ガンとして生きる   明日死んでもよし 百まで生きてもよし

    関根徳男 著   慶應義塾大学出版会 制作・販売  

本文抜粋
 


まえがき 

 現在、癌や難病との闘病記が多く出版されている。本だけでなく映画やテレビドラマなどもあふれているが、私はこの種のテーマには触れないようにしてきた。もし見たとしても、あまり感情移入しないようにした。妻がテレビドラマを見て涙ぐんでいる時など、「自分の夫が癌だというのに、余所事で泣いてるんじゃない」と怒鳴ってしまったこともある。 私も二回ほど癌の手術をしていた。幸い今のところ再発していないが、慢性的な心身の疲労から、ストレスを増大させそうな闘病記に触れることはあえて避けてきた。

 今年の三月の初め。元プロウインドサーファーで、癌と闘病中だった人が療養先のハワイで亡くなったとニュースになっていた。数日間、テレビや新聞でその話題が続いていた。
三十八歳の若さ。前年、一冊書いた小説がベストセラーとなったこと。テレビのノンフィクション番組で、闘病の様子が伝えられ大好評だった。そして、死の前まで、インターネットを通じて、エッセイを連載していたということだった。
 あるテレビのニュース番組の特集でもやっているのを何気なく見ていたとき、「今はもう家族と読者のためだけに生きよう」と決心したというナレーションがあった。(メモをしておいたわけでないので正確な言葉で記載できないが、このような意味だったと思う)
 人生の最期において「家族のためにだけ」というのは分かる。しかし、プロの作家ではないのに「読者のため」が加わるのは、どういうことだろうかと興味を持った。
 そこで彼、飯島夏樹氏のことをインターネットで調べた。そして、ネット上で連載されたエッセイが緊急出版されることを知り、私も読者の一人になろうと予約した。他人の解説や評価より、本人の書に触れることが第一である。
 三月二十一日、予約していた『ガンに生かされて』と『天国で君に逢えたら』(小説)が宅配で届いた。しかし、すぐに読み始める余裕がなかった。

 翌日の三月二十二日、私は休職に入った。心身の疲労が限界にきており、中学校の教師というハードな職務を、責任もってやり遂げられる状態でないと判断した。精神的な要素が強いと思うが、癌再発の危機感もいだいていた。そこで、ドクターストップがかかり、しばらく自宅で静養しながら通院し、投薬治療することになった。このような状況の中、二冊の本をじっくり時間をかけて読んでいった。
 そこで、「執筆療法」という言葉に出会い、衝撃を感じた。
「今は何もアクティブなことはできなくなったけれど、執筆活動だけは許されている」と飯島氏は述べている。「療法」といっても、執筆で癌を治療するという意味ではないと思う。最後に残された活動が執筆であり、そのためにまだ生かされている。だから執筆を天職と感じ、読んでくれる人のために生きる。テレビで聞いた言葉は、そのような意味だったのだろうと思った。
 亡くなる五日前に書かれた『ガンに生かされて』のあとがきには、「僕が勇気付けられるのは、この本に込めた思いが、人から人へと、まるで渓流の美しい水が流れるように伝わっていくことです」とあった。
 既に二回癌になり、それでもまだ「生かされている」私に、彼の強い思いが伝わってきた。そして、自分自身も何か行動を起こさなければならないとの、使命感とも思える感情がわき起こった。
 
 私はここ十数年間、半分は道楽として、半分は教師の仕事の延長として、執筆活動を行い、自費出版もしてきた。しかし、癌に関しては、あえて著述を避けてきた。直視する勇気がなかった。四ヶ月間に及ぶ長期入院中も、一日も欠かさず日記を付けていたが、それも封印していた。
 まずはその日記を読み返そうと、今は使用していないノートパソコンのハードディスク内に眠っていた「入院日記」を取り出し、プリンターで印刷した。
 六年前の日記を読んでみて、あの大変だった日々の思いが蘇ってきた。そして、家族や医療関係者、知人たちなど、多くの人たちに支えられてきたこと。縁あって同じ病室に入り、入院生活を共にした患者の人たちとの想い出。そして、亡くなっていった多くの方々の無念。
 死ぬのに天命があるように、生き残ったのにも天命がある。生き残った私にも、やらなければならない天命がある。ますます増える癌。それと闘っている患者自身や、家族、近親者の人たちに、いくらかでも参考になり、勇気をもってもらえるような体験記を著そうと考えた。それが、あらためて、私にも勇気を与えてくれると思う。
 これが私の「執筆療法」となるだろう。


第三部
  社会復帰後  癌と共生し再発を防ぐために

      * ここからが本当の癌との勝負 *



1 自分が主治医   

 末期癌で確実に死に向かっている人は、その日に向けて最後の思いを遂げようと必死になっている。ドラマにあるように、カレンダーに○をつけながら…。そして、最期を迎える。お気の毒であるが本人はそれで終われる。
 天国は「苦痛もない、いい所」(『ガンに生かされて』より)だと家族も思う。そういっても諦めきれるわけではないが、やがて時間が解決してくれる。
 しかし、一旦は治ったとされながらも癌の再発と闘う人には、そのスケジュールが読めない。すぐかも知れないし、一年後、三年後…かもしれない。できれば、このまま再発しないでほしいが、その保証は全くない。いつ起こるかも知れない事態を待つ時間の長さが、拷問のようになってくる。この心理的ストレスがしばしば襲いかかる。(パニック発作の中には、いわゆる「癌ノイローゼ」が多くある。)
 入院中はそれなりに大変だったが、基本的なスケジュールは病院(医師)サイドに任せてきた。多くのスタッフがいた。自分はそれに従い、治療の苦痛と闘えばよかった。
 退院後は、定期検診のための通院はあるが、再発防止のための主体は自分に移る。自分自身が主治医となる。

私は二回癌になってしまった。一回目は手術だけで、抗癌剤などの予防処置はとらないで、経過を観察することになった。転移の可能性を主治医に聞くと、極めて低く十パーセント程度だと言われた。だから、副作用のある抗癌剤や放射線治療などは、あえてやらない方が良いだろうという。もっともなことであり、これで退院できるのならと同意した。
 しかし、リンパに転移し再発した。ただ、医師の判断ミスだとは思わない。インターネットで調べた限り、あれから八年経った現在の医学知識でも、妥当な判断と思える。再発率は五パーセントとなっていた。このような低い確率なのに再発したのは、私自身の問題が大きいとして、反省しなければならない。何しろ、退院後一日休んだだけで、職場に戻り、同じように仕事を続けていたのだから。
 二回目の入院に関しては、本著で詳しく述べた通りである。そして、六年経った現在でも生きている。一般の社会復帰しただけでなく、元の教師の仕事にも戻れた。この点では幸いであり、成功例の一つと言えるかも知れない。ただし、毎日心身共に健全に生きているかと言えば、むしろ逆であろう。仕事上も無理ができなくなり、二度ほど長期の休みをとった。心理的にも不安定なことが多い。
癌で亡くなった人の闘病記ほどではないが、「生き残った」人の闘病記もみかける。それらから多くの教訓が得られる。
 死ぬのに天命があるように、生き残ったのにも天命がある。やるべきことがある。
 
 退院後の闘病とは病気と闘うのでなく、再発する危険性のある環境や精神状態との闘いである。または、癌という身でも、出来ること(仕事)との闘いである。
 第三部では、生き残った者が癌と共生しながら、社会生活を送っていくための提言を私なりにしていきたい。

2 癌になった原因は?
                
 
「私が癌になった原因は何ですか」と主治医に尋ねたが、「それは分かりません」との答えだった。コールタールやタバコ、放射性物質など、科学的に発癌性の証明されているものはあるが、それら以外で直接の原因が断定できる場合は少ない。現在では、死亡原因の第一位が癌であり、極めて多くの患者がいるのに、ほとんどの癌患者の原因は、不明となるのではないか。
 癌が発見された場合、原因の究明でなく、治療することに力が注がれる。しかし、再発を防ぐ段階になったら、その原因を自分なりに考えてみる必要がある。
 癌になった人は、その前に強度のストレスを経験している場合が多いと言われている。私も癌という立場上(?)、患者と身の上話をする機会がかなりあったが、たしかに「強度のストレス」があったとよく聞かされた。
・子供が事故で急死してしまった。
・早期退職し、退職金で事業を興したが失敗した。
・癌の奥さんの世話をし、見送った後、本人も癌になっていた。

 キューブラ・ロス医師著『死ぬ瞬間』は、末期癌患者へのインタビュー内容を綴った有名な本で、いろいろな闘病記でも引用されている。『死ぬ瞬間』でも、特に家庭内で大きな問題を抱えていたことが、患者によって告白されている。
 ちょうど第三部執筆に入ったころ、書籍売り上げ1位になっていた『ワルの知恵本・マジメすぎるあなたに贈る世渡りの極意』(門昌央)を読んだ。そこには、絶対許せない相手を精神的に追い込んで、病気(うつ、癌など)にしていまえというのがあった。癌の発生原因は、「精神的につらい状況に追い込まれると、ガンを抑制する遺伝子がオフになるか、発ガンに働く遺伝子がオンになると、ガンが発生する」という。(同書がそれを薦めているというより、自分を守るための反面教師とせよと考えるべきだろう。)

 ストレスには極めて広い意味があるが、現代社会は様々なストレスが増大している。そして癌も、患者数、死亡数が増加し、第一位になっている。極めて大ざっぱな言い方だが、「ストレスが癌を発生させている」というのは間違いない。

 さて、私の場合の原因だが、当然、心身のストレスは十分自覚していた。最初は民間企業の技術者をしていたが、三十六歳で公立中学校の社会科教師として転職した。民間と公務員、理系と文系、モノ(製品)相手と人間相手と、一八〇度の転身で、ストレスどころかカルチャーショックだった。身体的にも、二十歳前半の初任者と同じ事をするのできつかった。それでも徐々に慣れていったが、五年後の四十一歳の時にJ中学校から、M中学校へ定期異動した。そして、二年後の四十三歳で最初の癌になった。いきなり発癌するわけではないから、異動時期あたりに癌の芽がでていたことになる。
 年齢的に環境変化への適応力が低下していたのかもしれない。あるいは、それ以前からの心身のストレスの蓄積が、ボディブローのように効いていて、異動を機に耐えられなくなってきたのかもしれない。
 また、もう一つ暗示的なことがある。癌になり始めたと予想する四十一歳は、私の祖父が亡くなった年齢で、癌が発見され手術した四十三歳は、父が亡くなった年齢だった。実はこの二つの年齢は、私の頭の中にずっとあった。自分も短命ではないかという思いがあったので、就職と同時に生命保険に入り、子供が生まれるたびに学資保険に入った。
 癌には遺伝的要素があり、DNAの中に組み込まれているという説もある。祖父も父も癌ではなかったと思うが、癌の多い家系であることは確かだ。実際に私の遺伝子の中に、四十歳代前半に癌(病気)になるというプログラムがあったのか。あるいは、単に祖父と父の死亡年齢から、そういう暗示を受けていただけなのか分からない。どちらにしても、時限爆弾のように、年齢の中に組み込まれていたストレスの一つだったのは間違いない。

 原因が分かれば、その反対側に解決策がある場合もある。しかし、家族や愛する人との別れ(死)や、事業の失敗など、癌を誘発したストレスの原因が分かったからといって、解決できないこともある。

 問題解決の段階には、次の三点があるという。
@ 原因をさぐり、分析する段階
A ダメージ状況を把握する段階
B 解決策を考え、早急に実行する段階

 当然@の原因を探ることは大切だが、既に癌になっているわけだ。いつまでもダラダラ分析しているより、早急にBの実行の段階にもっていかなければならない。何しろ、「命がかかっているのですから」

 また、私の場合にもどるが、年齢的なこだわりが原因の一つになっていたのは間違いない。しかし、癌にはなったがそれはクリアした。なぜなら、五十歳を過ぎた今でも生きているから、呪縛は解けたことになる。そう考えれば楽になる。
 Aのダメージに関しても、心身的にかなりきついが、社会生活を営むことはできているし、職も失っていない。
 以後、私なりに感じているストレスとなる原因に対して、Bの解決策を考えていきたい。


3「頑張らないでください」という励まし:全力休養

 平成十六年度、私は九年間いたM中学校から、N中学校へ異動した。
 新聞に異動リストが載った朝、職員室に飛びこんできて「何で行っちゃうんですか。校長先生にかけ合います」と言ってくれた生徒がいた。
 離任式で、見送られて体育館を出るとき、身体を硬直させ、床にボロボロ涙をこぼしていた生徒もいた。彼は休み時間に職員室によくやって来て、私の首や肩を揉んでくれた。教師が生徒に肩など揉ませていたら、本来なら問題になるだろうが、みんな私の身体(健康状態)を知っていたので、大目に見てくれていたようだ。また、彼は寡黙で、休み時間など教室に居場所がなかった。職員室で、私とぽつりぽつり話しながら、肩を揉むことが彼の自己存在感を満たしているようだった。
 九年間在籍したM中学校だったが、二回癌になり、長期の入院や休職の繰り返しでみんなに迷惑をかけてしまった。だから、それを取り戻そうと必死になった。特に、最後の二年間は、社会科の教師でありながら、以前の技術者としてのキャリアを生かして、コンピュータ教育の方へ手を広げたりもした。
 送別会で先生方にもらった色紙のメッセージには、「N中学校に行っても頑張らないでください」とあった。「頑張らない」という励ましは、私の健康への気づかいと同時に、最大の賛辞だと思った。
 あくまでも自分の健康状態の範囲内でだが、とにかく頑張ったという自信はある。しかし、頑張り過ぎて癌が再発したり、他の病気で倒れてしまってはしょうがない。
 そこで、第一部・入院日記の五月十三日にあった「全力疾走」を思い出した。

 どんな事も全力疾走でやってしまう人物がいる。緩急をつけることができない。仕事も他人より早く終了するから、次の仕事がすぐ来てしまう。しかし、一回の疲労度は大きい。やがて倒れる。全力疾走する者は、「全力休養」もしなければならない。

 また、今年になってある人に次のような話をされた。
 「スポーツカーのエンジンは、時速一五〇キロくらいで走ると一番性能がよいように設計されている。それが、渋滞している一般道路をノロノロ走っていると、エンジンが焼けて故障してしまうことがある。それなら、高速走行しないときは車庫にでも入れておいた方がいい。関根さんはスポーツカーのようなものだから、のんびり仕事をしていたらかえってストレスが溜まるでしょうね」

 私の場合、頑張り過ぎは慎まなければならないが、頑張らないわけにはいかない。中途半端にはできない性格だ。病気になっても、この性格はどうも直らないようだ。目の前にやるべき事があるなら「全力疾走」する。その代わり「全力休養」することを心がければいい。
 そのときストレスとなっているものから、一時的にでも完全に解放される「全力休養」のノウハウを身につけることが私の課題だと思う。
 やるべきときは頑張って、実績を積み上げていけば、自信を持って、やがてくる「完全休養」を安らかに迎えることができる。


4「自分は癌だ」と開き直る:共生する

 
全員が癌患者の病室で、「自分は癌なんです」と告白した人がいた。(入院日記)
 以前なら癌は不治の病で、本人にどう告知するかが大問題だった。ましてや、本人が癌だと他人に告白することは、大変勇気のいることだったと思う。しかし、今では、患者の増加、生存率の向上、インフォームド・コンセプトの定着もあってあまりタブーではなくなった。
 だから、大学病院で「自分は癌なんです」と言われたときも、「みんな癌ですよ」とあっさり答えてしまった。今となっては、同じ患者とはいえ、もう少し思いやりのある言葉をかけるべきだったと後ろめたい思いがある。
 また、数年前温泉に入っていたとき、私と同じくらいの年齢の人が近づいてきて、「すごい手術の跡ですね。どうしました」と聞いてきた。「腹部を開けて、背骨付近のリンパの腫瘍をとったんですよ」と説明すると、その人は、「私は腎臓癌で、二週間前に手術をしたばかりです」と横腹の生々しい傷を見せてくれた。
 そうか、癌は治っても、傷は一生残るのだなと改めて感じた。療養を兼ねた温泉だったので、傷のことなどあまり気にしなかったが、言われてみればかなり目立っていたようだ。相手の人も、同じ境遇だったので遠慮なく声をかけられたのだろう。
 
 手術の傷は一生ものだが、「癌患者」という立場はいつまで続くのだろうか。入院中は間違いなく「癌患者」だろう。退院しても、定期的に投薬治療している間も患者と言ってもいい。では、転移がないか確認するため、定期検診する段階に入ったらどうなのか。
 手術や治療後、五年間の生存率を示すグラフがある。五年生存率の高低が、癌の種類ごとの怖さのバロメータのようにみられている。五年間再発しなければ、ほぼ完治したとみなし、完治宣言する場合もある。しかし、確率が減ったというだけで、それ以後だって再発することはある。十年後に出たという例も聞いた。
 現代では、癌は最もかかりやすい病気だと言える。まして、一回でも癌になった人は「癌体質」だから、普通の人より再度なる可能性は高い。ある医師は、二倍だと思っていた方がよいでしょうと言った。
 よって、医学的定義はいざ知らず、一回でも癌になった人は、精神的には一生「癌患者」だと思って用心したほうがいい。完治したと無理をしないためにも、そう思いこむべきだ。
 また、「自分は癌なんです」と他人に宣言することも必要だ。悪気がなくとも知らないが故に、無理難題を言ってくる人だっている。つい頑張り過ぎてしまう自分を、他人にストップかけてもらえる効果もある。
 時には、「もう駄目です」と弱音を吐くことも必要かも知れない。体中のだるさ、痛みに悩まされ整体にかかっていたとき、先生から、「一度大きな手術をした人は、肉体的には十歳年をとったと考えた方がいいですよ」と忠告された。一回目の手術は比較的簡単に終わったので、半分として五歳。二回目は腹部を十八針も縫う大きなもので、全細胞にダメージを与える抗癌剤もやっているので十歳分とする。合計十五歳となり、身体的には六十五歳を越え高齢者の領域に入ってしまう。「ハウルの動く城」ではないが、魔女に魔法をかけられ老人になってしまったようだ。当然、そこまで肉体は衰えていないが、つい無理をしてしまう自分自身への戒めとしたい。

 一度でも癌になってしまったら、精神的には一生の付き合いとなる。もはや闘う相手というより、共に生きていく自分の一部と考えたほうがよい。だから闘病というより、「共生」と呼びたい。
    


5 その後の「執筆療法」

 
飯島夏樹氏は末期癌で、わずかに残された体力でできる活動(仕事)として、執筆療法に出会った。
 私は癌になる以前から、素人レベルながら執筆活動を行っており、自費出版もしていた。
長期入院においても日記の執筆を続け、後半はテーマを決めて著作活動も行った。左手に抗癌剤の点滴を行い、右手でノートパソコンのキーをたたいた。好きな執筆活動をやっていたから、つらい抗癌剤治療も、たいくつな入院生活にも耐えられた。
 その時はあまり意識してなかったが、執筆は精神的面での治療だった。退院後は自宅静養に入ったが、二件の著作を継続し、最終的に自費出版にまでこぎ着けた。
 それらの「序文」や「あとがき」に、闘病生活と執筆の意義を示してあるのでここに記載する。 

  『偉人たちの獄中記』 序文  より
     
  ー 閉塞状況の中で、犬死しないために ー                   平成十一年、私は四ヶ月の入院と四ヶ月の自宅静養の日々を過ごすことになった。外科手術と、その後の投薬治療による肉体的苦痛もさることながら、長期にわたる家族や世間、仕事との隔離による精神的な苦痛は相当なものであった。そして、何よりもつらいのが退屈さとの闘いであった。
入院中、多くの患者を見てきた。いつもくよくよ考えてばかりいて、「自分は死んでしまうんだ」と言いまくっている人。治療や看護に不平不満ばかり言っている人。多くの管に繋がれ、数週間食事もとれないのに、いつも静かに読書している人。薬の副作用で頭髪はすっかりなくなり、点滴のスタンドを持ち歩いているのに、ベットから起きられない患者をまわり、元気付けている人…。 これらの違いは、病状やその人の年齢や立場、あるいは性格にもよるであろうが、「どのように入院生活と共存していくか(闘うか)」という本人の意志からも生じているのではないかと思った。
 そこで、書籍や雑誌で、私的な闘病記をいろいろ読んでみた。さらに、過去の歴史の中から、もっと大きな指針は得られないかと考えた。そして、やや飛躍するが、その闘い方のヒントとなるのが、牢獄での生活ではないかと思い至った。
病院と牢獄、そこに入る理由や待遇では全然違うかもしれない。しかし、外の世界と隔てられ、身体的自由がない点では共通している。死への不安や、いつまで続くかわからない将来への不安や絶望がある点でも共通している。
歴史的に大きなことを成した、いわゆる偉人の中には、牢獄を経験した人が多くいる。過酷な獄中生活を生き抜き、絶望とも思える日々を前向きに生き、何かをつかみ取ったからこそ、その後の活躍があったと思える例が多々ある。
私は入院に際し相当量の本を病室に持ち込んだ。中でも多かったのが、歴史物、伝記物だった。ほとんどの本は既に一度は読んだものだったが、今回は特に、歴史的人物が牢獄や謹慎中をどう乗り切ったかに着目して再読した。そして、偉人たちの大成の基盤には、獄中での悟り、知識の吸収、他人への感謝、思いやり等の精神的エネルギーの蓄積があったことを再認識した。
ここでは、四人の人物を選び、牢獄の中での生活(闘い)ぶりと、その後の活躍にどう影響していったかを整理して、閉塞した環境での生き方への指針を見つけていきたい。
    (平成十二年一月)


  『甦る学校・2010年学校改革』あとがき より

 町立優徒中学校は仮想の学校で、私が長期入院中に描いた私的な夢物語です。
 平成十一年の四月から四ヵ月間にわたり、私は手術、投薬治療のために入院することになりました。二年前にかかった病気の再発でした。
 今回は長期になるし、精神的ストレスを軽減するためにも、仕事(中学校教師)のことはすっかり忘れるようにと周囲から忠告されました。私もそのつもりでしたが、テレビや新聞で学校問題に関するニュースを見てしまうと、どうしても気になりました。学校のことを頭の中から振り払おうとすればするほど、いろいろな思いが浮かんできてしまうのでした。考えまいとすることのほうがストレスとなっていきました。
 そこで、反対に学校の改革について、考えられるだけ考え抜いて、まとまった文章にしてみようと思いました。学校に関する問題点を指摘することは容易です。しかし、それだけでは何の解決にもなりません。みんなが改善にむけて悩んでいるときに、当事者の一員でもある私が、離れたところから何か言うのは無責任なようにも感じました。それならば、いっそのこと十年後にタイムスリップして、そこに理想とする学校像を描いてみようと考えました。
 そのヒントになったのが、トマス・モアの『ユートピア』でした。トマス・モアは現状への批判の代わりに、理想とする国(政体)であるユートピアを描きました。私も現状から一旦離れて、理想とする学校像を優徒中学校の中に描くことにしました。日頃、教師仲間と話し合っていた夢のようなことも思いだし、有り余る時間の中で学校改革のアイデアを出していきました。改革は学校内にとどまらず、私が興味をもち始めていた「町おこし」とも関連付けていきました。
本書の原型は入院中にほぼ出来上がっていました。それを、退院後の自宅静養期間に手直しましたが、直していくとだんだん現実に近づいてきて、当初の斬新さが失われていくようでした。そこで、たとえ辻褄の合わないところがあっても、入院中考えた荒削りのアイデアのままのほうがよいと考え、思い切って早期出版に踏み切りました。病気から復帰した私の「生きている証」としたい思いもありました。 (平成十一年十一月)


 その後復職してからも、執筆活動は続けている。中には、作家に自殺が多いことを例にあげ、精神的ストレスが大きいからほどほどにしたほうがよいと忠告してくれる人もいる。
確かに精神的に疲れることも多いが、アマチュアなのでノルマはない。不調ならやめておけばよい。
 ただ、この先、病気の状況はどうなるか分からないが、自分の思いを著作物として残しておきたいとの強い願いがある。そのためか、アイデアがどんどん湧いてくるようになった。癌だからという思いが、何か偉大なことをやってしまう原動力になることがある。通常、一生かかっても中々できないようなことを、極めて短期間に成し遂げてしまう。手塚治虫がそうだったように。

 世の中には事故や心臓の疾患などで一瞬のうちに命を失ってしまう人がいる。本人にとっては、死への恐怖がほとんどないまま死んでしまうのだから、癌患者に比べればその点では幸いかもしれない。しかし、近親者はたまったのもでない。私も弟が十六歳のとき交通事故で亡くなっている。この世でやりたいことが多くあっただろうし、せめて何か自分の思いを伝えていきたかったに違いない。しかし、何も言うことができないまま逝ってしまった。さぞ無念だったと思う。
 それに比べれば、癌患者は命に時間的余裕がある。優先順位をつけ、その時のコンディションに応じて片づけていくこともできる。自分の思いを伝えることもできる。私も何かにつけ家族や友人、生徒たちに話すようにしている。さらに、自分の生きた証を半永久的に残すために、最終的には執筆したものを自費出版して、国立国会図書館に登録し、関係者に配布することにした。
 私にとって執筆活動は、癌と共生していく上で大きな支えになっている。「療法」を超越して生き甲斐と言ってもよい。たとえ身体が衰弱しても、指が動く限り執筆は出来る。それがだめでも、口が動けば口実筆記というかたちで執筆が出来る。(婦人運動の先駆者・平塚雷鳥は胆のう癌だったが、八十五歳にもかかわらず病院のベッドに正座し、自伝を口実筆記していたという)
 人生の最期までやれる事があるという安心感が、病気に対するストレスを緩和してくれると思う。


6 ストレスの反対:「癒し」を求める  

 癌の主な原因はストレスである。ストレスの反対に、「癒し」がある。だから「癒し」を求めることで、癌の対策になる。
 あまりに単純な論法であるが、一理あると思う。世の中にはストレスの原因があふれているように、「癒し」の方法もあふれてきており、ビジネスにもなっている。
 ストレスとなっている要因を完全に解消することは難しいが、「癒し」によって一時的にでも緩和し、ストレスの蓄積を防ぎ、最悪の事態を回避することはできる。 「癒し」の必要性は言うまでもないし、誰もが自分なりにいくつかの方法をもっていると思う。ここでは、「癒し」の方法をいろいろ列挙するのでなく、一つにしぼって考えていきたい。
 それは、人間である。ストレスの中で最も多いのが対人関係だと思う。同時に、「癒し」も対人関係の中から生まれてくるものが最良ではないかと考える。
 雑誌「サライ」に夏目漱石特集が載っていた。いろいろ語られていた漱石像の中で、門下生・寺田寅彦が述べたものに興味を引かれた部分があったので原典にもあたってみた。
 『吾輩は猫である』に登場する水島寒月君のモデルである寺田寅彦(物理学者、随筆家)は、『夏目漱石先生の追憶』で漱石のことを次のように述べている。

 いろいろな不幸のために心が重くなったときに、先生に会って話をしていると心の重荷がいつのまにか軽くなっていた。不平や煩悶(はんもん)のために心の暗くなった時に先生と相対していると、そういう心の黒雲がきれいに吹き払われ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことができた。先生というものの存在そのものが心の糧(かて)となり医薬となるのであった。こういう不思議な影響は先生の中のどういうところから流れ出すのであったか、それを分析しうるほどに先生を客観する事は問題であり、またしようとは思わない。花下の細道をたどって先生の門下に集まった多くの若い人々の心はおそらく皆自分と同じようなものであったろうと思われる。
(寺田寅彦『夏目漱石先生の追憶』より)
 夏目漱石というと、気むずかしく癇癪もちというイメージが強いが、弟子たちには不思議な魅力をもった人物だったようだ。漱石の存在そのものが「心の糧」「医薬」のようだという。それを「不思議な影響」というが、理由を分析しようとは思わないとしている。理由は分からないが、不思議な影響に惹かれ、みんなが夏目家に集まってきた。その様子が『吾輩は猫である』にも描かれている。
 寺田寅彦でさえ分析しなかった「不思議な影響」こそ、現在でいう「癒し」だと思う。

 さて、私の場合、病院を抜け出しては友人の喫茶店・珈琲音へ行っていたことは、「入院日記」や第二部にも記した通りである。もちろん退院後の静養期間も、現在でも、体調の許すかぎり優先的に行っている。
 マスターもどちらかといえば漱石タイプで、気むずかしく癇癪もちの面がある。時にはスタッフを怒鳴ったり、他人に迷惑をかけるような客は出入り禁止にしたりしている。
それでも客は集まってくる。特に「いろいろな不幸のために心が重くなったとき」は行きたくなる。そして、マスターや奥さん、店のスタッフの人たちと接していると、気分が晴れていく。もちろん、店自体の雰囲気や、マスターが絶対的な自信をもっているコーヒーの味にもよるだろうが、やはり人的要素が大きい。「癒し」の本質は、人間の中にある。
 私は以前より、『吾輩は猫である』に描かれている夏目家での集まりと、珈琲音に集う多種多様な人々の言動の中に、似た雰囲気があるような気がしていた。そこで、「珈琲音の人々」とか「珈琲音夜話 ○○研究会」といったタイトルでの執筆を企画していた。(未完のままであるが。)両者には同じような一種独特の「癒し」がある。
 ただ、ここでいう「癒し」は、なぐさめや、自己弁護や愚痴をじっと聞いてもらうといった柔いものではない。夏目漱石は門下生が抱える問題に対し、解決への糸口を示し、猛烈に叱咤激励したに違いない。だから「心の黒雲がきれいに吹き払われ」ていったのだろう。
 マスターと私のに間も、当たり障りのない社交的な内容でなく、前向きな本質的な会話が多い。問題解決に向けて真剣に話せるので、その安心感が「癒し」になっていると思う。最近は、五十歳を越えたこともあり、それぞれの立場において全国制覇する夢(大ボラ)を語って、気力を高めたりもしている。
 家族による「癒し」は最重要だが、師弟関係や友人関係における緊張感を伴った「癒し」も必要だと思う。



7 自然治癒力

 「百ます計算」などでおなじみの陰山英男氏は、学力を伸ばす三要素を次のように言っている。(テレビの討論番組で)
@ テレビやゲームの時間を少なくする
A その分、睡眠時間を増やす
B 三度の食事を必ずとる
どれも基本的生活習慣として、当たり前のことである。もちろん、このような生活習慣の上で勉強をすることで、学力が伸びるというという意味だ。逆を言えば、これらが出来てなければ勉強しても効果が少ないとなる。

 このような考え方を癌再発防止のための基本的生活に当てはめると次のようになる。
@ 情報に振り回されない
A 睡眠を十分とる
B できれば地元産の食材を中心に、三度の食事を必ずとる

 これらは人間が本来もっている自然治癒力の基本になることだと思う。ケガの傷が自然になくなり、ちょっとした風邪や腹痛が安静にしているだけで治ってしまうように、自然治癒力があることは疑いのないことである。その力を維持し、あるいは増強することによって病気を治したり、再発を防ぐことができる。逆にいえば、自然治癒力(免疫力)が落ちた場合、発病する危険性が増すことになる。
 自然治癒力の観点から、先に述べた癌再発防止の三要素について考えていきたい。

@ 情報に振り回されない
 医療機関での治療が一段落し退院すると、自然治癒力を高めるという民間療法を薦める人が押し寄せる。宗教をはじめとする精神療法、運動療法、食品による栄養療法など様々である。善意であっても、応対に時間をとられてしまう。見本を渡されたら、一応は食べてみることになる。人からだけでなく、テレビや雑誌にも情報があふれており、つい気になって見てしまう。その情報の洪水に頭は混乱し、心身のストレスが増えていく。
 もちろん、人によっては極めて効果が大きく、それによって助かったという療法もあるだろう。中には、効果がないことが立証され、詐欺として告訴されたものもある。(それでも効いたという人もいるから不思議だ。)
 私は、情報は情報として集めることにしている。他人からのアドバイスも、患者だった人のものは尊重したい。自ら患い、悩み、試し、そして治ったと実感できる体験は貴重である。たとえ私としては納得できないものでも、否定することはしない。一方、体験者も他人には無理強いしないものだ。様々な苦労から、治療法は人それぞれ違うことを知っているからだと思う。むしろ、当事者でなく、聞きかじりの知識でアドバイスしてくる人の方が、悩まされる場合が多い。
 情報は集めるが、それに振り回されない。自分の納得したものだけを頑固に守ることにしている。納得するまでは、かなりお金と時間をかけ、自分の身体を実験台にして確かめた。そして、たどり着いたのは、極めて自然で、シンプルで、お金のかからないことばかりだった。(具体的には、次のBで述べる)

A 睡眠を十分とる
 人間(生物)は、心身を休め疲れをとるために睡眠をとる。睡眠こそ、自然治癒力の根源である。睡眠時間が減ったとき、あるいは眠れない日が続いたとき、病気になりやすくなる。
 趣味や娯楽で夜更かしするのは厳禁だ。ストレス発散のためという名目であっても、睡眠の重要性と天秤にかけたら、やはり厳禁である。仕事であっても、「頑張り過ぎない」の前提に立ち、仕事を選び短時間に集中してやって、睡眠は確保するべきだ。最近、企業戦略などでも言われている「選択と集中」を、癌患者は個人レベルで実行する必要がある。
 ここで、問題になるのは、寝床についても眠れないという場合だ。眠れなくても、何もせず横になっているのだから、疲れが取れていいのではないかと言う人もいる。実際はそのような生やさしいことではない。眠れないとき、頭の中にはいろいろな考え、特に不安なことが次々と浮かんでいる。その緊張感から、筋肉が硬直し、朝起きたときが一番疲労を感じるようになってしまう。
 私も、長年不眠症に悩まされてきた。結局は、専門医の処方した薬を飲んで、熟睡できるようになった。自然治癒力と医師の薬、矛盾しているようだが、睡眠という根源的なものを手に入れるため、一定期間は薬に頼るのも一つの方法だと割り切った。

B できれば地元産の食材を中心に、三度の食事を必ずとる
 「水が合わない」ということがある。遠隔地に行ったとき、現地の人には何でもない水でも、合わないと下痢をしたり、病気になったりする。生まれ故郷の水が、身体には一番合っている。同じように、「土が合う」という考えがある。生まれ故郷や長年の生活地の土で作られたものが、その人には一番いい食物だということになる。自然食の効用を説く人から、この話を聞いたとき、ものすごく納得がいった。
 私は田舎に住んでいるが、地元農家が作った野菜の直売所が近くにある。取れたてを運んでくるし、すぐ近くなので輸送コストもかからず、価格的にも安い。米も知り合いの地元農家から直接購入している。今では自分でも、家の庭と妻の実家の畑の一部で、旬の野菜を作るようになった。
 最近は年齢のせいもあり、肉や油こいものは我慢できるようになってきた。地元産の食材(野菜)を中心に、簡素ながら三度の食事を必ずとるということを基本にしている。
 身体(癌)によいと言われる高価な健康食品も試したこともあるが、現在はやめている。唯一続けているのが、人参ジュースである。人参ジュースは、一回目の手術の後、母がどこかで調べてきて、以後八年間、毎朝欠かさずジューサーで作ってくれている。このこと自体からも自然治癒力が湧いてくる。
もう一つこだわっているのが水である。これは抗癌剤治療の時、気が付いた。抗癌剤は薬であると同時に、毒でもある。癌細胞を殺すだけでなく、正常な細胞にも作用する。骨髄や頭髪などにも影響して、副作用が強い。いつまでも体内に留めておかず、できるだけ早く体外に出す必要がある。そのため、抗癌剤を点滴している時は、大量の生理食塩水や利尿剤も点滴し、体外に流し出すのだなと思った。(トイレに行ったときは、必ず尿をビーカーにとり、計量してノートにつけていた。一日に七リットル近くあったと思う。)
 そう考えるようになってから、点滴中は、毒(抗癌剤)の回った細胞を、水で洗い清めているイメージをもつことにした。
 私は痛風の原因になる高尿酸症という診断も受けているが、一日に水を二リットル取ってくださいとの栄養指導を受けたこともある。スーパーモデルは、体内もきれいにするために三リットルも飲んでいると聞いたことがある。
 それらから、できる限り大量の水やお茶を飲むように心がけている。私の住んでいるところは山間部で、もともと水質がよいので、水道水で済ましている。「○○の名水」というのをペットボトルで買って飲むことがあるが、水道水に比べ特においしいとも思わない。地元の水が一番身体に合うわけだから、安上がりの健康法である。

 自然治癒力に頼ることは大切だが、何か特別なものに高い金を払って得なくてもよい。
自然でシンプルな生活習慣を守り、身体の余分な力を抜き、無理せず、やりたいことをやっていけばいいのではないかと思う。






 あとがき 

       * 明日死んでもよし、百まで生きてもよし *

 昨年、本光寺のご住職と久しぶりに話をする機会があった。以前、抗癌剤治療中に盆迎えに行ったとき、スキンヘッドの私がお坊さんと間違われたことがあった。その時以来であった。
 その後の身体の様子や、仕事のこと、死生観など話し合い、気が楽になった私が何気なく言ったのが、「明日死んでもよし、百まで生きてもよし」の心境だった。
 味のある言葉ですねとお褒めを頂いたので、その後、個人ホームページなどにも載せ、自分としての生き方の宣言とした。
 一度大病を患うと、苦しみ悩んだ末、死ぬ覚悟はできるものである。しかし、運良く治り社会復帰しても、再発の可能性もあるとなると、無期限の執行猶予のようなものとなる。常に不安を抱え、生きながらえ、もし百歳まで生きるようなことになってしまったら、それもまた苦痛である。
 この世が諸行無常なのは分かっているが、誰も自分の寿命がいつまでなのか分からない。つい平均寿命で考えてしまうが、その保証などない。寿命の読めない人生をどう生きていくのかは大きな問題だが、その様なことを考える気になれるものではない。
癌になり、その後、生かされた。そういう経験が、「明日死んでもよし、百まで生きてもよし」という心境を生み、不確定な余生をどのように生きたらよいか考える契機を与えてくれた。

 本書の『ガンとして生きる』のタイトルは、「癌として」と「頑として」の両方の意味を兼ねている。頑は頑固の「頑」である。もはや自分自身が主治医だ。他に振り回されることなく、頑固に自分のスタイルを貫けばいい。
 末期癌ならやりたいことを無理してでもやる。再発予防期なら、無理をせず、だけどもやりたいことを頑としてやる。
死は誰にでも必ず訪れる。癌になり、その後も再発の可能性と共生していることは、死に向けて準備していることになる。そういう時に「やりたいこと」「できること」こそ、たとえ職業でなくても天職だと思う。ひたすら天職に取り組むことで、鮮明な生き方ができる。
一日でも長く生きるのに越したことはないが、どれだけ生きるかでなく、何を成し遂げるかで自分の人生の意義を見つめていきたい。 「頑として生きる」


(謝辞)
 本書に登場してくださった方々、私を支えてくださった方々に、心から感謝いたします。 プライバシーに関することもありますので、特に患者の方の名前はイニシャルにしたり、あえて書きませんでしたが、皆さんのことは決して忘れません。    
本書出版に関して、慶應義塾大学全国通信三田会の加納時男会長、吉濱健二副会長、慶應義塾大学出版会の田谷良一専務、狩野桂事業部長をはじめ関係者の皆様には大変お世話になりました。
ありがとうございました。

平成十七年 夏
              関根 徳男