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出版界が不況だそうだ。だが不況は出版界だけのことではなくて、どの世界でもジャンルでも、ちょっと気を抜けば奈落の底、エッジの向こう側へ転落する危険があるのだから、ほとさら「出版界が……」と区別するのはおかしいといけばおかしい。
「出版界が……」と断って取り沙汰するのは、出版界に籍を置く人々が自分達の不運を嘆くときに使う言葉だからではなく、出版界の不況イコール文字文化の衰退という危機をほのめかしているからにほかならない。
出版が振るわないということは、本が売れないということで、本が売れないということは、本を買って読まなくなるということだ。人類の智恵の歴史と継承と心と芸術の結晶である書物を読まないとは、なんという損失であることか!……そう、断じて出版社と編集者が面白くて売れる企画が出せないのではないし、決して作家たちがベストセラーを生み出せないのでもないし、いい本なのに書店が目立つ場所に並べてくれないからではないのである……
「若い人が本を読まなくなったから」
このフレーズを発明した人はエライ! なんといったって、読まない方が悪いのだ! 悪いのは作り手ではないのである! 責任は本を読まない若い世代だ!……威勢良く啖呵を切ってしまったが、とにかく「若い人が……」の言い訳は長い間大変便利に使わせていただいたフレーズなのだろう。しかし、これを跳ね返す転機を見つけられないままだった。もとい、見つけられないのではない。
本を読まないのは若い世代だけではなくて、どんな世代でも本を読まない人は読まない。若い人だって本を読む。むしろ趣味が多種多様化して、ベストセラーや話題の本をみんなが一列に並んで読むというよりは、ディープでマニアックなジャンルにはまって読むことが多い。だいいち、「若い人が……」といわれはじめた世代だってもう若くない。
つまり、活字離れを若い世代に結び付けて、本が売れないのを社会現象だと解説し、しかたがないと考えていたのだろうと思う。逃げもあっただろう。
情報や活字に飢えていて、何でも読めるものなら喜んで読んだ時代は、とうの昔に過ぎ去った。若い人は読書以外のことに夢中で忙しいから、活字から離れたに違いない……と、考えたのではあるまいか?
確かに一理ある。お小遣いなり給料なりが、一月これだけ、と決まっていて、飲食代やらショッピングやらにある程度使って、その他に「本でも買うか」と思っていた予算が、パソコン周辺機器だのインターネットだの携帯電話だので消えていく。
お小遣いが増えなければ、どこかで削るしかないのだ。本は後回しになっていたかもしれない。
しかし、それならば、きれいな大型の書店があちこちに開店するのはなぜだ? そしてその書店がけっこう混んでいて――それもマンガコーナーだけじゃなくて――レジも並ぶのはなぜだ?
売れる本はちゃんとあるみたいだ。
ほんとうは活字離れなんか、していないのではないだろうか。そうでなければ、一旦活字から離れたけれど、また舞い戻ったのかもしれない。
インターネットやメールは、音声を使えるようにもなってきているけれど、基本は文字だ。ネットでサイトを探して、いきなりテレビニュースのような情報提供はない。イラストや写真や音声は入るけれど、やっぱり基本は文字を読まなければならない。
インコがメールを打っている人間とパソコン画面を覗き込み、
「感激の激はその字だっけ? そんなメール出したら軽蔑されるぞ」
とかなんとか言うCMがあったけれど、インコに言われるまでもなく、文章が書けないとメールも出せない。携帯電話だって、メール使用度が高い。
だいたい、パソコン・IT関連の説明書といった電話帳のように厚いではないか。いやだろうがうんざりしようが、読まないとはじまらないから、電話帳だって読む。
IT時代とは、文字の時代だ。
活字離れを危機意識の中に入れて考えていたころ、時代が進めば情報提供はほとんど音声と映像になるだろうと考えられていた。SF的未来構造だ。
次世代電話といったら絶対テレビ電話だと思っていた。コンピュータはなにか聞けば、声で答えてくれる。立体画像なんかもあって、いつでも好きな場所に出かけているような気分になれる。そのころにはエスペラントが進んで、世界中がつながっても言葉に不自由しない……そんな未来。
たしかにそのSF未来方向への研究と開発は進んで、いつか実現するのだろうけれど、その前に、ふたたび文字&文章の文化の時代があるとは、予想していた人は少ないだろう。
若い人は、なにかあるとすぐに電話で済まそうとするなんて言われていたけれど、そんなこともなくなった。手紙を書かなくなったとも指摘されたけど、メールは一種の手紙だ。そのうち、ファックスをしなくなった、と言われるのだろうか。
コミュニケーションを取れなくなったとも言われたけれど、携帯電話の普及で、人間の間の距離感は縮まったと思う。
こんな世相は一種のブームだ、いつか面白くなくなって廃れる、とうそぶく向きもあるけれど、人類は一旦受け入れて便利だと思い、生活に組み込んだものをなかなか捨てない。
電話だってテレビだってビデオだって車だって、さかのぼれば電気だって火だって石器だって、なければないで、なんとかなったかもしれないけれど、あったほうがいいに決まっている。
時代も文明も逆行することはない。電気の供給がダウンして、通信がシャットアウトされるような、壊滅的な事態になれば別だが……
話が大げさになってしまったが、とにかく現在、人類は不思議にも文字文明を謳歌しているのだ。
サイトで情報を集めるのも文字と文章、チャットで意見交換するのも文字と文章、出会いも交際も文字と文章。仲間と出会ったり、仕事を探すのも文字と文章だ。
前述の出版社の例をよそ目に、電子出版やネット書店の世界も華やかになってきている。
これが簡単なようでやっかいだ。チャットで会話に参加するとき、自分以外の人物に変身して「17歳高校生デース」といったり、ほんとうはおじさんなのに「20歳看護婦です」と書いてしまい、看護婦になりきるために苦労したりする。
こんなふうにして自分以外の人間になって楽しんで、あるいは相手が騙されるのを楽しむ、ちょっと人の悪い一歩間違えれば詐欺の遊びもあった。
遊びで済めばいいのだけれど、嘘をついたり性格を偽ったりして、ほんとうに詐欺事件になるとか、それ以上に重大な事件に発展することもあるらしい。嘘の人格、嘘の性格、偽りの優しさ……コミュニケーションが言葉と文字だから、飾ったり偽ったりが安易なのだ。
だが、騙される側には騙されたい願望があるとも言われるように、本来文章は、言葉よりも多くを語っていることがあると思う。行間を読むこともそうだけれど、隠そうったって隠し切れない、微妙なニュアンスが、行間に漂うこともある。
心理学者なら、同じ単語を何回使ったとか、一人称で書いているとか、しつこく念を押しているといった情報から、相手の心理状態や本心や狙いを割り出すだろう。一般人にはそれは無理だが、まあなんとなく何かを感じる、という経験はあると思う。
メールのおかげで、新しく親しくなる人もいるけれど、一方で「こんな人だったのか?!」と人格を疑うような文章に遭遇することもある。こちらが思っているのだから、相手も思っているかもしれない。言葉ならいくらしゃべっても流れてしまうこともあるけれど、文章はちょっと消えない。「削除」しても印象は深く残る。
直接会ったり、電話する方がよほど簡単な場合もありそうだ。それなのにあえて、まずメールで文章交換するのは、先進的なのになんとなく奥ゆかしい。まるで歌やら手紙やらで意思表示をした古代人のようではないか?
古代には会ったこともない人に、美人だという噂だけをたよりに、いきなりラブレターを贈ったりしたそうだけれど、出会い系チャットだって似たようなところがある。政略のためのプロパガンダも、同志を集める意思表明演説も、歌だった時代もある。
そういえば政治家もそれぞれサイトを持っていて、PRに役立てたり――ときには言い訳したり――いろいろ便利なようだ。意見のメールを受け付けていたりするから、国民とも直結する。実際には国民と直結してご意見を伺って、などというのん気な事態ではなさそうだ。メールだからこれも文字と文章、メールを使っての抗議デモも起っている。静かだがちょっと無気味なデモだ。
文章で相手の気持を掴む難しさと醍醐味は、古代も現代も同じだ。時代が違うから、チャットに季節の風物を、なんていうことは少ないだろうけれど。
新しい文化は軽佻浮薄だという先入観がある。若い人は本を読まない、という先入観と同じで、一種の伝説だ。
ふたたび蘇った文字と文章の時代は、きっとなにかもたらす、そんな予感を感じている。
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Ishii 著作:石井 久恵
◆「言の葉時代」の感想
*石井久恵さんのエッセイ集が、文華別館
に収録されています。《文華堂店主》
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