大山捨松 (おおやま すてまつ)  「鹿鳴館の貴婦人」




図1                                 図2

 図1の写真は、明治4年、欧米に派遣された岩倉使節団の首脳たちで、どの歴史の教科書にも載っている有名なものである。左から木戸孝允(長州)、山口尚芳(肥前・佐賀)、岩倉具視(公家)、伊藤博文(長州)、大久保利通(薩摩)と、明治政府の中心人物ばかりである。この使節団には、約50名の政府役人の他に、約60名の留学生が加わっていた。
その留学生の中に、5名の少女たちがいた。図2の写真左から、永井繁子(10歳)、上田悌子(16歳)、吉益亮子(16歳)、津田梅子(9歳)、山川捨松(12歳)である。
 使節団首脳が戊辰戦争での官軍(勝者)側なのに対し、女子留学生の親たちは全て賊軍(敗者)側だった。
女子留学生を募集したのは北海道開拓使という役所だった。開拓使次官の黒田清隆(後の総理大臣)は、北海道開拓の参考にと、西部開拓の実績を持つアメリカを調査に行った。黒田がそこで見たのは、男性と対等に活躍する女性の姿だった。日本の近代化のためには女子にも教育を受けさせる必要がある。そう感じた黒田清隆は、帰国後、北海道開拓使がスポンサーになって、女子留学生を募集することにした。
 留学期間は10年で、全ての費用は政府がもつという好条件だったが、応募は皆無だった。明治になったばかりの日本では、女子に教育を受けさせたり、外国に10年もやるなどとは、とんでもないことであった。二次募集をして、やっと集まったのが、この五人だった。五人の家は士族ではあるが賊軍側で、新政府においては日の当たらない立場にあった。女子留学生への応募は、せめて娘をアメリカで教育させて、やがて薩長を見返してやろうとの思いが込められていた。
 五人の女子留学生の中で、ここでは山川捨松(12歳)に注目していきたい。幼名は咲子といって、会津藩家老・山川尚江の末娘として生まれた。8歳の時、会津戦争になり、家族とともに城に籠城して悲惨な戦いを経験した。幼い咲子も弾薬筒運びの仕事をし、義姉が砲弾に当たり亡くなるのを目のあたりににしている。
 会津藩は降伏後、領地を没収され、北端の斗南(青森と岩手の一部)に移され、悲惨な生活を送ることになった。山川家では一番小さい咲子だけでも何とかしてやろうと、海を隔てた函館に預けた。最初は坂本龍馬の従兄弟にあたる、ギリシャ正教会宣教師・沢辺琢磨に預けられ、後にフランス人の家庭に引き取られたようだ。
 やがて、女子留学生の募集があり、咲子はアメリカに渡ることになった。これを機に、咲子の母親は、「捨松」と改名させた。
「私はお前を捨てたつもりで遠いアメリカにやるが、お前がお国のために立派に学問を修めて帰ってくる日を毎日心待ちにして待っているよ」
という、母の切ない気持ちからの改名だった。
 岩倉使節団は半年アメリカに滞在した後ヨーロッパに出発したが、山川捨松らは10年間の留学が待っていた。もっとも、上田悌子(16歳)、吉益亮子(16歳)の2名は、病気のためその年のうちに帰国したので、10歳前後の3名の少女が残ることになった。
 捨松はベーコン牧師宅に預けられ、基本的な英語の勉強をした後、ヒルハウス高校を経て、ヴァッサーカレッジを卒業した。日本人女性で最初に大学を卒業したのは山川捨松である。さらにコネティカット看護婦養成学校に短期入学した。現在の津田塾大学の創設者として有名な津田梅子は、年少であったためこの時の留学では高校卒業であった。(後に再留学して、大学を卒業した)
 しかし、留学を終え帰国した3人には、何の仕事もなかった。北海道開拓使はすでに廃止されていた。十代をアメリカで過ごした3人は、日本語をほとんど忘れ、考え方もアメリカ的になっており「アメリカ娘」と呼ばれた。男尊女卑の風潮の残る日本では、高等教育を受けても、女性では活動の場がなかった。命がけとも言える10年の留学の結果、待っていたのは失望だった。

 5年後、鹿鳴館に捨松の華麗な姿があった。(図3の写真)名前は大山捨松となっていた。
(続く)
図3


 2003.9.7

 帰国から1年後、捨松は結婚した。女子教育のための学校をつくるという夢は、当時の社会情勢の壁に阻まれて断念しなければならなかった。帰国時、捨松は23歳になっていた。娘は十代に嫁に行く時代において、適齢期は過ぎていた。アメリカで滞在したベーコン家の娘アリスに出した手紙で、「二十歳を過ぎたばかりの女性が売れ残りだなんて想像がつきますか。母は、もう縁談もこないでしょうと言っています」と述べているくらいだった。
 捨松より2歳年下の永井繁子は、すでに瓜生外吉(後の海軍大将。日本海海戦にも参加)
と結婚していた。適齢期の女性が結婚をしないで仕事をするなど、考えられない時代だった。
 5人の女子留学生のなかで、帰国時十代だった津田梅子だけは、結婚せず「女子英学
塾」をつくり、女子教育に打ち込むことを選んだ。これが現在の津田塾大学になっている。 「もう縁談もこないでしょう」と言った捨松だったが、縁談はいくつかあった。その中で最も熱心だったのが、薩摩出身の陸軍卿(大臣)・大山巌だった。西郷隆盛の従兄弟で、その肖像画のモデルとなった人物である。大山巌には沢子という先妻がいたが、3人の幼い娘を残して病死してしまった。公務で多忙な大山にとって、娘を託せる後妻を早く迎える必要があった。後妻探しに特に熱心だったのが先妻の父で、娘たちの祖父である吉井友実だった。
 山川捨松に白羽の矢を立てたのが吉井だった。その名を聞いた大山が、あるパーティの席上で、そっと捨松を見たところ、一目で気に入ってしまった。3回の海外留学経験のある大山は、見掛けとは裏腹に洋風好みである。また、政府高官の立場上、夫人同伴での外国要人とのつき合いも多かった。アメリカの大学を卒業し、英語、フランス語、ドイツ語に堪能な才色兼備の捨松は、うってつけだった。
 吉井友実から縁談の意向を伝えられた、山川家は驚いた。山川家は会津藩の家老だった。今でも福島(会津)の一部には、鹿児島(薩摩)山口(長州)に対して、戊辰戦争におけ恨みが消えずに残っているという。それがまだ明治16年のことである。まして大山巌は砲兵隊長として、会津攻撃に参加している上、今や薩摩閥のリーダー的存在であった。山川家は拒絶した。すると次には、大山の従兄弟で、西郷隆盛の弟の従道が説得役になり、山川家に通った。西郷従道の交渉は、時には徹夜になったという。
 結局、山川家では捨松本人が承諾すればよいと答えた。捨松は、大山巌を知った上で返事したいと、今でいうデートを求めた。親の意向で結婚が決められていた時代において、まさにアメリカ的だった。それに、大山巌は応じた。41歳、現役の陸軍卿の大山がいそいそとデートに出かける姿を想像しただけでもほほえましいと、ひ孫にあたる久野明子氏は書いている。二人はデートを重ねた。そして、捨松は結婚を承諾した。
 大山巌と捨松、結果として似合いの夫婦であった。図4のような晩年の微笑ましい老夫婦の写真が残っている。捨松は母としても、先妻の3人の子と、自分の産んだ3人の子供を育て上げた。

図4




 なお、多額の国費を使い、十年以上の海外留学の結果が、幸せな結婚生活だけだったというわけではない。捨松は、政府高官の妻という立場から、その能力を十分に生かして、数々の大仕事を成し遂げていった。

1.女子教育
 結婚の翌年、伊藤博文の依頼で、より華族女学校設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンらを教師として招いている。
 明治33年、津田梅子が津田塾大学の前身にあたる女子英学塾を設立した際、捨松は顧問として参加し、後に理事や同窓会長にも就いている。大山夫人というの立場上、直接教師として教壇には立てなかったが、学校の運営面で、女子教育に貢献した。
 独身女性が独立して仕事をしていくには困難な時代において、津田梅子が成功した背景には、社会的地位の高い大山捨松や瓜生繁子の協力があったことは間違いない。

2.鹿鳴館の貴婦人
 条約改正交渉を有利に進めようとの西洋化政策から、鹿鳴館が誕生した。鹿鳴館では、連日舞踏会が行われた。慣れない燕尾服に身を固め、ぎこちないステップを踏む日本人を、外国人たちは「「猿まね」だと笑った。その中にあって、大山捨松だけは違っていた。日本人離れした長身を、フランス製のワインカラーのビロードの服でつつみ、アメリカ仕込みの軽やかなステップを踏んだ。そして、外国人たちとは、流ちょうな英語で会話した。
 大山捨松は「鹿鳴館の花」「鹿鳴館の貴婦人」「鹿鳴館の女王」と呼ばれた。
 また、社交上の華やかさだけでなく、捨松は鹿鳴館において日本初の慈善バザーを開催し実質的な貢献をした。貴婦人たちが生まれて初めて「商売」をすると評判になり、目標金額の8倍の収益があがった。この全額は有志共立東京病院に寄付された。
 鹿鳴館時代は歴史的評価では、実を結ばない「あだ花」とされるが、大山捨松は本物の花だった。

3.日本赤十字社でのボランティア活動
 日露戦争で大山巌は、陸軍の最高責任者である満州軍総司令官になった。捨松は皇族や華族の夫人や令嬢を率いて、日本赤十字社でのボランティア活動を行った。募金活動、包帯作り、戦死者の家族の世話など、先の鹿鳴館バザーとともに、捨松は日本の上流社会にアメリカ流のボランティア精神を定着させていった。
 アメリカの新聞では、連日、日露戦争の記事が載った。次々とロシア軍を破っていく日本の総司令官の夫人は、アメリカの大学の卒業生であると報じた。アメリカの世論は日本びいきであった。親友アリス・ベーコンも、大山夫人や瓜生夫人からの手紙を地元新聞に紹介し、わが町にいた二人の活動への支援を訴えた。アメリカで集まった寄付金は直ちに日本の捨松のもとへ送られ、慈善活動に使われた。当時としては画期的なことであった。

(続く)

 2003.9.21
 
小説「不如帰(ほととぎす)」における虚像
「ああつらい! つらい! もう、もう婦人(おんな)なんぞに生まれはしませんよ。あああ!」
「人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!」
 明治の大ベストセラーで、何度も映画化もされた「不如帰」(徳富蘆花著)の有名な台詞である。
 主人公・浪子は軍人片岡中将の長女。海軍少尉・川島武男のもとに嫁に行くが、肺結核を患ったため、無理やり離縁されてしまう。浪子は失意の内にやせ衰え、血を吐いて死んでいく。
 相思相愛の二人が引き裂かれ、やがてヒロインが死んでいく。涙を誘う悲恋物語には、必ずヒロインをいじめ抜く悪役が登場する。浪子は、実家では継母、嫁ぎ先では姑(武雄の母)にいじめられる。
 浪子は8歳で実母と死に別れ、1年後に継母が来た。
「今の母はやはりれっきとした士(さむらい)の家から来たりしなれど、早くより英国に留学して、男まさりの上に西洋風の染みしなれば、何事も先とは打って変わりて、すべて先の母の名残と覚ゆるをばさながら打ち消すように片端より改めぬ」(「不如帰」)
とあるように、継母は外国に留学している。当時、女子の留学生は限られている。

 継母のモデルは、大山捨松だった。片岡中将は大山巌。浪子は長女(先妻の子)大山信子。武雄は三島弥太郎(県令、警視総監・故三島通庸の長男)。
 たしかに信子と三島弥太郎は仲のよい夫婦だった。信子は発病後、療養のため実家に里帰りさせられている。大山家では屋敷内に病室となる別邸をつくり、信子の療養につとめた。やがて三島家から離縁の申し込みがあった。これは三島弥太郎の意志ではない。津田梅子は離縁話を聞いて、「いくらお母様のお考えがあったにしろ、信子さんを追い出すことはないでしょう」にと直談判したという。三島弥太郎もアメリカの大学に留学していたが、明治時代の「家」の壁は破れなかった。
 このころ大山巌は、第二軍司令官として日清戦争に参加していた。戦争が終わり帰国すると、巌、捨松、信子の三人は関西旅行をした。やがて、信子は二十歳の生涯を閉じた。

 その一年半後の明治31年、国民新聞に「不如帰」の連載が始まった。モデルが誰かはすぐに分かった。大筋は大山家と三島家の出来事通りである。ただ、捨松は最大の悪役と描かれていた。このことは捨松にとって、生涯の心の傷となった。
 捨松の信子いじめは事実ではない。信子のことを我が子のようにかわいがり、「本当に神様のような子だった」と語った。冷たく当たった例として、病気で実家に帰ってきた信子を、別邸に隔離し人と会わせず、彼女が使ったものは徹底的に消毒をしたとある。当時の人にすれば冷酷に見えるかも知れないが、伝染病への対応としては当然のことである。アメリカの看護婦養成課程を終了した捨松は、その対処法を知っていた。
 異質な経歴を持つ捨松への偏見が、虚像をつくっていった。
 大正8年、徳富蘆花は「不如帰の小説は姑と継母を悪者にしなければ、人の涙をそそることが出来ぬから誇張して書いてあるので、二人とも現在生存中お気の毒にたえない」(雑誌「婦人世界」記事)と謝罪した。捨松の他界する直前だった。

 なお、大山巌と捨松の間には2男1女が生まれた。長男・高は海軍に進んだが、軍艦の事故で、22歳で亡くなるという不幸があった。跡取りとなった次男・柏は公家・近衛家の長女・武子と結婚した。武子の兄は、後の総理大臣・近衛文麿である。
 「不如帰」のモデルとなった家に嫁ぐ武子に、周囲は心配した。
 捨松は若い嫁を暖かく迎え、我が娘のようにかわいがった。

大正9年9月、柏・武子夫妻に男子が誕生した。大山家の跡取り誕生を見届け、その3ヶ月後、大山巌は病没した。
以後、捨松は公式の場にほとんど出ることなく、孫を相手に穏やかな晩年を過ごした。大正8年、最後の仕事として、病気の津田梅子に代わる女子英学塾の塾長を決め、就任式を行った。その翌日から体調をくずし、60年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
 大山巌、捨松の遺骨は、晩年、開墾にあたった栃木県西那須野に埋葬されている。