復刻 津布久・川久保写本 佐野宗綱記

  序

 平成二十三年八月、妻の実家である佐野市山越町の川久保家で、『佐野宗綱記』の写本が見つかった。同書は後世の作で創作部分もあるが、戦国末期から江戸時代初期の佐野の様子を知る上では貴重な文書として知られている。元中学校社会科教師で、現在は自称郷土史研究家の私にとっては、極めて興味深い巡り合わせであった。
 実は、その一ヶ月前に佐野宗綱と佐野家家臣団を描いた戦国歴史物語を出版したばかりだった。執筆にあたり、郷土資料にある佐野宗綱にまつわる故事をいろいろと参考にしたが、それらは『佐野宗綱記』から抜粋したり、参考にして書かれたものが多かった。
 ただ、私は肝心な『佐野宗綱記』自体を読んでいなかった。その執筆姿勢を責めるがのごとく、写本が出現したことに運命的なものを感じた。
 写本は、写真1にあるように赤茶色に変色している。だが、よく見ると、経年変化だけでなく、保存のため柿渋のようなものを塗ってあることがわかった。縦二十九センチ、横二十センチの七十五枚の用紙を紐でとじた簡素な作りで、自家製と思える。
 最後のページには、次のようにあった。(写真2)
宝永三 酉戌 三月吉日  写  津布久氏
佐野山越 川久保氏 政右衛門
          (現在でも山越地区には津布久姓と川久保姓の家が多数ある。)
 宝永三年(一七〇六)三月に津布久氏が写したものを、さらに川久保政右衛門が写したようだ。川久保家の過去帳には、政右衛門の名前があり、幕末の安政四年(一七五八)没と記載されている。
 また、『田沼町史』によれば、『佐野宗綱記』が書かれたのは、江戸期寛永(一六二四〜一六四三)以後で作者不詳となっている。
以上を整理すると
 ・本書は、江戸時代初期に某氏によって原本が書かれ
 ・五十年後に原本または写本を津布久氏が写し、
 ・百五十年後に川久保政右衛門がそれを写したもので、
 ・さらに百五十年以上経った平成の世に私たちの前に現れた。
 という流れになる。まさに歴史の重みを感じる。
(以後、この写本を津布久・川久保写本 佐野宗綱記 と称する。)
佐野の郷土史研究会・安蘇史談会の京谷博次会長に写本をみて頂いたところ、次のようなアドバイスを得た。
『佐野宗綱記』の原本は行方不明で、写本のみが残っている。
   地元の佐野家縁の家々でも、自分の家に関係ある部分を写し持っていた。写本か  ら写本へと次々と写されているが、津布久氏が写した年は原本が書かれてからあまり  経過していない時期である。この写本には宗綱の時代から江戸時代初期の佐野家改易  までが書かれており、抜き書きでなく全文が写されているようだ。

また、国立公文書館(旧内閣文庫)のホームページで確認したところ、『佐野宗綱記』は四件収蔵されており、うち三件が写本、一件が活版とあった。原本はない。
 『田沼町史』には『佐野宗綱記』の冒頭の部分、『栃木県史』には全文が掲載されているが、出典は内閣文庫蔵とあり、同一内容である。
 『栃木県史』には、収録にあたり内閣文庫の三件の写本を比較したものが、解説として記載してある。写本の時期に関する要点を抜き書きすると次のようになる。

 イ 享保元年二月吉日菅田村深野氏久常写本、寛政元年冬十月七日九〃見□清写之
ロ 小山観音寺所蔵也、…依借之而謄写、干時文化十(年)冬初十 重固識
ハ 奥書なし(写本時期不明)
・イに近い原本があり、その原本の文章を合理的に筋が立つように補っていった結果  成立したのがロ、ハであるとしたほうが妥当。
・イ、ロ、ハのお原本は一つであるが、イが最も原本に近い。
・しかし、イは極めて悪い写しであり…ロ、ハを参考にやっと読める。
・『栃木県史』の資料編には、…比較的完全なハをテキストとした。(一部ロで補う)

 最も原本に近いというイが最初に写されたのは享保元年(一七一六)だが、津布久・川久保写本は宝永三年(一七〇六)で、さらに十年ほど古い。
 また、『栃木県史』資料編掲載の全文(主にハ)と津布久・川久保写本を照合してみたところ、内容はほぼ一致していた。
 よって、この写本は内容的には新発見ではないが、原本に近い写本が山越の川久保家で代々所蔵されてきた点では、ささやかな発見として記録に値すると考えた。

 川久保家から写本を長期にわたり借用することができた。研究の第一段階として、本書においては、次の三点について記したい。
 一 津布久・川久保写本 佐野宗綱記の全文復刻(川久保政右衛門筆の原文)
 二 『佐野宗綱記』の現代語訳(読み物として)
 三 『佐野宗綱記』の史実、通説との相違点を考察(小論文として)

  二  現代語訳



・津布久・川久保写本には読み取れない部分が多々あったので、『栃木県史』掲載の写本(活字版)と照合して、私なりに現代語化してみた。
・数行に及ぶ長文には句読点をつけ、必要に応じて段落も変えて読みやすくした。誰のことかわかりにくい部分には、主語となる人物名等を入れた。
・人名、地名等には、当時の表記やあて字、誤字と思われる部分があるが、それらには現在用いられている漢字で表記した。
    例 大抜→大貫  信宣→信吉  數葉那→須花
・文責は筆者(関根)。   (下野国)佐野宗綱記
(写本p10〜)
 下野国安蘇郡佐野の根古屋にある唐沢(山)の城主で、ご先祖にあたる藤原氏の元祖太政大臣大職官(藤原鎌足)より三十九代目の孫・佐野小太郎修理大夫宗綱公と申す。智仁勇の三徳を兼ね、五常の道(常に守るべき五つの道徳)に明るい、目出度き(立派な)御大将である。
 五人兄弟で、天徳寺、遊願寺、虎松殿、一人は桐生養子と、四人のご舎弟がいる。また佐野家の侍の中、富士下野守、同源太左衛門とてご一家の末で、そのほか大貫越中守、山上道及、竹沢山城守、津布久弾正は佐野四天王と呼ばれている。諸侍は日夜忠義を尽くし、仕えている。 

上杉管領憲政公は、武州川越の夜戦にて北条氏康に討ち負け、越後に敗走した。以後、関八州の城主は、思い思いに、長尾(上杉)謙信公、武田信玄公、佐竹義宣公、里見義胤公の旗下に属し、人質をさし出し、出仕を粧い、媚びへつらった。
 小幡、松枝などは信玄公の旗下になる。利根惣社(神社)より北上州、宇都宮より北野州は謙信公の旗下、小山より東は佐竹義宣公の旗下となる。
 しかれども、佐野宗綱公、新田の由良信濃守殿、足利・館林の城主長尾但馬守殿、小俣の城主渋川相模守殿、桐生の城主桐生大炊助殿の五人の城主は、どこへも人質を出すことはなかった。
 由良、長尾はその頃は兄弟である。渋川は長尾の伯母婿にあたる。新田(由良)、足利(長尾)は北条氏政公と円満で、家老一人を名代として金品を贈っていた。
 佐野殿と桐生殿は代々一家(一門)で、その頃はご兄弟であり、両家は謙信公と円満で上州、武州口を任されていた。佐野家は虎松殿を謙信公へ養子に出して昵懇だった。由良、長尾、渋川も一家なので、佐野、桐生殿とたびたび戦があった。
 給人(土地を支配している侍)は境を争い、百姓等は馬草場を争い、城主の下知も待たずに麦作、早苗を荒らし、作物を荒らした。境目境目には要害をかまえ、物見の番所を据え、十貫、十五貫半ずつの知行を与え、郷一揆と名付けた。また、二貫三貫の割り符をとらせおき、弓矢を持った者どもを境目に、近所の五郷、七郷が、その砦の番付き、番所で鐘をつき法螺貝を吹いたならば在在の者達はその番所に馳せ集まることになっていた。所々の物見は村々にて鐘をつき法螺貝を吹いたならば、城付きに定められた者以外の与力、弓矢の者は本城へ馳せ集まった。その他にも、色々な手立てが決めてあった。右の戦のとき、妻子たちを置くところや、兵糧等の運送の手配りなどの用心をした。
 足利、館林(長尾家)より敵が攻めてきたら、佐野は佐竹殿と昵懇なので結城、小山、下館より加勢があった。また、佐野が足利、館林へ攻めたときは、由良殿より(足利・館林に)加勢があった。桐生より新田へ攻めれば、足利より加勢があった。桐生と佐野の境は大きな山があり、その上、足利の支配地が入り組んでいるので、ご兄弟といえども互いに加勢をすることが難しく、由良殿と桐生殿が唐沢、吉沢、境野で取り合い(戦)があれば、桐生殿には沼田、高崎より加勢が入った。これは、謙信公の支配所だったからだ。

 謙信公が足利・佐野を巡視のためご出馬した際、宗綱公にお会いするため唐沢城の本丸に入られた。三日間逗留し饗応の能を見物になられた。このとき虎松殿を養子として越後に連れて行かれた。その後、子細があって宗綱公と謙信公の行き来がなくなると、謙信公は、今後敵対する上で安心できるようにと、虎松殿を佐野にお返しになった。

 宗綱公のご舎弟の天徳寺・遊願寺の両人は、武者修行のため諸国へお出かけになった。天徳寺は秀吉公、遊願寺は武田信玄公の元に滞在した。
 遊願寺は腰の紅のかすりの袋に砥石を入れておき、手柄を立てるたびに、砥石で刀を研ぐことにしていた。信玄公より、本国や名前をお尋ねになられても、戦の場数を重ね手柄を極めてから申し上げますと、名乗らなかった。さらに右に劣らぬ場数を踏み、手柄をたびたび立てた後、また信玄公がお尋ねになると、「佐野宗綱の弟遊願寺と申します」と名乗った。すると、「かねてより名を聞いたことのある侍ではないか、その名を聞いた上では千貫より下では不足である。我が家には貴公に劣らない譜代の侍が多数おるが、三百貫、五百貫しか取らせていない。貴公が大将として頼るべき者は越後の謙信の他はいない」と太刀、馬、砂金などを下され、越後へ向かわせた。
 越後へ行くと、謙信公より千貫で召し抱えられ、与力と弓隊を預けられ、謙信公の長刀の師範となった。槍の試合で、相手の槍遣いを討ち取ると、謙信公はますます遊願寺をお気に入りになった。
 しかし、直江山城守の子息が、その槍遣いの弟子だったため憤ってか、あるいは、山城守が知謀の深い者だったので、遊願寺が信玄公の元から来たのを疑い、謙信公へいろいろと訴えた。そのため、遊願寺は切腹を申しつけられた。このため、宗綱公は謙信公へ遺恨をもち、手切れとなった。養子になっていた虎松殿は越後からお帰りになったが、ほどなく病死してしまわれた。

藤岡榎木合戦の事・松本丹波強弓の事 (写本p16〜)
藤岡の城主佐渡守殿、榎本の城主大隅守殿の両人は、宗綱公と同様に水戸の城主佐竹義宣公の旗本だったが、心変わりして小田原の北条氏直公の旗本となった。宗綱公はこれに立腹して、両城主を攻めることを家臣と内談した。
 譜代の侍、赤見六郎と富士源太に夜討ちの相談をしているうちに、山口藤七郎を大将とする血気にはやる若侍三十六人が抜け駆けした。夜八ツ時(午前二時)に榎本城大手口に押し寄せ、鬨の声を上げると、城中は不意なことにあわてふためいたので、そこに討ち入った。城はあやうく見えたが、ほどなく夜が明けると佐野よりの寄せ手が少人数なのに気づき、城中は気を取り直して戦った。山口藤七郎どもは七人になるまで戦ったが、是非に及ばずと引き返してきた。
 宗綱公はこれを聞き、法度の抜け駆けをし、その上勝利に及ばず、侍たちも大勢討たれてしまい不出来のことだと立腹された。藤七郎は面目を失い、犬伏の大庵寺において切腹しようとしたが、このことを家老が不憫に思い、このような失態があっても志のある侍ですと宗綱公に訴えたので、お許しになった。しかし、その間に藤七郎は切腹してしまった。

藤岡へは津布久弾正、竹澤山城守を大将に仰せつけられ、これも夜討ちをすることになった。松本丹波には、貴殿は常々から古河、藤岡の物見をしているので、今度藤岡城の風上へまわり、在家に火を付けよ。その明かりをたよりに押し寄せ、討ち捕らえると仰せつけられた。その夜、丹波が忍んでいったが、藤岡でも佐野からの夜討ちを用心していたので、丹波は火を付けるところを見つかってしまい、大勢に取り囲まれ難儀に及んだ。
 丹波はそのときも下人一人に弓を持たせていた。丹波は、いつも宗綱公の御前において弓を射ると、八分の弓で四寸の的の黒目の中に当て、また、二十間先に張った糸を射切るほどの名手だった。佐野家中は言うにおよばず近国一の弓の上手なので、敵方に向け矢を射ち、矢一筋で二人を射殺した。手元に近づいてきた敵は斬り倒し、引き返した。
 夜も明けてきたので藤岡勢も打出し、佐野勢も押し寄せ、只木新居の原にて両方が入り乱れ合戦した。三時にわたる戦で、藤岡勢は多数が討死し、残る手勢は散々に負けて引き上げた。その以後も、藤岡、榎木城主と度々戦ったが、佐野勢は一度も後れを取る(負ける)ことがなかった。
 竹澤、津布久は比類無き手柄を立て、宗綱公より感謝状をいただいた。

小田原勢富士山へ寄る (写本p20〜) (富士山:佐野唐沢山の南部にある山)
 榎本、藤岡両城主は度々の戦に負けたことを残念に思い、
「佐野宗綱との戦では、両軍とも人数が少なく、足利が加勢してくれようにも、佐野領と入り組んでいるため加勢できず、宗綱勢は多数の上、結城、小山、壬生、皆川の四箇所からの加勢があるので、本意を達せられません。この上はご主出馬され佐野を攻めて頂くか、加勢の人数を派遣してください」 と小田原に申し出た。
間もなく小田原(北条)が出馬され、佐野唐沢城に数万の人数にて押し寄せた。北条勢は大手口より攻めようと相談したが、そこは険しくて山が高く、峰より大石や大木を投げ下ろすので、先年も攻めあぐんだというので、富士口より攻めようと富士山に陣を取った。 その頃、北条氏直殿のことを関八州では屋形殿と呼んでいたので、陣場を屋形山と申すようになった。氏直公は諸軍勢に明日出馬すると告げた。
 富士山へは旗本勢、譜代の侍ばかりで弓、鉄砲を打ちかけた。大手口へは惣奉行・北条安房守、軍奉行・伊勢大和守、多米伊勢守を遣わし、忍、深谷、岩付、その他武蔵、上野勢の数万騎で大手口前川原まで押し寄せた。
 宗綱公も諸軍勢に下知して、富士源太、竹澤山城守、細野次郎左衛門、山越才吉、稲垣淡路守、葛生縫殿を大将とし、結城、下館勢にて富士口の木戸や谷々を歩弓、鉄砲を持った数千騎で守りかためた。大手口前川原へは、まず一番に山上道及、津布久弾正、大貫越中守を軍大将にて、赤見六郎、戸室才蔵、春山権八、佐野田左京などの他、壬生、皆川勢を引き入れて守った。
 大手、富士口共に三日間合戦を行った。二日目には二、三の備えまで突き崩されたが立て直し、三日には共に引き揚げた。

境七ヶ村取り合いの事 (写本p22〜)
稲岡村、西場、駒場、只木、寺岡村、上羽田村、これらの村々七ヶ所を境七郷という。元々は佐野領として代々支配してきた村だが、長尾殿が小田原と同意して、新田、飯野、館林の加勢を得て、七ヶ村を宗綱公と取り合った。毎年の合戦において宗綱公は一度も後れを取る(敗れる)ことはなかった。長尾殿は只木山に陣を取り、宗綱公は寺岡村岡崎山に陣を取り、出流川を隔てて合戦 をした。
 また、ある時は、足利領八椚猿田の戦で長尾殿は旗本まで突き崩され、足利古屋の城へ逃げた。佐野勢はそれを追いかけ、大将宗綱公も古屋の城八幡曲輪まで追いつめ、町中侍屋敷まで焼き払い勝利したところに、新田、館林勢が駆けつけてきたので当方は人数を引き揚げた。

 免鳥合戦の事 (写本p23〜)
 右の遺恨により、翌年、長尾殿の手勢に新田、館林、飯野の加勢で佐野に押し寄せてきた。村上の天海佐渡、椿田の福地出羽守が早馬でそのことを告げてきた。その報に鐘や法螺貝を鳴らすと、佐野勢も間もなく馳せ参じてきた。宗綱公がご出馬になり、早速免鳥城へ押し寄せ、大軍と戦った。
 佐野の先手衆の山上道及、富士源太ほか六十騎が駆けつけたときには、免鳥城主高瀬紀伊守は討死して、長尾殿に城を奪われていた。その内に佐野の諸勢も押し寄せて、佐野と足利の両方とも「ここが勝負所、身を野原の塵土とするのはこの戦だ」と戦い、双方とも手負いや死人が多数でた。
 戦の半ばに、足利方より惣大将と見える一騎が現れ、「佐野方の名のある武将と組まん」と駆け回った。強気者と見えたので、佐野方には近づく者がいなかった。これを見て、山上道及が馳せ向かい、双方が槍にて激しく詰め寄った。道及が槍の名手だったので、相手の武者は叶わないと思い、馬に鞭を打って引き返した。道及はすかさず追いつめ、村上虚空蔵の前の深田へ押し込んで討ち取った。その武者の名前はわからないが、物頭(足軽大将)のようだった。足利方はこの様子を見て、「山上道及は鬼神か」と、近づく者はなかった。そのようなところに、相手方へは武州忍、埼西、羽生の加勢があったので、宗綱公も攻めあぐみ、唐沢城本丸へ引き揚げになられた。
 そして、山上道及、大貫、竹澤、赤見六郎、富士源太、津布久などを呼んだ。
「この上は結城、小山、下館、壬生、皆川、宇都宮の六カ所へ遣いを送り、加勢を得て大軍をもって敵を討ち取るか、負けたふりして館野あたりまで引き、富士口より犬伏、天明へ軍を回し横槍、歩弓、鉄砲を打ちかけ、また誰か二人が小中村、並木村より歩弓を打ち横槍を入れるというように、三方から攻めよう」とご相談された。
 しかし、家老衆が少々不仲だったため、思い思いの考えをもっており相談はまとまらず、右の六カ所へ遣いは送らなかった。ほどなく山上道及は宗綱公へ願い出て、武者修行へ出て行ってしまった。
 長尾殿は免鳥城に家来と館林勢を置き、城外にも柵を巡らし、多数の兵でもって用心深く守った。境七ヶ村は、このとき足利の支配下となり、長尾殿の家来浅葉左衛門、同甚内が城代になって城を預かった。

宗綱公、早苗を荒らす (写本p27〜)
免鳥合戦のことをあまりにも残念に思った宗綱公は、家老衆に次のように仰せになった、
「聞けば、長尾は只木山に出てきて、免鳥城や境七郷を時々巡見しているという。そうなら忍びの者を一人出して、長尾が只木山へ参る日を見聞きさせよ。それに、天海佐渡、椿田城の福地出羽、同帯刀の三人は免鳥の近所に居て、在所の小道に至るまで知っておるので、歩弓の郷人を付けて免鳥、寺岡の野に出して麦や早苗を荒らさせよう。そうすれば免鳥城から討ち出てくるだろうから、大貫越中、赤見六郎を大将に、朽網、戸奈良、その他の侍五十騎にて免鳥城を押さえる。長尾も只木山から出てくるだろうから、我は足黒に隠れていて、長尾が出てきたところを急襲して捕らえてくれよう」
大勢では上手くいかないだろと人数をしぼり、先手として富士源太、阿部主計、山越才吉をはじめとして、葛生縫殿之助、戸室才蔵、野城豊後、清水右京、川田右近、春日権八、早河大和、大川右衛門、関口土佐、稲垣淡路、亀田主水、岩崎平治、川崎加賀、小曽戸外記、門叶信濃らに馬を与え、その他百騎あまりに申し渡した。
 また、竹澤山城、小野兵部、同長門、津布久弾正などは、守りのため居城に残ることになった。

 天正年中四月二十一日に長尾殿が只木山に出てきたのを忍びの者が見届け、唐沢本城へ告げてきた。かねてからの案の通りに、ご出馬になられ足黒村に忍び、右の三人の者に指図し、歩弓の郷人らに馬草のためにと作物を刈らせた。
 すると思った通り、長尾の物見が只木山と免鳥城へ報告したので、免鳥の浅葉左衛門、同甚内の兄弟が討って出てきた。只木山の長尾殿も立腹し、馬廻りの上下百人で、「一人も残さず討ち取れ」と、脇目もふらずに討ち出た。
宗綱公も足黒村から寺岡へ向かった。大貫、赤見、朽網、戸奈良は免鳥城へ押し寄せ、何とか浅葉兄弟の一人でも討ち取ろうと攻め立てた。宗綱公は長尾を討とうと、今日を命限りと攻めたので、長尾の旗本を突き崩し敗走させた。長尾殿も宗綱公の軍の様子を見て、今日を限りとの心がけのようだと思い、早々に足利に引き揚げた。宗綱公もしかたなく免鳥を攻めている者たちと共に唐沢本城に引き揚げになられた。

 彦間 小野兵部討たれる  (写本p30〜) 
 天正十四年?十二月十日。長尾は家老小曽根筑前と内談した。
「彦間の小野兵部の家来に下総という者がいる。その方は何とか彼をそそのかして兵部兄弟を討たせよ。そうすれば下総を引き立て、その方も下総と一緒に佐野の押さえとして彦間に差し置く。謀略をめぐらし討ち取るように」
 と、長尾は仰せになった。
 小曽根は「委細承知致しました」と引き受け、名草から下総守のもとに「隠密に少々内談したいことがあるので、隙を見てお越し願いたい」と書状を送った。
 下総は何事かと思ったが、敵方からこの様な書状をもらって行かねば臆病者と言われると思い、早々に出かけた。小曽根筑前はいろいろとご馳走した上で、例の件を告げた。下総もしばらく思案した上で、「侍は渡り者。兵部の家来のままでは佐野の陪臣でしかない。この相談に乗れば長尾の家来になれる」と考えた。
 そして、小曽根と共謀し、十五日に兵部兄弟を招き、もてなしの風呂を立て、小曽根も台所に忍んでいて、風呂の中で討ち取ろうと相談した。
 十五日、小野兵部と長門の兄弟は、このようなことを夢とも知らず、下総の所にやって来た。そして、小曽根と下総は案どおりに兵部兄弟を易々と討ち取り、長尾方に注進した。
 兵部の妻と老母は涙ながらに逃れ、唐沢本城へ落ちていったので、宗綱公とその座にいた侍たちは、涙を流された。

足利攻撃ご相談の事   (写本p32〜)
 宗綱公は、天正十四年十二月十五日に、富士源太とご家中に、次のように仰せになった。「来る元日に旗本だけで足利へ押し寄せ、皆が油断しているところを攻め、長尾と勝負をつけようと思う。本道の寺岡、村岡は遠回りで、その上、免鳥城で鐘や貝を鳴らされては、長尾か居城に押し寄せる前に、足利の諸勢が方々より馳せ参じ、館林、新田勢も救援にきてしまう。彦間から名草へ出れば、佐野と足利が入り組んでいるので、隠密に足利へ越していける。長尾さえ討ち取れば、たとえ新田、足利、館林の者どもに前後を囲まれ討たれても悔いはない。佐野と足利はたびたび取り合いの戦をしてきたが、当方が後れをとったことはない。しかし、この頃は長尾に遺恨が多数ある」

ご遺恨多数の事   (写本p33〜)
「第一。長尾の押さえにと彦間に差し置いた小野兵部、同長門を討ち取られ、小曽根筑前を彦間に差し置かれたこと。第二。彦間と名草の境は代々百姓たちが山林や馬草場を争っていたので、彦間で柵をつくり仲木戸と名付けていたところ、名草側に柵を破られたこと。第三は免鳥合戦。これらは長尾を討ち果たしても余りあるほどの遺恨だが、敵方の者より恥ずかしいのは、天徳寺や免鳥合戦後に武者修行に出た山上道及らにさげすまれることだ」 と、宗綱公が仰せになられたが、ご家老たちは「ごもっとも」と言うばかりで、その日はご相談が行われなかった。

 大貫越中 計略に関して諌言の事  (写本p34〜)
大貫越中が暮れの挨拶に登場すると、宗綱公が密かに、明日の元旦に足利を名草から攻めるという計略をこっそり伝えた。
 それに対し大貫は、「正月元旦に合戦をするのは昔から大変嫌われております。味方の守りを固めておいて、敵の不意をついてこそ勝利が得られます。なにとぞ思いとどまってください」と諌言申し上げたところ、宗綱公は機嫌を悪くされた。
 宗綱公がこれまで思い詰められたのは、強気の大将ならではの短気なのか、または、武運尽きる前兆だったのか。
 家老衆は不仲で、大貫も小田原に内通しているとか、足利と内通しているとか思われており、家中は二つに分かれていた。大貫も佐野家一の侍大将で、この頃は大貫方、御家方などとひそかに言われていた。佐野家がそのような状態だったので、あえて諌言する者はいなかった。
夜の丑の刻(午前二時頃)、宗綱公が本城をご出馬したとき、馬の前を白い衣の帷若い女が歩いていた。人々が奇異に思っていると、間もなく消えてしまった。不思議なことだと、人々は肝をつぶした。

宗綱公二十八歳で討死の事  (写本p36〜)
 足利の長尾顕長公より佐野への守りとして彦間に差し置かれている小曽根筑前は、何やら佐野領が騒がしいと聞いて、方々の山林に人を配したところ、案の定、佐野が攻めてくるという報告がきた。
 この城では守りが弱いと見た小曽根は、妻子以下は山林に隠れさせよと言い、自身は与力、歩弓の者どもを召し連れ、須花の寄居(集落)へ馳せ参じ、番の者にその旨を告げ、貝や鐘を鳴らさせた。まず、それを聞いた名草の芳賀右衛門は、半月の指物に馬印で歩弓を召し連れ馳せ参じた。二番目に柳田隼人、山下幡磨、泉新十郎、岩下右近、杉木修理などが馳せ参じた。
 佐野の先手の富士源太、山越才吉の両人は名草に討ち入っていた。足利では何も知らず元旦の祝いをしていたので、思いも寄らぬことに慌てふためく騒ぎになった。
宗綱公は強気のため、旗本勢や後勢が勇み早まるようにと、先に出発し、旗本勢も追いつかぬほどに馬を早めた。槍持ちの一人などは、馬の尾に追い付こうと早駆けしたため、閑馬の川原で血を吐いて死んでしまった。旗本勢も早馬で続こうとしたが、大将の馬は肝が強く、四五丁(四、五百メートル)遅れてしまった。
 宗綱公が須花坂まで一人で駆けてきたとき、須花坂の下では小曽根筑前が、まさか大将とは知らず佐野勢とみて、名乗りを上げた。
「小曽根筑前なり。彦間に差し置かれた小野兵部を討ち取り、その後も佐野家に対して度々敵対してまいった。この度も顕長公へ申し遣わして、ここに名草六郎と、其れがしの一家、その他が籠もっておった。後より続く佐野勢へ弓鉄砲を打ちかけてくれよう」
宗綱公はこれを聞き、当初は須花を攻め落とし、次に足利で長尾の首を取り、その帰りに筑前を討とうと思っていたが、先ほどの言葉に「己をまず攻めててやる」と采配をふるった。旗本勢が続いてくるものと振り返ったが、後に続いて来なかった。しばらくたたずんで待っているいるところに、どこからか飛んできた鉄砲の弾が胸に当たり、落馬された。そこに豊島七右衛門という軽輩らしき侍が、大将とも知らず走り寄り、御首に二回太刀を入れたが切り落とせなかった。
 宗綱公は「うろたえ者。兜のしころを巻き上げて切るのじゃ。その方の太刀では無理だ。わしの首取り用の小刀で切れ」と仰せになった。豊島七右衛門は宗綱公の腰の首取り刀を抜き、しころを巻き上げて首を取った。
 豊島七右衛門は、佐野の先手の物頭あたりが血気にはやって一騎で来たのだろうと思ったが、馬具などが立派なのを見て、もしや大将ではないかと疑い、大勢の者に首を見せた。その中に宗綱公を知っている者がいて、「大将の宗綱公だ」と言ったので、足利方は一度にどっと歓声を上げた。
 そこへ佐野の旗本勢が駆けつけた。「大将宗綱公、今日ただ今討ち取った」との足利方が大声で言うのを聞くと、佐野勢は「この上は命は惜しくない。須花から足利勢を攻め落とさん」と叫び攻め立てた。勇んでいた足利勢が敗れかけたところへ、樺崎の新井図書、大沼田淡路、市川右衛門、久米伊賀、その他の足利勢が多数駆けてきた。
 大将は不意に討たれてしまい、是非も無しと佐野勢は方々へ退いた。
 
 佐野の家老は敗軍の諸勢を集め、宗綱公の居城にて会合を行い、
「この度、大将が討死された上は、各々方をはじめ皆が、かの地の草原に屍をさらすべき事こそ本望だが、大将が討たれたので散乱した者たちを集めるのは難しい。また、はかばかしい戦ができないようでは、人に何と言われるか口惜しい。この上は天徳寺に戻って頂き、後日に勝利を期するしかない。この本望を遂げるまでは、宗綱公ご生存の時よりなお、本城は言うに及ばず、村々まで堅固に用心いたすように」
 と、侍衆に申し渡した。

佐野家老、天徳寺請待の事  (写本p41〜)
宗綱公が討死されてしまい、ご老母様、ご内儀様は涙ながらに二人の姫君をご覧あそばされた。父上が討死なされても、二人のうち、せめて一人でも男子なら、このような事にはならなかったろうと涙を流された。姉君は五歳、次は三歳で、何の事かも分からないようなご様子に、家中の面々は言葉もなく、何ともご挨拶の申し上げようもなかった。
 一同涙を流す中、ご老母様が、
「嘆いていても叶わないことです。我々は女として生まれてきた以上無理なので、この上は天徳寺を呼び戻し、下知してもらい、何とぞ足利、新田を討ち取りましょう」
と、仰せになった。家老衆、家中の面々とも、
「仰せの通り。家中の者も左様に思っておりました。このような乱国の時には、大将がいなくては士卒の心もおぼつきません。早々に天徳寺を招くのがよろしいかと思います」
と、宗綱公討死の事や、ご老母様の御意の趣を手紙にして、急ぎの便で上方の天徳寺へ知らせた。  

大貫越中切腹の事   (写本p42〜)
この度、宗綱公が元旦にご出馬されたとき、大貫越中守はお供をしなかった。もっともご諌言したときに、宗綱公がご立腹され用いられなかったとはいえ、ご出馬された以上は是非に及ばない。越中の申すことにも一理はあるが、その心が分からない。本城の留守居を仰せつけられておらず、何も御意はなかった。宗綱様が脇目もふらずご出馬されたにもかかわらず、越中が後に残ったのは本意に反する。城を守るための留守居は、急な時のために常々仰せ置かれていたが、いつのも衆はもっともであるが、大貫方が後に残ったのは、おそらく謀反の心があったのだろう。
 そう思った富士源太、竹澤山城、山越才吉、津布久弾正、細野次郎左衛門をはじめとする三十余人の侍大将と、このほか百騎が大貫越中守の居城に押し寄せた。越中も佐野四天王の一人で一騎当千の者だが、だんだん道に背いてきたため家老衆と不和になり、宗綱公討死後、ほどなく、一戦にも及ばず切腹したとのことである。

 長尾殿 宗綱公を討ち大いに喜ぶ (写本p44〜)
 同年正月の二日、足利本城において、長尾殿は家来衆に喜びの盃をくださった。
 長尾殿は家来衆に仰せになった。
「佐野と足利の取り合いは数年に及び、大将を捕らえることはなかったが、この度、宗綱を不思議なことに討ち取ることができた。これは後代の誉れ、家運長久の元で、この上ないことである。近々、出馬し、佐野の家来衆も討ち取り、佐野を支配する」
皆、それを承り、
「この度のご勝利は、日頃の武略のたまものと存じます。関東に城主は数多くおりますが、小田原、越後、甲州、佐竹の旗本に属しない者はおりません。しかし、足利、新田のご両家はどこの旗下にもなっていません。この上は、野州(下野)、上州までもお手に入れることもできましょう」
と申し上げた。長尾殿は大いに喜び、先ず小曽根筑前に盃を下された。次には豊崎七右衛門に下された。これは、宗綱を筑前らが討ち取ったからである。
だが、侍大将の江戸豊後という者は、何のご挨拶も申し上げない上に、盃を下されると、頂戴しながら、はらはらと涙をこぼした。長尾殿は立腹し、
「強敵を討ち取り、皆が喜んでおるときに、豊後は先ほどから憂いの様子で不思議であった。その方の縁者でも宗綱の下にあるのか」
と仰せになると、豊後は承り、
「お屋形様の仰せとも思えません。親兄弟が別れて戦場にのぞんだなら、お互いに恥ずかしくないように、より勇んで戦うことは、古よりその例が多くあります。それがしに縁者を気にするような心があるなら、日頃一命をかけて忠勤に励んだり、また、今、御前にまかり出ることはありません。愚意を述べさせて頂きます。小田原は北条氏綱公より今の氏直公まで五代になるため、ご一家には広く代々の譜代の衆が数多くいます。新田、足利のご両家を北条一族でないのにご懇意にし、関東の多数の城主のうちで旗下に属せずとも小田原から無事で粗略にされないのは、ご両家を大切に思ってのことではございません。第一は謙信公のご支配。そして、近国無双の強将である宗綱公をうるさく思い、この為にご両家を立てて、ご懇意にしていると思われます。宗綱公亡きこの上は、氏直公はご気遣いしなければならない敵がいなくなりましたので、ご両家に気遣うことなく、お退治になり、親しいご一門や譜代衆を新田、足利、館林、桐生へ差し置くことでしょう」
と申し上げた。これに長尾殿は大変立腹され、「左様とて寄せ来る宗綱を討たずにおけるものか」と仰った。
 豊後は重ねて申し上げた。
「佐野と敵対している上はご退治になられるはもっとものことと存じますが、それがしが申し上げたいことは、左様な大きな利は深く慎み、免鳥、椛崎、彦間、名草など敵が寄せてくる所を大切に守るよう仰せつけることこそ、深いご武略でございます。信長公、また、謙信公、信玄公の三大将は、弓矢の道三五七といって六の勝ちをもっぱら守り、様子作法ともによろしき格言でございます。このため三大将は近頃、武道の名人と天下に名をとどろかしております。佐野天徳寺、山上道及は武者修行に出ており、佐野家中が不和だったので、今回の幸運となったのでございます。佐野家中が一つにまとまっていれば主君を易々討たせることはなかったと口惜しく思い、様子をうかがい、身命を惜しまず方々から攻めてきたならば、必死の敵に対しての戦では勝負も危うくなります。敵がもし、免鳥城か彦間の要害を攻落して火の手を上げたなら、大将の不覚となります。宗綱が討たれたのは、不思議なことに軽率な戦をしたのであって、武運が尽きたためでしょう。浅葉兄弟、小曽根筑前、新井図書、その他の方々で、それがしの申し上げたことで理屈に当たらないところがあれば承ります。また、合戦の様子、特に宗綱を討ったことを早々に小田原に使者を立て、なお後より委細を伝えますと述べさせるべきところ、目の前の勝利のみを喜び、行く行くはお家が滅びることを思わぬことは、嘆かわしいことでございます。良将は奥に奥有り、と申します。また、古語にも、遠き慮なき時は必ず近き愁いあり、ということもあります。小田原は大家で、関八州には肩を並べる者はありません。これ以後、思わぬ事が起こった上は、なお親しみ深く敬ってこそ、ご先祖鎌倉権五郎景政公より代々のお家を輝かすことができるのです。また、災いを薄くし幸を成すは良将の知恵と承ります」
 と、憚るところもなく申し上げたが、家が亡くなる時節だったのか、長尾殿はついに納得されることはなかった。このため江戸豊後は、間もなく長尾殿の所を立ち退いたので、人々は惜しいことだと思った。

 足利、新田 小田原で蟄居の事 (写本p50〜) 佐野宗綱公を足利で討ち取ったことを、長尾顕長公より小田原へ報告したところ、北条氏直公は感じいって喜ばれ、山上五右衛門を上州前橋に遣わした帰りに、由良、長尾殿の元へ向かわせ次のように伝えた。
「先年、由良殿は武略をもって桐生又次郎殿を退治しました。今度、また、長尾顕長公が佐野宗綱を討ち取りました。これで、甲州、駿府まで手に入れられることは疑いありません。新田は西上州を手に入れ、信州まで発向(討伐)しました。足利は、宗綱を討ち取ったとはいえ、家来が佐野領を堅く守っておるでしょうから、その者どもを一々退治して、(小田原?)結城、下館、壬生、皆川まで手に入れ、このほか北野州、常陸までも手に入れる計略でしょう。これは佐竹義宣、同義久、景勝が支配している地なので、必ずこの両家に加勢を申しつけます。日頃の勇才、感じ入りました。両家の働きで手に入れた国々郡々は、当方では少しも望まない。右の子細を直に相談し、また、両家の働きに感悦したことを申し、数日のご苦労を慰め申すため、山上五右衛門を遣わしました。ご両家はこの五右衛門に同道して、小田原に来るよう望んでおります」
こう伝えられたので、由良、長尾殿は小田原にお越しになった。
 しかし、氏直公は山上五右衛門を通して両城主に次のように仰せになった。
「第一。合戦にそれぞれ勝利を得たことはもっともであるが、当方への注進を引き延ばしたこと。第二。先年、小田原が佐野を攻めた時、佐野前川原富士口まで攻め寄せ、宗綱側の第二、第三の備えまで切り崩し、旗本や後備えまで色めき立ったのが見えるまでになったときに、両家の加勢があれば、宗綱が備えを立て直すことができなかっただろう。両家が見逃したため、宗綱が備えの立て直しを下知することができ、味方は勝利を得ることができなかった。第三。この度、宗綱を討ち取ったのなら、その首を長尾顕長が小田原に持参すべきところ、五日後に注進したのみだった。これら、無礼至極なりとご立腹されておられる。そのため蟄居を仰せつけられた。申し分があるなら、家老に申し出よ」
そう告げると、控えていた者どもが急に出てきて押し捕らえ、蟄居させてしまった。
 その後、ほどなく赦免になり、人質をとった上で、新田、足利へ両城主は帰城になったが、翌年、小田原より攻められて、間もなくついに両家は滅んでしまった。

小田原よりの使者の事 (写本p53〜)
小田原の氏直公より佐野へ使者がきて、次のように仰った。
「宗綱討ち取りの子細は、長尾顕長方より知らせてきた。佐野領は今まで通り支配してかまわない。それでも、関八州のきまりなので、小田原に人質を渡すこと。押し寄せ勝負しようかとも思ったが、宗綱の内婦、老母しか城におらず、大将のいないところを攻めては、大人げない。また、長尾、由良の両城主は、佐野、桐生を討ち取ったが、無礼なこともあったので、小田原に招き寄せ蟄居を申しつけた。両人の申し開きがあったので帰城させたが、佐野から人質を出すのなら、長尾らと重ねて遺恨があっても、こちらより後詰(応援)する」
そう家老衆に仰られた。これに対し
「ご使者の言われた趣に背くようですが、宗綱は討死しましたが、弟に天徳寺と申す者がございますので、天徳寺の考えを承ってから、こちらよりご報告いたします」
 と返答し、使者を小田原に帰し、早速、使者の趣を上方の天徳寺へ申し遣わした。

佐野より天徳寺へ飛脚の事 (写本p54〜)
天徳寺は上方の秀吉公のもとにおり、家中の者たちは、天徳寺の槍の弟子であった。秀吉公にもお気に入られ、お側近くにおいて、何事もお気兼ねなくお話しになることができた。第一に天徳寺は智仁の強将で、度々戦場を重ね、その上、兵法や槍の名人で、天下無双であった。秀吉公も一度は取り立てようと思い召されたほど懇ろだった。
 そのようなところに、野州佐野より急ぎの手紙が届いた。その趣をご覧になって、
「さてさて、残念なことなり。吾ら兄弟が佐野に居住していたならば、すぐに長尾を討ち取り本意を達することができたのに。また、宗綱公も、その時には、天徳寺がいたらと思われたであろう」
と、心が強い天徳寺も涙を流した。そう言っても是非はないので、この上は下向して長尾を討ち取ろうと思い、野州へ返信した。
「この度の宗綱公の討死は是非もないことなので、そなたたちは居城は言うに及ばず、村々の境目まで用心をせよ。追って下向して、本意を達する」
これで佐野の家老たちは言うに及ばず、家中の侍一同は、心を一つにして用心した。

 天正年中二月上旬のこと。天徳寺は右の手紙のことを秀吉公へ申し上げた。
「そうか、佐野宗綱は長尾に討ち取られたのか。貴老が残念に思うのはもっとなこと。早々に野州へ下向して長尾を討ち取るように。もし、貴老に所存があれば遠慮なく申せ」
かたじけなくも、秀吉公からこのように御意をいただいた。
 天徳寺は、「ありがたき幸せ。拙者下向つかまつり、佐野の家来共と心を合わせ、存分に戦い、長尾を討ち取ります」 と申し上げ、一両日中に下向しようと用意をした。
 そのようなところ、二月中旬に、また佐野より手紙が来た。そこには、小田原から使者が来たことが書かれれていた。これは思ってもみなかったことなので、秀吉公へその趣を申し上げた。
「それなら下向することはないだろう。この上は小田原に人質を出し、下知に従って城を守るのがよい」
秀吉公はそう仰られ、天徳寺と密かにご相談された。秀吉公の御意は、
「長尾、由良の両人が小田原に蟄居した上は、貴老が下向しても無益であろう。また、新田、足利両城主が申し開きして帰城したとしても、小田原に人質を渡したのなら、新田、足利も遠慮し、野州唐沢の城も心配ない。時節をみて我らが小田原を退治するから、貴老も本望を達することができるだろう」
とのことだった。このことを天徳寺は佐野へ一々残さず仰せ下された。

小田原より人質を取りに来た事   (写本p57〜)
氏直公より山上五右衛門が使者として来て、佐野の家来衆に「さる時、申し渡した人質のことを、天徳寺へ聞いたのか。人質を出さないのなら、どうするか申してみよ」と仰せになった。
 佐野の家来衆は、「ごもっとものことです。天徳寺へ申し遣わしたところ、この上は何ぶんにも氏直公の御意次第にせよと申してきました。ご下知に従い、人質をお渡しします」
と申した。
「それなら、佐野本城にいる家老衆は残らず、妻女か子供たちのうち一人を出し、侍たちも同じ通りにせよ」として、山上五右衛門は、二十四人の人質を連れ小田原に帰った。
 仕方ないことである。

山上道及の事 (写本p58〜)
山上道及は武者修行として、上方、または関東の小田原で少しの間働いた後、武田信玄公の所にいたが、佐野の様子を知った。そこで秀吉公の元に参上して天徳寺へお目にかかり、宗綱公討死のことをお互いに語った。
 道及は天徳寺によって秀吉公へお目見えした。秀吉公は、近日に小田原を攻め退治するつもりなので、関東を生国とする天徳寺と道及に、関東の絵図をご所望になった。そこで、関八州の城々、山川、大小の道、難所まで残らず絵図にして差し出したところ、秀吉公は大変ご感悦になり、お気に入りになられた。そして、両人にこの度の小田原攻めにおける関八州の案内を仰せつけられた。
 ほどなく五畿内五ヶ国に仰せ付けられ、五畿内の軍勢数万騎に出陣の用意をさせた。

 秀吉公小田原攻めで天徳寺先手の事 (写本p59〜)
天正十八年。秀吉公は「畿内の数万騎にて小田原氏直を攻略する」と、諸軍勢に軍法(配置、戦術)を下知した。
 天徳寺は秀吉公へ「それがしに今度の小田原攻めの先手を仰せ付けください」と申し上げた。
秀吉公が「貴老は自分の兵を持っていないので無理ではないか」と仰せになると、
「先手を仰せつけられましたら、野州佐野へ申し遣わします。宗綱の家来衆が都合五百騎はございますので、彼らを呼び寄せれば先手は仕れます」
と天徳寺が申し上げると、秀吉公は考え深い大将なので、「佐野に居残る侍共も、もはや数年も経っていることなので、思い思いに働いてくれるかわからないぞ。その時はいかにするか」と仰せになった。
 これに対し天徳寺が、「宗綱の侍は代々の譜代ですので、他の国のために働くことはございません」と重ねて申し上げると「それなら貴老に先手を申しつける」と秀吉公が仰せつけた。
 天徳寺がこのことを佐野に告げたが、思いとは違って、秀吉公が危惧したように、家来たちは方々へ散ってしまっており、小田原に人質を出した衆の外の侍で参上できるのは百騎以内だった。
天徳寺はこれによって「是非もない次第なり」と面目を失った。それよりしばらくは、秀吉公がそばにお召しになることはなかった。

小田原合戦の事 (写本p61〜)
 秀吉公の軍代には、加藤主計頭殿、お目付には富田左近殿、その他、数万騎にて小田原に押し寄せた。小田原も急いで用意していたので、氏直公も諸軍勢に下知した。まず大手口には北条安房守、山上五右衛門を大将に、数千騎で守った。氏直公が、
「この度の合戦で、聞くところでは佐野天徳寺、山上道及の両人が関東の案内となり、今度の先手を望んだというのは以てのほかだ。佐野から人質を出している侍共も天徳寺に寄騎して馳せ向かってくるという悪行だ。大手口にて佐野よりの人質共を磔に架けておき、天徳寺勢に見えるようにしておけ」
 と、仰せになると、北条安房守が氏直公へ申し上げた。
「仰られることは、ごもっともでございますが、天徳寺と道及がそれを見れば身命を惜しまず討ち入ってくるでしょう。命を惜しまぬ敵には大勢であたっても敗軍は必定です」
 それに対し、氏直公は、「もっともなれど、こちらに人質がいるのを存じているのに、天徳寺に味方して押し寄せてくるのは、いかんともしがたい。関八州の人質も数多くいるので、見せしめだ」と、重ねて仰った。
 そして、大手口に佐野の人質三十四人を磔に架けておき、佐野勢の目前で突き殺して見せるべしと、生きながらに置いていたのは不憫なことである。
 そういうところに五畿内の諸軍勢数万騎が押し寄せた。天徳寺は道及を先手として、先に秀吉公に先手を所望したからには、是非とも今回の先陣では命を惜しまぬ覚悟と進んだ。 そこで磔の様子を見て、目がくらみ、心も消えるほどだったが、口惜しく思い、佐野勢は妻子の目前にて、この命も惜しくはないと遮二無二に討ち入った。そして、堅固な大手口の第一の備えを一気に崩してしまった。
加藤主計頭殿はこれをご覧になって、「天徳寺と道及を討たすな」と後勢に攻め寄せさせたので、小田原方は散々に負けた。これによって、天徳寺への秀吉公の覚えがよろしくなった。

秀吉公天下統一の次第 (写本p64〜)
 小田原はほどなく落城し、信長公の後に明智日向守を退治される以前に、武田信玄公、長尾(上杉)謙信公が病死して両家は亡んだ。関八州の佐竹義宣公、同義久公、里見義胤公を初めとして、その他奥州まで平定し、西国安芸の毛利公も平定し、六十余州に秀吉公へ敵対する者が無くなったので、秀吉公はご自身のことを「一天の御主」と仰せになった。

天徳寺佐野へ入国の事 (写本p65〜)
秀吉公から、
「天徳寺、貴老はここ数年の合戦で働き、その上この度の小田原での働きは、言語に尽くせぬほどの手柄である。よって、佐野領は申すにおよばず足利領を合わせて十二万石を与える。道及も働き者であるので、いよいよ引き立てよう」
とのご内意をいただいた。有り難き幸せであったが、天徳寺は、
「ご上意は有り難く存じますが、拙者は出家の身ですので、それ程の領地を頂かなくとも不足には思いません。兄宗綱には女子がおりますので、養子を迎えお取り立て頂きたく存じます」
と申し上げたので、天徳寺の申すのはもっともと、本領の佐野をお与えになった。そして、秀吉公は富田左近の二男を宗綱の養子(娘の婿)にと、即時に仰せつけられた。
 左近の二男は幼少だったので御意として約束し、天徳寺は野州唐沢城本丸にお入りになった。

佐野の侍衆出仕の事 (写本p66〜)
天徳寺公は唐沢本丸へご居城されて、家老、その他残っている譜代の侍を本丸に召し寄せた。特に竹澤山城守は小田原に行かず城を守っていたが、この度の天徳時のお国入りを大変喜んで、宗綱公が須花の雲雀鳥屋寄居にてお討死した次第を一つ一つ物語ってさしあげた。
「さて、討死は是非もないことだったが、家老衆が佐野を堅固に守り、その後一村も敵に取られなかったのは、前代未聞の手柄である。誠に感謝のしようもない」
天徳時は大変お喜びになった。
 また、大貫越中守については、「切腹する程のことではなかった。我らが下ってきて様子を見届け、少々の罪はゆるしたものを」と仰られたので、一同は何ともご挨拶申し上げることができず、「仁義深き大将なり」と感心し、天徳寺の治世は繁盛した。
 宗綱公の時の侍で城を離れていた者、また、浪人になり百姓とも侍ともわからない状態であちこちに居住していた者どもは、天徳寺ご入城と聞き、これまでの様子を申し上げてお目見えを望んできた。天徳寺公は、
「申すことはもっともだが、いかに大将が討死したからとて、譜代の侍が散乱するのは以ての外である。しかし、大貫越中のことや、佐野の家老や侍たちが不和であったことから、申すことにも一理ある。その上、我らが佐野に入ったのを待ち、さように帰参を申し出た上は、前の知行に、さらに少々加増して召し抱えよう。その方たちの前々からの働きと忠勤には感心している。この上は、宗綱の時と同様に忠義をつくすように」
 と、仰せられた。

 ご養子の件 家老衆にご相談の事 (写本p68〜)
 天徳寺が家老衆に「内々に申しておいたように、宗綱公の跡目のことを秀吉公へ申し上げようと思う」とご相談された。
竹澤山城守は「御意にぞんじます。富田左近殿のご二男は当年十八歳にご成長になり、当方の姫君もご成長されました。早速お願いあそばされるべきでしょう」と申し上げた。
 天徳寺は「その方が我が名代として秀吉公のもとへ参上し、以前の御意と相違がないとなれば、その方の帰国次第、わしが上京して、養子を同道してくる」と、竹澤山城守を使者として派遣した。
竹澤は取り次ぎを通して、秀吉公へ天徳寺の願いを申し上げた。秀吉公からは、
「以前、天徳寺が佐野へ入る時に約束したことに相違はない。富田左近にもそのことは言ってある。天徳寺が上京するには及ばない。今度の吉日に、竹澤とこちらの家来の者に富田の二男を同道させ、野州へ遣わそう」
との御意があった。富田殿にも上意があり、ご養子は竹澤山城守のお供にて佐野へお越しになった。

天徳寺お礼に上京の事 (写本p70〜)
 天徳寺は秀吉公へお礼のため上京し、次のように申し上げた。
「さてさて山城守を御意を伺うために上京させたところ、即時に仰せつけられ、ありがたく存じ奉ります。宗綱の養子に、いかようにも御名をお付けください」
これに秀吉公もご機嫌で、「天徳寺の申すところ神妙である。佐野小太郎修理太夫信吉と名乗るよう」と仰せになった。
 天徳寺は「有り難く存じ奉ります」とお暇を告げ、富田左近殿にもお礼をされ、佐野へ帰国した。
 佐野では、「ご婚礼は、まことに目出度き事」と上下とも喜んだ。

天徳寺ご隠居の事 (写本p71〜)
信吉はご成長し、佐野支配の村々まで堅固で、家老衆、その他家中の侍は一つにまとまり、ご長久の御家と喜んだ。
 天徳寺公が「信吉は諸事に成長した人物となり、家中や村々までよく支配しており、大変よろこばしい。我は数ヶ年見届けたら、老身なので赤見村に隠居したい」と仰ると、信吉公をはじめ家老衆も「御意のこと、ごもっとも」と申し上げた。
 間もなく天徳寺は、ご相談の結果、赤見村にご隠居あそばした。

信吉公、天徳寺へ不孝の事 (写本p72〜)
 天徳寺公が赤見にご隠居あそばされてから、諸事において信吉公にわがままの心が出来てきた。家老衆をはじめ皆が、たびたびご意見申し上げたが、用いることはなかった。赤見の天徳寺公もこれを聞き、唐沢へお越しになり度々ご意見申し上げたところで、お用いにならなかった。
 その上、天徳寺が近所にいることを気ぜわしく思い、「ぜひぜひ仙波村にお越しになってください」と、不意に仙波村に押し込めてしまった。それ以後、連絡を絶たれ、唐沢へもお入りになることもできず、是非もない次第であった。
 天徳寺公は、信吉公がこの様におごり高ぶっていては家が滅びるのは疑いないと嘆き、朝夕に涙を流され、間もなくご病死されてしまった。
 それ以後、信吉公は、ますます気ままにふるまった。

譜代の侍 お暇の事 (写本p73〜)
信吉公が諸事において気ままになさるので、家老衆は度々諌言申し上げたが、天徳寺のご意見ですらお聞き入れにならなかったくらいなので、諌言申し上げる者は本意に背いたと、譜代の侍(名は記すに及ばず)は一人、二人とお暇を申し渡された。その数は知れず。 富士源太は佐野一門に繋がっていたが、富士村へ引き込み、ご病死された。四天王のうち残ったのは竹澤の子孫だけで、その他、佐野譜代の者も他家に奉公したり、引き込んで百姓になったりで、残った者は少なかった。富田家から付いてきた衆も、後には暇を出され立ち退いていった。
 そのうちに、秀吉公、富田左近殿も病死されたので、お約束の加増(足利領のこと)の沙汰もなく、佐野領のみの支配だった。
 その頃の家老衆は、佐野和泉、竹澤山城守の孫・佐野内匠頭と、佐野を家名に下された者だった。和泉は富士源太の婿なので佐野の家名を下された。それに、弓削大和守、内藤五右衛門、中江川大膳であった。このほか新参の衆、譜代の衆は名を記すに及ばない。
これらの者が度々諌言したが、お用いにならなかった。しかし、江戸府の家康公の御前では大過なかった。

 唐沢城、天明春日山へ移築の事 (写本p74〜)
唐沢の居城において、夜中に江戸あたりで火事が見えると家中の者たちが信吉公へ申し上げた。信吉公はご覧になって「これは江戸に違いない」と、急に出発し、供回りも後に続きかねるほどに早馬でもって館林を通っていったが、途中で馬が死んでしまうほどに急いでいた。忍領で馬が死んでしまったのを不憫に思い、後になって、その場所に馬観音をお祭りになった。
 信吉公は、夜中の火事の翌日の九ツ(午後零時)前には、江戸の家康公へお見舞いを申し上げた。
 家康公はこの早々の見舞いに感じ入り、何れより火事を告げられ、何時佐野を出てきたのかと仰せになった。あまりにご機嫌だったので「それがしの居城より眼下に見えました」と申し上げた。ところが家康公は、
「さて、佐野の居城は、我らの居城を目の下に見るというのなら、ことのほか高いのであろう。あさはかな事ながら、それがしも関八州は言うに及ばず、日本を支配しているので、その居城より高いという貴殿の城は平地に移してもらおう」
と仰せになった。驚いた信吉公がいろいろとお願い申し上げたが不首尾に終わり、佐野にお帰りになった。
 家老衆と相談したが是非もなく、天明の春日山に居城をお築きになり、寅の年のうちにお移りになられた。
 悪い事が起こる時節にきてしまったのか、築城の初日も吉日でなく、お移りの日も吉日でなかった。

信吉公信州松本へお預けの事 (写本p76〜)
 信吉公の常々のわがままな事として、第一は天徳寺へのご不孝であった。そして、譜代の侍衆に暇を出し、新参の者どもを古来の衆より近くに召した。これらの者は諸事御意の通りにと追従申し上げた。軽薄で不作法なことをお勧めする者ばかりお気に入りになったので、家老衆も用のあるときに出仕するくらいで、どうにもならなかった。
 ご内婦様は嫉妬のご遺恨により、信吉公を隠居させ、ご嫡子小太郎殿に継がせて家中の嘆きや、ご自身の御心をはらそうと、家老衆とも相談されずに七十八ヶ条の書き付けの訴状を内縁の侍に持たせ訴え出た。
 家康公も、内々に目付衆より佐野信吉のわがままな様子を少々お聞きになられていたところに、訴状をご覧になられた。幕府にたいして無礼があったわけではないが、わがままな事が数多くあることから、まずは押し籠め、弁明があるなら許すことにしようと、信州松本に国替えを仰せつけられ、佐野へご上使を派遣された。旗本衆五人に仰せ付け、寺岡村岡崎山に日時を決めて隠れさせ、信吉公の親子三人を捕らえ信州松本城主へお預けになった。
 天明春日山の城へお移りになってから十二年であった。

佐野家老、侍衆いろいろ義心の事 (写本p78〜)
 そのようなところに、江戸の家康公より城受け取りの言上のため、溝口外記殿以下三名の旗本衆が派遣されてきた。佐野の家老衆や侍たちは思わぬことだったので、それぞれの思いを評議した。
 先の城代佐野和泉は、「この度、思いも寄らないことを仰せつけられたが、身に覚えのない事だから、城を明け渡し、時節をみて罪のないことを訴え申し上げれば、帰城できることは疑いない。思し召しを受け入れよう」と、仰せになった。
 佐野内匠が、「和泉殿の言われる通り、この度の事は思いも寄らないが、さすがに侍が主から預かった城を、一言もなくおめおめと渡すのは口惜しいことだ。この城を枕に討死しよう」 と申すと、弓削長門守は「それがしも内匠殿と同様に存じる」と申した。
中江川大膳は、「和泉殿の仰せはもっともだと思う。時節をみて弁明すれば帰城できないはずはない。分別は臆病に似ているが、この度は異議を申さず城を渡すのがよい」と申した。
 長門守が「両人の仰せになったことには合点がいかぬ。この長門と内匠殿は城を出ない。但し侍衆は自分の心次第とせよ」と申すと、長門守殿の仰せをもっともとする者があり、和泉殿の仰せに道理があるという者もあった。
そこで和泉守が重ねて仰った。
「忠義は侍の本分なり。ご主人を大切に存じ上げるのなら、再び世に立て申すのが本意であろう。この度、不意に信吉公が松本に蟄居になられたのは、残念な次第である。せめて罪の様子を家来共に一々仰せ聞かせて、その上でこの様なことになったのなら是非もない。いかにも仰せの義はもっともであるが、信吉殿のわがままは一部であり、公儀における無礼は少しもない。時を待って弁明すれば、通らないはずはない」
この言葉に四人の家老衆は同意して、城を素直に明け渡そうと申した。しかし、長門守一人はまだ不同意で、「一人では城は守れない。この命ある限りは、皆とは同意できない」と、早馬で犬伏の大庵寺に入り、切腹してしまった。
 四人の家老衆は侍たちに、「我々の申すところに皆が同意ならば、ご上使衆に様子を申し上げる」と仰せになった。
 佐野和泉、同内匠頭、内藤五左衛門、中江川大膳はご上使に申し上げた。
「この度、主人佐野信吉が不意に信州松本へお預けになり蟄居させられたことで、罪の次第を家来共もお承け奉りたく存じます。また、主人より預かりました居城を、すぐさまお渡し申し上げますのは侍として本意ではありませんが、ご上使に向かって異議を申せば、ご訴訟が成りがたくなります。そこで、恐れ入りまして、重ねてご訴訟申し上げるため、城をお渡しいたします。恐れながら御前によろしくお頼み申し上げます」
ご上使の三人衆は、「もっともなり。神妙につき、後日、弁明も受け入れられることであろう」と言い、礼式をもって城を受け取った。
 そして、三日で城を崩し、ご上使は江戸へお帰りになった。

 佐野和泉殿は出家し、山中仙斉と名乗り、土井大炊頭殿と内縁があったので懇意になった。そのころ土井大炊頭殿は家康公の元に出向くことがあった。山中仙斉からの「信吉公が無罪であることを御前によろしくお取り次ぎください」という言葉が伝えられ、いろいろと訴訟、弁明が提出されたので、間もなくお許しの内意を得られた。
山中仙斉がお迎えに松本に参ると、信吉公親子三人は大変喜ばれた。しかし、お目見えのために江戸へお越しになるところ、武州深谷において、ご運が尽きたのか卒中になられ、江戸へお着きになって間もなくご死去なされた。
 それ故、ご沙汰がなく、ご兄弟はご浪人となってしまわれた。ほどなく、家康公がご他界され、その後には、土井大炊頭殿、仙斉老も病死された。その後、お二人は長らくご浪人の苦労をなされた。
 そのようなところ、佐野吉之承殿、同喜兵衛殿のご兄弟が召し出された。そして、ご子孫は繁栄、ご出世、ご長久となり、めでたきことである。






  三 『佐野宗綱記』の史実、通説との相違点を考察




 ○『佐野宗綱記』の位置づけ
『佐野宗綱記』に関して、『田沼町史』には次のように述べられている。
 ・戦国時代天正期に戦国大名として活躍した佐野城主宗綱を中心とした戦記物語。
・作者は不明。
・江戸期寛永以後の作である。(寛永は一六二四〜一六四三年。二、三代将軍のころ)
 ・この物語は読者の興味をそそるため、作者が創作した部分が多く、資料としての価値  は乏しいが、比較的良質なものとしてこれ(内閣文庫蔵のもの)を掲載した。

戦国末期の混乱、宗綱の突然の死、他家の支配下、佐野家改易・家臣団浪人という点を考えると、信頼に値する佐野家の記録が乏しいのは当然であろう。断片的な記録や伝承をつなぎ合わせて、一連の物語にするには作者の創作が必要になってくる。
 よって、『佐野宗綱記』は歴史書でなく、戦記物語の範疇に入る。それでも創作の元となった資料はあるはずだ。ここでは、現在において比較的信憑性の高い史実や通説と、『佐野宗綱記』の相違点を挙げ、作者が創作した背景を考察してみたい。そして、重要な何点かに関しては資料を提示し、僭越ながら『佐野宗綱記』の内容の修正を試みたい。


1 佐野宗綱と天徳寺の関係について

『佐野宗綱記』の冒頭では、宗綱は五人兄弟の長男で、天徳寺、遊願寺、虎松殿、桐生家養子、と四人の弟がいるとある。
 四人のうち三人は早い段階で亡くなり、天徳寺のみ宗綱討死後も生き延び、『佐野宗綱記』後半では、まさに主人公として描かれている。天徳寺に関する資料は他にも豊富にあるので、ここでは天徳寺にしぼって、宗綱との関係を検証する。
 天徳寺とは出家してからの名で、天徳寺了伯、または天徳寺宝衍という。小田原合戦後、還俗(一度出家した者が、再び俗人にかえること)し、佐野房綱となり佐野家を継いだ。その後、信吉に当主の座を譲り、慶長六年(一六〇一)に没しており、実在の人物である。
『佐野宗綱記』『下野国史』や、系図集では「田原族譜」、唐沢山神社蔵「佐野家系図」では、天徳寺は宗綱の弟になっている。
 しかし、現在では宗綱の叔父説が有力になっている。

*叔父説の根拠
@ 『佐野市史』では、江戸時代中後期に幕府が編纂した系図集『寛政重修諸家譜』の佐野房綱(天徳寺)をみると、「房綱は昌綱の弟となっており、宗綱は甥の関係にあることが明記されている」としている。
 大名佐野家は信吉の時に改易になったが、二人の男子は旗本に復帰し、以後は旗本佐野家として存続している。『寛政重修諸家譜』は、主に大名、旗本家から提出された系図に基づき編纂しているので、信吉の子孫である旗本佐野家は、天徳寺を宗綱の叔父としていたことがわかる。

A 『田沼町史』では、佐野家の後ろ盾になっていた佐竹家へ天徳寺が出した書状を根拠にしている。
 佐野昌綱死後、宗綱の相続に対し、佐竹家から祝儀として栗毛の馬が贈られたことへの礼状で、天徳寺が「宗綱は若輩なので、今後もご指導をお願いします」と依頼している。
 宗綱の相続は十五歳とされているので、天徳寺が弟だったらそれ以下で、このような書状を出せるはずはない。叔父なら、若い当主である宗綱への取りなしを佐竹家に依頼するには適切な立場といえる。

B 『佐野宗綱記』では、小田原合戦の前に秀吉が天徳寺を「貴老」と呼んでいる。
 もし天徳寺が宗綱の弟なら、この時は二十代後半か三十になったばかりのはず。「老」には、老中や家老といった重要な役の意味もあるが、天徳寺は無役である。五十代半ばで、天下統一直前の秀吉が「貴老」と言うくらいだから、文字通り「老」が示すように、ある程度の年長者と考えるのが妥当である。『田沼町史』では、この時、五十三歳と推測している。よって、天徳寺は宗綱の叔父となる。

C 宗綱討死後、五歳と三歳の娘しか残ってなかったので、佐野家では跡継ぎをめぐって大混乱になった。もし、天徳寺が宗綱の弟なら、出家して諸国を武者修行中であっても、跡継ぎにはこれ以上最適な人物はいない。家臣団が何が何でもと強く押さなかったのは、天徳寺が宗綱の叔父で、ある程度の年齢になっており、既に出家して遠方にいたからではないか。
 そもそも、いつ討死するかわからない戦国の世において、男子の後継者のいない宗綱に弟がいたなら、出家させたり、他国へ武者修行に出すはずはない。
 結局、小田原城主北条氏直の叔父にあたる氏忠(三十八歳)が、宗綱の長女(五歳)の婿になるという名目で、佐野家を継ぎ、小田原落城までの六年間は北条の支配下になった。もし、天徳寺が弟なら二十代後半で、北条家もこのような強引な形で、佐野家に跡取りを送り込むことはできなかったはずだ。
 なお、『佐野宗綱記』には、小田原に人質を出したことは書いてあるが、佐野(北条)氏忠が相続したことは完全に欠落しており、あたかも主が空白だったようになっている。

D 天徳寺は小田原合戦後、秀吉によって佐野家を継ぐことができた。弟ならこの時でも三十代前半くらいのため、長期政権が可能で、結婚すれば跡取りをもうけることができる。それにもかかわらず、直ちに秀吉に養子を依頼して、二年で隠居している。よって、天徳寺は小田原合戦後には、高齢だったと推察できる。

 以上より、「天徳寺は宗綱の叔父」とするのが妥当と考える。

 *なぜ『佐野宗綱記』では天徳寺を弟としたか
佐野家の系図は様々なものが伝わっており、いまだに確定したものはない。前述の「田原族譜」、唐沢山神社蔵「佐野家系図」などでは、天徳寺は宗綱の弟になっている。
 『関八州古戦録』には、「宗綱には女の子が二人あったが男の子はなく、毘沙門丸という弟がいたが未だ幼少であった。そこで、兄の天徳寺了伯お呼び戻して還俗させたら…」とある。兄というのが毘沙門丸の兄のことなら、天徳寺は宗綱の弟となる。なお、『佐野宗綱記』には毘沙門丸の名はない。
 また、佐野家最後の五代を並べると次のようになる。
   昌綱→宗綱→氏忠(北条家より養子)→房綱(天徳寺)→信吉(富田家より養子)
宗綱の二代後に天徳寺が家督を相続している。この流れをみると、叔父よりは弟だと思うのが自然である。そして、弟という資料も複数あるとなれば、それを採用するだろう。

宗綱の突然の死の後、佐野家臣団の支えは天徳寺の存在であり、天徳寺が佐野家復興に力を尽くしたのも間違いない。『佐野宗綱記』でも、宗綱と天徳寺の扱いは同量である。(津布久・川久保写本では、宗綱関連が三十一枚。それ以後の天徳寺関連が三十二枚。残りは信吉。)
 これでは、『佐野宗綱記』というより『佐野宗綱、天徳寺二代記』である。このような二代を記するのなら、「甥から叔父へ」より「兄から弟へ」の方が戦記物語としてふさわしいと作者は考えたのかのかもしれない。
よって、天徳寺を宗綱の弟としたのは、作者の一方的な創作でなく、二説ある中から自然と思える方を採用したためであろう。ただし、そこで生じる年齢上の矛盾を補うために、佐野氏忠のことを空白にしたり、佐野信吉の年齢を変えたりした(後述)と思われる。 2 免鳥城主・高瀬紀伊守討死の真相
免鳥城の合戦で佐野勢が救援に駆けつけたときには、免鳥城主高瀬紀伊守は討死して、長尾殿に城を奪われていた。(本書p94)
この記載に関しては、「高瀬紀伊守は討死していない」と断言できる。
 高瀬紀伊守の名前が出てくるのはこの一回限りである。『佐野宗綱記』で肝心なのは、免鳥城の落城が、宗綱の遺恨、焦り、暴走へとつながることである。
 落城したのは確かで、それに比べれば高瀬紀伊守の討死の記載は取るに足らぬことだが、否定するだけの資料があるので検証してみる。

 @ 第一の理由は、それ以後の小田原合戦までの間に、小田原在住の佐野氏忠が高瀬紀伊守宛に出した文書が多数残っており、『佐野市史』『田沼町史』に収録されているからである。佐野氏忠は現地在住の佐野家重臣・高瀬紀伊守に対し、領地支配における細々とした指示や、小田原合戦前には招集の命令書(陣触れ)を出している。(次ページ)
 また、「氏忠が…中でも高瀬氏には宗綱戦死の遠因となった境七郷を与え」(『田沼町史』第6巻 p310)とある。
 
 また、『関八州古戦録』にも、宗綱死後、氏忠が家督相続するまでの期間は「大貫越中守、赤見内蔵介、武沢源三郎、津布久駿河守、山上美濃守、飯塚兵部、高瀬紀伊守、小見小四郎の八名が合議制をとって城を治めた」と、高瀬紀伊守の名前が出ている。
これらの資料は、免鳥合戦以後のものであり、紀伊守が生存していることを示している。

 A 第二の理由は、私が高瀬紀伊守の子孫であり、高瀬家系図(控)を所有しており、没年等がわかっているからである。系図から抜粋してみる。

 高瀬紀伊守忠行。幼名彦太郎、後に紀伊助。
 父は免鳥城主・高瀬伊豆守満重、母は関根勘ヶ由の娘(戒名:梅岩妙貞大姉)
元亀元年(一五七〇)免鳥に移り住む。侍七人支配。
 天正五年(一五七七)北条美濃守下知にて長尾討手に向かうその日、伊豆守、佐野  へ出仕のあとなれば一戦に及ばず。その後、古江に立ち帰る。
 天正十三年(一五八五)佐野宗綱討死の後。北条氏忠小田原お帰りのお供仕り小田原に住す。
 天正十八年(一五九〇)小田原北条家滅亡の時入道(出家)し先祖の本国西上野高  瀬村に住し、男子二人は母の里関根民部方へ引き取り後、母方の姓を継ぎ関根と  名乗る
 文禄五年(一五九六)高瀬村にて死す。五十九歳。
(注:佐野における高瀬家は紀伊守で終わり、以後は帰農して、富岡村名主関根家として存    続した。高瀬家系図は関根家が所有している。系図内で「紀伊守」は一人のみ。)

高瀬紀伊守の父伊豆守は免鳥城主で、紀伊守も免鳥に住み侍七人を支配したとある。佐野には高瀬姓が多いが、この高瀬家が免鳥城を任されていたことは間違いない。
『佐野市史』資料編によれば、歴代の免鳥城主は次のようになっている。
  免鳥山城守義昌、赤井山城守道休、高瀬伊豆守満重、浅葉左衛門、佐野和泉守
浅葉左衛門は『佐野宗綱記』にもあるように、免鳥落城後、長尾側が置いた城主である。
それ以前は、高瀬伊豆守満重になっており、城主として高瀬紀伊守の名はない。
 没年から逆算すると、紀伊守は免鳥合戦があった天正九年(一五八一)には四十四歳になっている。父に代わって城主になっていてもおかしくない。
 『佐野市史』資料編の城主名は、すべて家名が違っているので、同じ家で相続した場合、記載してないとも考えられる。
 高瀬家系図では、紀伊守のところに免鳥城主の件や免鳥合戦に関する記載はなく、それ以前に代々高瀬家の屋敷がある古江村に立ち帰っているという。もっとも、免鳥と古江の距離は十キロ程度なので、平時は城におらず、屋敷に住んだことも考えられる。
免鳥合戦時に、紀伊守がどういう立場であったか、戦に参加したか否かはわからないが、系図に五十九歳で没するまでの経歴があることから、免鳥合戦で討死していないのは確実である。
 
以上の二点から、「免鳥城主高瀬紀伊守討死」は史実でないと言える。

*なぜ『佐野宗綱記』では高瀬紀伊守討死としたのか。
かつて、船が沈むとき船長も運命を共にするものだと言われた。まして、戦国時代においては、落城した場合、城主も死ぬのは当然だったろう。
 免鳥落城が佐野宗綱の武運と佐野家の衰退を招いた一因だとすれば、城主は討死しているはずだと考える。そこで、江戸時代初期、『佐野宗綱記』の作者は、その頃の免鳥城主が高瀬姓だったことから、古文書等に名前が出てくる高瀬紀伊守をあてた可能性がある。
 
 また、別の見方もある。
 藤本正行著『信長の戦争』という書に、「戦国大名は、合戦での損害を自力で補填しなければならず、他方、敵もしくは敵になりそうな者はいたるところにいた。…一度の戦いで損害を顧みず兵を用いることなど許されなかった」とあった。
 表向きは「命は惜しまない」と勇ましいことを言っても、本当は、極力命を大切にしたのではないか。無駄死をしないことが、消耗戦を繰り返す戦国時代における武士の心得のような気がする。
『佐野宗綱記』にも、そのような例がある。(p91~)
 抜け駆けで榎本城へ夜討ちした山口藤七郎が、失敗して引き返してきたとき、宗綱は立腹したが家老のとりなしで許したとある。藤岡城攻めでは、密命を帯びて城の風上に火を放ちに行った松本丹波が、敵に発見されてしまった。大勢に包囲されたが、弓の名手だったので見事突破して帰ってきたことが記されている。奇襲に失敗し、責任を果たせなかったにもかかわらず、敵中を突破してきた武勇の方が、強調されているように思える。
 佐野家は、戦国大名として小さい部類に入る。最大でも五百騎だろう。周囲は敵で、度重なる戦において消耗していることを考えれば、不利な戦いになれば、次を期して戦場を脱出することは十分にありえた。(前述の山口藤七郎、松本丹波の例)
 免鳥合戦では、長尾方は周囲の大名の加勢を得て大軍(一説では二千人)で攻め寄せてきた。平地にある小さな出城では持ちこたえることは不可能な数だ。
 もし、高瀬紀伊守が免鳥城で戦ったとしても、落城は必至となったら、佐野本隊と合流するため血路を開いて脱出することはありえる。
 前述のように、紀伊守は免鳥合戦後も生きているので、そこで討死していない。あるいは、合戦時には免鳥城にいなかったかもしれない。
 ただ、さすがに城が奪われたとなると、誰かが責任を取らなければならない。
 そこで、大胆な推理だが、表向きは免鳥城落城時に高瀬紀伊守が壮絶な最期を遂げたことにして、対面を保ったのではないだろうか。「免鳥城主高瀬紀伊守討死」は、当時の佐野家、または高瀬家の情報操作とも考えられる。それが、当地で伝承となり、江戸時代初期の『佐野常綱記』の作者が参考にした。
 高瀬家でも、不名誉なこととして免鳥合戦のことは系図には記載しなかった可能性もありえる。


3 佐野宗綱討死の真相
宗綱の討死は軍記物語『佐野宗綱記』前半のクライマックスである。歴史的にも、「もし宗綱が生きていたら」と仮定すれば、その後の佐野家や佐野家家臣団の運命は大きく変わっていた可能性が大きい。
 ところが、そのような重大事なのに、「佐野宗綱が足利の長尾家との戦いで討死した」という以外は、史実として正確なことはほとんどわかっていない。
 まず、戦の時期、没年齢、討たれた相手の名前などが諸書で違っている。
『佐野宗綱記』では、天正十五年(一五八七)元旦 二十八歳 豊島七右衛門
『戦国時代の終焉』(齊藤慎一)では、天正十四年(一五八六)元旦 没年齢なし
『関八州古戦録』では、天正十三年(一五八五)元旦 没年齢なし 豊島七左衛門
『田沼町史』では、天正十三年(一五八五)元旦 二十八歳 豊島彦七郎(忠治)
『佐野の歩み』(佐野郷土博物館)では、天正十三年(一五八五)元旦 二十六歳
 
共通している元旦に関しても、宗綱の首を取った豊島への長尾顕長の感状が三月二十七日付であることから、「宗綱の突然の死を合理化するために、正月討死という形にしたものだろうか」(『田沼町史』)との疑問が提示されている。

 また、出陣の様子として『佐野宗綱記』では、元旦の午前二時に本城をご出馬とある。
本城とは唐沢山城のことだと思う。高さ二百メートルを越す険しい山頂にあり、上杉謙信も、小田原北条氏も攻め落とせなかった堅固な山城だ。 唐沢山城内には「桜の馬場」と呼ばれる場所もあり、馬がいたことは確かであろう。だが、そのような所から、深夜の暗闇の中、馬で一気に駆け下りられたのだろうか?
現在、彦間方面に繋がる栃本(根古屋地区)側と山頂を結ぶ道は、新道と旧道の二つがある。新道は車が通れるようにつづら折りになった道で、近代になって整備されたものだ。細い旧道は、地元在住の私も何百回と通ったことがあるが、人間の足でも上り下りは厳しい。馬では、相当ゆっくりでなければ、通れないだろう。
 『佐野宗綱記』にも、「北条勢は大手口より攻めようと相談したが、そこは険しくて山が高く、峰より大石や大木を投げ下ろすので、先年も攻めあぐんだ」(p92)とある。
 現在、唐沢山城趾の発掘調査が進められている。山麓の根古屋地区(佐野市栃本町)では、田沼高校あたりが大手門らしく、山沿いに和泉屋敷、隼人屋敷、家中屋敷の跡が並んでる。ここらが西側(上杉謙信、足利の長尾家等)への防御線になっていたようだ。
 もし宗綱が出陣するとしたら、まず明るいうちに唐沢山城から根古屋地区の侍屋敷へ下り、そこから将兵を連れて彦間方面に向かった可能性が高い。
 その後の戦ぶりは、『佐野宗綱記』をはじめとする諸書に、まさに軍記物語そのものといった逸話がいろいろ書かれている。その中で共通しているのは、鉄砲の弾に当たったこと、豊島某に首を取られたことくらいである。

*宗綱討死に創作が多い理由
第一は、事後の混乱のため、記録を残す余裕がなかったことが考えられる。
 もし、宗綱が『佐野宗綱記』にあるように単騎で乗り込んだとしたら、宗綱が死んだ以上、佐野側は真相を知らないことになる。もし、相手の足利側で記録したとしても、その後、小田原北条家によって滅ぼされてしまった。まして宗綱討ち取りの報告が遅いことを咎められての処置だとすれば、その記録など残しておかなかっただろう。
 佐野家は宗綱の死後、小田原北条家の氏忠が養子に入り家督を継いでいる。その時、氏忠は三十八歳で、小田原には妻子があり足柄城主でもあった。氏忠が、五歳になる宗綱の長女の婿になったというのは名目だけで、実質的には佐野家乗っ取りである。
 小田原に人質を取られ、真偽の程はわからないが小田原合戦時に磔になったというくらいだから、北条一族が当主とはいえ、過酷な扱いを受けていたことがうかがい知れる。
 そのような状況下で、宗綱討死の正確な記録は書けず、仮にがあったとしても、北条家によって廃棄されたか、自ら処分したのではないだろうか。
 よって、討死の次第を書くには、かなりの部分を創作せざるを得なかったことになる。

第二は、「若くして非業の最期を遂げた宗綱への鎮魂」があったと思う。
 『関八州古戦録』では「若様暴走、あえなき最期」という標題で、かんばしくない戦ぶりが記載されている。そして、付き人が戻ってきて一部始終を述べたたところ、「家人ら大いに力を落とし、またあきれて言葉もなかった」という。
『佐野宗綱記』では「宗綱公二十八歳で討死の事」という標題になっているが、内容はまさに若殿暴走である。鉄砲全盛で戦の方法が変わってきたにもかかわらず、大将自ら先頭を駆けるのは、無謀で、冷静さを失っていたこになる。
 しかし、仮にも宗綱は『佐野宗綱記』の主人公である。突然の討死という大筋は変えられないが、細部では鎮魂の願いを込めて、その死を合理化(正当化。理由付け)、美化したように思える。
元旦の午前二時に本城をご出馬したというのは、勇ましさを強調するための創作が多分にあると思う。自ら先を駆け、わずかな側近が後を追ったというのは、織田信長の桶狭間の戦いに似ていている。信長の故事を意識していた可能性がある。
 まして、宗綱の乗った馬の前を、白い衣の若い女性が歩き、やがて消えてしまったというのは、明らかな創作である。これは、宗綱が魔性のものに魅入られてしまったため、正気を失い理解しがたい行動をとったことを暗示しているように思われる。
 古来より忌み嫌われている元旦に合戦を行ったというのも、同様だろう。私も『田沼町史』で問題提起しているように、正月ではなく、三月頃が真相だと思う。
 ただ、椿田城主だった福地家では、代々正月三箇日には餅を食べないという。高瀬紀伊守の子孫とされる関根でも、家伝として正月飾りは禁じられており、今でも守っている。これは、宗綱や戦で死んだ先祖を悼んでのことだという。元旦合戦説は、江戸時代初期に『佐野宗綱記』が書かれる前から、当地では広まっていた可能性がある。
宗綱の討死にまつわる合理化、美化は、地元の人々、特に佐野家旧家臣団の宗綱への思いとして語り継がれ、『佐野宗綱記』へと繋がったと考える。

4 信吉について
『佐野宗綱記』では、信吉に関して次ように述べている。
ア 富田左近の二男。
イ 小田原合戦後、佐野家の養子に決まったときは幼少だった。秀吉が信吉と命名。
ウ 十八歳になったので、宗綱の娘と婚礼。
エ 成長後、宗綱の養子として家督を相続した。
オ 我が儘な振るまいが多く、天徳時を仙波に押し込めた。
カ 江戸の火事見舞いが仇となり、天明春日山に移城になった。
キ 我が儘が家康の耳に入り、内儀(宗綱の娘)の訴状等もあり、信州松本に預けられ、 佐野家も城引き渡し(改易)になった
ク 許され江戸に帰ったが、すぐに死去。二人の男子は浪人後、召し出され、子孫繁栄、 出世、長久。

 主に『田沼町史』を参考に、ア〜クを検証してみる。
ア 父は富田左近将監知信。信長に仕えた後、豊臣秀吉の側近となる。渉外係担当。小牧・長久手の戦いでは徳川家康との和平交渉を成功させる。のち伊勢国安濃津五万石の城主。慶長四(一五九九)年亡。兄は信高。
 『田沼町史』や『寛政重修諸家譜』には、信吉は五男とある。兄が早世した場合、繰り上がったり、正室の子でない場合、数えないこともある。二男としたのは、長男でないので養子になれたことを示すために、作者が判断したとも考えられる。

イ 信吉は永禄九年(一五六六)生まれ。天正十八年(一五九〇)の小田原合戦のときは二十五歳(数え年)で、幼少とは言えない。その時は信種といい、既に秀吉に仕えていた。佐野の家督相続にあたり、秀吉から「吉」の字を賜り、信吉と改名した。
(父も兄も「信」の字がついている。前の主である信長の「信」と思われる。信吉の名は、信長と秀吉から、それぞれ一字賜ったことになる。)
 なお、写本では「信吉」がすべて「信宣」となっている。これは、津布久・川久保写本だけでなく、『栃木県史』でも、内閣文庫蔵の写本が「信宣」となっていると述べてある。 解説では、どちらも「のぶよし」と読めるので宛字か、吉と宣の草書体が似ているので誤写ではないかという。
 大名佐野家最後の当主が信吉に間違いないので、本書の現代語訳でも信吉で統一した。

ウ 家督相続は天正二十年(一五九二)で二十七歳。
 『佐野宗綱記』の十八歳とはかなり違う。
 この年齢の違いは、『佐野宗綱記』で天徳寺を宗綱の弟としたため、信吉を実際より若くする必要があったからだと思う。なお、宗綱の娘(長女)は十二歳だった。

エ 宗綱の娘婿として養子になったとあるが、既に死後七年経っているので「宗綱の養子」というのはおかしい。
 正式には、天徳寺(房綱)が宗綱の長女を養女にして、そこに信吉を婿として迎えたという。よって、信吉は天徳寺(房綱)の養子となる。そして、二年後に義父の天徳寺(房綱)から佐野家を相続した。
なお、宗綱の長女(信吉の内儀)からみれば、宗綱は実父、天徳寺(房綱)は義父となる。この視点からこじつければ、宗綱と天徳寺(房綱)が義理の兄弟と言えなくはない。

オ 我が儘な振るまいが多く、天徳時を仙波に押し込めたというのは、『田沼町史』も『佐野宗綱記』から引用しているので同じ内容になっている。具体的な我が儘としては、「美女を愛し、酒宴遊興にふけり、国の掟を破った」とある。
 同時に『田沼町史』では、奉行の福地家の文書から「してみると信吉は、房綱の意を継いで領内の統治に積極的に取り組んでいたことが察せられる」とも述べている。

カ 現在でも唐沢山から、冬の晴れた日には、新宿の高層ビル群や東京タワー、スカイツリーがはっきりと見える。江戸の夜火事なら、まさに眼下にみえたはずだ。
 江戸または江戸城の火事が見えたので警戒され、城を平地に移すように命じられたとの話は、地元でも広く知られている。しかし、「当時の確かな火災記録にないことから巷説といえよう」と『田沼町史』にある。
 戦国の世が終わり、山城から平城へ移行していた時期なので、幕府の命令か、佐野家の自主判断で移したと考えられる。
 天明春日山の城跡は、現在、城山公園となり、JR・東武佐野駅が隣接し、南方二百メートルには市役所もあり、佐野市の中心地になっている。ここへの移城は適切だったと考える。

キ 内儀(宗綱の長女)との確執は、二人の間に子がなく、五人の側室との間に五人の男子があったことから言われているようだ。しかし、個人的な「嫉妬のご遺恨」(p125)で、佐野家の血筋の内儀が、家に災いが及ぶ訴状を幕府に提出するとは思えない。まして、そのような訴状で幕府が佐野家を改易することはないだろう。
 通説では、佐野家改易にはもっと大きな政治的な背景があるとされる。
 小田原合戦後、秀吉は家康を関東(江戸)へ領地替えした。同時に秀吉は自分の息のかかった大名を関東各地に配置して、家康を牽制した。腹心富田家の信吉を、関東どまん中の佐野家の跡取りに送り込んだのも、秀吉の思惑によるという。
 ところが、徳川の世になると立場が逆転する。信吉の父富田信知は小牧・長久手の戦いの和睦を成功させたことで、家康からも高く評価され信頼されていたという。だが、逆に考えれば、富田家は家康から警戒される立場にいたことになる。佐野信吉が本当に我が儘で政治を怠るような愚かな殿様だったら、改易にまではならなかったかもしれない。
 幕府が申し渡した改易理由は、「兄富田信高が事に連座し、また自分も大久保忠隣の縁類にあたり、かつその身の振舞いも良からず」(『徳川実記』)という。
富田信高も大久保忠隣も政争の結果、言いがかりに近い理由で改易になったが、佐野信吉もその縁者だからと連帯責任をとらされた。我が儘な振るまいは、取って付けたように最後にある。
 佐野信吉が領地没収、信州松本の小笠原秀政へお預けになったのは、慶長十九年(一六一四)年七月二十八日。
 その二ヶ月後に大阪冬の陣が始まった。すでに家康は豊臣家討伐を決意しており、同時に秀吉系大名の取りつぶしも考えていた。佐野家改易はまさにその典型だったと思われる。
 佐野家譜代の家臣団からすれば、改易はとんでもない濡れ衣で、さかんに弁明しようとした心中が察せられる。

ク 寛永十一年(一六三四)六月、信吉は赦免の内意を得たが、江戸に戻ってすぐの七月十五日に五十九歳で没した。二人の男子は、寛永十三年(一六三六)十二月、三代将軍家光にお目見えし、御書院番士に取り立てられた後、佐野久綱は三千五百石、佐野公当は四千国の旗本になった。
 『佐野宗綱記』の原本が書かれたのが寛永年間以後なので、佐野家復活に関しては最新情報として作者は知っていた可能性が高く、間違いはない。
 『佐野宗綱記』は、「ご子孫は繁栄、ご出世、ご長久となり、めでたきことである」で終わる。

 しかし、佐野は幕府領となり、井伊家、堀田家などの譜代大名や旗本の知行地として分割され、旧佐野家臣団の多くは帰農した。
 それらの家々の一部では、『佐野宗綱記』の写本が受け継がれてきたようだ。今回見つかった津布久・川久保写本は、それを物語っている。  参考文献
・津布久・川久保写本 佐野宗綱記 (川久保家蔵)(原本は江戸時代)
・『栃木県史』  栃木県   昭和五十一年
・『佐野市史』 (旧)佐野市 昭和五十三年
・『田沼町史』 (旧)田沼町 昭和六十年
・『佐野の歩み』佐野郷土博物館 平成六年
・『寛政重修諸家譜』続群書類従完成会 (原本は江戸時代)
・原本現代訳『関八州古戦録』教育社   (原本は江戸時代)
・藤本正行『信長の戦争』講談社学術文庫 平成十五年
・齊藤慎一『戦国時代の終焉』中公新書  平成十七年
・東栄義彦『高瀬伝・土の城』郁朋社 平成二十三年
・『史談』会報二六号 安蘇史談会 平成二十二年
・関根・高瀬家系図(関根本家蔵)