論稿  田 中 正 造   (テキストデータ)



田中正造の人民観
 (平成元年 大学卒業論文として)

 序論
 田中正造(以後、正造とする)は、その生涯において膨大な量の日記、書簡、論稿を残している。それらの収集、保存は、正造の愛弟子であり、谷中村残留民の一人である島田宗三に負うところが大きい。島田宗三はこれによって正造の業績が世に広められることを願ったが、正造が死の直後に残した言葉(最後の語)だけは公開しなかった。最後の語は昭和五十五(一九八〇)年、島田宗三が九十歳の生涯を閉じた後に、ようやく公開されるに至った。その事は朝日新聞に「六十七年目に公開田中正造の遺言」と報道された。
「同情と云ふ事にも二つある。この正造への同情と、正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情でハ無い。問題から言ふ時にハ此処も敵地だ。問題での同情で来て居て下さるのハ島田宗三さん一人だ。谷中問題でも然うだ。問題の本当の所ハ谷中の人達にも解って居ない」
 これは正造に関する重要資料のうち、最新のものであろう。まして、死の直前の言葉となれば、より重要な意味を含んでいると思える。
 最後の語で述べている「正造の問題」とは何であろうか。直接的には、谷中村問題や足尾鉱毒事件であるが、さらに背後には、国家的規模の問題がある。殖産興業政策による鉱工業優先と農業問題。そして、公共のためという名目で、一部が犠牲になることへの是非という、今日にも通じる問題。このような巨大な問題の前に、人民も、それを支援する知識人達も、無力でなすすべを失っていった。こうした状況の中、正造も「絶望感に満ちた言葉を残し、戦いなかばで死んでいく」ことになった。(前述、朝日新聞記事)
 正造は人民のために一生を捧げたといわれている。常に人民の先頭に立ち、権力側の不正に対しては激しく戦ってきた。その一方では、弱い人民達には限りなくやさしかった。正造は人民を何よりも大切にし、人々もそれを称えた。病床においては、多くの見舞客に囲まれていた。しかし、正造への問題への理解においては孤独であった。かつて共に戦った渡良瀬沿岸人民は、問題においては敵となった。谷中残留民も、問題の本質はわかっていないという。愛弟子である島田宗三以外、誰もわかっていないという孤独感の中に、最後の正造はいた。こうなったということは、正造と人民の関係はどういうものだったのか。正造は問題解決のため戦い続けたが、その戦いにおいて、人民をどう位置付けていたのだろうか。この正造の人民観を探求していくのが、本論文のねらいである。
 最後の語における人民観を知るには、正造の生涯を通しての人民観の変遷をみていく必要がある。そこで正造の生涯を、名主時代、自由民権運動時代、足尾鉱毒事件時代、谷中村問題時代の四期に区切り、各時代の諸問題への取り組みなどを通じ、その人民観をみていく。そして、最後の語の時には、正造の問題とは、極めておおきなものとなっていたわけだが、その問題に対する人民観を考察したい。そこには、正造が最後にたどり着いた人民に対する重要な思いが秘められているはずである。
 なお、ここで正造がしばしば用いている用語の定義をしておく。
 「人民」とは、ほぼ農民を念頭において用いている。ただ、それは農民だけが人民だという厳密なものではない。正造が名主として生きた封建時代には人口の八割以上が農民であった。そして、自ら「下野の百姓なり」と言っているように、農民階級への帰属意識(といっても、農民の指導者という意識であるが)に基づいているためである。
 「戦い」に関しては、晩年の日記に次のように述べている。
「人生はよく戦ふべし。只、戦の文字ハ、戈の義なり。腕力の義なり。文字によりて拘泥すべからず。ここニ戦ふとハ、天道を以て戦ふなり、人道を以て戦ふなり。即ち神の命ニよりて道を他ニ対するの意ニ過ぎず。道を以てせるものハ、戈を以てせると絶対の方針目的ニして、武器を以て戦ふニあらず。天理の貫徹なり。人道の貫徹なり」
 正造の戦いは終始一貫して非暴力のものであった。戦いの根拠は、天理、人道であり、方法は言論、請願、議会活動などによった。

本論 ー 各時代における人民観の変遷と最後の語への考察 ー

第一章 名主時代
 正造は天保十二(一八四一)年に下野国安蘇郡小中村に生まれた。田中家は祖父、父と名主を務め、正造も十七歳で父の割元昇進の後任として名主となっている。この名主という立場は、正造の人民観に大きな影響をもたらしたと思える。
 初期の正造を知るには、自伝である『田中正造昔話』にたよるしかない。その自伝は「予は下野の百姓なり」で始まっている。正造の強い自意識を示すものであるが、一般の百姓とは一線を画する立場にあったことも確かである。前述の通り、田中家は代々名主の家系であり、正造も生まれながら名主となるよう期待され、そのように教育された。当時、名主は村内百姓の公選により決定された。名主になるためには、常に村民の目を意識し、その信頼を得るような資質を磨くことが必要であった。正造は七、八歳の頃の事を次のように述べている。
「母の予を引きて述べ玉ひけるには、『御前のように剛情では困る。近処の者も御前の事を悪くいひます』と、此一言は稚心ながらに如何に残念なりしぞ、終始食を廃してくやし涙に暮れぬ、是より母は此秘術を覚えて予を戒むる毎度に『そんな事をすると村のものが悪くいふよ』と、この予が為には一徹鞭とも感ぜらる訓言をもて指導せられたれば、予も万事に注意する様になり、(中略)思ふに今や予が天下に處して世論に降伏するの性亦既にこの時に萌えしものとなすは非邪」(『田中正造昔話』)
 これが正造の幼児期に形成された人民(農民)観の基本であろう。人民達は、将来名主となる自分を常に監視している存在と、思えたのではないか。人民に悪く言われてはならない。支持されなければならない。この影響か、後の政治家正造は、世論に特別注意をはらい、マスコミ(新聞)を通して世論工作に力を注いでいる。
 さて、ここで名主の立場について、もう少し詳しくみてみる。名主は用人の指揮を受け村内管理にあたる村役人で、領主支配の末端にあたる。それと同時に、被支配者たる村民によって公選された村民の代表者でもあった。名主は「領主支配と被支配人、この両者の矛盾の集中点に位置し、村落の期待を担い、真にその代表としての多胎場を貫こうとすれば支配権力と対立し、支配権力の側に立てば領民の敵対者となる」(東海林吉郎『歴史よ人民のために歩め』)という立場にあった。正造が被支配者(人民)側に立つ名主をめざしたのは言うまでもない。
 そして、当時名主の理想像は、佐倉宗吾に求められていたのではないだろうか。佐倉宗吾は江戸時代初期の農民一揆の代表的指導者であった。農民を救うため将軍に直訴し、農民の要求を通すことはできたが、自らは死刑に処されたという。史実は不明な部分が多いが、佐倉宗吾伝説に基づき、嘉永四(一八五一)年に歌舞伎『東山桜草子』が初演され、文久元(一八六一)年には、『佐倉義民伝』と改作され大当たりをとっている。正造は安永四(一八五七)年に名主となっているが、まさに佐倉宗吾伝説が歌舞伎によって広まっている時期である。忠臣蔵が史実を離れ歌舞伎のイメージで定着したように、佐倉宗吾のイメージも歌舞伎によって形成され、人民の中に定着したのではないだろうか。正造関係の文献をみても、佐倉宗吾の名がしばしばみられる。正造自身も、その周囲の人々にも、人民指導者の理想像として佐倉宗吾が根底にあったと思われる。そして、直訴に至るまで、正造の行動には佐倉宗吾のイメージがついてまわった。
 正造は自ら百姓なりと称しているが、百姓であっても、その代表者、指導者として自分を位置付けていた。この指導者の立場は、常に人民の側にあり、人民のために先頭に立って行動し、場合によっては命をかけなければならなかった。このような使命感、名誉感は幼児期より準備され、名主時代に形成されていったと考えられる。
 名主としての正造が、権力側と戦ったのが六角家闘争である。ここでは、まず小中村の支配状況からみていく。小中村は複数の大名、旗本等により分割支配されたいわゆる相給の村であった。小中村の一四三八石余のうち、公家六角家が一〇一二石余、旗本佐野家が四〇九石余、浄蓮寺が十六石余を支配した。正造はこのうちの六角家の名主であった。六角家は小中村領以外に、隣接する足利郡の六カ村も支配していた。小中村は、生産生活の場として自然発生した村落共同体という性格と、政治的には複数の領主に支配され別々の領地から成るという性格をもっていた。また、六角家領という面からは、足利郡の六カ村との連帯が必要であった。この複雑な支配関係において、村民をまとめることは、一藩一領主、一村一領主の村に比べ大変な苦労を要した。ここに、他村に比べより強い自治意識が生まれた背景がある。この自治に関し、正造は次のように言う。
「領内に於ける名主登用の法おのずから自治の態をなして、因襲の久しき終に動かすべからざるの好慣例を形造れり」
 小中村及び六角家各村は、この自治的好慣例のもと平和な暮らしを送っていたが、筆頭用人・林三郎兵衛の登場で、それが破られた。用人は領主側の人間で、村民側の役人(割元、名主、組頭)を指揮する立場であった。林は封建末期の腐敗役人の典型で、私腹を肥やすため賄賂をとったり、公選によった村役人を休役にし、自分に都合のよい者を任命したりした。特に領主死去後、新領主(正造は暗君と言った)が若いのをいいことに、林一派の横暴が激しくなっていった。
 これに対し、正造ら名主層が立ち上がり、自治的好慣例を守るため、林らに戦いを挑んだ。ただ、人民側もけっして一枚岩の団結を示していたわけでない。平塚承貞、弥三郎らは、林側に組していたし、林の分断策によって人民は分断されていた。正造は自分たちのことを「正義派」と称しているが、これは人民の中にも別の派が存在していたことを示すものであろう。また、六角家闘争激化の最中、共に林側と戦っていた小中村と稲岡村間で水争いがもちあがった。正造は林側の策謀とみて説諭したが、小中村民はこれを聞かず、正造を総代におし立て、奉行所へ告訴するに至った。この件は数カ月後に示談決着したが、このような人民の視野の狭さを正造は次のように嘆いている。
「快活の肌合い無く、万事箱庭主義に養成せられたる心裡上の動は、発して小領分となり、小村落となり、小組合となり、(中略)他の誘惑に嵌り易く、他の圧迫に屈し易く、総ての場合に於いて事大的卑怯心に擒了せらるる」
 一人一人では力が弱いからこそ団結が必要なのに、視野の狭さと、目先の利害に左右されやすい弱点から、人民の団結が難しいことを、この頃より痛感したであろう。
 六角家闘争における正造らの戦術は、林側の悪政を訴えることであった。時代は明治へと変わっていき、嘆願の相手も先代領主、六角家別家、幕府、東征大総督府とめまぐるしく変わっていった。それでも目的を達せず、最後に六角家本家烏丸公に「陳情的請願」を出すことにした。そこでは、林一派の追放と、投獄されている名主二人の釈放を求めているが、さらに次のような注目すべき内容がみられる。
「御当主様御暗君の君の趣に付奉恐入候得共御隠居被遊、御次男様を以て御家督被度候事」 徳川幕府が倒れたばかりで、まだ封建の色彩の強い時期に、領主を暗君と言い、次男に家督を嗣がせろと人民側が要求するのは、破天荒のことである。ここに六角家をささえているのは人民だという自負が感じられる。
 ただ、この嘆願書は烏丸公に届かず、領主側の手に入ってしまったため、正造は捕縛され投獄されてしまった。牢獄は三尺立法しかなく、立つこともできない狭さだったという。ここでは殺生予奪の権は相手側にあり、毒殺を警戒した正造は、同志が密かに差し入れた鰹節をかじり、牢の食事を断ったりもした。正造はこの牢獄に十カ月間も拘禁されたが、これに絶えられた背景を次のように言っている。
「予は実に大事を抱ける身なり(中略)大義名分の如何を識別し、大体の上より利害得失を比量し得て、自ら善と信じ利と認むる点を遂行する時に当たっては、聊か奪ふべからざる精神を有す」
 正造を支えたものは、自分の方に大義名分があるということである。牢獄に耐えることは、相手側の不正と戦うことであった。正造は命をかける覚悟であったが、獄中で死んでは犬死にであった。正造は生き抜き、訴廷において林と対決することに希望をつないだ。しかし、訴廷は林に依頼された旧幕府の吟味方によって行われたため、正造の申し立ては全く受け入れられなかった。やがて、新政府の吟味方に変わってから判決が下った。
 領分を騒がし、身分にあるまじき企てを起こし僭越の建白を行ったのは大罪だが、別格の慈悲によって、一家領分追放にとどめるというものだった。一方、林一派は免職となり、領主は隠居し、弟(次男)が家督を嗣ぐことになった。「予正義派の意見は終に全く貫徹するを得たるなり」と、正造は喜びを表している。正造は人民の側から権力側の非を正せたことに、自信をもったに違いない。同時に自分達指導者層が先頭に立って戦う際、その背後における人民の団結を維持することの難しさもわかったと思う。
 六角家闘争の後、領地を追放になった正造一家は離散している。正造は手習いの師匠をしたり、東京留学したりするが果たせず、ついには東北の江刺県まで流れて行き、そこで下級官吏となった。そこでは、官吏として栄達をめざす正造の様子がみられる。採用が決定した時、「此の命を受くるや実に天にも昇る心地して太く打喜び、惟命惟れ従ひて天晴れ其の職を全ふせしむもの」との決意を示している。
 また、上司が官吏全員に妾をもつことを強要した時、これに反対して辞職した官吏がいた。その者が正造にも辞職を勧めたが、「遠からず本県詰見込みあり」と正造は断っている。もしここで、官吏として平穏な暮らしを続けられたなら、正造の生涯は大きく変わっていたであろう。
 しかし、重大な転機となる事件が起こった。上司の一人が殺害され、正造が容疑者として逮捕されてしまった。真相は不明だが、正造にとっては明らかに冤罪であった。直ちに免職となり、囚人籠で護送になった。その時の心境を「今、予が不慮の災難に遭ふて測らずも此處に出ることになりたるも誰一人奪ひ来て取戻さんとする者のなきぞ心細けり」と語っている。前年、官林盗伐の囚人を護送中に、人民の群れがこれを取り戻したという話を正造は聞いており、自分に対してもいくらか期待していたようだ。しかし、たとえ他の官吏より人民に同情的だったはいえ、この時の正造は人民から遊離していた。名主時代とは違い、人民の支持などあろうはずはなかった。この人民との関係に気づいた時、正造は大きな衝撃を受けたに違いない。
 また、獄中で読書が許されるようになると、翻訳書を借り受け政治、経済の二科を学んだ。獄中の読書は「既往の生活の殆ど無意味無意識なるを悔ひ、将来少しく為す有らんとするの志を起こさしめたり」と言うように、正造のその後の生き方に大きな影響を与えた。獄中及び出獄後むさぼり読んだであろう明治初期の啓蒙書により、正造は人民の権利意識を触発されたであろう。六角家事件では、自治的慣例を守って戦ったわけだが、それこそまさに人民の権利を守った戦いだったと、あらためて認識したのではないだろうか。官吏の立場では人民の支持を得られないとの反省と、読書による啓蒙思想によって、以後の正造は人民の側にあって自由民権運動を勧めていくことになる。

(参考:『田中正造全集』第一巻。引用で出典記載なきは全て『田中正造昔話』より)

第二章 自由民権運動時代
 明治七(一八七四)年四月、正造は在獄三年余の後無罪釈放された。小中村に帰った正造は酒屋の番頭をしたり、夜学を開いたりしながらも政治への関心を深めていった。民選議院設立進言ののため土佐の板垣退助訪問を図ったり、直接政府へ建白しようとしている。(どちらも果たせず)
 西南戦争に際し、政府は紙幣を増発した。正造は、これにより物価高騰が起こることを見越し、田畑を購入し三千円の利益をあげた。これを機に政治に専念することを決心した。この政治への発心を正造は次のように述べている。
「一刀両断の決心をもって一身一家の利益をなげうちて政治改良の事業に専らならん(中略)老父の膝下に捧げて再び財産を犠牲に供し、一身以て公共に尽くす自由を得んことを請えり」
 正造が政治専念を決心した一つの契機に、土地投機による経済的安定あることも否定できない。しかし、大金が入り生活に困らなくなったから政治家になろうといった単純な動機ではない。正造に若い頃から染みついた名主的な人民に対する責任感、名誉心の表れでであろう。
 この前後、正造は地域の役員に公選されているが、その時の様子を次のように述べている。
「(明治)八年、村の総代として村会議員となるや欣喜の余り沐浴して任を受く。(中略)世論に対する責任を感得したるが為のみ。」
「十年、区会議員に公選せらる。即ち赤飯を以て祝意を隣人に表し、亦沐浴して之を受く」
(どちらも『回想断片』より)
 正造は公職に公選されたことを何よりも嬉しく思っている。公共のため一身を尽くすことは、自分にとって転職だという考えもあったのではないだろうか。かつて名主として村の政治に携わってきた正造の視野は広がり、今やより多くの人民のための政治をめざす。
「正造には四千万の同胞あり、其中に二千万は父兄にして二千万は子弟なり、天は即ち我が屋根、地は即ち我が床なり」
 四千万の同胞(人民)のため、天を屋根、地を床として奔走することは、家を捨てることになる。これに対し正造の父は「死んでから仏になるはいらぬこと、生きているうちよき人となれ」との狂歌を示し、正造の考えを支持したという。これで正造は家を出て政治活動に専念したわけだが、
「十年一事を成すに至らず而して父老家貧に迫り予また多く外に在るを以て、人皆予を目して無能不孝の人となす、而かも老父は敢えて予の政治に奔走するを楽しめり」
と言うように、元名主の父も同様に公共のために一身を尽くすことを何よりも重要なことと考えていた。
 政治に発心した正造は、翌明治十二(一八七九)年に具体的な動きに入った。一つは政治家としての立場確立のための栃木県会議員選挙で、もう一つは世論に訴える手段である栃木新聞の発刊である。まず、県会議員選挙に関してみていく。前年の府県会規則制定に伴い、第一回の栃木県会議員選挙が行われた。正造は当選を望むが、自らは天海耕作を応援したという。結果は一票違いで正造は落選(次点)であった。『佐野市史』によれば、得票数は次の通り。
当選 大川 剛  佐野町(不明)
当選 関根彦十郎 富岡村(九〇〇票)
当選 天海 耕作 赤見村(八八八票)
当選 関口 省三 佐野町(八八七票)
次点 田中 正造 小中村(八八六票)
 『田中正造昔話』では、この選挙に関し全く触れていない。無視してもよいほどの小事とは思えないから、これは触れたくないほど悔しい思い出なのだろう。ただ、『回想断片』や『奇談慢筆』では、この件に関し何度か述べている。
「正造は密かに落選せしを悔えたるを見て当年の野心の大きさを知るべし」
「一点の違ひの関口省三に打ち負けたるは非常に怪しめるも多けれども、郡吏のいを以て之れに決せられたりとは後に至って知り、頗る残念を感じたりき。(中略)県会より衆議院に移り、二十年間未だ次点に下りし事一回もなきは不相応の出来なり」(『回想断片』)
「郡長郡吏等正造の粗暴を怖れ、開票の日ニ正造の父の名も庄蔵と呼べるを、無効と認むもの数百ありとして、之れ選挙干渉のらんしゃう(原文のママ)なり」(『奇談慢筆』)
 正造は生涯唯一の落選となったことを非常に悔やんでいる。そして、郡吏に不利な取り扱いを受けたためと言っている。確かに、前掲の得票数をみると、みな一、二票差というのは不自然で、何らかの操作があったとも考えられる。また、「村内の葛藤より不評判の事、村内ヨリ一票の投票ナキコト」と言っているように、当時の正造は野心はあったものの、地元小中村の支持がなかったようだ。ともかくこの一件は、正造が人民から公選されるということを、何よりも重視していたことを示すものであろう。
 正造は第一回選挙で落選したものの、(任期途中で)辞任者が相次いだため、翌年の補欠選挙にて最高点で当選した。
「十三年二月、関根彦十郎辞任補欠として当選」(『栃木県史』資料編)
 これが正造の本格的な政治家としての第一歩である。(中略)
 正造にとって公共のために一身を尽くすには、人民によって選ばれたという立場が何よりも重要であったろう。ゆえに落選のショックは相当大きかったと思える。ただ、選挙初体験の人民による第一回選挙は、単に各地区の名望家を選んだもので、辞任続出の混乱を生んでいる。正造のように自ら政治への意志をもち、後々まで政治家として活動する人物は、補欠選挙か第二回選挙から登場した。
 一方、第一回選挙の四ヵ月後、正造は栃木新聞を創刊し編集長となった。この新聞の普及活動にて、小中村の名士にすぎなかった正造が安蘇郡中に有名になり、補欠選挙では圧倒的な大差で当選した。第一章でも触れたように、正造は世論を重視し、その形成に新聞を大いに利用した。県会議員という立場と、栃木新聞という世論喚起の手段をもって、自由民権運動を進めていった。
 自由民権運動の最大の目的は国会開設であるが、背景となる思想は天賦人権論である。この時期、正造が人民の立場をどう位置付けていたか、栃木新聞で発表した『国会を設立するは目下の急務』を基にみていく。(以下、引用は同論文より)
 そこでは、「人民無気力ヨリ国家ノ元気萎靡シテ震ハズ(中略)邦国一タビ事アラントセバ、其ノ如キ萎靡スルノ国家ニシテ其ノ如キ無気力ノ人民ヲ馳驅シテ抗戦セシムルモノ豈ニ一大至難ト云ハザル」と、人民は無気力だから外敵があったなら抗戦は至難だと国家的危機から論を始めている。(中略)さらに注目すべきは、次の箇所である。
「人民ハ尚且ツ旧ノ如ク、此無知無気力人民ニシテ如何ンゾ参政ノ権ヲ付与スルヲ得ンヤト。余輩ハ又之ニ答ントス、是レ所謂豪富商ノ番頭ガ我主人ハ幼稚ナリノ口実ヲ以テ永ク祖業ニ与カラシメザルト一般」
 人民は旧態依然、無知無気力で政治に関しては幼稚であることを正造は認めている。それでも、国家を豪富商、人民を幼い主人、政府を番頭にたとえ、主人(人民)が幼いからとて番頭(政府)が祖業(政治)につかせないのはおかしいという。そこには、明らかに人民主権が主張されている。ただ、人民主権といっても、人民自らその権利に基づき政治を行うのは不可能とみていたのではないだろうか。その担い手になるのは、正造ら人民の指導者層と考えた。国会を開設し人民に参政権を与えよという主張は、人民のためであることは言うまでもない。ただ、具体的な方法としては、人民の指導者が人民の支持(選挙)のもと活動できる制度を求めたものとも思える。正造は人民の権利は何よりも尊重したが、その能力は幼い主人にたとえているように、あまり評価してなかったと思える。
 県会議員となった正造は県会で活動すると共に、中央の政党との係わりも深め、立憲改進党員として党員勧誘に遊説したりしている。明治十六(一八八三)年になると、自由民権運動も末期的となり、自由党と立憲改進党間の争いになっていった。そのようなとき、三島通庸が栃木県令を兼任することとなった。三島は前任地の山形、福島での自由民権運動弾圧や、人民に大きな負担をかける土木工事の強行で悪名がとどろいていた。栃木県内の民権運動家は離散し、官吏の中にも辞職してしまう者がいた。財産家も多額の寄付強要を恐れ、中には県外に出て行く者もいた。着任後の三島県令は、恐れていた通りの暴政を行った。正造は「三島の狼心に抵抗し、三島をして寸時も本県に止まる能はざらしむるを任とせん」(『田中正造昔話』)と抵抗運動を進めていった。正造の戦いは、県議会での対決と、中央政府への訴えという形をとった。
 まず、県議会であるが、議員は正造に限らず自由民権の流れをくむ者が多かったため、三島県令との全面対決となった。その様子は『二里山の星霜。栃木県議会百年史』(下野新聞社)に述べられている。両者の対立点は政府の裁定にまわされ、結局県令側の主張が通っていった。そこで、正造は三島県令の不法不正の証拠を集め、中央政府へ訴える方法をとった。内務大輔土方久元や内務卿山県有朋らに栃木県政の実情を訴えた後、さらに証拠収集を続けた。この時、三島側は刺客を送ったり、警察に正造を追わせたりしたため、正造は隠れて各地を転々とした。証拠収集も「三島の罪状累々として山の如し、然れども三島を畏れて敢えて証拠を与えず、之れ予が虎穴における運動の一難事なり」(『田中正造昔話』)というように、人民の協力はなかなか得られなかった。最後は出京後、警視庁に出頭し拘留された。正造は公判において、三島暴政を暴露できることを期待した。そのようなとき、三島は突然県令を免職になり、内務省三等出仕に降格された。正造の訴えや、三島暴政が東京の新聞に掲載されたことなどで、政府としても三島をほっておけなかったようだ。
 やがて正造は釈放され、県内各地で大歓迎を受けた。ただ、正造は人民のために暴政と戦っても、人民がそれについて来ない事を痛感している。人民(被害者)の多くは、三島を恐れ、その証拠を提供することすら拒んでいる。まして、三島暴政と正面きって戦うことなどできるはずはなかった。正造はそのような人民を嘆きはしたが、決して責めはしなかった。その戦いを行うのは、正造ら指導者(人民に選ばれし者)の役割だという自負があったためだろう。


第三章 足尾鉱毒事件時代
 明治十八(一八八五)年、正造は栃木県議会議長となり、明治二十二(一八八九)年の大日本帝国憲法発布式典には、議長の資格で参列している。憲法発布を正造は非常に喜んで、これによって人民の権利が国の大法によって保証されたと考えた。そして、翌年、国会が開設されるに及んで、正造は第一回総選挙で当選した。憲法制定と国会開設という自由民権運動で唱えてきた夢が、制度上は実現した。
 第一回議会に際し、勢力が衰えていた政党(立憲改進党や、旧自由党系の立憲自由党)は、再び体勢を整え、互いに立憲主義の立場で、超然主義政府にあたることを確認した。正造は、後に藩閥政府同様、政党にも絶望するが、この時は、人民のための政治は藩閥政府でなく、政党によってなされると信じていた。それは、次の日記にみられる。
「国家の為とは、(中略)広く天下国家人民の為をさして専らにこれを云ふなり。故に余は明言せんとす。今の政府は信用なし、且つ責任を重ぜず、政党之に代えて真誠に責任と興廃を共にし、国家と安危を同ふするの政府を創立せざるばからざるなり」
 正造は政府の専横の抑制が人民の利益につながると、議会での質問権を重視し、それによって政府を追及していった。第一回から第九回議会までに提出された二百十二件の質問書のうち十四%強の三十件は、正造が提出したものである。議会での質問演説も、垢じみた衣服、乱髪という独特の風貌と、怒鳴り声によって名物となり、「栃鎮(とちちん)」「田正(たなしょう)」などと称された。そこには、人民から離れた存在となり、中央の晴れ舞台で華々しく活動する政治家正造の姿がみられる。そのような正造が、再び人民の切実な問題において、人民を代表して戦うようになった大問題が足尾鉱毒事件であった。
 足尾銅山は江戸時代に開かれたものだが、幕末には衰退し閉山同様になっていた。それを明治九(一八七六)年に古河市兵衛が買い入れ、再開発に乗り出した。やがて、新しい鉱脈が次々に発見され、明治十年代後半から大増産され始めた。銅山からの廃棄物(鉱毒)は、足尾を水源とする渡良瀬川に流れ込み、沿岸に害毒をもたらした。その影響は、まず魚の大量死となり、明治二十年代初めには、全く魚の住めない川となってしまった。農業への影響は、明治二十三(一八九〇)年の大洪水によって顕著になった。かつて洪水は、肥えた腐葉土を運んでくれる天の恵みだったが、今は鉱毒を田畑にまき散らし、農作物を枯らしてしまった。洪水にしても、水源地足尾で銅山燃料用に山林を伐採したことが、被害拡大の原因となっている。この一連の被害は、足尾銅山による人災だと、正造は終始主張した。
 鉱毒被害が現れ始めたのは、明治十年代後半からであるが、そのころ正造は三島県令問題の最中にあり、全く気付いてない。日記に鉱毒問題が初めて記載されたのは、明治二十四(一八九一)年九月十六日である。この時、正造は左部彦次郎と共に鉱毒被害地調査に乗り出した。そして、十二月の第二回議会で、「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を提出した。正造が半生をかける足尾鉱毒事件への取り組みが始まった。それは、古河市兵衛や足尾銅山のみでなく、藩閥政府の体質(殖産興業政策による鉱工業優先及び癒着)に対して、人民(沿岸農民)の権利を守っての戦いであった。ただ、初期段階では、正造の鉱毒問題への取り組みは本格的なものではなかったようだ。地元での鉱毒被害調査は行っていたが、活動は議会での質問が中心であった。それも、「不肖儀はただ農商務の職を怠り候事を責むるまでにて」と言っているように、政府の職務怠慢を批判するのが主目的だったようだ。渡良瀬川沿岸の被害民達も、明治二十五(一八九二)年より始まった示談にて反対運動を停止していった。正造は示談に反対しながらも、被害民をあえてまとめようとの動きはしていない。立憲改進党勢力拡大のため、全国演説を行っており、中央での立憲政治確立への関心が強かったようだ。
 そのような正造や被害民に鉱毒問題の深刻さを思い知らせたのが、明治二十九(一八九六)年の七月と九月に渡良瀬川を襲った大洪水であった。洪水の被害は一府五県、十二万戸、五十万人に及んだ。被害地の田畑は鉱毒を含む泥に覆われ、作物は枯れ、一面の荒野となった。示談の根拠となっていた粉鉱採集器は、鉱毒予防に全く効果がなかったことが明白となった。これで、永久示談に傾いていた被害民も目が覚めた。正造は「足尾銅山鉱毒停止」のための請願書を起草し、被害民の組織化に着手した。
「七月二十二日洪水より只の一日も渡良瀬川堤防及び鉱毒に関して運動説明せざる日なし。村々の人々はウルサイと迄に思へり。県議諸氏も亦ウルサク思はれたるならん(中略)本郡人心首尾メツレツ」
 この文から、人民をまとめる上での正造の苦労がうかがえる。それでも、十一月の雲竜寺における被害民大会で、栃木群馬三十八町村にわたる被害民による精神的契約書調印でもって、一大組織をつくることができた。
 人民を組織化して運動を進めようとするのは、三島県令への抵抗運動ではみられなかった傾向である。以下、人民の運動と正造との関係を中心に、足尾鉱毒事件の推移をたどっていく。
 被害地での鉱毒反対運動の盛り上がりと組織化を背景に、正造は第十回議会において、「公益に有害の鉱業を停止せざる儀につき質問」を提出し、説明演説を行った。これに呼応し、被害民七百人による第一回大挙請願(東京への押出し)が行われた。また、津田仙、島田三郎、谷千城ら知識人による鉱毒説明会が相次いで開催された。世論喚起のもと請願を進めるという正造得意の方法である。この動きに押されて、農商務大臣榎本武揚の被害地巡視が行われた。(同時に第二回押出しが行われた。)この時、政府は銅山の操業停止を一旦は決定した。しかし、古河鉱業寄りの勢力の巻き返しによって、鉱毒予防工事命令に変わり、なれあい工事のもと停止は回避された。それでも、鉱毒予防命令により安堵感が広がり、知識人の支援も被害民の運動も下火になっていった。このことを正造は、日記に次のように書いている。
「およそ業ハ盛衰あり。二十九年七月より十一月までハ正造一人なり、三十年二月ハ三千四千の同志あり、同年六七八月、九月、十月までハまた三四人の同志となり、示来少数の運動となれり。正造孤立となる事再三にして、あるいハ目的を達するに至らるならん」
 数には誇張があると思うが、これから組織的な運動を粘り強く継続する事の難しさがうかがい知れる。
 その後、第三回押出しが突然行われた。これは、前二回と違い正造が全く予期してなかったものだった。雲竜寺の一日きりの会合で決定し、一週間後に決行されるという、無計画で感情的なものだった。正造はこの押出しを南足立郡保木間で止め、総代五十名を残し帰村するよう説明演説を行った。「保木間の誓い」と呼ばれるもので、概略は次の通り。「皆様、私が田中正造であります。知らぬ御方のみのようですが、十中の一くらいは私を知る人もあらん。(中略)正造は日本の代議士にて、また其の加害被害の顛末を知るものなり。故に衆に先だちて尽力すべきは、正造が当然の職分なり。(中略)中央に於いて、政府万一事実を解するの後、なお処分怠る如き事あらば、正造は其れこそ諸君を同伴して出京せんのみ」
 出だしの言葉は、この時期、正造の影響力がまだ人民の一部にしか及んでない事を示している。正造は「保木間の誓い」で被害民全体に対し、指導的立場を確立しようとした。第一回、第二回押出しが議会開催中をねらい、正造の議会活動と呼応したように、人民の行動に計画性(結局、正造の意図にそったもの)を望んだ。正造の人民による運動への見方は、そのようなものであった。戦いの中心は正造であり、人民は正造の戦略に基づき、その指導のもと行動するのが最良との考えがあったのであろう。
 正造は保木間で残った被害民総代と共に、政府各省に陳情したが、全く相手にされなかった。また、正造が最後のわずかな望みを託した憲政党内閣も、猟官争いによる内部分裂で、何もしないまま四ヵ月で崩壊してしまった。正造は第四回押出しのための組織(「鉱毒議会」と称した)をつくり準備を進めた。政府に対する期待を全く失っていた正造にとって、今や頼りになるのは自ら組織した第四回押出しであった。これを背景に世論も盛り上げ、議会で政府に激しく迫る予定だった。
 ところが押出しは、出発間もなく、いわゆる「川俣事件」で挫折してしまった。目ぼしい幹部ばかりか、中堅指導者層まで根こそぎ逮捕され、それ以後の活動は全く不可能になってしまった。正造は怒りを込め議会で政府を追及した。二月九日から二十三日までの間に、四十一件もの質問書提出、質問演説を行っている。「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」では、
「民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ、法ヲ蔑スルハ国家ヲ蔑スルナリ。皆自ラ国ヲ殷ツナリ。財用ヲ濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ亡ビザル国ナシ」
と述べ、その質問演説では、国は亡びてしまったと嘆き憤りを表明している。一連の質問に対する政府答弁は「質問の趣旨その要領を得ず、依って答弁せず」であった。政府も議会も全くあてにならなかった。人民も川俣事件で運動する力を失っていた。脱党し議員も辞職した正造は、最後の手段とも言える直訴に向かった。
 正造の最もセンセーショナルな行動として知られるのが、天皇への直訴である。これで佐倉宗吾と並び、義人と呼ばれるようになったと言われる。ただ、直訴の背景に関し、正造自身が日記や書簡で述べたものは全くない。そのような中で、木下尚江が『田中正造翁』で記した事が、長い間、直訴の定説になっていた。これに対し、東海林吉郎氏が毎日新聞主筆・石川半山の日記を基に、直訴を計画的戦略的なものとして研究結果を発表している。(「足尾鉱毒事件における直訴の位相」渡良瀬川研究会編、『田中正造と足尾鉱毒事件研究』1、伝統と現代社刊) その大要を示すと次の通り。
 川俣事件後、鉱毒反対闘争の組織的退潮にいかに歯止めをかけ、さらに活性化するかが正造にとっての切実な問題となる。ここに、直訴が新たな戦略的意義をはらんで浮上してくる。すなわち、直訴によって社会的衝撃を与え、報道機関を通じて世論に点火し、足尾鉱毒事件に対する社会的理解の輪を広げ、鉱毒反対闘争の活性化を図ることであった。その協力者に毎日新聞社の石川半山がいた。半山の日記、明治三十三(一九〇〇)年六月八日によると、半山は正造に次のように言っている。
「鉱毒問題を解決スルニ調査会ハ無用ナリ 平和的手段ハ君ノガラニなき所 十年平和手段を取って尚決スル能ハズ 今は唯一策アルノミ(中略)君にしてもし行ふならば僕之を云はん 君唯佐倉宗吾タルノミ 田中躍起快之誓断行 僕及ち其方策ヲ授く」
 かくして正造は、直訴に当たっての必要条件、新聞工作を含めて、石川をその協力者として獲得する。さらに、六月十日の日記では、「朝 幸徳を訪ふて田中正造の件を協議す」とあり、ここで直訴状を幸徳秋水が執筆すること、及び一連の新聞工作についても協議したものと思われる。直訴状執筆は機密保持の点から、決行日に接近した日が望ましい。正造は直訴前日の午前中までには、幸徳執筆の直訴状を手にしていたが、これを訂正するか大いにためらいがあった。だが、決行日の朝を迎え、やはり自らの気持ちに即して訂正に踏み切った。そして、直訴。正造は捕らえられ、麹町警察署で取り調べを受けた後、釈放された。
 釈放後、正造、半山、幸徳は直訴の総括を行った。半山日記によると、
「幸徳遅く来る 呵呵大笑々々 余田中に向テ曰く 失敗せりゝゝゝ 一太刀受けるか殺されねばモノニナラヌ 田中曰く 弱りました 余慰めて曰く やらぬよりも宜しい」
とある。正造は直訴という行為を通して、近衛兵に一太刀受けるか殺されるかして、世論の沸騰に点火しつつ、鉱毒反対闘争の活性化へ衝撃的な総仕上げをなすことを真の狙いとしていた。このことは、正造の直訴について広く行き渡っている俗説、ひたすら天皇にすがろうとしたのではなく、まさに戦略として展開されたものであることを示している。

 以上が大要であるが、そこでは直訴の対象が天皇でなく、世論にあったとしている。私も佐野郷土博物館で直訴状の現物を見たが、いたるところ書き直し、訂正印だらけであった。外見上は極めて見苦しいもので、本当に天皇に渡そうとしたのかと疑問が残った。おそらく、天皇に渡る前に取り押さえられることを前提としたと思われる。ただ、内容は世に広まることを想定し、自分の意にそったものに訂正したのではないだろうか。
 さて、直訴に際し、正造が人民をどうみていたのか考えていく。直訴四か月前の日記では、肥前の五島島民は無知無識無気力無精神で、どんなひどい目に遭わされても逃げ隠れするのみだという例を挙げ、関東人民も同様だという。そして、次のように述べている。
「或る人ハ或る人に語りたりとのはなしに、被害地の人民ハ何を無理しても腹を立てぬから面白い。ひどい目に遭わせても腹を立てぬから、なぐさみ半分に無理をしてひどい目に遭わせてみたらどうですと」(『田中正造全集』第十巻 日記)
 やや皮肉をこめて、被害民がますますひどい目に遭うのは、自分達にも原因があるとしている。そのような人民が、主体的に鉱毒反対運動などできるとは到底考えられなかった。正造が人民の中で期待していたのは、永島与八、野口春蔵、大手喜平、左部彦次郎といった指導者層だけで、一般人民はそれについて来るだけのものと考えていた。第四回押出しでも、東京見物や成田山参詣も計画されており、その名目で動員された者も多かったという。川俣事件で幹部が全員逮捕されてしまった後は、多くの被害民は運動から逃げ隠れするようになっていた。そのような人民を再び立ち上がらせるには、佐倉宗吾の再現が最も効果大と考えたのだろう。そして、世論の後押しで、政府を動かすことであった。明治も後半に入り、県会議員や代議士を経験したこの時期においても、正造の根底には最終手段として、自分が命を捨て目的を達そうという名主的精神があった。

第四章 谷中村問題時代
 正造の直訴によって、爆発的に盛り上がった鉱毒世論が政治問題化するのを恐れた政府は、第二次鉱毒調査委員会を設置した。委員会は鉱毒被害の原因が鉱毒と洪水の両方にあるとした。ただし、鉱毒は明治三十(一八九七)年の鉱毒予防命令以前に排出された残留分が、大部分を占めているとした。そして、問題を洪水対策にしぼり、渡良瀬川洪水問題に論点を移していった。そこで、栃木県最南端の谷中村を遊水池にし、出水の時はそこに流し込もうという案が浮上してきた。明治三十六(一九〇三)年六月、鉱毒調査委員会報告書が公表されると、県による谷中村買収計画が露骨に進められた。足尾鉱毒事件は、最後の拠点となる谷中村問題へと移っていった。
 谷中村遊水池計画が浮上してくると、渡瀬沿岸被害民による鉱毒反対運動は停滞した。おりしも、この年の収穫期には、今までにない豊作をみた。この様子を、木下尚江は次のように述べている。
「何事ぞ。今年何れの田にも人の背に稲が茂って、房っさりと重げに穂を垂れた。其れは去年の夏の洪水が、多年山林伐採の結果、水源の山々大潰れに潰れた新しい土壌を、沿岸一面分厚に置いていった為だ」(木下尚江『田中正造翁』新潮社)
 このことは、政府や足尾銅山側が言う、予防工事が効をを奏したという宣伝の格好の材料となった。被害民は、あとは治水によって、鉱毒被害から救われると信じるようになった。正造は日記で、「人民ノ中無意識ナルモノ多ク、之ニ欺カルルモノモ亦多シ」、「離間策ナルモノハ尚鉱毒ノ浸染ノ如シ」と述べている。権力に従順で、無知無意識な被害民は、政府や銅山の宣伝を信じ、離間策にのって目先の利害のため運動から離れていった。鉱毒反対運動の拠点だった雲竜寺は空寺同様となり、東京の鉱毒事務所も閉鎖となった。正造の命を賭けた直訴は、鉱毒問題を鉱毒問題にすり替えられることとなり、鉱毒反対運動の停滞という皮肉な結果を生んでしまった。
 もし、政府なり銅山側が鉱毒反対運動消滅をねらって谷中村遊水池化案を出したのなら、それは正造が常に嘆いていた人民の弱点を巧みについた最高の方法と言える。鉱毒反対という利害の一致は、渡良瀬川沿岸の広大な地域の団結を生んできた。それが、下流一村の犠牲において他が救われるとなると、上流下流の利害は反するようになる。今までの同志は最大の敵と変わる。谷中村より上流の沿岸被害民は、鉱毒反対運動から離れたばかりか、逆に遊水池化促進運動を行うに至った。正造の片腕として活躍した左部彦次郎も、やがて県の土木課に雇われ、買収工作、工事反対派の切り崩しを行っている。谷中村を守るために、正造は政府、県、銅山ばかりでなく、かつての同志である人民とも戦わねばならなくなった。
 明治三十七(一九〇四)年七月、谷中村問題専念のため、正造は谷中村に入った。今までは、名主、県会議員、代議士という人民公選による公職の立場であった。しかし、今後は、一平民一浪人の立場での戦いであった。
 正造は谷中村下宮に「悪弊一洗土地復活青年事務所」を設け、そこを拠点に堤防修築や買収反対運動に奔走した。谷中村を歩き回り、買収されそうな者を叱りつけたり説き伏せたりした。序論で述べた島田宗三が正造と行動を共にするようになったのは、この頃からであった。島田宗三は、正造と谷中人民の様子を次のように述べている。
「谷中村民とのやりとりを聞いておりますと、老齢の翁はずいぶんと可哀想でした。他人の村で翁は一生懸命働いても、大方からはいっこうに有り難がられもしなかったのですからね。当時まだ少年だった私が翁にたいして、田中さんの話が皆にはわかるでしょうか、とおずおず聞きますと、ああ、あれだけ怒鳴っておけば少しは効くだろう、とケロリと笑っていましたが、それにしても、後ろから見る肩の肉がめっきり落ちた翁は、たまらない孤独感、そんなものを感じました」(ケネス・ストロング『田中正造伝』晶文社)
 これは、正造と人民の間の溝が深かったことを如実に表している。谷中村問題に限らず、それ以前でも、正造と人民の関係はこのようなものであったろう。正造の言うことを、人民は理解できていなかった。正造はそのような人民を寂しく思いながらも、理解させるというより、とにかく自分の指示に従うよう期待した。常に人民のためにと考えていた正造であったが、そこには、お互い理解できない溝があった。
谷中村の人々は、強制買収により次々と立ち退いていった。明治三十九(一九〇六)年七月には藤岡町に合併され、谷中村は名目上消滅した。四百五十戸中、最後に残ったのは、十九戸、百余人となった。彼らはもはや谷中村民でなく、残留民と呼ばれるようになっていた。政府は残留民を追い立てるため、土地収用法を適用し、彼らの家を強制破壊することにした。強制破壊の三日前、正造が逸見斧吉に出した手紙に次のような部分がある。
「但し二十八日以来ハイカナル変化ニ至ルカ、同志一同ハ可憐ナル人民ニ面会する事すらも出来ぬ場合となるは」
 この時、正造にとって同志一同とは誰か。可憐なる人民(残留民)ではない。林竹二氏は次のようにみている。
「谷中人民はどこまでも無知識無気力で正造の庇護下にある可憐な人民であった。正造にとっての同志は、在京の有志、たとえば逸見斧吉や議会での諸友人、東京や伊香保から応援に駆けつけた柴田三郎や菊池茂や木下尚江…」(林竹二『田中正造の生涯』講談社現代新書)
 ここで、同志を共に戦う仲間とするなら、人民は正造の同志ではなく、被保護者であった。強制破壊の日、正造は木下尚江らと共に破壊作業に立ち合い、官憲を監視し、残留民を見守った。しかし、残留民は抵抗することもなく、平日と少しも変わらなかった。このような残留民を正造は次のように見ている。
「谷中の人民権利に暗く、誠に太古の民で、堤防を破られて憤ること少なく、しかも忽ち忘れ、いままでは少しもこの心がないので我々は時々これを復誦さする程である」(逸見斧吉あて手紙)
 強制破壊に際しての残留民の態度を、正造は理解できず、太古の民のようだと言っている。はたして人民は、そんなに弱いものなのだろうか。先祖代々の家を破壊されるのに耐え、水没した廃村で粗末な仮小屋にて生きて行くには、非常な忍耐と精神力が必要なはずである。木下尚江は残留民の強さに気付いた。それは残留民に対して行った次の演説にみられる。
「恐らく日本の地においては、未だ見たことのない新しい生命の証人として、諸君を立たせることになった。田地と住居、すなわち諸君の生活の武器、否、生活そのものをば、権力の来て奪うにまかせて驚かない。(中略)自ら省みて、一層激しき苦痛を覚えます。それは諸君と私の間に遠い距離が置かれてあることです。諸君の生活は生活全身である。しかるに、私はただ口だけである。諸君を見ると、みな力足を踏んで、大地を大股に歩いている。私は虚空に迷うて居る」
 この木下尚江の反省は、まさに正造にもあてはまった。正造はあくまでも人民の外にいて、そこから人民を指導しようとしていた。そして、人民のこと、人民の戦いとはどういうものかを理解できていなかった。
 それまで、精神的には人民の外にあり、そこから保護、指導しようとしていた正造が、人民(残留民)の中に入り、そこから学び取ろうとした契機は、次の日記にみられる。
「人のためをなすには、其の人類のむれに入りて其のむれと辛酸を共にして、即ち其のむれの人に化して其の人となるべし、そして其のむれの人類が皆同志となり之を人を得るの法と云ふ」(明治四十年十月二十二日)
さらに、二年後の日記では、
「神や必ずしも人ニ遠からず。目前を見れバ必ず神在す。染宮興三郎氏は即ち神の使へなり。此人ハ谷中ニあり」
 と、残留民を神と例えるようになった。これは正造が残留民に何らかの啓示をみた表れであろう。さらに、明治四十三(一九一〇)年以降になると、「谷中人民田中正造」と称するようになった。ここに、ようやく正造が人民の一人となり、人民を同志とするようになった。正造が残留民から学んだ人民の戦いはどういうものであったか。林竹二氏は次のように述べている。
「田中正造は本当に谷中で戦っているのは谷中人民であることを知った。(中略)谷中の戦いの実態は、権力との戦いではなく、人間の生きるのを拒む谷中の過酷な環境との戦いであった。しかも、谷中の人がそこで生きることを選択した環境の過酷さは、単に自然的なものではなかった。その背景には、どんな手段に訴えても彼らを谷中から追い出そうとする権力の意志があった。(中略)実行によって国家が個人の権利に立ち入ることを拒んだのは、彼が権利に暗いときめつけた谷中人民であった」
 それまで、正造の戦いの最終手段は、佐倉宗吾のように命をかけ訴えることであった。正造は人民のためなら命を捨ててもよいと、本気で思っていたであろう。しかし、そのような正造の戦いも、暗唱に乗り上げていた。ところが、残留民の戦いは、正造とは逆に生き抜くことであった。半ば人為的に人の住めないような環境にされた廃村で、生きていくことが、自らの権利の主張であった。正造は、それまで自分の保護下でなければ、何もできないものだと考えていた人民の中に、偉大な力が潜んでいるのを知った。そして、人民自体が戦いの主体でなければならないことを悟った。
 正造が晩年に行おうとした戦いは、谷中村の復活であった。「一村を滅ぼすことは、一国を滅ぼすに同じ」(明治四十年日記)と言っているように、谷中問題はけっして一地方の小問題でないと考えた。正造は、この意味を次のように説明した。
「たとえば一つの腫れ物は、全身の血液が腐って一局部に現れるのと同じく、谷中村が亡びたのは、即ち上下人心の亡びた結果にして、実に亡国の反映である。故に谷中村を救済することは、日本全国を救済する所以でもある」
「たとえば国があり人がいても、その国に正しい人のいなくなった状態を亡国と呼んだ」(島田宗三『田中正造翁余録』三一書房)
 亡国の元凶は人心の腐敗だという。正造は当初、亡国へ至った原因を政府、議会、銅山側にあると考えていた。ところが、この段階においては、人民自身にあると考えが変わっている。次の日記がそれを示している。
「政府の不善は人民の不善なり。政府の腐敗は人民の腐敗なり。故に政府の悪事は人民の正しからざるの反響なり」
 さらに、渡良瀬川沿岸人民に対しても、次のようにみている。
「今の渡良瀬川上流人民の気力落ちはて、人もなし、何もなしとなり、却て足尾を賛成するやつまでも出来たり、油断せばかくのごとし」
 渡良瀬川沿岸住民も、谷中村を滅ぼすことに荷担していた。彼らは遊水池化及び渡良瀬川改修工事の早期実施を求め運動し、その障害となっている残留民に圧力をかけたりした。また、強制破壊された家屋の材木が野積みになっているのを、隣村の者が盗んでいったとの話もある。さらに、正造死後の話だが、残留民が立ち退きに至った原因の一つに、堤防かっきり事件がある。大正四(一九一五)年の台風時、沿岸の海老瀬村民が自村の堤防を守るため、谷中村側の堤防を切ってしまった。以上のような、同じ人民(残留民)を犠牲にするという、人民(渡良瀬沿岸民)の姿は亡国の現れである。
 今や正造は、人民自体がその腐敗堕落のため、亡国の元凶だという見方に変わった。しかし、その亡国を救うのも人民自身だと考えた。その方法は、人民の中で最も虐げられ、最初に滅ぼされてしまった谷中残留民によって教えられると言う。
「谷中残留民の経験ハ漸くして谷中を滅ぼさぬ良法良案を持ちて居る人とハなれり、又残留民の今日の心ニテハ周囲の村々をも滅ぼさぬ事の出来るほどの知識も道徳も出来て以て居る」(島田熊吉、宗三あて手紙)
 谷中の廃村でひたすら戦い続ける残留民こそ、その見本である。ただ、そのような残留民に対しても、正造は次のように要求している。
「今日本亡びる、谷中人民ハ勿論静ニ道理を研究すべし、人の道理とハ先ヅ何故ニかかる災の来たものか、又人民愚かニせよ、犯すわるものハ何者か」(同手紙)
 残留民を含めて全人民に対して、正造が望んだのは、この道理の研究だったと思う。渡良瀬川沿岸人民が政府や銅山の宣伝にのり、谷中村を犠牲にして鉱毒反対運動を停止したのも、正しい判断をするための道理を知らなかったためである。人民に対し道理を知らせることこそ、正造の最後の仕事(戦い)だった。
 正造がこの頃さかんに治水論を言うのも、このあらわれと思う。正造は一連の問題の本質を次のように考えていた。大洪水の原因は水源地足尾山地の濫伐と、鉱毒が東京に流入するのを防ぐため、利根川の関宿の石堤を狭めたことによる。(利根川から渡良瀬川に逆流させるため。)政府は足尾鉱毒に起因する問題を、谷中村遊水池化と堤防改修という治水で逃れようとしている。治水とは人工的に行うものでなく、自然の状態にするのが最もよい。よって、関宿の流水妨害工事を改め、元に戻せば逆流による大洪水はなくなる。それならば、破憲破道の遊水池化は必要ない。さらに突き詰めれば、足尾銅山の鉱毒を完全になくすことが本質である。これらを証明し、人民が道理に気付くようにと、治水会をつくり河川調査に没頭した。しかし、年老いた正造が、これを完成させることが不可能なことはわかっていた。あとは人民がこの主旨を理解し、引き継いでくれることを期待するだけであった。谷中村が亡びたのは、天災でなく人為的なものである。「天災にあらざれば回復する事を期して去らず」(日記)と、人民の改心によって、谷中村を復活させられると期待した。人民の一人一人が道理をわきまえ、谷中村復活ができたなら、そこまで人民が成長したなら、日本も亡国から救われると考えたのであろう。 

第五章 最後の語への考察
 今まで、正造の人民観の変遷を追ってきたわけだが、最後にたどり着いたものが、最後の語に秘められていると考える。本章では最後の語への考察を行うが、その前に、死に至るまでの正造に触れておく。
 大正二(一九一三)年になると、正造の病気(胃癌)は進行し衰弱が目立ってきた。島田宗三に対して、関東の河川を全て見ておくよう指示し、谷中村に関する件も、「僕に相談なく君の見識で断行してもらいたい」(島田宗三『田中正造翁余録』三一書房)と言っている。死が目前に迫っていることを感じ、自分の死後もこの戦いが引き継がれることを島田宗三に託している。
 そして、八月二日、足利郡吾妻村の庭田家の縁先で倒れ、そこで病臥した。正造の看護には、ほとんど別居状態だったカツ夫人、島田宗三、木下尚江、岩崎左十(被害民総代挌)らがあたった。倒れてからの一ヶ月後の九月四日、臨終となった。その日の朝、木下尚江が枕元へいき顔を見ると、正造は目を開いて、「病気は問題ないです」と言った後、「これからの日本の乱れッ」と言い、全身けいれんするばかりの悩みを示した。やがて、落ち着いて次のように言った。
「鉱毒事件で多年有志の人達を奔走させましたが、只だ奔走させただけで、教育と云ふ事をしなかった。教育をしなかったのでは無い、実は教育と云ふ事を知らなかった。此の田中正造と云ふものが全く無教育者でがすから、其れを自分一人抜けてきてしまって、外の者を皆んな捨てほかして置いたのですから、今日の場合、何ともやむを得ないです」(木下尚江『田中正造翁』新潮社)
 ここの言葉、「教育をしなかった」も、最後の語と並んで重要な意味をもつと思う。こに関しては、結論のところで触れる。
 それから少し過ぎて朝の八時頃、島田宗三が廊下の外に座っていると、正造が岩崎左十を枕元に呼び寄せ、最後の語となることを言った。その言葉は島田宗三にはかすかにしか聞こえなかったので、翌日、岩崎に問うたところ、彼は「何も言いませんでした」と隠匿してしまった。それを側で聞いていた木下尚江は、昨日同席していたので、彼が聞いた最後の語を巻紙に書き、島田宗三に渡した。ただし、木下尚江は島田宗三に、その内容は他に示さないように戒告したという。(島田宗三『田中正造翁余録』三一書房)
 最後の語は岩崎左十に対して述べられたものだが、木下尚江は島田宗三に深く関わる事と考え彼に伝えた。最後の語を岩崎左十は隠匿し、木下尚江は他に示すなかれとし、島田宗三も死ぬまで公開しなかった。
 最後の語
「同情と云ふ事にも二つある。この正造への同情と、正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情でハ無い。問題から言ふ時にハ此処も敵地だ。問題での同情で来て居て下さるのハ島田宗三さん一人だ。谷中問題でも然うだ。問題の本当の所ハ谷中の人達にも解って居ない」
 なぜ三人ともこれを秘密にしたのだろうか。遺言(最後の語)公開を報じた新聞記事(昭和五十五年二月十二日。朝日)では、次のように説明している。
「足尾鉱毒事件への世間の関心は(中略)しだいに下火となって、わずかにキリスト教関係者の手で行われるようになっていた。そうした状況の中で、正造は絶望に満ちた言葉を残し、戦いなかばで死んでいく。岩崎の黙殺、木下の戒めは、まだ運動を続けなければならない同志への影響を考慮してのものと思われる」
 たしかに、渡良瀬川沿岸を敵地と言い、谷中村問題の本当のところは谷中人民自身わかっていないという正造の言葉が伝わると、人民は動揺するであろう。世論もそのような被害民への同情を示さなくなるであろう。
 しかし、正造の真意はそうではなかったと思う。絶望とも思える最後の語の中に、逆に人民への大きな期待が込められていると考える。以下、それに関し述べていく。
 正造の最後の語は、本人が遺言となることを意図して言ったものではない。胸の中にうずまく苛立ちが、思わず口をついて出たものと思う。病床にある自分に次々と見舞いが訪れるが、問題への同情で来る者はいない。正造が取り組んできて、さらに死後も引き継いでもらいたい問題を理解しているのは、島田宗三だけであった。その問題は序論でも述べたように奥深いものであるが、正造が特に心を痛めていたのは、亡国となるほどの人心の腐敗であった。一つの村を犠牲にし、それを滅ぼしてしまう人の心は、それだけに止まらず、郡や県、やがては国までも滅ぼしてしまう。これをどうするか。
 正造は、その戦いを谷中残留民の中に見いだした。しかし、残留民の行動の動機は、自分の身にふりかかった災難だからであろう。他人の事だったら、ここまで行えるのか。正造は、「谷中人民ニ同情シテ止マザルナリ。而モ谷中人民ニノミ同情スト思フナカレ。予正造ハ多年天下ノ人民ノ同情スベキ人ニ同情ス」(川島要次郎あて手紙)と言うように、谷中問題が天下(日本全体)の問題だから戦っているのである。けっして谷中村だけのために戦っているのではない。谷中村残留民も、その本当の意義を理解してもらいたい。一方、渡良瀬川沿岸人民は、谷中村を滅ぼすために荷担するくらいだから、この問題においては敵といえる。
 正造の望みは谷中村の復活であり、これを通して亡国に至っている日本を救済することであった。しかし、もう自らそれを実行することはできない。いや、たとえ正造が元気だとしても、このような大事業を少数の指導者だけの力で、できるものではないと悟っていただろう。それは、人民全体の力で行っていくしかない。人民には谷中残留民にみられるような、偉大な力がある事がわかった。正造は、ここで初めて、人民自身による問題解決に期待を寄せたのである。ところが、人民は現在迫っている亡国の危機に気付かず、団結どころか目先の利害に走り、仲間の犠牲を顧みない。正造の人民への期待が高まるほど、現実とのギャップの大きさが苦悩をつのらせた。それが、臨終間際になって、渡良瀬川沿岸被害民総代格の岩崎左十への、怒りと嘆きの言葉となったのではないだろうか。その裏には、唯一自分の真意を理解している(伝えてある)若き島田宗三を助け、人民全体の力で戦いを成し遂げてほしいという願いが込められていたのではないだろうか。

 
結論  ー最後にたどり着いた人民観ー
 正造は生まれながらにして名主となるべく期待され、そのように教育された。教育は家族によってだけでなく、人民の目(評判)によってもなされた。名主は人民の公選によるため、その支持が何よりも大切であり、徹底して人民に尽くし、時には命をかけるという姿勢が要求された。この原体験が、正造の人民観の基本をつくったと言える。名主的責任感に基づく庇護主義、温情主義、名誉感情は、谷中村問題半ばまで消えることはなかった。
 正造は自由民権運動を通じ、人民主権を唱えたが、同時に人民を視野が狭く無意識無気力なものとみていた。その権利は天から与えられたものと尊重したが、人民自身で守ることは不可能だと考えていた。権力側に不正があった場合、正造のような指導者が人民を保護し、権力側と戦うものと考えていた。六角家闘争や三島県令への抵抗運動がそれであった。足尾鉱毒事件では、人民を組織し請願のための押出しを行っている。これは世論喚起の目的が強く、主な戦いは正造により議会活動である。それが暗礁に乗り上げると、名主時代の遺物ともいえる直訴に及んでいる。
 正造の人民観が大きく変化をみせるのは、谷中村問題からである。足尾鉱毒事件の後半から、正造はさかんに亡国と言うようになった。当初、正造は亡国の原因は政府や銅山にあり、人民はその被害者だと考えていた。ところが、谷中村問題では、人民の弱点ー視野が狭く、目先の利害に左右されるーが如実に現れた。渡良瀬川沿岸の人民は、問題の本質である足尾鉱毒事件を棚上げにし、谷中村を犠牲にした。谷中村を亡ぼすことに人民も荷担していた。ここに正造は、亡国の原因は人民自身の腐敗堕落にあると見るように変わった。この問題においては、人民が正造の敵になってしまった。
 一方、谷中残留民に対しては、亡国の最大の犠牲者とみた。同じ人民からも踏みにじられている残留民は、正造が保護し戦ってやらなければどうにもならない存在と考えていた。ところが、万策尽き途方にくれてた時、正造は廃村で生きる残留民の中に偉大な啓示をみた。ここに、人民に対する大きな変化が生じた。それまで自分の保護下にあり、弱いものだとみていた残留民が、実は谷中村の戦いの主体であることを悟った。人民の指導者を自負し、その立場から戦っていた正造が、人民の中に入り自分も人民の一人となって、人民の戦いを学ぶようになった。
 正造は人民から教えられる立場に変わった。それまで指導者の立場からのみ人民をみていたため、人民のことを全く理解できないでいた。それが、立場を変えることで、人民のことがわかってきた。一つは、人民には偉大な力が潜んでおり、戦いの主体となりうること。もう一つは、亡国へ至る原因が人民の腐敗にあり、その責任が正造自身にあることに気付いた。それは、最後の語の前に言った次の言葉にみられる。
「鉱毒事件で多年有志の人達を奔走させましたが、只だ奔走させただけで、教育と云ふ事をしなかった。教育をしなかったのでは無い、実は教育と云ふ事を知らなかった。此の田中正造と云ふものが全く無教育者でがすから、其れを自分一人抜けてきてしまって、外の者を皆んな捨てほかして置いたのですから、今日の場合、何ともやむを得ないです」
 過保護な親が子の自立を妨げるのと同様、正造も人民の自立を妨げていた。自分ばかり先に走っていってしまい、人民に正しい知識と道理を学ばせ、自ら正しい判断ができるようにしなかったことを後悔している。この教育こそ最も重要な仕事だと悟った。
 正造は最後に、諸問題との戦いは、人民自身によってなされるべきだとの結論に達した。正造の死後間もなく、大正デモクラシーの時代となった。前時代の遺物ともみられていた正造が、最後に達した境地は、まさにデモクラシーの真髄だったのではないだろうか。



参考文献
・『田中正造全集』 第十巻日記  第十九巻書簡
・島田宗三『田中正造翁余録』三一書房
・木下尚江『田中正造翁』新潮社
・林竹二『田中正造の生涯』講談社現代新書


(本稿は昭和六〇年代に慶應義塾大学の卒業論文として執筆し、平成元年に提出したものである。誤字脱字以外は当時のまま掲載)




  「偉人たちの獄中期」
        田 中 正 造  
                             
(平成十一年 長期入院中に執筆。前記論文を物語風に)

 はじめに

足尾鉱毒問題で有名な田中正造は、生涯に四度牢獄に入っている。
一度目は、幕末、名主として領主と闘った「六角家事件」のため、江戸屋敷内の牢獄に十ヶ月と二十日間入れられた。
二度目は、明治四年、江刺県(現在の岩手県の一部)の役人時代に、上司殺人事件の容疑者として、三年以上入獄した。
三度目は、明治十七年、県会議員として県令三島通庸と闘った際、宇都宮、佐野警察署に七十九日間拘留された。
四度目は、明治三十五年、国会議員辞職直後に、川俣事件公判における官吏侮辱罪で、巣鴨監獄に一ヶ月と十日間入獄した。

これらは、政治犯といえる罪(容疑)が多く、田中正造の立場も、名主、県の役人、県会議員、国会議員と変化している。
 自称「下野の百姓」だった無学の田中正造が、歴史に永遠に残るような大仕事を成し遂げるまでなった背景には、常に学んでいく姿勢があったからだと思う。田中正造における学ぶということは、「その事において自分が新たにつくられること」であり、「旧情旧我を誠実に自己の内に滅ぼしつくす事業」である。(林竹二『田中正造の生涯』)
田中正造は少年期に、地元小中村の漢学塾に学んだくらいで、系統立てて学問をしたことはない。しかし、生涯において文化人や政治家をはじめとして、様々な階層の多数の人々と会い、そこから学び取っていった。晩年においても、家を強制破壊され、地獄のような環境の中で、ひたすら生き抜こうとする谷中村残留民の姿に、人民の指導者として生きてきた自分の不明を悟り、彼らから闘いの真髄を学びとろうとした。
ただ、正造は忙しすぎた。七十二歳で死の床につく直前まで、ひたすら歩きまわり、人と会い、不当な権力と闘い続けた。そのような正造が、じっくり腰を据え、書を読み、思索にふけることができたのが、四度の獄中生活だったのではないだろうか。現に出獄するたびに、猛烈な勢いで新たなことに取り組んでいった。古い自分を滅ぼし、新たな自分をつくっていくという正造流の「学び」が、獄中でもあったと考える。
そのような視点から、四度の獄中生活が、田中正造の軌跡にどのように影響したかみていきたい。


 六角家事件

田中正造は天保一二年(一八四一)十一月三日、下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれた。父富造は、小中村六角家領の名主だった。祖父も名主だった。名主の職は世襲でなく、村民による公選によった。両親は正造も名主にふさわしいようにと、幼少のころより厳しく育てていった。
領主六角家は、幕府旗本で二千石を与えられていた。領地は、小中村の約三分の二の他に、近隣の六か村、そして遠く武蔵国の二か村に及んでいた。やがて、富造は下野七か村の名主の総元締めである「割元」に昇進した。その後任の名主として、正造が選ばれた。十七歳だった。
当時の村には、名主などの村役人を自分たちで選び、寄り合いの合意で村を治めていくという「自治的好慣例」があった。年貢さえきちんと納めていれば、村の政治に関しては領主にとやかく言われる筋ではないという自負もあったようだ。
ところが、六角家の筆頭用人に林三郎兵衛がなると、その自治的好慣例が破られはじめた。農民の公選であった村役人を、林は勝手に任命したり、休役にした。さらに、賄賂を要求したり、江戸屋敷の普請のためにと二千両の納入を申しつけてきた。正造は反林派の名主や農民たちの先頭に立ち、林らの不正と闘った。これを六角家事件という。
正造らは、林派の悪政の調査と罷免要求の嘆願書を、領主や六角家の親戚、幕府へと出していったが、領主の死や幕末の動乱もあり功を奏しなかった。やがて鳥羽伏見の戦いが起こり、官軍は江戸をめざして進撃してきた。正造の同志二名が静岡まできた東征総督府へ訴え出た。そのような時にもかかわらず、総督府は訴えを聞き届け、林を逮捕し入牢させた。驚いた林派は、総督府に賄賂をもって働きかけ、一ヶ月で林を釈放させた。
正造は江戸に出て、六角家の本家にあたる烏丸家に、林一派の処分と、悪政を許してきた新領主(これを暗君とまで称した)を隠退させ、弟に家督相続させることを求める嘆願書を出そうとした。この時代に農民側がこのような要求をだすのは、破天荒のことだった。ところが、この嘆願書は領主と林側の手に渡ってしまい、正造は江戸屋敷の牢獄に入れられた。五年間にわたる闘争は、正造の逮捕で終末を迎えた。明治元年になっていた。
逮捕の翌日から正造の裁判が始まった。領主は、自分の領内の事に関しては、警察権、裁判権をもっていた。領主と林の出席のもと、林に頼まれた旧幕府の吟味方の役人が尋問を行った。正造は縛られ、土間に座らされて、彼らを見上げる状態におかれたが、ここぞとばかりに林らの不正を申し立てていった。林は顔面土色になり、次の間に退出した。
 翌々日、二度目の裁判が行われたが、吟味役は「田中差出したる書面は全体不敬なり、無礼なり」と言い、下役人に命じ鉄棒で背中を乱打した。「どうだ恐れ入ったか」と言われても、正造は「否」と答え、昨日同様の告発を行った。さらに乱打されても、正造は態度を変えなかったので、ついに牢に戻され、それ以後、裁判は開かれなかった。
牢獄は三尺立法(一メートル弱)の狭さで、立つこともできなかった。伸びをする時は、両手を床につき、おしりを立てて、ちょうど虎が怒っているような格好をした。また、足の伸びをとろうとするなら、仰向けに倒れ、足を天井に反らして獅子が狂ったような格好をしなければならなかった。便所は、牢の床に穴が掘ってあるだけの不潔なものであった。
 牢獄に入っていること自体が拷問だった。
 このように獄中生活は過酷なものであったが、さらに、正造が最も恐れたのが毒殺だった。当時、獄中で毒殺された例は珍しくなかった。まして、旧幕府の吟味役から、屋敷内の下役まで全て林派であることから、その危険性は十分考えられた。そこで、正造は食事を断ち、同士が差し入れてくれた二本の鰹節をかじって、三十日間命をつないだという。
正造の頬は落ち、目は窪んできた。読書はもとより、他人と話すことはできず、身体は伸ばせず、食事もとらないという極限状態にあっても、意気だけは盛んだった。「自分は学問はなく、記憶力はとぼしいが、自ら正しいと信じることを遂行するにあたっては、妥協も屈折もせず押し通す一徹な精神を有していたからだ」と、後に正造は述べている。そして、次の裁判を待って、満身の熱血をそそぐことを「唯一の楽しみ」にしていた。
やがて、吟味役が親戚の烏丸家の役人に代わった。三回目の裁判で新吟味役は、食事に毒を入れようなことはないと保証してくれたので、正造は断食をやめた。しかし、それ以後、裁判は開かれなかった。戊辰戦争が続いており、門外で行き交う人馬の音が聞こえていた。行政機関も麻痺状態で、裁判どころではなかった。
入獄から十ヶ月と二十日目に、第四回目の裁判が開かれ、判決が言い渡された。「領分を騒がし身分柄に有まじき、容易ならざる企てを起こし、僭越の建白をなせし」ことにより、領分の永久追放であった。有罪であったが、この領分は江戸時代のもので、すぐに廃止になってしまい、正造にはあまり打撃にはならなかった。一方、六角家領主は引退、弟が家督相続、林は免職という申し渡しがあった。こちらは、正造の訴えが全面的に認められた判決だった。結果的には勝訴といってもよかった。

この六角家事件を通して、正造は人民(農民)の「自治的好慣例」を守ったことになる。権力が人民の自治を無視するなら、それと徹底的に闘うことが、人民の代表である名主の責任であった。死と隣り合わせの獄中生活を不屈の精神で耐え抜き、目的を達成したことは、幼い頃より名主としての心得をたたき込まれてきた正造にとって、大きな自信となったに違いない。この一身を犠牲にして人民のために闘うという精神は、明治という新時代にも引き継がれていった。

 江刺県での殺人容疑

牢獄を出た正造は、小中村を出て隣村堀米村に移り、手習い塾を開いた。塾の師匠として百日過ごしたころ、かつて正造が学んだ漢学塾の先輩である織田竜三郎が訪ねてきた。織田は新政府の役についており、正造に東京留学を勧めた。やがて、正造は織田を頼って上京したが、その時には織田が免職になっていた。
行く当てのなくなった正造は織田の家に住み込み、下男のような仕事をすることになった。四ヶ月すぎたころ、郷土の先輩で、最近東北の江刺県官吏になった早川信斎が出張で上京したおり、正造を訪ねてきた。江刺県の小笠原知事も国府大参事も下野の出身なので、県の役人に採用してもらえる可能性があると、正造を江刺県に誘った。当時、同郷出身者は助け合うという風潮があった。正造は早川に伴われて江刺県に向かった。
ところが、江刺に着いてみると、小笠原知事も国府大参事も既に辞職して当地を去っていた。正造は途方に暮れたが、二週間ほど待たされて、幸いにも県の下級役人(附属補)に採用された。配属先は鹿角郡花輪町の支局だった。
江刺県は朝敵だった仙台、南部藩を処分して、新たにつくられた県であった。戊申戦争で荒廃した上、前年度の凶作による飢饉で、農民たちは困窮のどん底にあった。正造は「救助窮民取調」の役に就き、農民たちの状況を克明に調査し、救済策を報告した。それにより、秋田から大量の米を取り寄せ、急場をしのぐとともに、極貧層の農民に未開拓の土地を分配したりした。次に「聴訟掛兼山林掛」となり、簡易な裁判をこなしながら、開墾の事務をこなしていった。武士出身の役人と違って、農業に詳しく、農民の指導者である名主出身の正造は、この仕事に適任だった。忙しいながら充実した日々が続いた。

その様なとき、正造の直属上司である木村新八郎が殺害されるという事件が起こった。明治四年二月三日の夜、花輪支局の小使が、正造を起こし事件発生を知らせた。木村宅に最初に到着した正造は、瀕死の木村の応急処置をし、医者を呼びにやらせるとともに、犯人逮捕のための手配を指図した。木村は医者が到着する前に死亡し、犯人の痕跡もつかめなかった。
正造は事件の報告書を江刺県に提出し、もとの仕事に戻った。ところが、事件から三ヶ月後、殺人容疑で正造が突然逮捕されてしまった。日頃より、仕事のことで二人が衝突していたことや、事件当夜正造の衣服に血が付いていたといった理由だった。いつまでたっても犯人を逮捕できず体面を汚した当局が、よそ者の正造を「いけにえ」にしたのではないかともいわれている。
花輪支局で正造は、巡回出張中の弾正台の役人の取調を受けた。明治になっても、江戸時代同様、拷問をともなった審問で、何度も鞭で打たれた。やがて、役人が秋田に巡回することになり、正造は江刺県本庁に送られた。縄でしばられ、足かせをはめられ、囚人用の駕籠で山々を越えていった。
 江刺でも、無罪潔白を主張して曲げない正造に、「そろばん責」などの拷問が続いた。さらに厳しかったのが、東北の冬の寒さだった。同室の囚人の四人が凍死した。正造は死んだ囚人の衣服をもらい受け、凍死することを免れた。
年が明け、明治五年の三月、江刺県が廃止され、岩手県が新設された。江刺の獄から、岩手の県庁である盛岡の獄に移された。岩手獄では、囚人がていねいに扱われた。岩手の県令は、かつて勤王思想のため藩の牢獄に入った経験があり、囚人に対して思いやりがあった。さらに、明治六年になると、監獄則が制定され、獄中の生活が改善された。畳が入れられ、食物や書物の差し入れもできるようになった。
江刺の獄では、何よりも生き抜くことに全力を傾けた。えん罪であることは自分自身がわかっていた。ここで生き抜かなければ犬死であった。
 生命の危機のなくなった岩手の獄では、自己鍛錬に努めたという。様々なことにエネルギーを分散させてしまうことは愚かなことであり、一つのことに専心することであるという。記憶力を高めるために自己流の記憶法を発明した。西洋の書物の翻訳本を手に入れ、新しい政治、経済の勉強をした。書物には、スマイルズ著・中村正直訳『西国立志篇』、ルソー著『民約論』など当時のベストセラーがある。特に『西国立志篇』は、どもりの矯正も兼ねて、大きな声で何度も繰り返して読んだという。この読書は、その後の政治家田中正造の思想形成に大きな影響を及ぼした。
明治七年四月、正造は突然無罪放免となった。事件後、静岡に移っていた木村の息子が、正造の無罪を証言してくれたのだった。体力が回復すると、六年ぶりの故郷に帰った。母は二ヶ月前に亡くなっており、正造は「死刑に処せられたり」と戸籍から消されていた。

 三島県令との闘い

 四年間の獄中生活の間に、世の中はめまぐるしく変わり、正造は小児同様になってしまったと感じた。しかし、獄中で得たものもあった。在獄中の読書によって、「既往の生活のほとんど無意味無意識なるを悔い、将来少しく為すあらんとする志を起こさしめたり」と述べている。獄中の読書は、新時代を生きていくための大きな支えになった。
 「ウェリントン伝」では、負債の恐ろしさを知り、帰郷後直ちに家財を処分し、六角家事件で負った借金を整理した。身は牢獄から出ても、負債があっては「義務の獄中」にあるのと同じなので、どんなに貧しくなっても、返済だけはしなければならないと考えたからだという。
 やがて、酒屋の番頭になったが、そこでは福沢諭吉訳『帳合之法』に基づいて新方式で帳簿付けをやってみたりした。もっとも、これは大福帳でやってきたそれまでの経理と違いすぎ、失敗してしまった。
 明治十年、西南戦争が起こった際には、政府が戦費調達のために紙幣を乱発したことで物価が騰貴することを見越して、家財を売却し土地を購入した。これを、六角家事件で財産をなくした他の同志らにも勧めたが、経済上の空論だとだれも応じなかった。やがて、正造の見込みどおり地価が高騰し、三千円の利益を得ることができた。これで当分の間、生活に困らないだけの財産が手に入った。そして、自分の得た経済知識が空論でないことに自信をもった。
 この経済基盤の確立により、「今より自己営利的新事業のため精神を労せざる事」とし、一身をもって公共のために尽くそうと決心したという。その予算は、毎年百二十円ずつ、三十五年間としている。以後、「経費節約を主とし粗衣粗食に甘んじて政治運動に一身を投ぜり」と、明治二十八年に読売新聞に連載した自伝で述べている。
正造は政治活動のため三十五年間の予算を立てたが、ちょうど三十五年後の大正二年に七十二歳で死去している。江刺、岩手の獄から生還した後、明治という新世界において、残りの人生を公供のために捧げると決心し、その通りの生涯を送っていった。

政治に発心した正造は、栃木における自由民権運動の中心人物として活躍し始めた。明治十二年に「栃木新聞」(後の「下野新聞」)を復刊し、編集長になり、「国会を開設するは目下の急務」などの論説を発表していった。国会開設運動のため、安蘇結合社(のちの中節社)という政治団体を結成し、会長になった。また、明治十三年には、「関根彦十郎辞任による補欠選挙」で当選し、栃木県会議員となり、県政の場おいても活動を始めた。
民権派県会議員としての正造の主張は、地方自治の拡充と政府の干渉排除、行政費削減による人民の負担の軽減などであった。ところが、明治十六年、栃木県令(知事)に就任した三島通庸の県政は、正造の主張と真っ向から対立するものであった。三島はそれまでの福島県令と兼任だったが、福島では前年の「福島事件」に際し、自由民権派の大弾圧を行っていた。栃木の自由民権運動も退潮していった。また、三島は県庁移転や陸羽街道の新開・改修工事など土木政策をとり、巨額の予算を計上してきた。さらに、寄付金を強制したり、各戸に数十日の無賃労役を科したり、土地の強制収容や家屋破壊が行われた。反発する住民には、警察力をもって弾圧していった。
小山の乙女村では、強制労役を科せられた村民に遅刻者がいたことで、警官が村の総代を見せしめのため乱打し、捕縛していこうとした。激昂した村民は警官に飛びかかり、総代を救い出した。警官は逃げ帰ったが、やがて四、五十名の警官が村に踏み込み、白刃を振るって民家に乱入して、七十三名を捕縛して小山分署に連行した。そこでは、妊婦を裸にして拷問するなど、不法行為を行った。これを乙女宿事件と呼んでいる。
正造は乙女村へ駆けつけ、その不法行為を調べあげた。そして、上京し内務大輔(宮内大臣)土方久元、内務卿(大臣)山県有朋を訪れ、三島県令の暴政を訴えた。
その後も、正造ら民権派県会議員は、県議会の場で三島県令と対決していった。明治十七年の臨時県会では、県令が提出した補正予算を満場一致で否決した。さらに議会は、三島専断の告発文書を中央政府(参事院)へ訴えることを決めた。その夜、三島は正副議長と正造を宴会に招待したが、正造らは断った。その際、三島が刺客を雇い、道に潜ませているとの情報が入った。
身の危険を感じた正造は、翌朝宇都宮を脱出し、東京へ向かった。安全になるまで東京で身を潜めたほうがよいという友人の忠告があったが、正造はすぐに栃木にもどり、隠れながら三島暴政の証拠集めを行った。
このような時、茨城県で自由党過激派による加波山事件が起こった。政府はその容疑と称し、関東各地の自由党員を逮捕していった。三島県令はこれに乗じて、正造を逮捕しようとした。正造はそれまで集めた証拠資料をもって上京した。当初、外務卿(大臣)井上馨に訴えようと考えていたが、方針を変更し、警視庁に出頭した。栃木では、正造に関係する人が次々に逮捕され、虐待されており、一刻も早く決着をつけようとしたためである。警視庁の課長は「自首ですか」と言った。正造は「否、予はもと罪科なし、自首という次第に非ず」と述べ、三島県令の暴政の証拠をあげ、自分の立場を釈明した。課長は、警視庁は裁判するところでないと説明をさえぎり、正造の身柄を宇都宮に送ることにした。
 三島県令が支配する宇都宮警察署に護送された。留置場では、悪意に満ちた警官から嫌がらせを受けた。食事をとろうとすると、食物中にわざと煙草の灰を落としてきたり、床の塵を蹴ってきたりした。現職の県会議員が、このような辱めを受け、犯罪者たちとともに拘置所に眠ることを、自伝の中で嘆いている。
さらに、正造は宇都宮監獄へ移された。三度目の獄中生活である。加波山事件の容疑での逮捕だが、えん罪であることは間違いなかった。裁判になれば、それを晴らすだけでなく、三島暴政を公式に訴えることができると期待した。しかし、いくら要求しても公判は開かれなかった。三島は公判にまわす勇気がなく、かえって正造に媚び、自ら飲食物の差し入れをしてきたという。やがて、県会議員たちが次々と面会に来るようになると、佐野警察署に移された。地元佐野の警察であるが、「警戒もとより厳なり酷なり、あたかも土牢中に幽せられたるがごとし、されば予もまた飲食をも慎みて非常の戒心を加えたり」と述べている。飲食を慎むなど非常に警戒したというのは、六角家事件のときの牢獄にも似ている。
 正造は獄中から家族へ、自分が捕まっても反抗運動の手を休めないようにとの手紙を送った。これが、東京の各新聞紙上に掲載され、県民に勇気を与えた。議会が再三反対した新県庁の開庁式を、三島県令が強行したときも、全県会議員が出席を拒否した。一部の議員は、他の名義で参加し、来賓の三条実美公に三島暴政に関する意見書を秘かに渡した。
 やがて、三島のあまりの評判の悪さに、中央政府も腰を上げ、県令を免じて、内務省の土木局長に転出させた。まもなく正造は釈放された。拘留期間は七十九日だった。県内各地で、正造を招いての祝宴会が開かれた。

 以上のように、一年間にわたる三島県令の抵抗は、正造の投獄によって最終局面を迎えたが、三島の転任をもって終わりをつげた。栃木を三島暴政から守るという点では、正造らの勝利といえる。六角家事件同様、新時代においても、人民のために権力側の不正と命がけで闘うという姿勢は貫かれていた。その信念が、たとえ投獄されても相手に屈することなく、過酷な生活に耐え抜けた原動力になっていたといえる。
 その後、正造は栃木県政の中心となり、明治十九年には県会議長になった。そして、明治二十二年の大日本帝国憲法発布の祝賀式典には、栃木県会議長の資格で参列した。当初は「参観」であったが、自分たちは選挙で選ばれた人民の代表であると山県内務大臣に抗議し、「参列」に変えさせたという。このようなところにも、「人民の代表」という正造の自負が見られる。
 やがて、自由民権運動の最大の目標であった国会開設が、実現することとなった。明治二十三年の第一回総選挙では、栃木三区(足利、安蘇、梁田)から立候補し、当選した。衆議院議員として、国政の場での活躍が始まった。


 足尾鉱毒問題

 国会議員になるとほぼ同時に、足尾鉱毒問題が顕著になってきた。総選挙が行われたのが、明治二十三年の七月。その翌月の八月二十三日、渡良瀬川は五十年ぶりといわれる大洪水に見舞われた。それまで、洪水があると上流の腐葉土がもたらされ、農作物はかえって繁茂してきた。ところが、今回の洪水では様子が違っていた。稲は黒く変色し、穂が出ずに枯れていった。桑木も八、九割が枯れてしまった。それまでも、渡良瀬川の魚が激減していることから異変に気づきはじめていた沿岸住民は、今回の洪水で上流の足尾銅山に原因があると確信するようになった。
地元各町村で被害状況の調査が進んでいるころ、正造は第一回帝国議会(国会)のため東京にいた。この議会においては、鉱毒問題はまだ話題になっていなかった。閉会後、正造は腹心ともいえる佐部彦次郎を被害地に派遣し、独自の調査も行った。そして、明治二十四年の第二回帝国議会において、「足尾銅山鉱毒の儀につき質問」を政府に提出した。
 以後、正造は鉱毒問題にかかりきりになっていった。垢じみた木綿の衣服を着て、乱髪のまま、議会の演壇に立ち、大声で足尾銅山に対する政府の責任を追及した。質問演説は、時として詰問演説に変わり、興奮のあまり支離滅裂になることもあった。その風貌から、「栃鎮」(栃木鎮台)とか「田正」と称される名物代議士にもなった。
 正造は鉱毒問題という一地方の問題に深入りしすぎたために、政治家としてもっていた得難い資質にもかかわらず、大成しなかったと評する人もいる。しかし、鉱毒問題は正造にとって一地方の問題ではなかった。政府が鉱毒をたれ流させておいて、人民を殺すことは、国を滅ぼすことと同じであった。これは、後に顕著になってくる公害問題、環境問題に対する警鐘でもある。足尾鉱毒問題との闘いが、エコロジストの先駆者として、政治家の理想像として、田中正造の名前を永遠に残すことになった。政治家の大成とは、何も総理大臣や大臣になることではない。
帝国議会における再三にわたる追求にもかかわらず、政府は自らの責任も、足尾銅山の責任もなかなか認めなかった。唯一、政府が銅山の操業停止を本気で考えたのは、榎本武揚が農商務大臣の時だったが、それも榎本辞任後なし崩しになってしまった。(本書「榎本武揚」参照)
 正造は地元渡良瀬沿岸住民による運動を組織、支援したが、貧しさのため、銅山の示談交渉に応じたりして離反していく者が後を絶たなかった。被害民による大挙誓願行動(押し出し)に対し、政府は警察力をもって弾圧を加え、農民の指導者たちを根こそぎ投獄した。(川俣事件)
政府も議会も、人民の権利(生活と生命)に責任をもつものと正造は考えていた。しかし、政府は富国強兵、殖産興業の方針のもと、一部の人民を犠牲にしようとしていた。明治三十三年の第十四回帝国議会で、「亡国に至るをしらざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」を提出し、質問演説をした。これに対し政府は「質問の趣旨その要領を得ず、よって答弁せず」と無視してしまった。
正造は政府にも議会にも絶望し、明治三十四年十月、衆議院議員を辞職した。そして、直後の十二月十日、天皇への直訴が行われた。正造はその場で殺されることも覚悟していたが、直前で逮捕され、天皇へ直訴文は渡らなかった。それでも、新聞は直訴事件の詳細を報じ、直訴文の全文を載せ、背景にある鉱毒事件にも触れた。低調になっていた鉱毒問題が、再度国民の関心を集めた。


 四度目の獄中生活と谷中村問題

正造の罪は不敬罪という、当時としては重罪に値した。しかし、警察は発狂したものとして、翌日には釈放してしまった。もし、裁判になり全国の話題になれば、鉱毒問題も同時に話題になることを警戒したためだとも言われている。
直訴事件は何ら罪にはならなかったが、翌明治三十五年五月に、あくび事件に対し重禁固一ヶ月と十日間の判決がでた。あくび事件とは、二年前に川俣事件の裁判を正造が傍聴した際、大きなあくびをしたことが、官吏侮辱罪に問われていたものである。とるに足らない罪であったが、これによって巣鴨監獄に四十一日服役することになった。四度目の入獄は、いままでのような生命の危険はなかったが、六十二歳になった正造は病気になり病監に移された。それまでの激務によって、疲れ切っていた身体には、この獄中生活はいい休養になったともいえる。そして、獄中での『新約聖書』の熟読は、その後の思想形成において重大な転換をもたらした。
正造の心機一転は、「世界陸海軍全廃論」に現れている。出獄後、日露戦争の前後において、正造はしばしば全廃論を唱えている。自身の日記によれば、「去る三十五年入獄四十一日に及べり。この時聖書を通読するのとき軍備の不可なるを確信してより…」とある。そして、「陸海軍全廃は極端な無抵抗にあらざれば功なし」とあり、この思想が聖書マタイ伝の徹底的無抵抗主義からきていることを示している。この無抵抗の抵抗は、後の谷中村問題での強制破壊の時に実践されている。イギリス人の研究者ケネス・ストロングは、晩年の不思議な十年間を通過した正造の生涯の意義については、当時の人々の理解が及ばぬのものだとし、最後には日本人のわく組から跳び出したという。そして、その生涯と性格は、マハトマ・ガンジーを想起させる面があるとしている。(時期的には、ガンジーより田中正造の方が先駆している。)

さて、足尾鉱毒問題は直訴によって世間の注目をあびるようになったが、政府はこれを治水問題にすり替えていった。渡良瀬川沿岸の鉱毒被害をなくすには、洪水を防止する必要がある。そのために、沿岸の谷中村を遊水池にして、増水時にはそこに水を流し込み、堤防の破壊を防ごうという案であった。正造は、鉱毒問題の解決は、足尾銅山の操業停止しかないと谷中村遊水池化に反対した。しかし、困窮する沿岸の被害民や運動家は、遊水池化案が浮上すると、鉱毒反対運動から離れていった。運動の拠点となっていた雲竜寺事務所は空寺同様となり、東京事務所は閉鎖された。谷中村だけが犠牲にされた。渡良瀬川沿岸のかつての同志は、いまや敵となった。孤立した正造は、谷中村に移り住んだ。
やがて日露戦争が始まると、日本中の関心はそちらに向かった。その間をぬって、谷中村各戸の強制的な買収が行われていった。正造は「谷中村悪弊一洗土地復活青年会」や「谷中村を潰さぬ仲間決心の会」などをつくり、反対運動に取り組んだが、買収に応じ離村していく家があとをたたなかった。明治三十九年七月、谷中村議会の反対にもかかわらず、栃木県は谷中村の廃村を決定した。谷中村民は谷中残留民となった。
 それでも立ち退かない家に対して、政府は明治四十年一月に土地収用法を適用した。公益のためには、本人の意志に関わりなく、土地を強制的に取り上げられるという法律だった。正造は残留民とともに、土地収用法自体が憲法に違反しているとし、衆議院、貴族院議長に「谷中村復活を期する請願書」を提出した。
しかし、六月になると、堤防内の十六戸に対する強制執行が行われた。県の役人、警官隊、人夫ら二百人以上が谷中村に来て、家を次々と破壊していった。この時、正造や東京から支援に駆けつけた木下尚江 らと残留民は、暴力で抵抗することなく、じっと見守ることを決めていた。家を強制破壊された残留民は、その場所に仮小屋を造って住んだ。県は不法行為だと仮小屋を破壊したが、残留民は再び仮小屋を造った。梅雨の時期、仮小屋の中はずぶぬれになったが、残留民は住み続けた。
 八月下旬には、渡良瀬川沿岸は大洪水に見舞われ、遊水池計画が無力であったことが明らかになった。正造は船に乗り、洪水に浸った仮小屋を一軒一軒まわり、船に乗せようとした。しかし、病人に至るまで収容に応じなかった。地獄のような環境の中でも、自分たちの権利を守るために住み続けることが、彼らの闘いだった。無抵抗でありながら、これ以上強烈な抵抗はなかった。
正造は谷中残留民の姿に「神」を見た。獄中の読書以来、キリスト教徒との交流もあり、信仰は深まっていった。このころの日記には、さかんに聖書、天国、神、悪魔、といった言葉がみられるようになっていた。しかし、正造自身、洗礼を受けたわけでなく、改宗もしていないのでキリスト教徒とはいえない。「聖書を読むより、聖書を実践せよ」と日記にあるように、聖書の精神の実践、具現化こそ正造の目的だった。その実践を通じて、神に近づくことこそ正造の信仰だった。ところが、谷中残留民の闘いこそキリスト教の教えそのものだということに気づいた。「見よ、神は谷中にあり。聖書は谷中人民の身にあり。苦痛中に得たる知徳、谷中残留人の身の価値は聖書の価と同じ…」と残留民に宛てた手紙に書いている。
ここに至って初めて、正造は自分の不明を悟った。六角家事件以来ずっと、正造は人民(農民)のために命がけで闘ってきたが、人民の保護者、指導者という立場でいた。人民は無知で無力なものだから、正造ら指導者が保護し、教え導かなければならないと信じてきた。しかし、国会議員としての立場を失い、同志も次々と去っていった谷中村問題という袋小路にはいった時、闘いの主体は人民自身だということに気づいた。
その人民の闘いの方法を、谷中残留民から学ぼうと正造の考えは変わった。それまで、同志とは、正造と同じ政治家や文化人、言論人らといった指導者層だと思いこんでいた。しかし、谷中問題における同志は、谷中残留民そのものだとわかった。谷中残留民の中に入って、辛酸をともにすることで同志となれ、問題解決の方法が学べると考えた。これが正造の谷中学だった。このことを明治四十年の日記に次のように書いている。

 人のためをなすには、その人類のむれに入りてその人類生活のありさまを直接に学んで、また同時にそのむれと辛酸を共にして、即ちそのむれの人に化してその人となるべし。而してそのむれの人類が皆我が同志となり、これを人を得るの法という。

政府も議会も人民を救ってくれない。憲法も法律も無力である。もう日本という国は亡んでしまったと正造は考えていた。亡国の状態では、今までのような、議会での憲法や法律に基づいての闘いは無力であった。権力側も法律で人民の権利を奪ってくる。もう法と法の闘いは無意味で、もっと広い天理・天道といったところから問題解決を図ろうとした。(天理・天道とは、だれも犯すことのできない、人間が生まれながらにもっている権利である自然権を指していると思える。)
 谷中村が法律によって亡ぼされたのなら、それを復活することが、根本的な闘いだった。法律を知らない残留民は、天理、天道に基づいて、自分たちの土地で生き続けている。そのような村こそ天国であり、その闘いが、「天国に至るの道」だった。


 最後に

 田中正造の生涯のピークは、天皇への直訴であると言われてきた。足尾鉱毒問題との闘いのセンセーショナルな幕切れがこの直訴で、以後の十余年はあまり注目されていなかった。しかし、正造の思想の真骨頂は、むしろ谷中村問題に取り組んだ晩年にあるという説が最近多い。問題の当事者である人民の中に入り、彼らを師とし、辛酸を共にして同志となっていくことこそ、闘いの根本である。その闘いは、非暴力で無抵抗でありながら、権力に屈せず、ひたすら生き抜くことであった。これこそ、無力とも思える人民の最大の抵抗であった。
この境地に入るまでに、「名主の子に生まれたので二十年遅れた」、「不幸三十年政治方面の野心家と交わりて野心を空うし」と語ったという。名主として、政治家として自分が先頭に立っての闘いでは、足尾鉱毒問題や、その背後にある亡国といった大問題を解決できないことを最後に知った。それまでの自分を捨て去り、人民を同志としての真の闘いを悟る起点になったのが、獄中での聖書との出会いだったのではないだろうか。
正造は「人生はよく戦うべし」と言っている。ただ、この「戦い」は武器をもってするものでなく、天道、人道をもってするものだという。(よって本書では、あえて「闘い」の文字を使ってきた。)正造の生涯は闘いの連続だった。そのために、四回も牢獄に入ることになったが、不屈の闘志で獄中でも闘い、その都度大きく成長して次の闘いに向かっていった。

大正二年に出先で倒れ、七十二歳の生涯を閉じたとき、持っていたものは、日記三冊、草稿、新約全書(聖書)、帝国憲法とマタイ伝を綴じた小冊子、鼻紙少々、石ころ数個であった。これが政治家田中正造の全財産だった。




 引用・参考文献

○『田中正造全集』岩波書店
○林竹二『田中正造の生涯』講談社現代新書 昭和五十一年
○由井正臣『田中正造』岩波新書 昭和五十九年
○佐江衆一『田中正造』岩波ジュニア新書 平成五年
○小松裕『田中正造ー二一世紀への思想人』筑摩書房 平成七年
○ケネス・ストロング『田中正造伝』晶文社 一九八七年