ペリー 対 佐久間象山

ペリー (2003.1.26掲載)
 図1、図2はある人物を見立てて、幕末に日本で描かれた肖像である。
 図1は天狗のようだ。図2は鍾馗様のように髭が強調されている。
 また、関連した絵で、図3ようなものもある。船と国旗から予想がつくと思う。
 そう、これらの絵は、ペリーを描いたものである。


 図1               図2                 図3

図4はアメリカで描かれたペリーの肖像である。 髭はなく、目もつり上がっていない。
軍人としての威厳はあるが、渋みのあるハンサムな顔立ちをしている。
 このペリーが、なぜ日本では、あんなに恐ろしい姿に描かれたのだろうか。


 図4

 1653年(嘉永6年)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーは、4隻の黒船とともに浦賀に来航した。それ以前においても、75年間に117回も諸外国の船が来航していた。そして、開国を迫ったが、幕府はことごとく拒絶してきた。
 この時、ペリーは59歳。軍人として輝かしい経歴をもつ彼が、最後の花道として意欲を燃やしたのが、誰も成し遂げていない日本の開国だった。
 東洋の小国を開国させるには、強硬な手段をとるしかない。アジア支配の先輩であるイギリスは、インド(ムガール帝国)の反乱や、中国(清)とのアヘン戦争において、圧倒的な軍事力で目的を達成している。これが手本だ。
 ペリー率いる4隻の巨大な黒船は、煙を上げながら江戸湾に侵入し、阻止しようと群がる日本の小舟を蹴散らし、防衛ラインを突破していった。そこを越えたら「打ち払う」ことになっているが、日本側は何も手出しできなかった。ペリー艦隊は、何度も空砲を撃って威嚇した。

 「泰平の眠りをさますじょうきせん たった四はいで夜も眠れず」

 平和ぼけの日本は大混乱に陥った。ペリーは、海の彼方から突然現れた「魔王」のようだった。そのような恐怖心が生んだ絵が図1〜図3だった。 

 もっとも、ペリーの強硬策の背景には、ある弱みがあった。この時、ペリ−が妻へ送った手紙には、次のようにあった。
「私はとても心もとない。船の装備がはなはだお粗末なのだ。しかし、大統領や閣僚がどんな船を送ろうとも、私はベストを尽くすつもりだ」(NHK『その時歴史が動いた』より)

 ペリーは第13代アメリカ大統領フィルモアの命令を受けて、その国書と信任状をもって日本にやってきた。ところが、ペリー来航途中に行われた大統領選挙でフィルモアは敗れ、反対政党のピアースが新大統領になっていた。ピアースの所属する民主党は穏健路線をとっていた。最新鋭の軍艦は使わせてもらえず、船の数も減らされた。実弾を使うことも禁じられた。
 本国政府の強い後ろ盾がない弱みを見せまいと、ペリーはより威圧的な態度で日本に臨んだ。この虚勢が、実物とかけ離れたペリーの虚像を生んだのかもしれない。

(佐久間象山に続く)


佐久間象山(さくま しょうざん)(2003.2.9掲載)

 数百人の武装した海兵隊員を率いてペリーが日本に上陸してきた。みんな見上げるばかりの大男である。
 通路では、日本のサムライたちが見守っていた。
 周囲を威圧しながら歩いてきたペリーが、ある武士の前にきたとき、思わず会釈をした。将軍の代理に会ったときでさえ頭を下げなかったペリーが、唯一会釈をしてしまった人物とは、佐久間象山(「しょうざん」、または、「ぞうざん」)である。
 佐久間象山の肖像については、何枚かの写真、肖像画が残されている。(図5〜図7。
図5が肖像画の元となった写真か?)
 見るからに恐ろしい容貌をしている。面長な顔立ち、目は三白眼で底光りしている。身長は五尺七寸(170cm強) と、当時の日本人としては大柄で、いつも黒の服を着ていたという。そのような象山が、居並ぶ武士たちの中から、ぬっと頭一つ抜けだし、鋭い視線で睨みつけていたとしたら、ペリーであっても思わず頭を下げてしまったであろう。
 


 図5(写真?)   図6(肖像画)      図7(肖像画)

 佐久間象山は松代藩士。わずか15石取りの最下級の家柄だった。
 厳しい身分制度の世において、底辺から抜け出すには学問の道しかなかった。象山は必死に儒学(朱子学)を学び、頭角を現していった。
 藩主の真田幸貫が幕府老中になり、海防を担当すると、象山を顧問に起用した。象山は必要性から、今度は蘭学を学び、西洋の科学技術を習得していった。オランダ語の原書をもとに、ガラス製造、石灰製造、硝石の精製、ぶどう酒醸造などを実際に行っていった。さらに、日本初の電信機の実験に成功したり、自作大砲の発射実演を行っている。また、1848年にカメラが日本に伝わると、数年後にはそれを手に入れ、自分でカメラを作ってしまった。今伝わる象山の肖像は、そのカメラで撮ったものが元になっている。
 まさに、幕末の「平賀源内」である。いや、源内どころか象山自身は、「世界の英傑はナポレオンと象山のみ」と自慢していたという。藩主の真田幸貫も象山を「天下の英雄」とほめている。しかし、「キズの多い男」だとも言う。キズとは、尊大で自信過剰、人を見下すところがあり、絶えず周囲と波風を立てている点である。
 そのような象山であるから「ペリーなど何するものぞ」との気迫でにらみ付けていたに違いない。象山は「和魂洋才」(日本人の精神をもち、西洋の学問、科学技術を入れる)を説く。「才」ではまだペリー艦隊にかなわないとしても、精神では負けなかった。その気迫が、ペリーの会釈につながったのならおもしろい。

 象山はその性格から周囲の評判は悪かった。それでも、「英雄の心は英雄が知る」というように、後に時代を動かした英雄たちが象山の私塾に入門してきた。
 幕府の勝麟太郎は弟子であるとともに、妹が象山の嫁になっているので義兄弟でもあった。象山とは、号(本名以外の名。ペンネーム)であるが、他に「海舟」という号ももっていた。「強力な海軍で日本を守る」といった思いが感じられる。この「海舟」を弟子の勝麟太郎に贈った。以後、その夢を引き継ぎ、勝海舟は黒船に対抗できるような幕府海軍をつくりあげていった。さらに、勝海舟の弟子が坂本龍馬である。
 また、「象山門下の二虎」と呼ばれる二人の秀才がいる。
 一人は長州の吉田寅次郎で、後の吉田松陰である。象山の勧めでペリー艦隊に乗り込み、アメリカ密航を企てたが失敗した。後に尊皇攘夷思想の代表的人物になり、安政の大獄で刑死した。松陰の弟子には、高杉晋作や、初代総理大臣伊藤博文、第3代総理大臣の山県有朋らがいる。
 もう一人の虎は、長岡の小林虎三郎で、あの「米百俵」のモデルである。
 さらに、長岡藩家老の河井継之助(戊辰戦争で日本初の機関銃を使う)、越前の橋本左内(安政の大獄で刑死)、肥後の宮部鼎造(吉田松陰の親友。池田屋事件で新撰組に殺された)、但馬の加藤弘之(東京大学初代総理、総長)らがいる。

 弟子たちのメンバーをみただけでも、佐久間象山の凄さがわかる。

*さらに、佐久間象山について続ける(2003.2.23掲載)

 ペリー来航で日本中があわてふためいている時、象山は、黒船に対抗して、
「 自分なら風船に乗ってワシントンを襲ってやる」
といった内容の詩を書いている。まさに風船爆弾の元祖だ。ホラには違いないが過激だ。
 これは攘夷思想である。ただ、そのためには海外の事情を知らなければならない。海外の技術を知らなければならない。この点で「打ち払ってしまえ」という単純な攘夷とは異なる。象山の意志が、弟子吉田松陰のアメリカ密航未遂事件となった。
 密航に失敗し自首した松陰は江戸で取り調べられた後、長州送りになり、牢につながれた。象山も捕らえられ、国もとの松代で蟄居(自宅謹慎)するよう命じられた。
 蟄居は8年以上におよんだ。この間、象山はオランダ書を読みあさり、洋学をさらに深めた。そして、西欧文明の優秀性を痛感し、これを取り入れなければならないと、積極的な開国主義に傾いていった。
 日米修好通商条約の締結、安政の大獄、そして、桜田門外の変で大老・井伊直弼暗殺。時代は激しく動いた。ついに、儒学と洋学の両方に秀でた象山の出番になった。
 象山を自分の藩に招きたいと長州藩主・毛利慶親や、土佐藩主・山内豊信 は、幕府に赦免を働きかけた。この結果、文久2年(1862)、象山の蟄居が解かれた。
 元治元年(1864)3月、京都に滞在する14代将軍徳川家茂 から、象山に対して京都に来るようにと命令が下った。政治の舞台は京都に移っていた。将軍後見職の一橋慶喜(後、15代将軍)が、京都の攘夷派に対抗するため、開国派の象山を起用した。
 「開国論」「富国強兵論」「公武合体論」をかかげて象山は奔走した。将軍や一橋慶喜といった幕府首脳や、関白をはじめとする朝廷の高官と会い、薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎らとも接触した。西郷隆盛は「もし象山に会って、その意見を聞いてなかったら、以外の失敗をしたかもしれない」と語ったという。あの西郷隆盛でさえ象山の影響を受けていたようだ。
京都における象山は、まさに絶頂期だった。しかし、目立ちすぎた。尊皇攘夷の過激派が命を狙っていた。気をつけるよう周囲の者が注意しても意に介さず、白馬にまたがり堂々と京の町を歩いた。刺客など何するものぞ。あくまでも自分のスタイルにこだわっていた。
そして、元治元年(1864)7月、帰宅途中の路上で、尊皇攘夷派数名に襲われて暗殺されてしまった。
 明治まであと4年だった。もし象山が明治まで生きていたとしたら、その学識と、幕府側や薩摩、長州、土佐等にまたがる幅広い人脈から、相当な立場になったかもしれない。しかし、暗殺後、象山を嫌う松代藩は佐久間家を断絶にし、その家名を消し去ってしまった。
今では、佐久間象山の名はあまり知られていない。中学・高校の教科書にもその名は見られないが、幕末・明治維新の原動力になった人材に影響を与えた偉人として注目したい。
 あのペリーに頭を下げさせたというエピソードと、鋭い眼光の肖像をここに記す。