偉人たちの獄中期

                                関根 徳男

 

 

        榎 本 武 揚  (えのもと たけあき)

  はじめに

 明治二年(一八六九)六月三十日、榎本武揚は東京丸の内、辰の口の牢獄に入れられた。本来、この牢は軍の裁判にかけられる者を留置するところだったが、警察組織が不備なため殺人、強盗、放火、恐喝などの普通犯も多数いた。江戸時代からのなごりで、各牢には牢名主がいた。牢名主は榎本に対し、
 「娑婆でどんな悪事をやらかしてきたのか。名をなのれ」
と怒鳴った。
 「おれは箱館戦争の榎本じゃ」
榎本が答えると、牢内一同は驚き、平伏した。牢名主は積み上げた畳の上からすべり降り、榎本の前に土下座し、牢名主の座を譲りたいと申し出た。蝦夷に榎本ありという噂は、獄中にも行き渡っていた。
  榎本とともに収監された箱館戦争で生き残った旧幕府軍幹部には松平太郎、大鳥圭介、永井玄蕃、荒井郁之助、沢太郎左衛門、松岡盤吉らがいた。彼らは重罪人として、別々の牢へ入れられたが、榎本同様それぞれの牢名主になっていた。
  入牢と同時に牢名主となってしまった彼らは、娑婆でどんな「悪事」を働いてきたのだろうか。

 

 榎本武揚の生い立ち

 榎本武揚は天保七年(一八三六)、幕府旗本榎本円兵衛武規の二男として、江戸下谷御徒町柳川横町に生まれた。幼名を釜次郎といった。  榎本家は三河武士以来の代々の直参旗本の家柄だった。ただ、父武規は榎本家の養子だった。武規は備後国安那郡箱田村(現広島県福山市)の郷士箱田家の二男として生まれた。このときは箱田良助といった。良助は幼少のころより秀才の誉れ高く、やがては江戸に出て学問をしようという志をもっていた。このことを知っていた郡奉行は、参勤交代に随伴する際、良助を連れ江戸にのぼった。良助は天文学を志し、当代随一の伊能忠敬の弟子となった。伊能忠敬が日本各地をまわり測量したときも、良助は参加し、その後の地図作製にも関与した。忠敬の死後も地図作製を引き継ぎ、完成にこぎつけている。これによって、箱田良助は優れた数学者、測量家として世に認められるようになった。
  この頃、良助は旗本榎本家に養子として入籍した。当時、旗本株は金銭で買うことができた。良助は千両で榎本家の株を買い、榎本家の娘と結婚することで養子縁組し、榎本円兵衛武規と名を変えた。彼は旗本身分で幕府に天文方として仕え、やがて将軍家斉に気に入られ側近に奉仕した。
  武規は息子武揚を自分と同じく科学者、技術者として育てたかった。ところが、シーボルト事件や蕃社の獄などの出来事により、蘭学への圧迫が強まる時勢になっていた。そこで、武揚は幕府官吏の登竜門である昌平坂の学問所に入学し、儒学者として仕官するという旧来のコースを進むことにした。学問所の課程は五年で、それを終えると「学問吟味」という試験があった。甲で合格すれば上級の官吏として登用され、乙ならそれ相当の役職に就けたが、丙では仕官できなかった。武揚は自信あったが、丙で不合格となり、役に就く道を閉ざされてしまった。彼はこの結果に不満で、採点に情実が働いていると疑った。
  このころ、武揚は江川太郎左衛門の塾内にいる中浜万次郎(ジョン万次郎)に学び、英語を勉強し、海外の知識を吸収したという。また、箱館奉行堀織部正の小姓として蝦夷地に渡り、樺太を探検したという説もある。
(以後、父と区別する必要がなくなるので、榎本武揚のことは「榎本」と記することにする。)
  やがて、世はペリー来航、開国とあわただしくなってきた。幕府は近代的海軍を創設する必要に迫られ、その人材養成のために長崎に海軍伝習所を開設した。第一期生は幕臣で占められたが、第二期生は広く募集した。自分の生きる道はこれしかないと榎本は応募したが、「学問吟味」試験で丙(不合格)という過去があったため、ここでも却下されてしまった。そこで、昌平坂の学問所で学友だった伊沢謹吾を頼り、大目付をやっている彼の父親に熱心に頼み込み、特別入学を認めてもらった。
  長崎海軍伝習所で、榎本はオランダ人教授から授業を受け、実習を行っていった。この時の機械学や化学などの勉強が、父親ゆずりの理数的才能を開花させた。榎本は水を得た魚のように何でも吸収し、その素質を伸ばしていった。そのころ幕府がオランダに注文していた砲艦が入港し、伝習生の訓練に使われた。この艦は、後に咸臨丸と名付けられた。
  また、ここで榎本は勝海舟と出会った。勝は第一期修了生だったが、伝習所に残り、第二期生の面倒をみていた。この二人がやがて幕府海軍を、そして幕府そのものを背負っていくことになる。
  長崎の伝習所を卒業した榎本は、やがて江戸の築地にできた海軍操練所の教授に、勝らとともに任命された。伝習所での成績が飛び抜けて優秀だったため、抜擢を受けたといわれている。二十三歳で幕府に正式に仕官したことになる。なお、この時、名前を釜次郎から武揚に改名している。
  この後、勝海舟は咸臨丸に乗ってアメリカに渡った。福沢諭吉や中浜万次郎らも一緒だった。
  その三年後の文久二年(一八六二)、榎本は海軍伝習のためオランダへ留学した。榎本、内田恒次郎、沢太郎左衛門ら六名は海軍技術を学ぶとともに、オランダに発注した軍艦(開陽丸)の造船監督や、造船技術の見学研究を行った。他に林研海らは医学研究、西周助(後の西周)らは国際法、財政学研究を行った。 榎本武揚は自分の担当以外にも時間のある時は、林らとともに化学、西らとともに国際法を学んだ。国際法はフランス人の国際法学者オルトラン著『万国海律全書』を、オランダ人教授がオランダ語に翻訳したものを用いた。このオランダ語訳『万国海律全書』は、後に、榎本が日本に持ち帰り常に愛読していたものである。なお、留学期間中に、オーストリア・プロシア連合軍とデンマークの戦争に、国際観戦武官として従軍し、近代戦争を体験した。プロシア軍は鉄血宰相といわれたビスマルクが率いていたが、榎本とビスマルクの親交がこのときから結ばれた。
  榎本らの留学期間は五年間に及んだ。この間、日本では尊皇攘夷から討幕への嵐が吹き荒れ、幕府は崩壊寸前にあった。榎本は三十二歳になっていたが、まだ激動の歴史の外にあった。

 

 箱館戦争まで

  慶応三年(一八六七)三月二十六日、榎本らは完成した開陽丸に乗り日本に帰ってきた。
五月にはオランダから幕府への開陽丸の正式な引き渡しがあり、榎本は軍艦乗組頭取という役に就き、開陽丸の艦長になった。この直後、榎本はオランダ留学生仲間だった林研海の妹たつを嫁にした。
  やがて、榎本は軍艦奉行となり、幕府海軍の実質的な最高責任者になった。ちょっと前までは学生(留学生)だった榎本が、一躍幕府海軍のリーダー格になり、討幕の矢面に立たされることになった。
  帰国から半年後の十月十五日、将軍慶喜は大政奉還し、名目上幕府はなくなった。しかし、この時点でも徳川家は最大の大名であり、新政府ができたとしても、実績のある慶喜がリーダーとなり取り仕切っていく筋書きがあった。陰で大政奉還に関与した土佐の坂本龍馬もそう考えていた。ところが、十一月、坂本龍馬は暗殺されてしまった。
 十二月九日、薩摩、長州が中心になり、王政復古の大号令が出され、慶喜に対し、納地納官を命じた。激怒した旧幕府軍は大阪城に集結し、京都の薩摩、長州軍とにらみあった。
 そして、慶応四年(一七六八)一月三日夕刻、両者は交戦状態に入り、いわゆる鳥羽伏見の戦いが始まった。数では勝る旧幕府軍であったが、薩摩、長州を中心とする官軍の新式の武器に圧倒された。さらに錦の御旗が立てられたことで、朝敵となった旧幕府軍は総崩れとなり、六日には大阪城へ敗走した。
  一方、榎本は開陽丸を旗艦とする四隻の旧幕府艦隊を率い、大阪湾内にいた。そこへ三隻の薩摩船が入港してきて交戦状態になった。三日の晩、暗がりにまぎれ脱出する薩摩船を追い、淡路沖で一隻を自沈させ、二隻を追い払った。兵庫沖海戦と呼ばれるこの戦いの圧勝で、制海権は旧幕府側がおさえ、榎本は自信をもった。圧倒的な海軍力をもってすれば、軍事的には負けるはずはなかった。陸戦でも、江戸にいる大鳥圭介が率いる、フランス式訓練を受けた精鋭部隊を投入すれば、負けるはずはなかった。
  しかし、徳川慶喜にすれば、軍事的な優劣は関係なかった。時勢が問題だった。そして、何よりも朝敵となることを恐れた。六日夜、慶喜は旧幕府軍を残したまま大阪城を脱出し、大阪湾の開陽丸へ向かった。榎本は陸での状態を探りに、数名の伴を連れ大阪に上陸して船を留守にしていた。そのような開陽丸に慶喜は乗り込み、江戸に向かって出航させてしまった。それを知った榎本は、大阪城にあった十八万両(二十五万両との説もあり)を運び出し、残った旧幕府艦隊を率いて江戸にもどった。
 幕府の後始末は勝海舟が行った。勝と西郷隆盛との会談で江戸城の無血開城が行われ、慶喜は水戸に引退した。主戦派の旧幕府軍の一部は彰義隊として上野にこもり、官軍の攻撃を受け壊滅した。陸軍奉行大鳥圭介は、新撰組の土方歳三ら二千人を連れ、江戸を脱出、宇都宮、会津へと転戦していった。徳川家は、駿河国府中(静岡)の七〇万石の大名に減封され、徳川亀之助が後を継いだ。慶喜は水戸から静岡へ移った。
  この頃、榎本は旧幕府艦隊を率いて、品川沖にいた。新政府にとって最大の脅威はこの艦隊であったあったから、その引き渡しを再三迫ってきた。四月十二日、艦隊は突然姿を消し、房総半島の館山に移っていた。勝海舟があわててやって来て、榎本を説得した。
 説得に応じた榎本は艦隊を品川に戻し、老朽艦を中心に四隻を新政府へ引き渡し、当面をとりつくろった。それでも、開陽丸をはじめとして八隻の艦隊がまだ残っていた。この後、旧幕府の脱走兵が次々に船に乗り込んできた。そして、八月十九日、艦隊は再び姿を消した。今度の行き先は仙台だった。
  ところが、房総半島を回ってすぐに暴風雨に合った。艦隊は離散し、ばらばらになって仙台に入港したが、二隻はとうとうやってこなかった。旗艦開陽丸は舵が故障し、マストも折れていた。それでも、その堂々たる偉容に、海岸に駆けつけた仙台藩士や旧幕府軍は喜びの声を上げた。榎本は官軍に抵抗を続ける奥州越列藩同盟を応援すべく、その盟主である仙台藩にやってきたわけだが、その同盟は事実上崩れ去っていた。
  仙台に陸路やってきていた旧幕府軍や仙台、会津などの脱走兵を新たに収容し、榎本の艦隊はさらに北方の蝦夷地に向かった。榎本の最終目的は、蝦夷地を開拓して、失業した徳川家臣団の生活を支えることであった。これは、ひいては皇国のためになることだから、ぜひ許可してもらいたい、と何度も新政府へ嘆願書を出していた。ただし、それが認められない場合は、抵抗もやむおえないとも付け加えていた。
  蝦夷地に着いた艦隊は、直接箱館へ入港せず、亀田半島をまわりこんだ裏側の「鷲の木の浜」に上陸した。箱館港には諸外国の船が出入りしており、もし戦闘になった場合、外国人や一般住民を巻き込む危険性があったからである。 上陸した陸戦隊は箱館に向かった。箱館府は新政府派遣の兵と松前藩兵が守っていたが、新式装備を持ち、鳥羽伏見の戦いから東北の激戦までを経てきた旧幕府軍に圧倒された。箱館府知事は秋田藩の船で青森に逃げたので、箱館の町と五稜郭は難なく占領できた。艦隊も港に入った。
  榎本は最長老の永井玄蕃を箱館奉行に据え、外国人や住民には今まで通りの生活を保障する通達を出し、町を治めた。一方、蝦夷地を治めていた松前藩には使者を送り、今回の戦争の事情を伝えたが、使者が斬られたため、交戦状態になった。土方歳三が七百名の兵を率いて松前を攻め、海軍も海上から攻撃し、松前城を落とした。さらに土方は、逃げた松前藩兵を追って江差へ向かった。榎本も開陽丸で江差へ向かった。ところが、松前藩兵はさらに北方へ逃れて、いなくなっていた。榎本は上陸し、江差を占領した。ところが、その間、暴風雪になり、開陽丸が座礁、沈没してしまった。蝦夷地の平定はほぼ終了したが、頼みとする開陽丸を失ったことは大きな痛手であった。特に榎本にとっては、オランダで完成まで見届け、自ら日本に持ってきた艦だけに、その落胆ぶりは大きかった。
 冬になった。新政府軍(官軍)の攻撃は春までないことは確かで、蝦夷地はしばらくは平静を保った。イギリスとフランスは、蝦夷地を占領した旧幕府軍を「事実上の政権」として承認した。これで国際法上は、政府として認められたことになる。「蝦夷共和国」といわれる所以はここにある。これに対し榎本は、
「新政府などといわれては迷惑千万、以ての外である。由来この島は純然たる日本の天皇陛下の領土であり、われわれは忠良な日本の天皇陛下の臣である。独立など思いもよらないことである」(加茂儀一『榎本武揚』)
と言っている。しかし、箱館港に碇泊する外国船に港税を課したり、プロシャ副領事ガルトネと開墾条約を結び、三百万坪の荒地を九十九年間租借する権利を与えたり、政府でなければできないことをしている。少なくとも、榎本らが蝦夷地を支配していた時期は、対外的には地方分権的な政府。として機能していたと思える。
  また榎本は、やがて徳川の系統の者を総裁として迎えるまでの仮の政府として、アメリカの制度に習い、下士官以上の選挙によって首脳人事を決定した。主な結果は次の通り。

 総裁    榎本武揚
  副総裁    松平太郎
  陸軍奉行    大鳥圭介
  陸軍奉行並  土方歳三
  箱館奉行    永井玄蕃
  開拓奉行    沢太郎左衛門
  海軍奉行    荒井郁之助 

 日本初の選挙による組閣で、榎本は名実ともにリーダーとなった。蝦夷共和国の大統領といってもよかった。榎本総裁は、オランダで学んだ国際法の知識と、五カ国語を駆使し、外国公使や外国船長などと渡り合った。自室を研究室にし、化学の実験や蝦夷地の鉱物研究も進めた。蝦夷地の開墾の準備も進めた。そして、何よりも軍人として、来るべき新政府軍との戦いの準備が急務だった。
 明治二年(一八六九)の春になると、新政府軍は圧倒的な物量をもって陸と海から攻めてきた。旧幕府軍は追いつめられ、五稜郭にこもった。頼りとした土方歳三も戦死していた。
 新政府軍の参謀は、後に総理大臣になった黒田清隆だった。黒田は江戸の江川塾で榎本の後輩で、かねがね榎本が優れた人物だということを聞いていた。また、これまでの戦で新政府軍は旧幕府軍の捕虜や、病院にいる負傷者を惨殺してきたのに、榎本軍は捕虜や負傷者を丁重に扱い送り返してきていた。黒田の副官田島圭蔵もかつて捕虜になり、送り返された一人だった。黒田は田島を使者にたて、降伏を勧めた。榎本はこれに対し、「好意には感謝するが、ここまできて武士として降伏することはできない。最後まで戦う」と告げた。その際、榎本はオランダ留学から持ってきた『万国海律全書』を取り出し、焼失させるには惜しい書物だから、将来日本のために役立てて欲しいと田島に託した。
  田島も黒田も感激した。すぐにお礼にと、酒樽とつまみを五稜郭に送った。そして、戦いに必要な武器弾薬が不足なら届けますとも申し添えた。もはや降伏勧告でなく、武士の面目を考えての配慮だった。榎本も感動し、武器弾薬は断ったが、酒は丁重に受けとった。この出来事は箱館戦争だけでなく、戊辰戦争を通して最大の美談だとされた。

  新政府軍の総攻撃が開始された。かつて三千五百名いた旧幕府軍は八百名に減り、負傷者も多かった。もう限界だった。「敵将が黒田のような人物なら降伏してもよい」、と榎本は考えた。自分が責任をとり死ねば、残った将兵は助けてもらえるだろう。榎本は松平らの幹部に相談した後、将兵たちを説得した。
  将兵たちが静まると、榎本は自室にこもり、切腹をしようとした。それに気づいた小姓の大塚鶴之丞が、素手で刀を奪い取った。幹部たちも駆けつけ、榎本を説得し思いとどまらせた。
  翌五月十七日、榎本ら四名は馬で、新政府軍幹部との会談場所へおもむいた。榎本は陸軍参謀黒田清隆と目礼をした。榎本らの降伏により、鳥羽伏見の戦い以来続いてきた一連の内戦(戊辰戦争)は終了し、旧幕府軍は壊滅した。榎本らが蝦夷地にたてこもって行った最後の戦いを、箱館戦争という。
  会談後、榎本らは五稜郭へもどり、五稜郭と武器弾薬の引き渡しをおこなった。兵士たちは寺院に移り謹慎した。この後、兵士たちは各藩預かりとなった後、釈放された。
 榎本ら幹部は、新政府軍本陣へ送られた。そして、護送駕籠に乗せられ、東京へ向かった。

 

  牢獄の中で

  榎本武揚らがやってきたことの説明が長くなってしまったが、本題の獄中生活に入る。辰の口の牢獄は五つの房に分かれていた。榎本及び六名の幹部は、五つに分けて収監された。

  一番牢 荒井郁之助、松岡盤吉
  二番牢 松平太郎
  三番牢 大鳥圭介
  四番牢 永井玄蕃
  五番牢 榎本武揚、沢太郎左衛門

 新入りは、牢名主や先輩によって、ひどくいじめられるものだが、彼らの全てが名乗ったとたん牢名主待遇になってしまった。格が違いすぎた。彼らは、ほんの少し前まで戦争をしてきた、筋金入りの軍人であった。江戸っ子からみれば、幕府の意地を貫いた英雄でもあった。
  牢の囚人たちは、榎本の肩や腰をもんだり、食事の世話をするなりと大事に扱ったので、楽な獄中生活ができたという。牢の番人も親切で、差し入れもできた。
  それでも榎本らの罪状は明白で、死罪となることは明白だった。死と向かい合った毎日は、たまらないものである。自暴自棄になっても不思議ない。そのような状況に二年半もいたにもかかわらず、榎本は知的好奇心を失うことなく、ひたすら活動した。ここで、榎本が獄中でやったことを整理してみる。

  〔読書〕
 獄中での読書は最初から許されていた。しかし、牢の天井は低く、多くの囚人が雑居しており狭く窮屈だった。昼でも暗く、夜は線香の使用しか許されなかったので、およそ勉強できる環境ではなかった。そのような環境でも榎本は、平静に読書していった。夜も線香の光で本を読み続けた。  差し入れてもらった書物の大部分は洋書や外字新聞で、英語、ドイツ語、オランダ語の原書を辞書なしで読んでいった。内容は自然科学、機械に関するものもので、化学書が特に多かったという。
  ある時、福沢諭吉から借りて差し入れてもらった化学書の内容が、余りにも初級すぎるので、福沢は化学に関して素人だと不満をもらしたりもしている。

 〔著述〕
 著述に関しては、最初許されてなかったが、やがて黙認されるようになった。牢番に密かに頼み、筆や硯を手に入れた。家人には書物とともに、必ず半紙も差し入れてもらった。
  獄中の心境をつづった漢詩を書いたり、時には、一行目は英語、二行目はドイツ語、三、四行目はオランダ語で書いたりもしている。
  ヨーロッパで得た知識も書き残していった。最初に著した『開成雑祖』は、油、石鹸、ろうそく等の製法を書き留めたものである。これは、零落した旧幕臣や榎本家の生活の役に立つようにと著したものだと、兄らへの手紙に書いている。

  [獄中塾]
 榎本は自ら読書、著述をするだけでなく、時には大鳥や荒井に西洋の学問を教えたりもした。別々の房にいても声は聞こえるから、房間の講義ができた
  さらに同囚の少年たちに、漢学や洋学を教えたりもした。知人あての手紙に、「八、九人の生徒とわいわいがやがやとやっております」、と書いている。
  このように榎本は、牢獄の中を書斎や塾に変えてしまった。

  [研究]
  榎本は書物から知識を得るだけでなく、さらに自分で斬新な技術を考案しようとした。大規模な卵の人工孵化器の製法、ガルファニー鍍金鍍銀(金銀メッキ)法、薬水の製法、藍の取方、新式の養蚕法、ガラス鏡の製法、硫酸の製法、ブランディーの蒸留器…等の図面(設計図)を描き、模型を試作した。模型といっても獄中であるから、材料といったら紙と「こより」しかなかったが、それだけで極めて精巧なものを作り上げたという。
  これらの研究は、単に榎本の知的好奇心を満足させるだけのものでなく、「日本の産業の発達のため、皇国の富を増すため」という公的な目的があると手紙で述べている。その為には、牢獄の中のほうが、はかどってよいとまで言っている。
  この榎本の態度は、大鳥ら他の六名の牢名主にも伝わり、彼らも一斉に設計図や模型を作り出した。
  この研究成果は、そっと外部へも伝えられていった。その様なとき、大鳥が出した手紙が、世間にもれてしまい問題となった。外部へ斡旋した牢の役人が処罰され、著述や模型の製作が禁止になった。沢太郎左衛門は砲術の専門家だったので、地雷と付属電池の模型を作った。それが爆発すると危険だと、白砂に呼び出され、紙の模型をハサミで真二つに切らされたというエピソードも残っている。
  このように警戒が厳重になってからでも、榎本は彼に好意を持つ看守を通じ、外部へ研究成果を伝えることをやめなかった。死はもとより覚悟していたが、自分の知識や研究成果は日本のために残したいという強い思いがあった。
 また、明治四年十一月二十一日の姉宛の手紙に、「右著述はいづれ日本国金銀山の開き方より蝦夷島開発に必要の事柄を主として…」とある。ここでは、日本のため、とくに蝦夷(北海道)開発に役立てたいと述べている。かつて蝦夷地にこもったとき、「蝦夷地を開拓して失業した徳川家臣団の生活を支えるため」と宣言したが、その思いは獄中でも続いていた。

 [囚人たちの世話]
 榎本は牢名主待遇で、他の囚人たちから身の回りの世話をしてもらっていたが、彼らに対してもこまめに気を配り、その世話をしていった。少年たち八、九人に学問の手ほどきをしたことは前述した。社会の底辺で生きてきた無学な囚人たちが、前科者として出獄してから、生活していくことは非常に厳しい。榎本はそんな囚人たちの相談にのってやった。そして、生計を立てるためにと、新技術の手ほどきをしてやった。
  囚人の中には、ちょっとしたはずみで罪を犯してしまった、気の毒な者もいた。一緒に罪を犯した者たちは、口裏を合わせないように別々の牢に入れられた。そして、お白砂で各人の申し立てが一致すれば許されることもあった。そこで榎本ら牢名主は、そのような者たちを救うために、一計を案じた。各牢名主が囚人から事情を聞く。そして、牢名主が看守がわからないように外国語で情報交換し、つじつまが合うようにしてやった。このお陰で放免になった者も多くいたという。
  このように囚人たちの世話をしてやったため、榎本らは囚人たちに心から信頼された。出獄後、お礼かたがた榎本の留守宅を訪ね、家族に獄中の様子を知らせる者が多くいた。榎本出獄後、彼等は榎本家に出入りするようになり、榎本も終生よく面倒を見た。
  榎本は直参旗本の家に生まれ、長崎海軍伝習所以来、トントン拍子の出世を遂げるというエリートコースを歩いてきた。その様な彼が、二年半も狭い牢獄で、どん底を生きてきた無頼の徒と苦楽を共にした。この経験は榎本の人間性を大きく成長させたという。

  [家族愛]
 榎本は獄中から、家族へ極めて頻繁に手紙を書いている。手紙には、軍人とは思えないような気のこまやかさがあり、家族への深い思いやりが見られた。
  榎本の兄も旧幕臣で、現在禄はなく、榎本家は苦しい生活をしていた。その中から、母親は獄中の榎本の身を案じ、金品を差し入れてくれた。夫と死別した姉は、年老いた母の側にあって、世話をしていた。榎本はそのような母と姉の身を案じた。
  妻たつ(多津)とは、オランダ留学から帰国直後に結婚したが、その半年後に鳥羽伏見の戦いが始まり、一緒に過ごした期間はごくわずかだった。にもかかわらず、妻は留守をしっかり守り、母や姉に仕えてくれている。そのような妻にも、自分については心配せず待つようにとか、風邪をひかないようにとか、温かい気配りの手紙を書いている。男尊女卑の武家社会のなごりのある中、榎本の女性に対する温かい心遣いがみられる。長い留学生活によって、西洋の騎士道精神も身についていたのかもしれない。
  失業中の兄に対しては、油、石鹸、ろうそく、焼酎、卵の孵化器具などの製法を、次々に知らせている。家計の一助にして欲しいとの願いがこもっている。明治四年には、兄が会社をつくり、鶏や鴨の卵を人工孵化器でかえし生計を立てたことを喜んだ手紙を出している。
 明治三年九月、獄中において、榎本が重病になった。母は息子に何としても会いたくて、遠縁にあたる福沢諭吉を訪ね相談した。福沢はそれまでも、獄中の榎本の様子を知らせてくれたり、助命運動をしてくれたりしていた。母の頼みに福沢は、牢を管理する兵部省への嘆願書の原文を書いてくれた。母がこれを清書し、兵部省に提出すると、翌日には面会の許可が下りた。久しぶりに親子の対面が果たせた。母思いの榎本は、感無量で、そのときの思いを漢詩に詠んだ。
  母は翌年八月、病気で他界してしまった。榎本は獄中で悲報を聞いた。

 

 助命運動 

 榎本らの罪状は明らかで、取り調べはほとんどなかった。入牢一ヶ月目に一度だけ呼び出されたが、質問は箱館戦争に参加した十人のフランス軍人に関するものだけであった。死罪になることは明らかで、あとはいつ執行されるか待つだけだった。
  ところが、政府内部では榎本らの処分をめぐって、薩長が対立していた。木戸孝允、大村益次郎などの長州派は、即刻処刑すべしとの強硬論をとった。これに対し、黒田清隆らの薩摩派は、赦免を要求した。黒田は箱館戦争で直接戦い、榎本の人となりを知っていた。戦乱の中にもかかわらず、『万国海律全書』を日本の将来のためにと寄贈されて以来、黒田は榎本を殺すには惜しい人材だと思っていた。幕末、戊申戦争の動乱にて、優秀な人材をあまりにも失ってしまっていた。新生日本にとって、榎本のような人物はなくてはならない存在だった。
  やがて、黒田は北海道開拓使次官の職に就いた。長官は不在だったので、次官でも実質的には最高責任者だった。アメリカから開拓技術者を多数雇い入れたが、全面的に任せてしまうのは心配だった。日本人の手によっても、開拓を進めておきたかった。日本人で、北海道の地勢に詳しく、近代的な科学知識と技術を有している者といえば、榎本ら旧幕府軍幹部が適任だった。榎本らが獄中で比較的自由に振る舞えたのは、黒田の配慮があったからだと言われている。榎本らが北海道開拓に役立つような研究をしていることは、当然黒田の耳にも入っていた。
 黒田は助命だけでなく、榎本らを牢獄より出し、北海道開拓の役を与えることまで考えるようになっていた。黒田の背後には、薩摩の重鎮西郷隆盛がおり、西郷も失業武士を救うため、北海道開拓に期待していた。
  当時、言論人として有名になっていた福沢諭吉も、黒田と共に榎本の助命運動にかかわっていた。榎本の母の実家と、福沢の妻の実家が遠縁にあたるという縁はあったが、榎本と福沢はお互いに面識はなかった。あくまでも、幕臣として最後まで意地を通した榎本の気概に感心した、福沢の義侠心からでた行動だといわれている。
  あるとき、福沢は黒田に、アメリカから持ち帰った写真を見せた。そこには、南北戦争で破れた南軍の大統領か将軍が、身をひそめるために女装した姿が写っていた。本当は大統領でも将軍でもなかったが、福沢はそう説明した。そして、「命は一度失うと取り返しのつかないものであるから大切にしなくてはならない。南北戦争で勝った北軍は敵の巨魁を、国事犯なるが故に殺さなかった。これは文明国の美風である」と加えた。黒田はその写真を借りた。おそらく、榎本を殺すことは文明国として恥である、と説いて回るために用いたのであろう。
  また、黒田は榎本から贈られた『万国海律全書』の翻訳を、福沢に依頼した。福沢は最初の四,五ページを訳しただけで、「この原本は海軍にとって非常に重要であることは最初の数ページを訳してみてもわかる。しかし本当によくこの本を訳すことができるのは、この本の講義を直接先生から聴いた榎本以外にない」と、返却した。このことも、榎本の助命運動に利用されたと思われる。

  それでも、榎本らの処置はなかなか決しなかった。処刑をせまる長州派に対し、黒田は丸坊主になり、「彼を斬るつもりなら、おれの首をはねてから斬れ」と叫んだ。
  最終的には、西郷隆盛の意見を聞くことになり、長州の品川弥二郎が使いにたった。西郷は、
  「榎本を斬首するのはもってのほかである、彼が北海道に徳川武士を率いて行ったのは徳川武士、すなわち陛下の赤子を救い、それによって大御心を安んじ奉るためのものであって、彼こそ憂国の士である。また徳川の  恩誼を忘れない義と情の人間である。そうした人間を長く牢内においておくのは政府の失態である。一日も早く優遇して新政府に重用すれば必ず御国のために尽くす人物になる」
と、赦免を強く主張した。これで大勢が決した。
  明治五年(一八七二)一月六日、赦免状が出た。榎本以外の五名(松岡盤吉は獄中で病死)は即時赦免釈放、榎本は三ヶ月親戚預けの後、赦免となった。
 (この節の「…」の言葉は、全て加茂儀一『榎本武揚』より引用した。)

 

 その後の活躍
  榎本は死を覚悟していた。しかし、死に急いでいたわけではなかった。一緒に戦ってきた土方歳三などは、盟友の新撰組組長近藤勇が死んだ後、明らかに武士としての死に場所を探していた。そして、箱館五稜郭が落ちる直前に、壮絶な戦死を遂げた。榎本が蝦夷地に行ったのは、幕臣として死に場所を見つけるのではなく、失業武士の生き場所をつくるためだった。自分の命は惜しくはなかったが、開拓に必要な自分の知識と技術は惜しかった。だから、牢獄の中で、それを残そうと書き送ってきた。
 
その命が助かった。死んでいった多くの将兵たちには、武士として後ろめたかったが、自分の知識、技術を思う存分発揮したいとの、科学者、技術者としての思いもあった。しかし、それは私人としてやるべきことで、幕臣の意地としても、薩長政府に仕える気はなかった。大恩ある黒田清隆の熱心な勧めに対して、榎本は辞退し続けた。
  黒田は北海道開拓という、榎本にとって最も魅力的な事業で誘った。黒田は先に渡米し、北海道開拓の指導者として、ケプロンを招いてきた。ケプロンは農務局長という、現職の大臣クラスの大物で、多くの外国人技術者を伴って来日した。北海道開拓はアメリカ主導で進められ、一歩間違えば、北海道がアメリカ資本主義のものになってしまう恐れもでてきた。そのことで黒田は窮地に立ってていた。ぜひ日本人によっても、開拓を進めていきたいので手を貸してほしいと、榎本を説得した。
 榎本の夢であった北海道の開拓が、アメリカ人の手に渡ってしまう。榎本は北海道開拓使に出仕することを決意した。出獄した他の五名も、新政府に出仕していた。
  明治五年五月二十六日、榎本は横浜から客船に乗り、函館へ向かった。箱館は旧幕府軍が降伏した四ヶ月後に、函館と改められていた。函館に着いた翌日から、榎本は先頭に立って北海道の調査に取りかかった。また、函館に日本初の気象観測所を設置したりもした。
  北海道開拓にとって、最重要課題に鉱山の開発があった。黒田は、やがて鉱山局を設置し、榎本を局長にする腹づもりだった。ところが、ケプロンは榎本の存在を気にし始めた。ケプロンとしては、日本政府に正式に招聘された責任者で、天皇から勅語も頂いていると黒田に迫った。榎本の身分は、北海道開拓使の職員であったが、その職務は黒田の私的顧問として、独自の調査をしているに過ぎなかった。将来は鉱山局長として、鉱山調査に関しては、ケプロンもその指揮下に置こうとの考えがあったが、まだその段階ではなかった。黒田は、板挟みになっていた。
  そのようなおり、日本にとって重大な外交問題が起こった。かねてより、ロシアによる北方からの脅威は懸念されていたが、樺太の領有権をめぐっての争いが頻繁になってきた。そこで、両国で正式に交渉して、国境を定めることになった。
 ところが、新政府には外国、それも超大国ロシアと対等に渡り合えるような外交官はいなかった。そこで、白羽の矢が立ったのが、榎本だった。五年間のヨーロッパ留学を経験し、五カ国語に通じ、国際法に関しても詳しかった。「蝦夷共和国」政府の最高責任者として、外国の領事や船長、商人などと渡り合ってきた経験もあった。樺太問題は、北海道開拓使の管轄でもあり、黒田は榎本を推薦した。
  明治七年(一八七四)一月二十三日、榎本は特命全権公使として、ロシアの首都ペテルブルグへ旅だった。榎本の権威付けとして、海軍中将の肩書きがつけられた。当時、日本海軍の最高は大佐だったから、名誉職のようなものとはいえ、かつての敵将が新政府海軍の最高位についてしまったことになる。
  ロシアで榎本は、大国に臆することなく、対等の立場でねばり強く交渉し、いわゆる「千島・樺太交換条約」の締結に成功した。ロシア皇帝アレキサンダー二世も、この結果には満足し、後に榎本に「神聖スタニスラフ第一等勲章」を与えたほどだった。(なお、現在日本が北方領土を日本領だと主張する根拠に、両国が平和裏に、対等に結んだこの条約がある。)
  榎本のロシア滞在は四年に及んだ。この間、ロシアやヨーロッパを視察し情勢を調べ、日本に報告していった。北海道開拓使へも、開拓に関する意見や、ラッコや狐の毛皮の見本を送ったりした。榎本の脳裏から、北海道が離れることはなかった。帰国に際しては、シベリアを横断して北海道に渡り、小樽、札幌、函館に寄り東京へ向かうというコースをとった。
 帰国後、榎本は官職を退き、北海道小樽に購入しておいた土地で実験農業をするつもりだったようだ。しかし、政府では、西郷隆盛が西南戦争で死に、木戸孝允が病死、大久保利通暗殺と、人材がさらに不足していた。榎本は、条約改正取調御用掛、外務大輔、海軍卿、皇居造営御用掛を歴任していった。
  この後、朝鮮半島をめぐり日清関係が悪化すると、駐清特命全権公使として北京に駐在した。そして、天津条約締結のためやってきた、全権大使の伊藤博文を手助けした。伊藤は日本初の内閣総理大臣になると、榎本を逓信大臣に選んだ。以後、薩長藩閥政府において、榎本は唯一の例外として、農商務大臣(兼任)、文部大臣、枢密顧問官、外務大臣、農商務大臣の要職を務めていった。何か困った事態が起こると、榎本がピンチヒッターとして抜擢された。
 二回目の農商務大臣だった明治三十年(一八九七)、足尾鉱毒が大問題となっていた。衆議院議員田中正造は、帝国議会において激しく政府を追及した。榎本は現職大臣としては初めて、鉱毒被害地を視察した。鉱山に詳しく、科学者ともいえる榎本のことだから、公害の原点といわれるこの問題の本質がわかったと思われる。帰京すると、ただちに鉱毒調査委員会を設置した。この委員会は足尾銅山操業停止を前提にしたもので、やがて鉱毒予防命令を出した。その代わり、榎本は農商務大臣を辞職し、それ以後、いくら求められても、二度と政府の職に就くことはなかった。
  このことを、林竹二『田中正造の生涯』では、次のように述べている。

    …足尾の鉱業主にたいして出された鉱毒予防命令である。これは榎本農相がその地位を捨てることによって、内閣を動かして、発令にこぎつけたもので、明治政府が示した唯一度の鉱毒問題解決への意志であった。田中正造は、鉱業停止以外に解決はないと信じていたが、しかし、榎本の誠意と犠牲にたいして、予防命令が出てからの成りゆきを、議会において見とどける義務を感じたに違いない。 

  しかし、榎本が職を辞してまで実現させた予防命令は骨抜きになり、予防工事をすることで、足尾銅山の操業は続けられた。予防工事にもかかわらず、鉱毒の流出も止まらなかった。殖産興業が国策で、日露戦争直前という状況から、操業停止は不可能だった。
 明治二十年(一八八七)に、榎本は子爵となった。勝海舟は伯爵となっていた。幕臣でありながら、新政府の官職に就き、爵位まで得ているこの二人を、後に福沢諭吉は『痩我慢の説』で批判した。武士の意地からすれば、二君に仕えることは痩我慢の精神を知らないからだという。榎本に関しては、箱館戦争までは、幕臣として痩我慢を貫いたものとして評価しているが、その後がだめだとしている。
  しかし、榎本の生涯をみた場合、明治政府において成した業績のほうが群を抜いている。賊将であったという経歴から、薩長藩閥政内ではあまり評価されていないが、明治維新の実務面での中心人物であったことは間違いない。この点で榎本は、武士、軍人というより、テクノクラート(技術官僚)とみたほうがよいだろう。
  また、明治三十年の退官後も、榎本はいろいろな会の会長を務めたが、特に葵会、徳川育英会、日光保晃会など旧徳川関係の会の運営には力をつくした。そして、幕臣や箱館戦争に参加した人たちのその後を案じ、その世話をし、私財を投げ出していった。
  明治三十一年(一八九八)、徳川慶喜が初めて参内して、明治天皇、皇后に拝謁した。これで旧幕府と天皇の和解が成立し、慶喜の朝敵の汚名も消えたという。その背後には、勝や榎本の奔走があった。彼らが明治政府の高官として務めたからこそ、できたといわれている。

 

  最後に
  榎本武揚は、「幕末・明治二度輝いた男」、「二君に仕えた奇跡の人材」などと称される。たしかに幕末から箱館戦争に至るまでの行動は劇的で、このときの榎本武揚のほうが有名である。しかし本当に光り輝いたのは、迫り来る欧米列国に対し、産業振興による国力向上によって対抗しようと活躍した明治以降の方だと思う。
  その分岐点となったのが、年半の獄中生活だったのはいうまでもない。獄中で、武士・軍人としての榎本は死んだといえる。箱館戦争までで、武士としてやるべきことは終了していた。自分の命と引き替えに、多くの部下の命を助けることができた。あとは死刑になるのを静かに待つだけだった。
  ところが獄中において、科学者・技術者としての榎本が成長していた。北海道開拓という見果てぬ夢のために、獄中にもかかわらず、猛烈な勢いで著述、研究、人材育成を始めた。命は惜しくないが、自分の才能は惜しかった。それをどんどん伝えたかった。
 佐々木克氏は『現代視点 戦国・幕末の群像 榎本武揚』で、獄中の榎本武揚に挫折感がみられないことについて、次のように述べている。

 人間のタイプに、自らの行動の結果負うことになった精神的負債に関して、精算型のタイプと累積型タイプがあるとすれば、榎本は明らかに精算型の人間である。獄中での榎本の明るさは、すでに負債を精算しようとしていることによると思う。(中略)政治的生命が、箱館戦争で終わったとするならば、彼は科学・実学の分野に、新たな自己の存在理由を見出すのである。 

  榎本が産業振興で助けようとした対象は、当初の失業した幕臣だけでなく、牢獄での囚人のように生活の当てのない者たち、さらにまだ貧しい日本そのものへと広がっていった。明治維新の目標である富国強兵、殖産興業を実現するためには、榎本のような人材がなくてはならなかった。時代が榎本の命を助け、日本のために活躍するための道を開いていったのだと思う。

 引用・参考文献

○加茂儀一『榎本武揚』中央公論社 昭和三十五年

○安部公房『榎本武揚』中公文庫 昭和四十八年

○満坂太郎『榎本武揚ー幕末・明治、二度輝いた男ー』PHP文庫 平成九年

○山本厚子『時代を疾走した国際人・榎本武揚』信山社 平成九年         

○童門冬二『小説榎本武揚ー二君に仕えた奇跡の人材ー』祥伝社 平成九年

○赤城駿介ら十二名『現代視点 戦国・幕末の群像 榎本武揚』旺文社    一九八三年