『甦る血脈・意次夢想』の ポイント

(論文型歴史小説) 2作品収納



『甦る血脈』

*もし、織田信長と田沼意次の血筋(DNA)を継ぐ者がいて、井伊直弼を通して幕末・明治維新の改革に影響を及ぼしたとしたら。

・幕末。下野国佐野に「若様」と呼ばれる不思議な若者がいた。領主・井伊直弼が佐野領を初巡見したとき、若様と出会う。
三ヶ月後、ペリー率いる黒船が来航し、日本は動乱の時代に入っていった。

・直弼の側近・高橋吾郎を通して、若様の言葉が直弼に伝えられる。「彦根の鈍牛」と呼ばれた直弼は井伊家伝統の「赤鬼」と化した。背後で若様が操っているようだった。

・大老になった直弼は、急進的な改革を進める。抵抗勢力を徹底して排除するとともに、アメリカに使節団を派遣するなど新時代への布石も打っていく。

・やがて、直弼も改革の夢半ばで桜田門外で死す。若様も火事で取り残された幼子を救った後、炎の中に消えていった。

・その後、二人を見続けた高橋吾郎が若様の正体を探り、改革者の血脈の秘密を知る。・(佐野が主要舞台になっている。)

本文

  プロローグ

山の上の巨大な城が燃えている。
 天下統一をめざした城の主は、京において部下の謀反により炎の中で命を落とした。
 政敵を情け容赦なく葬り去り、既成の権威を破壊してきた城の主を、人々は魔性のものと恐れてきた。
 権力の象徴だった城が燃え落ちると、新たな時代へ入っていった。後継者は、いとも容易く天下を手に入れ、新しい体制をつくることができた。

城が壊されていく。
 遠州灘に面した風光明媚な地にある、築後八年しか経っていない美しい城が消えた。
 この城の主は、政治を私物化し、前例を無視した勝手な政策を実施したり、賄賂をはびこらせ世を堕落させたという罪で失脚した。
 政権を奪った者は、城を徹底的に破壊し土の中に埋没させてしまうことで、前任者の政治を封じ込めた証にしようとした。

 雪の中をさまよい歩く二つの影。武家風の父と幼子。
 夜。村はずれの阿弥陀堂の中、二人はわずかな火に身を寄せ合う。父は子に語りかける。
「お前は世に出て、その才を生かすのじゃ」
 昼。降りしきる雪。父は道を急ぎ、幼子は必死に後を追う。


  一 鋼鉄の魔王

嘉永六年(一八五三)六月。
 近江国彦根藩主・井伊直弼は参勤交代で、領地の彦根に帰ってきた。後を追うようにアメリカ艦隊来航の知らせが江戸から届いた。
「やはり来てしまったか」
 天守閣から琵琶湖を見ていた直弼は、そうつぶやくと大きな目をさらに見開いた。目の前に広がる湖面は所々に小舟が浮かびいつものように穏やかだが、江戸の海では今ごろ大騒ぎになっているに違いない。
 アメリカの艦隊が来ることは、一年前に長崎のオランダ商館長から知らされていた。提督の名前が、マシュー・カルブレイス・ペリーだということまで分かっている。
 幕府は彦根、川越、会津、忍の四藩に海岸線の防備にあたるように命じていたが、具体的にどう対応するか何の手も打ってなかった。
 開国を要求してくる外国の特使の数は年ごとに増し、その対応に苦慮しながらも、外国船の来航自体には麻痺している。それまでの七十五年間に、百十七件の来航があったが、切り抜けてきた。ペリーも今までやって来た方法を駆使すれば、何とかなると思っていた。
 オランダからは、ペリーは多数の軍艦で押しかけ、強硬に開国を迫るだろうと伝えられていた。今までの交渉相手よりは手強いと覚悟していたが、想像以上のようだ。艦隊は彦根藩が担当する浦賀沖にいる。次々ともたらされる知らせに直弼は苛立った。
 
 六月三日のことだ。相模国(神奈川県)三浦半島先端にある城ヶ島の沖合で、漁師たちはとてつもないものに遭遇した。その日は、朝から霧が立ちこめていた。衝突を避けるため、漁船は一定の間隔をおいて漁をしていたが、今日はさっぱりだ。
「霧に迷って鯨がやってきて、浜にでも乗り上げてくれたら大儲けだ」
 漁師たちは冗談を言った。すると霧の向こうから、異様な物音がしてきたかと思うと、突然黒い物が現れた。
「うわぁ。鯨の化け物だ」
 小さな漁船の間をもの凄い速さで通り過ぎていく物体は、鯨どころの大きさではなかった。まるで山が動いているようだ。やがて、それが船だと分かった。海面から甲板までの高さは三間(約五メートル)はある。船の側面には巨大な水車があり、高速で回転している。これは外国船に間違いないと、漁師たちは判断した。
 外国船が現れたという漁師からの知らせが、浦賀の彦根藩の警備担当者に届いた。彦根藩は、直ちに浦賀奉行所に報告した。この一報により、日本中がついに「泰平の眠り」から覚まされ、幕末の大騒動になっていった。
アメリカ艦隊は四隻で、江戸湾入り口の浦賀沖に碇を降ろした。
真っ黒で大きな船体は黒い煙を吹き上げながら、猛烈な速さで走った。人々はこれを黒船と呼んだ。警備のため出動した小さな木造船は、黒船が起こした大波によって上下に揺れた。船に不慣れな日本の武士たちは、次々と船酔いになり、警備どころではなかった。担当の彦根、川越、会津、忍の四藩とも海に面していない。
「長崎にまわられよ。そこで交渉に応じる。これが我国の決まりで、今まで外国船はみなそうしてきた」
浦賀奉行所の役人は、オランダ語の通訳を通して伝えた。アメリカ側は、ここで上陸して大統領の国書を日本国の皇帝か、しかるべき身分の全権代理人に直接手渡すのが役目だと譲らなかった。そして、もし要求が聞き届けられないなら、武力を使ってでも上陸すると脅してきた。黒船は時折、空砲を撃って威嚇した。

「まるで巨大な龍か、鯨の化け物だ。しかも鋼鉄の鎧をまとっているようだ」
「生き血を飲むという夷人たちを、魔王が引き連れてきた」 
 幕府は風説による混乱を押さえようとしたが、瓦版は黒船の恐怖をあおり立てた。荒唐無稽で恐ろしいほど、瓦版はよく売れる。
 ペリーの似顔絵もいろいろ出回った。あるものは天狗のようで、あるものは鍾馗様のよう描かれていた。どれをとっても、髭面の恐ろしい顔をしている。まだ見ぬペリーは、日本人には西洋の魔王と思われた。
上陸してきたらどんな目に遭わされるか分からないと、恐怖に陥った沿岸の者たちは荷物をまとめ、山奥や江戸へと逃げた。江戸に入ってくる難民を見て驚いた江戸町民の中には、さらに江戸から逃げ出す者もいた。噂が噂を呼び、船の数が増えていき、沖合には二百隻の黒船が待機しているとまで膨れあがった。
 一方、逃げる住民の流れとは反対に、黒船を見ようと浦賀に集まってくる者たちもいた。
 松代藩士佐久間象山は、丘の上から望遠鏡で黒船を眺め、塾の弟子たちに解説していた。その中には、長州藩の吉田寅次郎(松陰)や長岡藩の小林虎三郎らがいる。弟子たちは師の説明を筆記した。浦賀沖に縦一列に並ぶ黒船のうち、大きい二隻は蒸気船で、もう二隻は帆船。蒸気船の全長は四十四間(約八十メートル)はある。日本の千石船の倍以上だ。ずらりと並んだ大砲は、一艦あたり二十四門ないし二十八門。射程距離は長く、あの位置からでも楽々陸地に届く。一方、我方の旧式大砲では、とうてい敵艦まで届かない。たった四隻でも江戸湾一帯の町を火の海にすることができる。残念だが、今の日本の防衛力ではこれを防ぐことは不可能であると、象山は言い切った。
「そら見たことか。わしの言うとおり海岸の防備を固めておかなかったから、こうなるのじゃ」
 象山はかつて老中だった藩主真田幸貫に抜擢され、海防掛顧問を務めたことがあった。幸貫亡き後も、幕府に海防や外国船対策に関し強硬な意見書を出してきたが、採用されないうちにこの事態となった。国にとっては一大事だが、それを指摘してきた象山の自尊心を満足させるには十分だった。
 佐久間象山は漢学者だったが、藩主の命により洋学を学び、たちまち自称日本一の洋学者、兵学者になった。長身で眼光鋭く、口髭と長いあご髭を蓄えて他人を威圧する風貌をしている。大言壮語の変わり者で、自藩では敬遠されていたが、江戸で開いた私塾には各藩から入門者が相次いだ。
 「象山門下の二虎」と呼ばれた逸材が吉田寅次郎と小林虎三郎だった。同年齢で生真面目な青年たちは、性格的には正反対の象山を師として慕っていた。学問においては、相性でなく能力が全てである。吉田寅次郎(松陰)は兄への手紙の中で、「象山先生は日本一の豪傑」と高く評価している。人の長所を見抜くことに定評のある松陰がそう言うくらいだから、象山は大人物に違いない。師象山と見た黒船は、松陰に衝撃を与えた。古来の兵法では役に立たない。
 象山もまた、直接黒船を見たことにより海防の考えを転換した。
「砲台が築いてあるだけではだめだ。自在に動き回れる海軍が必要となる」
 弟子で義兄にもあたる幕臣の勝隣太郎に、象山は自分の号だった「海舟」を与えて、海軍建設を託した。
 土佐藩の坂本竜馬は、藩の持ち場の品川を抜けだし浦賀まで行き、黒船を見て度肝を抜かれた。
「あの様な船を自分も持ちたい」と海への思いを描いた。
「海の向こう側には鬼がいるかもしれないが、とてつもない宝もある。その宝を手に入れ、国を救うのじゃ」
 しかし、竜馬は最下級武士である。藩という枠の中にいては自分はどうすることもできない。広い海へ飛び出し、縦横無尽に動き回りたい。黒船来航は、竜馬の将来にも決定的な影響をもたらした。

六月六日。艦隊の中の一隻、蒸気船のミシシッピ号が黒煙を上げて、江戸湾の中へ入り込んでいった。止めようと日本側の小舟が追いかけるが、全く付いていけない。やがてミシシッピ号は湾内の深さを測量して、悠々と浦賀に戻った。これは艦隊が江戸湾に侵入し、江戸城や町を砲撃するための準備に違いないと日本側は怯えた。
 もう限界だ。国書を受け取るだけならいいだろう。
 六月八日、浦賀奉行所与力・香山栄左衛門が旗艦のサスケハナ号を訪れ、ペリーの副官に久里浜で国書を受け取ることを伝えた。ペリーは日本側の使者と自ら会うことはしなかった。大統領の全権委任状をもっている以上、威厳を保つため同格の相手でなければ会わないと宣言していた。日本側は、まだ誰もペリーの顔を見ていない。それが恐怖を生じさせた。意図的な外交戦術だ。
 九日には、ついにペリーが上陸し、日本人の前にその姿を現すことになった。

 井伊直弼は彦根城の天守閣から、目の前に広がる琵琶湖を眺めていた。まさか、自分が藩主として、ここに立つとは思いもよらなかった。
 直弼は彦根藩十一代藩主直中の十四男として生まれた。父が五十歳のときできた子で、母親は側室の「お富の方」。直弼が五歳の時、母親が亡くなり、十七歳で父親が亡くなった。彦根藩は二十一歳年上の兄の直亮が継いだ。
 直弼は城から北屋敷に移され、三百俵の宛がい扶持で部屋住みの身となった。三百俵では下級藩士並である。爺とわずかな奉公人だけの屋敷での暮らしが、延々と十年以上続いた。誰からも忘れられ、このまま埋もれてしまうのかと思われた。それが、突然兄の跡を継ぐこととなった。あとは遅咲きの藩主として彦根藩において善政を行えば、最終的には幸福な人生だったと言えるだろう。

 突然、大きな水音がして湖面が割れ、真っ黒な大船が浮かび上がってきた。一つ、二つ…四つ。縦一列に並んだ船の大砲が一斉に火を噴く。湖と空一面が真っ赤に染まり、大勢の人の悲鳴が聞こえた。
 直弼は我に返った。白昼夢を見たのか。
 そうだ、自分には彦根藩主というだけでなく、幕府創立以来の譜代大名筆頭の家柄として、将軍を守り幕府政治を補佐する役目もあったのだ。今は遠い彦根にいるが、江戸から続々届く情報を整理し、いつでも行動に移れるようにしておかなければならない。
 井伊家は京に隣接する彦根において、代々京都守護の役割を受け持っていた。朝廷を守護するとともに、幕府を守る役目もあった。もし幕府を倒そうとする勢力が台頭した場合、朝廷と結びつく可能性が高い。京の側にあって倒幕勢力への押さえとなるのが、徳川軍団最強の井伊家だという誇りがあった。もし井伊家が衰えれば、それは幕府の危機でもある。
 ところが、兄直亮が藩主のとき、京都守護から相模の海岸警備へと役割が変更された。相次ぐ外国船の来航で、海岸警備は重要な役割となっていたが、京都守護を誇りとする彦根藩の士気が低下していたのも確かである。琵琶湖があるとはいえ、近江国は内陸で海などない。直弼の代になってから、二千名の兵を訓練してきたが、あくまでも陸戦隊である。海軍相手の戦い方などわからない。
 同じく警備を命じられている川越、会津、忍の各藩も内陸部にある。このようなところにも幕府の危機意識の低さがみられる。しかし、今更愚痴を言っても始まらない。新しい時代における対応策を練らなくてはならない。激動の中に自分も身を投じることになるだろうと、覚悟を決めた。
 ただ、黒船来航は当然気がかりだったが、もう一つ頭から離れないことがある。三ヶ月ほど前、下野国佐野領を巡見した時に出会った若者のことだ。あの者は今回のことを予言した。幕閣の一部しか知らないはずのアメリカ艦隊来航という極秘事項を知っていた。そして、我々が想像もしなかったペリーの恐ろしさと国内の大混乱を。
直弼は佐野での出来事を思い返した。


  二  里山の貴公子

嘉永六年(一八五三)三月、直弼は日光参拝の帰り、下野国安蘇郡の佐野領を五日間にわたり巡見した。佐野は藤原秀郷の流れをくむ戦国大名佐野家の領地だったが、慶長十九年(一六一四)の佐野家改易後は幕府直轄地となった。三万九千石の領地は、いくつかの大名や旗本の領地に分割され、井伊家には最大の一万八千石が与えられている。
直弼は彦根の領内をよく巡見した。それは堅苦しいものでなく、農家の中にも気軽に入り話をすることもよくあった。領民や下級藩士の声にも耳を傾けるので、「ご苦労なさった期間が長かっただけに、下々のことまで気にかけてくださる」と、早くから名君の評判がたっていた。三十六歳で彦根藩主となり、三年が経過したばかりだった。
 飛び地の佐野領は、今回が初めての巡見となる。事前に勤労、勤勉な者、親孝行や奇特な行いのあった者、八十歳以上の者など調べておくよう申し渡してあった。巡見のおりに表彰するためである。新領主がどのような人物なのか緊張していた佐野領の役人や領民は、この申し渡しを聞いて安堵した。

三月二十三日。栃木宿をたった一行三二三名は例幣使街道を通り、佐野領内の富士村に入った。昨夜来の雨降りだった。
 佐野領の役人四十名が出迎え同行した。郷土史に詳しいという佐野代官配下の落合幸吉が、説明役となった。行く先々で落合が名所旧跡などの故事来歴を伝えてくれたおかげで、馴染みの薄かった佐野領のことを短期間のうちに知ることができた。
最初の休憩地は、富士村の泉応院で、唐沢山の麓にあった。かつて山頂には佐野家の唐沢山城があり、上杉謙信が攻めても落とすことができなかったという。城からは関東平野が一望できる。徳川の天下になった頃、山頂から江戸の火事が見えたので、早々に家康に見舞いの使者を送ったところ、逆に警戒され平地の春日岡へ城を移すように命じられた。そして、城の完成間際に佐野家は改易になり、この要地は幕府に没収された。
泉応院での休憩を終えた一行は、犬伏宿本陣まで行き、昼食をとった。村々に負担をかけないようにと、食事は一汁一菜で酒は不要、昼は握り飯でよいと申し渡されていた。
 犬伏宿本陣からは、初日の宿泊地である天明宿本陣に向かう予定だったが、直弼の強い要望で、回り道して堀米村の天応寺を参拝することになった。落合幸吉が、この寺には井伊家二代目藩主・直孝、三代目藩主・直澄の墓碑があると伝えてきたからである。
「わしが井伊家の跡継ぎに決まり上様にお目見えしたおり、直政、直孝以来の家柄を傷つけぬようにとお言葉を頂戴した。そのご先祖様の墓碑が、ここにもあろうとは思わなかった。何としてもお参りしたい」
直弼は感激して天応寺参拝を命じた。「直政、直孝以来の家柄」とは、井伊家代々の藩主がその名に恥じぬようにと肝に銘じてきた誇りである。
 徳川家の譜代大名・彦根藩の初代藩主は直政だが、かつて井伊家は今川家に属していた。直政の曾祖父である直宗の妹は、今川一族の関口刑部と結婚し、後に徳川家康の正妻になった築山殿を産んでいる。家康と築山殿の間には長男信康が生まれた。井伊家と今川家の血も引く家康の妻と長男は、この後悲劇的な最期を遂げた。
 直政の祖父直盛は、桶狭間の戦いで今川義元とともに討死している。そして、父の直親は、今川家から離反した家康と通じていると疑いをかけられ、今川義元の息子氏真に攻められ討死した。幼くして父を失った虎松(直政)は、今川の目を逃れて流浪した。その直政を「わしのために不幸な目に遭わしてしまった」と、家康は暖かく迎い入れた。そして、井伊家発祥の地である井伊谷に二千石の領地を与え、井伊家を復活させた。
 井伊直政は十六歳の初陣で手柄を立てて以来、家康の側に仕えた。本能寺の変の後、家康が堺から三河までわずかな供に守られ逃避行した際、服部半蔵が案内したことは有名だが、直政も一行の中にいる。やがて、滅びた武田家の家臣を吸収して、武田騎馬軍団の赤揃えを採用した。以後は、鎧、旗指物が赤一色で統一された井伊軍団が先鋒となり、敵陣を突き崩し、「赤鬼」と恐れられた。関ヶ原の戦いでも井伊直政が、先鋒に予定されていた福島正則を出し抜き、西軍に突撃し戦いの火ぶたをきっている。家康の直政に対する信頼は絶大で、井伊、本多、酒井、榊原の徳川四天王の筆頭とされ、徳川軍団の先鋒は井伊家と定められた。
二代目井伊直孝は、大阪夏の陣で先頭をきって大阪城内に攻め込み、戦功を上げた。禄高もどんどん上がり、彦根三十五万石として譜代大名の筆頭とされた。家康亡き後は秀忠、家光、家綱の三代にわたり、老中たちより上位におかれ幕政をみた。佐野領が井伊家に組み入れられたのは、この二代目直孝のときである。
幕府における井伊家の地位を確立した直孝らが、この地に祀られている。天応寺参拝を終えた直弼は、清々しい気持ちで午後の視察を行い、最初の宿泊地である天明宿本陣に入った。春の雨はすっかり上がっていた。

 二日目は天明宿本陣を出て、殿町通りを北上し田沼方面に向かった。今日は細長い佐野領の奥まで行く最長の行程である。直弼は駕籠の戸を開け、外の様子を見ていた。
 吉水村に入ると、道の左手奥に高い木々に覆われた小高い丘があった。鳥居の一部が見えていることから、神社らしい。落合に確認すると、田原八幡宮といって藤原秀郷が祀られているという。
 井伊家も藤原氏の流れをくんでいる。藤原秀郷公といえば、平将門征伐で名をあげ、子孫は板東の有力武将や、奥州藤原氏になっており、武家となった藤原氏の中では抜きん出た存在だ。平安時代には秀郷が就任した鎮守府将軍のほうが、臨時職の征夷大将軍より上と見られていた。秀郷の子孫で、出家して歌人となった西行が鎌倉に立ち寄った折、源頼朝が手厚くもてなし、秀郷流の武芸故実を尋ねたという逸話もある。秀郷こそ勇猛な板東武者の租といえる。
 直弼は駕籠から出て、田原八幡宮まで自ら歩いて行って参拝した。土が高く盛られ古墳のようになっており、周りを木が覆い神秘的な雰囲気を漂わせていた。
「昨日の天応寺といい、今日の秀郷公の社といい、思わぬ巡り会いがあるものじゃ。何かのお導きに違いない。これからも楽しみだ」
直弼は時おり駕籠から出ては、周りの景色を眺め、しばらく歩いたりした。
「先を急ぎませんと」と側役が促しても、直弼は「よい、よい」と気に留めずゆっくりと行列を進めた。
 雨上がりの春の日差しは眩しく、畑の麦は青々と輝き、土の臭いがする。風は心地よく、花の香りを運んできた。雲雀の鳴き声が聞こえ、遠くには、数日前に訪れた日光の山々が見える。
「わが領内にこの様にのどかで、美しい場所があったとは」
江戸詰めの続いた直弼は久しぶりに緊張感から解放されていた。佐野領の視察を終え江戸に戻ると、すぐに懐かしい彦根へ帰ることになっている。当初、頻繁に駕籠を出る直弼を心配していた警護の者たちも、このような里で直弼に危害を加える者などいるはずはないと気を緩めた。
直弼は畑の端に座り頭を下げている農夫に気づき、いつものように気軽に声をかけた。
「どうじゃ作物の出来は」
農夫は突然の問いかけに驚き、さらに頭を低くして答えた。
「はい。お陰様で、このあたりは水が良いので、米も、その他の作物もよく育ちます」
「年貢は重くはないか」
「いえ、決して。井伊様のご領地はずっと四公六民が続き、どこよりも軽いと村の者は皆ありがたがく思っております。井伊様がご領主で、幸せでございます」
「嬉しいことを言ってくれるのう。まさか、わしを喜ばせるために誰ぞに雇われた役者ではないだろうな」
 直弼は大きな目を見開き、供の者たちをじろりと見渡した。農夫は畑の土に頭をこすり付け、身体を固くした。
「殿、とんでもございません」
側役があわてて言った。
「ははは。冗談じゃ冗談じゃ。ところで、その方の名は何と申す」
「はい。吉水村の峰助です」
「峰助、仕事を止めさせた上、余計な手間をとらせて済まなかった。行列は長いゆえ、すぐに仕事に戻ってもかまわぬぞ」
 そう言うと直弼は、大きな体を屈めて急いで駕籠に乗り込んだ。農夫は殿様から自分の名前を呼ばれたことで、感動して肩をふるわせていた。供の者たちも、このような主君を好ましく思った。
「若は誰にでも気を使い過ぎます。お優し過ぎます。今までと違って、藩主になられてからもそれでは、周りから軽く見られます。ご自身も気が疲れ、身が持ちませんぞ」
 跡継ぎとなり、彦根から江戸に出る際、ずっと親代わりに世話をしてくれた爺にこう言われたことがある。しかし、持って生まれた性分と長い部屋住みの苦労が身に染みついており、気性は容易には変わらない。このままでよいと直弼も思っている。
「お発ち」
田原八幡宮参拝や、農夫との会話などで思わぬ時間を費やしてしまったので、一行は先を急いだ。領地となっている村はすべて通ることになっている。
 吉水村、栃本村を経由し、上多田村まで進み、名主宅で小休止。そこから折り返し、山越の雷電神社の前を通り、栃本村の本光寺で昼食をとった。
 本光寺は、かつての領主である佐野家が創建した寺で、山門には「後柏原天皇勅願所」との札がある。ここには佐野家代々の藩主が奉られている。最後の藩主となった信吉の墓もあった。信吉は宇和島藩主富田知信の五男で、佐野家に男子が絶えたため、豊臣秀吉の命によって養子となった。富田家は秀吉に近い大名だったため、徳川の世になってからは冷遇され、兄・富田信高の罪の連帯責任によって佐野家も改易になってしまった。後に名誉回復し、信吉の子は旗本・佐野家として復活ている。いわば無実の罪により、佐野家は改易になり、その領地の一部が井伊家に与えられた。井伊家も初代直政の父が、謂われなき疑いで今川家によって死に追いやられた過去がある。直弼は墓地の方に向かって、そっと手を合わせた。
本光寺を出た一行は道を南下した後、右折した。ほどなく一瓶塚稲荷の大鳥居が見えてきた。このあたりでは一番大きい神社である。その前で直弼は駕籠を止めさせ外に出た。信心深い直弼であったが、「神仏は敬うもので、願い事をするものではない」という考えである。自ら努力することで、天命が下れば願いが成就する。天命がなければ、それまでのことと割り切っていた。だから十七歳から三十二歳まで、埋木舎と名付けた小さな屋敷に籠もり、ひたすら自分を鍛錬することに集中した。彦根藩三十五万石の藩主になれたのも天命だと考えている。
井伊家は佐野領十五ヶ村を支配していたが、他の大名、旗本、寺社の領地と複雑に入り組んでいる。一瓶塚稲荷のある田沼村は旗本領だったので、遠慮して鳥居の前で参拝することにした。石畳の参道の先には石段があり、その先に社の屋根が見えていた。
 手を合わせ拝んだ後、顔を上げると、石段の上に人影が見えた。白い衣装だったので神社の者かと思ったが、よく見ると武家装束だ。若侍と見て取れるが、はっと息をのむような美貌の持ち主で、その周りは輝いてるように見えた。まさか神の化身か。
若者がいたのは、ほんのわずかな間だった。身をひるがえすと神社の方へ向かい、視界から消えていった。直弼の脳裏には、その印象が強烈に残った。
「高橋はおるか」
 直弼の呼びかけに供回りの行列の中から、長身の侍が現れた。
「今の若者のことを調べよ」
「承知いたしました」
 高橋と呼ばれた侍は、素早い身のこなしで行列から離れていった。

 一行は田沼村を抜けると、戸奈良村を通り、山形村名主の大森宅で小休止した。山形村には「御所の入り」という場所があるという。御所とは天皇の居所のことだ。地名に興味をもった直弼は、説明役の落合幸吉を呼び直接由来を尋ねた。
「あくまでも伝説でございます。鎌倉幕府滅亡後の建武の世の頃、後醍醐天皇の皇子である護良親王が足利尊氏の目を逃れ、この地に一時隠れ住んだと言われています。その場所が、いつしか御所の入りと呼ばれるようになりました。なお、親王は捕らえられ、鎌倉に幽閉の後殺害されましたが、親王の子供を宿した女子がいました。密かに産まれた親王の子供の子孫は、今でも名を伏せ、どこかに隠れ住んでいると言われています」
落合は簡潔に説明した。
「おそれ多い話じゃな。それが事実だとすると、何とお気の毒なことか」
 世の表舞台に堂々と出られず、埋木舎という小さな屋敷に籠もっていた自分の境遇と重ね合わせると胸が痛んだ。
 大森宅を出ると、自領の下彦間村に入った。右手には山が迫り、左手には彦間川が流れ、上り道が続く。名主岩下宅で休息をとり、さらに北上すると川向こうの高台に二日目の宿泊地となる下彦間村名主齊藤利七宅があった。直弼と側近は橋を渡り名主宅へ入り、供の者たちは付近の農家に分宿した。
名主宅で直弼は、佐野代官を立ち合わせ、近隣の名主などからの請願を受け付けた。そして、できる限り願いをかなえるよう対処していった。悪習を改めるにためらうことはないと即決して、代官に命じたものもある。巡見の随所でみせる配慮だけでなく、この領内政治により佐野領民は井伊直弼に心服するようになった。
 請願の処理を終え遅い夕食をとると、ようやく一息つけた。台所の片付けを終えた名主と使用人らが離れの蔵に引き揚げると、母屋は急に静かになった。部屋には直弼と二人の小姓だけだ。
 その時、「高橋様がお戻りになりました」と警護の者が告げに来た。高橋吾郎は二十代半ばで、直弼直属の側近だった。肩書きは用人兼右筆(書記)だが、直弼の特命で情報を集めるのが真の役目である。直弼は人払いして、高橋と二人になった。
 高橋は昼間神社で見た若者について、村人から聞いた話を直弼に伝えた。概略は次のようだった。

 若者は一瓶塚稲荷の裏手にある西林寺に住んでいる。前住職のとき浪人風の父子がやってきた。父はすぐに死去したが、住職は子供を大切に育てた。成長するにしたがい、彼は神がかり的な面を見せるようになった。ある村人は「とても恐ろしい方だ」と言い、別の者は「こんな優しい方はいない」と言う。恐怖と畏敬の念をもち、村人はいつの間にか「若様」と呼ぶようになった。
 西林寺も訪ねたが、住職は遠方の檀家の所へ出かけており、留守番の寺男だけがいた。その男が言うには、若者は幾日も部屋に籠もり書物を読んでいるかと思うと、突然姿が見えなくなり何日も戻らないことも多いという。寺に住み込んでいる寺男も「若様」という呼び名しか知らず、素性はよく分からない。

「若様か。この地にそのような高貴な方がいらしたとはな」
 高橋の報告を聞くと、直弼がめずらしく皮肉を込めて言った。領主をさしおいて、村人が「若様」と呼んでいる者がいることが気に障っていた。
「どこにも風変わりな者はいるものです。お気にかけることはないと思いますが」
 高橋がそう言った時、障子戸の外に人の気配がした。
「誰か」との声と同時に、障子が開いた。白い服が薄暗い廊下に浮かび上がって見えた。あの若者だ。
 若者は部屋に入って来ると、後ろ手で障子を閉め、その場に正座して無言でお辞儀をした。一瞬の間のことだった。武家装束だが、刀は差してない。高橋は素早く直弼の前に移り、片膝ついて刀の柄に手をかけた。
 若者が顔を上げた。行燈の明かりに照らし出されたその容姿を見て、直弼も高橋も息を呑んだ。白い装束は輝き、面長の顔は透き通ったように白い。鼻筋が通り、切れ長の目は澄み切っていた。その美貌と凛とした気配はこの世の人間とは思えない程だ。公家風の貴公子でありながら、武家の凛々しさが漂っている。
「何用か」
 言葉を失っていた高橋が気を取り直し、語気を強めて問いかけた。
「今日は請願の日とのこと。私も申したいことがあり参りました」
 若者の声は小さかったが、頭の中にしみ込んでくるような透き通った響きがあった。
「請願の時は過ぎた。それより殿の御前に直に現れるとは無礼であろう。厳しい警護の中、どうやってここへ入って来た」
 高橋が問いつめた。
「この地はどこも我が庭、我が家。たやすいことです」
 口調は丁寧だが、威厳に満ちており、まるで自分がこの地の主のようだった。
「かまわぬ。話を聞こう」
 直弼が言った。高橋は黙礼すると身を引き、直弼と若者が直接対面する形になった。二人の間は畳を縦に一枚分あり、若者は畳の縁の外側に正座している。礼儀は心得ているなと、直弼の横に控えた高橋は思った。
「まず、わしから尋ねたいことがある。貴公の名前は。そして、村人から若様と呼ばれているそうだが、どうしてか」
「名前はありません。村人が何と呼んでいるかは、私の知らぬことです」
 無礼な返答だった。しかし、今、何故か直弼の方が気後れしていた。若者からは懐かしいような、それでいて何か逆らいがたいものを本能的に感じる。自分自身ではなく、潜在する先祖の記憶ではないかと、直感的に思った。
「では、その方の願い事を述べてみよ」
 直弼は威厳を取り戻そうと、わざと強い口調で言った。
「願いではありません。これからの我国の政治について警告にきたのです」
「我国の政治とは大それた話じゃな」
 直弼の言葉に、急に若者の目つきが鋭くなり、殺気を帯びた。
「この国は今や滅びようとしています。根底から改革しなければならないのに、誰も泰平の世に慣れ、腐りきり、変えようという気概も能力もありません」
 若者が豹変した。何かが取り憑いたように語調が鋭くなった。二人は口をはさむこともできず、聞いているしかなかった。
「もうすぐ、大船に乗った鋼鉄の魔王が、海を渡って来ます。経験したことのない恐怖が支配し、国内は大混乱になります。しかし、この危機が眠っていた能力を甦らせ、多くの英雄が現れます。その筆頭があなたです。多くの血が流れ国は乱れますが、古い考えと制度が葬られることで、新しく生まれ変われます。この大事をやるのが、あなたの宿命なのです」
 完全に主客転倒していた。若者が井伊直弼に天命を下しているようだった。一気に話すと若者は立ち上がり、静かに部屋を出た。一陣の風が吹き抜けていったようだ。
 直弼は夢ではなかったかと思いながら、閉まった障子を見続けた。外は静まりかえり、警護の者たちの声は聞こえない。やがて、遠くで馬の蹄の音がした。
これが、直弼の脳裏から離れることのない、三ヶ月前の出来事である。


  三  ペリーの焦り
 
 ペリーは久里浜で浦賀奉行・戸田氏栄にアメリカ大統領の国書を渡すと、来年その答えを得るために再来航すると告げ日本を離れた。結局、ペリーが日本にいたのは八日間だった。当面の危機は脱した。この報を聞いて、直弼は予定通り彦根に滞在することにした。
井伊家は代々「溜間詰」筆頭の家柄だった。溜間とは江戸城内の部屋で、登城したときにはここに詰めている。井伊家、会津の松平家、高松の松平家は常溜といい、他に非常任の大名が何家かある。会津も高松も将軍家の血を継いでいたが、井伊家が筆頭となっていた。「溜間詰」の大名は必要とあれば老中と討議したり、時には将軍に直接意見を言うことができた。直弼はその立場にいたが、藩主になって三年ということもあり、まだ遠慮していた。幕府政治の責任者は、あくまでも老中である。
 直弼は久しぶりに会った娘の八千代と遊んだりして、しばしの団らんを得た。

 数日後、高橋吾郎が江戸からやって来た。高橋は彦根藩歴代の家臣ではない。直弼が跡継ぎになり、江戸屋敷に移ってから新規に召し抱えた新参だった。
 直弼が高橋吾郎に初めて出会ったのは、十九年も前のことである。彦根に生まれ住んでいた直弼は、二十歳の時、他家への養子の口があり弟の直恭と江戸に出た。
 井伊家では血筋を守るために他家から養子を入れることはせず、藩主に子がない場合、弟が跡を継ぐことになっている。そのため、藩主の弟は全てを他家に養子に出さず、何人かは部屋住みとして残した。十四男の直弼もその一人だった。藩主の兄直亮には子がなく、その弟の直元が養子となり跡継ぎに決まっていた。さらに、直弼と五歳下の直恭が部屋住みとして残っている。これだけいれば大丈夫と、養子の申込みを受け入れた。当初、直弼が候補だったが、相手の延岡藩は弟の方を望んできた。弟は直ちに延岡藩内藤家の家督を相続し、七万石の大名となった。直弼が他家の養子になることはもうない。
しばらく江戸に滞在することになった直弼は、忍びで湯島の聖堂を見学に出た。供は下男が一人だった。途中で登城する大名の行列に出会ったので、道の端に寄り頭を下げた。
「ご舎弟さまの行列でした」
 行列が過ぎると、下男が伝えた。直弼の目が涙でにじんできた。
 すぐ側に七、八歳の男の子を連れた武士が、同じように行列を避けていたのに気付いた。一瞬、目が合った。直弼は何となく、この武士に自分の心の中を見透かされているような感じがした。
 急いでその場を離れ、早足で歩いた。下男があわてて後を追う。情けなさを通り越して、だんだん腹立たしくなってきた。やがて、道いっぱいに広がって来た派手な身なりをした若侍の一団とぶつかり、小競り合いになった。旗本家の部屋住みで、うっぷん晴らしに喧嘩を売って歩いている連中だ。直弼一人に対して、相手は十人近くいる。身分を明かせば済むだろうが、忍びで来ているので面倒は起こしたくない。それより、井伊家の子息だと自ら名乗るのが辛かった。
 そこへ仲裁に入ったのが、先ほどの武士だった。若侍たちは、武士に何か弱みを握られているらしく、一喝されると捨てぜりふを残し引き揚げていった。
 武士は、南町奉行所の与力で、高橋と名乗った。今日は非番で、一人息子を連れ湯島の聖堂に行く途中だという。この息子が吾郎だった。直弼は江戸滞在中、時折高橋宅を訪れて吾郎と遊んだり、読み書きを教えたりした。聡明な子供だった。直弼は年の離れた弟のように吾郎をかわいがった。
やがて、彦根に戻った直弼は、北屋敷を「埋木舎」と名付け、そこに籠もり武術、国学、歌道、茶道、華道、禅などの鍛錬に努めた。埋木とは、地中に埋もれて半ば炭化した木のことだが、世間から見捨てられた境遇のたとえでもある。直弼は埋もれ木に徹した。
 十二年後、跡取りに決まっていた兄の直元が病死した。直元にも子はいない。代わって直弼が跡継ぎとして藩主直亮の養子となり、彦根から江戸の藩邸に移った。
 直弼は早速高橋宅を訪ねたが、そこは空き家になっていた。与力だった父は、南町奉行鳥居耀蔵の行き過ぎた方針に従わなかったため、汚職の罪をきせられ切腹し、高橋家は断絶になったという。鳥居耀蔵は妖怪と恐れられ、政敵の北町奉行遠山金四郎でさえ、奸計によって町奉行職を追われたほどだった。鳥居はその後失脚し、全財産没収のうえ讃岐国丸亀藩に預けられ軟禁状態にあるという。
 直弼は、吾郎を必死に捜した。そして、母親とも死別し、長屋で寺子屋の師匠をしながら一人で暮らしている吾郎を見つけた。鳥居耀蔵の失脚により父の冤罪は晴れたが、それまでは罪人の子として日陰に身をおいてきた。自分が埋木舎で耐久生活していた間、高橋吾郎はそれ以上の苦難を味わっていたのか。それでも、吾郎は決して自分の苦労を語ることはなかった。武士として、人間としての誇りを失っていない証だ。若いながら一段と成長を遂げている。
 将来の開けてきた直弼としては、かつて弟のようにかわいがった吾郎を何とかしてやりたいと思った。しかし、まだ藩主を継いでない直弼には、直属の家臣を召し抱えることはできない。そこで、吾郎を非公式な在野の家臣として、私費の中からわずかながら手当を与えた。吾郎は与力の父の血を継いでか、抜群の探索力と分析力をもっていた。直弼は吾郎を通して、不案内だった江戸や近隣の情勢を知ることができた。高橋吾郎は二十歳になっていた。
 江戸藩邸の者たちは、跡継ぎとして突然現れた三十二歳の直弼に対し冷淡だった。江戸家老は言葉こそ丁寧だったが、成り上がりの田舎者めといった見下した態度がみられる。
 直弼の意志などお構いなしに、正室として丹波亀山藩主の娘昌子との婚約が決められた。実はその前に幕府から、跡取りとなった直弼に縁談が持ち込まれていた。相手は、有栖川宮家の三女で、将軍家慶の養女となっていた精姫だった。普通なら家格が上がる願ったり縁談だが、井伊家は既に幕府内で不動の地位を確保している。将軍の養女を正室にしたら、気を使うし、特別の御殿を建てたり経費がかさむ。彦根藩も財政が苦しい。そこで、彦根藩は既に丹波亀山藩との間で婚姻が決まっているとして、幕府に断りを入れた。昌子が実際に輿入れしてきたのはこの六年後で、形式的な夫婦だった。それまでに直弼と二人の側室の間には、多数の子供がいた。側室の静江と里和は、ともに埋木舎時代に女中として仕えた女子である。
嘉永三年(一八五〇)、藩主直亮が病没し、直弼が三十六歳にして十三代藩主の座に就いた。家老をはじめ、大幅な人事異動を行った。高橋吾郎も正式な家臣として取り立て、用人と右筆を兼任した。右筆は内密の文書を代筆する役があるので、直弼と二人きりになれる機会を得られるからである。実質的には、高橋は東国での密偵の役割をした。
 彦根藩の江戸屋敷は、江戸城に近い外桜田の上屋敷、赤坂の中屋敷、千駄ヶ谷の下屋敷があった。藩主の直弼は上屋敷に住んだが、高橋はあえて下屋敷詰めとした。下屋敷は隠居した藩主の別邸として利用され、広大な庭園があり、藩士の練兵所にもなっている。現在、隠居はいないので邸内には人数が少なく、自由に動く必要のある高橋が住むには絶好の屋敷だった。表向きは、直弼が用事があるとき高橋を上屋敷に呼び出し、通常の右筆の仕事をしたが、重要な報告や密談は、人目につかない下屋敷で行った。
 なお、埋木舎時代からの国学の師であり友だった長野主膳も、彦根の藩校・弘道館の学頭として召し抱えられ、京都を中心に西国で活躍することになった。

嘉永六年(一八五三)六月のペリー来航後に戻る。高橋吾郎が彦根城へやって来た。江戸詰の高橋が、彦根を訪れるのは今回が初めてだった。二人は城内の書院の間で会った。初めて高橋を見た彦根の家臣は、このような若者が藩主と二人きりで話をするのを不思議に思った。ある者は、成り上がりの藩主だけに秩序を重んじないと、陰口をたたいた。ある者は、高橋のことを、何か曰くのある人物に違いないと警戒した。
「彦根までわざわざやって来るとは、何かあったのか」
 直弼が訪ねた。
「はい。お許しを得ないで、急に参上して申し訳ありませんでした。お申し付け通りペリー上陸の様子を見届けましたが、早急にお耳に入れておきたい事がありました」
高橋はまずペリー上陸の様子から説明した。
「九日朝、ペリーは総勢三百人を引き連れ、久里浜に上陸してきました。日本側は五千人の武士が警備にあたっていましたが、間近を通る異人たちを驚愕の眼差しで眺めていました。アメリカ海兵隊は見上げるような大男ばかりで、日に焼けた顔には青い目が輝き、帽子からは巻き毛になった金や赤茶色の髪が覗いています。正装し、銃剣を装着した最新式の銃を持ち、軍楽隊の音楽に合わせて整然と行進する威容は、三百人でも日本側を圧倒しました。さらに沖合の黒船の大砲には兵が付き、こちらに狙いを定めているのが分かりました。これもペリーの演出だと思います。ペリーは自信に満ちた態度で歩いてました」
「ペリーの顔はしかと見たか」
「はい、見ました」
「天狗か鍾馗様のように描かれた絵が出回ったそうだが、そのように恐ろしい顔をしておったか」
「いえ、髭はなく、髪の色も我々と同じ黒で、なかなかの好男子と言えます。精悍な顔つきと、背筋を伸ばし歩く様は威厳に満ちていました。それだけに、かえって凄みがありました」
 直弼は頷きながら聞いていた。ペリーの姿が目に浮かぶようだった。
「ところがです」
高橋はやや身を乗り出した。これから本題に入るということがわかった。
「突然ペリーの顔色が変わり、ほんの少しですが会釈をしたように見えました」
「誰に対してじゃ」
「私はペリーの前方を確認しました。すると、佐野領で見たあの若者がいたのです」
高橋は「あの若者」で通じると思った。直弼が軽く頷いた。分かったに違いない。
「警備の武士達の後方に、あの若者の顔が見えたのですが、そこだけ明らかに気配が違っていました。若者の目はペリーに注がれていましたが、その眼差しをみたら、私も身がすくんでしまいました。ペリーを見ると、相変わらず堂々と歩いていましたが、心なしかそれまでの気迫が失われているように感じました」
「それで、若者はどうしたのだ」
「もう一度目をやったときには姿が消えていました。警備の者たちが大勢いたため私は身動きができず、警備が解かれた後、一帯を捜しましたが見当たりませんでした」
「人違いということはないか」
「いえ、あの雰囲気は、一度会って以来忘れられません。間違いなくあの者でした」
直弼はしばらく考え込んだ。
「腑に落ちないことがある。ペリーはあれほど強硬な態度を取り続けたのに、浦賀奉行に国書を渡すと、来年までの猶予を与えすぐに去っていった。何故そのまま我国に留まり、強引に開国までもっていこうとしなかったのか。わしがペリーの立場だったらそうするが」
話題が若者でなく、その後のペリーの動向に移ったので、高橋は答えに戸惑った。ペリーの強硬な姿勢の背後には、早急に事を運ぼうとする焦りが見られる。確かに、国書を渡してから一年待てるのなら、あそこまで威嚇する必要はなかったはずだ。
「それは、我方の意見がまとまるのに時間を要すると思ったからでしょうか。それとも…」
「それとも」
「若者の眼光に恐れをなして、予定を変更した…。その様なことはあり得ないはずですが、何故かそう思えてしまうのです。あの若者、何やら大きな秘密があるような気がします」
「わしも少々気になる」
直弼は高橋に佐野領へ行き、若者のことを徹底して調べるように命じた。

 日本を引き揚げたペリー艦隊は、琉球、上海を経由して香港に入港していた。開国は目前だ。それでも、ペリーは焦っていた。一つは六十歳という年齢にある。海軍の軍人としてはもう引退の時期だった。欧米列国の誰もがなし得なかった日本開国という快挙を花道に、引退するつもりで今回の遠征に臨んでいる。
 そのために日本に関する書物を読破してきた。かつて日本に滞在したというシーボルトの書いた高価な書籍も、ためらわずに購入して読んだ。日本の地図も入手した。
 日本は、今まで容易に服従させることができたアジアの国々とは違っている。日本人は誇り高く、頭脳も優れている。しかし、長く国を閉ざしてきたために、近代文明を知らない。短期間で開国にまで持って行くには、強力な武力を見せつけ衝撃を与えることが効果的だという結論に達した。ホイッグ党(共和党)のフィルモア大統領も、この方針を支持してくれた。強硬策はうまくいっていた。
 ところが、上陸したとき感じた、あの異様な気配は何だったのか。一時的であったが、全身が凍り付いたように感じ、自信が一気に消え失せてしまった。この国には、何か恐ろしい神秘的なものがあるような気がして、思わず頭を垂れてしまった。
 あと一歩だった。もし、国書を受け取る日本側の代表に怯えた様子が見られたら、一気にたたみ掛けて要求を呑ませ、開国に持ち込む腹づもりだった。外交慣例からすればあり得ないことだだが、残された時間が少なかったからだ。ところが、上陸したときに感じたあの気配が躊躇させた。
 国書を渡した後、全艦で江戸湾深く入り、陸に向かって空砲の一斉射撃をして最後の威嚇をしたが、不安は消えなかった。むしろ子供じみた行為に思え、自己嫌悪に陥っている。
もう一つ、難題がある。アメリカの大統領が、民主党のピアースに変わってしまったことだ。香港に着いてから知った。民主党は強硬策を嫌う。間もなく、方針を変更せよという命令が届く可能性が高い。その前に、準備を整えて日本へ出港してしまおう。艦船の数を増やし圧力を加える一方、豪華な贈り物も用意し宥和策も併用する。とにかく、一刻も早く再度日本へ向かいたい。
ペリーは焦っていた。


  四  開国 動乱のはじまり

ペリーが去った十日後、将軍家慶が没した。六十一歳だった。代わって三十歳の家定が十三代将軍になったが、就任と同時に、次期将軍を巡っての争いが生じた。家定は病弱で子供は一人もいない。家定自身の健康にも不安があることから、早めに跡継ぎとなる養子を決めておく必要があった。
 将軍家以外で将軍になれるのは、御三家のうち尾張、紀州家、そして吉宗が創設した御三卿の田安、一橋、清水家の五家だった。水戸家は御三家であっても、副将軍のため、将軍にはなれないとされている。しかし、次期将軍の最有力候補は水戸斉昭の七男慶喜だった。慶喜は水戸家の生まれだが、一橋家の養子になっていたので将軍継承権がある。十六歳と年齢的にも適当で、しかも、ご神君家康公以来の逸材との評判だった。尊皇攘夷の強硬論者で癖の強い水戸斉昭は、初めて水戸家の血筋から将軍を出せると張り切った。
 斉昭は既に水戸藩主の座を息子に譲っていた。黄門様と同様に「水戸のご老公」と呼ばれる隠居の身であるが、縛られるのものがないだけに自由に意見を述べることができた。
 ペリーへの返答と、将軍の跡継ぎ問題の二つが、老中筆頭の阿部正弘にのしかかってきた。阿部正弘は備後福山藩主で、二十五歳で老中、二十七歳で老中筆頭になった俊英である。ただ歳が若いので、年長の大名たちを懐柔するために八方美人的なところがあった。幕府にとって煙たい存在である五十四歳の水戸斉昭もうまく持ち上げて、衝突を避けるようにしていた。
 将軍の死という緊急事態に、直弼は領地滞在を早めに切り上げ江戸に戻った。阿部正弘は、井伊直弼に対しても、「溜間詰筆頭の井伊様のお力を全面的にお借りしたい」と丁重に言ってきた。
 阿部はペリーから受領した開国要求の国書の翻訳を公開し、譜代、外様を問わず全大名とその家臣、幕府旗本、さらに一般庶民にまで意見を求めた。直弼がまだ彦根にいる間のことである。広く英知を集めて国難に当たろうという英断だったが、一歩間違えば幕府の権威を失う危険性もあった。
 多くの意見書が集まった。鎖国が祖法(祖先伝来の法)であるから、それを破って開国と言うことはできない。相手が武力でくるなら、打ち払う攘夷策しかない。しかし、戦って勝てる相手でないことも分かっている。結局、いろいろな意見を列挙した曖昧なものが多い。水戸斉昭は「海防十条五事」を著し、開国反対と攘夷の必要性を強調しているが、開戦した場合の具体的な戦術はない。精神論で勝とうというのである。
 現実政治の責任を担っている老中たちは、開国やむなしと考えているが、そのような意見書はなかった。唯一、幕府・小普請組の勝海舟から、「積極的に開国し、貿易により利益を上げ、それをもって武備を整えるべし」という積極開国論が提出された。阿部正弘からすれば、わが意を得たりといものだったが、無役同様の小普請組からの意見では取り上げにくい。できるなら、譜代大名筆頭、溜間詰筆頭の井伊直弼の後ろ盾が欲しかった。
 しかし、直弼から提出された意見書は、「鎖国は祖法なので変えず、開国は体よく断るべし。ただ、相手に侮られても国の恥なので、場合によっては戦うことも必要であろう」という他と変わらない曖昧なものだった。老中たちは落胆した。

高橋吾郎は佐野領にいた。西林寺を訪ね、住職に若者のことを尋ねた。住職は前住職の遠縁にあたる者で、前住職が病没する直前にこの地にきて、寺を引き継いだという。若者に関しては、寺に縁のある方の子孫なので大切にするように、そして、十分な賄料が年に一度何処からか届けられるので、自由気ままにさせおくようにと言われたそうだ。住職はまだ何か知っているようだったが、「若様の詮索はなさりませぬように」と強く釘をさされた。
しばらくの間、近くの旅籠に泊まり寺の周辺を見張ったが、若者は現れなかった。寺の中の一室を与えられているというが、そこに籠もりきりなのか。それとも、どこかの地を探訪しているのか。
 ともかく、住職への手前もあり、いつまでも寺の周りにはいられない。そこで、かつての名主宅でのように、用があれば若者の方からやって来るのではないかと考えた。彦根藩の陣屋に滞在することもできたが、直弼の密命のため藩関係者の目を避け、農家の離れを借りることにした。田沼村に隣接する吉水村で、かつて直弼に声をかけられた峰助宅を探しだし、離れの小屋を賄い付きで借りた。
 峰助に頼み、西林寺の寺男へ手紙を届け、それを若者に渡してくれるよう伝えてもらった。手紙には、「吉水村 峰助宅離れに滞在 高橋吾郎」とだけ書いてある。
 数日後、満月の夜。若者が現れた。お互い軽く会釈をして対面した。高橋が入れた煎茶を、二人は無言のままゆっくりと飲んだ。田圃の蛙の声が響いていた。
「急がなくてはなりません」
 若者は語り出した。
「蒸気船の発達で世界の国々は隣り合わせになりました。もはや一国だけの孤立はあり得ません。侮られれば武力で征服され、隷属の道を歩むことになります。今、我国は戦うか、平和的に国交を結ぶかの岐路にあります。戦って勝つ力はなく、国交を結んでも力がないと分かれば、インドや清国のように国の富を貪り尽くされてしまいます。この際、アメリカの要求を絶好の機会と捉え、進んで国を開いて海外の文明と富を取り入れ、さらに改良し、国力を増すことです。本当は、幕府の力が充実していた時にやっておくべきでした。百年近く前、そう提唱した人物がいたのに、それを葬り去っています。惜しいことです。しかし、今からでも遅くありません。海外に目を向けるべきです」
若者は話しながら、気持ちが高揚していくのが見て取れた。それにしても、このような田舎にあって、何故ここまで大局を見すえた見事な見解が出せるのであろうかと高橋は驚いた。ペリー艦隊やアメリカ兵を直接見た高橋としても、積極開国こそ日本の取るべき策だと思っている。
「井伊様にお伝え願いたい」
 そう言うと、若者は風のように去っていった。月明かりの中、白い馬に乗って走る若者の姿が見える。あたり一面には蛍が飛び交っていた。まるで夢の中の光景のようだった。
 高橋は翌日、早馬で江戸に駆けつけ、直弼に報告した。直弼も「開国やむなし」と思っていたが、明言すると尊王攘夷派の矢面に立たされるのは目に見えている。様子見の意味で、最初の意見書は曖昧なものとした。
 しかし、高橋から伝えられた若者の言葉を聞いて、迷いがなくなった。「開国やむなし」という消極的なものでなく、積極開国でなければならない。
 我国は長年大きな戦もなく平和だが、貧しい。天候不順が続けば飢饉となり、何十万という人が餓死をしている。もし、海外の食料に余裕がある国から買入れることができれば、このような悲劇は防げる。食料だけでなく国の富を増やすには、もはや海外との交流に懸けるしかない。黒船との戦いで勝てないという消極的な理由だけでなく、国の将来を託した開国にしなければならない。
 井伊家下屋敷での直弼と高橋の話し合いは、深夜にまで及んだ。
 老中阿部正弘のもとに、井伊直弼から二度目の意見書が届いた。

・鎖国は古い法である。現在の我国の危機を救う為には、廃するのもやむを得ない。
・今の海防は不備で対等に戦えない。平和的に開国し、当面は国力の充実を図るべし。
・海外と積極的に交易し利益を上げ、優れた武器や技術を積極的に導入する。
・大船を建造し、軍備を整え、人材を育成すれば欧米を恐れることはない。

前回と違って明確な開国論だ。二通の意見書があまりに違うので、阿部正弘は直弼と二人きりで会い本心を確かめた。
「後のほうが私の真意です。国を救うにはこれしかありません」
 直弼は明確に答えた。この後、直弼は開国派の中心となって、水戸斉昭らの攘夷派と対立していくことになる。
「井伊様のご真意を伺って安心致しました。幕府としては、この方策で進みたいと思います。ところで、今回幕府に寄せられた意見書は七百通に及びましたが、大名はいやいや出したことが明白で、責任を回避した曖昧なものばかりです。むしろ、町民の中に黒船退治と称して面白いものが多くみられました」
阿部正弘は直弼に、町人から出された二通の意見書を差し出した。

 黒船がやって来たとき、その前に百艘の小舟を漕ぎ出します。小舟には、芸者が乗っており三味線を弾き、若い男たちは酒盛りをしております。山海の珍味も積んで行き、一緒に酒盛りをやろうと異人たちを誘います。言葉は通じなくても、身振り手振りで分かります。酒はだれでも好きです。さらに異人は芸者に目がくらみ、我々が武士でないことに安心して、きっと黒船に乗せてくれると思います。
 船上ではどんちゃん騒ぎです。やがて、芸者たちが三味線の音に合わせて、着物を一枚一枚脱いでいくのです。異人たちは、度肝を抜かれるはずです。一同、やんやの喝采でしょう。芸者たちが全員腰巻き一つになったころ、しめし合わせの上、仲間うちで喧嘩を始めます。あわてて仲裁に入ってきた異人たちも、喧嘩のなかに巻き込んでいきます。船上は大混乱となります。
 一方、別働隊は途中でそっと宴会を抜け出し、火薬庫を見つけ、大徳利に入れてきた油を火薬庫にまいて端に火を着けます。
 着火と同時に船上の仲間に合図して、全員が海に飛び込み、あとは、黒船はどかんと大爆発して海の藻屑となります。芸者が腰巻き一つになるのは、海に飛び込んだとき泳ぎ易くするためです。

「異人たちは度肝を抜かれるはずです…か。この意見書自体に度肝を抜かれるな」
 直弼は苦笑いしながら、もう一通を読んだ。

 太い丸太で筏を組んで、江戸湾に多数浮かべておきます。筏と筏は一定の間隔で太い綱で結ばれています。黒船がやって来ても、筏の群れを見れば、江戸湾に入ることをあきらめるでしょう。
 あるいは、大船にものを言わせて「木製の筏など何するものぞ」と突入してきたら、逆にしめたもの。黒船が筏のどれかか綱に触れれば、次々に筏が引き寄せられ、身動きができなくなります。そこで、異人は大砲を撃って筏を破壊しようとします。実は、筏の表面にはたっぷりと油が染みこませてあり、油を入れた瓶も筏には固定してあります。大砲で撃った途端、筏は燃え上がり、瓶は割れ油が海に流れ出し、あたり一面まさに火の海です。黒船は丸焦げで、我方の大勝利です。
 なお、この秘策決行の際は、私どもの材木と油をお買い求め下さい。
 
「こちらは、材木問屋と油問屋の主の共著のようじゃな。ちゃっかり商売に結びつけておる。抜け目がないのう」 
 直弼は二通の意見書を阿部正弘に戻した。
「どちらも荒唐無稽なものですが、彼らなりに真剣に対策を考えております。大名たちより、一般庶民や下級武士の意見書の方に熱意を感じました。これからの世の中を暗示しているような気がします」
 老中阿部正弘は、開国に向けて井伊直弼の後ろ盾を得た安心感とともに、広く意見を求めたことは国中に危機意識をもたせた点で意義があったと考え、一時の安らぎを覚えた。
「しかし、阿部殿。今後は政治に関して御三家のうるさ方や、外様、そして朝廷も盛んに口をだしてきますぞ。その点、十分心得ておかれよ」
 直弼は、釘をさした。
「十分、覚悟しております」
阿部正弘は緊張した面持ちで答えた。

 翌、安政元年の一月十六日、ペリー艦隊が再び来航した。軍艦は七隻に増えていた。「来年」と言って去ったので、丸一年間あると勝手に思いこんでいたが、正月早々でも確かに「来年」である。前回の来航から、まだ半年しか経ってない。幕府はあわてた。
 再来航は約束の上なので、幕府側も警備のための船の出動は最小限にとどめた。もちろん、提案のあった黒船退治案も実行しない。
 それにも関わらず、ペリー艦隊の周りを無数の小舟が取り巻いた。町人たちの船だ。漁船を借り、料金をとって人を乗せ、間近で黒船見物をさせようというのである。また、様々な食料や土産物を積んで、アメリカ人に売ろうとしている船も多数あった。前年、あれほど怯えていたのが嘘のようだ。下手な武士より、一般庶民の方が好奇心が強くたくましい。
 ペリーは次々とやってくる一般の小舟を見て、かえって安心した。昨年は武士の乗った船が取り囲み、ヒステリックに叫んでいた。通訳に聞いたら「帰れ」ということだという。しかし、今回は違う。歓迎されているような気がする。この国の民は順応性が高いと見える。アメリカと日本は、よいパートナーになれるかもしれない。これなら、友好的に開国の条約締結までもっていけそうだ。前回の上陸時に感じた何とも言い難い恐怖感は、今や薄れつつあった。

 幕府は意見書を集めたが、国論としてまとめる余裕はなかった。江戸の町に厳戒令を出した上で、城内の西湖の間で緊急会議を開いた。水戸斉昭は「海防参与」の肩書きを、阿部正弘から与えられていた。実質的な権限はないが海防の責任者を自負する斉昭は、攘夷の主戦論をまくし立てた。
「一度妥協すれば侮られるだけだ。断固打ち払うべし。船を焼き払い、たたき斬れ」
「おそれながら、申し上げます」
 興奮する水戸斉昭を、直弼が押し止めた。
「前回のペリー来航以後、我方の防備はほとんど進んでおりません。清国ですら敗れた西洋の艦隊に、意気込みだけでは勝てる見込はありません。もし江戸の町が焼き払われては、上様にも京の帝にも申し訳が立ちませぬぞ」
 井伊直弼にずばりと反論され、斉昭は黙ってしまった。溜間詰の筆頭ながら、今まで自分の意見をはっきり言うことが少なかった直弼を、斉昭らは風貌を含めて「鈍牛」と呼んで侮っていた。それが、どうしたことだ。少々警戒しなければならないと、斉昭は発言を控えた。攘夷派の大名たちも弱腰になり、会議は開国へとまとまった。
 三月三日、西神奈川の横浜村で和親条約が結ばれ、伊豆の下田と蝦夷の函館(箱館)が開港することになった。太平洋を渡って来た捕鯨船や商船が入港した場合、食料や燃料の供給を受けることができるという内容だが、これをもって日本は開国することになった。アメリカと条約を結んだ以上、他の国々を拒絶することはできない。同じ内容の条約を次々と締結していくことは避けられない。
 和親条約締結により外国との武力衝突の脅威はなくなったが、国内では開国後の対応を巡って対立が激化するのは必至だった。
 満足したペリーは開港する下田と函館にしばらく滞在した後、六月になって日本を離れていった。厳戒令が解除され、江戸っ子は花火を打ち上げて憂さ晴らしをした。

この間、一つの事件があった。三月二十八日の夜、吉田松陰と弟子の金子重之助が、下田に停泊中の旗艦ポーハタン号に小舟をこぎ寄せ乗り込み、アメリカへ連れていって欲しいと要望した。
 当然これは密航で、国禁を破る犯罪だ。山鹿流兵法師範の立場にある松陰だが、昨年浦賀で黒船を見て衝撃を受けた。日本古来の兵法では、もう太刀打ちできない時代になっている。海外の事情を直接見て、対策を講じなければらないと考えた。「アメリカに渡り、学びたい」と、松陰は漢文での筆談で必死に頼み込んだ。
 しかしアメリカ側は、「我国で勉強したいという、あなたの熱意はわかる。しかし、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法を守る義務があるので無理だ」と拒絶した。松陰たちが乗ってきた小舟は、流されてしまっていた。そこでアメリカ側は、今なら間に合うからと言って、ボートで人気のない海岸に二人を送り届けてくれた。
ところが、せっかく相手が内密にしてくれたのに、松陰は自ら下田奉行所に自首してしまった。取り調べに対し、「密航の目的は攘夷である。攘夷を行うには、まず敵を知らなければならない。アメリカに渡ってその様子を探り、もし優れたものがあれば取り入れ、来るべき攘夷に役立てようと考えた」という。そして、役人に対し、現在日本のおかれている危機をさかんに訴えた。
 また、ペリーからも奉行所に、穏便に済まして欲しいとの手紙が届いた。手に負えなくなった下田奉行所は二人を江戸に送った。
北町奉行所での取り調べでも、松陰は包み隠さず応答し、国禁を破ったからにはどのような処分も覚悟の上だと述べた。ただ、師の佐久間象山の関わりは否定したが、松陰が乗った小舟に残された荷物の中から、密航を勧めた象山の手紙が発見された。
 象山も逮捕され取り調べを受けたが、弁解することなく逆に国防に関する持論を堂々と展開して、役人を煙に巻いた。結局、幕府は松陰と金子を長州藩に、象山を松代藩に引き渡し、謹慎で済ませることにした。この時点では、幕府はまだ好意的だった。
密航の一件を聞いて直弼は失笑した。
「佐久間象山という者、以前、ペリーが海を渡って来たのなら、自分は気球に乗って空からアメリカを火の海にしてやると豪語したらしいが、今度は密航指示か。しかし、彼我の力の差を認め、密航してでも相手を研究せよというのは、ただの法螺吹きではないようだ。何も分からず攘夷と騒いでおる、どこぞの馬鹿者とは大違いじゃ」
そして、あまりにも純粋無垢な吉田松陰という若者に興味をもった。


  五  変貌する鈍牛

 若者は時折、高橋吾郎の小屋を訪ねてきた。高橋の役割は、若者の正体を突きとめることより、若者の言葉を直弼に伝えることが主になっていた。
 高橋には若者にどうしても確かめたいことがあった。
「ペリーが久里浜に上陸してきた時、あたなはその場にいたのではないですか」
 高橋は思いきって聞いてみた。
「覚えておりません。私は気の向くまま行動しており、一々記憶に留めることもしません。それに、私の頭の中に突然閃いたことがある場合は話さずにはいられなくなりますが、相手側から急に尋ねられても答えが浮かばないことが多いのです」
 若者は答えた。とぼけているのか。いや、そうとは思えない。村人は「若様には神がかり的な面があります」と言っていた。若者は何か神秘的な力に操られているのかもしれない。一方的に伝えられる話は、将来を予見する上で参考になることばかりだ。決して狂人の戯言などではない。
 直弼も若者と直接話をしたいと思い、江戸まで来てもらえないかと、高橋を通じて申し入れたことがある。若者は話をする相手は高橋だけで、用事があるときのみ自分から訪ねて行くと答えたという。
 直接の対話がなくても、高橋からの報告を聞いていると、直弼には高橋が若者のように映って見えることがある。そして、いつの間にか、自分自身の中に若者が入ってきているような気がした。若者に操られるかのように、井伊直弼は変貌していった。

 開国の年、東海地方と西日本に、相次いで大地震があった。十一月四日の朝、駿河、遠江、伊豆、相模の大地が揺れ、津波が起こった。倒壊、火災、流失により失われた家屋は数知れず、死者は一万人以上だった。江戸でも大きな揺れを感じ、建物の一部が倒壊している。翌日になっても余震は続いていたが、今度は伊勢湾から九州にかけ別の大地震が発生し、被害家屋八万以上、死者三千人余の被害を出した。
 さらに、翌年、安政二年(一八五五)十月二日には、後に「安政の大地震」と呼ばれた直下型の地震が江戸を襲った。江戸湾荒川河口あたりが震源で、町中全域が被災した。特に本所、深川、浅草などの下町が壊滅的打撃を受けた。死者は四千三百人余。
 江戸城の石垣が崩れ、いくつかの門が倒壊した。井伊家の屋敷も被害を受けたが、人的には無事だった。しかし、小石川の水戸藩邸では倒壊した家屋の下敷きになり、水戸斉昭の腹心で尊皇攘夷思想の学者でもある藤田東湖、戸田蓬軒が死亡した。斉昭にとって人的な大打撃である。
 一年以内に起こった三つの大地震の震源は、太平洋岸に面した遠州灘、土佐沖、江戸湾である。まさにペリーが通過し、停泊した場所だ。
「開国などという蛮行に対し、天罰が下ったのだ」
 腹心二名を失った斉昭は激怒して触れまわった。天変地異の原因を政治の腐敗に結びつけ政治問題にするのは、古来よりの常套手段である。直弼は黒船以来の凶事に、激動の時代の到来を予感した。

 国内に不安が漂っている安政三年(一八五六)七月、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任した。領事館の庭に、かつてペリーの船に掲げられていた星条旗が掲揚された。ペリーとの間に結んだ和親条約は、下田と函館でアメリカ艦船に燃料、食料などを供給するものだったが、ハリスは正式な貿易を行うための条約締結を迫ってきた。開国した以上貿易をすることも視野に入っていたが、地震の後始末と政治的対立の混乱から、それどころではなかった。幕府側の代表は、のらりくらりと条件を変えながら、事前交渉を長引かせた。
 幕府内では将軍継承問題が本格化していた。一橋慶喜を推すのは、実父の水戸斉昭を筆頭に、越前・福井藩の松平慶永、御三家の尾張藩、有力外様大名の薩摩藩の島津斉淋などであった。一方、御三家の紀州藩主の子である徳川慶福を推すのは、井伊直弼を筆頭に溜間詰の高松藩、会津藩らの大名と紀州藩だった。
 この二派はそれぞれ、一橋派、南紀派と呼ばれた。外交問題でも、一橋派は攘夷、通商条約反対、南紀派は開国、通商条約締結と分かれていた。
両派の対立は、老中をはじめ幕府の主要閣僚の人事面での駆け引きにも発展していた。阿部正弘は心労から健康を害し、老中筆頭を降りることになった。代わりの人事は難航したが、結局、溜間詰の佐倉藩主堀田正睦が任命された。
国内政局に明け暮れ、条約交渉になかなか応じない幕府に対し、ハリスは怒りを爆発させた。軍人のペリーと違って外交官であるハリスは、直接アメリカの軍艦による威嚇は行わなかったが、イギリス、フランスの合計四十隻の艦隊が通商を求め日本に押し寄せて来ると脅した。たしかにアロー号事件による戦いで、清国はイギリス、フランス艦隊に敗れ、天津で不利な条約を結ばされている。
「今、アメリカと平和友好のもと条約を締結しておけば、国際慣例から英仏もそれに倣うことになるから、急ぎ締結することが日本のためだ」とハリスは言う。幕府は通商条約締結やむなしと決定し、具体的な交渉に入っていった。
国際情勢を持ち出されては、一橋派も表だって反対できない。攘夷が不可能なことも、本当は分かっていた。ただし、条約締結は天皇の許可(勅許)を得てからという条件が付けられたので、老中堀田正睦は京都へ向かった。
京都では両派の工作合戦が行われていた。井伊直弼は腹心の長野主膳を使い、関白九条尚忠を通じて孝明天皇へ条約締結の内諾を得ようとしていた。九条家は藤原氏の一族で、同じく藤原氏の流れをくむ井伊家とは代々交流がある。一方、水戸斉昭も公家への人脈が豊富で条約調印への勅許を妨害した。今まで政局の外におかれ国際情勢の分からない京都は、伝統的な攘夷論が支配的だった。堀田正睦は勅許を得られないまま江戸に戻ってきた。一橋派の勝利のようにみえた。

 さて、将軍家定はどうだったか。病気のためいつも身体が震えており、興奮するとうまく発声できなかったが、頭脳は明晰だったという。家定は暗愚でその任に耐えられないというのは、水戸斉昭らが実子の一橋慶喜を早く将軍にしたくてまいた噂らしい。家定は将軍継承問題は、将軍である自分が決めることだと思っていた。「それを斉昭め、勝手なことを申しよって」と明らかに水戸を嫌っている。次の将軍には、従兄弟にあたり血筋の近い徳川慶福を望んだ。
 そのような将軍家定は、井伊直弼に信頼を寄せている。病弱のため父の死後、ようやく三十歳で将軍を継いだが、同じく三十六歳で藩主になった苦労人の直弼に親近感をもった。そして、好男子だが才気ばしった斉昭や慶喜より、ずんぐりして色黒く目の大きな直弼の風貌にも安心感があった。将軍の気持ちは直弼に伝わってきた。
 家定は井伊直弼を直々に呼び、「そちに全てを任せる」と伝えた。
「ありがたきお言葉。直弼、井伊家伝統の徳川軍団の先鋒として、命にかけてこの難関を突破いたします。これより私は、井伊の赤鬼となります」
 直弼は明快に答えた。家定は涙ぐみ、「そうか、そうか」と繰り返した。
 安政五年(一八五八)四月二十三日。井伊直弼は大老に就任した。本来、大老は複数いる老中の合議では間に合わない非常時に、独断先行して事にあたれる強大な権力をもった職である。しかし、現実的には名誉職で、実権はあまりなかった。井伊家からもそれまで四人が大老職を務めており、直弼で五人目になる。
ところが直弼は今までの大老とは違っていた。大老には専用の部屋があり、老中が議決した案を持ってくるとそこで見て、ほぼ無条件で通すのが常であった。しかし、直弼は老中たちが仕事をする御用部屋に席を用意させ、先頭に立って仕事に当たった。幕府始まって以来、初めて大老としての大権を行使することになる。猶予できないほどに事態は切迫している。命を失う覚悟で、政治決断をした。
六月十九日。勅許を待たずに、幕府はアメリカとの修好通商条約に調印した。横浜、神戸、函館、新潟、長崎の五つが開港され、本格的な貿易が始まることになった。
さらに、六日後の六月二十五日。大名を総登城させ、次期将軍は紀州の徳川慶福に決定したと発表した。
一橋派を驚愕させる早業だった。一橋派の幕府閣僚たちも、たちまち左遷して人事を一新した。彦根の鈍牛が、赤揃えの騎馬軍団を率い敵陣を突破する赤鬼へと変貌していた。
 七月三日、将軍家定の病状が悪化し、重態になった。家定は大老井伊直弼と老中全員を枕元に呼んで「水戸斉昭らの押しかけ登城、許し難い。直ちに処分せよ」と命じた。

押しかけ登城とは六月二十四日、水戸斉昭、息子の水戸藩主慶恕、尾張藩主徳川慶篤、福井藩主松平慶永が定められた日でないのに登城し、井伊直弼らの条約調印を詰問しようとした件である。朝一番で登城してきた斉昭らは、興奮して「井伊に腹を斬らせる」と息巻いている。登城した直弼は、その事を聞いたが、本日の御用が終わってからだと待たせた。御三家といえども、定められた日以外の登城は違法である。直弼は昼食も出さずに待たせ続けた。そして、待ちくたびれ意気消沈したころ、大老井伊直弼は老中たちをともなって面談した。
 まず、最も弁が立つ福井藩主松平慶永を、御三家とは家格が違うからと別室に移し分断した。福井藩は、家康の二男結城秀康が起こした藩で、親藩の筆頭といえる。二男の秀康が二代将軍になれなかったのは、一度豊臣秀吉の養子になったからである。そのため徳川姓を名乗れず結城姓となり、後に松平となった。また、慶永自身は御三卿の田安家の生まれだが、福井藩松平家に養子に入っていた。血筋的には将軍家に近い松平慶永であっても、御三家とは別格だと直弼は相手にしなかった。
 一橋派の本当の狙いは、条約締結の詰問より、一橋慶喜の将軍継承だった。もし、それを承諾するのなら、条約問題は不問にするという交換条件を持ち出すだろうと直弼は読んでいた。次期将軍は決定しており、明日発表することになっている。今更、妥協などありえない。
「勅許前に条約締結するとは、言語道断だ」と水戸斉昭は責めた。
「これは目前の国難を避ける非常手段です。朝廷には老中を派遣し、お詫びすると共に、経緯をご報告いたします」と直弼は応じた。
「非常手段とな。確かに今は非常時だ。だから、この事態を乗り切るために、次期将軍には年長で英邁な一橋慶喜が適任と、朝廷も望まれている」
 斉昭はすぐさま本題に入った。
「将軍継承は、将軍家が決めるもの。まして、ご老公がご自身のお子様を推すとは公私混同ではごまいませんか」
 直弼は、斉昭の一番弱いところを突いた。これ以上無理押しすると、逆に足下を見られることになる。直弼の一言で、斉昭は次の語を発することができなくなった。結局、一橋派の一行はすごすごと引き下がっていった。

 この押しかけ登城を処罰せよと、将軍は自ら命令した。幕政は将軍の信任のもと、大老と老中が行うことになっている。御三家は、参考意見は言えるが、直接政治には関わらない。これは、神君家康公が決めたことである。無許可で登城して、幕府の決定事項に異を唱えるなど言語道断だ。将軍家定の怒りは当然で、正論である。
 直弼と老中たちは、直ちに会議を開き、登城した四人に一橋慶喜を加え、処分を言い渡した。隠居、謹慎、登城禁止という比較的軽いものだが、御三家や親藩の大名を断固処罰したことは、幕府の強い決意の表れだった。
 在位わずか五年の将軍家定が自ら決断したのは、井伊直弼の大老抜擢と、一橋派の処分だった。暗愚だとの陰口をたたかれた家定だが、最後に将軍としての威厳を示した。直弼はそれに応えた。
 七月六日。将軍家定は息を引き取った。十三歳の慶福が家茂と名を改め、十四代将軍となった。前将軍の意思があったとはいえ、自分が先頭になって推してきた若い将軍を何としてもお守りしなくてはならない。幕政の責任が井伊直弼の肩に重くのし掛かってきた。

 幕府の老中たちは日和見主義で当てにならない。いつ手のひらを返すかもしれない。直弼にとって信頼できる大名は、同じ溜間詰の常溜の立場にある会津藩と高松藩であった。
 会津藩の初代は保科正之で、二代将軍秀忠の第四子である。兄の三代将軍家光の信頼が厚く、遺言により四代将軍家綱を補佐して幕政をみた。後に松平姓と葵の紋を許された。
「何があっても将軍家をお守りせよ」が藩祖正之の家訓だった。
「常に徳川軍団の先鋒たれ」という井伊家に通じるものがある。
 高松藩は水戸藩と深い関係がある。水戸藩初代の頼房には、頼重と光圀の二人の子がいた。頼房は弟の光圀に水戸藩を継がせ、長男の頼重には高松藩を興させた。光圀は、通称水戸黄門として名高い。光圀は兄を差し置いて自分が水戸藩を継いだことを気にして、自分の子を高松藩に養子に出し、反対に高松藩の兄頼重の子を自分の養子にして水戸藩を継がせた。高松藩松平家は水戸光圀の血筋を継いでいる。
 この高松藩松平家は、跡継ぎに決まっている頼聰 の正室に直弼の娘八千代を迎えた。八千代は埋木舎時代に女中の静江との間にできた子だった。しばらくの間、二人の存在は隠されていたが、直弼が藩主になったことで、静江は側室、八千代が第一子として世に出ることができた。それだけに、八千代が愛おしかった。
 二人の婚礼が行われた二日後に直弼の大老就任があった。水戸藩との対立は決定的なものとなっていたが、娘婿の頼聰は、「養父上、高松藩松平家は、どのような時でもお味方いたします」と言ってくれた。この若者は信頼できると直弼は確信した。
 後に彦根藩と水戸藩の対立が深まり、一触即発の状態になったとき、井伊家上屋敷の門前には松平頼聰の騎馬姿があった。水戸光圀の血を引く高松藩の若殿の勇姿は、水戸に無言の圧力となった、
彦根の重臣や藩士たちはどうだろうか。にわかに藩主になった自分に対し、どこまで忠誠を尽くしてくれるか分からない。直弼が絶対的に信頼できるのは、自分の代で召し抱えた有能な腹心たちである。京都では長野主膳が、公家衆への働きかけと情報収集を行い、直弼の相談相手になっていた。今後、政局の中心は京都に移っていくだろう。
 高橋吾郎は江戸近郊を担当し、特に佐野領にいる不思議な若者の言葉を伝えてきた。若者の背後には、なにやら得体の知れない大きな力があるような気配がする。その言葉は参考意見というより命令のように感じられたが、孤独な独裁者になりつつある直弼には大きな支えとなっている。
自分の使命は「改革」。我国は今、大きく変わらなければならない岐路に来ている。果敢に改革を進めるために、自分は鬼になる。家康公は、まさにこの時のために、大老という大権をもった職を設けられたに違いない。それに答える。どんなに抵抗があっても自分はやり抜く。直弼は悲壮な決意をしていた。


  六  大獄と新時代への布石

処分を受けた水戸斉昭ら一橋派の大名は、表面上なりを潜めている。しかし、京都では尊皇攘夷、条約反対の公家衆や薩摩、長州など諸藩の志士たちが動き始めていた。条約に基づき国内に入ってきた外国人を、「攘夷」と称して襲撃する輩が続出し幕府を悩ませた。
尊王攘夷派の公家が反撃に出た。安政五年八月七日、直弼派の実力者・九条関白が病欠した会議で、勅許のないまま条約を結んだ幕府を詰問し、幕政を改革せよという勅錠(天皇の命令)を水戸藩に下すことを決めてしまった。密かに作られた勅錠は、水戸藩士の手によって水戸藩に運ばれた。御三家とはいえ一大名に対し、朝廷から勅錠が出されるとは前代未聞のことだ。しかも、幕府の政治を否定し、改革せよという内容で、水戸斉昭が背後にいることは明らかだった。
「水戸は幕府を潰すつもりか。幕府どころか、このような内紛は国を危うくすることに気が付かぬのか」
 直弼は苛立った。幕府を経由せず、大名が朝廷と何らかの往来をするのは違法である。水戸藩に直ちに勅錠を幕府に提出せよと命じても、水戸は応じなかった。
「もはや強硬手段しかない」と直弼は決断した。
 数日前、高橋から伝えられた若者の言葉を思い出した。
「断固処分すべし。改革の妨げになるものは、草の根を分けてでもあぶり出し、徹底的に排除せよ」
若者は今までにないくらい激高して、高橋に伝えたという。改革を進めるにあたり最も重要なのは、抵抗勢力を一掃しておくことだという。
 その夜、直弼の夢の中に若者が現れた。「容赦はいらぬ。逆らう者は根絶やしにせよ」叫ぶ若者の背後に、もう一人の影がある。若者と同じく細面の輪郭に、目だけが異様に光っている。思わず全身が凍り付くような恐怖を感じた。
直弼はさらに不思議な夢をみた。荒野の中に直弼はいる。空は曇り、風が唸っていた。遠くに火の山が見える。あの山影は、いつも見慣れている比叡山のようだ。
 目の前には葉を落とした大きな木があり、白い死装束をまとった二人の者が縛られている。一人は女性。もう一人は若い男。この二人が母と息子に違いないと、直弼には思えた。二人とも目を見開いていたが、全く無表情だった。
「この者たちは死なねばならぬ」
 突然、天から恐ろしい声がした。
「二人にどの様な罪があるのですか」
 直弼は聞いた。
「罪はない。しかし、生きていたら大きなた禍を招くことになる」
「そのような理由で死なねばならぬのですか」
 直弼はさらに問いかけた。
「この者たちは死なねばならぬ。それが運命なのだ」
 声が一段と大きく響くと、二人の姿が消えていった。
直弼は目を覚ました。びっしょり汗をかいていた。あの声は何だったのか。最初に現れた若者も激高していたが、その声ではない。もっと恐ろしい…そうだ、若者の背後にいた影の人物だ。あの者は、わしに何を伝えようとしたのか。そして、あの母と息子は何者なのか。
 いや、夢は自分の潜在的な思いが出るという。わしは何をしようとしているのか。

 幕府は動いた。若狭藩主酒井忠義を新たに京都所司代に任命し、尊皇攘夷派の公家の家臣、藩士、浪士、学者などを次々と逮捕していった。長野主膳や、その配下の「たか女」こと村山たかが、京における尊王攘夷派の動静を探り、直弼に逐次報告してきた。反対勢力は予想以上に拡大しており、今一掃しておかなければ収拾がつかない状態になる。
 京都六角の牢獄は逮捕者であふれ、取り調べが間に合わず、重罪と思われる者は藤丸籠で江戸に送られた。幕府は町奉行、寺社奉行、勘定奉行、大目付、目付の五人からなる「五手掛」によって厳しく尋問し、厳重に処罰していった。最終的には、死罪八名、遠島七名、その他五十六名を何らかの刑罰に処した。事前に自害したり獄中死した者も十余名いた。
 僧の月照と西郷吉之助(隆盛)は京都を脱出し薩摩に戻ったが、海に身を投げた。西郷は息を吹き返すが、幕府を恐れた薩摩藩は死亡と届け、遠い南の果ての島に幽閉した。
水戸斉昭、国もとで蟄居。藩主水戸慶篤、謹慎。一橋慶喜、隠居及び謹慎。
同じ日に、水戸藩には家老安島帯刀を切腹、藩士三名を死罪、さらに数名を遠島にするという処分も伝えた。老公斉昭や藩主らの身代わりとしての厳しい処分といえる。
公家に対しては左大臣、右大臣が辞官のうえ出家、前関白、前内大臣は自ら出家を申し出るようにした。その他の公家衆も多数が処分された。公家は幕府が直接処罰できないので、朝廷から命令がでたという形式にした。一時解職された九条関白は復権していた。
 橋本左内、頼三樹三郎といった尊皇攘夷思想の中心人物も死罪に処した。
 死罪にした者たちの中で、最も直弼を悩ませたのが長州藩の吉田松陰だった。いつぞやペリーの船に乗ってアメリカへ渡ろうとした男だ。密航は犯罪だが、攘夷のため相手を知りたかったという動機に、我国にもこのような勇気ある若者がいたのかと感心した覚えがある。その時は、幕府としても寛大な処分をした。
 密航の罪で長州藩に預けられた後、しばらくは士分の者が入る牢獄にいたが、自宅謹慎となった。自宅においては、付近の者を集めて松下村塾という小さな私塾をやっている。当初、長州藩も幕府も黙認していたが、やがて過激な言動が目立ってきた。塾生たちを京都や江戸に派遣して、情報収集させているようだ。謹慎中といえど、その影響力は侮れないと長野主膳から報告が入っている。
 松陰逮捕の理由は、尊皇攘夷派の中心人物で、既に逮捕されている梅田雲浜との接触だった。松陰は長州から江戸に護送され、長州藩邸に拘禁された後、小伝馬町の牢獄へ移され、取り調べを受けた。結局、雲浜と直接の接触はなかったので、嫌疑は晴れたように見えた。ところが松陰は、門弟に命じて上洛した老中間部詮勝を襲撃し、場合によっては殺害する計画があったと自分から白状してしまった。未遂であっても罪となる。
 取り調べた役人からの判決の上申は、「遠島」だった。それを見た直弼は、当初妥当だろうと思った。しかし、このあまりに一途な若者には、何やら非常に危険な予感がする。
 迷っていると若様の声が響いてきた。
「容赦はいらぬ。逆らう者は根絶やしにせよ」
 そして、「この者たちは死なねばならぬ」と恐ろしい声もした。
 「遠島」という判決文を、直弼は「死罪」に変更させた。吉田松陰は三十歳で刑場に消えた。「一糸乱れることなく、堂々と死に臨んだ態度には感嘆した」という斬首した役人の言葉が直弼の耳に入ってきた。立場は反対であったが、松陰もまた国を憂う改革者だと直弼は思った。やがて、その後継者が松陰の志を継いで、果敢に立ち向かってくるだろう。
 これらは後に「安政の大獄」と呼ばれた大弾圧である。しかし、弾圧というのは反井伊直弼側、反幕府側、後の新政府側からみた場合であって、幕府からすれば法に基づいた秩序維持となる。これは単に旧体制を維持するためでなく、迫り来る諸外国に対抗できる国をつくるためである。政権を担う者は、時には急進的な改革を余儀なくされる。今がその時だ。改革の地ならしのため、反対派に対して非情な処置をとった。
新時代を切り開いていく改革者は、時には誤解され、最後は悪評のなかで倒れる運命が待っている。その覚悟の上で、後継者の種を蒔いておく必要がある。急進的に諸事を進めていても、先はまだまだ混沌としている。「改革は一代では難しい」と直弼は思っていた。

 反対派の処罰が一段落した頃、高橋が文書を持参してきた。
「若様が、古い文書から見つけた夢物語ですが参考にして頂きたいと申してました」
 今では、二人とも若者を「若様」と呼ぶようになっていた。名前は分からない。本当に無いのかもしれない。いつまでも「あの若者」では済まないので、佐野領の者たちと同じく若様と呼ぶことにした。それが一番自然なような気がした。
 直弼は半紙一枚に書かれた文書に目を通した。

  富国策
一 税は利益を得ている者すべてに課し、利益に応じて納付させること。
二 新たな地を開拓し、農作物、鉱物資源を獲得せよ。蝦夷地に目を向けよ。
三 国を開き、海外との交易で利益を上げ、海外の優れたるものは導入すること。
四 通貨を全国で統一し商取引の利便性をあげよ。
五 余裕のある者に金銭を出資させ、それをまとめて運用して、利益を分配せよ。

 わずか五項目の簡単なものだが、斬新な案である。
「若様は古い文書から見つけたと言ったのか」
「はい。それに基づいたと言っていました」
「これは『オランダ風説書』にあった、欧米の仕組みに似ているような気がする。それが、若様が持っている古い文書にあるというのか」
 直弼は考え込んだ。この改革案には、現在では頷ける点がある。自分が考えている内容に近いものもある。それを若様は、なぜ古い頃のものだと言うのか。
その夜、直弼はまた若様の夢を見た。
「開国しても待っているだけではだめです。こちらからも積極的に海外に人材を送り、諸国を視察した上で、今後どのように交流すべきか検討するのです」
今回の若様の言葉は穏やかだった。背後には、やはり影になった人物がいるが、以前とは違う者のようだ。
さらに夢が続いた。直弼は小高い山の上にいる。目の前には海が広がっており、山のすぐ下には大きな港がある。巨大な船が何艘も横付けされ、盛んに荷の積み下ろしが行われている。海の彼方に幾筋もの黒い煙が上がり、こちらに向かってきた。黒い船体をした蒸気船で、大砲がずらりと並んでいる。軍艦だ。十隻以上はいる。縦一列になって近づいてきたかと思うと、港の直前で次々と急旋回していった。見事な艦隊行動だ。マストには日の丸の旗が見える。
「おお、我国の船ではないか」と、直弼は喜びの声を上げた。
「ようやく、ここまで成し遂げましたな」
 隣りから話しかけられた。誰かいる気配がするが、何故か、そちらを見ることができなかった。しかし、先ほど若者の背後にいた人物であることはまちがいない。直弼は、春の日差しに包まれているような暖かさを感じていた。

開国は改革の入り口だ。本当の改革は、長年の孤立により遅れてしまった日本を、欧米諸国にひけを取らない国に変えることである。そのためには、海外事情を直接探らなければならない。この点では、佐久間象山や吉田松陰と同じであった。
 こちらから打って出ることが開国だ。直弼は将来に向けて、大きな決断をした。今度は日本人がアメリカに乗り込む番だ。幕府から使節団を派遣する。
 この遣米使節団はアメリカとの間に結んだ通商条約を批准するためのもので、開国後、日本が正式に派遣する最初の外交団となる。一行が乗船するのは、かつてペリーが再来航時に乗ってきたポーハタン号で、吉田松陰がアメリカ密航を計って乗ろうとした曰くのある船だった。この船で、日本人が逆にアメリカに渡る事になる。
 随行船として咸臨丸の派遣も決めた。日本船が日本人の手によって太平洋を横断するという実績をつくるためである。これが成功したら、欧米列国も日本の力量に一目置くに違いない。我国の者たちも自信を持ち、かつて黒船から受けた衝撃から解放されるだろう。
 開国後、幕府は大急ぎで咸臨丸を含む四隻の蒸気船を、オランダなどから購入した。これが日本海軍の最初となる。
 直弼は国の将来を託せる人材を派遣しようと、人選に悩んだ。使節団の正使は、外国奉行の新見正興。これは役職からして問題ない。副使は勘定奉行兼外国奉行の村垣範正。これもいいだろう。さて、実務を取り仕切る「観察」を誰にするかが最大の課題だった。肩書きだけではだめだ。外国人に対しても臆することなく、我国の威信を示し堂々と渡り合える人物でなければならない。そして、勇敢なだけでなく、明晰な頭脳と観察力も必要だ。そのような者が幕府内にいるか…。
直弼の脳裏に一人の人物が浮かんだ。小栗忠順、通称「又一」。三十三歳。小栗家は徳川家康の父松平広忠時代からの家来で、いわゆる三河以来の譜代旗本として、徳川家臣団の中でも最古参の家柄だった。二代目忠政は合戦のたびに一番槍の功績をあげたことから、家康より「又も一番槍」という意味で又一という名を拝命し、以来、小栗家では又一が跡取りの通り名となっていた。井伊家の徳川軍団の先鋒と並んで、小栗家の一番槍も伝説となっている。小栗忠順なら、この度の大命を果たしてくれるに違いない。
「安藤殿。いかがかな」
 直弼は人選の相談に当たっていた若年寄の安藤信正に尋ねた。
「又一でございますか。まさに適任です」
 安藤は同意した。そして、小栗のことを思い出してか、微笑んだ。
 小栗忠順は言いたいことは何でも遠慮なく言い、気に入らなければ辞表を出してしまうという癖のある人物だった。幕閣の中には難色を示す者もいるだろうが、この安藤信正は小栗の才能を見抜いている。安藤は間もなく老中になって、幕政を担ってくれるだろう。
 随行船の咸臨丸の方は、提督が木村摂津守喜毅、艦長が勝海舟だった。木村摂津守は長崎の海軍伝習所取締、軍艦奉行並で当時の海軍の第一人者である。勝海舟、三十八歳。長崎の海軍伝習所出身で現在は教授となっている。自尊心が強く、かなりの暴れん坊で小栗忠順以上の曲者だと評判だ。しかし、このくらいの男でないと我国初となる太平洋横断は務まるまい。それに、将来大化けする可能性もある。直弼は逆に楽しみだった。
「咸臨丸には勝海舟でございますか。小栗と別々の船なら問題はないでしょう。勝の父親の小吉も評判の乱暴者でしたが、海舟はさらに口が達者です。さぞや、アメリカ人も驚くことでしょう」
「アメリカ人に日本人の胆力を見せつけるのも、今回の使節団の目的の一つじゃ」
 直弼は満足げに言った。そういえば、勝海舟は現在謹慎中の佐久間象山の一番弟子だった。ということは、あの吉田松陰の兄弟子にあたる。皮肉なことに、勝によって、象山や松陰の海外渡航という夢が実現されることになるのか。
さらに通訳としてジョン万次郎こと中浜万次郎、木村の従者として福沢諭吉の名前もある。学問や語学力も重要になってくる。これを機に、さらに多くの人材を海外へ派遣し学ばせたいものだ。
使節団派遣に関して、直弼はアメリカ総領事ハリスとも何度も打ち合わせをした。ハリスは条約締結を迫る際は恫喝的な発言もしたが、実務においては誠実で、自分の代に日本の使節をアメリカに派遣できることに感激していた。
 安政七年(一八六〇)一月十八日。遣米使節団の乗ったポーハタン号が品川沖を出港した。さらに、翌十九日、咸臨丸が浦賀を出港。
 
 別々に出港した二隻は、どちらも無事サンフランシスコに着いた。咸臨丸一行はサンフランシスコを見学して帰途についたが、使節団はパナマへ行き、鉄道で大西洋側に渡り、別の船でワシントンへ行った。ホワイトハウスの大統領を訪問し大歓迎を受けた後、国務省で条約批准書交換の任務を果たした。
 その後、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークを見学し、アメリカ船で大西洋を渡り、アフリカ南端を回り、インド洋、ホンコンを経由して、九月に横浜に帰還することになっている。
なお、直弼は小栗忠順に特別の任務を与えていた。若様の富国策の写しを渡し、海外の制度について調査するよう命じた。そして、帰国したら勘定奉行の職を与えるから、海外で得た知識を生かして、制度改革をするようにと伝えてある。
 後々、小栗上野介忠順が井伊直弼の腹心だとされたのは、遣米使節団の責任者の一人に抜擢されたことからきている。直弼は幕臣の中では、特に小栗に夢を託していた。


  七  改革者の運命

 江戸の町に幾度か雪が降った。
 高橋吾郎は幕府の書庫に籠もり、若様の「富国策」の基となったという古い文書がないかと探しまわった。事前に直弼から書庫の担当者に対して話がついていたので、自由に閲覧できた。
一ヶ月余の調査の末、直接的な文書こそなかったが、約百年前に老中田沼意次の時代に行われた政策に似ていることに気づいた。意次は将軍の小姓から、一代で大名そして老中にまで出世した人物だ。
 当時から幕府の最大の政治課題は財政再建だった。いかに支出を減らし、収入を増やすか。武士の常識からいえば、質素、倹約による支出の削減を優先する。それが発想の限界だろう。しかし、意次は反対のことをやった。ありとあらゆる手段をつくして収入増加を図った。それらの様子が、当時の法令や報告書、調査書から読み取れた。
 まずは収入源の中心となる税制。それまでの税の中心は、農民による年貢米だったが、課税対象を成長著しい商工業者にまで広げた。株仲間や座といった同業者組合を認め、さらに利益を上げさせて、そこに税を課した。「百姓と胡麻の油は、絞れば絞るほどとれる」と言われたが、もう限界にきていた。一方、商工業者からは油がしたたり落ちている。そこに着目しない手はないと考えたようだ。
 また縮小ぎみだった長崎貿易を拡大し、利益を上げている。銅と海産物を出し、逆に金、銀を入れることで、海外の富を吸収した。さらに、大船を建造し、積極的に海外に進出しようとした形跡もある。貿易が目的だろうが、開国を考えていたようだ。鎖国を祖法といっているが、それが確立したのは三代将軍の頃だ。それ以後でも、長崎貿易は幕府が独占してきた。本来、貿易は国を富ますものだった。意次はそれに着目したわけだ。
 蝦夷地には調査団を派遣している。農地としての見込が六百万石。幕府の天領からの収入が四百万石だから、その一倍半の米が新たに得られることになる。ほかに鉱山開発やロシアとの貿易なども考えていたようだ。蝦夷地は宝島だ。
 南鐐二朱判の発行。この銀貨八枚で、金貨の小判一両と交換できるとある。これは、江戸の金経済と大阪の銀経済を統一するためのものだ。国内どこでも同じ高額貨幣が使えれば、商取引は便利になるだろう。しかし、金と銀の両替で利益を得ている両替商の反発を受けた。既得権者の抵抗は、いつの世でも厄介なものだ。
 貸金会所。全ての民から貨幣で出資してもらい、幕府が管理し、困窮する大名に貸し出す。大名を救済するとともに、利子付きで返金されたものは、利子を上乗せして出資者に戻される。この命令は、意次失脚直前に出されたが、実行されぬうちに廃止になった。金貸し業を幕府が大規模にやろうというのか。それとも、もっと大きな目的があったのか。
 こうしてみると、若様の「富国策」は、田沼時代に実施されかけたものである。しかし、開国を巡っては、百年経った今でさえ大混乱になっている。それを黒船の影さえ見えない百年前にやろうとしたのだから、反発を招いたのは当然と言える。他の政策も、それまでの常識を覆す大胆極まりないものだ。田沼意次という人物、天才か、それとも狂人か。
 結局、反田沼勢力は、賄賂政治家の悪名のもと意次を失脚に追い込み、改革を封じ込めてしまった。意次の領地は没収され、城は破壊された。これが時代を先取りし過ぎた改革者の運命なのか。
だから、田沼意次時代の資料は、幕府書庫において機密文書扱いになっている。その頃のものを、なぜ若様が持っているのだろうか。
 田沼意次…田沼村…。どうして今まで気が付かなかったのか。高橋は大急ぎで大名の系図集を確かめた。間違いない。
 とりあえず若様に確認した上で、直弼様に報告しなければならない。高橋は早る気持ちを抑えつつ、佐野へ向かった。

 安政七年(一八六〇)三月三日。桃の節句の時期なのに、江戸の町は朝から大雪だった。
増上寺裏手の愛宕山に水戸浪士十七名、薩摩浪士一名の計十八名が集結していた。井伊大老の暗殺部隊だ。両藩の過激派は、藩に類が及ばないように脱藩届けを出し、密かに江戸に潜入していた。当初、薩摩藩からはもっと大人数が参加するはずだったが、結局、有村次左衛門一人になってしまった。それでも、他藩から参加者があったことは、水戸としては心強かった。
 「斬奸趣意書」という決行の理由を述べた檄文も用意されている。そこには、「これは幕府への敵対ではなく、政治を私し、売国行為を行った井伊に対し、天下国家のため天誅を加えるためである」との主旨が書いてあった。
 登城する井伊直弼の供の人数は六十人。襲撃隊の三倍以上もいる。しかし、この大雪が味方してくれる。「赤穂義士の討ち入りと同じだ。幸先がよいぞ」と叫ぶ者がいた。
 それに、何人かは懐に短銃を隠し持っていた。これなら、防御が堅くても、遠方から狙撃することができる。
 十八名の浪士は、数人ずつに分かれて愛宕山を下り、江戸城の桜田門へと向かった。

井伊家上屋敷では、側近たちが今日の登城は見合わせたほうがよいと、直弼を押し止めていた。各方面から、水戸の過激派が襲撃を企てているとの情報がもたらされている。しかも、この大雪である。どのような不測の事態が生じるかもしれない。
「この様な天候の中、襲って来るようなことはあるまい。それより、皆が命を懸けている時、わしが逃げてはならないのだ」
 直弼は予定通り登城を命じた。警護の者たちは、刀をどうしようかと一瞬迷ったが、さらに降りしきる雪を見て、柄に袋をかぶせた。
 そういえば、ペリーと和親条約を締結したのも三月三日だったなと、直弼は思い出した。あれが、動乱の始まりだった。まだ六年しか経っていないが、世の中も、自分自身も大きく変わってしまった。わしをここまで変えたのはペリーの来航か、それとも若様か。いや、自分を変えられるのは自分自身だ。着替えをしているわずかな時間の中で、直弼の脳裏には六年間の出来事が次々と浮かんだ。
 支度を終え部屋を出ようとすると、子供たちが次々とまとわり付いてきた。幼い娘たちは代わる代わる何度も抱っこをせがんだ。一通り抱き終えると、子供たちを乳母に任せ玄関に向かった。正座した側室の里和は、目に涙を溜め悲壮な思いで見送った。
 五つ半時(午前九時)、赤門と呼ばれる井伊家上屋敷の門が開いた。ここから江戸城の桜田門までは二百間余り(約四百メートル)の距離だった。いつもなら、わずかな時間で通り過ぎる道程だが、今日は雪のため歩みが遅かった。雪に視界を阻まれ、桜田門はまだ見えてこない。
駕籠に揺られながら、直弼の心はなぜか穏やかだった。まだ、やるべき事はたくさんあるが、一息つけたような気がしていた。
 政権を担当する者は、常に現実の問題を解決しなければならない。時の変化に合わなくなった制度は、変更していく必要がある。この意味で政権担当者は、革新的でなければならない。自分は幕府の権威を維持しようとしたことで保守派と言われているが、開国し国を変えるという政策面では革新派である。
 政治に直接責任のない者は、自分の思いこみで勝手なことを言う。それが受け入れられないと、猛烈に抵抗してくる。その凶刃に倒れた者がどれ程いたことか。
 改革は一代で成し遂げられるものではない。改革者は、時には己を犠牲にしなければならない。時代の生け贄になる覚悟が必要だ。
 あの松陰という者。最期まで凛としていたという。おそらく彼の後継者たちが、猛烈な勢いで襲いかかってくるだろう。理念だけでなく、怨念も改革の起爆剤になる。
 わしの後には誰が続いてくれるだろうか。今、アメリカに渡っている小栗忠順や勝海舟らはどうか。彼らなら、アメリカを見て、わしの理想を分かってくれるはずだ。いや、わしの理想という狭いものでなく、この国の進むべき道を見いだしてくれると思う。
 そして、高橋吾郎。もともと聡明な男だが、さらにあの不思議な若様の力を得て、何かを成す宿命をもっているような気がする。
 もう、わしの役目は終わりに近づいているのかもしれない。
突然、行列前方から銃声が聞こえた。駆けていく大勢の者の足音と声。暫くしてから、刀で切り結ぶ音。おそらく警護の者たちは柄袋を取るのに手間取り、遅れをとっているに違いない。襲撃者は長い行列の前方だけではない。あれは、おそらく囮だろう。きっとこの近くにもいるはずだ。直弼の頭は極めて冷静だった。
「殿、お気をつけください」
 駕籠を守る剣豪の河西忠左衛門の声がした。素早く雨合羽を抜き、柄袋を外している音がする。駕籠は既に下に降ろされている。駕籠を担いでいた者たちは身を隠してしまったろう。今、自分のすぐ側には河西しかいない。
 やがて、斬り合いが始まった。河西一人で数人を相手にしている。直弼は居合いの達人だった。このまま駕籠の中で無抵抗のまま討たれたのでは、武士の恥である。駕籠から出ようとしたとき銃声がした。腰に激痛が走った。身動きができない。
 駕籠の中に刀が何度も差し込まれてきた。
 出血がひどく、目がかすんできた。やがて駕籠の外に引き出されたようだ。遠のく意識の中、二人の人物の影がふっと浮かんだ。声が聞こえる。
「これが改革者の運命じゃ。男の本懐と心得よ」
「ごくろうだった。あなたの役割は終わった。こちらで、ゆっくり話をしよう」
 それまで影となって直弼の夢に現れていた二人の人物の姿が現れた。今は顔がはっきり分かる。やはり、想像していた通り、肖像画で見たことのある人たちだった。自分を呼んでいる。連れていこうとしている。
次に、いつも彦根城から眺めていた琵琶湖が脳裏に浮かんだ。そして、緑におおわれたのどかな里山が見える。佐野領だろうか。これからは何の心配もなく、美しい風景の中を自由に飛びまわれる。
「ご免」襲撃者の叫び声とともに、すべてが消えていった。
 

  八  甦る血脈 

 明治十四年の晩秋。東京府小石川の長屋に書生風の若者が訪ねてきた。
「失礼します。梅沢でございます」
戸が開き、中から娘が現れた。色白で、切れ長の涼やかな目をしている。
「幸、入って頂きなさい」
奥から男の声がした。娘は会釈すると、若者を中に招き入れた。部屋は狭いながらきちんと整理されており、奥に敷かれた布団に男が寝ていた。男は上半身を起こし、散切りの髪をかき上げた。高橋吾郎だった。五十歳代半ばだが、病のため老けて見える。
若者は土間に下駄を脱いで部屋にあがると、高橋の前に正座し「お願いします」とお辞儀をした。
 この若者が高橋宅に初めて来たのは、二ヶ月前だった。
 梅沢東之介と名のり、近くの開業医宅に書生として住み込んで医術の勉強をしているという。用件は井伊直弼について聞きたいということだった。
 それまでも時折、隠棲している高橋のところに、井伊直弼の側近だったことを知った物好きが話を聞きに来たが、「話すことなどない」と追い返していた。東之介もその一人と思ったが、表情があまりにも真剣なので動機を聞いた。
 東之介は佐野の富岡村の出身で、子供の頃には隣村の天応寺でもよく遊び、井伊家の墓も知っていた。直弼の墓碑も地元の者の手で建てられたという。佐野では井伊直弼は名君とあがめられ、領内巡見を知っている老人たちは仏様のようだったと話していた。しかし、世間では独裁政治を行い、政敵を情け容赦なく抹殺した悪人と言われている。井伊直弼の本当の姿を知りたいという。
高橋としても、敵対した勢力によって作られた主君の悪評に心を痛めていた。自分の見聞きしたこと、暗殺後に江戸下屋敷から密かに持ち出した直弼の覚書などを基に、その実像を記したものを残そうと考えた。さらに、あの不思議な若様が与えた影響も。そこで、体調のよい時を選んでは、小説風に書き進めていた。明治になってから判明した事も書き加えた。現に、殿が目ざした通りに、ご維新と称する政治は行われているではないか。
 ただ、この記録はたとえ完成しても、封印したまま幸に託しておくつもりだった。公にするには、まだ早すぎる。反対勢力によって葬られてしまう危険性がある。だから、小説を装った。
 しかし、佐野で生まれ育ったという梅沢東之介が現れたとき、この若者になら伝えてもよいと思った。明治に入り七曜制が採用されると、週に一回、日曜は休日になった。書生身分の東之介だが、医師宅がクリスチャンだったので日曜日は自分の時間がとれた。そこで、週に一回、高橋の病状に差し障りのない範囲で、話をすることにした。一日に一章ごとに進めてきて、「桜田門外の変」と呼ばれるようになった暗殺事件まで終わっていた。
「秋も深まってきたな。わしも人生の秋となった。先を急ごうか」
 高橋が話し始めようとした時、幸がお茶を持ってきた。幸は軽く会釈をすると、東之介の前にさし出した。二人の目が一瞬合い、お互い恥ずかしそうに視線をそらした。父の前にも茶を置き、羽織を肩から掛けてやると、幸は部屋の端に行き正座した。高橋は最初の日から、娘にも一緒に話を聞くように伝えていた。
「実はこれからのことは、頭の中にあるだけで、まだ書いていない。いや書かないかもしれないので、心して聞いておいてもらいたい」
 高橋は今までのように小説風に語り出した。

これが最終章になる。
彦根藩内では、藩主暗殺という失態を招いた直弼の側近や警護の者たちへの粛正が行われた。家老の岡本半介が藩政を握り、藩の方針を尊皇攘夷へと転向させ、直弼に近かった二人の家老を謹慎とし、腹心の長野主膳を処刑した。長野主膳の活躍は目立ちすぎ、藩内でも浮いた存在になっていた。そこで、藩主を惑わし、今回の悲劇を招いた首謀者とされた。
 彦根藩から井伊直弼の跡が消されていった。
 高橋吾郎は佐野領に潜んでいたので、粛正を逃れることができた。悲報を聞いた時、江戸に駆けつけようとしたが、「わしに万が一のことがあったら、身を隠し生き延びよ。お前には、まだやらなければならない事がある」という直弼の言葉を思い出し自重した。
 一度だけ彦根から、直弼側近の高橋探索のため、五人の役人が峰助宅にやってきたことがある。高橋は覚悟を決め、離れ屋に正座していた。
 すると、峰助が庭先に仁王立ちになり、役人たちを睨みつけた。
「我らは今でこそ帰農し百姓をしているが、先祖は佐野家臣団である。この地に祀られる藤原秀郷公の流れをくむ板東武者の血筋だ。彦根には年貢をきちんと払っている。あとは口出し、手出し無用。勝手に敷地内に踏み込むことは遠慮してもらおう」
 いつも穏やかな峰助が、殺気を帯び、強い口調で伝えた。役人たちは、あまりにも毅然とした姿にとまどった。お互いに顔を見あわせた後、黙って引きあげて行き、二度と現れなかった。
 高橋は直弼自身に召し抱えられ、直属の密偵として活動していたので、主亡き後は彦根藩との縁もこれで切れた。その後は、一自由人として世の推移を眺めることにした。峰助から土地の一部を借り農業をしながら、時折変装して江戸に出かけ偵察していた。
 井伊直弼が桜田門外で暗殺されてから半年後、水戸斉昭は月見の宴の最中に急死した。あまりに急だったので、井伊直弼の祟りだとか、井伊家関係者による暗殺ではないかとの噂もあったが、真相は分からない。
 水戸藩でも残った過激派が水戸天狗党として暴発したが、幕府若年寄・田沼意尊率いる討伐軍に成敗されるに及んで、力を失っていった。尊皇攘夷運動は長州や薩摩といった外様の藩に中心が移った。
 一橋慶喜は将軍補佐となり実権を握り、やがて十五代将軍となって幕府の頂点に立った。しかし、実質的に幕府を運営し奔走したのは、アメリカに派遣された勝海舟や小栗上野介忠順ら開明的な幕臣だった。福沢諭吉は後に教育者として、新時代の指導的役割を担うことになる。
 遣米使節団が帰国したのは、直弼暗殺の後だった。欧米の優れた文明に直接触れた彼らは、直弼の方針の正しさを痛感しており、その死を惜しんだ。
 勝海舟は老中たちに、「アメリカと我国の一番の違いは何か」と問われたとき、
「あちらでは初代大統領の子孫が、今何をしているか誰も知りません。世襲はありませんので、優秀なものが指導者に選ばれます。アメリカでは、利口で能力ある者ほど地位が高くなっています。その点が我国と反対です」
と皮肉混じりに答えた。
「ただ、井伊の殿様は別格のようだ」とつぶやいた。
 慶喜は将軍在位一年で大政を奉還し、幕府を潰した。小栗は圧倒的な幕府側兵力を根拠に主戦論を述べた。東海道を進軍してくる新政府軍を、海に面した道で陸軍が挟み撃ちにし、さらに海上から海軍が艦砲射撃するという西洋流の陸海軍合同の作戦を述べた。しかし、慶喜には受け入れられず、小栗は辞任して領地に引き揚げた。やがて、侵攻してきた新政府軍に捕まり、裁判もないまま処刑された。この後、幕府勘定奉行だった小栗上野介が、幕府御用金を赤城山に隠したという「徳川埋蔵金」伝説が生まれる。当時、幕府に埋蔵するような金はなく、小栗はフランスから借金をしてまで、軍艦購入や製鉄所、造船所建設など近代化への布石を打っていた。
「金を埋蔵しておいて何になる。使ってこそ意味があるんだ」
小栗はこう言うに違いない。
 勝海舟は幕府側代表として西郷隆盛と交渉し、江戸城を無血開城して最後の幕引きを行った。皮肉なことに、彦根藩は鳥羽伏見の戦いの直後から、新政府軍に参加している。直弼亡き後、幕府は彦根藩を冷遇した。その結果がこれだ。

新政府軍が江戸に入ってくるのを見届けた高橋は、久しぶりに佐野に戻った。そこで、峰助から若様が亡くなったらしいと知らされた。
 ある夜、田沼村の稲荷神社付近の商家で火災があった。家の者は命からがら外へ出たが、まだ二階に子供が一人いると母親が泣き叫んでいた。周辺の者が集まってきたが、一階の火の回りが激しく、どうすることもできない。そこへ若様が駆けつけ、ためらわず火の中に飛び込んだ。やがて二階の雨戸が一枚開き、若様の姿が現れ、布団を外に投げ出した。父親と村の若者がそれぞれ両端を持つと、若様がぐったりした幼子を抱き上げ、布団めがけて投げた。子供は布団の真ん中に吸い込まれていった。母親がとびつき抱きしめた。
 その時、火が急激に燃え上がり、二階も炎につつまれた。炎の中に若様の姿が影のように浮かび、すっと消えると、家が燃え落ちた。
翌朝、火事場の跡を調べたが、若様のものと思われるものは何も残っていなかった。検分にあたった役人は、死体もなく名前も分からないのではどうしょうもないと引き揚げていった。村人たちは、若様はどこかで生きているに違いないと噂しているという。
 そこまで峰助から聞くと「そんなことが、そんな…」と高橋はつぶやきながら、小屋の中に入っていった。峰助と妻が食事を運んでいったが、小屋には鍵が掛かっており、嗚咽が聞こえてきた。
 母屋で寝ていた赤子二人も泣き出した。

 日本は大きく変動しているが、佐野は穏やかなままである。季節はいつもと同じようにめぐり、今、里山は桜で埋めつくされている。
 高橋はかつて井伊直弼から命じられていた、若様の正体を検証する最終段階に入った。
 今までに集めた情報や資料、自分なりに立てた仮説などは、それぞれ紙に書き出してある。あとは総合的に判断し、結論を文書にしたため、亡き主君に捧げようと考えた。
まず若様の血筋を推測する上で気になる人物が二人いた。それは、直弼の覚書にもしばしば出てきた名前で、時折、夢にまで現れたという。
 一人は、織田信長。若様が突然みせる凄みと、政敵を容赦なく排除せよと主張する様は信長を彷彿させる。既存のものをことごとく破壊した。そこまでしないと、長く続いた戦国の世は終わらなかったろう。しかし、新たな秩序をつくり上げる前に滅んだ。
 徳川家康の正妻・築山殿と長男信康は、信長の命令で殺されている。二人は信長が滅ぼした今川義元の血を引いていることから、反旗をひるがえす危険性があるとの判断だったのか。同盟を結んでいるとはいえ、信長は徳川家にとっていつ成敗されるか分からない油断ならぬ相手だった。家康の側には井伊直政が控え、警戒をしていた。築山殿と信康には、井伊家の血も流れている。信長への逆らいがたい恐ろしさは、井伊家の血脈の中に先祖代々伝わってきたのではないだろうか。
 そういえば、井伊家の中にも信長同様、冷酷な面がある。二代目直孝は、大阪夏の陣で城内に一番乗りすると、淀君と秀頼親子の隠れた倉庫に対し一斉射撃を加え自害に追い込んだ。家康には助命の意志もあったが、将来に禍根を残さぬようにと井伊直孝は独断で行ったという。この決断が、その後二百数十年間の安定につながったとも考えられる。

もう一人は、田沼意次。田沼村はかつて佐野家の一族である田沼家の領地だった。佐野巡見時の説明役だった落合幸吉を訪ね、田沼家の由来を聞いた。 

・鎌倉に幕府があった元仁元年(一二二四)に佐野家の九男である九郎重綱が田沼家を興した。田沼姓は領地の田沼村に由来する。西林寺は田沼家が建立した。田沼本家は戦国末期に断絶している。
・田沼意次は、田沼家の分家筋になる。六代目当主重正の弟光房には一人娘がいた。光房の娘は佐野家臣団高瀬家の男子と結婚した。四人生まれた男子のうち、長男、二男は高瀬姓、三男、四男は田沼姓を名乗った。
・三男の田沼忠高は田沼村を出た。戦国の世の末あたりのこと。その子孫たちは、各地を転々とし武州忍城の成田家、甲斐の武田家などに属した後、紀州徳川家に仕官した。田沼意次の父の代に、紀州藩主吉宗の将軍就任に伴い江戸に上り幕府旗本になった。意次は一代で、大名、老中へと出世した。

 田沼意次はこの田沼村と関係がある。
 最終的に意次は失脚し、革新的な政策は封じ込められた。開国、交易、蝦夷地開拓、税制など、若様から伝えられた政策は、百年前意次がやろうとしたことに類似している。
 また、直弼の祖父直幸も大老だったが、実権を握っていた老中田沼意次の推挙でその座に就いている。井伊直幸も田沼政権の一員だった。実質的には田沼意次が主導していたが、大老という立場からすれば、名目上は井伊直幸が政権の筆頭となる。その改革政策が、百年の時を経て、若様を介して直弼に伝えられたことになる。なお直幸の妻は、一族の井伊直朗の姉。井伊直朗の妻は、田沼意次の娘。井伊家と田沼家も姻戚関係にある。
  
信長と意次。この二人を前にしたら、さすがの井伊直弼でも気後れするであろう。若様には、その「気」が漂っていた。
 では、二百年も隔たった織田信長と田沼意次を結びつける接点はあるのか。あった。
 『寛政重修諸家譜』。幕府が文化九年(一八一二)に完成させた大名、旗本の系図集である。これにはっきり載っていた。高橋は井伊直弼の口利きで、幕府書庫の文書類を自由に閲覧できた。「井伊様の内密の御用」と言うと、書庫の担当者も遠慮して席を外したので、何でも見られ筆写も自由だった。一五三五巻からなる『寛政重修諸家譜』も片端から見ていき、重大な接点を見つけた。
 
・第一二一九巻、「清和源氏義家流 田沼家」より抜粋。
 意次の長男意知は暗殺される。
 孫意明家督相続。寛政八年大阪城勤めとなる。九月二十二日大阪で没。二十四歳。 妻は織田左近将監信浮の娘。

・第四八九巻、「平氏清盛流 織田家」より抜粋。
 信長の二男、信雄の系統。
 信浮の女子(長女)は田沼淡路守意明の妻。意明没してのち家に帰る。

まぎれもなく両家の間には婚姻関係がある。しかし、田沼意明は二十四歳で死去し、妻は実家の織田家に戻っている。結婚期間は、幕府への婚姻届の日付から見ると十ヶ月間。子供がいたという記載はどちらにもないが、いても不思議ない。
 織田信浮の娘が天童織田家で、田沼家の血を継いだ子供を産んだとする。はたして祝福された誕生か。田沼意次は失脚した、いわば罪人。
 田沼意明の死後、田沼家の家督は弟意壱、次の弟意信、分家の意定と継がれるが、次々と若死。意壱二十一歳、意信二十二歳、意定二十一歳。不自然だ。何か陰謀ではないか。
  織田では、もし男子が生まれたとしても隠すだろう。

田沼村民の話。浪人風の父子が西林寺にやって来た。父はすぐ病死。子は若様。若様には神がかり的なところがある。
 西林寺住職の話。寺は田沼家が建立。若様は寺に縁のある方の子孫。毎年、若様の賄料が届く。

元治元年(一八六四)、水戸天狗党の乱。田沼村民の話。
 鎮圧軍総統・田沼意尊が下総古河に来たとき、田沼在住の田沼家旧臣の子孫三十六名、一瓶塚稲荷神社で戦勝祈願の護摩を焚く。意尊は意次の曾孫。田沼村の者たちは、かつて領主だった田沼家のことを、二百年以上経った今でも忘れずにいる。
 なお、その場に若様が現れ、じっと見ていたという。翌日から、しばらく若様の姿を見かけなかった。(若様が付近を通った田沼意尊に会いに行ったということはないか。)
 その後、鎮圧軍は降伏した水戸天狗党三百余名を容赦なく斬首した。幕府の命令とはいえ、このような大量処刑を一気に断行した田沼意尊には、何かが取り憑いたような凄みがあったという。

 さらに、二枚の肖像画。井伊家下屋敷から、高橋が密かに持ち出した直弼の私的な書類箱の中にあった。絵師を派遣して摸写させたものだろう。予想通り、織田信長と田沼意次だった。この二枚の肖像画を見ると、確かに似ている。そう、あの若様に。おそらく、直弼もこの二人と若様の関係に気づいて、絵を入手したのだろう。

 この他にも、様々な事実と推測が高橋の頭の中を巡り、そして一つへ集約されていった。それを直弼あての「報告書」として記すことにした。直弼からは、口頭での報告を命じられていて、文書を求められたことはなかった。今、報告書を書いたとしても、肝心の主人はもうこの世にない。それでも、一つの「けじめ」として書いておきたかった。
 高橋は懐かしい直弼に口頭で報告するがごとく、口語体で報告書を作成した。

 井伊掃部頭直弼 様
  佐野領の若者(若様)の血脈につき報告                
 寛政八年、田沼家と織田家は姻戚になりました。田沼意次失脚後、家督を相続した孫意明に、出羽天童の織田信浮の姫君が嫁ぎました。しかし、十ヶ月後、田沼意明は二十四歳の若さで大阪にて病没しました。意明の妻は、実家の織田家へ戻りましたが、懐妊していた可能性もあり得ます。
仮に男子が誕生したとします。子の誕生は祝福されたでしょうか。世は老中松平定信の改革の嵐が吹き荒れ、田沼関係者は粛正されています。田沼家も意明が二十四歳で死去した後、なぜか跡を継いだ三人も相ついで亡くなっています。織田家では、田沼の血を継ぐ男子の誕生を秘密にしたと思います。そして、どこか人目につかないところで、幽閉か、それに似た状態においたはずです。おそらく、江戸から遠く離れた出羽天童の織田家の領地のどこかでしょう。
 やがて、成長した男子に子供が誕生しました。母がだれで、どういう状況で生まれたかは分かりませんが、生まれてきた子供があの若者、「若様」です。
父子は相変わらず、監視された状態で、世捨て人として生きていくしかありませんでした。父は自分だけでなく、我が子にも同じ運命が待っていることを恨みました。自分が織田家と田沼家の血を継いでいることを感づいていました。偉大なる先祖を持つ自分たちが、奥州の片隅で朽ち果てることは無念でした。そこで、いつの日にかこの境遇から脱け出そうと思い続けていました。
 子供がある程度の長旅に耐えられるまで成長するのを待ち、警戒のゆるむ冬、脱出しました。何故か私の夢の中に、降りしきる雪の中を歩く父子の姿が何度か現れたことがあります。今となってみると、この時の光景ではないかと思います。
目ざしたのは江戸。しかし、父は病を得てしまいました。そこで、途中の下野国田沼村にある田沼本家の菩提寺・西林寺を頼ったのでしょう。父は当時の住職に経緯を話し、子供を託して亡くなりました。田沼村の田沼本家は、戦国の世の末期、当主が討死して断絶しています。住職は意次の流れをくむ田沼分家に知らせました。田沼分家は、意明を含め四代が若死にした後、他家に養子に行っていた意次の四男意正が復帰し、家督を継いでから安定しています。意正は若年寄、側用人を務め、かつての領地だった相良にも復帰し、田沼家の名誉を回復しました。その孫が、現在若年寄の田沼意尊です。
 毎年どこからか届くという若様の賄料は、田沼家からだと思います。若様の部屋にあるという膨大な書物も、同じく届けられたものでしょう。若様と田沼意尊は直接会い、情報を交換していた可能性もあります。若様の膨大な知識と、最新の情報はここから得られていたのではないでしょうか。そこに天性の閃きが加わり、世の中への鋭い洞察が生まれたのです。
 田沼家は佐野全体を治めていた佐野家の血筋を引いています。田沼村だけでなく一帯の村々の者たちが、若者をいつの間にか「若様」と呼ぶようになったのは、先祖代々受け継がれてきた潜在する記憶によるものと思えてなりません。これは直弼様も同様ではないでしょうか。織田信長や田沼意次に服従しなければならなかった先祖の記憶が、若様の前に出ると甦ってくるのです。
 若様には先祖の血筋のなかで、特に織田信長と田沼意次の気質が色濃く伝わったのだと思います。それで、ある時は恐ろしく、ある時は優しくと、極端に異なった人格を現してくるのです。このような特異な気性は、生まれた時から強いられた幽閉生活から生じたものかもしれません。
 若様にはとてつもなく偉大な改革者の血脈が宿っています。しかし、世に出てその才能を発揮する機会がありません。これは、埋木舎時代の直弼様と同じ境遇です。しかし、直弼様は世に出ました。偶然か必然か分かりませんが、若様と直弼様は佐野領で出会いました。若様は直弼様に託したのではないでしょうか。そこには、改革半ばで倒れた信長や意次の悲願が込められていたと思います。
 ペリー来航から我国は未曾有の混乱となり、根本的な改革が急務となりました。この危機に際し、若様によって織田信長、田沼意次、直弼様という三人の改革者が一本の糸で結びつき、直弼様が動きました。しかし、改革は一代で成し遂げられるものではないと、直弼様が言われましたように、まだ途上にあります。
 幕府はもうありません。
今、年号は明治と変わり、遠く函館では旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが行われています。間もなく、かつて直弼様に反対し、尊皇攘夷を唱えた者たちが、この国の政治を担うことになるでしょう。しかし、その内容は直弼様が目ざし、布石を打っておいたものになるはずです。改革はそこで完成します。
 私も時折、匿名の意見書を、政府に送りつけようと考えています。
 お三方に加え、若様まで旅立たれてしまいました。私は新政府の改革を見届け、「そら見たことか、結局、直弼様がなさろうとした通りではないか」と悪態をついでから、そちらに参ります。後は永遠の時間の中で、ゆっくりと新しい国の様子をご報告いたします。
高橋吾郎

部屋の中には、明り取りの窓から秋の夕陽が差し込んでいた。高橋は冷めたお茶を一口飲むと大きく息をついた。夕陽のためか、ここまで一気に話したことによる高揚からか、顔が赤く染まっている。東之介と幸は、高橋をじっと見つめていた。
「わしが話せることはこれだけだ。最終章の後半は、わしの妄想かもしれない」
 高橋の声は弱々しかった。
「若様の中にあった改革者の血脈が、直弼公を動かし、井伊家が本来持っていた先鋒としての勇猛な血を甦らせたということですね」
 東之介は高橋の推理を総括するつもりで、やや文学的な表現をしたが、部外者が出過ぎたことを言ってしまったと後悔した。
「先鋒は死ぬことのほうが多い。覚悟の上とはいえ、殿は時代の先鋒となられた。わしは直弼様に穏やかな殿様のまま長生きして頂きたかった。そうすれば名君として名を残せた」
 これが高橋の本音だった。
「私は佐野の者として、直弼公、意次公を誇りに思います。いずれかきっと改革者としての真価が評価され、汚名が返上される日がくるでしょう。それでなければ、私がやります」
「そう言ってもらえれば、君に伝えてきた甲斐がある」
 高橋の顔に安堵の色が浮かんだ。
「ところで、若様も亡くなったわけですね。織田と田沼の両方を受け継いだ、貴重な血脈は消えてしまいました。残念です」
「いや、そのようなことはない」
 高橋は幸の方に目をやった。東之介もそちらを見た。幸はうつむいている。
「幸は、若様の子じゃ」
「えっ。では、高橋様のお子様ではなかったのですか」
「父親はわしだ」
 東之介はわけが分からなくなった。高橋は核心に入った。
「母親が若様だ。若様は実は女性だった。ある夜、小屋にやって来た若様は告白した。自分の生まれも名前もよく知らないが、亡き父親から、世に出るためには男でなくてはならぬと言われことは覚えていたそうだ。それで男装をしていたと。自分が女性であることを明らかにした安堵感からか、若様は初めて微笑んだ。その美しかったこと、何と表現したらよいか。そして…わしに身を任せた。生まれてきたのが幸じゃ。峰助夫婦にも同じ頃赤子が生まれていたので、一緒に育ててもらった。わしの江戸滞在中に、若様は炎の中に消えて行った。世の中が一段落すると、幸を連れて東京に出た。わしは幸を女として育てている」
 思わぬ展開に東之介は戸惑い、頭の中での整理が追いつかなかった。
「最後に、一つだけ心残りがある。それを君に頼みたい」
 高橋は真剣な眼差しで東之介を見た。東之介は思わず姿勢を正した。
「幸だ。この血脈を君が受け継いでくれないか」
 うつむている幸の頬が、赤く染まった。


 エピローグ

明治十五年。梅沢東之介は医師開業試験に合格した。東京で二年ほど医師として修行し、高橋吾郎の最期を看取った後、新妻の幸を伴い郷里に帰った。
 田沼町の西林寺近くに、新しく医院が開かれた。

明治維新と呼ばれる改革は急速に進み、西洋文明が日本を席巻していった。税は資産のある者に課せられ、貨幣で納めることになった。通貨は円で統一され、金融資本は銀行によって運用されて、新たな富を生んでいる。蝦夷地は北海道と名称が改められた。農地や鉱山の開発が進み、函館は北の貿易港として発展し、巨大な宝島と化した。かつて田沼意次や井伊直弼が描いた改革の夢が実現した。
 西郷隆盛に率いられた最後のサムライたちは鹿児島の地に消え、薩摩、長州藩出身者を中心とする政府が改革を継承している。徴兵制によって編成された近代的な軍隊は、清国、ロシアという巨大国との戦争に勝利した。特に海軍は日本海海戦において、世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を殲滅させ世界中を驚愕させた。ペリー艦隊来航から、わずか五十年後のことである。
 日露戦争が終結してから一ヶ月後、連合艦隊司令長官東郷平八郎は東京麹町の自宅に、小栗貞雄、国子夫妻と、跡取り息子又一の三人を招いた。東郷は深々と頭を下げ、「日本海海戦の勝利はお父上、小栗上野介殿のお陰です」と礼を述べた。もし、この海戦で敗れていたら、戦争の状況は逆転し、日本はロシアの属国になった可能性もあった。この国難を救ったのが小栗だという。
 小栗上野介が進めてきた横須賀製鉄所建設は、明治政府に引き継がれ完成していた。やがて製鉄所は、横須賀造船所、横須賀海軍工廠と名を変え、国産の艦船を次々と生んでいった。連合艦隊八十九隻のうち二十二隻は、横須賀で建造したものだった。
 また、海戦前、連合艦隊全艦は横須賀でドック入りし、整備を済ませて万全の態勢をとった。一方、バルチック艦隊は半年以上もかけて航海してきたため、故障がちで、艦底には貝や海藻が付着して高速航行ができなくなっていた。海戦には戦術面だけでなく、艦船の整備状態も大きく影響したという。日本海海戦の大勝利は、横須賀海軍工廠と、苦しい財政の中それを創った小栗上野介のお陰だと東郷元帥が語った。このことで、幕末の動乱期に小栗ら開明的な幕臣が取り組んできた仕事が再評価された。それは、井伊直弼の描いたものである。これこそ幕府が埋蔵していた宝だと言える。

東之介と幸の子供の義は医学校に通っていたが、作家をめざすと言い出し突然退学してしまった。その後、役所の書記をしながら小説を書いていたが、作家としては一向に芽が出ない。自分には書かなければならない事があるという思いはあるが、それが何かつかめずにいた。
 ある日、義は蔵にある古い箪笥の中から、高橋吾郎が書きためていた草稿を見つけた。母の幸に尋ねると、祖父が仕えた井伊直弼に関する小説仕立ての記録だという。「今まで大事に保管してきましたが、もう世に出しても構わないでしょう」と義に渡した。
 東之介としても、吾郎の悲願をかなえたかったが、医師としての仕事が多忙を極めていた。地方において、近代的な医学を修めた医師は極めて少なかった。真夜中でも急患の知らせがあると、人力車に乗って往診した。貧窮する者ほど病気になりやすい。そういう人たちからは、後でよいと言って治療費は取らなかった。
 さらに、佐野南部の渡良瀬川沿岸地域では、難病が多発していた。地元選出の代議士田中正造が、原因は足尾銅山にあると国会で訴えている。何かとてつもない事が起こっているようだ。佐野地区の医師たちは病人への対応に追われた。東之介は地区医師会の理事も務めていた。
 井伊直弼と若様の事を著そうという高橋吾郎の悲願は、東之介と幸の子供に引き継がれた。祖父の吾郎の草稿と両親から聞いた話をもとに、世の中の推移や、後に判明した事実なども参考にして、義が書き上げたのが本書である。

動乱の世になると、改革者の血が甦ってくる。この血脈が自分に、そして子孫にも続くのかと思うと、重い荷を背負っている宿命を痛感した。時折、その重圧に押し潰されそうになる。
「そうだ。これは小説なのだ」
義はつぶやいた。  関連史実年表

一五六〇(永禄三年)桶狭間の戦い その後、井伊家は今川を離れ、     徳川につく
一五八二(天正十年)織田信長 本能寺で死す 井伊直政、家康を    守り三河帰還
一六〇〇(慶長五年)関ヶ原の戦い 井伊直政先陣
一六〇三(慶長八年)江戸幕府成立 一代目井伊直政、徳川四天王     筆頭
一六一五(元和元年)大阪夏の陣  二代目井伊直孝先陣
    (前年佐野家取り潰し)
一六三三(寛永十年)佐野領が彦根藩井伊家の領地となる
一七七二(安永元年)田沼意次老中になる
一七八六(天明六年)田沼意次失脚。孫の意明が田沼家を相続
一七九六(寛政八年)田沼意明病死。妻は実家・織田家に帰る
一八一五(文化十二年)井伊直弼誕生
一八三四(天保五年)直弼養子先を探すため江戸に出る
一八四六(弘化三年)直弼 跡継ぎになる
一八五〇(嘉永三年)直弼 彦根藩主になる
一八五三(嘉永六年)三月 佐野領を視察 六月 ペリー来航
一八五四(安政元年)ペリー再来航、日米和親条約締結、吉田松陰密航未遂
一八五八(安政五年)井伊直弼大老になる 日米修好通商条約締結
一八五九(安政六年)安政の大獄始まる 吉田松陰処刑
一八六〇(安政七年)遣米使節団派遣 桜田門外の変で直弼死去
一八六四(元治元年)水戸天狗党の乱 田沼村で田沼意尊の戦勝祈願
一八六七(慶応三年)大政奉還・江戸幕府崩壊 戊辰戦争
一八六八(明治元年)明治となる

 史実 参考文献
・『寛政重修諸家譜』続群書類従完成会
・『相良町史』相良町教育委員会
・徳永真一郎『井伊直弼』成美堂出版
・星亮一『井伊直弼』PHP文庫
・奈良本辰也、左方郁子 『佐久間象山』清水書院
・司馬遼太郎『世に棲む日日』文春文庫
・M・C・ペリー『ペリー提督日本遠征日記』小学館
・NHK『歴史への招待』15 日本放送出版協会
・安蘇史談会報『史談』十七号 特集 井伊直弼佐野領巡見
・「佐野の歩み」佐野市郷土博物館 第46回企画展資料
・関根徳男『田沼の改革』 郁朋社   
・関根徳男『通史 田沼意次』 思門出版会
・西林寺蔵 田沼家系図  ・関根家蔵 高瀬関根家系図





 
『意次夢想』

*もし、田沼意次が最期に、自分の思い(本音)の全てを話したとしたら。


・異例の出世を遂げ時代の寵児だった田沼意次は、賄賂政治家として失脚し謹慎の境遇にあった。老いた意次は自己弁護することなく、迫り来る死をじっと待っていた。

・ある夏の日、龍次という瓦版屋が密かに訪ねてきて、意次に取材を申し出る。

・龍次の不思議な魅力に意次は気を許し、尋ねられるままに自分の本音を話していく。
(長男・意知の暗殺事件。賄賂疑惑への見解。田沼家のルーツ。田沼の改革の全貌。意次の改革を葬り去った黒幕。… )

・思いの全てを話し終えた意次は、眠るように息を引き取った。瓦版屋龍次の正体は?



本文

        一

「田沼様、田沼様。龍次でございます」
 その声に意次は目を覚ました。
 縁側で座ったまま眠っていたようだ。
「ああ、龍さんか。いつもより早いな」
 庭先には旅姿の若者が立っていた。
「はい。しばらく旅に出ることになりましたので、今日はお暇乞いにまいりました」
「暇乞いとは大げさだな。もう二度と戻らぬわけでもなかろう」
「こういう稼業は、いつ戻れるかわかりません。旅先で命を落とすこともあります。ですから、念のため田沼様には別れのご挨拶をしておこうと思いました」
「そうか、寂しくなるのう」
 若者が田沼家下屋敷に初めて姿を見せたのは、一ヶ月程前のことだった。

 田沼意次は二年前まで幕府老中として権勢を誇っていた。それが、今や罪人として蟄居謹慎の身となり、わずかな奉公人がいるだけの屋敷に籠もっている。本来は外部世界と遮断するため、菱形に組んだ竹囲いが張りめぐらされるのだが、さすがに元老中ということでそこまではされなかった。それでも、昼間も雨戸を閉め、謹慎の意を表さなければならない。
 梅雨も明け急に蒸し暑さが増してきたので、午後には雨戸を一枚だけ開け縁側で涼むようにした。七十歳になり体力もすっかり衰えた意次にとって、この暑さは身にこたえた。そこで身の回りの世話をしてくれる女中の紀代が、そっと雨戸を開けてくれていた。
縁側にいても何もすることはなく、ぼんやりと庭の木や池を眺めるだけだ。この池ができたとき、何気なく「ここに鯉や鮒を放し、毎日眺められたら面白かろう」と側近に話した。すると、その日の勤めから帰って来たら、池の中は贈られてきた魚でいっぱいになっていた。全盛期のころの逸話である。現在、池の水は濁ってしまい、魚が生息しているのかどうか分からない。
もはや何の生き甲斐もなく、あとは迫り来る死をじっと待つだけだ。当初、新鮮に感じた午後の縁側での一時も、もう飽きてしまい、うとうと居眠りすることが多かった。
 ある日、眠りから覚め何気なく庭先を見ると、一間(一.八メートル)ほど離れた所に町人風の男が立っていた。
「お目覚めですか」
 男の方から声をかけてきた。耳はまだ達者だが、目はかすみがちだ。寝起きということもあり、男の顔はぼんやりとしか分からないが、声からすると若者のようだ。
「ああ、目覚めた。ところで、其方は誰かな」
 意次は落ち着いた口調で尋ねた。不思議と、その者の存在に違和感がなかった。
「はい。瓦版屋でございます」
「瓦版屋?よくこの屋敷に入って来られたな。周囲は幕府の者たちが、人の出入りを厳しく取り締まっているはずだ」
「あれっ、そうですか。全く気にしないで裏門をくぐってきました。堂々と通ったので、見逃してくれたのかもしれません」
男はあっさりと答えた。そのような事もあるのかと意次は思った。
 蟄居謹慎処分になった当初は、かつて懇意にしていた者が密かに尋ねて来ることがあった。謹慎中、外部の人との接触は御法度だが、それほど厳格なものではない。来訪の目的は、長年お世話になったお礼の挨拶や差し入れだったが、老中松平定信は田沼派復権の密議ではないかと疑い警戒を強めた。出入りした者は厳しく取り調べられ、処罰されたようだと下男が教えてくれた。大名であっても容赦はされなかったという。
 謹慎直後、長年仕えてきた下男が病気を理由に隠居して、代わりの下男がやって来た。三十歳代後半の目つきの鋭い男だった。この者が幕府の密偵で、自分を見張っていることを意次は薄々分かっていた。
瓦版屋だという者が簡単に入ってこられたところをみると、警戒が緩んだようだ。定信は新政権がもう安泰だと判断したのか。それとも、わしの最期が近いと思ったのか。見くびってくれたな。もっとも、元々反撃する気もないが。ただ、政治はきれい事だけで済まないことを、定信やその同調者が思い知らされるのは、そう遠くはないだろう。その時、自分のやろうとした政策が見直されればいい。
 意次が考え事をしている間、若者はじっと待っていた。

「ところで、何のためにここに来た」
 急に意次が問いかけた。
「ようやく私のことを思い出していただけましたか。目的は田沼様の取材です」
「取材。どういうことだ」
「今、世間では田沼様の評判は最悪です。上様をたぶらかして成り上がり、賄賂政治によって世を腐敗堕落させた大悪人と言われています」
「本人を前に、よくそこまで言えるのう」
 意次は苦笑いをした。
「しかし、田沼様は何も言い訳なさりません。沈黙を守っておられます。悪口の言われっ放しです。悔しくありませんか。誤解されたままでよろしいのですか」
男の言葉が熱を帯びてきた。
「なぜ誤解だと、其方は断言できる」
「私は瓦版を生業にしております。食べていくためには、時には金をもらって記事を書くこともあります。実は、私も数回、田沼様の悪事を瓦版にしてばらまきました。仲間内にこれを専門にやっている者がおり、手が足りないと私どもにまわして寄こすのです。依頼主から渡された資料に基づき、記事にすればいいのですから簡単です。取材はいりません。資料より誇張して悪事を書くと、後で追加手当が出ることもあります。真偽も確かめずに、この様なことを行ってきたのです」
「驚いたな。書いた本人が言うのなら間違いなかろう」
 実はそれほど驚くことではないと、意次は思っていた。政権の中枢にいた人物なら、こういう事があるのは覚悟の上だった。
「今更言えたものではないのですが、私は瓦版屋の良心を取り戻したいのです。私は自分の目で見たこと、直接聞いたことでなければ記事にしないことを信条にしてきました。どんなに遠くても、現場まで行き確かめることにしています。数年前の大飢饉では、奥州中を旅してきました。一村全員が餓死した地では、廃屋の中に家族全員がきちんと並んで白骨化しているのを見ました。赤子の小さな頭蓋骨を思い出し、一晩中泣きました。感情的になり過ぎてもいけませんが、現地においてそのような強烈な経験をした上で、幕府の無策を批判した記事を次々と書いたのです。そこでは、幕政の最高責任者である田沼様を批判したこともあります。しかし、後に金をもらって書いた記事は違います。それを思うと、私は苦しいのです」
 意次はいつの間にか姿勢を正して、若者の言葉を聞いていた。
「わしの政治にも至らぬ点があったことは認める。しかし、悪評の中には、全く身に覚えのないことが多くあることも確かだ。それで、其方の目的は何なのだ」
「真実です。田沼様に直接お聞きして、私の記事の真偽を確かめたいのです。私の良心などという狭い了見でなく、田沼政治を正しく世に伝えたいのです」
 また、意次は考え込んだ。この者の言うことは分かる。ありがたい。しかし、ありがた迷惑でもある。わしは政治的には敗者なのだ。何を言っても負け犬の遠吠えとなる。だから、自分からは何も言い訳はしないと決めていた。他人の手で間接的にやってもらったとしても、同じではないだろうか。
「それで、わしから聞いたことを瓦版にしようというのか。はたして見向きされるものか。商売になるとは思えないが。それより、出版が厳しく統制された今のご時世で、危険すぎるのではないか」
意次は、やや意地悪く問いかけた。
「いえ、瓦版ではありません。できれば書物にして、自由な世になったとき、問題提起したいと考えています。失礼ながら田沼様亡き後、場合によっては私も消えてからになるかもしれません。その日のために、草稿を残しておきたいと思っています」
「壮大な夢じゃな」
「はい。それが私の、そして田沼様の夢だと思います。ご多忙かもしれませんが、どうかご協力をお願い致します」
「多忙か。そう、多忙すぎる。だから、いつでも構わぬ。特別に時間をとろう」
 まだ、わしにはやり残したことがあったのか。意次は退屈な毎日に、一筋の光が射してきたような気がした。
その時、下男が箒を持って庭に入ってきた。意次も若者も黙った。下男は庭を掃除をするわけでもなく、意次に会釈をすると、そのまま通り過ぎていった。


        二

「瓦版屋。其方の名前は何という」
 二度目に若者に会ったとき、意次が聞いた。あれから数日後、縁側での居眠りから覚めると、ちょうど若者が現れた。
「龍次と申します」
 若者は懐から矢立と紙を取り出し、大きく「龍次」と書いて意次に示した。商売柄、こういう道具は常に携帯しているようだ。意次は目を細めて、紙に書かれた名前をじっと見た。
「龍次さんか。いい名じゃ。わしの幼名は龍助だった。現在は意次だから、ちょうど二つを合わせたような名前だ。まさか、わしに取り入るための偽名ではないだろうな」
「とんでもございません。生まれたときから由緒正しい龍次です。親父が昇り龍にあやかって付けたと言ってました」
「そうか。わしも龍が気に入っていたので、長男意知、孫の意明とも幼名を龍助とした。長男の龍助が成長し意知と改名してからも、二人で話すときは龍さんと呼んでいたな。どうかな、これからは其方を龍さんと呼んでも構わぬか」 
「ご子息と同じでございますか。おそれ多いことです」
 若者は頭を下げ、了承の意を示した。
 長男の意知は四年前に殺害され、もうこの世にいない。意次の失脚後、孫の龍助が意明と改め田沼家を継いだ。今は別々の屋敷に住んでおり、蟄居謹慎の身では会うことができずにいる。まだ意明を龍さんと呼んだことはない。
 「龍さん」には、意次の複雑な思いが込められている。龍次はそれを感じとっているようだ。まだ二度しか会っていないこの若者を、意次はなぜか急に「龍さん」と呼んでみたくなった。不思議な男だと思った。

「それでは今日から、いろいろと伺っていきたいと思います。いきなりで申しわけありませんが、私が最も不思議に思っているのが、意知様の暗殺事件でございます。ただ、思い出すのがお辛いようでしたら、この件は止めにします」
ためらいがちに龍次が言った。
「構わぬ。わしとて武士じゃ。泰平の世であっても、自分だけでなく家族の死に対する覚悟もできておる」
「おそれ入ります。それでは、まず、私が調べました事件のあらましを瓦版の記事風に説明いたします。敬称は略します」
 何も見ることなく、龍次は語り始めた。

天明四年三月二十四日、江戸城中衆目の中で、若年寄・田沼意知が旗本・佐野善左衛門に斬られ、その傷が元で死亡するという事件が起こった。
 同日夕刻、執務を終えた意知は三人の同僚と共に若年寄部屋を出た。若年寄は五人いたが、伊勢八百藩主・加納久堅は残務があり部屋に残り、武蔵金沢藩主・米倉昌晴は加納の様子を確認した後、部屋を出た。田沼意知、遠江掛川藩主・太田資愛、出羽松山藩主・酒井忠休の三人は連れ立ち、米倉昌晴はやや遅れて歩いていた。
 「土圭の間」、「中の間」を過ぎ、「桔梗の間」にかかろうとした時、新番組の詰め所に控えていた五人の新番士の中の一人佐野善左衛門が突然走り出してきた。佐野は二尺一寸の太刀を抜き、「覚えがあろう」と叫んで田沼意知の背後から斬りつけた。振り向いた意知は、肩先から袈裟懸けに斬られた。四十畳敷きの「中の間」には、十六人の者がおり、意知と共に三人の若年寄もいたが、その目前での犯行だった。
 意知は脇差しを持っていたが、殿中なので刀を抜かず、鞘で受け止めようとしたが防ぎきれなかったようだ。佐野は二の太刀を振り下ろしたが、「中の間」と「桔梗の間」の境の柱に当たった。傷を負った意知は、後ずさりしながら「桔梗の間」に逃げ込んだ。柱にくい込んだ刀を引き抜いた佐野は、抜き身の刀を持って人々の間を抜けて追いかけた。
 意知に追いついた佐野は、とどめを刺そうと腹を突く。意知は鞘で払う。刀はそれたが、股に刺さった。佐野は刀を引き抜くと、もう一度同じあたりを刺し深手を負わせた。意知はうつぶせに倒れ、善左衛門も疲れてよろけた。七十歳になる大目付の松平忠郷は離れた場所にいたが、騒ぎを聞いて駆けつけ、善左衛門を後ろから羽交い締めにした。さらに目付の柳生久通が、血まみれの刀を取り上げ、ようやく取り押さえた。
 意知は御番医師二名の応急手当をうけた後、登城時に乗ってきた駕籠で、父意次の神田橋上屋敷に運ばれた。老中田沼意次は先に帰宅しており、着替え中に城中での事件の知らせを受けた。
 田沼家掛かり付けの医師が来て、意知の手当が行われた。傷は肩に一カ所、背中に三カ所、股に二カ所あった。特に股の傷は、深さ四寸で骨にまで達している。それが、応急処置だけで駕籠に揺られて運ばれてきたのだから、既に大量に出血していた。傷の縫合が行われ、手厚い看護がなされたが、意知は四月二日に死去した。享年三十六歳。
佐野善左衛門は事件後、城内の一室に監禁された後、北町奉行に預けられ取り調べられた。四月二日に意知の死去が公表されると、翌日、「乱心」という理由で切腹になった。
 善左衛門は二十八歳。年老いた両親と妻がいるが、子供はいない。上野国甘楽郡の知行地五百石は没収され、佐野家は断絶になったが、家族はお構いなしで家財はそのまま下された。
一方、現場に居合わせた関係者に対しては、徹底した取り調べが行われた。松平忠郷だけは、七十歳という高齢にもかかわらず善左衛門を取り押さえた功で二百石加増されたが、他の者たちは意知を見殺しにしたも同然と多数が処罰された。
 対象者は若年寄、奉行、大目付、目付、新番士など広範囲に渡るので、取り調べと処分は、若年寄より上格の老中たちが行った。田沼意次は身内なので外れ、老中松平康福が中心だった。もっとも、康福も娘が意知の妻になっているので、義父にあたる。老中水野忠友も、意次の四男で意知の弟の意正を養子に迎えているので、やはり縁者になる。この時の大老、老中は皆田沼派といってよい。
 結局、二十七人が罷免、謹慎、叱責という処分を受けた。佐野善左衛門の乱心による犯行となっているにもかかわらず、周囲にいた者たちも職務怠慢ということで責任を問われた。
佐野善左衛門の亡骸は浅草徳本寺に埋葬されたが、連日、同情した人々が押し寄せ、線香が絶えることがないという。善左衛門は「世直し大明神」と讃えられた。
 一方、被害者の意知の葬儀の列は、乞食の群れに行く手を邪魔された。さらに町人も加わり、一緒になって投石をしながら悪口雑言を浴びせたという。加害者と被害者の立場が逆転している。
 なお、佐野善左衛門の取り調べ時の口上書なるものが、その後になって流布された。

・意知に頼まれて、佐野家の系図を貸した。その後、催促しても返してくれない。
・上州の善左衞門の領地に、佐野大明神という神社があった。そこへ田沼の家来がやって来て、田沼大明神と改め横領した。
・元来田沼は佐野家の家来筋である。主家としてそれなりの役に付きたいと頼んでおいたのに、意知は六百二十両を受け取りながら、便宜を図ってくれなかった。
・昨年十二月の狩りで、自分が鳥を射止めたのに、意知は他の者が射止めたものだと言い、手柄を認めてくれなかった。

これが意知殺害の動機だという。個人的な遺恨であるが、あえて命を懸けてまで、実行するほどの理由なのか。結局、表向きの理由は「乱心」となっている。

意次はじっと目を閉じて、話に耳を傾けていた。いつもなら、目を閉じるとすぐに眠くなるのだが、今は頭が冴えきって、一言一言が染み入って来る。自分は武士だと強がってみたが、息子の死をあらためて聞くのは辛かった。
「以上です。今までの話で、何か間違いはありませんでしたか」
「特にない。わしの知っている事とほぼ同じだ」
「それでは、お聞きします。この事件以前に、佐野善左衛門という者をご存じでしたか」
「知らない。わしの在宅時には、大名から町人に至るまで大勢の来客がある。来る者は拒まずの方針だ。大名家の江戸留守居役の中には、常駐して情報収集する者までいた。個人的な請託は別室で聞くこともあったが、大部屋での雑談は常に人があふれていた。その中に善左衛門がいたかもしれないが、記憶にない。来客を取り次いでいた用人の三浦にも聞いてみたが、覚えがないという」
「佐野善左衛門が殿中で意知様に斬りかかるとき、『覚えがあろう』と叫んだのを大勢の者が聞いております。善左衛門と意知様との間には、何らかの関係があったのでしょうか」
「意知は別の屋敷に住んでいた。そちらに善左衛門が訪ねていたかもしれない。しかし、意知から善左衛門の名を聞いたことは一度もない。また、重傷を負い我屋敷に運ばれてきたとき、意識があったが、何でこの様な事になったのか分からないと言っておった」
「それでは、善左衛門の口上書の内容には、根拠がないと」
「そうじゃ。一つ一つ詳細に反論もできるが、それで意知の名誉回復をしても詮無き事である。乱心した善左衛門の妄想か、誰ぞに吹き込まれた事ではないかと考えておる」
 意次は田沼家と佐野善左衛門との関係を否定した。封じ込めていた善左衛門への怒りが蘇ってきた。
「田沼家が佐野家の家来筋だというのも妄想ですか」
「田沼の総本家は、藤原秀郷の流れをくむ下野の佐野家の分家だ。鎌倉に幕府があった時代に、佐野家の九男重綱が佐野領田沼村を分割相続して田沼家を興した。佐野家の一族だが、分家だから家来筋とも言える。わが家はその田沼家のさらに分家で、田沼村を出て流浪した後、紀州徳川家に代々仕えた。主君吉宗公が将軍になられた際、供をして江戸にやってきた。上野国の佐野善左衛門が下野国の佐野家とどういう関係かは分からないが、今さら家来筋だと言われても困ったものだ」
「田沼家の系譜についても確認したい事が多々ありますが、それは後として、今は意知様暗殺について核心に入りたいと思います」
「核心とはどういうことじゃ」
「本当の犯人は誰かということです」
「犯人は佐野善左衛門であろう」
「善左衛門は実行犯ですが、単なる手先だと思います。私が知りたいのは黒幕です」
「黒幕か」
意次は唇をかんだ。
「そうです。田沼様も黒幕がいると思っているはずです。その黒幕が、田沼様を失脚にまで追い込んだわけです。意知様暗殺はその序章だと思います」
「そうか。そこまで言うのなら、龍さんの推理を聞かせてもらおうか」
 意次自身、黒幕について思い当たることはあるが、龍次の考えをまず聞きたかった。
 龍次は先ほどの暗殺事件のときのように、記事風に話し出した。

四月三日、若年寄・田沼意知殺害犯の佐野善左衛門の切腹が行われた。場所は揚屋敷(牢屋敷)の庭。検使役は目付山川貞幹、介錯人は同心高木伊助。庭には畳二枚が敷かれ、善左衛門はそこに着座させられた。前方の台には、半分紙で包んだ短刀が置かれていたが、本物の刀でなく木刀である。善左衛門が短刀に手を掛けたと同時に、介錯人高木伊助の刀が振り下ろされた。首は皮一枚でつながっており、添介錯人がそれを上げ、検使役山川貞幹が確認した。切腹というより、実質的には斬首だった。
この後、老中松平康福を中心に、現場にいた者たちへの徹底的な取り調べと処罰が行われた。これは、老中たちが佐野善左衛門だけでなく、同調者が他にも大勢いることを感じていたからではないか。田沼政権に対抗する一大勢力が形成され、活動を始めたと思われる。
 善左衛門取り調べの口上書では、意知との個人的な遺恨が動機とされているが、両者とも死亡しているので確認できない。善左衛門がここまではっきり動機を述べたのなら、正気であり乱心というのはおかしい。それに、善左衛門が述べたという証拠もない。
 さらに、後になって善左衛門が犯行直前に書いたという「田沼罪状十七箇条」なるものが出てきた。そこには、意知でなく、意次の悪政、悪行の数々が列挙されている。反田沼勢力の本当の目的は、こちらの流布にあったのではないだろうか。善左衛門は「田沼罪状十七箇条」を懐に入れ、意知殺害の犯行に及んだという。それなら、意知でなく意次を狙うはずである。
 意知殺害の口上書には、意次への直接的な言及はない。「田沼罪状十七箇条」が懐にあったのなら、取り調べ時に犯行の動機として意次非難があって当然だ。
 よって、この文書は、善左衛門の名を使って、何者かが書いた偽作の可能性が高い。
以上より、次のように推測できる。
 黒幕は反田沼勢力で、田沼政権の転覆を考えていた。意次は六十歳代半ばにあり、先はそれほどない。じっと待っていればよい。ところが、三十歳代の長男意知が若年寄という要職に就いた。若年寄の次は老中職が待っている。意次の跡は意知が継ぎ、田沼政権は継続する。このまま待ってはいられない。後継者の意知を亡き者にする必要がある。
 しかし、自分たちで手を下すわけにはいかない。実行者は誰がよいか。そこで、浮かび上がったのが下級旗本の佐野善左衛門だった。姉が十人いる。父が四十四歳、母が四十八歳でようやく授かった待望の男子だという。
 甘やかされて育ったに違いない。自尊心が強く、思いこみが激しいという。そして、何よりも重要なのは佐野という姓だ。田沼家は下野の佐野家の分家である。善左衛門が下野の佐野家と関係あろうとなかろうとかまわない。佐野と田沼を利用しよう。
 黒幕は善左衛門に接触した。成り上がりの田沼は、元は佐野家の家臣だと伝えた。田沼意次の悪政も有ること無いこと吹き込んだ。そして、悪人田沼父子を倒し、世を正すのは主筋の佐野家の使命だと思いこませ、成就すれば佐野善左衛門の名は赤穂義士以上に讃えられるとおだて上げた。
 同時に黒幕は、大名、旗本たちの中にもくい込んでいき、田沼政権が終わりに近づいていることを匂わせた。長引く飢饉や浅間山の噴火は、天が今の政治に対し怒っているのだと、心理的な不安も抱かせた。世間にも瓦版などで噂をまいていった。
 そして、城中において意知殺害を決行。周囲にいた者たちが意知救済を躊躇したのは、黒幕への遠慮があったためではないか。助けるどころか、その場を逃げ出した者も多数いた。黒幕の一味が先導した可能性も否定できない。誰かが逃げれば、つられて逃げることもある。結局、意知は致命傷を負うまで何度も斬られた。
 田沼政権側の老中たちが、必死になって関係者の取り調べを行ったのは、そのような疑いを抱いていたからではないか。
 佐野善左衛門の口はすぐに封じて、個人的な犯行として幕引きが行われた。そこにも黒幕の手が伸びていた可能性がある。
 善左衛門の墓へ押し寄せる参拝者や、意知の葬儀の列への妨害も、黒幕が糸を引いていた。取り調べ口上書と「田沼罪状十七箇条」も、黒幕の偽作であろう。その様な工作をして、世間に佐野善左衛門を正義、田沼父子を悪という虚像を広めていった。
 黒幕は組織的で、大名や幕府内の役人にまで影響を及ぼすことが出来るほど強大なものである。

 龍次は話を終えた。
「かなり大胆な推理だな」
「いかがでしょうか。田沼様のご意見は」
「一つだけ加えたいことがある。老中たちが執拗に城中にいた者を取り調べたというが、実は最も激怒したのは当時の上様、家治様だ。いつも穏やかな家治様が、あれほど感情を露わにされたのは初めて見た。徹底した調査と処分、そして結果報告を命じられた。若年寄たちが謹慎処分に決まったとき、さらにご自身でお目通り禁止を追加された。大名にとって将軍へお目通りできないのは不名誉なことで、ある意味では重罰だ。他にも、上様の指示で、さらに重い処分を追加した者が何人もいる」
「何故、上様ご自身がそこまでなされたのですか」
「家治様も唯一の跡取りの家基様を十七歳で亡くされている。意知の葬儀終了後、ご挨拶に伺った際、家治様はわしの手を握り、そちの無念の気持ちはよく分かると涙を流された。壮健だった家基様の急死には、不審な点が多々あった。毒殺説もささやかれた。だから、意知殺害も善左衛門の単独犯行でなく、もっと大きな力が働いていると家治様も感じられたのだと思う」
「大きな力とは、黒幕のことですね」
「そうじゃ。二年後、家治様も四十八歳で病気によって急死された。同時に、わしも失脚して現在の境遇となった」
「似ております。家治様も田沼様も、先に跡取りを亡くされています。意知様の暗殺事件は単独のものでなく、将軍家を巻き込んだもっと大きな陰謀の一端のように考えられます。ということは、黒幕の正体とは…」
 龍次は次の言葉を飲み込んだ。意次は目を閉じて考えている。黒幕の見当は付いているが、それを今更明らかにしてもしょうがない。自分の胸にしまい込んで、墓まで持っていくつもりだった。しかし、龍次も黒幕の存在に気付き、正体を明らかにしたがっている。
「黒幕が誰か、龍さんは見当がついておるのか」
 しばらくの沈黙後、意次の方から尋ねた。
「大体の予想はついておりますが、私ごとき者が軽々しく申せません。さらに気になる点を田沼様に伺って、周辺を固めてから核心に迫ろうと思っております。何としても、闇に隠れている黒幕を白日の下にさらしてみせます」
 押し殺した龍次の口調の中に、激しい怒りが込められているのを意次は感じた。
 その時、急に空が光った。見上げる二人。いつの間にか黒い雲が、空半分を覆っている。やがて、雷の音がした。もうすぐ雷雨になりそうだ。
 また、光った。龍次がビクッとしたのが意次に分かった。
「龍さんは雷が苦手とみえるな」
「はい。あの光が苦手です。抜き身の刀を連想して、背筋が寒くなります」
「わしも刀は嫌いだ」
 武士として言うべき言葉ではないが、意次はその理由には触れなかった。自分の気持ちを、龍さんなら分かっているのではないかと思った。この者には二回しか会ってないが、何か通じるものがあるのを感じていた。
 稲光から音までの間隔が短くなってきた。雷は近づいている。話を急がなくてはならないと思ったとき、屋敷の奥からばたばたと足音がしてきた。
「殿様、雷でございます。雨戸を閉めてもよろしゅうございますか」
 女中の紀代だった。大の雷嫌いだ。紀代が縁側にやって来たとき、庭から龍次の姿は消えていた。


        三

「田沼様は賄賂を受け取ったことがありますか」
 やって来るなり、龍次はこう切り出した。前回中断した黒幕の推理に関連しているのかもしれない。
「ああ。受け取ったことがある」
いともあっさりと意次が答えた。
「何か証拠になるものがお有りですか」
「賄賂に受取書は出さん。しかし、証拠となる文書がある」
 意次は自分の最大の汚点である賄賂疑惑に関して、やや楽しんでいる様子がみられる。何か思惑があるようだ。
「証拠の文書ですか。それは興味津々ですね。瓦版のいいネタになります。教えていただけるのですか」
「今さら隠しだてはしない。証拠とは松平定信が新将軍家斉様に提出した上申書だ。わしの失脚直後に、定信が自分を老中にせよと自薦したものじゃ。当時はまだ、わしの腹心が幕府の要職に残っていたので、密かに入手することができた。その中に次のような文があった」
意次も記憶力では龍次に負けじと、定信の上申書の一部を暗誦した。

私所存には、誠に敵とも何とも存じ候盗賊同様の主税頭(意次)へも、日々のように見舞い、かねて不如意の中より金銀を運び、外見には誠に多欲の越中守(定信)と笑われ候をも恥じず、ようよう席相進み、今一段の処…
 外よりながめ候ては気に入り候老中は一人もこれなく候。以後はよくよく御心得ならせ、私心を捨て欲を捨てる賢良の人を用いなさるべく候

「この上申書には、定信は自らわしに金銀を運んだと書いておる。そして、席が進んだ。つまり、溜間詰になれたと」
「溜間詰とは何ですか」
「江戸城内の部屋のことだ。大名は役職や身分に応じて、詰める部屋が決められている。部屋は権限を示すと考えていい。溜間詰の大名は、老中や場合によっては上様に意見を具申できる最高の立場にある。確かに溜間詰になってから、定信は何かにつけ幕府の方針に注文を付けてきた」
「定信公は田沼様に金を送り見返りに出世したと、新将軍あての上申書に書いているのですね」
「そうじゃ。もっとも、溜間詰になれたのは、定信の出身からすれば当然だ。見返りというより、本人が望むのなら拒絶する理由がないから、そうしたまでじゃ。あの頃、定信は盛んに屋敷を訪ねてきた。手土産代わりにと小判の包を用人の三浦に渡したこともある。これを賄賂というのなら、わしは間違いなく受け取ったことになる。定信自身が証人じゃ」
意次は皮肉を込めて言った。
「驚きました。清廉潔白が裃を着ていると称される定信公が、田沼様に賄賂を贈っていたのですか」
龍次は、思わぬ事実を知り興奮していた。
「今お聞きした上申書には、現在の老中は誰もかれも駄目だから、私心と欲のない賢良の人、すなわち自分を老中に用いるべきだとありました。賄賂を贈ったことを認めながら、悪びれることなく自分を賢良の人と言っています。そして、老中の地位を上様に望み、願い通りになった。一方、田沼様は賄賂政治家の汚名をきせられ、現在謹慎中。賄賂は贈った側も、受け取った側も同罪なのに、現在のお二人の立場は正反対です。こんな理不尽なことはありません」
「ところで、龍さん。今日は来るなり賄賂の話を持ちだしたが、何が目的だったのじゃ」
「田沼様の悪評の中心は賄賂政治です。その噂を広めたのは黒幕だと思います。ですから、まず賄賂は根拠のない中傷だということを確認したかったのですが」
「それなら、少し長くなるが幕府における賄賂の性質について説明しよう」
龍次は「お願いします」と軽く頷いた。
「幕府は極度の財政難にある。家康公の残された独自の財産は、五代将軍綱吉公のころに底をついてしまった。以後は、毎年の収入で支出を賄わなければならないが、いくら倹約しても収入が追いつかず、借金ばかり増大している。古から政権の座にあるものは、莫大な財源を持っていた。それが枯れたとき、権力を失った。だが、このように貧乏な幕府が潰れないのは何故か…。それは、大名たちも幕府以上に貧乏だからじゃ。よって、幕府に取って代わることができない。これは幕府の政策、というより政略による。龍さんはそのしくみが分かるかい」
 意次は龍次の知識を試してみたくなった。
「大名も、生かさぬよう殺さぬようにしたのではないですか。外様大名は禄高は多くても遠隔地に配置し、参勤交代で費用が掛かるようにする。交代時の費用だけでなく、領地の城と江戸の上屋敷、中屋敷、下屋敷の二重生活で維持費がかさみます。また、財政に余裕がありそうな藩には、河川や道の修理などの賦役を命じ、蓄財を吐き出させたり、借金まで負わせます。外様の雄といわる薩摩藩でさえ、命じられた木曽川の治水工事が難航し、二年の歳月と四十万両の費用を要しました。そして、完成したものの借財がかさみ、工事担当の家老が切腹したという話があります。定期的な参勤交代と、臨時の賦役の二本立てで、大名、特に外様大名の経済力を奪っていったのだと思います」
龍次の知識に意次は驚いた。ただの瓦版屋ではないようだ。しかし、敵方の密偵ではない。自分の側にいる人間だと思う。これなら、もっと本質的な話をしてもよいだろうと、意次が説明を加えた。
「実はさらに小刻みに金を吐き出させる裏の仕組みがある。それが、お世話になったお礼や挨拶の金品だ。役職者に対して贈られるのだから、その意味では賄賂とみられる。老中や若年寄など、幕府内での役職は譜代大名に限られている。譜代の禄高は数万石程度が多く、有力外様大名より一桁少ない。わしも最高で五万七千石だった。その代わりに権力が与えれた。権力への対価が賄賂といってよい。例えば、賦役をどの大名に課すかは、老中に決定権がある。賦役を逃れるために、大名は老中に金品を贈る。賦役を命じられても、それから免れるためにも莫大な出費が必要なのだ。その他にも様々な請託や斡旋に対して、お礼が必要となる。老中などの幕閣が何かにつけ金品を受け取ることは、大名の経済力を低下させる目的もあった。また、権力をもつ立場になれば、付き合いも増え、自分の方からの出費も多い。これは微禄な譜代大名には厳しい。それを補うのがお礼の金品だ。開き直って言えば、これは役職者への政治資金として黙認…いや、半ば公認されているものだ」
「それで定信公は上様に対しても、田沼様に金銀を運んだと堂々と言えるのですね。賄賂は贈った側も罪だと思うのですが、そういう感覚は上の方々にはないようです。叱責を受けるどころか、老中に出世しています。田沼様、悔しくはございませんか」
 龍次の声は怒りで震えていた。
「しかし、表向きは賄賂は悪とされている。公然と行うものではない。わしの場合、九代将軍家重様、十代家治様と、常に上様のお側近く仕えてきたので、取り次ぎの礼にと金品が届けられた。上様宛の季節の贈物には、わしの分も量こそ少ないが必ず付いていた。老中になってからも、他人の何倍も御用を務めてきたので、受け取った金品は群を抜いており、どうしても目立った。それで、金額や内容が面白可笑しく誇張されたり、他人の賄賂の噂もわしのことにされてしまった。例えば生きた京人形、すなわち人形に見立てた女性が贈られてきた話などだ。世間に広まっている賄賂話は、ほとんど捏造されたものだと言える。確かに相手相応の金品を受け取ったことは否定しないが、それで、悪事を見逃すような不正を行ったことはない。また、自らの蓄財にまわしたり、贅沢のために用いたこともない。田沼家は一代で大名になったため、歴代の家臣は極めて少ない。新たに次々と召し抱える必要があり、経費が増え続けた。幕府政治では斬新な改革を行うために、家格は低くとも能力のある者を抜擢してきた。たとえば、勘定奉行の松本秀持は、最初数百石の下級旗本だった。役職に応じ加増はしたが、それでも到底間に合わないので、わしが面倒を見た。受け取った金品は、そういった者たちのために右から左に消えていった。あくまでも、お役目のための経費だと考えている。結局、悪評をたてられたのは不徳の致すところと、言い訳はしなかったが、龍さんには甘えて本音を言わせてもらった。そういえば、家臣や配下だけでなく、多くの文化人にも援助をしてきたな」
「たとえば平賀源内ですね。瓦版ネタにもなった有名な逸話を知っています」
 微笑みながら龍次は言った。
「わしが渡した菓子折のことか」
「そうです。ある日、源内が田沼屋敷から帰ろうとしたとき、意次様から菓子折を頂いた。後でそれを開けてみると、菓子の下に百両もの大金が入っていた。さすが田沼様、粋な方法で研究資金を下さると、源内は感激して発明に励み、珍しい品を次々と持参した。この様な話だったと思います」
「面白い話じゃ。確かに源内先生には、珍品や奇談のお礼にと、わずかではあるが資金を提供していた。もらい物の菓子折をそのまま渡したこともある。あの中に百両が入っていたとは、実はわしも知らなかったのが真相だ。惜しいことをした」
意次は悪戯っぽく言うと、声を出して笑った。久しぶりのことだ。龍次も一緒に笑っている。思い出すのもいやな深刻な話をしていても、この若者といると何かほっとするものがある。不思議な魅力をもった男だ。

「結局、田沼様の失脚の理由が賄賂政治だというのは、違うことになりますね」
「そうじゃ。金品の授受を理由に罷免していたら、幕閣は一人もいなくなってしまう。わしの場合、公式には病気による辞職だった。家治様が重態になられたとき、わしも心労から体調を崩し寝込んでいた。家重様、家治様と二代にわたりご奉公し、もう六十八歳になっていたことから、勧められるままに病気よる老中引退願を書いた。ところが、いつの間にか、危篤状態だった家治様の命令で罷免されたことになっていた。さらに『田沼罪状二十六箇条』という罷免の理由を列挙したものが出された。罪状の中には、賄賂政治が何度も取り上げられていたが、後から取って付けたようなものじゃ。賄賂で罷免されたという方が、世間は納得すると考えてのことだろう」
「その二十六箇条は誰が出したものですか」
「名目上は、新将軍家斉様から田沼意次宛ということになっている。家斉様は一橋家から養子に入った方だが、まだ十五歳だった。ご自身で出すはずはない。老中たちも、その時点では、わしの仲間たちだから当然違う」
「やはり、黒幕ですね」
「ところで『田沼罪状二十六箇条』は、申し渡しの対象とされているわしには届いていない。しかし、何故か世間に流布されていたので入手して読んでみたが、賄賂に関して面白い部分があった。第七条 其の方は諸家の役職や家格を上げる取り持ちをしておる。ことに溜間詰は重き役目なるに賄賂だけで簡単に決めた。許し難き事である…といった文面じゃ」
「それは、松平定信の溜間詰就任の件ではないですか。この事を知っているのは、ごく限られた人のはず。一番は定信ですが、いくら田沼様の罪状を増やしたくても、賄賂で溜間詰に決めたのは許し難き事と、自分の恥になることを自身で書くとは考えられません」
龍次もいつの間にか、意次同様、「定信」と呼び捨てにしていた。意次の言い方が移ったのか。定信は意次が四十歳にして一万石の大名になった年に、将軍家の一族で御三卿の田安家に生まれた。だから意次より四十も年下である。後に白河藩松平家の養子に出たので、吉宗公の血筋の田安家出身でも、将軍継承権はなく一大名に過ぎない。何かに付け田沼政治批判の急先鋒にいたため、意次としては内輪では本音が出て「定信」と呼び捨てにしている。宿命の政敵である定信が、黒幕の一人であるのは間違いない。
 だが、『田沼罪状二十六箇条』第七条の賄賂批判で見る限り、これに定信は直接関係していないと考えられる。黒幕には、別の大物もいる。それは、将軍への上申書を知ることができるほど高位の人物であろう。
 意次と龍次は同じような推理をしていた。しかし、まだその人物名は断言できない。
その時、ピシャと水音がした。庭の池の方からだ。ここ何日か夕立があったので、池の水もいくらか澄んでいる。その水面を大きな黒い鯉が横切っていくのが見えた。
「まだ残っていたか」
 意次はつぶやいた。かつて池の中は、贈られてきた鯉や鮒で溢れていた。この魚たちも賄賂に当たるのか。意次の脳裏には、当時の華やいだ池の様子が蘇ってきた。あの頃は、家族や家臣たちに囲まれ、幸せな日々だった。まだ数年しか経っていないのに、遠い日の夢のようだ。
 目をつぶり想いを巡らしているうちに、深い眠りに落ちていった。


        四

 ここしばらく龍さんは姿を見せない。あの日、不覚にも意次は眠ってしまい、目を覚ましたときには龍さんはいなかった。その時のことに腹を立てて、やって来ないのか。
 あるいは、その後も来ていたが、自分が居眠りしている姿を見ると、帰っているのかもしれない。そう考えて、午後の雨戸が開いている時間帯は、眠いのをがまんして待つことにしている。
 今日は、ことのほか暑い。庭には陽炎がたっている。蝉も鳴くことを止めてしまったようだ。近頃、極度に体力がなくなってきたのを感じる。あまりの怠さから横になった意次は、うとうとしてしまった。
涼しい風が、意次の顔を吹き抜けたようなが気がした。目を開けると、龍次が立っていた。
「おお、龍さん。久しぶりじゃ。どうしておった」
 意次はゆっくりと身体を起こした。
「実は急に思い立って、旅に出ておりました。根無し草の身ですから、いつでも、何処へでも自由に行けます」
「そうか、羨ましいのう。前回、話の途中で眠ってしまったので、怒ってもうやって来ないのかと心配しておったのじゃ」
「とんでもございません。こちらから押しかけて、お話を伺っているわけですから、お疲れでしたら無理をなさらず、いつでもお休みください」
その言葉を聞いて、意次は安心した。今はどんなに無理をしても、いろいろな事を龍さんに伝えておこうという心境に変わっていた。
「旅はどこに行ってきたのか」
「下野国の田沼村です」
旧縁のある地だ。そこまで足を伸ばしたのか。
「どの様な用事があったのじゃ」
「田沼家の由来を調べて参りました。今日、田沼様に質問することの下調べです」
「田沼村か。田沼家発祥の地と聞いておるが、御用繁多で実は一度も行ったことはない。もっとも、領地の遠州相良でさえ、三十年間で二度しか行けなかった」
「一年おきの参勤交代はなかったのですか」
「そうじゃ。わしの場合、ずっと上様の側近だったので江戸城内で常勤しなければならない。それで、参勤交代は免除されていた。江戸生まれで江戸育ち、そして江戸城勤務のため、江戸以外にはほとんど行ったことがない。意知に家督を譲り隠居したら、全国各地を旅するのが夢だった。その時は、田沼村にも行こうと思っていた。まず田沼村で調べたことを話してくれないか。龍さんの質問には、その後にいくらでも応じる」
「かしこまりました。それでは、調査結果を今回も瓦版の記事風に述べさせて頂きます」

 田沼村は下野国の南部、佐野領の一部である。佐野は江戸から続く広い平野と、足尾・日光連山につながる山岳部のちょうど境目にあたる。南部は平地で、中央から北部にかけてが山地となる。山から幾つもの川が流れ出し、平地には豊かな水田が広がっている。川は渡良瀬川に流れ込み、さらに利根川につながり、江戸湾に達する。佐野から江戸までは川船で物資の往来が行われていた。田沼村は平地のほぼ中央に位置する。
 この美しい里山は、初めて訪れたにもかかわらず、故郷に帰ってきたような懐かしさを感じた。
 佐野はかつて戦国大名・佐野家の領地だった。徳川家の幕府が成立して間もなく佐野家は改易になり、三万九千石の領地は幕府直轄地として、譜代大名や旗本の知行地に分割された。最大は彦根藩井伊家の十五か村、一万八千石。田沼村は現在、複数の旗本の知行地になっている。
佐野家の先祖は平将門征伐で有名な鎮守府将軍・藤原秀郷で、成立は平安の世の後期にまで遡る。板東の有力武士団や、奥州平泉の藤原氏も、秀郷流藤原氏の流れをくんでいる。
 鎌倉に幕府が成立して間もなくの頃、佐野家の九男重綱が田沼村を分割相続して、田沼家を興した。重綱が創建した西林寺が田沼家の菩提寺で、現存している。田沼家の由来は、主に西林寺において調べたものである。
 田沼重綱は鎌倉幕府四代将軍頼経公に仕えた。頼経将軍は源頼朝の系統が三代で途絶えたため、京から迎えた公家将軍である。田沼家初代重綱、二代目重村は鎌倉に住み、没後は西林寺に葬られる。
 三代目重行は勅命で新田義貞に従い、建武二年に越前で戦死した。没年から推測すると、勅命とは後醍醐天皇からのもので、戦った相手は足利尊氏勢となる。
 四代目重信は父の討死後、田沼姓を隠し、母方の千本姓に改める。浪人の後、佐野家に仕え西林寺に葬られている。以後しばらく田沼家は千本姓となる。改姓は敵対した足利将軍家をはばかってのことと思われる。
五代目千本重隆は田沼村千本屋敷に住み、鎌倉の鎌倉管領に仕える。現在でも、田沼村には千本という地名が残っているので、そこに屋敷があったのだろう。
 六代目千本重正は、鎌倉に住んだ後、田沼村に帰り居住する。重正の弟光房も田沼に帰り、姓を田沼に戻した。
 七代目千本重忠。八代目千本重久。そして、九代目重光でようやく本家も田沼姓に復する。以後、田沼姓だが、「本家佐野家と訳有りて」田沼には住まず、近隣の館林や藤岡村に住んでいる。佐野家との訳が何かは不明。
 十三代目綱重は田沼村に戻り、佐野家に仕える。天正十三年、隣接する足利の長尾勢と下彦間須花坂で戦い、佐野宗綱とともに討死。これにより田沼本家は断絶する。ちょうど豊臣秀吉が関白になった年のことである。
 佐野宗綱には男子の跡取りがいなかったが、秀吉の命令で娘婿として宇和島藩富田家の五男信吉を迎え大名家として存続した。しかし、徳川の世になって間もなく、実家富田家の不祥事に連座して改易になった。後に、佐野信吉の子は、許されて旗本身分で復権した。ただし、上野の旗本・佐野善左衛門の佐野家ではない。

説明が終わった。よくここまで調べたものだと、意次は感心した。
「ご本家の系譜を、私ごときが勝手に調べて申し訳ありませんでした」
「いや、気にするには及ばぬ。よく調べてくれた。田沼本家が断絶していることは、現在佐野領を有している大老井伊直幸様からも伺っていた。直幸様の正室は、同族の井伊直朗の姉上。井伊直朗は、わしの娘婿になる。こういう血縁と共に、佐野領でも縁があったのかと、二人の間で話題になったことがある。直幸様も、わしの後を追うように、いさぎよく大老を辞職してしまった。穏やかな方だが、かつて徳川軍の先鋒として赤揃えの騎馬軍団を率いて敵を蹴散らし、赤鬼と恐れられた井伊家の風格をもっておられた。大老として背後に控えてくださっている安心感から、わしらは大胆な改革を次々と打ち出せた。将来、乱世になったとしても、幕府の屋台骨は井伊家の子孫が支えてくれるだろう…」
 意次の話は続いた。近頃、自分の世界に入ってしまうことがよくある。それでも龍次は、穏やかな表情で話を聞いていた。
「おお、済まなかった。話がそれてしまった。それでは、龍さんからの質問を聞こう」
「意次様の田沼家を、失礼ながら田沼分家と呼ばせていただきます。この分家が生じたのは本家の系図でいうと、どのあたりですか」
「六代目千本重正の弟光房からじゃ。我家の系図には、そこから載っている。龍さんの先ほどの説明でも、光房が本家に先立って千本から田沼姓に戻したとあったはずだ」
「やはりそうでしたか。それでは、次の質問をします。田沼家は佐野家の血筋を継いでいるわけですから、藤原氏です。しかし、意次様は正式の文書には源意次と署名しています。なぜ、藤原氏でなく源氏なのでしょうか」
「たしかに我家では源氏として伝わっている。一方、田沼家が藤原秀郷の子孫である佐野家から出ていることも、あの佐野善左衛門でさえ知っていたように分かっていた。わしが大名になる際、系図を整理して幕府に提出する必要があったが、迷ったのがこの点だった。そこで、田沼村に人を派遣して調べさせた。西林寺の本家系図の写しも入手した」
「それでは、今回私がやったのと同じような事を既に行われていたのですね」
「そうじゃ。おそらく龍さんも、わしと同じくある事実に気付いたと思う」
 龍次は頷くと、懐から折りたたんだ紙を取り出し、広げて意次に見せた。系図の一部を筆写したものだった。

・光房 田沼九郎 後 民部  相州より下野に移住す

・重綱 高瀬喜右衛門 後 田沼と改め山城守と云う 
    実は高瀬山城守忠重二男 野州小野寺古江に住す

・忠満 高瀬彦太郎 後 伊豆守 母は田沼民部光房娘
 忠義 高瀬宮内左衛門
 忠高 田沼刑部 後 山城守 下野国田沼村芝宮に住す 
    後 武田家に随身す
 重勝 田沼右京 
 
二人は額を付き合わせて系図の写しを見ていた。何とも言えぬ懐かしさを意次は感じた。
「鍵は光房の次の代、重綱ですね。偶然なのか、田沼本家初代と同じ名です」
龍次は「重綱」の周囲を指で一周なぞった。
「高瀬忠重の二男とあります。田沼光房の子ではありません。そして、重綱には男子が四人いますが、長男、二男は高瀬姓、三男、四男は田沼姓です。また、長男の忠満のところに母は光房の娘とありますので、重綱の妻は田沼光房の娘です」
「それらから推測するとどうなる」意次が聞いた。
「田沼光房には、男子はなく娘がいた。そこで、高瀬家の二男を娘婿に迎えた。四人生まれた男子は、二人ずつ高瀬姓、田沼姓を名乗らせた。三男の田沼忠高は最初田沼村に住んだが、後に田沼村を出て武田家に仕えたとあります。この系統が意次様の田沼分家になったのではないかと思います」
「そうだ、田沼忠高が我らのご先祖になる。ただ、少々不審な点がある。高瀬重綱は後に田沼重綱と改めたとあるが、なぜ自分の長男と二男を高瀬姓にしたのか。また、小野寺村は佐野に隣接しているが、なぜ重綱は田沼村に住まなかったのか」
「ということは、重綱が田沼家に養子に入ったのではなく、光房の娘が小野寺の高瀬家に嫁ぎ、男子が多数生まれたため、三男、四男を田沼光房の元にやり、田沼姓を復活させたと考えたほうが辻褄が合います。ただ、田沼村には兄で本家筋の千本重正も鎌倉から戻っていたので、田沼忠高は村を出たということでしょうか」
「それからご先祖は苦難の道を歩まれた。戦国の世、代々主君を変え、各地を転々とした。落ち着いたのは大阪の陣の際、紀州徳川家に仕官してからだ。わが父意行までの四代は、紀州家の足軽身分であった。ところが、藩主吉宗公が急遽将軍家を継ぐことになり、江戸にお供する二百人の中に父も選ばれた。父は一躍幕府旗本になり、しかも吉宗公の小姓として御側に仕えた。ここから、田沼家の運が開けてきた」
「そして、意次様は大名、老中にまで一代で大出世なさった」
龍次が意次自身のことを付け加えた。しかし、現在の境遇を思うと次が言えないようだ。
「わしの失脚を気の毒に思ってくれる人より、ざまあ見ろという方が多いだろう。しかし、祖父の代までの事を思うと、十分満足だ。今でも、一万石に減封されたとはいえ、孫意明が家督を継ぎ田沼家は大名として存続している」
 意次は本当に満足げであった。
 田沼分家の歴史は分かったが、なぜ源氏なのかという点の解明が残っている。龍次は自分なりの結論を述べた。
「意次様の田沼分家が源氏と称する鍵は、高瀬家にあるのですね。高瀬家は源氏。三男忠高は高瀬家の生まれで、父方は源氏、母方は藤原氏。当然、父方を優先して源氏を名乗ったわけですが、姓は母方の祖父光房の田沼を継いだ。よって、忠高以降の田沼分家は源氏となったのだと思います」
「そうじゃ。実は、二度目の調査として、高瀬家の子孫を捜してその系図を確かめた。子孫は佐野家改易の際に帰農し、今は名主となって佐野に住んでいる。高瀬家は上野国高瀬村の領主で、小笠原信濃守の流れをくむ清和源氏の系統だという。故あって当時佐野領だった小野寺村古江に移り住み、やがて佐野家の有力家臣団となった。高瀬系図にも重綱の名が載っており、子に忠満、忠義、忠高らの名もあることから、田沼本家の系図と同じだ。ただ、重綱は高瀬家の長男で唯一の男子だった。二男ではない。この点が違う。また、重綱の三男忠高には、母方の姓を継ぎ田沼と改姓とあった。重綱でなく、子の忠高が母の実家に養子に入ったことになる。田沼家の系図では、男系でみると田沼光房と孫の田沼忠高の間に一代の空白が出来てしまう。そこで、重綱が高瀬家から養子に入ったことにした。重綱は実は一人だが、長男重綱が高瀬家、分身の二男重綱が田沼家を継いだことになっている。重綱の一人二役というわけだ。細々として分かりにくかったであろうがこれが真相だと思う。系図は男系での継続性が必要なので、重綱を田沼家系図の中に入れなければならなかった。ご先祖はそのようにして、田沼分家が生じたあたりを繕ったのだろう。どうでもいい事のようだが、武士は血統や体面を気にするものでな」
「なるほど、分身でございますか。それでも、田沼分家に源氏の高瀬家の血が入っているのは確かです。意次様への中傷の中に、『身分卑しき出にもかかわらず』とよくありますが、決してそのようなものでないことも分かりました。秀郷流藤原氏と清和源氏の両方の血筋を引いているなら、ご立派なものです」
 龍次の言葉に、意次は満足そうに微笑んだ。           
「正直に言おう。わしも当初は自分の出自に引け目を感じていた。しかし、大名になった際、系譜を調べて安心した。これなら家康公と同じではないかと。松平家は三河の豪族だったが、上野の清和源氏の流れをくむ得川家から養子が入っていることを知り、徳川と改姓して清和源氏を称した。清和源氏でないと将軍になれないからだ。天下を平定し征夷大将軍になられたのは、ひとえに家康公の実力だが、血筋への自信と安心感の裏付けもあったと思う。わしも源意次と堂々と名乗った。そうすると、不思議と出自に対するどのような中傷も気にならなくなった。これは龍さんだから話せることだ。ここだけの話として、聞き流しておいてほしい」
「承知いたしました。これで、『武鑑』にあった疑問も解決しました」
 龍次は懐から、武鑑を取り出した。武鑑とは大名の氏名、本国、系譜、官位、居城、石高、家紋などを記載した書物である。民間で発行しているものなので、誰でも入手できる。そのかわり誤りも多かった。
「これは、明和期の武鑑で、意次様が老中になられる少し前に発刊されたものです」
 龍次は付箋の付いていた頁を開き、目を落とした。田沼家の部分を確認しているのであろう。
「田沼家の本国が上野になっています。佐野の田沼村は下野ですから、武鑑の誤りだと思っていましたが、そうではなかったのですね」
「上野は高瀬家の本国だ。我が家は源氏を称しているので、父方で源氏の流れをくむ高瀬家の方を本国としてある。上野が本国なら、徳川家と同じになるからのう」
 意次の言葉に頷くと、龍次は手早く武鑑を懐に戻した。武鑑の中身を意次に見せなかったのは、嫡男の欄に意知の名前が大きく載っているからだろう。それを配慮してのことだと、意次には分かった。

「ところで田沼村での調査時に、重大なことを聞きました」
 龍次は話題を変えた。
「数ヶ月前、西林寺の田沼家墓地が消されてしまったというのです」
「消されたとは、どういうことじゃ」
「誰も分からないうちに、墓石や灯籠などすべて持ち去られ、墓地が更地になっていたのです。誰の仕業か分からないが何て罰当たりな事をするのかと、ご住職は嘆いていました」
 今は無縁仏になっていた墓とはいえ、本家の墓が消されたと聞いて意次は衝撃を覚えた。そう言えば、今年の始め頃に下男から聞いた話に似ている。
 意次の代に建築した相良城を、幕府は徹底的に破壊したという。築八年しか経ってない新しい城である。本来、城は大名の私有物でない。いわば幕府からの借り物で、国替えになれば、城の所有者は変わることになる。意次の領地であった相良と相良城は、幕府に没収された。城は次の領主のものとなるはずだ。しかし、幕府は壊した。それも、建造物だけでなく塀に至るまで跡形なくなるまで破壊し、更地にしたという。下男がこのことを伝えてくれたは、親切心というより、意次に精神的打撃を与えるために上から指示されてのことだろう。
「石運び なげき照りつむ しめし野の 人のあぶらに 光る城かな」
何もなくなった城跡に立ったある俳人がこう詠んだという。
「幕府、いや老中筆頭松平定信はひどいことをします。相良の城といい、田沼村の墓地といい田沼様の跡を完全に消し去ってしまいました。男の嫉妬も凄まじいものです」
意次の考え事が一段落したころ、龍次が言った。龍さんは相良の城が破壊されたことも知っていたのか。商売柄、どんな情報でも入ってくるようだ。
 意次としては相良城だけでなく、田沼村の先祖の墓にまで手が伸びたことが衝撃だった。幕府が直接手を出したのか。それとも、相良城のことを知った地元の誰かが、関わりを恐れて先回りしてやったのか。どちらにしても、田沼の跡を消し去ろうという定信の怨念のなせるものであろう。
 全身に汗をかいていた。身体もだるい。
「ずいぶんお疲れのご様子。今日はこれで失礼いたします」
龍次の声がかすかに聞こえたが、意次は目を開けていることができなかった。今まで感じなかった暑さが急に襲ってきた。


        五

田沼の跡を消す、田沼の跡を消す…あれから意次の頭の中を、この言葉が支配していた。
 城や墓は壊されても、また新しく造れる。しかし、自分たちが進めてきた抜本的な改革は、続けなければならない。改革の火は消してはならないのだ。
 今や幕府の屋台骨は崩れる寸前にある。世の中は閉塞状況にあり、改革は待ったなしだ。自分個人への非難から、必死になって進めてきた改革が、内容を吟味することなく一律廃止になったことは無念でならない。それを思うと夜も眠れなくなり、体力が一段と衰えた。
一時は、失脚した身として、何も言わず、何も書かずに、この世から去っていくつもりだった。しかし、龍さんが初めて来た日に自分に告げたように、田沼政治を正しく世に伝えることは必要だ。いつの日にか、それを理解してくれた者が後継者となって、自分の理想を実現してくれることに期待しよう。
 今や手の力も衰え、筆を持つことさえできない。謹慎中のため、人にも会えない。なぜか瓦版屋の龍さんだけが、警戒の目をくぐってやって来る。天がわしのために遣わしたのだろうか。あの者に託そう。最近、頭の中は霞がかかったようになることが多く、記憶が薄れていく。まだ、記憶が残っているうちに伝えなくてはならない。
 
 その日は昼頃に雷雨がやってきた。急に夕方のように暗くなり、豪雨と共に雷鳴が轟いた。雨戸を閉めきった屋敷内で、意次はその音をぼんやりと聞いていた。紀代はさかんに悲鳴を上げている。下男は小窓から外をじっと見ていた。
雷雨は早足で通り過ぎ、日差しが戻った。雨戸が一枚開けられると、涼しい空気が流れ込んできた。
 意次は縁側から庭を見ていた。連日の暑さでぐったりしていた庭木が、生き返ったように光輝いている。意次もいくらか元気を取り戻していた。
 今度、龍さんが来たら、自分が取り組んできた改革を伝えよう。意次は二十余年にわたり関わってきた政治を思い返した。それにしても、多方面にわたり、同時進行でいろいろとやってきたものだ。それができたのは、有能な人材をどんどん登用し、働きに応じ重い役職を与えて、さらに大きな仕事をできるようにしたからだ。自分は賄賂によって、無能な人間を登用したり、出世させたことは断じてない。人材を発掘し、力を発揮する場を与えることを心がけた。意次は政治を支えてくれた人たちに思いを巡らしていた。みんな有能だった。しかし、自分の失脚とともに、その職を追われた。何という損失だ。
意次の頭の中では、様々な想いが渦巻いていた。これをどう整理して、伝えたらよいものか。いや、余計な心配をしなくても、龍さんがうまく引き出してくれるはずだ。

ふと気付くと目の前に龍次が立っていた。こちらの想いが通じるのか。
「今日は田沼政治の神髄を伺おうと思っています」
 龍さんはいきなり本題に入った。(やはり、そう来たか)意次は、自分の心の中を読まれていることを、もはや不思議に思わなくなっていた。
「前回、田沼本家の墓が消された事をお知らせしたとき、田沼様は急にお気分が悪くなられたようでした。それで、話を打ち切りにしました。実は私も田沼村でその件を聞いたとき、身震いがしました。墓を壊すのは大罪です。罰が当たります。しかし、そこまでして田沼様の跡を消そうとしたのは、単なる憎しみではなく、恐れのような気がしたのです」
「恐れとは、どういうことじゃ」
「田沼様の政治はあまりにも斬新で、自分たちの常識を超えていた。理解できない世の中に変貌してしまうことが、保守的な人には恐ろしかったのではないでしょうか。政治的には田沼様の施策を全て廃止しましたが、それでもまだ不安だった。目に見える城や墓を消し去ることは、田沼政治を完全に葬り去る儀式だったのではないかと思えたのです」
 葬り去る儀式か。確かに墓が消されたと聞いたとき、意次は自分の存在を消されたような衝撃を受けた。
「大胆な推理だな。自分としては、改革は時代の流れに沿った必然的なものだと思っていた。しかし、保守層にはとてつもない魔物に映ったのか」
「そうだと思います。そこで、本日は田沼政治が従来とどう違っていたのか、その点を具体的にお聞きしたいのです」
 これこそ意次が望んでいたことだ。権力の中枢にいたとき、自然と転がり込んできた金品はもう何もない。今、自分が後世に残せる財産といえば、閉塞した時代を撃ち破ろうとした政策の数々だ。
 意次は「田沼政治が従来とどう違っていたのか」が伝わるように心がけながら、自分の目ざした政治を整理した。

幕府にとって、最大の政治課題は財政問題だ。鎖国のため、大きな外交問題はない。幕府を脅かすような大名の存在もなく、戦の心配もない。幕閣は財政問題に集中できるはずだが、解決の糸口はつかめなかった。それくらい深刻だった。
幕府天領は約八百万石。うち四百万石は旗本、御家人の知行地となっているので、残り四百万石で幕府は政治を行うことになっている。大名領地からの年貢は全て大名家のもので、幕府にはその一部でも入ってくることはない。それでも、幕府がやって来られたのは、家康公の莫大な蓄財と、全国の金、銀、銅の鉱山を直轄にしていたからだ。いわば、自前の財源のみで政治を行ってきた。
 しかし、膨大な蓄財は五代将軍綱吉公のころに、底をついてしまった。鉱山からの採掘量も減少してきた。一方、支出の方は幕府創立時に比べると増える一方だ。収入源が減り支出が増大すれば、当然財政は赤字となる。それを埋めるために借金をする。借金には利子がつくから、益々財政は苦しくなる。大名家も同じように財政難にあるが、幕府は規模が大きい。国の政治を担っているため、幕府の財政難は政治の停滞につながる。
 よって、五代将軍の世の後半から、財政問題が浮上してきた。幕府の政治を担う者として、最大のご奉公は財政問題の解決で、戦場における武功に匹敵すると考えた。
 財政再建の方法は、支出の削減と収入の増大の両面がある。武士は質素、倹約を旨とする。それまでに倹約令が何度も出され、支出削減が図られたが効果は微々たるものだった。
 わしらが進めた財政再建の基本方針は、収入の増加にあった。それまでの収入増加策といえば、年貢を増やすことだった。「百姓と胡麻の油は、絞れば絞るほどとれる」と、農民たちから搾り取ることばかり考えてきたが、もう限界だ。一揆の多発がそれを物語っている。また、天候不順になれば、収穫は激減する。自然にも左右される年貢米が収入の中心では、安定した財源とはいえない。
 田沼政治の特徴は、年貢米以外に収入源を広げた点にある。
まずは、商工業者。特に都市の大商人だ。商工業者は城下町に住み、武士の衣食住を支えるための存在だった。だから、課税の対象にはなってなかった。ところが、時代と共に商人の富と力が増大してきた。武士は商人に委託して、年貢米を換金する。そこで手数料が商人に入る。そして、武士は生活必需品を商人から買う。ここでも、商人は利益を得ている。世の中は富が偏在してしまった。だから、利益を得ているものに課税するのは当然のことである。
しかし、いくら利益があっても、今まで非課税だったのに課税するとなれば反発がくる。喜んで税を払うようにするためには、もっと儲かるようにしてやればよい。
 そこで、株仲間や座などの同業者組合を拡大させ、商業活性化策をとり、さらに増大した利益の一部を運上金、冥加金として幕府に納めさせた。
 田沼政権は財力をもった商人階級と結びつき、財政問題の解決を図った。このことは、裏では借金で頭が上がらないくせに、表向きは商人を卑下している保守的な武士たちの反発を招いた。現実を見ないで体面ばかり気にしている馬鹿者どもめ。
 第一幕府だって、商人と同じことをやっているではないか。長崎出島での清とオランダ相手の貿易だ。平清盛、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、みんな海外貿易により得た財で政権を運営した。家康公も朱印船を公認し、ルソンやシャム相手の貿易で財を成している。
 鎖国政策はキリシタン禁制のためである。鎖国下でも、長崎貿易をやっているのは、貿易の利益を幕府が独占するためではないか。
 ところが、長崎貿易は衰退していた。それは、六代、七代将軍の政治補佐をしていた学者の新井白石が、金銀の海外流出を防ぐために貿易量を制限したためである。
 貿易を拡大し、収入源にしよう。金銀がだめなら、銅で支払いをすればよい。また、アワビ、イリコ、フカひれ、なまこ、昆布などの海産物は、中華料理の高級食材として清が好んで買ってくれる。これら海産物の干物を輸出の主力商品にしよう。我国は周囲を海で囲まれているので、材料はいくらでも手に入る。
 一方、清やオランダから、金貨や銀貨を輸入した。
 この貿易拡大策は成功し、貿易は黒字になり、かつて失われた金銀が国内に流入するようになった。貿易は巨大な収入源になる。これなら、二国だけでなく、北で隣接するロシアなどに拡大してもよい。それどころか、貿易に関しては、開国してもよいとまで考えるようになった。これは、単に収入目的だけでない。海外のすぐれた医術や技術が入ってくれば、人命は救われ、国が発展するはずだ。鎖国は変えられないという既成概念を撃ち破れば、我国は閉塞状態から抜け出せる。
年貢米による収入不足は、商工業者への課税や貿易で補うことができる。しかし、食料として見た場合、米の増産はどうしても必要になってくる。米の備蓄がないために、自然災害で米の生産が落ちると、飢饉で多くの人の命が失われている。新たな、しかも膨大な耕地を開拓する必要がある。
一つは吉宗公の時代に一度着手された下総国の印旛沼干拓だ。幕府は膨大な出費をしたが、難工事のため断念した。この干拓事業に再度取り組んだ。技術も進歩している。資金面では、今回は二人の大商人に出資させた。新田は出資者が八割、地元民が二割を取ることに決めた。幕府は自ら出資することなく、新たな年貢が手に入る。
 さらに壮大な構想は、蝦夷地の開発だ。幕府調査団を派遣して調べさせたところ、蝦夷地の面積の一割を耕地にすれば、六百万石の新田が得られるという。幕府領収入四百万石の一倍半だ。蝦夷地では米ができないのでなく、狩猟民族であるアイヌが作らなかったからである。蝦夷地でも夏は十分に気温が上がり、耕作は可能だと調査団は報告してきた。米だけでなく、土地はいくらでもあるので寒冷地用の作物を作ることができる。周辺海域は海産物の宝庫でもある。地下には巨大な鉱脈があるかもしれない。蝦夷地は未開の宝島である。この地の開発は、我国に大きな恩恵をもたらすに違いない。
 しかし、印旛沼干拓と蝦夷地開発計画は、失脚によって中止になった。
そして、最後に着手した改革が「貸金会所」だった。これは全国の全ての民から出資金を集め、それを幕府が大名相手に運用して利益を上げ、出資金は後に利子付きで返還するというものだ。個々の出資金は少なくとも、全国から集めれば膨大な資金量になる。
 本来、国の政治を担っている幕府は、全国から税を集め運営してもよいはずだ。そういう制度にしなかったのは、幕府に自前の蓄財があったからだ。しかし、蓄財のなくなった現在では、この税制度が財政難の一因になっている。構造的な改革が必要だ。だが、今更全国を対象に税をとるわけにはいかない。そこで、出資金とした。
この法令を出したとき、あらゆる層から一斉に反対の声が上がった。どのような理由であっても、新たに負担がかかるものは拒否される。いずれ返ってくるとしても、先のことより現在の負担が優先する。この改革案も理解されることなく、失脚後中止になった。
 以上の財政改革の特徴を一言で表現すると、「収入源の多角化」となる。商工業者への課税、貿易による収益、開国、大規模な耕地開発、全国からの出資金。どれも前例のない斬新なことばかりだ。
 それがだめだというのか。今まで前例の枠の中だけでやってきたから、いつまでも問題が解決できなかったのだろう。前例に囚われることなく、幕府のため民のため最良の政策を考え抜いてきた。それも独断専行したわけでなく、常に同僚の老中に図り、上様の承認を得てやってきたのに、賄賂政治家の悪名とともに改革は葬られた。
 無念である。考えると胸が苦しくなり、頭は割れんばかりだ。このことは、今日を最後に、もう思い出さないことにしよう。

意次は我に返った。ところで、今までのことは、頭の中で考えていただけなのか。それとも、龍さんに話していたのか。自分の記憶が曖昧になっている。ついに惚けたか。
「どうだった」
 意次は念のため尋ねてみた。
「よく分かりました。壮大な改革だったのですね。田沼様は天才でございます」
 龍さんは讃えてくれた。そうか、きちんと話していたのか。
「一度は葬り去られた田沼様の改革は、将来必ず復活すると信じています。今度は、時代が味方してくれるはずです。長い時間、一気に話されてお疲れでございましょう。ありがとうございました」
 龍次は去っていった。頭の中には、再び霞がかかってきた。


        六

天明八年七月二十四日、昼過ぎ。

「田沼様、田沼様。龍次でございます」
 その声に意次は目を覚ました。
 縁側で座ったまま眠っていたようだ。
「ああ、龍さんか。いつもより早いな」
庭先には旅姿の若者が立っていた。
「はい。しばらく旅に出ることになりましたので、今日はお暇乞いにまいりました」

「そうか、寂しくなるのう」
「今日の夕刻前に出発いたします。時間がありませんので、失礼ながらお休みのところを起こさせていただきました」
龍さんの様子に焦りの色が見える。
「まだ、聞きたいことがあるようだな」
「はい。今までにお聞きしたことは、しっかり記憶して帰り、きちんと記録してあります。いずれ田沼様のことを伝える書物にするつもりです。それらを総括するために、今日は田沼様の率直なお気持ちを確認しておきたいと、質問をいくつか用意しました。もう少しだけお付き合い願います。この際、言いたいことは全ておっしゃってください」
「分かっておる。龍さんには、正直に胸の内を話そう」
 龍さんには嘘や体裁は通じない。意次は心の中を全て読まれている気がしていた。

「それではお尋ねします。まず、田沼様が異例の出世を遂げることができた理由は、何だったとお考えですか」
「わしは出世しようと思ったことはなかった。気障な言い方かもしれないが、ひたすら目の前の仕事に全力を尽くして来た結果、気付いたら出世していた。あえて言えば、わしの働きぶりを評価してくれる方々に恵まれていたからだと思う。それが歴代の上様だ。幸いなことに、わしはずっと上様の御側に仕えてきた。八代将軍吉宗公は、紀州から供をしてきた我父意行を自分の小姓とした。そして、十六歳になったわしも、ご長男の家重様の小姓に抜擢してくださった。家重様は身体がご不自由で、言葉もうまく発することができなかった。その言葉を理解できたのは、先輩の大岡忠光様だけだった。大岡様を通さないと、だれも家重様と会話ができなかった。吉宗公がわしに託した仕事は、次期将軍となる家重様を補佐することだった。そのためには、自分も家重様の言葉が分からなければならない。わしは、家重様の言葉そのものでなく、お気持ちを理解しようと心がけた。そうすれば、自然と言おうとされることが理解できる。家重様が九代将軍になられてからは、側近の大岡様とわしの重要度は増し、それに伴い加増され大名にまでなった。わしは、家重様の心を察することができたので重用され、政治向きの相談にも預かるようになった。今度は政治面での補佐が仕事の中心だ。そこでも誠心誠意勤めた。月に二十日は城中に泊まり込み、めったに屋敷に帰れない程だった。家重様が隠居され、十代将軍家治様の代になったとき、通常は側近の我々もお役御免となる。大岡様は隠居し翌年亡くなられた。ところが、家重様は家治様に『意次に任せよ』という主旨の遺言を残された。それで、家治様の代でも引き続き政治に関わることになり、側用人、老中へと出世した。わしが思う存分力を発揮できたのは、ひとえに上様の絶対的な信頼があったからだ。そして、働きに対して、加増や昇進をさせていただいた。上様だけでなく、他の方々にも礼をつくし、的確な言動をとったので、信頼され力になってもらえた。名門の大名家から、わしの子供たちへの縁談が次々と申し込まれ、姻戚関係が成立していった。配下の人材にも恵まれたので、仕事面での実績を上げることができた。それに、実は、幕府の裏の権力である大奥でも、わしは絶大な人気があった。こう見えても、若い頃は役者顔負けの美男子として大奥で評判だったのじゃ。ともかく、出世に結びついたのは、人との関わりを大切にし、信頼おける人間関係を築くことができたことだと思う。念のため言っておくが、決して金の力ではない。あくまでも出世は、仕事上での実績と、それに対する評価によって可能になる。金は後からついてくるものだと考えている」

「田沼様の改革は葬り去られました。今、振り返ってみて、どうすれば改革が成功したと思いますか」
「改革は一代では難しい。同じ志をもった後継者が必要だ。わしは息子の意知に期待した。だから若年寄に抜擢した。親の欲目でなく、公平な立場からみても適任と考えた。他の老中の方々も推してくれた。しかし、父が老中、子が若年寄は前例のないことだ。反対派に、田沼の専横とか、公私混同だという批判の口実を与えてしまった。批判だけでなく、焦りも与え、意知の暗殺へと向かわせてしまった。今思えば、意知が若年寄になる際、わしは老中を辞職し、田沼の家督も譲って隠居すべきだった。隠居という自由な立場から、意知を補佐することで改革を継続できた。家康公もわずか二年で将軍職を秀忠公に譲り、大御所となられてからの方が活躍された。日々の公務から解放されたことで、幕府の基礎を固めることに専念できた。わしも家康公を見習うべきだったと思う。また、歴代の上様の絶対的な信頼を得て、政治を一任されていたが、将軍家の一族である御三家、御三卿への気配りが足りなかったことを反省している。人間関係を重視していたつもりだが、穴があった。抵抗勢力をつくらない事も、改革を円滑に進める上で重要だ。それなりの立場の方々には、内容をこまめに説明したり相談して、改革への理解を常に得ておくべきだった。それに、町に瓦版があるように、幕府にも広く世間に政治の方針を知らせる手段があるとよい。失脚の身になって痛感したが、世間の風聞も恐ろしいものだ。『民は由らしむべし、知らしむべからず』と言われるが、世間を侮ってはいけない。時には政治をも動かす、大きな力に成長しているような気がする。国中の気持ちを一つにしなければ、根本的な改革はできない」

「以前から黒幕の存在を話題にしてきましたが、決着をつけたいと思います。改革を妨げた黒幕は、誰だと思いますか」
「黒幕というのは、一つの系統だった組織のことでなく、わしの改革を葬ろうとした勢力を総称してのことだ。どれだけの人数がいたか分からないが、あえて二人だけ名前を挙げる。一人は、今更言うまでもないが松平定信。もう一人は一橋治済。現将軍のご実父だ。一連の政変で、一番利を得た人物だろう。わしは盟友だと思ってきたが、最後に裏切られた。一橋家は、弟の田沼意誠、甥の意致が家老を務めていたので、田沼家とは深い関係にあった。三十三歳年下の一橋治済も、政治向きの話を聞きたいとよく訪ねてきた。定信同様、極めて聡明な頭脳の持ち主だった。学者肌の定信と違い、現実的な政治家型の人物なので、わしの改革への取組を理解してくれた。十代将軍家治様の唯一の跡取りだった家基様が亡くなった後、一橋治済の長男を将軍家の養子にするために、わしも奔走した。治済に懇願されたこともあるが、血縁からして当然と思ったからだ。養子縁組が成立し、事実上次期将軍と決まったとき、治済の喜びようは例えようがない程だ。わしへの感謝の言葉はすごいものだった。将来、我子が将軍になった際にも、ぜひ補佐を願いたいとも言ってきたが、この言葉には裏があったようだ。新将軍の補佐は、実父である自分がやりたくなった。改革より己の権力獲得が優先だ。そうなると、老練な田沼意次の存在は邪魔になる。反田沼で利害が一致した一橋治済と松平定信は、いつの間にか裏で手を結んでいたと考えられる。やがて、同族の御三家や、田沼政権外にいる名門の譜代大名たちも、反田沼勢力へ巻き込んでいった。家基様の急死、意知の暗殺、家治様の急死とわしの罷免、さらに賄賂政治家との悪評の流布など、誰がどの様に関わっていたかは分からない。暗い闇の中だ。とにかく、わしの政治に危機感あるいは恐怖心さえ抱いた保守勢力が、一丸となって改革潰しに動いてきたことは間違いない。時代はまだ、わしの改革を許さなかったようだ」

「この者だけは許せないという人物はいますか」
「当初、屋敷に籠もり悶々とした日々を送っていると、恨み事ばかり浮かんできた。絶対に許せぬと恨んだ者も多数いる。しかし、龍さんと話すようになって、人生を見直してみると、不思議と他人への恨みが消えていった。一人一人のおかれた状況を考えると、その思いや行いを受け入れることが出来るようになった。彼らを許そうと思うことで、自分自身の呪縛から解放されていったようだ。意知の仇である佐野善左衛門とて、政争の犠牲者だと哀れに思う。松平定信も世の中を立て直したいという己の信念に基づいてやったことで、私利私欲ではない。ただ、吉宗公の孫という出自が重荷になっていた。自分がやらなければならないという自負と、周囲の過剰な期待が、田沼政治の徹底否定へと向かわせたのだと思う。やがて現実政治の壁を痛感することだろう。その時、わしの改革への悲願と苦労を分かってもらえればよい。一橋治済も、当初はわしの良き理解者であり協力者だった。しかし、自分の息子が将軍になれると思った時に、魔がさした。公私混同とも言えるが、将軍継承のために設立された一橋家の生まれの身では、我子を将軍へという私的な情も、公的なものと同様なのだろう。他の者たちも、政変の際は家を守るために、勝目のある側に付くのは当然だと思う。今では誰も恨むことはなく、穏やかな心で余生を送れそうだ」
「世間では、この様な歌が流行っています」
 龍次が言葉をはさんだ。

  田や沼や 汚れた御世を改めて 清く住ませ 白河の水

この狂歌は意次も知っていた。白河の水とは、清らかな水のことだが、白河藩主松平定信を指している。田や沼の泥水のように汚れた田沼政治の世を、白河の水、すなわち白河藩主定信によって清らかに改めてもらいたいという内容だ。失脚時、巷に流行っていた。
「実はこれも反田沼派から依頼されて、瓦版屋が広めたものなのです。しかし、定信政権になってからは、ご政道への批判はならぬと統制が厳しくなり、瓦版屋も商売が上がったりです。利用されたあげく切り捨てられたと、皆怒っています。そこで、共謀して、次ような歌を広めようとたくらんでおります」

  白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき

 聞いたばかりの歌を意次は小声で繰り返した後、「面白いのう」とつぶやいた。
「最後にお聞きします。人生に後悔はありませんか」
「悔はない。自信をもって言える」

意次の顔は晴々としていた。目の前の龍さんも微笑んでいるようだ。そういえば、龍さんはいつも正面に立っている。縁側に座ったことはない。まるで鏡を見るように、対面しているのが自然のような気がして、座るよう勧めることを忘れていた。
 龍次は深々とお辞儀をすると、足音をたてずに去っていった。後を追うように涼やかな風が吹き抜けた。龍次の姿が庭から消えるのを見送った意次は、最後の力を振り絞って大仕事をやり遂げた満足感とともに、安らかな眠りについた。
 暑い夏の日の午後だった。

「殿様、まだお昼寝でございますか。雨戸を閉めますよ」
 縁側に座ったままの意次に、紀代が大きな声で呼びかけたが反応がない。紀代は肩に手を掛け、揺り起こそうとした。意次は息をしてなかった。
意次の亡骸は、家督を継いだ孫の田沼意明が引き取った。蟄居謹慎の身だったこともあり、通夜と葬儀は近親者だけで行うことになった。

下男と紀代は暇をだされた。
 無人になった田沼家下屋敷の庭に、身分の高そうな装束の武士と下男がいた。
「ご苦労だった。再度確認する。ここ一年、意次は誰とも会ってないだろうな」
「はっ。絶えず見張っておりましたが、誰も訪ねてきませんでした。昼間でも縁側で居眠りをしていることが多く、時おり庭に向かって一人言を言っていることもありました」

 意次と龍次は向かい合っていた。
「龍さんも人が悪い。まさか、わし自身の分身だったとはな」
「今は何の未練も迷いもなく、安らかな気分です。ここは極楽浄土みたいです。悪人ではなかったようですね」  


史実 参考文献
・辻善之助『田沼時代』岩波文庫
・大石慎三郎『田沼意次の時代』岩波書店
・後藤一朗『田沼意次・その虚実』清水新書
・関根徳男『田沼の改革』 郁朋社   
・関根徳男『通史 田沼意次』 思門出版会
・童門冬二『江戸の賄賂』
・『寛政重修諸家譜』続群書類従完成会
・『相良町史』相良町教育委員会
・『田沼町史』田沼町教育委員会
・「佐野の歩み」佐野市郷土博物館 第46回企画展資料
・西林寺蔵 田沼家系図
・関根家蔵 高瀬関根家系図





著者・東栄義彦(本名・関根徳男)との関連

・旧田沼町(現佐野市)生まれ。当初、地縁から田沼意次研究を行っていたが、やがて自分と血縁があることを知る。(自家系図と田沼家系図の照合から、田沼意次につながる遠州相良田沼家のルーツは、関根家の前身である高瀬家だと判断。)p2

・郷土史研究誌「史談」(安蘇史談会)や自費出版『田沼の改革』、『通史・田沼意次』などで論文発表。(田沼意次のルーツについての新説を提示)
 今回は小説仕立てにした。(改革への夢と無念を、より感情を交えて描きたかった)