「田沼の改革」

ー江戸時代最大の経済改革ー


関根徳男著  郁朋社  平成11年2月11日発刊  1000円

閉塞した時代、因習を破った積極的な大改革が行われた。           
しかし、時代はそれを許さず、賄賂政治家の悪名のもとに改革を葬り去った。

近代日本の先駆者としての田沼意次像を明らかにし、彼がめざした政治を再評価する。

 





  

 十八世紀の末、江戸では老中松平定信による「寛政の改革」の嵐が吹き荒れていた。 「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 寝てもいられず」と狂歌にあるように、人々の生活にまで干渉した、政治、経済、文化の多方面にわたる改革が急激に実行されていた。それは、前政権の政策を完全に否定するものであった。
 江戸での改革の余波は、地方へも及んでいった。下野国の田沼村(現栃木県田沼町)に、西林寺という鎌倉時代初期に建立された由緒ある寺があった。その寺の開創者の墓が徹底して破壊されてしまった。墓はかつてこの地を治めていた田沼家のもので、失脚したばかりの老中田沼主殿頭意次の祖先にあたるという。墓を破壊したのはだれか、正式な記録は残っていない。幕府から派遣された者なのか、または、田沼意次との関わりを恐れた地元の者なのかは定かでない。ともかく、墓石は引き倒され、砕かれ、裏の畑の中に埋められてしまい、田沼家の墓が初めからなかったかのように、完全に葬り去られてしまった。(以上、現西林寺住職瀧口玄英氏談)                        なお、田沼家の墓は、昭和二年になって再建されている。現在、西林寺庚申塚墓地に、田沼家の小さな墓所があり、横の石碑には、次のような記録が刻まれている。

  昭和二年七月
  田沼重綱公累代墓跡改築費
       三三三円九九銭
   (寄付をした人々の名前)
  西林寺二五世住職 後藤大心忠翁
  代 本光寺住職  高田 儀光

また、田沼家墓所は昭和四十九年に、田沼町史跡に指定されている。それを記した田沼町教育委員会の立て札が、墓所のわきにある。そこには、
「 西林寺田沼家系図によると、鎌倉時代初めのころ、佐野家より分かれた田沼九郎重綱が田沼家を興し、西林寺の前身である玄松院を開創した。その後、田沼家は数百年続いたが、天正十三年(一五八五)田沼綱重が、主家の佐野宗綱と共に須花坂で討ち死にしたという。現在この墓所には重綱と光房の供養塔二基が建てられている。」
とあるが、田沼意次との関わりについては記されていない。

 なお、田沼意次の居城であった相良城も徹底して破壊されている。意次が相良領(現静岡県相良町)を治めたのは宝暦八(一七五八)年からの約三十年であるが、相良城が落成したのは安永九(一七八〇)年のことである。落成からわずか八年後に意次は所領を召し上げられ、相良城を没収された。幕府はこの真新しい城を再使用することなく、直ちに取り壊しにかかった。天明八(一七八八)年の一月十六日から始め、二月五日までかけ、最高一三〇〇人もの人夫を動員し、本丸御殿、やぐら、蔵、役宅、長屋から塀に至るまでことごとく破壊した。 四年後、相良を訪れた小林一茶は、何もなくなった城跡に立ち、次のように詠んでいる。

  石運び なげき照りつむ しめし野の 人のあぶらに 光る城かな

 以上のように幕府、というより松平定信は、執念深く田沼意次の跡を消していった。それは、政治上の対立もさることながら、意次のために将軍後継者になれなかったという個人的怨念に基づいているとも言われている。松平定信は意次を失脚させ、その政治を全面否定するために、意次の悪評をばらまいていった。「賄賂政治家田沼意次」のマイナスイメージは、反対派の手により意図的につくられたものであるという研究結果が、最近多く出てきている。                                  
 田沼意次の政治自体は、悪政ではない。アメリカの日本史研究者J・W・ホールは、意次を「近代日本の先駆者」と称し、その進歩的経済政策を高く評価している。現に意次が行なおうとしていた政策の多くは、明治維新において実現している。そのあまりにも進歩的で大胆な考えは、当時の人々には理解しがたく、まして、低い身分から成り上がった者の独走を許さないという逆風が、近代的政策を葬り去ってしまった。          
 江戸時代の三大改革というと、徳川吉宗の「享保の改革」、松平定信の「寛政の改革」、水野忠邦の「天保の改革」である。この中である程度成功を収めたのは、将軍吉宗が陣頭指揮した享保の改革の前半くらいで、あとは散々たるものであった。三つに共通しているのは、倹約を中心とした消極的財政政策をとっていることである。世の中が落ち込んでいるとき、消極策をとると、人々の気持ちはさらに落ち込んでしまい、明日への希望も意欲も失せてしまうものである。田沼時代は封建の因習にとらわれずに、大胆な能力主義の人材抜擢が行われ、振興勢力の町人の力を生かした積極策が次々と出された。この政治を反映して、田沼時代は、自由闊達で華やいだ雰囲気が江戸の町に満ちていた。(反対派はこれを、人心の退廃というが…)この意味で、田沼時代の政治こそまさに「改革」の名にふさわしいのではないだろうか。                          
 本書では、田沼時代の政治をあえて「田沼の改革」と称し、田沼意次が目指した政治を再評価してみたい。

第一章    田沼意次の虚像とは

 意次の専権
 田沼意次の悪評に関する著述は、江戸時代、特に意次失脚後に集中してなされている。さらに、それらを基に大正初期に辻善之助氏が『田沼時代』で総括したものが、現代での田沼意次の悪評として定着していった。ここでは、まず、意次の悪評とはどのようなものだったかみていく。                    
 『田沼時代』第一章では「意次の専権」として、意次がいかに思うままに権力をふるったかが、江戸時代の文献に基づいて紹介されている。
 『続三王外記』(老中松平武元の家来の石井蠡の著作とされている。書かれたのは、意次没後、松平定信政権樹立後であろう。)には、意次が大奥に取り入るため盛んに贈り物をしたことが記されている。また、意次は失脚後、さらに回復を図り、奥女中を使い将軍に取入ろうとしたという。意次の勢力の背景には大奥との結託があったと推察できる。
 意次が側用人だったころの話である。城中で老中秋元涼朝とすれちがった時、意次は何か用事がありつい敬礼を失し、気づかず行ってしまった。秋元は同僚をよび、意次の不敬をとがめたが、後に意次を恐れて老中を辞任してしまった。このように、意次は多少老中たちからも恐れられた存在だった。それでも、その頃は老中に松平武元がおり、この人はすこぶる方正な君子で、将軍に重んぜられていたので意次もはばかっていた。しかし、安永八(一七七九)年に松平武元が死んでから、実権は意次に帰するようになった。
 平戸藩主松浦静山の書いた『甲子夜話』には、田沼家へご機嫌伺いに集まる者たちのことが記されている。静山が二十歳のころ、田沼家へご機嫌伺いに行くと大勝手に通された。その座敷は三十畳もあったが、人がいっぱいで座敷の外にまであふれていた。主人が出て来ても外側の人は顔が見えないくらいで、挨拶するにも主客が互いに顔を接せんばかりで、無礼である。刀は次の間に脱いでおくのだが、刀が幾十とあり、あたかも海波を描けるごとくだった。
 意次への贈り物についてもいろいろ紹介されている。意次の下屋敷が完成したとき、池を見て、「この池に鯉または鮒の類を入れたら面白かろう」と言った。登城して帰ってみたら、池には鮒だの鯉だのが入っていた。また、意次が暑気あたりでふせていた時、ご機嫌伺いに来た者が、家来から、意次が岩石菖を盆に置いて観ていると聞いた。すると、二三日の間に、諸家から各種の岩石菖が届けられ、座敷二つ分になった。意次への贈り物は、皆様々な意匠が凝らしてあった。或家の進物は、小さな青竹のかごに魚(大鱚)七、八匹と少しの野菜と柚子一つだったが、柚子には数十金に値する後藤という名人が彫刻した小刀がさしてあったという。
 大老井伊直幸は、その地位を得るために、意次に数千金の賄賂を贈った。阿部正敏は隣家の意次が屋敷を広げたいと望んでいることを聞き、自分の別邸屋敷地を幕府に返上した。その屋敷地は幕府から意次に譲られ、まもなく阿部は大阪城代になった。伊達家の文書にも、伊達重村が昇進の希望をもって、意次にいろいろ手をまわしている有様がある。
 『古今百代草叢書』(国立国会図書館蔵、四代目東流庵裕山作)には「まいない鳥の図」と「まいないつぶれの図」の落書きがある。「まいない」すなわち賄賂をとる鳥や虫を描き、賄賂政治を風刺している。
 『実説夢物語』には、意次が諸役人や尾張大納言を毒殺しようとした噂や、将軍家治の世子家基の死への疑いが書いてある。また、老中板倉勝清や松平武元も、意次の計らいで、年老たるにもかかわらずしばしば狩に引張り出されて病を得て、ついに死んだとある。ただ、辻氏は、「噂はこの頃専ら言触らされたものと見えるのであるが、これが何処まで事実であるかという事は、よほど研究を要することであろうと思う」と結んでいる。

田沼罪状二十六カ条
 意次の失脚当時流布したという「田沼主殿頭へ仰渡さるるの趣」(田沼罪状二十六カ条)というものがある。これは意次の失政を箇条書きにしたもので、当時の悪評を知る上で興味深い史料とされている。かなり長文なので、ここでは、意次の領地だった相良在住の歴史家、後藤一朗氏が現代の口語で要約したものを紹介する。

      田沼罪状二十六カ条
 ・ その方は上様のお引き立てで今日の栄を得た。主君をりっぱに養育するのが大恩に報ゆる道であるのに、その方がそれを怠ったため、上様は小児同様の愚君になってしまわれた。
 ・ 自分の親族縁者のみを登用するのはけしからん。若年寄に抜擢したその方のせがれは、佐野某に殺される程の不行跡者なり。それでも当時、愁傷恐惶の態度あらばまだしも、常に変わらぬ勤めぶり、人情薄きこと言語に絶す。
 ・ 上様に差し上る御膳部やお召物、すべて粗末すぎる。倹約と吝嗇の区別わきまえないのか。また御代々伝わる武器の管理怠り、手入れ不十分である。
 ・ 市中十か所の火消屋敷、修理もなさず、きわめて粗末である。近ごろ壁土も落ち、外部から中が見透かされるようになった。
 ・ 伊勢神宮は二十一年目ごとに御造営することになっている。御先祖様由緒の伝通院も破損はなはだしい。いずれもたびたび願い出ているが取り上げない。他はおいてもこの二カ所の普請だけはやらなければ、上様の御徳輝が薄らぐであろう。
 ・ その方神田役宅、木挽町屋敷、浜町屋敷、美麗をつくし、役柄不相応の驕奢、お上の御威光にも差しさわりある。一族一統ならびに家臣どもまでそれをまねて栄耀栄華をきわめる。万事御倹約の御時節、もっての外なり。
 ・ その方は諸家の役職や家格を上げる取持ちを多くしている。ことに溜間詰、将軍補佐役は重き役目なるに、賄賂だけで簡単に決めたという事実がある。
 ・ 峰岡の義は、吉宗公御深慮により造られた御料牧場である。立木を伐採して払い下げたため、日陰がへり、清流が乾いた。それにより牧馬多く死に及びたり。
 ・ 御用金を諸大名に貸付けるのはよいが、利子を取ってそれをお上の呉服料にあてた。卑劣の至りである。なお民間資金も加えて貸出し、それをお上の御威光で滞りなく取り立てる。姦商の巧言にはまり、上の御徳をけがすというものである。
 ・ 民間への貸出しには縁故貸しが多いという。人びとことの外、迷惑に及びし由なり。 
 ・ 金座は、元をただせば町人の部である。しかるに武士同様、帯刀しだした。賄賂によって許したのであろう。
 ・ 産業功労者と称す百姓町人、または中奥御用達町人らに帯刀を許しているが、それが多すぎる。武士の権威を損ずるというものである。
 ・ 殿中にて熨斗かみしも着用の町人を見受けた。それも小人数だったところを見ると、これも賄賂次第で許したに違いない。
 ・ 浪銭が近年粗悪になった。庶民にきらわれ、通用の数も減じてきたが、それを知らないか。
 ・ 南鐐二朱判も名目どおりには通用しなくなった。質が悪く、下じもを欺くという次第なり。
 ・ 御曲輪内に地面よりはみ出た普請があった。また火除地だった中橋広小路にも家が建てられた。賄賂を取って許したのだろう。
 ・ 火除地になっていた浅草御蔵米御用地も、町人に売り渡された。賄賂によって公の御用地まで処分したのであろうが、その罪許しがたし。
 ・ 駿河・遠江・三河の三か所は、権現様時代より特別大切な所としてきた。そこの藩主たち江戸滞在多く、その地、等閑に付されている。もってのほかなり。
 ・ 近年鉄座の扱い方がゆるんできた。金さえ出せば誰にでも売るというのか。
 ・ 九州にて川境の件で訴訟があったが、その裁き片手落ちであった。賄賂を取ったのであろう。
 ・ その方家来潮田某狼籍せしに、稲葉某の家来がお叱りを受けた。取り捌き不法なりと、その現場にい合わせた人が憤慨していた。
 ・ 近年学問のない粗末な医師どもがはびこり出した。その方は妾の宿元を奥医師に推挙したが、上様の御格禄を下げ、権威を奪うに等しい行為である。
 ・ その方御加増の地は、良田のみむさぼり、ために貧窮の地を替地にとった諸侯迷惑し、遺恨を含むにいたっている。
 ・ 八丈島産物御買上げの役所を新しく設けたために、民間業者が打撃をこうむった。権威をもって民を苦しめる悪政である。
 ・ その方が賄賂を取るから、低い役人まで金銀私欲に迷い、依怙贔屓をもって万事取り計らい、武士の義理すたり、驕奢をきわめるにいたった。すべてその方一人の大罪、のがるべからず。
 ・ 北海道(蝦夷地)開拓・印旛沼干拓など、とんでもない計画をしたものだ。問題にもならんことで、さたの限りというべきである。

 これは、幕府が意次に向って、罪状を数えて言い渡した宣告文という。しかし、意次は名目上は病気による引退という形をとっている。幕府がこの様なものを言い渡すはずはない。まして、最初の文にあるように、将軍を「小児同様」などと幕府が言うことはありえない。辻氏はこれを「申すまでもなく擬文」であるとしている。おそらく、反田沼派が作成し、世間に流していったものであろう。それでも、幕府の申し渡しとされれば、人々は信じてしまう。
 なおこの二十六カ条の中には、さかんに「賄賂」という言葉が出てくる。その一件一件の真偽のほどは不明だが、「賄賂政治家・田沼意次」の世論はこのようにして定着していったものと思われる。

田沼時代の世相
 辻氏は『田沼時代』において、「従来田沼時代における現象について、最も世の非難を受ける事柄を調べてみると、およそ八カ条ばかりある。」と全十二章のうち、始めから八章までかけ、田沼時代の悪評を述べている。ここでは、その中から田沼時代の世相を表している部分を見てみる。
 
 「役人の不正」                                 
 ここでは、意次本人でなく、役人全般の賄賂について述べている。資料としては、反田沼派の松平定信や、植崎九八朗のものを引用している。町奉行の与力や同心は、訴訟の場合や、悪事を隠すときなど、賄賂を贈ると遠慮なく受け取る。中には、自分から進んで賄賂を要求する者などいて、分限不相応のぜいたくな暮らしをしているという。また時めく役人などは、諸侯へ争って賄賂を贈っている。その人の好む品や、流行している物を我先にと贈っているので、同じようなものが多数集まってしまう。例えば、そのころ時計が流行していたが、諸侯の屋敷の居間には二、三十ないし四、五十も置いてあった。武器ならいくらあってもよいが、このような用もない物に金銀を費やすなどとんでもないことである。
 このように、役人が賄賂を収めることは、一般の風潮になっていたという。幕府は、宝歴九(一七五九)年と明和二(一七六五)年に、役人らに贈物を堅く禁じる令を出している。
 また、京都でも宮中役人の不正が急増していたことを述べている。金裡(宮中)の賄方が出入りの商人と結託して、賄賂を収めていたことがわかった。不正役人を検挙した幕府に対し、天皇、女院から長く召使っておった者なので生命は助けてほしいと思召があった。しかし、幕府は「朝廷の御ためを存じて吟味した次第である」と、総計百二十四人を死刑、流刑、追放とし、さらに、贈賄側の商人八百余人を追放したとある。これはむしろ幕府が不正に対し、断固とした態度で臨んだ例といえる。安永三(一七七四)年、意次が老中職にあり幕府の実権をにぎっていたときの出来事である。                
 幕府役人だけでなく、宮中役人も同様であり、辻氏は「これで見ると賄賂公行ということは、一般に時代の風であったので必ずしも田沼の悪政にのみよるという訳でもなかろうと思う」としている

 「士風の廃頽」                                 
 旗本の風儀が堕落した十七の例を、新聞の三面記事のごとく記している。酔っ払って溺死したり、酔った上での喧嘩や器物破損、賭博、遊女との心中、古参役人の新参いじめなど、武士とは思われない醜態の数々が列挙してあるが、そこから三例ほど要約して示す。                                         
・ 明和元(一七六四)年八月、書院番の木造、京極、西の丸小姓の宮城、小姓組の杉原の四名が墨田川へ水練の稽古に行った。朝、船を出したが、そこへ芸者を呼んで夜まで酒を飲んだ。その最中に、杉原が酔っぱらって溺死してしまった。他の三人はそれに気付かず、後になって分かったが、そのまま隠していた。評定所で調べられた時も、いい加減にごまかしていたが、ついに事件が露見し、三人は士籍を没収されてしまった。
・ 明和七(一七七〇)年十月の夜、佐々木、河野の両名が酒を飲んでいた。酒がなくなったので、下男に近くの酒 屋まで買いに行かせた。夜遅いため、酒屋は戸を閉め切っており、いくら起こしても起きなかったと、下男が戻ってきた。そこで二人は、俺が起こしてやると出かけた。やたら戸を叩いたので、中からも雑言をはいた者がおり、やがて争いになった。河野が刀を抜いて番頭に斬りかかった。番頭も負けじと棒  を拾い、河野の刀をたたき落とした。河野は逃げ帰ったが、武士にあるまじき所業ということで、遠流になった。
 ・ 天明七〈一七八七)年一月、新参番頭の水上は、先輩の小堀、大久保、酒井、能勢、三枝、小笠原、内藤から、宴会の亭主をするように言われた。要するに振舞を強要されたわけである。水上は家が裕福でないので迷惑だったが、先輩からのことで断ることもできず、仕方なく承知した。宴会当日、水上宅には、先輩たちが勝手に指図した仕出し料理屋の働き手七、八人、芸者五人がやって来た。この費用は駕籠代まで含めて、すべて水上の負担になった。宴会が始まると、先輩たちは水上に嫌がらせを始めた。大久保は餅菓子を持参し、酒を飲み始めた水上に無理やり食べさせた。最初遠慮した水上に、毒など入っていないぞと怒鳴り、段々に怒りだしていった。餅菓子を芸者に投げつけ、悪口雑言をはいた。他の先輩もこれに加わり、家の道具を壊したり、便所に投げ込んだりした。鳥かごの小鳥を逃がし、庭の水仙の鉢を壊していった。ついに大久保は飯椀の中に大便をし、三枝は茶碗に小便をするという始末だった。酒、 飯、汁はまき散らかされ、火鉢の火で畳は焦がされた。このような大騒ぎをして、七名は帰っていった。これを見ていた料理屋の手代は、度肝を抜かれたという。二月に幕府は小堀、大久保を免職、他の四名を差控とする処分を言い渡している。これほど極端なものはめずらしいが、古参役人の新参いじめは頻繁に行われていたという。

「風俗の淫靡」                                 
 ここでは、武士だけでなく、一般民衆の風俗も乱れてきた例をあげている。この時代の風俗は渋いとか粋といわれながら、一方からみればだらしない優柔な風が流行ったとしている。例えば、この頃から三味線が広まってきた。女性ばかりか、男子でもひく者が多く、長男からはじめて、次男三男と続いた。野も山も、毎日朝から晩まで三味線の音の絶えることがなかったという。さらに、芝居のまねをしたり、素人狂言をしたりで、歴々の旗本までが芸人の真似をしては騒いでいた
 女芸者が盛んになったのもこの頃で、遊所だけでなく普通の所でも芸者の二、三人はいた。芸者が流行したので、下町で少しでも見目の良い娘は、皆芸者に仕立てていった。また、この頃の湯屋(銭湯)は男女混浴だった。                    

「天変地妖」                                  
 田沼時代には大災害が続発した。明和七(一七七〇)年から毎年のように大旱魃(日照り)が続いた上、明和九年には江戸行人坂の大火事や、大風雨や洪水が相ついだ。明和九は「めいわく」で縁起が悪いと、十一月に安永と改元したが、翌安永二(一七七三)年には疫病が流行り、江戸で十九万人が病死した。その後も大風雨洪水や疫病が続き、さらに伊豆大島や桜島では噴火があった。天明三(一七八三)年には、浅間山の大噴火があり、縦二十五里、横七、八里の間がほとんど一物もなく焼失し、三千七十八人が死んだという。また、この頃から天明六、七年にかけ天明の飢饉が起こった。

 「百姓町人の騒動」                               
 相つぐ天災地変の対策として、幕府は種々の政策を試みたが、そのため直接間接に百姓町人の負担が重くなっていった。百姓町人はついに奮起し、江戸を始め全国各地で、百姓一揆や打ち壊しが多発していった。この章では、次のような騒動が記されている。    
・ 明和元(一七六四)年の上州、武州の百姓蜂起。農民への負担として、年貢の他に人馬を提供する助郷という役があった。この頃、助郷の負担が相次いだため、上州、下野、秩父、熊谷あたりの農民が蜂起した。幕府に訴えるために七、八万人が群をなして江戸に向かい、途中の本陣、問屋、名主宅などを荒らしまわった。多数の死者を出し鎮圧されたが、島原の乱以来の大騒動だった。
 ・ 明和五(一七六八)年の佐渡の農民の乱。苛酷な政治に苦しんだ農民六万余が蜂起し、島廻りの旗本と佐渡奉行を殺害した。江戸から諸大名に加勢を申しつけ鎮撫した。
 ・ 明和六(一七六九)年には幕府が強訴鎮圧の令を出した。公領の民が騒動を起こしたら、近傍の領主より人数を出して、私領ならその領主だけでなく近傍からも力を合わせて、十分に討伐すべしというものであった。その後も農民に対し、徒党を禁じる令をしばしば出した。それだけ徒党強訴が頻繁にあった。
 ・ 安永二(一七七三)年の飛騨の騒動。新規の運上をかけられて難儀している上に、新たに検地をやるというので、農民が徒党を組んで代官に強訴に及んだ。代官は周辺の領主に出兵を依頼し、鎮圧した。この時、徳川氏の代始まって以来、初めて鉄砲で農民を殺したという。
 ・ 安永六(一七七七)年の信州の百姓騒動。課役の納期延期が認められなかったため、代官宅に押し寄せた。この首謀者二人が獄門、六人が遠流、多数が追放になった。
 ・ 天明三(一七八三)年の信州の農民強訴。浅間山の噴火で田畑が荒廃した農民が徒党を組んで、領主に救いを求めた。三度訴えたが、領主よりはかばかしい返答がなかったので、城内へ押し入ろうとして騒動になった。これにまぎれて、民家に押し入り金銀、米、衣服、器具を奪う者があった。領主は兵を出し鎮圧した。
 ・ 田沼没落後の天明七(一七八七)には、江戸、大阪をはじめ、全国の主要都市で大規模な打ち壊しがあった。農民だけでなく、町民も蜂起した。
                    
 以上を総括すると、田沼時代は役人の不正や賄賂がはびこり、士風がすたれ、風俗が乱れて、天災も相次ぎ、困窮した人々による一揆や打ち壊しが多発した暗黒時代ととれる。
 ただ、役人の不正や旗本の醜態に対しては、放置されていたわけでなく、厳しく処罰されている。風俗の乱れは、後の松平定信の改革で徹底して取り締まわれた。この対比において、田沼時代の悪習と非難されているが、定信の取り締まりは人々の大反発にあっている。江上照彦『悲劇の宰相・田沼意次』では、田沼時代を「田沼様ご執政の世の中になって、なんだか春の日射しが雪を解くように、政治の肌ざわりが急にのんびりと明るく自由になった感じである。」と描いている。人間の本性からすれば、禁欲的な定信の時代より、自由闊達な田沼時代のほうが良かったのではないだろうか。
 しかし、そのような田沼時代を暗黒に変えたのが、相次ぐ天災だった。天明の大飢饉、浅間山の噴火、大洪水…とこの時代に災いが集中した。天災ばかりはどうしようもないものだが、当時の人々の感覚からすれば、政治が悪いからだということになる。反田沼派の扇動もあって、人々の非難が意次に集中していき、悪徳政治家の虚像がつくられていった
のではないだろうか。辻善之助氏も、「畢竟彼は運の悪い人と言わんければならぬ。彼は天変地妖交々いたるの時に出たのである。」と述べている。

悪評の信憑性
 大石慎三郎氏(学習院大学名誉教授)は、意次の悪評を裏づけるものとして辻氏が引用した出典を検討し、「つくられた悪評」としている。大石氏の説を中心に見ていく。
 『植崎九八郎上書』は、役人の不正や風俗の乱れを批判したもので、田沼意次失脚後に松平定信あて出されたものである。ところが、植崎は松平定信が失脚した後は、将軍家斉あてに「松平定信は予想外に器量が小さく、そのうえに利欲にさとくて、民をしぼることは意次をうわまわっている」と上書している。植崎は小普請組という閑職ともいえる低い身分の旗本で、前政権を批判し、新政権に取り入ろうとする立場だという。
 『甲子夜話』も田沼時代を語る場合よく引用される史料である。ただ、この本は文政四(一八二一)年に書かれたもので、意次失脚から三十五年も経っている。また、著者の松浦静山は、松平定信政権の老中であり、共に寛政の改革を進めた本多忠籌、松平信明と縁続きで、反田沼派に関係が深いので、その田沼批判はそのまま採用できないとしている。 『伊達家文書』では、藩主伊達重村の官位昇進運動に関しての部分に意次が出てくる。伊達家と薩摩の島津家はそれまで同格だったが、薩摩守のほうが先に中将に昇進してしまった。伊達重村は領内農民はもちろん、家中の困窮もかえりみない、ほとんど狂気ともいうべき猟官運動を行なった。主な対象は老中松平武元と側用人田沼意次で、意次の弟で一橋家家老の田沼意誠にも斡旋を頼んでいる。また、大奥老女の高岳も伊達重村に桜田屋敷内に家作を作ってもらっている。辻氏が「すこぶる方正の君子」としている松平武元も、伊達家から金品をもらっていることが『伊達家文書』には載っている。『伊達家文書』から田沼意次だけを抜き出してきて、収賄にはげんだ人物とするのは軽率だとしている。
 「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図は、田沼意次の賄賂政治を風刺したものとして、学校の教科書や資料集にも載るほど有名なものである。この図が載っている『古今百代草叢書』は、四代目東流庵祐山が天保十(一八三九)年に筆を起こしたものである。(意次失脚より五十年以上経っている。)大石氏は、これは意次でなく十一代将軍家斉の外戚として絶大な権力を握っていた島津重豪とするのが妥当としている。「まいないつぶれ」の背中にある紋は、丸に十の字で島津家のものであり、田沼の家紋の七曜ではない。また「まいない鳥」の図に添えられている文章に、「…但しこの鳥駕籠は腰黒なり」とあるが、「腰黒」とは、大名が乗る駕籠の中では最上級のもので、家格の高い者しか乗れなかった。意次は「腰黒」に乗れるような家格ではなかった。幕府が出した大名が乗ることができる駕籠のリストによれば、腰黒の駕籠の筆頭は島津重豪になっている。よって「まいない鳥」も島津を指している。
 なお、辻氏の『田沼時代』を見ても、「まいない鳥」「まいないつぶれ」に関しては、「『古今百代草叢書』に次のような落書が載せてある。」と一行あるだけで、どこにも田沼意次との関係は記されていない。しかし、意次とその下僚の賄賂の記述の後に載っていることから、どうしても意次のものだというイメージをもってしまう。

 以上のように、田沼意次の悪評を記した史料は、すべて意次失脚後に書かれ、著者も反田沼派や新政権に媚を売る立場の人が多いということで、意次の評価に使用するのには適当ではないとしている。
 反田沼派の中心人物である松平定信は、生涯に一八二点の著作を残している。定信は田沼政権を倒し、老中、将軍補佐になり寛政の改革を行なうが、わずか六年で解任されてしまった。まだ三十六歳だった。それから七二歳で没するまで、東北の一大名として生涯を送ることになるが、この間著作を通し自己の立場を弁護している。
 一方、田沼意次は老中解任後二年で没してしまった。著作はなく、自分の立場を主張するものといえば、失脚直後に将軍家斉に出した上申書の一点くらいで、ほとんど弁明の言葉を残していない。このような意次の態度を江上照彦氏は、「弁護人無しで歴史の法廷に立ったようなもの」と表現し、だから「意次はいわば悪口のいわれっぱなしで、いまなお汚辱の淵に深く沈淪している」としている。

賄賂について
 田沼意次というと「賄賂政治家」という悪評が定着している。意次は幕府の最高実力者であるから、膨大な量の贈り物や、賄賂というべき金品が集まってきたのはまちがいない。ただ、江戸時代における賄賂の性質は、現代のものとやや違っている。
 幕府は全国の大名を支配してはいるが、基本的には地方分権に近いかたちをとっていた。大名は自分の領地の徴税権を全面的にもっており、幕府も独自の財源(天領、鉱山等)があることから、大名から税を取るようなことはなかった。その代わり、大名が力をもたないように、参勤交代や河川、道路修理などの賦役を命じることで、経済力を押さえていった。大名は賦役を命ぜられると大変なので、それを免れるため決定権のある老中等に賄賂を贈る。大名は賦役を命じられても、免れるためにも莫大な失費を要した。よって老中など幕閣が何かにつけ大名から金品をもらうのは、むしろ幕府へのご奉公だと考えられた。 大名だけでなく、一般でも賄賂は社会の風潮として行なわれていたらしい。作家の笹沢佐保氏も『失脚』の中で、次のように述べている。
   江戸時代の賄賂となると、意味がまるで違ってくる。賄賂は「不正な金や品物」で  はない。賄賂は贈り物であった。場合によっては贈収賄にも問えるが、よほどのこと  がなければそうはしなかった。
   つまり、賄賂は公認されていたのだ。(中略)自分の望みを叶えてくれる相手、約  束を守ってくれた人には金品や贈り物で謝礼する。これが当時の礼儀という考え方な  ので、贈収賄は悪事だなどと罪の意識はなかった。

 松平定信も、老中就任直前に将軍に出した田沼排斥の意見書の中で、かつて溜間詰の職を得るために、敵ともいえる田沼邸へ日々のように見舞い、不如意の中からも金銀を運んだと述べている。現代風にいえば、定信が贈賄、意次が収賄の同罪となるようなことを将軍へ言えるくらいだから、定信自身も賄賂に関する罪悪感はそれほどなかったのではないだろうか。
 このように賄賂は公然とはできないが、現実には人間関係の潤滑油として黙認されていた時代において、意次が「賄賂政治家」の烙印を押されてしまったのは、意次を失脚させた反田沼派の政治宣伝によると考えられる。

第二章    意次の履歴
田沼のルーツ
 意次の先祖は下野国田沼村(現栃木県田沼町)の出である。さらに先祖をたどると、平将門征伐で有名な藤原秀郷がおり、北家藤原氏につながる。この秀郷から足利家そして佐野家が生じた。そして、元仁元年(一二二四年)に佐野家から分かれて田沼九郎重綱が田沼家を起こした。重綱は「九郎」が示す通り九男で、兄弟に上佐野次郎景綱、戸奈良五郎宗綱、芝田六郎行綱、戸室七郎親綱、山越八郎為綱などがおり、それぞれ佐野家領地を分割相続している。田沼姓は領地とした田沼に由来している。田沼家は佐野家の一族であるが、家来筋にあたり、これが後に意次の長男意知が佐野善左衛門に暗殺されたことに関連してくる。 重綱は鎌倉将軍頼経に仕え、従五位下を叙している。そして、建長六年(一二五二年)に西林寺を開創した。田沼家のルーツは西林寺所有の系図により知ることがでる。重綱の後、重村、重行、重信、重隆と続く。三代目の重行は新田義貞に従い、建武二(一三三五)年七月に戦死しており、葬地不明とある。五代重隆の子に、重正、光房の兄弟がいる。兄重正は在地領主として、田沼家を継いだ。西林寺蔵系図は、以後、重正系が記されており、天正十三(一五八五)年、綱重が佐野宗綱と共に須花の戦いで討ち死にするまで続く。弟光房の系統は遠州相良系図に記されており、意次はこちらに属する。光房には子がなく、新田氏の一族、高瀬山城守忠重の次男重綱を養子にし、田沼家を継がせている。高瀬氏は清和源氏の系統のため、重綱の子忠高は源姓に改め、源忠高と称した。意次も、失脚後、将軍家斉に提出した上奏文を見ると、「源意次」と署名していることがわかる。忠高は田沼村を出て、上杉家に仕え、後に武田氏に仕えている。さらに重高、重次、忠吉と戦国の世を上野、武蔵、下総、相模、甲斐と点々としている。そして、十二代吉次が大阪夏の陣の時、主人佐野氏と大阪勤めに出たおり、その鉄砲の腕が徳川頼宣(紀州藩初代)の耳に入り、紀州藩に召し抱えられた。以後、吉重、義房、意行と紀州候に仕えるが、身分は足軽程度の家柄だったようだ。意次の出自が低く、成り上がり者と言われた由縁はここにある。ただ、それ以前にさかのぼると、清和源氏の高瀬氏や、藤原秀郷、北家藤原氏につながっている。

図(田沼家系図)

 生まれ
 田沼意行は紀州藩主吉宗に仕えていたが、享保元(一七一六)年、吉宗が将軍になり、江戸に入るおり供となり、米三百俵の旗本に取り立てられた。意行は吉宗の小姓を勤めた後、御小納戸頭取となっており、従五位下主殿頭に叙している。この旗本田沼意行が意次の父にあたる。
 意行はいきなり新将軍の小姓となるくらいだから、容姿端麗で実務能力に優れていたと思われる。意行は「若い時から、万事ぬかりなく気のつく質の秀才型で、算数にはとくに優れた才能をもっていた。下役より身を立てた者だけに、下僚にはいたって親切で、思いやり深く、周囲の人と如才なくつきあうので、評判はごくよいほうだった。また向学心もきわめて強く、いつのころからか歌道家元冷泉為久に師事して勉学に励んだ。……当時指折りの歌人だった。」という。(後藤一朗『田沼意次・その虚実』)
 母辰は野州の郷士の娘で、江戸に出て紀州藩江戸屋敷御家人田代七右衛門のところに腰元奉公していた。七右衛門は才色兼備な辰を気に入り、養女にした。田沼意行は七右衛門の甥にあたり、田代家に出入りしているうち辰と懇意になり、やがて二人は結婚した。
 意次は享保四(一七一九)年、三百俵取りの旗本田沼意行、辰の長男として江戸で生まれた。幼名を龍助という。少年期の意次は「利発で、書・画・歌はいうまでもなく、舞・謡・鞠・茶の湯・将棋など六芸一つとして長じぬものはなく、人々はみな稀代の童児とたたえた」という。(『田沼意次・その虚実』)意次の少年期を記した正式な記録はない。最初に歴史の舞台に登場するのは、十四歳で将軍吉宗に初お目見えした時である。そして、二年後に吉宗の長男家重の小姓に上がった。家重は次の将軍となる人物だった。小姓としての働きが認められれば、次期政権において将軍のブレーンとして活躍する道も開けてくる。
自らも吉宗の小姓だった父意行は、長男意次も将軍の小姓にすべく、厳しく教育していったと思える。
 なお意次は両親の容姿を受け継ぎ、とびきりの美男子だったという。意次の肖像画は若い時のもの(相良町資料館蔵)と、壮年のもの(勝林寺蔵)の二点が残されているが、「細面の苦み走った好男子」と評されている。 笹沢佐保『失脚』では、小説風であるが、意次の容姿を次のように描いている。

  町娘たちは田沼意次だと気がつくと、頭を深く下げたまますれ違った。
  田沼意次をチラッとでも見てしまうと、胸がドキドキして息苦しくなるからだった。
  「江戸にいちばんの男前となれば、田沼さまのほかにどなたさまがおいでかい」
  「そうだねえ。このひろい大江戸でも、田沼さまほどの男前にはお目にかかったことはないものねえ」
  「いま評判の役者が十人そろったところで、田沼さまの前に並んでごらん。見劣りがして、どうしょうもないよ」
  「お武家さまでもあれほどの男前となると、話にも聞いたことがないよ」

 意次の容姿のよさ、父ゆずりの性格のよさは、人々の人気をえて、出世していく上で大きな力になっていたと思われる。特に、大奥での評判のよさと後押しは、幕府内で権力を得る上で必要不可欠のものだった。
 しかし、生来の容姿と人柄だけでは、権力の頂点まで昇りつめることは不可能である。意次は政治の表舞台において、非凡なる能力を発揮することで、将軍の絶対的な信頼を得て、田沼時代と呼ばれる一時代を築いていった。

出世の軌跡
 意次が身分社会が確立していた江戸時代中期において、破格の出世を遂げていった様子を年代をおって見ていく。(年齢は数え年)
 享保一七(一七三二)年、十四歳の田沼龍助(意次)は将軍吉宗に初お目見えする。  享保一九(一七三四)年、西の丸にいる次期将軍家重の小姓になり、三百俵を拝領する。  この年、父意行が死去する。
 享保二〇(一七三五)年、一七歳で田沼家の家督(六百石)を相続し、元服して意次と  称す。二年後、父と同じく従五位下主殿頭となる。
 延享二(一七四五)年、吉宗が隠居し、家重が九代将軍になり、意次も本丸に移る。  寛延元(一七四八)年、小姓組番頭となり、二千石に加増。三十歳
 宝暦元(一七五一)年、大御所吉宗死去。家重の御側衆(御側御用取次)となる。
 宝暦五(一七五五)年、五千石に加増
 宝暦八(一七五八)年、相良一万石の領地を拝領し、大名となる。四十歳。
 宝暦十(一七六〇)年、将軍家重隠居。家治が十代将軍となる。先輩大岡忠光死去。  宝暦十二(一七六二)年、一万五千石に加増
 明和四(一七六七)年、将軍家治の側用人となる。四十九歳。二万石に加増
 明和六(一七六九)年、二万五千石に加増、老中格になる。
 明和九(一七七二)年、三万石に加増、正式老中になる。五十四歳。
 安永六(一七七七)年、三万七千石に加増
 安永八(一七七九)年、将軍家治の世子家基急死。老中筆頭松平武元死去。
 天明元(一七八一)年、家斉(一橋家)が将軍家治の養子となる。4万七千石に加増。 天明四(一七八四)年、長男意知、江戸城内で佐野善左衛門政言に殺される。
 天明五(一七八五)年、五万七千石に加増
 天明六(一七八六)年、将軍家治死去。老中を解任される。六十八歳
 天明八(一七八八)年 意次死去。七十歳

 江戸時代の武士の身分、すなわち家格は、石高に反映する。特に下級武士は、石高は生涯ほとんど変わることはない。しかし、田沼意次は父から相続した六百石から始まり、十回も加増になり、最終的には百倍近い五万七千石になっている。役職も加増にともない上がっていき、幕府における最高職の老中にまで上りつめている。まさに「封建の異端」と言える。

田沼時代とは
 日本の歴史の中に「田沼時代」と呼ばれる時代が存在する。江戸時代の一時期とはいえ、個人の名が時代名になっているのは他に例がない。意次の生涯においても、後に田沼時代と称されたこの時期こそ、最も光り輝いていた時である。
 田沼時代とは具体的にはいつからいつまでだろうか。田沼時代の終りが、老中を解任され失脚した天明六年なのは明らかであるが、その始まりは諸説ある。
 平凡社の『世界大百科事典』によれば、歴史学上の時代区分として「田沼時代」を用いる上で田沼意次個人にとらわれる必要はないとし、宝暦・明和・安永・天明にわたる時代を一括して扱い広義の田沼時代としている。そして、意次個人に即した場合、側用人になった明和四年以降か、老中になった安永元年以降を狭義の田沼時代としている。
 辻善之助氏も『田沼時代』において、「本書は田沼意次を中心とせる時代、すなわち宝暦・明和・安永・天明の三十余年間についてその政治、及び社会現象の一般を述べ‥‥」とまえがきに記している。ただ、狭義の田沼時代は、老中筆頭の松平武元が死去した安永八年以降のわずか七年間としている。
 大石慎三郎氏は、『将軍と側用人の政治』で田沼時代は大名となった宝暦八年に始まり、明和四年に確立したとしている。宝暦八年時点では、先輩の大岡忠光が側用人をしていたが、忠光は政治に口出しするタイプでないので、田沼が実質的な権力をもっていたという。また、筆頭老中松平武元は吉宗時代からの老中で、ある程度の実力者だったが、幕府及び将軍家の慶事・弔事の全てを取り仕切っていたので政治の実務に関わる余裕がなく、意次が実権をもっていたとしている。
 意次は十六歳で家重の小姓になった時から、御側御用取次、側用人を経て、老中を罷免されるまでの五十二年間にわたり、歴代将軍の最も近くに仕えていた。この過程で、将軍の絶対的な信頼を背景に、徐々に実権をにぎっていったのであろう。
 幕府における最高権力者は、将軍であることは言うまでもない。ただ、八代将軍吉宗を除き、将軍自ら政治を行なうことはなく、数人の老中の合議による集団指導体制が幕府政治の実体だった。老中になるには、大名で、しかも名門の家柄でなけらばならなかった。この家柄と実際の政治を行なう能力とは別ものである。ここでいう名門とは、戦国時代の戦功に対して称したものである。江戸時代も中期になると、戦の能力は不要となる。社会経済体制が自給自足から、商品・貨幣経済に変わり、幕府の貯財が底をつき深刻な財政難になってくると、高度の経済知識が政治に必要になってきた。そこで登場してきたのが側用人である。
 側用人の制度は五代将軍綱吉のとき始まったもので、当初は将軍と老中間の政治向きの連絡役であった。それがやがて側用人自身が政治を取り仕切るようになっていった。「側用人政治」の最初は綱吉の信頼の厚かった柳沢吉保で、六代家宣、七代家継時代の間部詮房と続き、田沼意次で終わることになる。
 家柄は低いが、特に経済に明るい有能な人物が政治を取り仕切ったのが、側用人政治である。老中による政治が表の政治構造なら、側用人政治は裏の政治構造といえる。大石慎三郎氏は、これを剛構造、柔構造と呼び、「徳川幕府は、老中体制すなわち身分制体制という剛構造と、側用人政治という柔構造を、どちらにアクセントをおくかは別として、ずっと併用することで生き延びていく」としている。田沼意次は同時期に側用人と老中を兼ねており、政治の表と裏、剛構造と柔構造を両方をもった最高実力者であった。これは、江戸時代において、他に例がない。特に政治学上の区分で、「田沼時代」と称される所以はここにあると思う。よって田沼時代は、実質的な政治権力を手に入れた、側用人就任の明和四(一七六七)年からの約二十年間とし、全盛期は、老中になった明和九(安永元)年からの十五年間とするのが妥当ではないだろうか。       

将軍の信頼
 田沼意次が極めて有能な官僚であったことは、疑う余地はない。ただし、身分制度でがんじがらめになっていた封建時代において、よほどのことがない限り、低い身分の者がその能力を発揮することは不可能である。かつては紀州藩の足軽だった新参旗本の子である意次が、失脚するまでの長期間にわたり能力を十分に発揮しえたのは、歴代将軍の絶対的な信頼があったからである。
 八代将軍吉宗は、長男家重の小姓に意次を選んでいる。吉宗には四人の男子(ただし三男は早世)がいたが、跡取りをだれにするかで混乱があった。普通なら長男家重ですんなり決まるわけだが、家重は病弱で言語不明瞭、顔面神経痛のような表情をしており、およそ将軍の器とは言えなかった。一方、次男宗武は吉宗に似て武芸に秀で、学芸にも通じており、家重に代わり次期将軍に推す動きもあった。結局、吉宗の決断で、長子相続の秩序を重んじて長男の家重にきまった。このような家重だからこそ、周囲には有能な人材を配しておき、家重の代にはブレーンとなって活躍してくれることを期待したのではないだろうか。意次の小姓抜擢には、そのような意味合いがあると思われる。 
 意次が家重の小姓になった時、上司(小姓頭)に大岡忠光がいた。忠光は南町奉行として有名な大岡越前守忠相の一族だが、三百石の小旗本の出である。十四歳で家重の小姓になったが、二つ年下の家重は忠光になつき、いつもそばにいた。この間、忠光は不明瞭な家重の言葉を読み取れるようになっていった。家重が将軍後継者となり、やがて九代将軍になるに至って、家重の寵臣で唯一の通訳者である忠光は、異例の出世を遂げていった。小姓、小姓頭、御側衆を経て、一万石の大名となり若年寄になっている。やがて、吉宗が柳沢吉保、間部詮房らの側用人政治の弊害から廃止していた側用人の制度が、ここで復活し忠光が就任した。忠光は家重政権の実質的な最高権力者になった。忠光が三百石の小旗本から二万石の大名、側用人へと進んだことは、意次の破格の出世の先例になった。
 なお、大岡忠光は政治的にはそれほど能力を有していたとは思えない。家重の言葉を唯一理解できたということで、異例の出世をした。側用人とはいえ、独自色出して自ら政治を行なったわけではなく、その意味では側用人政治ではない。家重があっての忠光とも言えた。家重が隠居する直前、忠光は死去している。
 一方、小姓の意次も家重に気に入られ、小姓組番頭、御側御用取次へと出世していった。この間、意次も家重の言語を理解できるようになり、家重の信頼を強めていった。宝暦八(一七五八)年には、四十歳で一万石の大名になり、「執政と同様に評定所に出て訴訟をうけたまわるよう」と命じられ、幕府政治に本格的に参加していった。家重の世の後半は、政治的には意次の比重が高まっていった。家重は十代将軍家治に「主殿(意次)はまとうぞ(完全な人)のものなり、行々こころを添えて召し使はるべし」と遺言している。臣下に対してこれ以上の賛辞はない。
 家治は聡明な将軍だったと言われているが、自ら政治は行わず、意次の政治家としての技量を見込み、政治をまかせきった。将軍家治の全面的信頼のもと、意次は政治手腕を十二分に発揮し、後に田沼時代と呼ばれる全盛期を築いていった。明和四(一八六七)年、意次は側用人となり、家治の側近ナンバーワンの地位を得た。あわせて、従四位下となり、二万石にも加増し、大岡忠光と並んだ。さらに、老中格を経て、明和九(一八七二)年に正式老中になった。由緒ある譜代大名以外から老中になったのも異例だが、将軍の特命により側用人の職もそのまま兼任するのも異例中の異例であった。これで、意次は前述したように幕府権力の表と裏、剛構造と柔構造の両面を手に入れたことになる。
 家治には跡取りとして家基がいた。唯一の男子であったが、極めて健康で、十一代将軍就任は間違いないと考えられていた。家重以上に意次を信頼している家治であるから、次に将軍になる家基にも、意次やその子意知を重く用いるよう伝えるであろう。そして、さらに田沼時代は続くはずであった。ところが、十八歳になった家基は、鷹狩りの帰途、にわかに気分が悪くなり急死してしまった。
 家基の突然の死は、陰謀説がささやかれている。中には意次が関係しているとの噂もあったというが、意次にとっては大きな痛手になって、何らメリットのないことである。この頃より、反田沼派が動き始めてくる。意次の長男意知が暗殺される。そして、将軍家治の死とともに、意次は失脚することになった。

大奥
 江戸城本丸は表と裏に分かれている。表が幕府の官庁部分で、老中・若年寄のいる御用部屋や、大名の控室、書院、大広間、新番所などがある。裏はさらに中奥と大奥に分かれる。表と面する中奥には、将軍のいる御座の間と、将軍側近の御側衆と側用人の部屋があった。この表と中奥が幕府政治の場であった。一方、大奥は将軍の正室や側室が住む私邸だった。本来、政治とは無関係のはずの大奥だが、時として将軍を左右する力を有していた。幕閣も大奥の扱いには神経を使った。大奥を敵にまわしたら、失脚の運命が待っていた。逆に大奥の後押しがあれば、権力の座を手に入れることも夢ではなかった。かつての柳沢吉保、間部詮房がそうであった。
 意次は権力とまだ縁のない小姓時代から、大奥では絶大な人気を得ていた。大奥は将軍以外は男子禁制を建て前としていたが、小姓や御側衆という将軍側近の意次は大奥へ出入りする機会があった。意次の美男子ぶりは前述した通りで、将軍以外の男子をほとんど見ることのない奥女中たちは、意次に見惚れ、偶像視した。意次も大奥に出入りするたびに、奥女中の上から下に至るまで贈り物をするようになり、さらに人気を高めた。
 大奥で実権を握っていたのは、御年寄という役職で、幕府の老中のような立場だった。意次は御年寄筆頭の松島との結びつきを強めていった。松島は将軍家治に男子がいないのを憂い、家治が側室を持つよう意次に勧めてもらった。その側室が松島のところにいたお知保(津田夫人)で、やがて世子家基を生んだ。意次もこの時初めて側室(妾)をもったが、お知保と縁のある女性を選んだ。そして、彼女に大奥のお知保を訪ねさせ、お知保、松島をはじめ奥女中たちに、盛んなる贈り物をさせている。
 また意次が老中を解任されたときでも、大奥の大半は味方で、御年寄たちが、意次の回復を新将軍に働きかけたという。

田沼一族
 田沼意次にとっての負い目は、家柄の低さであったという。そこで、次々と名門の大名家と縁組みを行なっていった。これは、意次から望んだものもあるが、意次の異例の出世に相手から望んできた場合のほうが多かった。
 意次には七人の男子があったが、三人は早く死去し、四人が成人した。長男意知には老中松平康福の娘を嫁に迎えた。四男意正は遠江沼津藩主・老中水野忠友、六男雄貞は伊勢薦野藩主土方雄年、七男隆祺は丹波綾部藩主九鬼隆貞へとそれぞれ養子に入った。また、娘二人も遠江横須賀藩主西尾忠移、越後与板藩主井伊直朗へ嫁入りした。さらに、意次の弟意誠とその子意致が御三卿の一つである一橋家の家老になっている。
 幕府の人事権は当然のこととして将軍にあるが、側近の意次の発言権は大きく、実質的な人事権は意次にあったといってもよい。名門大名との縁組みにより、意次が出世したというより、意次のおかげで彼らが出世している。水野忠友は若年寄りから、意次の跡を継ぎ側用人になり、老中にまでなっている。松平康福は老中としては先輩にあたるが、意次の斡旋により老中首座に昇進し、一万石の加増にもなっている。井伊直幸とは縁組みはしていないが、意次の力で五代将軍の時以来空席だった大老の職に就いている。大老は臨時職であるが、老中より上席である。その大老ですら、意次に恩があり、頭が上がらないところがあった。
 田沼時代最後の幕閣は次の通りである。
  大老 井伊直幸(田沼派)
  老中 松平康福(田沼派)
  老中 田沼意次(田沼派)
  老中 水野忠友(田沼派)
  老中 鳥居忠意(中立派)
  老中 牧野貞長(田沼派)           (派は笹沢佐保『失脚』による)
 将軍は意次を絶対的に信頼している家治で、次期将軍は一橋家から養子に入った家斉に決まっていた。家斉には一橋家家老だった田沼意致(意次の甥)が、側近としてついていた。                                       ただ、縁組みなど当てになるものではない。現に意次の失脚後、関わりを恐れ、皆離縁してきている。実利的な意次にとっては、名門との縁続きなどという表面的なものより、幕閣と将軍周辺を自派で固めることで、円滑な政治執行を図る意味合いのほうが強かったのではないだろうか。成り上がりの意次は、細心な気配りにより敵を作らぬよう心がけてきた。しかし、田沼派があまりにも巨大になると、反対派が台頭してくることは避けられぬことであった。

スタッフとブレーン
 田沼の新政策は、ほぼ同時期に多方面にわたり展開している。これは、政策を企画立案し実行する優秀なスタッフ(官僚)とブレ−ン(有識者)を多数抱えていたからできたのである。田沼政治の真髄はこの人脈にあったといってもよい。
 田沼の改革は経済改革が中心である。田沼政権では、有能な経済官僚が次々と登用された。明和八(一七七一)年に河井久敬、安永八(一七七九)年に松本秀持、天明二(一七八二)年に赤井忠晶が勘定奉行になっている。河井久敬は勘定吟味役から勘定奉行になっており、五匁銀や四文銭の発行など、貨幣政策で力量を発揮した。松本秀持は勘定吟味役から、赤井忠晶は京都町奉行から勘定奉行に登用され、蝦夷地開発や印旛沼干拓など、ビッグプロジェクトを手がけた。特に松本秀持は、最初は米百俵の微禄の身であったが、田沼政権で出世をとげ、最後は五千石になった。辻善之助氏は松本秀持について、「よほど財政のほうには手腕のあった人であったと見えて、田沼の財政の計画を助け、田沼の政策は松本伊豆の考えから出たものが多いように思われる。」と述べている。
 意次は江戸以外の要所要所の地方長官にも有能な腹心を配していった。京都伏見奉行の小堀政方、長崎奉行久世広民らである。久世広民は、オランダ商館長チチングが感心した進歩派で、長崎で入手した海外情報を意次にもたらした。チチングの記録によれば、久世はチチングにバタビアからオランダ人の船大工を連れてきて、日本人に大小船舶の建築を教授してもらいたいと依頼したという。鎖国下、大船の建造が禁止されていたとき、長崎奉行の一存でこのような依頼はできない。幕府首脳の意次の意向があったと言われている。意次は開国思想をもっていたというが、長崎奉行久世広民のかかわりも十分考えられる。
 以上のように、田沼時代には多くの有能な人材が大胆に登用されている。本来なら要職には決して就けないような、百俵、二百俵の小禄の者もいる。封建の世において、能力主義の人事を実行できたのは、そのような道を歩んできた意次のならではのことといえる。
 意次はまた、官職にない在野のブレーンのアイデアにも耳を傾けた。その代表が平賀源内である。源内は科学者、本草学者(植物、薬草、動物、鉱物の研究)、発明家、画家、小説家、エッセイスト、浄瑠璃の戯作者…と多芸多才の天才、あるいは山師といわれた。山師とは、良く言えば専門技術者、悪く言えば投機家、詐欺師といった意味がある。そのような浪人が、田沼意次の屋敷に頻繁に出入りした。あるとき源内が帰るおり、意次が自ら砂糖折を与えた。半月ばかりして、源内がこれを開いたら底に小判百両が入っていたという。明和六(一七六九)年、意次は浪人源内に「オランダ本草翻訳御用」という幕府の役を与え、長崎遊学をさせている。源内は長崎土産として、雲中を乗る大船(飛行船)を持参したとある。意次のオランダ好みは有名で、西洋の珍品を集めて喜んでいたというが、源内の持ち込んだものであろう。また、意次の開国思想にも、源内のもたらした西洋文化の影響があったと思われる。
 意次の屋敷には『甲子夜話』にあるように、多数の来客があったが、大名だけでなく、平賀源内のような天才、奇才もどんどん受け入れた。権力の頂点に立つと、思考が硬直化してしまうものだが、意次は彼らとの交流を通して、知的好奇心と柔軟な思考を維持したのではないだろうか。
 また、仙台藩の医師工藤平助は、『赤蝦夷風説考』を書いた。そこでは、ロシアとの北方問題の重要性を説き、ロシアとの貿易を提案していた。日本の外交政策の根幹にかかわる意見書で、一歩間違えば、幕府から処分されかねない内容であった。現に後の松平定信政権では、『開国兵談』を書いた林子平を厳しく処罰している。ところが、田沼政権では民間人である工藤の意見を取り上げ、蝦夷地調査隊の派遣・開発計画という幕府の事業へと発展させていった。

経済力
 現在の田沼家に直筆の「田沼意次遺訓」というものがある。これは遺書とよばれているが、毎年正月に家中の者全員に読み聞かせるよう注意書きがあることから、家訓とも考えられる。この遺訓は、意次の人柄を知る上での貴重な資料とされているが、意次の経済観、金銭感覚を知ることもできる。遺訓は全部で七か条あるが、第七条には財政に関して次のような意味のことが書いてある。

 諸家の勝手向き(財政状況)をみると、不如意なのが一般的である。貯えがないと公儀の御用さえ勤めにくくなる。もちろん軍役も勤めにくく、領地を拝領している意味がない。家の経済を立てるのは大切至極のことである。
 そして、このことは特に重要とし、別紙を添えさらに細かく指示している。収入を見積もっていても、領地の不作で減ることがある。支出を見積もっていても、不時の支出がある。これを繰り返していたら、勝手向きは行きづまる。借金をしていくと、利子もかさみ大借金になり立て直せなくなる。このことをよく心え、奢りなく、倹約に努めよ。もし、やりくりが悪くなったら、できるだけ早く改善しせよ。かといって、領内の取り立てを無理に強く申しつけるようなことをしてはならない。百姓町人に無慈悲なことをするのは、家の害である。正道をもってすべてのことに臨むように。

 意次は経済力を何より重要なものと考えていた。武士としての本来の勤めも、経済力があってはじめて可能だということに気づいていた。やがて、幕府旗本の経済力の低下が、財政改革に成功した薩摩、長州の近代的な軍事力に敗れることになる。
 また、田沼意次を描いた長編小説『田沼意次』(村上元三著)に次のような場面がある。 父意行が他界して、十七歳の意次が家督を相続した。そのための費用として五百両が必要だった。意次は札差の武蔵屋に自ら出向き、五百両の借金を依頼した。そこで意次は、五百両の必要性と、金銭がいかに大切かを素直に打ち明けた。それに対し武蔵屋は、
「あなた様は、正直に物をおっしゃる。金銭は卑しいものとして、お旗本がたはめったにお口になさらぬものでございます。それをあなた様は、札差のわたくしを対手に、思うことをそのまま言葉にお出しなされた。よろしゅうございます。五百両、抵当なし期限なしで、ご用立ていたしまする。あなた様がご出世をなさるおかた、と見たわたくしの眼に狂いがないと存ずるゆえんでございます。」
と言って、快く引き受けてくれた。それ以後、武蔵屋は、出世を遂げるまでの意次の経済を支えることになる。
 これはあくまでも小説の一場面だが、意次の金銭観を如実に表わしていると思われる。金銭を大切に思う者のところには、金銭は集まってくる。意次政権の背後には、成長著しい商業資本の経済力があった。                           意次の領地は、最終的には五万七千石になったが、六百石からのスタートだけに、田沼家にはそれまでの蓄積はほとんどないはずである。意次の個人的な財源は、やはり賄賂と呼ばれるものだったろう。ただ、意次はこの金を個人的な贅沢にだけ使ったわけでなく、政治のためにどんどん使っていった。微禄から登用した官僚群(スタッフ)の面倒をみなければならないし、平賀源内のような在野のブレーンにも資金を提供する必要があった。収入も多かったが、支出も多かった。私利私欲のための蓄財をせず、うまく金を使っていったからこそ、短期間にあれだけ多くの仕事を成し遂げられたのだろう。この意味で、意次の得た「賄賂」には、現在でいう政治献金の意味合いもあったと思われる。
 
情報網
 大きな事業をやるために必要な三要素は、人・金・情報である。情報化社会といわれる現代において、特に情報のウェイトが高まってきているが、武士の世でも情報の重要性に気付いたものが勝利を収めている。
桶狭間の戦いで、戦力的には劣勢な織田信長が今川の大群を破ったのも、的確な情報によって奇襲攻撃の機会を見逃さなかったからである。その後、織田軍団の情報機関の中枢にいたのが明智光秀である。信長の動向を熟知している光秀は、信長の周囲が手薄な時を狙い、本能寺にいる信長をあっさり暗殺してしまった。情報で勝利を得てきた信長が、最後は自らの情報が知られたことで、身を滅ぼしたことになる。
紀州藩主徳川吉宗は、八代将軍の座を尾張継友と争っていた。そこで吉宗は将軍継承にかかわる情報を的確に収集していた。七代将軍家継が危篤になり召集がかかった時も、吉宗は既にこの情報を得ており、準備万端整え、二人の家老と供廻りの者を連れ最初に江戸城に乗り込んできた。一方、尾張家では、緊急の召集にあわて、藩主が馬に乗り駆け出し、家臣がそれを追うという醜態を演じている。結局、その日のうちに、吉宗が将軍後見職になり、将軍を継ぐことが決定した。尾張家では情報収集の不備ばかりか、内部情報も吉宗側に筒抜けだったらしく、家老たちの責任追及が行われた。吉宗は将軍になってからも、幕府の正式な情報機関である、服部半蔵の流れをくむ隠密組織以外に、紀州から連れてきたお庭番衆を使って情報収集を行ったという。
 田沼意次も紀州派であり、若い頃より吉宗の政治を身近で見てきた。意次も政治を行う上での、情報の重要性を認識していたと思える。江上照彦氏は意次の情報網を、次のように述べている。                                    幕政を司る要所要所には多くの腹心がおかれている。と同時に、いたるところに彼  の手先がもぐりこんでいて、気脈は四方八方に通じているから、外部のいろんな動き  が手に取るようにわかる。得た情報を吟味して先手先手と手を打っていくから、相手  は面くらい気を呑まれ、なんだか身動きできないような気持ちになり、はては自分か  ら進んで手の内を見せて、ますますのっぴきならなくなったあげく、ついには意次一  派に荷担するようなものさえでてくる。

 意次の屋敷にも多くの人が集まってきた。直属のスタッフやブレーンだけでなく、諸大名の江戸留守居役や旗本たちが連日やってきた。意次が非番で屋敷にいる日などは、誠意を示そうと、朝の暗いうちから門前に並んでいたという。前述の松浦静山『甲子夜話』にあるように、座敷には人がいっぱいで外にまであふれ、隣室に置いてある刀は海の波のようであった。意次はそのような人の波の中に入り、膝が触れんばかりの状態できさくに話をした。
 一般に老中相手となれば、正式な手続きをしても、なかなか面会できないものである。それが、田沼屋敷はほとんど開放されており、いつでも気易く受け入れてくれた。他に聞かれてはまずい請託の時は、別室で話をしたが、大座敷でのオープンな談話からも情報は得られていった。意次は屋敷に集まってくる様々な人に会い、そこから新たな情報や知識を吸収していき、政策へ生かしていった。そこに集まる人たちも、意次を通しての情報だけでなく、メンバー同士の情報交換ができた。諸大名の情報担当重役は江戸留守居役だが、彼らやその配下は、田沼屋敷に常駐に近いかたちで通った。日本中の情報は江戸に集まってきたが、その中心にあったのが意次であった。意次は人(将軍、大奥、田沼一族、スタッフ、ブレーン等の人脈)、金(経済力)とともに、情報も制していた。


第四章  田沼の改革

真のリストラ
 バブル崩壊以後、平成の大不況において、企業や国家機構のリストラが盛んに叫ばれている。「日本語大辞典」(構談社)によれば、リストラとは、「事業の再構築。本来は企業が不採算部門を廃止して、将来有望な部門への進出を図り、事業内容を一新すること。日本では人員削減、雇用調整をいう場合が多い。」とある。
 津本陽・童門冬二『徳川吉宗の人間学』によれば、真のリストラとは次のようなものだとしている。
 ・変転きわまりない社会状況において、顧客のニーズはどんどん変わる。
 ・現在企業がつくり出しているモノやサービスとはニーズが適合しなくなる。
 ・企業は拡大再生産、あるいは新規事業を興さなければならない。
 ・その資金は企業のぜいにく落としという自己努力で生むしかない。
 ・バブル時代のむだをを省き、ぜい肉落としをやった上で、増収策を講ずる。
 ・これらは組織にとって痛みを伴う。総論賛成、各論反対という反対者、対立者を説得、  納得させ新状況の協力させていく。
 これが本当のリストラである。しかし、一般には前提の減量経営にばかりウエイトがおかれ、かんじんな拡大再生産や新規事業興しという積極経営には比較的目がむけられなかった。江戸時代において、真のリストラを行なったのが将軍吉宗だったという。
 江戸時代のバブル期は、五代将軍綱吉の元禄時代である。この時期に家康が貯えた膨大な財産を使い果たしている。それ以後、幕府は財政難に苦しんでいる。三大改革をはじめとする幕府の改革事業は、基本的には財政改革である。
 吉宗は紀州藩主だったころ、緊縮政策をとり、きびしい倹約を実行するとともに、役人の人員整理を行ない財政の立直しを図った。将軍として江戸城に入っても、倹約政治を実行していった。家臣に大奥の美女のリストを提出させ、そこに記載されている五十人に暇を出した。美女なら、家に戻っても嫁に行けるだろうから、解雇されても困らないだろうとの理由である。これは人員整理とともに、華美になっていた大奥への戒めも含んでいたという。また将軍自身、厳しい倹約を率先して実行した。服装は質素で、冬でも下に襦袢を着ることはなかった。食事も一汁三采とし、しかも一日二食を通したという。
 一方、収入増加をめざした積極政策もとっている。急場をしのぐ方法として、諸大名に参勤交代の期間を半年に短縮する代わりに、一万石につき百石の割合で献米するよう依頼したりしている。(上げ米令)抜本対策としては、水野忠之を勝手掛老中に任命し、勘定方役人のプロジェクトチームをつくり、財政再建計画を立案させた。その計画は、享保七(一七二二)年七月三日に諸大名に公表されたが、年貢増徴と新田開発を柱としていた。 その直後の七月二六日には、江戸日本橋に高札を立て、新田開発の許可を与えるから奉行所へ願い出るよう触れを出した。町人の力で新田開発をしようとの考えで、開発した者には、投資金額の一割五分の限度内で、新田からの小作料徴収権を認めていた。この後、下総の飯沼新田、武蔵の見沼新田、武蔵野新田、越後の紫雲寺潟新田などが開発された。 新田開発の目的は、年貢課税対象を広げることにあったので、これも年貢増徴の一手段となる。年貢増徴の柱は、年貢率の引き上げであった。江戸幕府当初、年貢は七公三民で、七割もあったが、徐々に低下し、六代将軍の頃には二割八分九厘にまで低下していた。これを五割まで引き上げることを目標にした。まず幕府は徴税法を、それまでの検見法の代わり、定免法にした。検見法は、その年の米の出来を地方役人が実際に検分し、年貢量を決めるものであった。これに対し、定免法は、その年の出来高にかかわらず、一定期間年貢量を固定するものである。幕府は定免法は農民のためになる方法だからと、年貢率の引き上げを強要していった。
 吉宗の享保の改革は、徹底した緊縮政策と積極政策(年貢増収)により、財政的には次のような大幅黒字になっていった。
 享保七(一七二二)年以降の十年間で、米三万五千石、金十二万八千両
 享保十七(一七三二)年以降の十年間で、米四万八千石、金三五万四千両
 寛保二(一七四二)年以降の十年間で、米七万五千石、金九六万両
 ただ、この財政再建は、増税という農民の犠牲の上に成し遂げられたものである。増税に反対する農民は、各地で一揆を起こした。特に、幕府天領で頻繁に起こった。それまで、一揆は領主の政治が悪いからだと、領主処罰の対象にもしてきた幕府は、自分の足下で多発した一揆にあわてた。さらに享保十八(一八三三)年には、町奉行大岡越前守忠相が管理する江戸で初の打ち壊しがあった。
 このような百姓一揆と打ち壊しの頻発する中、吉宗は長男家重に将軍を譲り、隠居した。享保の改革は、増収を図ろうという積極策があったから、一応の成功を収めている。これに対して、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革は、倹約による減量経営のみだったため、真のリストラではなく、短期間のうちに失敗している。吉宗の積極政策を引き継ぎ、大規模に展開していったのが田沼意次だった。ただし、意次は、吉宗がとった農民に対する増税策には限界があることを痛感しており、他の様々な方面からの増収策を大胆に展開していった。

田沼の改革の構造
 江戸幕府の政治は、特定個人に権力が集中しないように、複数の担当者による集団指導体制をとっている。江戸町奉行も、北町奉行と南町奉行の二人いて、月番制をとっていた。政策の最高決定機関も、数人の老中による合議制になっていた。よって、ここでいう諸政策は、すべて意次個人の責任で企画・実施したとはいいきれない。それでも田沼時代において、幕府が実施したものは、意次が側用人や老中として深く関与していたのは間違いない。ここでは、田沼時代に実施された諸改革を、広い意味での「田沼の改革」として、整理してみる。
 田沼の改革においても、リストラの一方の柱である減量政策を無視したわけでなく、初期の段階では、倹約令が次々と出されている。まず宝暦十三(一七六三)年に、諸役所に対して、経費の節約令を勘定奉行が出した。そして、明和八(一七七一)年四月には、前年夏の干ばつにより年貢収納が減ったため、今後五年間、毎年四万両の倹約をするよう命じた。そして、倹約の内容を細かく示していった。畳代は、六千両から二千両に減らされた。諸役人に支給する料理も、予算を一万三千八百両から一万両へと減額された。老中、若年寄の料理は、三汁五菜だったものが湯漬けにされた。その他役人は、香の物と一汁二菜とした。そして、料理に付いていた酒はなくなった。老中、若年寄のほうが、率先して倹約した。それでも、倹約令にかかわった老中、若年寄などの名前を入れた倹約令を皮肉った落書、落首がさかんに出回った。                        「田沼と懸て みそすりととく。意は ひとりかきまわす」
 倹約は幕府役人だけでなく、将軍や大奥にまで及んだ。御納戸金・賄金という、将軍の私生活に関する予算が大幅に削減されている。意次失脚後に出た「田沼罪案二十六か条」の三に、「上様に差し上る御膳部やお召物、すべて粗末すぎる。倹約と吝嗇(けち)の区別わきまえないのか。」というのがある。また、意次は大奥に人気があったと前述したが、倹約令に関しては批判的で、大奥内には意次の失脚を望む勢力があったことも確かである。 倹約による減量経営には限界があった。田沼の時代の大リストラは、増収を図る積極経営に比重が移されていった。これが田沼の改革の中心部分になる。個々の詳細は次節以降に述べるので、ここでは項目を挙げていくことにする。
 幕府の収入源は、天領からの年貢収入、鉱山収入、貿易収入の三つであった。その中心は年貢収入であるが、年貢率の引き上げに限界があることは、吉宗の改革の後半で痛感していた。ない者からは、これ以上取れない。ある者から取ればよい。ある者とは、成長著しい商人である。株仲間制度を発展させ、商業を活性化し、利益を運上金、冥加金として幕府に納めさせる。農民だけでなく、商人にも課税する税制の構造改革を行なった。
 また、商業活動の活発化に伴い、通貨制度の改革を行なった。目方を量って取り引きする秤量通貨制度から、額面通りの通用価で統一した表位通貨制度へ変更した。さらに、関東の金経済と、関西の銀経済の一元化を図った南鐐二朱判を発行した。田沼時代の最後には、商人、さらには全国民に出資させ、大名に貸し出すという金融構想を打ち出している。この時代において、日本は重農主義から重商主義への転換が行なわれようとしていた。
 一方、年貢収入に関しては、新田開発の方面に力を注いだ。吉宗時代に着手し、失敗した印旛沼、手賀沼の干拓に再度チャレンジした。さらに、蝦夷地開拓という広大な計画へと発展していった。
 鉱山開発にも積極的に取り組んだ。特に、中国貿易に必要な銅山の開発に力を入れた。 貿易に関しては、銅と俵物の輸出に切り替え、銀の流出を防いだ。さらに、海外の金貨、銀貨を輸入するという外貨獲得を行ない、国際収支を貿易黒字へと導いた。また、貿易相手を拡大し、経済発展を図ろうという開国思想にまで広がっていった。
 文化面では基本的には自由放任にしたため、活気づき、学問、芸術、言論面で江戸の町人文化が発展した。辻氏も「化政時代が江戸文化の満開であるならば、田沼時代はそのまさにほころびんとする蕾である」と述べている。吉宗によって解禁され、研究が進んできた蘭学も、『解体新書』の出版により、華開いていった。
 以上の諸政策は、系統だてた一連の計画のもとで実施されていったわけではないと思う。収入を増やすという大目標のもと、有能な経済官僚群を用い、次々と増収政策に手をつけていった。一つの方法が行きづまると、躊躇なくべつの方法に切り替えるという柔軟姿勢をとっている。これに対し、辻氏は、意次には政治上の主義がなく、何でもただ一時の便宜に適するように政策をとっていっただけだと批判している。確かにそのような面もあるが、一つ一つの政策は、当時の常識をくつがえす画期的なものであり、評価に値する。ここで、田沼の改革の諸政策を、私流に図にまとめたものを、次に示す。

図(田沼の改革構造図)省略

産業振興・税制改革
 吉宗の享保の改革以後、幕府及び諸藩は財政対策として、年貢増収に力をいれた。それに伴い、全国各地で一揆が多発していった。この一揆の中で、特筆すべきなのが郡上八幡藩(現岐阜県)の郡上一揆である。藩主金森頼錦は、幕府の奏者番という役に就き、やがては若年寄、老中への可能性がある幹部候補生のルートに乗った。出世の野望に燃えた藩主は、出世のための資金調達の必要性から、有毛検見法という最も過酷な税法を農民に課してきた。有毛検見法とは、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と放言した、勘定奉行神尾春央が考案したとされる課税法である。これは、従来の検地によって定められていた課税基準に代わり、検地役人が実際に村に立ち入り田畑を調べ直し、実情に応じ課税していくものであった。これによって、検地後の生産力向上分や、隠し田畑が洗い出されてしまい、増税になることはまちがいなかった。たとえば、武蔵国西方村では、年貢率二十六パーセントだったものが、有毛検見法では四十パーセント台にも増えたという。                                       この課税に驚いた郡上八幡の農民は、千人を動員して有毛検見法の撤回を求める強訴を行なった。これに対し、藩は幕府に働きかけ、美濃郡代を派遣してもらい、幕府の圧力で庄屋三十六人に新税法を承認させてしまった。これに憤激した農民は、本格的な一揆に突入し、五年間も続いた。この間、農民側のリーダー格が次々と処刑されていった。最後に、追いつめられた農民側は幕府に訴え、ついに幕府評定所で処理することになった。(この時、意次は一万石の大名となり、評定所出座を命じられていた。)
 評定所の審理の結果、藩主金森頼錦は領地没収の上、奥州南部藩へ永預けとなった。農民側も、死罪十三名を初めとして、多数が処罰された。安定してきた江戸中期以降に、藩の取り潰しという重い処分が下されたのは、一揆の大きさもあるだろうが、課税の過酷さが度を過ぎていたとも考えられる。さらに、幕府重臣たちが、金森頼錦にからんでいたと重い処分を受けている。老中本多正珍は役儀取り上げ、逼塞。若年寄本多忠央は領地没収、永預け。その他、大目付け、勘定奉行、郡代等が解任、追放になっている。大石慎三郎氏は、この一連の事件を、「この一揆は、直接税増徴派幕閣を一気に追放してしまったので、幕初以来続いてきた直接税増徴型政策がここで頓挫して、田沼意次をリーダーとする間接税派の登場の契機ともなっている。」としている。
 意次は、評定所出座という、幕府政治に関わり始めた時点で、年貢収入をこれ以上増やすことの不可能さを痛感している。年貢以外の税収入として、意次が着目したのが、商工業者に課す運上金と冥加金である。運上金は、商工業などの営業従事者に一定税率で納めさせたもので、営業税、免許手数料などの性質をもつ。冥加金は、幕府などが営業者への公認保護を与えたことに対する献金の性質をもつ。冥加金は献金であるから一定の税率はなかったが、やがて幕府は財政に確実に組み入れるため税率を定め、完全な税と化した。 冥加金の対象は、幕府により公認された株仲間である。株仲間は、吉宗の時代に大岡越前守忠相が物価統制のためにつくらせたもので、江戸や大阪の問屋や質屋の株仲間には冥加金を上納させていた。意次はこれに目を着け、株仲間の数を増やし、課税範囲を拡大していった。天明年間を中心に、大阪だけで一三〇の業種が株仲間を認められたという。
 幕府は運上金、冥加金という主に商工業者を対象とした税収入を増やすために、産業の振興を図った。商品経済の発達とともに、商工業者の数が急増してきたが、零細な業者がほとんどだった。そのような業者同士の無用な競争を防ぎ、健全な育成が図れるよう、業者をたばね独占的な利益を保障したのが株仲間であった。同じように、特定の事業を専売制にしたのが座である。吉宗の時代に、銅座、人参座、朱座という専売機関があったが、意次はこれをさらに拡大し、銀座、鉄座、真鍮座、竜脳座などをつくった。また、明礬会所、石灰会所なども新しく公認した。(会所とは、株仲間の事務所のこと。)
 それまで、税といえば農民からの年貢収入だけだった幕府において、商工業者に正式に課税したのは意次が最初だといわれている。課税対象の拡大と、貨幣による納税は、根本的な税制改革といえる。
 なお、意次の失脚により実施されなかった税制に、「貸金会所」の令がある。これは全国民に出資してもらい、その金を貸金会所が大名に貸し出すという、金融機関の構想である。この出資金は、利子付きで現在の国債のようなものだが、全国民に強制的に出させ、返却の取り決めが明確になっていないことから、実質的には税の性質をもっていたと思える。

通貨政策
 通貨というものは、国内のどこでも同じ価値で使えなくては意味がない。現在の日本では、通貨の単位は円である。例えば、二千円といったら、硬貨でも、紙幣でも、これらをどう組み合わせても、日本中で二千円として通用する。 
 ところが、江戸時代の通貨制度は三貨体制で、金、銀、銭という別々の貨幣が存在していた。金は金貨として鋳造したもので、両、分、朱という四進法の単位をとっていた。銀は、その塊の重量を量って価値を決める秤量通貨で、重さの単位である貫、匁で表わした。銭は、銅あるいは鉄で鋳造したもので、貫、文という十進法の単位をとっていた。
 ここで、銭は小額貨幣として全国で使用されたが、高額貨幣の金は江戸を中心とする東日本、銀は大阪を中心とする西日本でと、通用区分が別になっていた。そして、金と銀の間には、一定の交換比率がなく、金経済圏と銀経済圏の経済状況に応じ交換相場が変動した。これは、ちょうど現在の外国為替相場と同じで、円とドルのレ−トが時々刻々変動しているように、金と銀のレ−トが変動した。これは、日本国内に経済的には別々な国が存在しているようなもので、全国規模の商品流通上、都合が悪かった。商工業を振興させる上で、通貨の一元化が必要だった。
 明和二(一七六五)年に発行された「明和五匁銀」は、銀でありながら計量せず、最初から五匁の銀貨として通用するよう鋳造した、表位通貨である。そして、五匁銀貨十二枚で、金一両と定めた。これで、銀六十匁=金一両の固定相場ができ、金と銀は連動する統一された通貨となった。しかし、主要都市で経済的に力をもっていた両替商が、猛烈に反発してきた。両替商は、現在の為替ディ−ラ−同様、金と銀の交換業務で利益を得ていたので、固定相場の導入は死活問題だった。両替商は、五匁銀十二枚=金一両を守らず、独自の相場を立てていったので、幕府の意図が徹底せず、八年間で鋳造中止になった。
 再度金と銀の統一を図るべく、幕府は安永元(一七七二)年に「南鐐二朱判」を発行した。「南鐐二朱判」には、八枚で金の小判一両と交換できると刻印されており、銀貨であるが、金貨の単位の「朱」で表わしている。「南鐐二朱判」は、金と銀の単位を統一したもので、通貨一元化をさらに進めたものである。これに対しても両替商は、南鐐一〇〇両対金一二五両との独自の相場を立てて抵抗した。結局、「南鐐二朱判」は意次の失脚で鋳造中止になったが、田沼時代に試みられた通貨の一元化は、通貨制度の近代化の第一歩となった。結局、日本の通貨一元化は、明治維新の新貨条令で円に統一することで実現した。
 なお、意次は収入増加のためには、なりふりかまわず何にでも手を出したと言われているが、通貨の改鋳だけは行なっていない。五代将軍綱吉時代に勘定吟味役荻原重秀が、質の良い慶長の金貨、銀貨の質を落とす(金、銀の含有量を減らす)よう改鋳し、四五二万両の差益を得て、幕府の財政を再建したことがあった。しかし、悪貨が大量に出回ることで通貨の価値が下がり、物価が急騰して人々の生活を苦しめた。この失敗例を教訓にしてか、意次は通貨そのものから利益を上げようとはしなかった。新鋳により通貨を一元化することで、全国規模の商品流通を盛んにし、そこから上がる税(運上金、冥加金)で増収を図ろうとした。

貿易拡大・開国へ
 鎖国下のおいても、長崎で幕府が独占的に貿易を行なっていた。幕府は、中国、オランダから生糸や西洋の珍品を輸入し、豊富に所有していた金、銀で決算していた。この頃、海外での金銀相場を日本は知らず、国際相場より非常に安い値で金銀を輸出していた。そのような日本の政治において、国際収支の考えを初めてとったのが、六代、七代将軍のブレーンとして活躍した儒学者新井白石だった。白石によれば、日本は完全な輸入超過の貿易赤字で、幕府が始まってから百年の間に、我国の金の四分の一、銀の四分の三が流失したという。そこで、正徳五(一七一五)年一月に「正徳長崎新令」を出し、貿易に厳しい制限を加えた。中国との貿易は、船三十艚、取り引き高銀六千貫まで、オランダとは、船二艚、取り引き高銀三千貫とした。さらに輸出品目も、銀や銅の量を制限し、他は俵物や昆布、するめ、美術品に限定した。しかし、白石はこの翌年、吉宗が将軍に就任したことで引退してしまった。
 意次の時代になって、ある人が、白石が書いた『本朝宝貨通用事略』を意次に示し、金銀流失について注意しようとした。すると、意次は驚いた様子だったが、「儒者の議論など、役に立たぬものである。」と横を向いてしまったという。白石がやろうとしたことは、貿易を制限(縮小)することで、海外流出を減らそうというものだった。意次は、逆に輸出を拡大することで、貿易黒字にするという積極策をとった。
 宝暦十三(一七六三)年には、中国貿易に銀の輸出をやめ、全て銅にした。そして、それ以後は、銅七分、俵物三分とした。銅は中国が銅銭の材料として輸入するようになっており、銀でもって日本の銅を買い付けていった。幕府は貿易で用いる銅を確保するため、宝暦十三年三月に、未産出や休山の諸国銅山や、銅鉱脈の有無の調査を命じ、銅の増産を奨励した。
 もう一つの輸出品である俵物とは、アワビ、イリコ、フカのひれ、なまこ、昆布などの干物を俵に詰めたものである。これらは、中華料理の高級食材として、中国へ盛んに輸出できた。幕府は俵物に関しては、運上金(税)を免除し、増産を奨励した。蝦夷を治める松前藩における、一年間の俵物の生産額に関し、次のような記録が残っている。
  イリコ  銀 六八八貫七〇匁
  アワビ  銀 四三〇貫六五〇匁
  昆布   銀 四〇四貫九七五匁
 これらの合計を金に換算すると、二万五四〇〇両にもなる。これは、一藩分の記録であるから、日本全体ではさらに大きな額になるはずである。
 一方、中国、オランダからは、中国、チベット、安南、オランダ、ヨーロッパ諸国の金貨、銀貨を輸入した。田沼時代に日本に流入した金は一六七貫、銀八二一七貫になる。そして、その銀を用い、南鐐二朱銀などの銀貨を鋳造した。
 さらに、意次は貿易相手国を拡大しようとした。例えば、工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見を入れて、蝦夷地調査団を派遣したのも、ロシアとの密貿易の噂を調査し、場合によっては正式な貿易に踏み切ろうとの思惑があったからだという。(この件は、次節で触れる。)
 意次が開国思想を抱いていたことは、オランダ商館長イサーク・チチングの記録からも知られている。田沼時代において幕府は、外国人を自由に国内に入れてもいささか国に損害がない事を知ったのみならず、それによって優秀なる科学芸術を学ぶ機会を得ることを知って、国内を開放しようとしたという。これは、明和六(一七六九)年に若年寄松平摂津守忠恒が建議したしたもので、大船を建造して海外との交通を開き、外国人を国内に誘致しようとのものだった。しかし、摂津守がまもなく死んだため、この建議は行なわれなかった。この建議と似たものに、第三章の「スタッフとブレーン」で触れたように、意次の腹心である長崎奉行久世広民)が、チチングにバタビア(ジャワ)から船大工を連れてきて、大小船舶の建築を教授してもらうことを求めた件がある。これも実現しなかったが、チチングはバタビアから船の雛形模型と説明書を持ってきて、久世に渡している。
 さらにチチングによると、田沼山城守意知(意次の長男)が「開国のことも図ったのであるが、他の諸大官のため弾劾せられて遂に暗殺せられた。山城守の死んだことによって日本を外国人に開放する望みは全く絶え果てた。」とある。これからも、「日本を外国人に開放する」こと、すなわち開国思想があったことがわかる。
 開国、貿易拡大の考えは、幕府創世期よりの祖法に反するものであるが、実利を求める意次にとっては、鎖国も聖域ではなかった。開国への道は意次失脚により消え去ってしまい、約一世紀後のペリー来航という外圧で、幕府の意とせぬまま実現する。もし、幕府の力があった田沼時代に、自ら開国へ進んでいたら、歴史は大きくかわっていたかもしれない。

蝦夷地開発(国土開発1)   
 意次が蝦夷地に関心をもつようになったのは、工藤平助の『赤蝦夷風説考』による。工藤平助はもと紀州藩の医者工藤太雲の子であるが、幼くして仙台藩の医者工藤丈庵の養子になり、やがて養父の跡を継ぎ藩の医者となった。しかし、もともと医業はその志でなかったので、頭を剃らず、刀を帯び武士のような格好をし、政治に関心をもっていた。かつて医学修業のため長崎に行き、オランダ人に学んだおり、当時の世界情勢も聞いており、ついに日本外交に関する意見書ともいえる『赤蝦夷風説考』を著わした。
 『赤蝦夷風説考』の概要は次のようなものである。
 蝦夷の奥、北東の方角に赤蝦夷(ロシアのこと。以下、ロシアと称す。)という国がある。ロシアは領土を拡大し、大国になってきており、我国の北面もうかがっている。近頃、日本人の漂流民を養育し、日本語を研究したり、彼らを通訳にして、我国に交易を申し込んできたりしている。我国としては正式には交易はできないが、蝦夷地に出入りしている商人のなかには抜荷(密貿易)をしている者がいる。ロシアとの事は、打ち棄てておけないので、子細に吟味すべきである。まず、要害を固めること。そして、密貿易を禁止しなければならない。しかし、密貿易は段々巧みになっているので、この際、禁止するより正式にロシアと交易をしたほうがよい。そうすれば、ロシアの人情や風土が明らかになる。また、ロシアと交易することで、長崎における中国、オランダとの貿易と比較でき、彼らが不当な利を貪っていることも明らかになろう。なお、蝦夷地には金山が多くあるから、これを調査し、金銀銅があれば掘りだし、これをロシアとの交易にあてることができる。そして、この交易の利潤をもって、蝦夷地を開発してもよい。
 この『赤蝦夷風説考』が完成したのは、天明三(一七八三)年のことである。工藤平助は、この書を幕府に示し、外交上の注意を喚起したかった。当時、幕府の最高実力者は進歩的な老中田沼意次であった。工藤平助は、田沼家用人の三浦庄二につてを求め、『赤蝦夷風説考』を提出した。三浦庄二はこれを見て驚き、意次に報告した。意次はかねがね、家来たちにも、改革について思いついたことがあれば、何でも申し出るようにと伝えてあった。そして、どんな愚案であってもじっくり耳を傾け、提案した者をねぎらった。だから、意次のもとには次々とアイデアが集まってきた。『赤蝦夷風説考』は意次に衝撃を与えた。ロシアとの正式な交易は、鎖国政策に反するものである。蝦夷地に眠る金銀銅で、ロシアから、中国、オランダ貿易で得ているのと同じものを、ただ同然で手に入れるというのは、むしのいい話であった。このような言語道断で、破天荒な意見書は、普通だったら黙殺されるか、悪くすれば処罰の対象にもなるものだった。ところが、意次はその壮大な案に魅かれたのか、腹心の勘定奉行松本秀持に調査を指示した。
 江戸時代、蝦夷地は松前藩が支配していた。当時、蝦夷地では米がとれなかったので、松前藩は石高なしの藩であった。(ただ享保四年に五万石格という、大名としての格付けは与えられた。)その代わり、幕府は松前藩に、アイヌとの独占交易権を与えた。そして、藩は家臣に知行の代わりに、蝦夷地の沿岸各地を割り振り、そこでの交易権を与えた。蝦夷地では、年貢米に代わりアイヌとの交易の利益が、藩や家臣の収入であった。しかし、家臣は自分で交易するのでなく、その権利を松前や日本国内の商人に又貸しした。権利を借りた商人は、「場所請負人」といい、直接アイヌと交易をやるようになっていった。交易の相場は、針一本と鮭五本、半分水を混ぜた酒二升と鮭二百本というふうに、アイヌから暴利を貪るものであった。蝦夷地には、松前藩の者しか入れないきまりになっていたが、場所請負人の船に、一シーズンに一回くらい松前藩の役人一人を同乗させることで、取り繕っていた。よって、交易の現場は、幕府にも、松前藩にもわからない状態にあった。よって、もしロシアが密かにやってきて、場所請負人と密貿易をしてもわからなかった。
 松本秀持は、以上のような松前藩の仕組みを確認した後、密貿易等の事実調査のための「蝦夷地調査の伺書」を作成し、天明四(一七八四)五月、意次に報告した。意次は伺書を見た後、松本に勝手掛老中格の水野忠友にも伺書を見せておくように指示をしている。幕閣で評議するときの根回しのためであった。伺書は正式提出から、わずか七日間という早さで決裁になった。松本秀持は、調査隊の人選、船の手配、松前藩との交渉など、具体的な準備を進めていった。
 天明五(一七八五)年四月、神通丸、五社丸という二艚の御用船に乗った蝦夷地調査隊は品川沖を出発した。隊員は、幕府勘定奉行の御普請役五名、下役五名、それに松前藩よりの案内役、通訳、医者などであった。蝦夷地南端の松前に着いた一行は、そこから東回りと西回りに別れていった。東蝦夷地調査隊は、厚岸、キタッフを経由してクナシリ島まで渡った。さらに、エトロフ島、ラッコ島まで渡る予定でいたが、秋になり波風が強くなってきたため、来春にまわし引き上げた。西蝦夷地調査隊は、江戸からさらに一艚まわってきて二艚になった。宗谷で合流した二艚は、二手に別れ、一方はカラフト島に渡り、もう一方は奥蝦夷(北海道のオホーツク海側)を調査した。カラフト隊は海岸沿いに九〇里進んだが、物資の補給ができず宗谷まで戻り、越冬することにした。奥蝦夷調査隊は海岸沿いを調べていき、東蝦夷地調査隊がいる厚岸までいったが、彼らは松前に引き上げた後であった。そこで、奥蝦夷調査隊(元西蝦夷地調査隊)も、松前へ向かったが、結局蝦夷地を一周したことになる。松前で合流した両調査隊は情報交換と、来春の計画を立て、御普請役佐藤玄六郎が報告のため江戸に帰ることにした。
 十二月二日、佐藤玄六郎の乗った神通丸が江戸に帰ってきた。なお神通丸は、アイヌとの交易で得た鮭などを満載していた。調査隊の費用の一部を穴埋めするために、調査隊は江戸から米、酒、木綿、古着、鍋釜などを積んでいき、場所請負人にまじり、交易をやってきた。幕府の正式な御用船が商売をした。しかも、幕府が場所請負人と同様、交易の荷物口銭(税)を一大名に支払った。前代未聞のことである。時代は商品経済の世の中に変わっており、古い体面などにこだわらない、実利を求める意次らしい考えである。(後の明治政府は、殖産興業の大方針のもと、自ら官営工場を経営したりしている。)しかし、当時としては、武士にあるまじき行為として、意次非難の事例の一つになっている。
 佐藤玄六郎は、勘定奉行松本秀持に調査結果を口頭で報告するとともに、長文の報告書を提出した。この報告書は、翌天明六年の二月六日に、意次へ提出されているが、腹心の松本秀持のことであるから、それ以前に意次へ口頭での報告はなされているはずである。蝦夷地調査隊の報告では、ロシアとの密貿易の事実はないとのことだった。ただし、ロシアが交易を望んでいることは事実なので、こちらからも話を持ち出せば正式な交易はできるであろう。しかし、ロシアの交易品は日本であまり必要としない毛皮が中心で、オランダが持ち込んでくるような品物ではなかった。ロシアとの正式貿易の件は、中断となった。
 ところが、調査隊の報告で耳寄りな情報があった。蝦夷地でも十分に穀物がとれるという。現在、穀物はとれないのでなく、交易で利益を得ている松前藩が、アイヌ人が農耕民化しないように禁止しているだけだという。広大な土地をもつを蝦夷地を開発し、農地化したら、とてつもない増収が図れるのではないだろうか。松本秀持の試算によると、蝦夷地の面積の一割を新田畑に開発し、その石高を国内の半分としても、約六〇〇万石にもなる。幕府直轄領(天領)が四〇〇万石だから、その一・五倍にもなる。もし蝦夷地開発が成功し、試算通りの田畑が得られれば、幕府の財政難など一気に解決してしまう。密貿易から正式貿易へという話から始まった蝦夷地調査だったが、六〇〇万石の開発という一大プロジェクトへと発展していった。松本秀持は、天明六年度の調査計画と蝦夷地開発計画を意次に提出し、二月二十六日付けで許可された。この大計画を携えて、佐藤玄六郎が蝦夷地へ戻っていった。
 蝦夷地で開発のための調査が進められている八月、幕府内で政変が起こり、意次が老中を解任されてしまった。松本秀持も勘定奉行を解任された。そして、十月二十八日には、蝦夷地調査の全面中止が言い渡された。調査隊は呼び戻され、報告書の受理も拒否された上、直ちに解雇されてしまった。
 意次後の松平定信政権の蝦夷地政策は、正反対なものだった。定信は、蝦夷地は不毛の地で、山河が堅固であるので、このまま放置しておけば、北の防衛線になるとした。辻善之助氏は、これを「田沼意次の積極主義、松平定信の消極主義」と言っている。結局、蝦
夷地開発は江戸時代においては、この後大きな進展はなかった。ところが、新政府は明治元年に函館府知事を置いて、いち早く蝦夷地経営に乗り出している。旧幕府軍との戦闘が各地で続いているこの時期に、蝦夷地(北海道)開発に乗り出すくらいだから、新政府は最重要テーマと考えていたことがわかる。なお、函館はこの後、榎本武揚率いる旧幕府に占領され、戊申戦争最後の激戦地となった。明治二年、新たに開拓使を設置し、本格的に北海道開発を進めていった。

印旛沼干拓(国土開発2)
 享保の改革における積極政策として、新田開発が推奨された。その一環として、下総国(現千葉県)印旛沼の干拓が行なわれた。享保九(一七二四)年に、千葉郡平戸村の染谷源右衞門から開発願いが出され、幕府は実地調査をしてこれを許可した。幕府は六〇〇〇両の補助金を出し、源右衞門らを請負人として工事にかからせた。しかし、工事は困難をきわめ、総額三十一万両を投入したにもかかわらず、十分な成果が得られないまま中止になってしまった。吉宗時代に開かれた新田は、石高にして九万七四〇〇石にもなるが、印旛沼の開発は次の時代へ持越しになっていた。
 田沼意次は老中になると、印旛沼干拓事業に再び着目した。ここでも、勘定奉行松本秀持や赤井忠晶らの、意次腹心の経済官僚が活躍した。まず幕府の命により、代官宮村孫左衞門が地元名主に指示して、安永九(一七八〇)年に干拓目論見帳という干拓計画案を作成させた。印旛沼は利根川下流付近にある大きな沼で、鹿島川と神崎川が流れ込み、長門川を通して利根川に排水していた。かつて沼の面積は二〇・五平方キロメートル、周囲六〇キロメートル、最深一・八メートルだった。利根川が増水した場合、長門川からの逆流が起こり、印旛沼周辺は水害に見舞われていた。そこで、沼の西端の平戸のところから、江戸湾に面する検見川までの十七キロメートルにわたり、幅十メートルの堀割(運河)をつくり、印旛沼の水位を下げようとした。これにより、印旛沼の干拓を行なうとともに、増水時には、利根川からの水を堀割を通して江戸湾に流し込み、洪水を防ぐという治水の意味もあった。また、鹿島灘(太平洋)と江戸湾を、利根川、印旛沼、堀割を通して結ぶ水路ができ、水運の便が向上するというメリットも見込めた。工事費用の見積りは六万六六〇両で、延べ二四二万六四二五人の人足を動員する計画だった。干拓工事は、印旛沼だけでなく、その西方にある手賀沼も同時に実施することになった。工事費用は、大阪の天王寺屋藤八郎、江戸浅草の長谷川新五郎が出資し、計画案を作成した地元名主平左衞門と次郎兵衛が地元世話人となった。完成した新田は、金主が八割、地元民が二割を取ることに決められた。工事を民間請負にし、幕府は出資することなく新田の年貢を得るという、意次流の計画だった。新たに普請計画書が作成され、天明二(一七八二)年七月に工事実施が決定した。工事のための現地役所が設置され、幕府勘定奉行所から役人が派遣され、工事監督にあたった。天明六年の春には、印旛沼は工事の三分の二以上が、手賀沼は九分通り完成していた。ところが、関東地方では、五月からの長雨の上、七月には豪雨に見舞われ、未曾有の大洪水となった。利根川流域の草加、越谷、粕壁、栗橋をはじめ、付近一帯が浸水し、死者、流失家屋は多数にのぼった。干拓事業も工事途中であったため、壊滅的打撃を受けた。この一カ月後、意次は老中を解任され、印旛沼干拓事業も、蝦夷開発同様中止となった。意次失脚後流布された「田沼罪状二十六カ条」には、「無人島蝦夷印旛沼の儀は沙汰に及ばず」とあり、意次の悪政として数えている。印旛沼干拓は、将軍吉宗時代に始めたものだが、吉宗が失敗したときは何ら非難はなかったが、引き継いだ意次に対してはごうごうたる非難が浴びせられている。なお、印旛沼干拓はこの後、老中水野忠邦のときに、三度目の着工をしたが、やはり失敗している。江戸時代の人海戦術中心の干拓技術では、印旛沼の干拓は不可能であった。結局、昭和三八(一九六三)年になって、水資源公団の開発により、一三・九平方キロメートルの中央干拓地ができ、ようやく成果を得ている。南北に別れた沼は、調整池となり、農業用水、京葉工業地域の工業用水、付近都市の飲用水として利用されている。

田沼時代の文化
 文化というものは、時代の風潮を反映して形作られていくものである。田沼時代の文化政策をあえて言うならば、「自由放任主義」であろう。因習にとらわれず、新奇なものを好み、何にでも挑戦していく意次の自由闊達さが、この時代の文化に反映していった。人々は自由に活動し、それまでの息のつまるような封建の社会が、何かほっとするような明るいものに変わっていった。この反対にあるのが、次の松平定信の政策であろう。定信は意次のことを、「罰は少なく、賞のみ多く」と非難し、人々の活動を統制し、違反者を次々と処罰していった。「寛政異学の禁」で儒学(朱子学)以外の学問を禁じ、幕府を批判したり、皮肉った言論、出版を取り締まり、人々の風俗を統制した。そして、

  白河の 清きに魚も 住みかねて もとのにごりの 田沼恋しき

と有名な狂歌にあるような、住みにくい世の中にしてしまった。田沼のころは、濁っていたかもしれないが、何か住みよい時代だったと人々は懐かしんだようだ。
 ここでは、そのような田沼時代の文化について見ていく。

 蘭学・『解体新書』
 洋書の輸入が禁止されたのは、三代将軍家光の時代の寛永七(一六三〇)年からで、来航した中国船が積んできた書籍のうち、キリスト教に関した漢訳洋書を禁書に指定したことに始まる。鎖国が完成する九年前からである。その後、長崎に入ってきた書籍は全て検閲を受け、疑わしい言葉があれば禁書となった。五代将軍綱吉の時代になると、その政策はさらに強化されていった。それが、吉宗の時代の享保五(一七二〇)年になると、ヨーロッパ人の著述でも、キリスト教布教に関しなければ輸入を許可するという洋書輸入緩和令が出た。
 豊前中津藩医師の前野良沢は、青木昆陽の門人となりオランダ語の単語を学んでいた。しばらくして昆陽が死んでしまったので、良沢は藩主に頼み長崎に遊学し、二百語ばかりのオランダ語を覚えてきたが、まだ実用になっていなかった。小浜藩医師杉田玄白は、オランダ語通訳官西幸作について、オランダ語を学んでいた。
 良沢と玄白は、それぞれ、輸入緩和により入ってきた『ターヘル・アナトミア』を入手していた。『ターヘル・アナトミア』はドイツ人クルスム著述の解剖学書で、オランダ人ディクテンがオランダ語に翻訳したものだった。二人は蘭学研究のため親しく交わっていたが、お互いに『ターヘル・アナトミア』を持っていることを知った。これを読むことは、二人の語学力ではまだ不十分だったが、解剖図がそれまでの漢方の図と異なっていることに興味をもっていた。                               明和八(一七七一)年、江戸の小塚原で死刑囚の腑分けが行なわれた。前野良沢、杉田玄白、そして中川淳庵の三人は、『ターヘル・アナトミア』を持参して、これに立ち会った。そして、その解剖図の正確さに驚き、何としても『ターヘル・アナトミア』を翻訳しようと決心した。腑分けの翌日から、中津藩邸内の前野良沢邸に五人の医師が集まり、翻訳の作業に入った。翻訳の苦労は、杉田玄白著『蘭学事始』に詳しく述べられているが、「艫舵なき船の大海に乗り出せしが如く」ただ呆然とするばかりだったという。結局、三年半かけ、十一回も原稿を書き改め、安永三(一七七四)年八月、翻訳書『解体新書』が完成した。
 長年の苦労の末完成したものの、もう一つ問題があった。当時、オランダの文字を書物の中に入れることは禁じられていた。『蘭学事始』の中にも述べられているが、明和二(一七六五)年に後藤梨春が『紅毛談(おらんだばなし)』を出版したとき、オランダ文字が二十五字入っていたため、咎められ絶版になったという。よって、良沢や玄白は、絶版を命じられるのではないかと、こわごわ将軍や老中に献上したが、滞りなく納められた。当時の幕府は、田沼意次が老中兼側用人として実権を握っており、絶版どころか、むしろ推奨していたと考えられる。
 『解体新書』の出版は、洋書の直接翻訳を可能なものとする先例になり、医師や蘭学者による翻訳や著作が続き、蘭学が発達していった。

 平賀源内
 蘭学者ではないが、長崎に遊学し、西洋の珍器の原理を解し模倣した平賀源内も、田沼時代を象徴する天才(奇人)である。第二章で述べたように、彼は田沼屋敷に頻繁に出入りし、意次に西洋の新知識を伝えていた。一方、意次も源内のパトロンとして、研究資金を援助したり、長崎遊学をさせている。一浪人である源内が、自由に各地を渡り歩き、多方面で力量を発揮し活躍できたのも、意次の後押しとともに、田沼時代の自由な風潮のおかげだったと思える。
 源内は晩年に二人の人を殺傷し、投獄された後、獄中で死んでいる。親交のあった杉田玄白は、その死を惜しみ、墓碑に「ああ非常の人、非常の事を好む。行ないこれ非常、何ぞ非常に死するや。」と詠んでいる。
 なお、源内は獄中で死んでおらず、意次がひそかに助け出し、領地の相良にかくまったという説もある。真偽のほどは定かでないが、意次と源内の関係の深さから出ていることは確かであろう。

 学問の発達
 蘭学ばかりでなく、古来の漢学も隆盛をきわめ、種々の学派が競い起った。辻善之助『田沼時代』には、江戸、京都、長崎の高名な漢学者十二名の名が紹介されており、「蘭花その芳を競う」と表現している。国学者の賀茂真淵もこの時代の人で、明和五(一七六八)年に、『万葉考』六巻を完成させている。真淵の主張は、古い日本の簡素で自由な時代に復帰しようというもので、この時代の相を表わしている。『古事記伝』で有名な本居宣長は、真淵の弟子にあたる。
 また、全国的に学問に対する関心が高まり、田沼時代に創設された諸藩の学校(藩校)の数は、次に示すように六十一校で、最高を記録している。
 宝暦以前   三十四校
 田沼時代   六十一校
 寛政から文政 五十八校
 天保から慶応 五十校
 明治初期   三十校              ( 辻善之助『田沼時代』より)

 言論の自由・落首
 落首とは、狂歌や川柳風の形態で、政治や権力者に対する批判をこめた句で、原形は古代からあった。そこでは、さすがに正面きって批判することははばかれたので、しゃれや皮肉をこめた風刺的な言説をもって、うっぷんを晴らすものだった。落首は紙に書き、さりげなく道に落としておいたり、門や壁にはったりしたものだが、江戸時代になると、印刷して大量にばらまくものもでてきた。権力者の中には、落首に目くじらをたて、厳しく取り締まった者が多いが、意次はそれを自由にまかせていた。現代風にいえば、「言論、出版、表現の自由を保障」(日本国憲法第二一条)したもので、封建時代においては画期的なことである。田沼時代には、落首が多く出まわった。「そののんきで、楽天的で、人を馬鹿にしたさまは、官権も何も眼中にあったののではない。最も自由に時世を諷し、政治をあざけり、不平の気を吐き文明を批判する、これもまた民権発達の一つの徴と見ることができる。」と辻善之助氏も述べている。田沼時代の落首の一例を示す。

 ・役人の 子はにぎにぎを よく覚え  (賄賂)                 ・これやこの 酒も料理も へらされて へるもへらぬも 御湯漬のはら(倹約令)  ・砂や降る 神代も聞ぬ 田沼川 米くれないに 水野もうとは (浅間山噴火)


 狂歌、川柳、   
 和歌の形式をかりた滑稽歌が狂歌で、落首に使われた。田沼時代に狂歌の名人といわれた、大田南畝(蜀山人とも号す)が活躍した。蜀山人の本名は直次郎で、父は幕府御家人で下級の役人であった。蜀山人も十七歳で徒士という下級の役に就いたが、一方、内山椿軒、松崎観海に師事し、漢詩文では才能を発揮した。明和四(一七六七)年、十九歳のとき、狂詩、狂文の『寝惚先生文集』が出版されると、一躍評判になり、江戸に狂詩ブームを巻き起こし中心人物となった。さらに、洒落本、黄表紙といった小説風のものも書きだした。そして、狂歌も手がけ、天明三(一七八三)年に『万載狂歌集』を出版するに至り、人気は最高潮となり、蜀山人は江戸戯文学の帝王となった。蜀山人も田沼時代の空気を敏感に反映した、江戸時代を代表する文人である。
 ところが、意次が失脚し、松平定信の時代になると、蜀山人は創作活動から手を引き、もとの下級役人に戻ってしまった。「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといふて 夜もねむれず」という、定信の寛政の改革を批判した彼の狂歌がにらまれ、身の危険を感じたからだという。その後、人材登用試験にトップ合格し、四十六歳で幕史として再出発し七十歳以上まで勤めたが、御目見以上の役職までには昇進しなかった。当代随一の秀才の彼は、随筆集、風俗史、経済史、書詩学等の文献を残したが、あの田沼時代のような輝きはなくなっていた。
 一方、川柳においては、柄井川柳が登場した。和歌の形式をまねて狂歌が生まれたように、俳句の束縛をのがれ、滑稽さや諷刺を含んだものとして狂句が生まれた。川柳は自らも狂句を作ったが、江戸市民から句をつのり、入選作を『川柳評万句合』として出版する選者、編集者のような活動もした。川柳が選んだ句は、三〇〇万に達したという。彼以後は狂句といわず、川柳と称するようになった。


第五章  失脚

 意知暗殺
 天明三(一七八三)年十一月、意次の長男田沼山城守意知が若年寄になった。「なった」というより、実質的人事権は意次にあったので「した」と言ってもよい。若年寄は、臨時職の大老を別にすると、幕閣では老中に次ぐナンバー2の地位である。意次は世間で言われているように、能力のない者を、賄賂により要職につけるようなことはなかった。身分が低くても、能力さえあれば、格式にとらわれずに抜擢人事をしてきた。たとえ息子であっても、若年寄として十分能力があると判断しての抜擢であろう。オランダ商館長チチングは意知のことを、「豪邁な精神を有しておって、非常な才識があり、父主殿頭(意次)と共に種々の改革を企てようとし…」と評している。
 父が老中、子が若年寄とは前例のないことであった。世の中が安定していれば、この異例の出世をとげた父子を、身分社会の壁を破る快挙として人々は賞賛したかもしれない。しかし、現実社会は、天明の大飢饉の最中にあり、七月には浅間山の大噴火があり、人々の生活はどん底にあった。そのような時期の、この人事である。人々の怒りの矛先は、田沼父子に向いていった。
 天明四(一七八四)年三月二十四日夕方、一日の仕事を終えた田沼意知は、三人の同僚とともに、若年寄部屋から退出した。新参若年寄の意知は、三人の後にしたがった。中の間を抜け、桔梗の間に入ったところ、隣の新御番所に控えていた侍のうちの一人が、最後尾の意知に突然駆けより、斬りかかった。意知は肩先に長さ九センチ、深さ二センチの傷を負った。三人の若年寄は、その場から逃げ出した。手傷を受けた意知も、その後に続いた。桔梗の間に駆けつけた者たちは、意知をかばうことも、侍を押さえることもせず、茫然としていた。侍は意知を追い、倒れたところをめがけ、二度ほど突き刺した。傷は股から骨にまで達する深手となり、激しい出血があたりを染めた。やがて、七十歳になる大目付の松平対馬守忠郷が駆けつけ、侍を羽交い締めにした。さらに、目付の柳生主膳正久通がやってきて、侍から血塗れの刀を取り上げ、取り押さえた。
 重傷の意知は城内で応急手当を受けた後、かごで神田橋の田沼屋敷に運ばれた。名医がよばれ必死の治療を行なったが、その甲斐もなく、四月二日、意知は息を引き取った。まだ、三十六歳であった。
 意知を暗殺した侍は佐野善左衞門政言という、御新番役の下級旗本であった。第二章「田沼のルーツ」で述べたが、田沼家は鎌倉時代に佐野家から分かれている。本家である佐野は、田沼の主人筋にあたる。佐野善左衞門の家は、傍流のまた傍流であろうが、その姓が示すように佐野家の血筋を引いていた。そのような、佐野と田沼の古い関係をたよりに、善左衞門は田沼屋敷に出入りするようになっていたようだ。善左衛門は、意知に斬りかかったおり、三度ほど「覚えがあろう」と叫んでいることから、二人は以前に接触があり、いくらかなりとも関わりがあったことは確かである。
 善左衞門は、意知が死んだ翌日、乱心ということで切腹になった。事件発生から、九日しかたってなかった。事件の動機は、善左衞門が取り調べられたときの口上書によれば、次のようなものだった。
@ 意知に頼まれて、佐野家の大切な系図を貸した。その後、何度も返してもらいたいと 催促したのに、返してくれなかった。
A 上州の善左衞門の領地に、佐野大明神という神社があった。そこへ田沼の家来がやっ て来て、田沼大明神と改め、横領してしまった。
B 元来田沼は佐野家の家来筋である。この頃、自分の家も微禄なので、何か役に付きた いと頼んでおいた。意知は、六百二十両を受け取りながら、便宜を図ってくれなかった。C 昨年十二月の狩りの時、自分が鳥を射止めたのに、意知は他の者が射止めたものだと いい、自分の手柄を言上しなかった。
 この向上書を見ると、善左衞門の意知、あるいは田沼家に対する個人的な恨みが、意知暗殺の動機となる。特に@の系図に関する件が、主たる理由だと世間では言われたが、既に老中という最高位を極めた田沼家にとって、いまさら系図を整えたところで何のメリットもない。善左衞門から、系図を奪い取る必要などなかった。他の理由にしても、仮にそうだとしても、江戸城内で大罪を犯してまでやるような理由とは考えられないない。
 一方、善左衞門が書いたという、「田沼罪状十七か条」というものが後に出てきた。後藤一朗氏が、現代語に要約したものを示す。(『田沼意次・その虚実』より)
  一、私欲をほしいままにし、御恩沢を忘れ、無道の行ない多し
  二、えこ、ひいき、をもって役人を立身させ、自党に引き入れる
三、神祖の忌日一七日に、卑妾を集め酒宴遊興せり。重き役義の者として不謹慎なり
  四、成り上り者の家臣の賎女を、お歴々の旗本へ、縁談取り持った
五、蛮国到来の金銀で、神国の通用金を作る。似金は天下の制禁。犯す者磔刑に処す
  六、伜意知を、名家の者を差しおき、若年寄に抜擢した
七、大奥に手を入れ、君公をけがし奉る。屋敷にお部屋様を招待し、乱淫をなさんと
    謀る
  八、加恩の節、諸大名領有の良田の地を引替奪取せり。我儘の行跡なり
  九、本家の系図を搾取し、己が家を本家の様に致さんと図る
  十、運上おびただしく取り立て、諸民困窮す
  十一、死罪にすべき者を、天下の法にさからい助け出した
  十二、金子を貯わえ、利子を取って町人に貸し付く。役目柄不似合の行跡なり
  十三、他家より追い出された者を召し抱えたり。これすなわち諸家を侮ることなり
十四、将軍お乗初に乗った馬・鞍を拝領、己が乗馬となす。神祖を恐れ奉らざる不遜
    の行為
  十五、縁家土方家の先祖の名を、家にそのまま用いた
  十六、武功の家柄の者を差しおいて、己れ立身出世せり
  十七、伜意知諸人困窮の時節に、五千俵も拝領、天下の定法に背くものなり
三月二十四日

 この十七か条は、全て意次の政治に対する非難が中心である。ところが、前述の善左衞門の口上書では、佐野善左衛門は意知に対する遺恨だけを述べている。両者で共通しているのは、系図に関する件だけで、あとは一致したものが見られない。よって、「田沼罪状十七か条」は善左衞門が書いたものでなく、何者かの偽作であるという見方が一般的である。「何者か」とは、まぎれもなく反田沼派である。反田沼派は、善左衞門をそそのかし、意知を暗殺させると同時に、田沼父子の悪政に立ち向かった英雄として祭り上げていった。田沼を悪玉、善左衞門を善玉とする落首が乱れ飛んだ。この時、偶然か、高値だった米価が下がりはじめた。人々はこれを善左衞門のおかげとして、「世直し大明神」と崇め、善左衞門を葬った浅草徳本寺参拝に押し寄せた。一方、意知の葬儀の列は、行手を阻まれ、石を投げつけられた。この好対称な一連の騒動も、「何者か」の演出ではなかったかと思える。
 なお、この後、佐野善左衞門を取り押さえた松平対馬守忠郷は、その功により二百石の加増になっているが、刃傷事件を止められなかった関係者の多くが厳しく処罰されている。これは「忠臣蔵」の幕開けとなる、松之廊下での刃傷事件以来の江戸城中での大事件となった。                                      さらに、その後数年間の政変をみると、意知暗殺事件は、政権をめぐる二大勢力間闘争の幕開けとなる、重大な政治テロ事件との見方ができる。もっとも、そうだとしても、次に政権をとった反田沼派は、その証拠となるような史料を残しておくはずはない。その証拠隠しの圏外にあったのが、オランダ商館長チチングの『日本風俗図誌』である。彼の記述によると、この暗殺事件の背後には、顕著なる地位の人物が関係しているという世評があったという。田沼父子の種々の改革を阻止しようとした人々が、年をとっている意次はやがて死ぬだろうから、年の若い意知の方を今のうちに倒そうと考えたのだという。   また、松平定信が意次解任後、新将軍あて出した意見書に、意次を「刺し殺し申す可しと存じ、懐剣までこしらえ申し付け、一両度まかり出で候」とある。定信自身が、意次相手ではあるが、殺意があったことを認めていることは興味深い。            この二点の史料からではあるが、反田沼派が目的達成のためには暗殺も辞さないと考えていたことが推察できる。反田沼派は、田沼父子に対して、それらしい動機をもっていた佐野善左衞門を暗殺者に選び、個人的な恨みによる死闘にみせかけたのではないだろうか。

将軍家治の死
 意知の死は、意次にとって大きな痛手であった。六十歳半ばを過ぎた意次としては、長男意知に、今まで進めてきた諸改革を引き継ぎ、そこで完成させることを期待していた。そのため、まだ早いかとも思えたが、若年寄に抜擢した。それが、反田沼派を刺激し、このような強行手段に走らせてしまったのかもしれない。
 事件の翌日、重傷の意知の若年寄辞任を将軍に申し出るため、意次は登城した。将軍家治は、辞任には及ばない、手厚く看護するよう意次に言った。この意次の登城を、水戸家の藩主治保は、「産穢さえ七日は遠慮いたすのに、実子は深手、快気のほどもおぼつかなければ、しばらくは遠慮すべきはず」と非難した。水戸家を中心に、御三家も、露骨に意次への反感を示し始めた。
 通常の人なら息子の死により意気消沈し、政界から引退して、静かな余生を送っていたかもしれない。意次もそうしていたら、あれほどの悪評をばらまかれることもなかったろう。しかし、気を取り直した意次は、かえって改革の事業を拡大していった。二年前に着手した印旛沼干拓を、本格的に進めていった。蝦夷地開発計画は、意知の死後に始めたものである。さらに全国民を対象とした、本格的な収入源も模索し始めた。
 反田沼派が台頭し、御三家が批判しようとも、幕府内部は田沼派で固めていた。そして、何よりも将軍家治が意次の味方であった。意知の死んだ一年後、意次はさらに一万石の加増になり、五万七千石になった。表面上は、田沼政権はまだまだ安泰にみえた。
 一方、松平定信は、この頃しきりと田沼屋敷を訪問するようになった。意次としても、定信が反田沼派の中心であることは、十分承知していた。何気ない挨拶をする中にも、殺気がみなぎり、両者間の腹の探り合いが続いたものと思われる。定信は、後に、「自分から見れば、誠に敵とも何とも申しようのない盗賊同然の意次へも、日々のように見舞いをして交って、田沼に屈して自分の不如意の中からも金銀を運んで、仇敵に賄賂して、外見から見れば如何にも多欲なる定信であると笑われるのもかまわず‥‥‥」と述べているように、意次への猟官運動を続けた。意次も、そのような定信の魂胆はわかっていたはずだが、天明五年(一七八五)年十二月、定信を「溜間詰」にしてしまった。溜間詰とは、老中と政務を協議したり、将軍に意見を上申できる職であった。奥州の一大名であった定信が、中央政界で活躍できる足場ができた。なぜ意次がこのようなことをしてしまったのかは、大きな疑問とされている。まだ若い定信の力を過少評価していたのか、巨大になってきた反田沼派への妥協だったのか。ともかく、この定信の溜間詰就任から、意次の勢力にかげりが見えてきたのは確かである。この一カ月後に、意次の腹心だった伏見奉行の小堀政方が、悪事露見ということで罷免になった。
 天明六(一七八六)年になった。この春から、将軍家治の身体にむくみが見られるようになり、体調が思わしくなくなった。七月には、関東一円を大洪水が襲い、意次が進めてきた印旛沼の干拓工事も大打撃を受けた。水害の後始末に追われている最中、家治の病気はますます重くなっていった。八月十五日の月次登城では、家治に代わって養子の家斉が群臣の拝謁を受けたことで、城内は家治重病を知りざわめいた。
 意次は頼みとする家治の回復を祈り、毎日家治を見舞った。しかし、病状は重くなる一方であった。あせる意次は、八月十九日、それまでの奥医師に代わり、名医の評判が高い町医者の日向陶庵と若林敬順を登用した。二十日、家治を診察した両医師は、それまでと違う薬を調合した。これを飲んだ家治は、急に容態が悪化した。意次は大きな失態をしてしまった。二十二日から意次も体調を崩し、自宅で静養するようになった。家治の急変は、意次が医師に命じ毒をもったからだという噂が流れた。
 八月二十四日、印旛沼の干拓工事が中止になり、貸金会所の令が廃止になった。意次が不在のうちに、意次が推進してきた改革事業が勝手につぶされてしまった。翌二十五日、家治危篤の情報が意次に入った。急きょ登城した意次は、家治の病室の前で御側衆に行く手を阻まれた。この時、将軍の側近としては、御側御用取次が最も位が高く、常に将軍の側に付いているはずであった。御側御用取次の横田筑後守準松、稲葉越前守正明、本郷大和守泰行は、意次の忠実な腹心である。当然彼らが意次を迎え、直ちに家治の所へ案内すると思っていた意次は、はるかに下役の御側衆が現れ、入室を拒んだことに愕然とした。家治の上意により、意次を通さないという。家治自身が意次に対し、その様なことを言うはずはなかった。強引に通ろうとする意次を、多数の御側衆が取り囲み、刀に手をかけ、実力で阻止しようとしていた。これで、将軍の周辺は、反田沼勢力によって押さえられてしまったことが明白になった。意次は、直ちに下城して自宅にこもった。

意次失脚
 八月二十七日、意次は将軍家治の命により、老中を解任になった。この前後のいきさつは、『徳川十五代記』によると次のようになる。(要旨を口語訳)            
 二十四日 これらのこと(中止になった印旛沼の干拓工事、貸金会所の令)は、皆田沼意次と水野忠友がやったことで、民の心に背くことであると将軍に言う者があった。将軍ははじめてこれを聞き、大いに憤慨した。
  二十五日 病気が軽くなり、田沼意次を退けるように命じた。
  二十六日 病気がまた重くなった。
  二十七日 田沼意次の職を解き、雁の間詰にした。稲葉正明も御側御用取次を解任になった。                              
  これより老中、尾張、紀伊、水戸、御三卿が相談して政治を行う。

 都合よく将軍家治の病気が軽くなったり、重くなったりしている。ともかく意次を退け、御三家、御三卿が政権を握ったことはたしかである。また『徳川十五代記』では、或いは次のように伝えられていると記している。                       
 将軍の死は、実は二十日だったが、秘密にして喪を発表しなかった。故に、田沼、稲葉を解任したのは、将軍の意志ではない。御三家と諸老のしたことである。

 家治があれほど信頼していた意次を解任するはずはない。後者の記述のように、すでに死んでしまった家治の名をかたり政権を奪取する、いわゆる政治クーデターが始まっていたと考えるのが妥当であろう。
 ここで、家治の発病、死去に乗じて、意次を遠ざけたのは御三家、御三卿の勢力であったが、その中心にいたのが、一橋治済だといわれている。治済は松平定信の養子縁組みや、長男家斉の将軍家への養子縁組み等を意次に依頼した。それは実現し、治済は意次に大きな恩があった。また、意次の弟、そして甥が一橋家の家老になっており、田沼家と一橋家は太いパイプで結ばれていたはずだった。それが、土壇場になって裏切り、意次追い落としの中心人物になっていた。
 一橋治済と松平定信は、既に手を握っていた。松平定信は政敵意次に接近し、溜間詰の職を手に入れると、今度は、やはりライバル関係にあった一橋治済に接近してきた。意次と一橋治済の盟友関係を断ち、定信と治済の新連合を築くために、定信はある提案をしてきた。それは、跡取りがなく廃邸寸前の田安家に、一橋治済の子供を養子に迎えたいとのことだった。治済には男子がたくさんおり、長男は将軍家治の養子となり、次期将軍になることが決定していた。さらに、他の子が田安家を継ぐとなれば、願ったりのことである。意次には恩があるが、その利用価値はなくなった。家斉が将軍になった場合、かえって意次は邪魔な存在になる。治済と定信は従兄弟の関係にある。この際、評判の悪くなった意次と手を切り、上り調子の同族の定信と組んだほうが得策と、治済は考えた。(この後、治済の三男斉匡が田安家に養子に入り、廃邸が決まっていた田安家が復活している。治済と定信の密約を裏付けるものである。)
 九月五日、田沼派の中心にいた水野忠友が、養子に迎えていた忠徳(意次の四男意正)を離縁した。これに続いて、田沼と縁のある者は次々と離縁義絶してきた。養子縁組み、嫁入りによって築かれてきた田沼一族が崩壊していった。
 九月八日になって、将軍家治の死が公表され、十月四日に上野寛永寺に埋葬された。まだ正式な将軍宣下はなかったが、家斉の世になった。ただし、家斉はまだ十四歳だったので、実質的には御三家、御三卿の助言がものをいった。特に実父の一橋治済が中心で、おそらく盟友になった松平定信も深くかかわっていたと思える。将軍の上意ということで、田沼派の官僚が次々と解任になっていった。 

十月  新将軍の御側御用取次・田沼意致(意次の甥) 勘定奉行・松本秀持                           
十一月 勘定奉行・赤井忠晶                          

また、意次自身にも十月五日に処分が言い渡されていた。               
・五万七千石のうち、二万石の減封                        
・神田橋御門内の上屋敷と大阪蔵屋敷没収                     
・江戸城への出仕禁止

 意次が老中を解任になり、追って処分が言い渡された理由は、「諸々の悪事露見」という曖昧なものだったという。このころ第一章で述べたように「田沼罪状二十六か条」という、幕府が意次に罪状を言い渡したという宣告文が流布した。それも意知が暗殺されたとき出た「十七か条」同様、反対派が流した偽造文だという説を辻善之助氏をはじめ多くの研究者がとっている。このころ、意次の悪事を述べた落首も乱れ飛んだ。実態は政権奪取を狙った政治クーデターだったので、理由は後からつけられた。意次解任を正統化するための政治宣伝によって、意次の悪評がつくられていった。

最後の抵抗
 意次は六十八歳になっていた。政治生命は完全に絶たれたかに思えたが、それでも意次はまだ踏みとどまっていた。幕府の正式な政治機関である大老・老中組織は、依然田沼派で押さえてあった。また、大奥も田沼派が多かった。一方、御三家、御三卿側も、松平定信を老中にしようと、将軍、大奥、大老等に盛んに働きかけた。しかし、大老、老中らの幕閣や大奥は、定信の老中就任を拒んでいた。この頃、定信も、意次も将軍に自分の立場を述べた文書を提出している。
 定信の意見書は極めて長文で、賄賂を禁ずる事、質素倹約の事、売女屋の事、御家人の風俗矯正の事、その他細かい点にまで渡り、自分の政治に関する意見を述べていた。さらに、意次を批判し、かつて意次を刺し殺そうとまで考えたと言っている。そして、この邪気(意次のこと)を遠ざけた後は、賢良の人(定信のこと)を選ぶようにと、自分を推薦している。
 一方、意次も将軍家斉に、漢文の上奏文を提出している。これは、意次が自分の立場を弁護した唯一の現存する史料である。口語文に直してみたものを次に示す。

      将軍家斉あて 田沼意次上奏文                    源 意次 謹言
 大元帥(将軍)様の御前に意次申し上げます。父意行、吉宗様が将軍家を御相続のとき紀州よりお供し、ことにお目をかけていただき一家をなしました。
 意次がまだ若い折に、吉宗様にお目通し以来、家重様、家治様にお仕えでき、たくさんのご恩を受け、その上老中職につき、禄高も上げていただきました。
 ご厚恩は年月とともに重く、高きこと山の如く、深きこと海の如くでございます。そのため、昼夜力のかぎりご恩に報いるため励みました。他意はございません。
 ひたすら天下のためと、自分のことはかえりみずやってきたことは、天も日月もこれをご覧ください。神も仏も共にお分かりいただけると思います。それなのに、去る天明六年の秋、(将軍家治様)ご病気のとき、急にご機嫌が悪いことを教えてくれた人がございます。しかし、意次は疑われるようなことをした覚えはございません。昨日までご機嫌よくあらせられたのに、急にご機嫌を損ねられられたのは、意次の不運にてぜひもなく自分の愚かなことを恨む外はありません。しかし、一時は疑われても自分に間違いはないのですから、後日申し上げればお分かりいただける時もあろうかと存じて居りましたのに、辞職を勧める者がありました。それゆえ、仕方なく病気を理由に辞職いたしました。
 その時、家治様、少しのご配慮もなく辞職を受理され、かつ謹慎はせずによいと仰せられました。それなのに、親族、縁者はいろいろ知っているであろうに、縁を切り付き合わなくなりました。ただ、家治様は長く将軍でおられましたので、天の神のいつわりのない道理、意次のいつわりのない忠誠を一度は疑っても、いつかは分かって下さると、御時世の長いことを祈って居りましたところ、お亡くなりになりました。意次、胸もはりさけそうで寝食も忘れ数日たち、ついに病気になりました。
 その後、今の将軍様により減俸になりました。何という不幸でしょう。更に何があるか覚悟しなければなりません。老中職にあるときは粉骨砕身して天下のためと務めましたのに、凡人の故いろいろ到らぬことがあったのか、かえってためにならず運のないことを歎いてもしかたがありません。
 かつまた、小さな事でも一人で取計らず相談してから申し上げていましたのに、意次一人のことと思われているのはいかなる災難でしょう。
 どうぞ将軍様、まわりの言うことを耳を傾けられず、忠勤怠りなく、いささかも歎かぬ心にお慈悲をかけられて、すみやかに御廟の参拝、また、当代の将軍様にお目通りさせてください。そして再び親族仲良くなり、私を悪く言う人々に、意次の少しも偽りのないことを知らせ、世間の評判を捨て、何も恨むことなく過ごせますよう心より申し上げます。
  天明七年(一七八七年)五月一五日                                                  源 意次 稽首三拝  印

 意次としては誠心誠意、将軍のため、天下のため働いてきた。それなのに、奉禄を削られ、現在の立場に置かれているのは不本意である。自分をそしり、憎む人々に、意次の誠意を伝え、元通り一同が相和できるようにと、将軍に願っている。 なお、この上奏文を見ると、意次は老中を一方的に解任になったのではなく、辞職を勧める者があったので、仕方なく病気を理由に辞職したとある。意次自身が残した唯一の史料に書かれている事だけに、このほうが真実と思える。意次に辞職を勧めたのが誰かは、これだけでは確定できない。しかし、幕府の正式な最高権力者である老中の意次に、辞職を勧められる人物となると、特別の地位(身分)にある御三家、御三卿か、その意を受けた老中の誰かとしか考えられない。少なくとも、将軍以外からの圧力があり、意次も心ならずも辞職していると明言していることから、この上奏文からは、単なる自己弁護でなく、復権への意欲も感じられる。
 反田沼派としては、意次を解任したものの、定信の老中就任が難行し、政権奪取ができずにいる。ぐずぐずしていると、意次が復活しかねない状態にあった。両派にらみ合いのまま、政治空白が続いていた。
 そのような中、相次ぐ災害と物価高に苦しむ人々が、全国各地で次々と暴動を起こした。五月二十日には、江戸でも打ち壊しが始まった。赤坂、青山から始まり、翌二十一日には芝、高輪に広がり、夜には日本橋、浅草、大伝馬町、横山町の大商家が襲われていった。暴徒の数は増していき、二十二日には、騒動は江戸中に広がった。暴徒は思い思いに集まり、鐘や太鼓を打ち鳴らし、昼夜の分けなく商家を襲い、穀物を大道に引きだし、奪い取っていった。この三日間で、八千軒の商家が壊され、江戸の町は無政府状態となっていた。 この打ち壊しの責任を、なぜか田沼派の御側御用取次の本郷泰行、横田準松がとらされた。御側御用取次は将軍の側近であるので、市政の打ち壊しとは無関係である。それが、将軍家斉の上意により解任された。理由は、打ち壊しの事実を、将軍に伝えなかったからだともいう。将軍家斉の実父である一橋治済が、背後から将軍を動かしたという説もある。
 ともかく、田沼派の御側御用取次の解任によって、政局が動き始めた。意次は将軍とのパイプを失い、将軍の動向を掌握できなくなった。大奥老女の大崎は、尾張家を訪ね、松平定信の老中就任に反対しないと伝えた。そして、六月十九日、松平定信は老中に就任した。しかも、新任でありながら、いきなり最上位の老中首座となった。

寛政の改革
 松平定信は、三十歳の若さで、しかも幕府の役職を何ら務めることなく、いきなり老中首座に就いた。血筋からすれば吉宗の孫であるが、今は一譜代大名である定信が、異例の大抜擢を受けられたのは、将軍の実父である一橋治済や御三家の強力な後押しがあったからである。さらに、九月には御三家の働きかけにより、将軍から「…もっとも同列とも評議は致すべき事に候えども、存じ寄り遠慮なく一ぱいに取り扱い候様…」とのお墨付きを与えられた。すなわち、本来老中の合議制による幕府政治を、非常時であるので、定信一人の考えでやってよいとのことである。田沼派の老中が幕閣には残っていたが、彼らは政権の外に置かれ、定信の独壇場になった。
 十月二日、意次に対する厳しい処罰が下された。
・さらに二万七千石の減封。(残りは一万石でやっと大名を維持できるのみ)
・意次は隠居し、閉門の上謹慎。
・相良城は没収の上、破却。
・家督は孫意明が相続し、陸奥、越後の痩地一万石に異封。
 これで、意次の政治生命は完全に絶たれた。そして、意次が進めてきた改革事業は、ことごとく廃止されていった。人事面でも、意次に登用された勘定奉行、町奉行、諸代官をはじめとする官僚群が一人残らず解任された。中には、勘定組頭の土山孝之のように、公金横領の罪で死罪になる者までいた。また、大奥においても田沼派の老女・大崎をはじめとする数十人に遠島・追放などの処罰が与えられた。
 さらに、翌天明八(一七八八)年三月二日には、一橋治済や御三家の働きかけで、定信は将軍補佐役に就いた。これで、定信は将軍を背負う立場になり、老中に対しても人事権を遠慮なく行使できるようになった。三月二十八日に水野忠友、四月三日には松平康福が解任された。大老井伊直幸は既に自ら辞任していた。田沼派の大老、老中が一掃されると、定信は同士の譜代大名を、次々と老中にしていった。
 天明八(一七八八)年四月四日、松平信明
 寛政元(一七八九)年四月十一日、松平乗完
 寛政二(一七九〇)年四月十六日、本多忠籌
           十一月十六日、戸田氏教 
この定信派の幕閣が、寛政の改革を推し進める原動力になっていった。
 定信らが行なった改革は、田沼政治の否定であった。それは、将軍継承権を奪われたという個人的な恨みもさることながら、政治に対する考え方が意次とは正反対だったからであろう。儒教的な政治をめざした定信は、上下の秩序を何よりも重んじた。政治は聖人君子が行なうもので、意次のような成り上がりが幅をきかせていること自体、我慢ならないことだった。だから幕府の実権を、意次の一派から、名門譜代層へ取り戻し、御三家・御三卿の発言力を高めることが何よりも重要であった。                 また、意次により利をもとめる風潮が蔓延し、町人(商人)の力が増大し、支配者である武士と、勢力の逆転が起こっていることに危機感をもっていた。そこで、商人に借金をするまで生活が困窮し、義気の衰えた武士の勢力を回復するために、文武を奨励した。武については、旗本たちに将軍の前で武術を競わせる「武術上覧の制」を定め、毎年実施することにした。文においては、幕府の学校である湯島の聖堂を拡張工事し、教育重視の方針を示し、さらに学力試験を行ない、優秀者を表彰することにした。士風の退廃を文武の奨励で立て直すという、儒学者の定信らしい方針であるが、「… ぶんぶというて 寝てもいられず」と狂歌に詠まれたように、評判はよくなかった。
 文武の奨励は、精神的な武士の立直しだが、士風の退廃の真の原因は、経済的な困窮である。武士が商人に頭を下げ、借金を重ねているようでは、武士のプライドなどなくなってしまう。実質的な武士(旗本・御家人)救済として、寛政元(一七八九)年九月に棄捐令が出された。その内容は、次の通りである。                   

 旗本・御家人が札差からした借金のうち、
・天明四(一七八九)年以前のものは、すべて帳消しにする。
・それ以後のものは、年利六パーセントに引き下げ、年賦返済にする。
・今後のものは、年利十二パーセントにする。(従来は、十五〜十八パーセント)

 要するに、幕府が借金の踏み倒しを命じたことになる。この棄捐令による損害金額は、八十八店の札差で約一一八万両に達した。一方的な商人の犠牲によって、武士の救済がなされている。商人勢力を優遇し、そこから税を取り、幕府も利を得るという、共存共栄関係をとった意次とは対照的である。もっとも、定信としても、借金の踏み倒しは幕府の「信」を失う恥ずべき行為だということは、十分認識していたはである。それにもかかわらず、あえて棄捐令をだしたのは、商人と武士の勢力の逆転現象を正すことの方を優先したためだという。
 武士の救済とともに、飢饉で荒廃した農村の復興にも力を入れた。当時、農村を捨て江戸に出てしまう農民が激増し、江戸の治安が悪化するとともに、農村人口の減少で耕地は荒れ果てていた。そこで、出稼ぎを禁止するとともに、「旧里帰農奨励令」を出し、江戸に出てきた者に、手当を出して村に帰そうとした。また、たばこ、藍、紅花などの換金農作物(商品作物)の生産を抑圧し、米つくりに専念させた。田沼政治の重商主義的政策に対し、定信は旧態依然の重農主義的政策をとった。
 以上の他に、寛政の改革の政策を列挙すると、次のようになる。
・寛政異学の禁。儒学の中の一派である朱子学を、幕府の正式な学問とし、他を異学とし て圧迫した。公立学校の教科は朱子学のみとし、他学派を習ったものは役人に採用しな かった。これにならって、諸藩も朱子学を藩学とした。これも田沼時代の学問の自由と 対照的な政策である。
・厳しい倹約令を出す。幕府がぜいたく品目を指定し、その製造・販売を禁止した。
・風俗の矯正。華美を禁じ、淫風をおさえる。私娼、女芸者、女髪結い、賭博、銭湯の男 女混浴などの禁止。
・出版の統制。好色本や幕府批判の書などの出版を禁止し、著者や版元を厳しく処罰した。・飢饉対策として、全国的に食料の備蓄を命じた。
・外交、貿易の縮小。毎年実施されていた長崎オランダ商館長の江戸参府を、五年に一回 に変更。清国貿易船の長崎入港を年間十艘に減らした。

どれをみても禁止、統制、削減といった消極政策である。危機的状況になっている幕府の体制を、根本的に改革するようなものとはいえない。それに、儒学を中心とした精神主義が強く、現実の政治において、いつまでも人々がついてくるとも思えない。

定信失脚
 強力な指導力をもって寛政の改革に取り組んできた松平定信だったが、わずか六年で突然老中と将軍補佐役を解任になってしまった。まだ三十六歳であった。
 「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」との狂歌に象徴されるように、あまりの窮屈さに人々が離反していった。
 将軍家斉には「将軍御心得十五か条」を差し出し、名君に仕立てようと何かと口を出し極度に煙たがられた。また、家斉は実父一橋治済に大御所の称号を与え江戸城西の丸に迎えようとしたが、定信はこれに反対して許さなかった。そのため、定信と一橋家の関係も悪化していた。
 朝廷とは尊号問題をめぐり対立していた。光格天皇が実父閑院宮典仁親王に「太上天皇」(上皇のこと)の尊号を贈ろうとし、幕府に働きかけたが、定信は天皇にならなかった者に尊号を与えられないと反対した。朝廷側は、これは光格天皇の孝心を表わしたもので、過去に二つの先例もあることからと、再三にわたり要請してきた。定信は先例自体が間違っていると、これを拒否し続けたばかりか、関係した公家たちを処罰してしまった。このように、何事も杓子定規にとらえ、将軍や天皇の意にまで逆らい続けたことが、定信解任の直接の原因だとされている。
 定信はそれまでにも何度か、老中辞職の願いを出していた。ただ、定信としては本気で辞めるつもりはなく、自分が掌握した権力・権限の確認を将軍に求めたものだと言われている。寛政五(一七九三)年三月、外国船が房総沖に現れたとの報告で、定信は自ら伊豆、相模、房総の海岸巡視に出た。この留守中に、かねてより定信に反感をもっていた大奥が、解任を求めて動き始めたとされている。そして、七月に将軍家斉より、かねてよりの辞職の願いを聞き届けるとの言葉があり、事実上の解任になった。
 この時、将軍家斉は二十歳になっていたが、大奥の働きかけがあったとしても、自らの決断で定信を解任したとは思えない。定信の盟友である他の老中たちということは、さらにありえない。やはり、家斉の実父である一橋治済が、背後で糸を操っていたと考えるのが妥当であろう。
 一橋治済はかつて田沼意次に働きかけ、将軍継承権でライバルにあたる田安家の定信を養子に出し、さらに自分の長男家斉を将軍家治の養子にすることに成功した。次は松平定信と組み、用済みの意次を失脚させた。さらに六年後には、定信を突然解任してしまった。すべては一橋家にとって、あまりにも都合よくいっている。後藤一朗氏はこれを、一橋治済による幕府乗っ取りと推論している。将軍家は長男家斉が継ぎ、田安家は定信の申し出により、三男斉匡が継いだ。この後、次男治国の子(治済の孫)である斉朝が、尾張家を養子相続している。さらに、長男家斉には、男子二八人、女子二七人、計五五人の子がいたが、そのうち斉順が紀伊家、斉明が清水家を養子相続し、峰姫は水戸家に嫁入りしている。結局、一橋治済の子と孫によって、将軍家、御三家、御三卿を独占してしまった。十代将軍家治の跡継ぎだった家基の急死から始まり、一橋以外の御三家、御三卿の跡取りが次々といなくなり、一橋家から養子を迎えるに至った経緯には、陰謀の匂いがする。   結局、意次の政敵とされる定信も、一橋治済にあやつられた人形だった。後藤氏は、意次失脚の真の原因は、「政治の失敗でもなく、世間の悪評判でもなく、もちろん賄賂汚職でもない。超大型の徳川家お家騒動に巻き込まれ、一橋治済の幕府乗っ取りの大野望…大陰謀の前に、あえて葬りさられたものと見るべきである。」としている。
この一連の政変の黒幕は一橋治済である、という後藤氏の推論は、大胆な説ではあるが、最も妥当性があるように思える。刑事事件などでは、それによって最も利益を得る者が真犯人であると言われている。一橋治済はこの政変で、はかりり知れない利益を得ている。
安永三(一七七四)年に定信の養子が決定してから、次期将軍家基急死、家斉の将軍家養子、将軍家治の死、意次失脚、家斉将軍就任、そして寛政五(一七九三)年の定信失脚までの約二十年間にもわたり、あまりにも一橋治済に有利に展開し過ぎている。偶然にこれほどの幸運が連続するはずはなく、後藤氏の説のように、意図的な力が作用していたと考えるべきであろう。

 田沼家の復興
引退させられた意次は、下屋敷で閉門の上謹慎を命じられていた。大幅に減ってしまった田沼家の家臣たちは、家督を継いだ意明のところへ行き、意次のもとには、身の回りの世話をする者たちがわずかに残ったのみであった。閉門のため誰も訪ねてこない屋敷で、日中でも雨戸を閉め、一室にこもりきった意次は、何を考えていたのだろうか。
わずか六百石の小旗本から出発して、一代で五万七千石の大名となり、老中兼側用人という最高権力の座にも就いた。「遅れず、休まず、働かず」という官僚が多い中で、必死に働き続けた。幕府の財政を根本から立て直そうと、大胆な改革事業に次々と取り組んで
きた。やりすぎたのか。やりすぎて人の恨みを買ってしまったのか。ほどほどに出世したところで、当たり障りのない仕事をして目立たずいれば、成り上がり者との陰口や、悪評をまき散らされずに済んだかもしれない。しかし、そんな人生なんて…。
封建の世において、意次の異例の出世と改革事業は、うたかたの夢のようであった。暑い夏の日が続いた。意次は寝込むようになり、うとうと眠ることが多くなった。そして、天明八(一七八八)年七月二四日、意次は七十歳の生涯を閉じた。

意次以後、田沼家がどのような運命をたどったかみていく。
 天明七年(一七八七)年意次隠居の後、孫(意知の長男)の意明が家督を継ぎ、奥州下村に転封になった。意明の領地は陸奥七千石、越後三千石の合わせて一万石だったが、土地が荒廃しており、実質は四、五千石程度だった。転封の翌年七月、意次が七十歳の生涯を閉じたが、その二カ月後に幕府は田沼家に、川普請費用として六万両の上納を命じた。前年の相良城没収の際にも、一万三千両を引き渡しているので、二年間で計七万三千両を田沼家は支出したことになる。この金額は、後藤一朗氏の試算によると約十万石となり、藩の実質的な収入の四、五十年分に相当する。意次死後も、幕府(定信)はこのような追い討ちをかけてきた。
 成人した意明は、織田左近将監の娘と結婚し、大阪へ赴任したが直後に死去している。意明には子がなかったため、次弟意壱が跡を継いだが、四年後に死去している。さらに、末弟意信が跡を継ぐが三年で死去した。そこで、意次の甥意致の四男意定を養子にし、家を相続させたが九カ月で死去した。このように、田沼家では、わずか八年間に五人の跡取りが相次いで亡くなるという不幸に見舞われた。
 そこで、意次の四男の意正が相続した。意正はかつて、老中水野忠友の養子になって忠徳と称していたが、意次失脚直後に離縁になって田沼家に戻っていた。意正は大阪二条城の城番などを経て、文政二年(一八一九年)には若年寄に昇進した。この時の勝手掛老中格は水野忠成だった。忠成は意正が水野忠友の養子を解消された後、その後がまとして養子になったという因縁がある。さらに、文政八(一八二五)年には、将軍家斉のもと水野忠成が老中、意正が側用人になった。かつての田沼時代の田沼・水野コンビが、子の代でも復活した。水野忠成は、「水の(水野)出て もとの田沼に なりにけり」と詠まれたように、田沼意次の再来と言われた。水野は貨幣改鋳を行い、巨額の差益を得て、一時的には赤字財政を建て直した。さらに、田沼時代のような開放政策をとり、文化文政時代の江戸を中心とする繁栄をもたらした。意正はこの政権で、九年間も側用人を勤めている。また、文政六(一八二三)年には、意正の願いがかない三十六年ぶりに旧領相良に帰封し、相良藩を復活した。これで、田沼家の名誉が回復したことになる。
 その後、意正、意留、意尊の三代にわたり相良を治め、幕閣を勤めた。意尊は若年寄となり、元治元(一八六四)年には、水戸天狗党の乱の鎮圧軍総統として幕府方連合軍を指揮し、反乱軍を平定した。明治元(一八六八)年、意尊は上総小久保藩一万石に転封になり、二年後の版籍奉還で藩知事になった。意尊の女婿である望は、子爵となり明治天皇の侍従を勤め、貴族院議員にもなっている。
 以上のように、意次亡き後しばらくは田沼家の不運は続いたが、四男意正相続以後は幕府の要職(若年寄、側用人)に復帰し、明治以降も華族に列している。  

現代の意次像
 江戸時代の史料でみれば、田沼意次は「悪口の言われっぱなし」だった。意次の子孫が旧領に復帰し、幕府の要職に就き、田沼家の復権が実現しても、意次を擁護する動きはなかった。江戸時代の悪評は、明治以降にも引き継がれ、政治腐敗が社会問題になるたび、その名前が引き合いに出されてきた。歴史上の評価を受ける上で、自らの史料がほとんどないための悲劇である。
 それでも、歴史上の通説に疑問をいだき、特に「悪人」とされてきた人物を再評価しようとする動きも、最近盛んになってきた。ここでは、現代の田沼意次を扱った図書や文献にみられる、意次への再評価をみていく。

 大正四年初版の辻善之助『田沼時代』が、現代の田沼意次研究書の起点となる。本書も第一章をはじめ、『田沼時代』から多く引用してきた。そこでは、「世の非難を受ける事柄」が数多く紹介されているが、最後の「結論」では、次のように田沼時代と意次像を総括している。
 辻善之助 『田沼時代』大正四年 より
○田沼時代の総合評価
 「田沼時代は一面においては混沌濁乱の時代であるがまた他の一面においては新気運の勃興せんとする時代で、新文明の光の閃きを認める時代である。もっともその新気運というのは幕府それ自身に取っては下り坂に赴くことを意味するのであって、徳川氏のためには不祥なる次第であるけれども、日本全体の文化から見ればまさに一転変を来そうとする時代であるので、慶すべき現象といわんければならぬと思う。いわばこの時代は新日本の幕開きである。日本最近世史の序幕を成すものである。幕末開国の糸口はこの時代に開かれたのである。明治の文化はこの時代において胚胎したのである。」
○意次の政策の大胆さ
 「殊に田沼の開国主義の如きに至っては、殆ど他に類を見ざる大度胸であって、彼が政治家として大なるゆえんもまたかかる処に存すると思われる。幕末、天保・弘化の間に内藤安房守忠明という人の書いた『内安録』というものの中に、幕末異国船の来た時の方略の事をのべていう事に、(中略)
相良侍従即ち田沼意次であったならば、かかる国歩艱難の時に際しても、思い切った英断を施して先例に拘泥せず、傑出した策を施すであろうと言っているのである。」
○政治家としての意次評
 「思うに、公平なる眼を以て見れば、田沼には政治上の大手腕を具えて居ったという事はいうとも差支なかろうと思う。しかしながら彼には政治上に高遠の理想がなかったという非難はせられても致方がない。言換えて見れば彼には政治上の主義というものがなかった。何でもただ一時の便宜に適するように権宣な政策を執って行ったという事が彼の欠点である。その権宣の政策を執るについて、一方に政治的良心が欠けておったという処から、多少不正を行ったという事は、免すべからざる大なる欠点である。」
 「吉宗の方はその器局が如何にも小である。清らかであってそうして正しき健全な人であるけれども、その政治家としての度量は如何なるものであろうかと思う。これに反して田沼は政治家として大に採るべき点があるだろうと思う。その大手腕家たる処を、彼について大に見てやらんければならぬと思う。」

 以上のように、辻氏は意次のことを、多少の不正を行なったのは欠点であるが、政治家としては、吉宗よりはるかに大で、その政策は大度胸であったと評価している。

 戦後になると、昭和三十年にアメリカでJ・W・ホール『タヌマ・オキツグ』が刊行された。ホール氏は、意次を「近代日本の先駆者」と称し、徳川歴代の政治家中、第一等の人物と評価した。
その後、日本で刊行された図書、文献の意次評を、刊行順でみていく。

 土肥鑑高「田沼意次」『日本と世界の歴史』』第十八卷、昭和四十五年 より    
「基本的には、享保期にうちだされた諸政策の比較的忠実な継承者としての田沼意次を考慮するほうが、適正であるように思える。ただ問題は、享保の路線をいちおう継承しながらも、積極的に商業資本への依存を高めていった点は、看過しえないとことである。そのために田沼の経済政策は、いろいろな非難をうけなければならないはめにおちいっている。事実、賄賂とて無視できない。(中略)その企画性の雄大さは、評価すべきではなかろうか。いずれにせよ、祖法としての鎖国をすら、絶対的なものとしてうけとらず、大胆にも、進歩的企画をすすめていった田沼政権にたいしては、それなりの評価を加えていくべきであろう。」

 江上照彦・松本清張「田沼意次」『日本史探訪』第9集、昭和四十八年 より
 江上氏「権力者でありながら、彼はそんなに格式ばっておらず、いばってもおらず、かなり気安くいろいろな人と交わったということです。
 『甲子夜話』によると‥‥彼の屋敷には日夜多くの人がおしかけてきた。控えの間を見ると、幾十、幾百となく刀掛けが置かれてある。それに掛けた刀が、あたかも海の波を描いたようだったと、こんなふうに言われています。ところで屋敷にはいりますと、ここも押すな押すなの人でこんでいるわけです。そこへ田沼が現れます。普通、これほど偉い権力者が現れると、相当、間隔をおいて、平伏して挨拶するのが普通のしきたりなんですが、彼の場合はそういうことはしようにもできない。まるで芋の子を洗うような中に、割ってはいってすわる。そしてやあやあと、だれかれに声をかけて、挨拶をかわすというぐあいでした。
 で、こんなふうな彼の自由闊達な態度が、政策にも反映して、彼の時代になると、従来何か窒息しそうな感じの社会の空気というものが、きわめて明るいものに変化した。私は少なくとも、彼の時代の前半においては、彼は相当皆に人気があったのだと思います。」
「彼において色の濃いのは、近代色です。彼は、ちょん髷・裃でいるよりも、むしろ背広を着ているほうが似合いそうな、近代的政治家だと、そういう感じがします。」
 松本氏「田沼はね、それほど偉大な男ではないと思うけれども、しかし、あのころの中では、見るべき官僚政治家ではなかったかと思います。(中略)泰平になった徳川家もますます毛並みを尊重する時代になりましたからね。いうなれば官僚制度の強化。官僚制度というのはエリート尊重です。田沼はエリートではない。そういう毛並みのよくない意次を既成のエリート官僚が排斥する。御三家という官僚制度のトップが田沼を排斥する。もし、彼が毛並みがよかったら、もっと仕事もしやすかっただろうし、他の反対もなかっただろうし、したがって、もっと実力も出せたかもしれない。」

杉浦明平「封建の異端」『人物日本の歴史』十五、昭和五十年 より        
 「老中田沼意次はとんでもない異端者だった。というのは、彼は文武だの先王の道だのという武家としての正統な徳目を無視し、もっぱら金の威力を賞賛したのである。(中略)すでに貨幣経済はひろく行き渡っていて、金銀がなくては、幕府自身のやりくりさえつかない時代になっていたのに、今までの為政者たちは、金を儲けることを考えず、もっぱら農業を振興し、農民から貢米を一粒でも多く取り立てることに固執していた。しかし、もう米の生産も発達するどころか、衰退の傾向をみせていたから、幕府の財政も諸大名の経済も楽になるはずがなかった。
田沼は、従来の政策を一変して、鉱山その他の採掘、商業の奨励、耕地の拡大から蝦夷地(北海道)の開発と、思いきった手を打った。それは、ほんとうの意味での幕府政治の改革につながっていた。」
  
 神坂次郎「偉大なる進歩的政治家の運命」歴史街道 一九九一・八 より
 「信じるべき資料によると意次は、細面の美男で、切れ者の官僚にありがちな驕ったところがなく、挙措おだやかで謙虚な人柄であったという。下僚に対しても物腰ひくく、人間関係の達人で、政治家としても当時の、猫の目のように移り変る経済社会を広い視野で眺め、鎖国のまま立ち遅れている日本を開国に転じ、沈滞した経済の活性化をはかろうとしていた。」

 鈴木旭「意次は何を目指し、何と戦ったか」歴史街道 一九九一・八 より      
 「一カ月のうち、二十日間は江戸城内に泊まって仕事をこなし、たまに屋敷に帰ったとしても来客の対応に明け暮れるという毎日で、夜の十時前に就寝の床につくことはなかったと言われている。できる男の周りには人が集まる。当然の成り行きであった。
 と言うと猛烈社員のようなイメージが出てくるが、人を押し退けてまで自己主張するような真似はせず、人当たりがよい。幕閣の会議では上役や先輩の顔を立て、敵に回すようなことは決してしなかった。軽輩の言うことにも耳を傾け、権力にモノを言わせて意見を葬り去るような真似をしない。要するに聞き上手だったのである。
 しかも、理屈だけでは世の中は通らないことも知っていた。口うるさい大奥には付け届けを欠かさず、機嫌取りを忘れない。将軍お気に入りの愛妾には特に念を入れ、息の掛かった奥女中を送って、至れり尽くせりのサービスに努め、情報収集を怠らなかった。
 新参旗本として身を起こした自分の弱点を知っていたからこそ、四方八方に目を配りながら幕政運営にあたった男、それが田沼意次だったのだ。出世風を吹かせて威張り散らすような男ではなかったのである。」

 田沼意次の進歩的政策は、誰もが高く評価している。人間的にも、幕府における実質的最高権力者でありながら、奢ることなく、謙虚で気さくで、気配りがきいた人物と好評である。一方、賄賂政治家の悪評は、避けて通れない意次の汚点となっている。しかし、この悪評に対しても、本書第一章の「悪評の信憑性」で記したように、大石慎三郎氏の研究では、史料の信憑性が否定され、反対派により政治的につくられたものとの見方がでてきている

最後にめざしたもの
 堺屋太一『あるべき明日』によると、江戸時代は、中央集権型の幕府政権と地方分権型の諸藩自治政権を組み合わせた、世界史に珍しい「中央集権型封建体制」がつくられたという。各地方大名の自治によって固定化した安定社会にすると同時に、日本全体は中央集権的な幕府権力によって秩序を保つという二段階の安全装置になっていた。
 ただ、この安定は鎖国下で実現できたもので、黒船の来航により変更を余儀なくされた。二重構造の政治体制では、外国から国の独立を保つことは困難であった。結局、弱体化した中央政権の幕府を倒し、版籍奉還・廃藩置県で大名の藩支配をなくし、中央政府(明治政府)による強力な中央集権体制へと移行した。そして、江戸時代のものをすべて否定し、まったく新しくつくりなおすという明治維新が断行された。
 実は、田沼意次が最後にめざしたのは、幕府による中央集権国家の樹立ではなかったかと考える。意次には、ひたすら将軍のため、幕府のために尽くすという姿勢が強い。それは、微禄の身から老中にまで取り立ててくれた、将軍への忠誠心からきていた。意次の遺書(遺訓)の第一条に「主君にたいする忠節のこと、仮にも忘却なきよう。なかんずく当家においては九代家重公、十代家治公には、比類のない御厚恩を受けているのだから、夢々忘却なきよう。」とあることからもわかる。将軍、幕府のために最高の貢献は何か。それは、幕府の仮想敵国である大名をなくし、幕府の単独支配にすることである。
 意次は財政再建に没頭しているおり、ある重大なことに気づいた。幕府は国全体の政治を取り仕切っているのに、租税は幕府の領地(天領)からしか集めていない。大名の領地の徴税権は、全て大名にある。国を治め、国全体に行政サービスをしている幕府が、国全体から租税収入がないのはおかしい。それが、幕府の財政難の一因でもある。     
 大名の領地を没収することはできないだろうか。そもそも大名とは、特に外様大名は徳川家の敵ではなかったか。名門譜代大名は、かつて徳川家のために外様大名と戦った功績ゆえ、名門と呼ばれている。田沼家の負い目は、大阪夏の陣以降、紀州徳川家に足軽身分で仕えたため、武功が全くないことである。意次が出世すればするほど、そういう陰口が頻繁にささやかれてきた。この負い目が、意次を次々と改革の事業に駆り立てた原動力になってのかもしれない。太平の世では、戦により大名の領地を奪うことはできない。しかし、経済戦争で領地を没収することができるのではないか。新参の田沼家にとって、これに勝る功名手柄はない。
 意次の最後の政策、「貸金会所」には、そのような企みが隠されていた。「貸金会所」の令は、天明六(一七八六)年六月二十九日に発表になった。その内容は、次の通り。

 一、諸国 寺社 山伏
   本山を金十五両とし、以下末寺それぞれ相応の金額
 一、諸国御領 私領(村単位)
   持高一〇〇石につき 銀二五匁
 一、町人(個人別)
   間口一間につき 銀三匁ずつ
 一、御公儀よりも相当の金額
  右の通り 天明六年より五か年の間 毎年出金せしめる
  利息は年八朱とし、貸金会所費を差引いた額を出金者に配当する
  融通を受ける藩は、領分の村高(田畑)を証文に記しおき、滞りし際は徴収すべき年  貢米を充当

 要するに寺社、農民、町人全部に利子付で出金させ、財政困難になっている藩に貸し出すというものである。この発令の二カ月後に、意次は老中を罷免になっており、実質的には構想だけで終わっている。この政策は近代的金融制度(銀行)の先がけとは言われているが、実行がなかったため、あまり評価されていない。しかし、「貸金会所」の令は、前述の大名の領土没収を秘めた究極の政策との解釈ができる。このことは、佐藤雅美『『主殿の税ー田沼意次の経済改革−』で詳しく述べられている。概要は次の通り。

 意次は景気回復のことを考えていた。通貨の供給が増えれば景気は回復する。諸藩は金に苦しんでいる。商人たちが諸藩に金を貸すことができればみんなが楽になり、景気が回復する。しかし、大名には借金のための担保がないので、商人は貸し渋っている。そこで、意次は妙案を思いついた。大名に田畑(領地)を担保として提供させる。返済できなければ担保を流させる。担保流れの田畑(領地)は幕府が取り上げる。表向きは困窮している大名金融とし、幕府が仲介して大阪商人に出資させるという案を作成し、天明五(一七八五)年に発令した。しかし、法令にいかがわしさを感じた商人が貸し出しを渋り、暗礁に乗り上げてしまった。
 大名金融の財源をどうするか。意次は過去の課税に関する書類を調べた。そこで、宝永五(一七〇八)年に、富士山噴火の灰の除去費用として、全国の民百姓に百石あたり二両の国役金(税)を課した例があることを知った。幕府が全国民に公平に課税した例は、この一回きりである。これを見て、意次は「幕府は全国民から税金を徴収する権利を確保しなかった」というミス、すなわち「公儀の変則的課税の矛盾」に気づいた。
 課税の矛盾の修正ー全国民への課税ーと、借金の担保として大名の領土の没収という一石二鳥をねらったのが、「貸金会所」の令だった。ただ、税というと民衆の反発は必至だったので、利子付の出資金(幕府の借金)としたが、返済期日が明示されてないので、実質は税だった。この法案に、勝手掛老中(財政担当)の水野忠友は大反対したが、意次は強引に発令した。意次はあせっていた。
 結局、これが意次の命取りとなった。全国の民百姓は新たな税に一斉に反発した。大名、
御三家、旗本等も、自分の領地の徴税権を侵されたとして猛反発した。一歩間違えば、自分の領地を失ってしまう危険性を感じとっていた。『主殿の税』では、これを機に水野忠友が意次を裏切り、御三家・御三卿(特に一橋治済)と手を組み、意次を失脚させている。
 鈴木旭氏も「意次は何を目指し、何と戦ったか」(『歴史街道』)で、意次がやろうとしていたことは、「将軍を頂点とする徳川幕府が商人団を支配下に収めることによって全国市場を制圧し、都市の支配権を確立することを通して地方大名の領地を侵害=中央集権化しようとしていた」と述べている。

 もし田沼の改革が成功していたら、次のようになっていたのではないだろうか。
 ・藩は廃止され、、幕府を頂点とする中央集権国家になる。
  名目上の君主を天皇、実質上の君主を将軍とし、大名は幕府官僚か貴族となる。   
 ・失業した諸藩の武士と、幕府旗本の一部は、幕府常備軍となり傭兵化する。
 ・重農重商主義をとり、産業を振興し、失業武士を吸収する。            
 ・通貨を一元化し、税は中央政府(幕府)が一括徴収する。
 ・開国し海外との交流を活発化する。
 ・蝦夷地を開拓し、新たな田畑と鉱山を開発し、北方の防衛を固める。

 この内容は、まさに明治維新の先取りである。明治維新と違っているのは、討幕がなく、幕府の手で改革がなされている点である。田沼の改革は、最終的には武士そのものを否定する本格的な大リストラだった。しかし、御三家・御三卿をはじめとする譜代門閥グループや世間は、田沼の改革を葬り去ってしまった。改革の必要性は感じながらも、あまりに急進的なため、時代はまだその改革を許さなかったといってもよい。その後、幕府は本質的な改革はなされぬまま、弱体化し滅んでいった。結局、意次が取り組んだ日本の近代化改革は、百年後の明治維新で実現された。

あとがき

 「世間は、時として軽率である」
(神坂次郎『偉大なる進歩的政治家の運命』より)

 意次の運命を表した、的確な言葉だと思う。意次を直接失脚に導いたのは、御三家、御三卿、譜代門閥層といった、幕府のエリート集団であったが、世間も意次を追い込んでいった。嫡男意知が死んだ時は、人々は同情どころかそれを痛快がり、佐野善左衛門を世直しの英雄として讃えた。失脚後は、蟄居している意次の屋敷に人々が押しかけ、罵声を浴びせて、投石をした。一旦落ち目になった者に、世間の風あたりは厳しい。特に、自分たちと同じ低い身分から成り上がった者に対しては、その嫉妬心も加わり、ことの外厳しくなる。反田沼派が流布した意次の悪評も、真偽を確かめることなどせず、人々はおもしろがって受け入れ、伝えていった。天災と飢饉が相次ぎ、手詰まりになっていた時、困窮する人々の不満のはけ口として、意次の失脚は絶好の「スケープゴード(いけにえ)」であった。まだ、時代は成り上がりを許さなかった。世の中の構造を根本的に変えようとする、本当の意味での改革を理解することができず、それを許さなかった。
「軽率な世間」は、意次失脚当時だけでなく、それからもずっと続き、意次の悪評も引きずられてきた。

 私は田沼町に住んでいる。意次の祖先が開いたという西林寺は、自宅から歩いて一分程度のところにある。西林寺境内には幼稚園があった。私も、三人の子供たちも、その幼稚園に通った。幼稚園の保護者会の役員を務めた時には、園長である西林寺の瀧口住職とも頻繁にお会いする機会があり、いろいろ雑談もした。そこで、田沼家の墓が江戸時代に破壊された話を聞いたことがあった。その時は、何でそこまでして田沼意次との関係を消そうとしたのか疑問には思ったが、そのままになっていた。
平成七年十月、田沼町文化福祉センターで開かれた「マチづくり講演会」を、聴講する機会があった。講師は数々の自治体の振興計画を手がけてきた、「日本ふるさと塾」主宰の萩原茂裕氏だった。自分のふるさとに自信がもてず、好きになれず、「自分が住んでいるマチを隠す人が多い」という。萩原氏は、マチを活性化する(マチづくり)には、文化化(カルチュアー化)することだと話された。文化化とは、「耕し直す」ことであり、イメージを変えることである。そして、田沼町へのヒントとして、萩原氏は「田沼意次」の名を挙げた。

「マチを隠す」…田沼家の墓を破壊する(隠す)…耕し直す(イメージを変える)こと…これらが重なり合って、やがて田沼意次への関心がわき起こってきた。田沼意次のイメージは、決して良いものではない。田沼町と意次のかかわりは、遙か昔の鎌倉時代に遡るとはいえ、従来のイメージもあってか、田沼では江戸時代から現在に至るまで、あえてそれに触れようとはしなかった。しかし、それでは、「軽率な世間」のままで終わってしまうかもしれない。ともかく、意次に関する文献を収集してみて、意次像を私なりに明らかにしてみようと考えた。
巻末に掲載したのが、私が収集できた文献である。この中で中心になるのは、辻善之助著『田沼時代』であろう。そこには、江戸時代の意次批判の史料も多数掲載されており、
現代の意次研究の原点となるものである。意次に関する多くの研究書や小説には、『田沼時代』から引用した部分が多い。本書も骨組みとなる部分は、『田沼時代』に基づいている。そこに、大石慎三郎氏をはじめとする現代の研究者や小説家の説を加えて、比較検討したりした。                                   なお、研究書の中で、特に興味をひかれたのが、後藤一朗著『田沼意次・その虚実』だった。後藤氏(故人)は意次の領地だった相良町在住の、いわゆる在野の意次研究者であった。私は後藤氏の『田沼意次・その虚実』に関し、次のような文を地元栃木県の下野新聞に投稿した。

        『田沼意次 その虚実』後藤一朗著
   田沼意次には賄賂(わいろ)政治家というレッテルが張られている。しかし、それ  は対抗勢力が残した史料による虚実にすぎない。著者は元銀行員で、プロの作家や歴  史家ではない。ただ、意次の領地・静岡県相良町に住む縁か、その冤(えん)罪を晴  らすため、惜しみない情熱を傾けている。
   意次の積極的な行財政改革は評価されているが、賄賂政治の悪評の方が勝り、総合  的にはマイナスのイメージが強い。本書は進歩的な彼の政治の功績を整理し、新史料  を積み上げて従来の悪評を否定していく。
   そして、意次失脚の真の原因は、政治的な失敗や世間の悪評、汚職などではなく、  「一橋家の幕府乗っ取りの陰謀」だと推論する。
  本県の田沼町は、田沼家の発祥の地とされている。その町に住む私としても、俗説に  惑わされず、郷土ゆかりの歴史的人物を再認識していきたいと痛感する一冊だった。
                   (下野新聞・読書欄「読んでます」より)

 私は中学校の社会科の教師であるが、歴史の専門家でなく、研究者などといえるものでもない。田沼意次研究の泣き所は、意次サイドの史料がほとんどないことで、新説を出せるような発見も期待できない。それでも、既存の研究を比較、検討することで、現代における意次像を描くことができるのではないかと考えた。後藤氏が相良発の意次の「耕し直し」を行ったように、私も田沼発の意次像を提起したかった。
最近、田沼町でも、田沼意次を見直す動きがある。平成八年十一月には、町と教育委員会主催の「田沼意次展」も開催されている。本書が田沼意次のつくられた虚像を耕し直し、
その業績が再評価される一助となれば幸いである。

(「あとがき」は平成11年2月時点のもの)


表(田沼意次関係年譜)


  参考文献リスト

○辻善之助 『田沼時代』 岩波文庫 一九八〇年(初版 大正四年)

○大石慎三郎 『田沼意次の時代』 岩波書店  一九九一年

○後藤一郎著 大石慎三郎監修 『田沼意次 その虚実』 清水新書  昭和五十九年
   
○後藤一郎 『今日の相良史話』 相良町教育委員会 昭和五十年

○大石慎三郎 『将軍と側用人の政治』 講談社現代新書 一九九五年

○村上元三 『田沼意次』 講談社 昭和六三年

○佐藤雅美 『主殿の税−田沼意次の経済改革』 講談社文庫  一九九一年

○笹沢佐保 『失脚ー改新派・田沼意次の深謀』 祥伝社  平成八年

○江上照彦 『悲劇の宰相・田沼意次』 教育社 昭和五十七年

○川原崎次郎 『凧あげの歴史−平賀源内と相良凧』 羽衣出版 平成八年

○吉田光邦 『日本を創った人びと21−田沼意次』 平凡社 一九七九年

○藤田 覚 『松平定信』 中央新書 一九九三年

○樋口清之 『お金と日本人』 講談社 一九七九年

○津本陽、童門冬二 『徳川吉宗の人間学』 プレジデント社 一九九五年

○大石慎三郎 『徳川吉宗とその時代』 中央公論 一九八九年

○北島正元編 『徳川将軍列伝』 秋田書店 昭和四十九年

○藤田覚 『松平定信』 中公新書 一九九三年

○『日本全史』 講談社 一九九一年

○『世界大百科事典』平凡社 

○堺屋太一『あるべき明日』PHP研究所 一九九八年 

○『徳川十五代史』 新人物往来社 昭和六十一年

・『日本史探訪』第9集より「田沼意次」松本清張 江上照彦 角川書店 昭和四十八年   
・『人物日本の歴史』13より 江戸の幕閣 「田沼意次」城山三郎
              「松平定信」奈良本辰也  小学館 昭和五十一年

・『人物日本の歴史』15より 「封建の異端」杉浦明平 小学館 昭和五十年

・『日本の歴史』20より 幕藩制の転換  大石慎三郎 小学館 一九七五年

・『日本と世界の歴史』18より 「田沼意次」 土肥鑑高
               「定信の登場」竹内誠 学習研究社  一九七〇年

・『国史大辞典』9より 「田沼意次」 吉川弘文館

・『国史大辞典』6より  佐野氏関係 吉川弘文館

・『教科書にでる人物学習辞典』3より 「田沼意次」 学習研究社  昭和六十一年

・『ジュニア版・日本の歴史』3より  「世直し大明神」 読売新聞社

・『日本の歴史』4より 「賄賂政治がはびこる−田沼之政治」毛利和夫 旺文社

・『日本史展望』9より 「江戸の町人文化」 旺文社 一九八一年

・『田沼町史』第6巻 通史編(上)

・『歴史街道』一九九一年八月より
  「偉大なる進歩的政治家の運命」 神坂次郎
  「不透明な時代を生き抜く知恵」 木村尚三郎
  「幕政諸改革の光と影」 大石慎三郎
  「意次は何を目指し、何と戦ったか」 鈴木旭