない“無駄”が潜んでいる。かくして、無駄を探求する試み=本特集は幕をあける。

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