1975年 大森望


 先週、弘前大学SF研の添野君のお招きにあずかって、今村徹・藤森美里結婚披露宴で仙台に行ったついでに、弘前まで足をのばして遊んできた。2DKの広い添野邸に、どやどやと十人を越えるSF研メンバーが集まってきて、なにをするでもなく雑談したり、ぶらぶら歩いて食事に行ったり、という生活は、やっぱり学生はいいなあという羨望をかきたてたのだけれど、考えてみればぼくだって、つい7年前(ああ、それにしても、もう7年も前のことになるとは)までは、まったくおなじような生活をしていたのだ。もちろん、わずか4年しか在学しなかったぼくにとって、6年、7年と長い学生生活を満喫している人々がうらやましいことにかわりはないし、当時の京大SF研にはかわいい女の子なんかまるで居ついてくれなかったという大きな相違はあるのだけれどみずからのSF人生をふりかえって、黄金時代というべき時期があるとすれば、それはやはりあの4年間に集約されるのではないかと思う。
 もっともこれは、SFの黄金時代は12歳である、というのにも似て、普遍的な意味はもち得ない。かといって、海外SFファンの目から日本における翻訳出版状況をにらんで、ベスト・イヤーがいつかを決めるという行為に、はたして意味があるかどうかは定かでない。まして、アメリカの状況がどうだろうと、「最良の年」がいつかを決める基準になるとは思えない。
 70年代なかばの翻訳SF出版低迷期に中学・高校時代を送った人間として、それ以前の状況について語る資格はないし、量が質を保証するとするならば、海外SF出版が飛躍的に増えた1979年以降にベスト・イヤーを求めることになるのはいわば当然だろうが、実際に海外SFの洪水の中に身を浸してしまうと、やっぱりむかしのほうがよかった、出るSFは全部読めたもんなあ、とつぶやいてしまうのだから、人間というのはつくづくぜいたくなものだ。そして、またいつか翻訳SFの暗黒時代がくれば、ああ、80年代後半は海外SFがリアルタイムできちんと翻訳された、ほんとうにいい時代だったなあ、と慨嘆したりするのだろう。
 サンリオSF文庫創刊の予告を目にしたときには、これでやっと海外SFの黄金時代がやってくる、と闇の中に一条の光明を見いだしたような気になっていたのに、いざ創刊されてしまうと、とてもそれをぜんぶ読むどころではなく、未訳作品のリストをながめては、まだあれが出ていないこれが出ていないと文句ばかりいっていた。いつの時代にも、海外SFマニアにとっては、「ほんとうに出してほしいSF」は出版されず、出版されたとしてもそのとたんに、それは「ほんとうに出してほしいSF」ではなくなってしまうのである。
 というようなことをぐだぐだと書いていてもしかたないので、とりあえず決断することにしよう。
 SFベストイヤーは1975年である。
 この年、海外SFの新刊なんか、なんにも出ていなかった。『プレイヤー・ピアノ』で早川青背がスタートするのがこの年の十月。ジュディス・メリルの『年刊SF傑作選』の6が出て、ぼくははじめて、このシリーズを新刊書店で買うことができた。ニューウェーヴを発見したばかりで、中学3年生になったばかりのぼくの心の中では、まだニューウェーヴがつづいていた。すでにいっぱしのSFマニアをきどり、アシモフやハインラインを敵視し、70年代のアメリカSFのことなどほとんど知らなかったくせに、スキャナーで紹介されるドゾアやル・グインやビショップの新作に胸ときめかせ、未訳の新しいSFはみんなすごい傑作ばかりにちがいないと信じて、出版者の怠慢に憤っていた。テストがおわると高知市内の古本屋をまわり、夏休みには横浜の親戚の家に泊って早稲田や神保町まで遠征し、SFマガジンのバックナンバーや、SFシリーズ、創元推理文庫の古本を漁った。朝から晩まで歩きまわり、スニーカーの底がアスファルトの熱で溶けてしまっても、なぜかちっとも疲れなかった。東京泰文社でペントハウスの無修正版を立ち読みしていたら、いまも健在の店の親父に、中学生の読む本じゃないよと注意された。おかげでかえなかったエース・スペシャルの DEVILIS DEAD のことは、いまでもときどき夢に見る。もっともその本自体は、それから11年後にイギリスで手に入れたのだけれど。
 そして、むさぼるようにしてSFマガジンを読んでいた。ウィルヘルム、ビショップ、ラファティ、スワン、マッキンタイア、ティプトリー。カルヴィーノは、<レ・コスミコミケ>でデビューしたピッカピカのSF作家で、SFファン以外、カルヴーノのことなんかだれも知らなかった。ゼラズニイ特集はやたらにかっこよかった。そしてもちろん、あのころはエリスンがいた。ジーン・ウルフがいた。「死の鳥」の一ページ目は、いまでも暗唱できる。それに、「アイランド博士の死」の最後の一節も。
 教科書だった<幻想小説の方へ──夢の言葉・言葉の夢>の連載が終わり、<亜空間要塞の逆襲>と<続・街の博物誌>の連載がはじまった。新井苑子はエンドー・チェーンのポスターではなく、河野典生のイラストレーターだった。SFでてくたあもSFスキャナーも健在で、<思考の憶え描き>がつづき、新しい号を買ってきてもどこから読めばいいか迷ってしまい、(あまりにも遠い、手の届かない世界だったから)ファンジンを注文することなんか考えてもみず、アナイス・ニンなんてうそみたいだった。
 1975年。鈴木いづみが、山尾悠子が、安田均が、加藤直之が、宮武一貴がデビューした。SFマガジンの編集部にはいれるなら、悪魔に魂を売り渡してもいいとさえ思っていたあのころ。驚くべき奇跡の時代が永遠に過去のものとなる日がくるなんて、どうして信じられただろう。いつか、新刊のSFをその日のうちに読み終えない日がくるなんて。1975年。SFはまだはじまったばかりだった。
 ……ぼくたちは、こんなふうにして、自分だけのSFの夢をつむいでゆく。あの世に逝った大作家を聖者として甦らせ、編集者をヒーローにし、そしてだれかの翻訳者やイラストレーター  彼らもまた、ぼくたちのヒーローになる。ぼくたちは愛するもの、恐れるものをつくりだす。つねに最高の、いまは亡き叢書がある。ぼくたちはとめどなく夢を見続ける。最高のSF、完璧な雑誌、コンベンション生活……。
 でも、ほんとうは、いつだっていまこの年が、ぼくにとってのSFベスト・イヤーなんだけどね。だって、ぼくのサイエンス・フィクションは、まだまだ終わってなんかいないんだから。


  • 大森望には、数多くの民間伝承がある。
  • 伝承1:大森の父は、四国の新聞王と呼ばれるマスコミの元締め、母は著名な作家である。ご存知のように四国は、本四連絡橋ができるまでは絶海の孤島だった。村が国家で宇宙だったというぐらいである。出身者はすべて親類縁者にあたる。SF関係では奇想天外の曽根編集長や、森下一仁も血縁者。
  • 伝承2:その昔、大森望はかわいかった。「あの子かわいいわあ弟みたいやわあ」(現大野万紀夫人、現かんべむさし夫人談)と、いわれていた。嘘のようだが、ほんとうである。
  • 伝承3:大森望は1度死んだ。東名高速で、路線バスのターミナルへと暴走──三菱コルディアは、跡形もなく大破し、同乗していた細美遥子、大森望、斎藤芳子の3人は即死した。が、そこは実は古墳時代の聖地だったのである。3人は死から甦った──もはや人間としてでなく。そう考えると、後の人間離れした活躍もつじつまがあいます。

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