(歴史講座)
| こんな時代です 時代を要約 |

| 今までの掲載分 |
1.人類誕生
約百数十億年前、ビッグバン(大爆発)により宇宙が誕生しました。
宇宙はものすごい早さで膨張していき、原子核反応を起こして輝く星たちを誕生させました。
地球が誕生したのが約46億年前です。
地球上に大気や水や大陸が生じ、約19億年前、海の中に最初の生物(ソウ類、細菌類)が誕生しました。
最古の脊椎動物である魚類が出現したのが約5億年前です。
恐竜が出現したのが約2億5千年前で、約6500万年前に全滅しました。
小型のほ乳類は恐竜の時代からいましたが、恐竜の絶滅後、ほ乳類は大きくなり、急速に広がりだしました。
そして、最初の人類(猿人)である、アウストロピテクスが出現したのが約400万年前です。
地球の年齢は46億歳です。
人類の歴史は400万年です。
もし、地球の歴史を1年だとすると、人類の歴史はわずか7時間37分です。
1月1日午前0時に地球が誕生したとすれば、人類が出現したのは12月31日の午後4時23分ということになります。
2.恐竜と人類
恐竜がいた時代は約1億8500万年間です。
人類はまだ400万年間です。
地球の歴史を1年とすると、
恐竜の歴史は14.7日で、
人類の歴史はわずか7時間37分です。
人類の歴史など、まだ恐竜の46分の1にすぎません。
人類の歴史はあとどのくらい続くのでしょうか。
恐竜が絶滅した原因は、いん石の衝突や、気候の変動などがいわれています。
少なくとも、恐竜自身から滅んだのではなさそうです。
人類は、今、自ら滅亡してしまう危険性をもっています。
ここで、かけがえのない人類の歴史を見直し、今後のことを考えていきましょう。
3.旧石器時代
400万年前に出現したアウストラロピテクスは、猿人(えんじん)とよばれています。
古い猿人の化石はアフリカでしか発見されていません。人類はアフリカから起こったようです。
360万年前の地層から、二足歩行した足跡が見つかっています。初期の石器も発見されており、自由になった手には石(石器)が握られていたと思われます。
百数十万年前頃に原人が出現しました。ペキン原人やジャワ原人ら有名で、原人の化石はアジアやヨーロッパから発見されました。
このころ氷河期が何度かありました。ペキン原人が住んだ洞窟あとからは、大量の灰や焼けた骨が見つかり、火を使っていたことがわかりました。
十万年前頃に旧人が出現しました。ネアンデルタール人などです。
4万年前頃、現代人とよく似た新人が出現し、全世界に住むようになりました。
文字はまだ使われていませんが、洞窟の壁面に描かれた絵から、動物を獲っていたことがわかります。
人類の進化は脳の大きさからもわかります。猿人500cc、原人1000cc、そして新人では1500ccになっています。
発達した脳で、人類は道具を作りました。石を砕き、とがったものを石器としました。これを打製石器、または旧石器とよびます。
そこで、この時代を旧石器時代といいます。
日本も氷河期には大陸と陸続きだったので、旧石器時代の人が渡ってきて狩りをしました。旧石器やゾウやシカの骨が発見され、そのことが確認されています。日本では、先土器時代ともよんでいます。
旧石器時代は、最後の氷河期が終わる約1万年前まで続きました。人類の歴史の大部分は旧石器時代です。
4.新石器時代
約1万年前、氷河期が終わり、地球が暖かくなりだしたころ、新石器時代が始まりました。
ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物がいなくなり、すばやい小型動物ばかりになると狩りが大変になってきました。そこで、人々は野生動物を飼い、増やし、必要なときに食べられるようにしました。牧畜の始まりです。
また、野生の植物のなかから、食用になるものを選び、栽培するようにもなりました。
農耕(農業)の始まりです。
食料を得る手段が農耕と牧畜になると、人々は獲物をもとめて移動する生活をやめ、「むら」をつくり住むようになりました。
調理をするために土器が用いられました。
石器も表面をみがいて鋭くしました。この石器を、磨製石器、または新石器といいます。そこで、この時代を新石器時代といいます。
旧石器時代: 狩りと採集 打製石器 移動生活
新石器時代: 農耕と牧畜 磨製石器、土器 定住生活
5.縄文時代
新石器時代が始まった約1万年前から、日本では縄文時代になりました。
磨製石器(新石器)や土器を使いました。このころの土器は縄目のもようがついていたので、縄文土器といいます。
日本の縄文時代は、道具としては新石器時代にあたりますが、農耕や牧畜はほとんど発達しませんでした。
縄文時代は、約8000年間続きました。
もし、地球の歴史を1年とすると、人類の歴史は7時間37分で、縄文時代はわずか55秒です。
1月1日午前0時に地球が誕生したとすれば、人類が出現したのは12月31日の午後4時23分、縄文時代の始まりは12月31日午後11時58分51秒です。
縄文時代の中頃、約5000年前には、エジプトや西アジア(メソポタミア)では、古代国家ができ、文字が発明され、金属(青銅器)が使われだしました。
縄文時代の終わり頃、中国では孔子、ギリシアではソクラレス、プラトン、アリストテレスなどの有名な哲学者が現れ、学問が発達しました。
日本では、まだ、獲物を追って裸足で走り回っていました。個人の名前は伝わっていません。
縄文時代の日本の人口は約30万人、平均寿命は約30歳でした。
6.弥生時代
大陸から稲作と金属器(青銅器、鉄器)が伝わると、新しい時代に入りました。
土器も進歩し、薄く硬いものになり、文様は簡素になりました。これは、東京都弥生町で最初に発見されたことから、弥生土器と名付けられました。
この時代を弥生時代といいます。
弥生時代は、紀元前3世紀ごろから、紀元3世紀ころまでの約600年間です。
もし、地球の歴史を1年とすると、人類の歴史は7時間37分、縄文時代は55秒、そして弥生時代は4.1秒です。
稲作が始まると、古代日本人は「むら」をつくって定住するようになりました。「むら」は、やがて小さな「国」になりました。
中国の歴史書には、当時の日本(倭)の様子が書かれています。
・紀元前後、日本は100余りの小国家に分かれ、争っていました。(「漢書地理史」)
・紀元57年、日本の奴(な)の国王が、中国(後漢)皇帝に使いを送り、金印をもらいました。(「後漢書東夷伝」)
・紀元239年、邪馬台国の女王卑弥呼が、中国(魏)の皇帝に使いを送り、銅鏡と金印をもらいました。邪馬台国は奴国を含む30余国を支配していました。(「魏志倭人伝」)
稲作が始まったのは、中国に近い北九州からです。
奴国は北九州にありました。(後漢の皇帝からもらった金印は、福岡県の志賀島で発見されました。)
邪馬台国は九州説と大和(奈良)説に分かれています。
なお、発掘された人骨から身長がわかります。
縄文人は平均158cm
弥生人は平均163cm(山口県土井ケ浜遺跡)
7.古墳時代
小さな国に分かれていた日本が、やがて大和朝廷という政府によって統一されていきました。この統一国家を大和国家といいます。
大和国家の王は、大君(おおきみ)といい、7世紀からは天皇と呼ばれるようになりました。大和朝廷は、大君と近畿地方の豪族たちによって運営されていました。
この時代、権力者の象徴として大きな墓(古墳)が多数つくられましたので、古墳時代といいます。
3世紀後半から4世紀初め、近畿地方と瀬戸内海沿岸に、古墳が作られ始めました。特に、大和地方(奈良)に大きな前方後円墳がみられることから、大和が中心になっていたことがわかります。
4世紀末から5世紀にかけ、さらに巨大な前方後円墳がつくられました。最大の大仙古墳(仁徳天皇稜)は、長さ486m、面積100ヘクタールもあります。これをつくるには、のべ680万人の人員と、15年8ヶ月の期間を必要としたと推定されます。大君の力の大きさがわかります。
この時代のことは、朝鮮の好太王の碑や、中国(宋)の歴史書・『宋書』倭国伝から知ることもできます。
好太王の碑には、391年、倭の軍が朝鮮半島に攻めてきて、高句麗軍と戦ったとあります。
『宋書』倭国伝には、5世紀(421〜478)倭の五人の王(大君・天皇)が、中国の皇帝に使いを送り、「倭の王」としての地位を認めてもらったとあります。五人目の王・武(雄略天皇)の手紙には、自ら「よろい」「かぶと」を身につけ山や川をかけめぐり、日本を平定したと、ありました。
朝鮮半島から戦乱を逃れてやってきた人々(渡来人)によって、漢字、仏教、儒教が伝えられました。
古墳時代は、、3世紀後半から、593年の飛鳥時代の始まりまでの約300年間です。(また、飛鳥時代をふくむ、約400年間という見方もあります。)
8.飛鳥時代(593〜710)
592年末、初めての女性の天皇である推古天皇が即位すると、翌年、甥の聖徳太子が摂政となり、天皇に代わり政治を行うようになりました。ここから、飛鳥時代になります。
聖徳太子とともに政治を行ったのは豪族ナンバーワンの蘇我馬子です。太子の祖母、母、妻はすべて蘇我氏の出身です。馬子と太子は血縁関係にありました。
聖徳太子の政治
・国内的には、天皇中心の政治をめざし「十七条の憲法」や「冠位十二階」を定めました。
・対外的には、中国に、遣隋使を派遣して交流を深めました。遣隋使・小野妹子に持たせた手紙には「日出づる処の天使、書を日没する処の天使に致す」とありました。中国の皇帝と、日本の天皇は対等だという意味が込められているようです。
・聖徳太子は仏教に熱心で、世界最古の木造建築である法隆寺を建てました。仏教の影響が強いこの頃の文化を飛鳥文化と呼びます。
天皇中心の政治をめざす聖徳太子にとって、蘇我馬子は協力者であるとともに、豪族という立場からすると対立者でもありました。聖徳太子の死後は、蘇我氏(蝦夷、入鹿)による独裁政治になりました。
これに不満をもった天皇家の中大兄皇子(後の天智天皇)と豪族の中臣鎌足が、645年(大化元年)蘇我氏を滅ぼし、大化の改新とよばれる政治改革を行いました。
天智天皇、天武天皇、持統天皇の3代にわたり改革は行われました。大宝律令という法律に基づき、全国を支配する仕組みがつくられました。(律令政治)
土地と人民は豪族の支配をはなれ、国のものとなりました。(公地公民)
奈良の飛鳥地方に都があったこの約120年間を飛鳥時代といいます。天皇の地位が高まり、朝廷による中央集権国家が確立していった時代です。聖徳太子のめざした国家が実現しました。
9.奈良時代 (710.3.10〜794.10.22 )
「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今さかりなり」万葉集
「奈良の都」、すなわち平城京に都が移った710年からの84年間が奈良時代です。この間に元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武と8代7人の天皇がいました。(孝謙と称徳の両帝は同一人物)
元明、元正、孝謙と称徳は女性の天皇です。
聖武天皇の在位した天平年間には、全国に国分寺、国分尼寺が建てられ、都では東大寺の大仏がつくられました。大仏が完成した752年が、ちょうど奈良時代の真ん中になります。高さ16メートル、金色に光り輝く大仏こそ、奈良時代の象徴といえます。
仏教の影響をうけたこの時代の文化を天平文化といいます。
古事記、日本書紀といった歴史書や、万葉集という歌集もつくられました。
平城京は唐の都・長安をまねたものです。唐の制度や文化は遣唐使によってもたらされました。また、唐の名僧・鑑真は日本に渡ってきて、直接仏教の教えを伝えました。
政治的には、藤原(中臣)鎌足の子孫である藤原氏らの貴族が力をもってきました。都での貴族の華やかな生活を支えたのは、農民たちの税や労働でした。
飛鳥時代に確立した公地公民制は、奈良時代の中頃にはくずれだし、貴族や寺院が土地や農民を支配し始めました。
光り輝く大仏や寺院をつくる背景には、天災、飢饉、伝染病などに苦しむ人々を仏教の力で救おうとの願いが込められていました。
大仏建立のため、膨大な寄付が集められ、200万に以上の人々が作業にかりだされました。これらの負担は、さらに人々を苦しめることになりました。
華やかさと暗さ、貧富の差が大きくなってきた時代です。
10.平安時代 (794〜1192)
「鳴くよ うぐいす 平安京」
あまりにも有名で、美しい響きの語呂合わせにあるように、794年に京都の平安京に都が移りました。それ以後、鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間が平安時代です。
古墳時代以後では、最も長い時代です。
平安時代を政治的にみると、次の4つに分けられます。
1.天皇と貴族による律令政治を維持しようとした時期。
2.貴族・藤原氏が天皇に代わり政治をとった摂関政治の時期。(866〜)
3.上皇が天皇に代わって政治の実権をもった院政の時期。(1086〜)
4.武士だった平氏が政治の実権をもった時期。(1167〜)
1.律令政治の建て直し
天皇(朝廷)中心の中央集権国家をつくるという聖徳太子や中大兄皇子(天智天皇)の願いは、飛鳥時代末に、律令政治というかたちで実現しました。しかし、奈良時代の中頃には制度は崩壊し、貴族の勢力争い、僧侶の政治への介入、役人の不正などが横行しました。
そこで、桓武天皇が、律令政治を立て直すために政治改革を行いました。まず、気分一新のため、都を奈良から京都の平安京へ移しました。桓武天皇は役人への監視を厳しくして政治のを引き締める一方、農民の労役や兵役の負担を軽くしました。しかし、東北地方の蝦夷との戦いや、平安京造営の負担は、国の財政を圧迫し人々を苦しめました。
遣唐使だった最澄や空海が、新しい宗派の仏教を広めたのがこの時期です。
2.摂関政治
貴族・藤原氏は、ライバルの貴族を次々と退け、勢力を伸ばしてきました。866年、藤原良房は皇族以外で初めて摂政になりました。887年には、藤原基経が関白になりました。以後、藤原氏が摂政・関白として天皇に代わり政治を行うようになりました。これを摂関政治といい、11世紀の藤原道長の時に全盛期を迎えました。
藤原氏は娘を天皇のきさきにし、天皇家と親戚関係を結びました。天皇の義理の父親、実の祖父という立場が、摂関政治の権力の背景です。
「この世をば わが世とぞ思う 望月(もちづき)の かけたることも なしと思えば」この世の中は自分のものだー3人の娘を3代の天皇に嫁がせた藤原道長が、権力の絶頂期によんだ歌です。
この時期、唐の勢いが衰えてきたため、遣唐使は廃止され、日本独特の文化が栄えました。(国風文化) かな文字がつくられ、「源氏物語」の紫式部、「枕草子」の清少納言らの女性文学者が現れました。
貴族が都で全盛をきわめていたころ、地方では武士が力をもちだしていました。平将門や藤原純友らが起こした反乱は、朝廷の軍では対応できず、地方の武士の力をかりて鎮めることができました。
3.院政
藤原道長の子・頼通も娘を天皇のきさきにしたのですが、男子が一人も生まれませんでした。やがて、藤原氏と親戚関係の薄い天皇が位につくようになりました。白河天皇は、引退して上皇になっても、政治の実権を持ち続けました。
天皇や貴族(藤原氏)が政治を行う場所が朝廷です。上皇がいる場所(御所)を院といいます。本来、隠居所だった院が、政治の中心になっていきました。朝廷からの命令より、院からの命令のほうが上になりました。これを院政といいます。
歴史的にみても、引退して自由な立場になってから、政治的に力を発揮した例が多くあります。関白を退き太閤になってからの豊臣秀吉、2年で将軍をやめ大御所となってからの徳川家康などです。
4.平氏の政治
12世紀中頃、天皇家、藤原氏、源氏、平氏の内部対立から、2つに分かれた戦争が起こりました。(保元の乱)
さらに、保元の乱で勝ち残った平清盛と源義朝の直接対決がありました。(平治の乱)
この乱では平清盛が勝利し、以後は平氏が政治の実権をもつようになりました。1167年、平清盛が武士として初めて太政大臣(朝廷の最高位)になり、平氏一門も朝廷の高い位を占めました。平氏は武士ですが、貴族となって政治を独占しました。
「平氏にあらずんば人にあらず」
おごり高ぶる平氏に、反感が高まりました。源頼朝が伊豆で挙兵すると、東国の武士が集結し、1185年には壇ノ浦で平氏を滅ぼしました。平清盛が太政大臣になってから、わずか18年後です。
11.鎌倉時代(1192〜1333)
1185年、源頼朝は平氏を滅ぼすと、家来を守護と地頭として全国に派遣し、実質的に日本を支配するようになりました。そして、1192年、朝廷から征夷大将軍に任命されると、鎌倉幕府を開きました。それからの141年間が鎌倉時代です。
武士の時代のはじまりです。
平清盛も武士ですが、貴族の位をもらい、朝廷内で政治を行ったことから、平氏の政治は武士の政治とはいえません。源頼朝は貴族化するのを避けるために、京から離れた関東の鎌倉で政治を行いました。武士による政府を幕府といいます。
武士による政治は、鎌倉時代から江戸時代が終わるまでの675年間続きました。
源頼朝の死後、息子の頼家、実朝が将軍になりますが、北条氏(頼朝の妻・政子の実家)の陰謀により殺害され、源氏の系統がとだえました。以後は、執権である北条氏が幕府の実権をにぎりました。これを執権政治といいます。
鎌倉時代141年間のうち、源氏の将軍による政治は27年間で、以後の114年間は北条氏の執権政治です。実は、北条氏は平氏の系統に入ります。鎌倉幕府は平氏(平清盛一族)を倒した源頼朝が開いたことから、源氏の政権と思われがちですが、北条氏
による平氏政権の時期のほうが長いのです。
1219年、3代将軍・源実朝が暗殺された2年後、後鳥羽上皇は幕府の動揺をみて兵をあげましたが、執権北条義時率いる幕府軍が破りました。(承久の乱)
これによって、幕府の全国支配が揺るぎないものになりました。さらに1232年、幕府は武士による初めての法である御成敗式目(貞永式目)を定め、支配力を強めました。
以後、比較的安定した時期が続きましたが、中国を支配した元が攻めてくるという一大事が起こりました。1274年の文永の役では、元軍が博多に上陸しました。外国の軍隊が日本本土に上陸し、戦闘を行うという、歴史上唯一の出来事です。戦いは集団戦法をとる元軍の圧倒的有利に展開しましたが、一夜明けると博多湾から姿を消していました。その理由はいくつかあげられていますが、定かではありません。
さらに1281年、元は14万人の大軍で再度来襲しました。(弘安の役)前回の戦いの経験から、陸戦では不利だと知った日本の武士は、海上で迎え撃ちました。やがて、台風が襲い、元軍は四分の三を失い引き揚げていきました。
戦いには勝ちましたが、元から得た物は何もなく、借金だけが残りました。幕府はこれを境に、衰えはじめました。
やがて、後醍醐天皇が幕府を倒すための戦いを起こすと、幕府の有力御家人の足利尊氏や新田義貞が天皇方につきました。
1333年、鎌倉幕府は滅びました。足利尊氏も新田義貞も、源頼朝と先祖を同じくする源氏の武士です。源氏が、平氏の北条氏に支配された幕府を滅ぼしたともいえます。源氏と平氏の争いは、まだ続いていたわけです。
鎌倉時代の文化は、東大寺南大門の金剛力士像に代表されるように、力強い武士の気風を反映したものになりました。また、多くの仏教の宗派が起こり、武士や民衆に広まりました。
12.建武の新政(1334〜1336)
1333年5月21日、鎌倉の北条一族が滅び、鎌倉幕府が滅亡しました。
鎌倉幕府を直接倒した功労者は、幕府の有力御家人だった足利尊氏、新田義貞らでした。元寇以後の幕府の政治に不満を持っていた武士たちは、後醍醐天皇の新しい政治に期待しました。
ところが、後醍醐天皇のねらいは政治の実権を武士から取り戻すことでした。平安時代初期のように、天皇自ら政治を行う「親政」をめざし、政治の要職には、公家を抜擢していきました。1334年になると年号を建武と改めたため、後醍醐天皇の政治を「建武の新政」とよびます。
当てがはずれた武士たちは、不満が渦巻きました。
その筆頭が足利尊氏です。足利家は源頼朝と同じ清和源氏の出身です。征夷大将軍になる資格があります。北条氏に乗っ取られた幕府を倒し、再び源氏による幕府を興そうと考えていました。
しかし、後醍醐天皇は征夷大将軍に任命してくれません。むしろ、足利尊氏とライバル関係にある新田義貞一族を京都警備役に抜擢し、尊氏を遠ざけました。
やがて、足利尊氏は新政権へ不満を持つ武士を率いて兵を挙げました。京都をめぐる攻防戦に足利尊氏は勝利し、1336年8月には新しい天皇(光明天皇)をたてました。
後醍醐天皇は、三種の神器を渡した後、奈良の吉野山中に逃れました。
「建武の新政」は3年たらずで崩壊してしまいました。後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも抜きんでた能力をもった人物ですが、時代はもはや武士のものになっており、どうすることもできませんでした。
これも時代の1つと見るれば、最短の時代となります。地球の歴史を1年間だとすると、「建武の新政」はわずか0.02秒です。
13.南北朝時代(1336〜1392)
吉野に逃れた後醍醐天皇は、そこを朝廷としました。南朝です。
それに対し、光明天皇のいる京都の朝廷を北朝といいます。
同時に二人の天皇が存在し、日本中の武士が二つに分かれて争ったこの時代を、南北朝時代といいます。
また、足利尊氏は1338年8月に、北朝(光明天皇)から征夷大将軍に任命されました。室町時代もここから始まります。時代名も、南北朝時代と室町時代の2つが存在する時期がしばらく続きます。
混迷の時代です。
さて、二人の天皇のうち、どちらが正式な天皇でしょうか。
実は,鎌倉時代に天皇の跡取りをめぐって、天皇家が二つに分かれて争ったことがあります。結局、鎌倉幕府が仲裁に入り、両派から交代で天皇を出すという約束ができました。両派とは、大覚寺党と持明院党です。後醍醐天皇は大覚寺党で、光明天皇は持明院党です。
天皇の位を証明するものとして三種の神器があります。たしかに三種の神器は1336年11月に、後醍醐天皇から光明天皇に渡されています。しかし、後醍醐天皇は、渡したのは偽物で、本物はこちらにあると主張しました。三種の神器も2つ存在することになりました。
南朝のリーダーは名実ともに後醍醐天皇です。後醍醐天皇についた楠木正成、新田義貞、北畠親房などは勤王の武士と呼ばれるようになりました。一方、北朝の実質的リーダーは将軍・足利尊氏です。
南北朝時代は、天皇家が二つに分かれて争ったというより、足利尊氏対後醍醐天皇、または、将軍側の北朝と、天皇側の南朝の争いといった方が適当でしょう。
1339年秋、後醍醐天皇が亡くなりました。鎌倉幕府を倒してから6年、吉野に南朝を開いてから3年後です。天皇の死を誰よりも嘆いたのは足利尊氏でした。幕府はすぐに謹慎の意を表し、天皇の菩提を忌う法事を行いました。尊氏は大勢の武士たちの前で、泣きながら後醍醐天皇追悼の文を読んだと言います。
一方、後醍醐天皇も、かつて鎌倉幕府を倒した最高の功労者として尊氏を褒め、自分の名前の「尊治(たかはる)」から「尊」の字を与えました。(それまでは「高氏」でした)
こんな二人が、それぞれ公家、武家のリーダーとして、互いに争わなければならなくなりました。
1358年、足利尊氏も病死しました。両リーダーを失った後も南北朝の対立は続きました。そして、3大将軍足利義満の代になった1392年、ようやく南北朝が統一されました。
14.室町時代(1338〜1573)
室町時代の始まりは、足利尊氏が征夷大将軍になった1338年とここではしておきます。他には、後醍醐天皇が京を去った1336年や、鎌倉幕府が滅びた1333年にまでさかのぼる説もあります。また、尊氏は北朝から征夷大将軍に任命されたにすぎず、幕府の支配も北朝側だけに限られていたことから、南北朝が統一した1392年からだという見方もあります。
もっとも「室町」の語は、3代将軍義満が京都・室町に御所を移し、そこで政治を行ったことに由来しています。実質的には義満の代からが室町時代と言った方がよいようです。
足利義満は1368年、10歳で将軍になりました。後見人として、守護大名の細川頼之が管領として付きました。この二人が室町幕府の全盛期を築きました。
義満は南朝北朝の統一を成し遂げました。あえて何北朝の対立の勝者は誰かというと、足利義満となるでしょう。将軍として武士の頂点に立つと同時に、太政大臣にもなり貴族社会の頂点にも立ちました。中国(明)とは国交を回復し、勘合符による貿易が盛んに行われるようになりました。明の皇帝の手紙には、義満を「日本国王」と呼ぶほどになっていました。
室町の御所(幕府)は、季節の花が咲き乱れ、「花の御所」と呼ばれました。北山の山荘につくられた金閣は、室町時代を代表する建造物です。
ただ、室町幕府の力は3代将軍義満のときが頂点で、以後、将軍の権威は低下していきました。やがて戦国の動乱期に入ると、名ばかりの将軍が続き、15代将軍義昭が京都から追放された1573年をもって室町時代が幕を閉じました。
15.戦国時代(1467〜1590)
1467(応仁元)年、京都で応仁の乱が起こりました。守護大名・畠山家の跡取りをめぐる争いに、将軍家や守護大名たちが加わり、東軍(20万人)西軍(12万人)に分かれて10年間も争いが続きました。
応仁の乱により京都は一面焼け野原となりました。幕府の権威はなくなり、8代将軍義政は政治に関心を失い、京都東山の山荘(銀閣など)づくりに夢中になっていました。
京都の幕府は政治機能を失い、地方では戦国大名が戦闘を繰り返したこの動乱期を戦国時代と言います。戦国大名には守護大名がそのままなったもの以外に、守護の家来や、豊臣秀吉のように農民から成り上がった者も多くいます。下の者が、上の者に取って代わることを下剋上といいます。、よく言えば実力主義、悪く言えば無秩序の時代が戦国時代です。
なお中国にも春秋・戦国時代と呼ばれた混乱の時代がありました。周の王朝が滅んでから、秦の始皇帝が統一するまでに500年余りもかかりました。日本の戦国時代もいつ果てることなく続くように思われましたが、海外からもたらされたあるモノがひとつの転機になりました。
1543年、種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を持っていました。種子島の領主は2丁の火縄銃を、今の金額換算でいうと2億円も払って譲ってもらいました。この鉄砲は直ちに分解され、国産化が図られました。鉄砲伝来からわずか半世紀後には、20万丁になっていたそうです。日本人の凄さはこのようなところにも見られます。
鉄砲の伝来は、それまでの戦闘方法を変えました。鉄砲に着目し、他の大名よりケタ違いの数をそろえた織田信長が天下統一に向けて抜け出してきました。1573年、15代将軍義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼしたのは信長です。これで室町時代が終わったわけですが、戦国時代も終わりにはなりませんでした。信長は天下統一目前で、家来の明智光秀に暗殺されてしまったからです。信長の後継者争いに勝ち残こった豊臣秀吉が、天下を統一した1590年をもって戦国時代がようやく終わりになりました。
日本の戦国時代は123年続いたことになります。
16 安土・桃山時代(1573〜1603)
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。この三人が天下統一を成し遂げていった30年間が安土・桃山時代です。
30年間をあえて3人で分けるとすると次のようになります。
・織田信長の時代:1573〜1582(室町幕府を滅ぼしてから、本能寺の変で死ぬまでの9年間。信長がつくった安土城に象徴される安土時代。)
・豊臣秀吉の時代:1582〜1598(信長死後から、秀吉が死去するまでの16年間。晩年に住んだ伏見城が桃山にあったので、桃山時代と称します)
・徳川家康が最終的に天下をとる期間:1598〜1603(1600年の関ヶ原の戦いで実質的には家康の天下。1603年に征夷大将軍になり、幕府を開くまでの5年間も安土・桃山時代に入っています)
信長は将軍・足利義満から「副将軍」の位を授けられますが辞退しました。既成の役職などより実力を重んじました。既成概念を破壊し、新しい時代を開いていく革命家が信長でした。
秀吉が革命を継続しますが、仕上げ段階においては「名」も必要でした。信長死去から2年後には関白となり、天皇のお墨付きの元、天下統一を進めました。そして、1590年に小田原の北条氏を平定することで、統一事業を完成させたのですが、その後の朝鮮出兵で新たな戦いが生じました。
朝鮮出兵中に秀吉は亡くなり、豊臣家臣団は分裂状態になりました。秀吉亡き後、最高の実力者は家康であることを示したのが関ヶ原の戦いです。それ相応の実力がありながら、信長、秀吉存命中はその補佐役的な立場で尽くし、自分の出番(チャンス)をじっと待った家康が
最終的には天下を取りました。
「鳴かぬなら、殺してしまえ不如帰(ホトトギス)」
「鳴かぬなら、鳴かせて見せようホトトギス」
「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」
この有名な例えに示される対照的な3人の手によって、百数十年の戦国の争乱が終決し、新たな時代が築かれていった、ドラマチックな時期です。