1975年
津田文夫

 DAINACON・EXのあとで出張の帰りに大森望邸にお世話になったのだけれど、そのとき博覧(?)強記の大森が、学生時代につくったファンジン『蝕』を出してきて、私が暴言を吐いている座談会を見せてくれた。10年ぶりに見たそれは自分の言葉として認識するのがむずかしいくらい稚気にあふれたもので、その言葉の無防備な愚劣さに、元気だったんだなあと他人ごとみたいな感慨をもよおしていたら、大森が「業界に入らなくて良かったですねぇ」とキツいコメントをくれたっけ。
 もう何年もものを考えるなんてことをしていないため、過去を振返ることさえ難しい今日この頃、SF大会で買い込んだファンジンをパラパラめくっていたら、「ホライズン」18号の編集後記冒頭に“12の時、SFが黄金であるのならば、18の時、SFはクロームにならねばならないのだろうか”とあった。13才のときの「2001年」が黄金の発見だったとしたら、いまは土くればかりというところだろうか。SF大会で受取ったNOVA MONTHLYの投票用紙は1975年、大森望がえらくセンチメンタルなホロリとしそうなコメントをつけている。1975年、それはふたつの点でベストSFイヤーだった。自他に甘い移り気な人間がその後15年間に亙ってSFを読みつづけることになったきっかけがこの年に起こっている。
 ひとつは、同志社に入って桐山さんや北村さんにあったこと、桐山さんにKSFAに連れていってもらったこと、すなわち居心地の良い集団に居場所を見つけられたこと。もうひとつはゼラズニイに出会ったこと。SF研やKSFAのことはベストSFイヤーの趣旨からはずれるので置くとして、自分でももうあんまり書くことがないようなゼラズニイについて書くことにしよう。
 ゼラズニイに出会ったなんて書き方をするとまるで75年にはじめてゼラズニイを読んだみたいに聞えるけれどもちろんその前に「伝道の書に捧げる薔薇」や「その口はあまたの扉……」を読んでいたし、『地獄のハイウェイ』だって読んでいたはずだ。でもゼラズニイには出会っていない。実はSFM75年6月号のゼラズニイ特集でさえ、ピンと来ていない。やっぱり『わが名はコンラッド』なのだ。当時“ORBIT”特集のオービット3号に島木伸という人がジュディス・メリルと伊藤典夫の評を引いて“やっぱり愚作なのだ”とのたまわった。メリルはともかく伊藤典夫と島木伸は読めていないと思った。けれど、あの当時、私もはっきりそう考えたわけじゃない。なんといったって伊藤典夫と水鏡子だもんな。当時感じたギャップはそのままずっと仕舞込まれてしまったのだけれども、抑圧は抑圧としていつか解消されないといけない。その機会は磯達夫が、ゼラジンを作りたいのでなにか書きませんか、と誘ってくれたときにやってきた。やり方は75年当時自分が島木伸の書評にどう反論していただろうかというふうに考えて、『わが名はコンラッド』を読んだばかりの自分がしていただろう書評、という体のものだった。非常に冗長な情報量に乏しい文章であったため、磯氏も呆れてゼラジンをあきらめたらしく、幸い公にならずに済んだ代物である。このお陰か、島木伸評に対するこだわりは解消されたようだ。しかし、『わが名はコンラッド』については、いまだにこだわりが消えず、いつかまともに作品論をやりたいという想いがなくならないでいる。
 コンラッドと『武器製造業者』のロバート・ヘドロック、作品構造や権力関係の図式における両者の役割はよく似ている。不死者となる原因もコンラッドはヘドロックを踏襲している。もちろんコンラッドのほうはソフィスティケーションされてしまって、とてもワイドスクリーン・バロックの柄じゃないけれど、大仰な使命感に燃えて強大な異星人の力から人類を守るヒーローには違いないのだ。そしてバロウズに捧げられた秘境ものへのオマージュは、しかし、ハッサンと死人の一騎打のごとく、ハッサンは毒で死人を倒すのであって、派手な立ち回りは単なる時間稼ぎに過ぎない、といった醒めた二重構造をとっている。この死人も本来おどろおどろしい化物のはずが、コンラッド一行は死の迫るさなか、この化物は白子だの吸血鬼というのは後天的獲得形質だのとおしゃべりしては、いちいち神秘化を茶化している。敵役さえ白けたもので、死人が人工飼育であることを隠さないし、あまつさえ、『黄金枝篇』や『闇の奥』を読んでのゴッコあそびであることを暴露してしまう。……と、ここで不用意な『わが名はコンラッド』論をはじめては、あとで書くことがなくなってしまう。第一こんなことを書くよう要請されている訳じゃないよね。でも、なんで75年がベストSFイヤーかっていう話には、なったでしょう。
 その他の作品で75年になにがあったかなんてほとんど覚えていないや。仕方がないので75年のSFMをパラパラめくっていたら、ついついコラムや「てれぽーと」なんぞに目を通してしまい、夜が更けてしまった。古沢嘉通とか南敬二とかあのころの高校生は元気だったんだねぇ。そういや大森望は中学3年生だったってNOVA MONTHLYに書いていたな。中学生も元気だったらしい。森美樹和なんて名前もある。だんだん思い出してきた。といったってどんな作品があったかなんて話じゃなくて、SHINCONが初参加SF大会だったとか、女流SF作家特集でパメラ・サージェントの写真をみてファンになり、“CLONED LIVES”を見つけてすぐ読んだとか──でも、あのころは旭屋とかでしかペイパーバックを手にすることがなかったし、大阪洋書戦争っていうぐらいSFの新刊は入手難だったから、1976年コピーライトの『クローンド・ライヴス』を買ったのは京都のサワヤだったような気もするな。ここで『クローンド・ライヴス』の話もできんし。やっぱり75年のベストSFなんて思いつかないので、『わが名はコンラッド』に尽きている、ということで幕にしましょう。


  • 蝕:同志社大学SF研究会がだしていたファンジン。日本作家などに対する、批判座談会などが載っていた。あのころは、まだ作家もファンの声に関心を持っていたから、このような試みは危険であった(と思われていた)。もっとも、いま読むと、たいしたことは書かれていない。
  • 桐山芳男:同志社SF研は、当時の関西では最大のSF組織で、ユニークな人材をかかえていた。なかでも桐山芳男氏は“うしろオバQ”と呼ばれ、若手からしたわれていた。KSFA初期の、海外SF指向に影響を与えた。40を越えてなお未婚、いまでも若いファンの育成指導をつづけている。
  • ゼラズニイ:ゼラズニイとディレーニイのどちらをとるかで、ファンの性格が分るというくらい、当時のアイドルだった。津田文夫は熱狂的ゼラズニイ派で、サンリオ文庫の解説を書いたこともある(『わが名はレジオン』『ロードマークス』)。磯達夫のゼラジンとは、ゼラズニイ・ファンジンのことだが、まだ出たという話は聞かない。
  • 大阪洋書戦争:KSFAが大阪の書店に入る洋書を買いあさったために、洋書の新刊入手が極めて困難だったことを指す。あまり売れるので、東京に入らず、大阪にだけ入った新刊もあった。そののち、海外への直接注文に切り替わり、戦争は収束した。
  • その他:島木伸=水鏡子、森美樹和=大瀧啓裕。

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