2012/2/5

円城塔『道化師の蝶』(講談社)


カバー:森岡智哉 GECKO & Co.、装幀:泉沢光雄


 “SFが芥川賞を受賞”することが、快挙なのかどうかは良く分からない(SF研究会出身者が芥川賞を取った、という例はある)。とはいえ、もめた挙句受賞を逃した145回(平成23年度上半期)から、わずか半年後の146回で受賞できたのは、熱心な支持者がいたせいだろう。実験的な作品が受賞した前例はあったにしても、本書のようにSF/ファンタジイの要素を強く含んだものではなかった。保守的とならざるを得ない伝統ある文学賞なので、そういう意味で革新的な受賞と言えるだろう。

道化師の蝶(2011/7):東京シアトル間を飛ぶ航空機の中で、永遠に旅を続けるエイブラムス氏と出会う
松の枝の記(2012/2):お互いの小説を翻案しあった異国の2人の作家が、10年目に邂逅を果たす

 エイブラムス氏に、旅の間しか読めない本の話をすると、氏は蝶の姿を持つ“着想”を捕まえる網を見せてくれる。それは、この世のものではない道化師の模様を持つ蝶だ。この後5章にわたって、物語は順次視点を変えて描かれる。ある章は友幸友幸という作家が、無活用ラテン語で書いた小説だったと書かれ、友幸友幸は二十の語族の言語で小説を書いた人物とあり、その翻訳者は、故人となったエイブラムス氏の財団から依頼を受けて友幸友幸を追跡している。しかし、レポートを受け取る財団の網/手芸品の解読者こそが、もしかすると友幸友幸かもしれず、解読者が作った網こそ、最初にエイブラムス氏が見せてくれたものかもしれない。最後に物語の時間順序は逆転し、冒頭のシーンにつながっている。
 二転三転する性別、時間軸も一直線ではなく、事実と嘘との境界も曖昧だ。10人中2人が絶賛し、3人は分からないと怒り、5人は寝てしまうという難解な小説としても知られている(選考委員黒井千次も、最後まで読み切れなかった)。そのため、発表当時から解釈を論じた記事(2011/8)や、デビュー当時から活動を評価してきた大森望の解説(2012/1)なども出され、(特にナボコフとの関連性については)それぞれを参考にすれば良いだろう。ただし、著者自身がそういった詳細な読み解きを奨めるわけではない。最後に、もう1作収められた「松の枝の記」は、自分の小説を翻訳してからまた自国語に訳し直すという、まさにナボコフを思わせる作品だ。同じくナボコフの影響を隠さないジーン・ウルフの“島医者もの”を連想させるのは、偶然というより必然か。


2012/2/12

パオロ・バチガルピ『第六ポンプ』(早川書房)
Pump Six and Other Stories, 2008(中原尚哉/金子浩訳)

カバーイラスト:鈴木康士、カバーデザイン:渡邊民人(TYPEFACE)


 昨年出た長編『ねじまき少女』(2009)は、「SFが読みたい!2012」で僅差の海外編2位を獲得している。常連で人気のあるイーガンとの競り合いだったのだから、先々ファンも増えていくだろう。本書は、そんなバチガルピの初期短編集である。デビューから2008年まで、ほぼすべての短編10編を網羅したもの。著者の原点が良く分かる内容だ。

「ポケットの中の法」(1999)*:成都の貧民街で、浮浪児が偶然入手したデータキューブの中身
「フルーテッド・ガールズ」(2003):人体改変され、文字通り生体フルートとされた姉妹
「砂と灰の人々」(2004):未来、生身の生物はほぼ絶滅し人類もバイオ化されている、そこに一匹の犬が迷い込む
「パショ」(2004)*:文明に感化されて帰ってきた孫息子と、砂漠の戦士/略奪者だった祖父
「カロリーマン」(2005):ミシシッピーを下る舟で違法種子を作るリッパーを運ぶ男たち(「ねじまき少女」の前日譚)
「タマリスク・ハンター」(2006)*:地下水を吸い上げ渇水の元凶となる木、タマリスクを刈るハンター
「ポップ隊」(2006)*:不老化が一般的となった未来、出産は重罪となり摘発のための特殊部隊が編成される
「イエローカードマン」(2006):タイで難民に落ちぶれた、かつての富豪の生きざま(「ねじまき少女」の原型)
「やわらかく」(2007)*:衝動的に妻を窒息死させた男が、罪悪感を日常に紛れさせていく奇妙な心理
「第六ポンプ」(2008):食品汚染により住民の痴呆化が進んだ未来、下水ポンプのメンテに明け暮れる主人公
*初訳

 登場人物たちは、改革者や科学者といった、リーダー型人間ではない。大半は、状況に流されるままの小心な一般人だ。唯一「第六ポンプ」の主人公だけは、事態を食い止めようと苦闘するが、無力な一市民の域を出ることができない。バイオ化が暴走した未来は、大きな貧富の差と疫病の混乱に沈んでいる。そこには、今我々の知るような社会的秩序はない――という、デストピア的な世界観が著者の特徴だろう。ハッピーエンドのない、突き放された結末は読後に強い印象を残す。しかし、もう一ひねりが欲しい作品も多い。お話の展開が、あまりにストレートすぎるので、ちょっと食い足りないのだ(例えば、かつて衝撃的と話題を呼んだ1969年のハーラン・エリスン「少年と犬」と対比できる、「砂と灰の人々」の結末なのだが、あまりに淡泊すぎる)。受賞作が「第六ポンプ」(2009年ローカス賞、ちなみに本短編集自体も同年のローカス賞を受賞)と「カロリーマン」(2006年スタージョン記念賞)に留まるのは、その所為もあるだろう。


2012/2/19

 前作『日本SF精神史』(2009)は、明治から1975年までのSF的発想の系譜を描き、2010年の第31回日本SF大賞を受賞した。本書は、一部時代は被るが、1945年以降から現在までを記載した続編になっている(ページ数も多い)。

 前作では海野十三のSFへの影響が述べられていたが、本書でもそこから説き起こされる。しかし海野は1949年に亡くなり、直接の影響力が及ぶことは無かった。戦後すぐ「宇宙と哲学」(1946)「アメージング・ストーリーズ」(1950)「星雲」(1954)と、SF雑誌の創刊が相次ぐが続かない。この時期もっとも先進的だったのは、第25回芥川賞を「壁 - S・カルマ氏の犯罪」(1951)で受賞した安部公房である。SFに対しても本質に迫る指摘を残しているからだ。やがて、「宇宙塵」(1957)「SFマガジン」(1960)創刊があり、1962年には第1回日本SF大会が開催される。
 SFに限らず、戦後は数々のアングラ(アンダーグラウンド)芸術が盛んになる。赤瀬川原平らが活躍した何でもありの「読売アンデパンダン」(1957)、「サド猥褻裁判」(1961)で有名になった澁澤龍彦は後の幻想小説に大きな影響を与え、唐十郎の「状況劇場」(1962)、寺山修司らの「天井桟敷」(1967)等のアングラ演劇には、前衛的要素が多く取り込まれていた。
 スプートニク打ち上げ(1957)以降、マスコミ的なSFブームは内外からの論争を呼ぶ。「日本SF作家クラブ」(1963)の誕生した年、TVでは同時多発的にアニメーションがスタートする。「鉄腕アトム」「鉄人28号」「エイトマン」(全て1963にスタート)には、SF作家たちが関わっており経済的な支えともなった。ニューウウェーヴ運動を宣言した「NW−SF」(1969)は、社会的な造反運動とも連動し、日本SF大会でも第9回大会(1970)頃には造反事件が起こっていた。進歩を謳う大阪万博後の「日本沈没」と「ノストラダムスの大予言」(1973)は、時代の不安を反映したものとして、当時同じ文脈で読まれていた。ファンタジイ系の雑誌もこの頃に生まれる。「ユリイカ」(1969)「血と薔薇」(1968)「幻想と怪奇」(1973)「牧神」(1975)「地球ロマン」(1976)などだ。マンガも、SFから離れ独自の世界を構築していく。マンガ大会が生まれ、批評集団「迷宮」(1975)の結成、大人向けアニメとしてブレイクする「宇宙戦艦ヤマト」(1974)の後、批評誌「だっくす」(1977)「ぱふ」(1979)、アニメ専門誌「OUT」(1977)「アニメージュ」(1978)が創刊する。SFも多様化し「奇想天外」(1974/76)「幻影城」(1975)「SFアドベンチャー」「SF宝石」(1979)が前後して誕生する。
 その頃、日本SF大会では開催権騒動(1979)が起こり、コミケも分裂騒動(1982)が発生する。ガイナックスの創始者である武田・岡田らは、SF大会DAICON3/4(1981/84)の開催、アマチュア特撮映画「愛國戦隊」事件(1982)や星雲賞の組織票事件(1983)ファングループ連合会議乗っ取り事件(1985)など、さまざまな騒動を引き起こした。SF評論誌「SFの本」(1982)「SFイズム」(1981)は、SF論議が盛んだったこの時期だからこそ成り立ったといえる。また、第1回日本SF大賞に伴う「太陽風交点」訴訟事件(1981)、栗本薫による耽美/やおいの始まり(1984)、現状の語源に近いオタクのはじまり(1983)などもこの時期だ。浅田彰やデリダなどのニューアカ(ニュー・アカデミズム)ブーム、社会的なブームとなったサイバー・パンク小説『ニューロマンサー』の翻訳(1986)、高度なファンタジイ雑誌「ペーパームーン」(1976)「ソムニウム」(1979)「夜想」(1979)「幻想文学」(1984)が誕生し、ある意味文化として熟成していく。アニメも、『ビューティフル・ドリーマー』(1984)『風の谷のナウシカ』(1984)が、時代/世代を超えた評価を得るようになる。
 その一方、SFが事件の背景にあるとされた、「宮崎勤事件」(1989)「地下鉄サリン=オウム事件」(1995)が起こり、この後に「SFクズ論争/SF冬の時代」(1997)を経て、「日本SF新人賞」(1999)「小松左京賞」(2000)「SF Japan」(2000)が出た頃にはSF小説の出版数も復活する。そして、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)のブーム、ライトノベルの隆盛世界SF大会の横浜開催(2007)へと続く。

 本書で著者は、「SF的想像力」の欠如が3.11(特に原発事故)の悲劇を生んだと述べている。しかし、そのような想像を封印してきたSFファンや、大半のSF作家も実は同罪だ。そもそも無関心だったのだから、SFマガジンから数えて、すでに原発の耐用年数を越えたSFも、創造面で疲弊しているという点で例外とはいえない。さて、本書に書かれている内容は、評者にとっても、かなりの部分がリアルタイムに知っていた時代である。そのため、ニュアンスの違いを感じるところもあるが、戦後の芸術運動やアングラ演劇、幻想文学やアニメなどの盛衰を、まるでファンジンのアフターレポートのように(と書いても、もはや分かり難い比喩かも知れないが)一体で描いている点は新鮮だ。(出典を明らかにした)事実と、(SF界の都市伝説に近い)うわさ話を混交しながら、実に楽しく読める内容になっている。


2012/2/26

C・L・アンダースン『エラスムスの迷宮』(早川書房)
Bitter Angels,2009(小野田和子訳)

カバーイラスト:Stephan Martiniere、カバーデザイン:ハヤカワ・デザイン


 C・L・アンダースンという名前は馴染みがないが、1999年にサラ・ゼッテル名義で書かれた『大いなる復活のとき』(1996)の翻訳書が出ている。著者は、この2つのペンネームを、主にファンタジイ用とSF用に使い分けるようだ。もともとゼッテル名義一本で書いていたのだが、SF読者に対する(売れなかった)イメージを一新したい気持ちもあるのだろう。本書は2010年のフィリップ・K・ディック賞受賞作品である。

 人類が長命となり、何度も若返りを繰り返しながら生き続ける未来。辺境の植民星系にはそのような恩恵はなく、既得権益を持った少数の“ファミリー”が、負債奴隷制度を敷いて世界を支配している。そんな世界エラスムスで、地球連邦政府のエージェントが殺害される。この事件の裏には何があるのか。大規模な反乱の兆しを恐れた政府は、引退していた主人公に現役への復帰を要請する。

 一見ミリタリーSF/スペースオペラ風だが、辺境政府の政治的陰謀を暴くエージェントによる謎解きという、ある種ミステリタッチでお話は進む。エージェントは非殺傷兵器で武装した守備隊員(不死が前提の社会)。しかし、辺境にそのような長命化技術はなく、半ば恐れをこめて、太陽系人は“聖人”と呼ばれている。既に夫や家族を持ち現場から遠ざかっていた主人公、畏友だった友の死、奴隷制から這い上がってきた現地の保安要員、ファミリーに従う病院の女性医師、当のファミリーの大番人(一族の筆頭者)、と登場人物は多彩だ。最後に陰謀の真相が判明し、大団円となるところも破綻なく収まっている。ただ、その分意外性に欠ける展開かも知れない。2009年の同賞受賞作『シリンダー世界111』もそうだったが、最近のアメリカSF長編(ディック賞は年間のベスト長編に与えられる)には破天荒さが足りないようだ。