増補版   通史 田 沼 意 次

(文章のみ。写真、図表は略)


    序

 平成十一年二月、私の住む田沼町(現佐野市)に縁のある田沼意次を描いた『田沼の改革』を自費出版した。本著を通して、意次の祖先が田沼の出であることや、悪評の多くが反対派によって捏造されたものであり、意次の改革は見直されていることを示した。
 しかし、経済改革を中心に論文調で書いたため、難しすぎるとの指摘もあった。
 そこで、再度、田沼意次の生涯と、起源から子孫に至るまでの田沼家について、まとめ直した。原本は『田沼の改革』であるが、分かりやすくするために、できるだけ時の流れに沿って再編集、加筆し、地元ならではの史料、資料も加えて、『通史 田沼意次』として平成十九年五月に出版した。

私が田沼意次研究を開始したきっかけは、意次失脚後に祖先の墓所が破壊され消し去られたエピソードを田沼家菩提寺のご住職からお聞きしたことである。(『田沼の革』序文に記した。)
 田沼家墓所は昭和二年に再建されたが、平成二十三年三月十一日の東日本大震災にて再び破壊した。二つあった墓塔のうち田沼光房のものは、粉々に砕け散り、おそらく再生は不可能と思われる。田沼家系図によれば、光房は田沼の分家筋だが、意次につながる遠州相良田沼家の祖となる。
 江戸時代の墓所破壊は、政治的な背景をもった人為的なものだが、今回は天災である。
この出来事により、私の田沼意次研究も一区切りつけるときにきたと思った。
 『田沼の改革』も『通史 田沼意次』も、手元に数冊残っているだけになってしまった。 そこで、平成十九年以後の研究結果を付け加え『増補版 通史 田沼意次』として書籍化することで、現時点での集大成としたい。

 平成二十五年七月

第一部 秀郷から意次まで


秀郷伝説

 意次の先祖は下野国田沼村(現栃木県佐野市田沼町)の出である。さらに先祖をたどると、平将門征伐で有名な藤原秀郷がおり、北家藤原氏につながる。この秀郷から足利家そして佐野家が生じた。そして、元仁元年(一二二四年)に佐野家から分かれて田沼九郎重綱が田沼家を興した。 
ここでは、藤原秀郷について述べる。
藤原秀郷は、藤原氏の一族であるから、祖先は大化の改新で有名な藤原(中臣)鎌足に行き着く。鎌足からたどると、鎌足ー不比等ー房前ー魚名ー藤成ー豊沢ー村雄ー秀郷となる。魚名は左大臣という都の高級貴族で、子の藤成が下野に赴任し地元の豪族の娘と結婚した。藤成は伊勢に転任したが、子の豊沢は母方の下野に留まり、以後、子孫は下野に住むようになった。
 秀郷の生没年は不明だが、天慶三年(九四〇年)に平将門の反乱(天慶の乱)を平定したことで、歴史に名を残した平安時代中期の武将である。
 下野国・佐野に居住し、下野守、武蔵守に任じられた。子孫は秀郷流と呼ばれ、東国(北関東)の有力武士や、奥州平泉の藤原氏となっていった。
また、秀郷には有名な「むかで退治」の伝説がある。出典としては、『御伽草子』の「俵藤太物語」、『太平記』の挿入話、「下野の昔噺」などがあり、さらに昔話として語り継がれているうちにいろいろな話になっていった。代表的なものから共通の部分を取り上げると、次のようになる。

・藤原秀郷(田原藤太秀郷または俵藤太秀郷)が、近江国(滋賀)の瀬田川の橋を渡ろうとしたら大蛇がいた。秀郷は大蛇を踏みつけて通った。
・竜宮の乙姫(あるいは竜王)が現れ、大蛇を怖がらなかった勇気を褒め、自分たちを苦しめている「大むかで」の退治を依頼した。
・夜、三上山に現れた「大むかで」に秀郷は弓矢を放ったが、はね返されてしまった。そこで、矢の先に唾をつけて放つと、むかでに当たり、退治することができた。
・乙姫(竜王)がお礼にと、矢が避けて通るという鎧(避来矢の鎧)や、米がいくらでも出てくる俵などをくれた。(中には竜宮にまで行ったという話もある。)
避来矢の鎧は国の重要文化財に指定され、現在、唐沢山神社に保管されている。
・また唐沢山の城にある「車井戸」は、竜宮までつながっているという。

 これらは、もちろん秀郷の武勇を伝えるための創作である。秀郷の子孫、特に唐沢山城を引き継いだ佐野氏が、秀郷流藤原氏につながることを示すために伝承したと言われている。この伝説によって秀郷は、全国的に知られた。
 現在佐野市では、夏に「秀郷祭り」を盛大に行っている。


田沼家の興り

 藤原秀郷から田沼九郎重綱までをたどると、次のようになる。
 藤原秀郷ー藤原千常ー藤原文脩ー藤原兼光ー藤原頼行ー渕名兼行ー足利成行ー足利家綱ー佐野成俊ー佐野有綱ー佐野基綱ー佐野国綱ー(佐野実綱)ー田沼重綱
 (なお『田沼町史』の「続群書類従」からの引用では、佐野実綱は重綱の兄弟となっている。ここでは、「田沼家系図」と『寛政重修諸家譜』田沼氏の記載に従い、重綱を実綱の子とする。)
 重綱は「九郎」から判断すると九男で、兄弟に上佐野小二郎景綱、戸奈良五郎宗綱、芝田六郎行綱、戸室七郎親綱、山越八郎為綱などの名前がみられる。戸奈良、戸室、山越などは、現在でも佐野市内の町内名として使われている。町内程度の単位で、兄弟たちはそれぞれ佐野家領地を分割相続している。田沼姓は領地とした田沼に由来している。田沼家は佐野家の一族であるが、武家的な考えでは家来筋にあたる。
 田沼家の興りは鎌倉時代初期の元仁元年(一二二四年)。重綱は鎌倉将軍頼経に仕え、従五位下を叙している。そして、建長六年(一二五二年)に西林寺を開創した。(厳密にはこの時は玄松寺といい、後に西林寺となった。)
 将軍頼経とは、源頼朝の系統が三代で途絶え、北条氏による執権政治になった際、京都から迎えた将軍である。鎌倉幕府の四代将軍だが、名目のみで幕府内での実権はなかった。将軍頼家は藤原氏の一族である摂政・九条道家の第四子である。藤原氏の縁からかもしれないが、この将軍に田沼重綱は仕え、鎌倉に住んだ。
 初代・重綱の後、重村、重行、重信、重隆と続く。
 二代目の重村も鎌倉に住んで、没後は西林寺に葬られた。
 三代目の重行は、勅命により新田義貞に従い、建武二(一三三五)年七月に戦死しており、葬地不明とある。領地である田沼を遠く離れ、鎌倉幕府滅亡、建武の新政へという激動の中、戦い倒れたようだ。
 四代目の重信は、田沼姓ではなく千本姓を称した。千本とは奥方の姓で、居所が千本屋敷と呼ばれたため、地名が千本となったという説がある。
 田沼姓を変えたのは、父重行の戦死と関係があるようだ。時代は足利尊氏の世となっており、尊氏と敵対した新田義貞に従ったことをはばかったためらしい。父の死後は浪人となったが、後に佐野家に仕え、西林寺に葬られている。
 五代目の重隆も千本姓だが、鎌倉管領に仕え、鎌倉に住んだ。室町幕府の東国を治めるための役所が鎌倉府で、鎌倉管領はそこの長である鎌倉公方(足利将軍家の一族)を補佐する役職である。また、この重隆の代で西林寺を再建している。(玄松寺→西林寺)

遠州相良・田沼家の興り

 五代目重隆の子に、重正、光房の兄弟がいる。長男・重正は六代目として、田沼家を継いだ。(ただし姓は千本のままで、重正の曾孫の代で田沼姓にもどった。)西林寺蔵田沼家系図は、以後、重正系が記されており、天正十三年(一五八五年)、綱重が佐野宗綱と共に須花の戦いで討ち死したことで田沼本家は断絶した。
 弟光房の系統は遠州相良系図に記されており、田沼意次はこちらに属する。(正確には意次が遠州相良を領地としたため、さかのぼって意次の系統を遠州相良・田沼家とした。)
 光房は鎌倉から田沼に戻り、姓も千本から元の田沼姓にもどした。光房には子がなく、新田氏の一族、高瀬山城守忠重の二男・重綱を養子にし、田沼家を継がせた。高瀬家は清和源氏の系統のため、重綱の子忠高は源姓に改め、源忠高と称した。これは、遠州相良系図や、江戸時代中期につくられた『寛政重修諸家譜』による。

 しかし、私(筆者)はこれと若干異なる見解をもっている。私の先祖は、前記の高瀬家にあたり、本家が所蔵する系図を見ることができた。高瀬家系図によると、高瀬山城守忠重には長男・重綱と四人の女子がいた。重綱には三人の男子がおり、長男、二男は高瀬姓を継ぐが、三男・忠高は「母方の姓を継ぎ田沼と改」とあった。忠高の母は、田沼民部(光房)の娘である。
 一方、西林寺蔵田沼家系図では、光房の次に重綱があり、「高瀬喜衛門、後に田沼と改め」となっている。重綱には四人の男子がおり、長男、二男は高瀬姓、三男・忠高、四男は田沼姓になっている。そして、母は田沼民部光房の娘。
 以上より考えると、高瀬重綱と田沼光房の娘が結婚し、その三男・忠高が田沼姓を継いで遠州相良・田沼家となった。高瀬重綱は高瀬家の長男で跡取りのため、田沼光房の養子にはなれない。ただ、田沼光房の義理の息子にあたり、田沼忠高の実父なので、田沼家の系図に便宜上養子という形で入れたのではないかと推測する。
遠州相良・田沼家は、母方の田沼姓と、父方高瀬家の清和源氏を継いでいる。忠高は、田沼山城守源忠高と称した。子孫の田沼意次も正式には「源意次」と署名している。

紀州徳川家へ

 忠高(田沼山城守源忠高)は田沼村を出て、上杉家に仕え、後に武田氏に仕えている。さらに重高、重次、忠吉と戦国の世を上野、武蔵、下総、相模、甲斐と点々とした。
 重高は忍城主・成田親泰に仕え、重次は成田長泰に仕えた。
 忠吉は武田家に仕えたが、武田勝頼の代で滅びると浪人となり、江戸時代初期に没し葬地も不明とある。
 そして、吉次が大阪夏の陣の時、主人佐野氏と大阪勤めに出たおり、鉄砲の腕が徳川頼宣(御三家の紀州徳川家初代藩主)の耳に入り、紀州藩に召し抱えられた。
下野(栃木)の田沼家が紀州(和歌山)まで行ったのは、以上のような経緯である。
 以後、吉重、義房、意行と紀州徳川家に仕えたが、身分は足軽程度の家柄だったようだ。意次の出自が低く、成り上がり者と言われた由縁は戦国末期から江戸時代中期までの身分による。
 意行の父・義房は病気により職を辞して、和歌山城下の民間で静養した。そのため、意行は伯父の田代七右衛門のもとで養われ、後に再び紀州家に召し抱えられた。


意行、幕府旗本になる

 田沼意行は紀州藩主吉宗に仕えていたが、その吉宗が享保元年(一七一六年)、将軍になった。吉宗は江戸に入るおり二百人の供を連れていったが、意行もその一員となり、米三百俵の旗本に取り立てられた。
 意行は吉宗の小姓を勤めた後、御小納戸頭取となっており、従五位下主殿頭に叙している。禄高も最終的には六百石にまでなった。
 意行はいきなり新将軍の小姓となるくらいだから、容姿端麗で実務能力に優れていたと思われる。意行は「若い時から、万事ぬかりなく気のつく質の秀才型で、算数にはとくに優れた才能をもっていた。下役より身を立てた者だけに、下僚にはいたって親切で、思いやり深く、周囲の人と如才なくつきあうので、評判はごくよいほうだった。また向学心もきわめて強く、いつのころからか歌道家元冷泉為久に師事して勉学に励んだ。……当時指折りの歌人だった。」という。(後藤一朗『田沼意次・その虚実』より)

田沼忠高が田沼村を出て以後、四代にわたり主人を替えながら各地を転々とし、最後は浪人になった。
吉次の代で紀州徳川家に仕えたが、足軽程度の身分であった。それが吉次の曾孫・意行の代で、仕えていた吉宗が将軍になるという幸運とともに、幕府旗本へと出世した。
 意行は前記のように能力的にも人物的にも優れていたが、身分が固定していた時代においてこの出世は、これ以上望むべくもない程の幸運だと言える。ところが、意行の子供はそれをはるかに上回る歴史上の人物となっていった。
 田沼意次である。 



第二部 田沼意次の生涯


意次誕生

 意次の母の「辰」は野州の郷士の娘で、江戸に出て紀州藩江戸屋敷御家人・田代七右衛門のところに腰元奉公していた。七右衛門は才色兼備な辰を気に入り、養女にした。
 七右衛門は田沼意行の伯父にあたり、紀州時代は病気の父に代わり養ってもらっていた。意行は幕府旗本、田代七右衛門は紀州藩江戸屋敷勤めとなり、共に江戸に出てきた。江戸に知り合いの少ない意行は、非番のときには伯父の田代家に出入りしていた。そこで辰と懇意になり、やがて二人は結婚した。
 意次は享保四(一七一九)年、三百俵取りの旗本田沼意行、辰の長男として江戸で生まれた。辰は野州の出身だと前述した。野州とは下野(栃木)と上野(群馬)をいう。辰は宇都宮の八橋弾蔵という琴の名手に学んだというから、下野の出と思われる。田沼家も下野が発祥だから、意次の両親は下野に縁があることになる。
 なお、紀州時代の田沼家は金龍寺という寺の檀家だったが、そこの過去帳によれば、意次の兄として「幻春童子」という名がある。(後藤一朗『田沼意次・その虚実』)童子というとから、幼くして亡くなったと思われる。それが事実なら、意次は二男ということになるが、ここでは幕府の公式な系図集である『寛政重修諸家譜』に従い、長男としておく。


少年時代

 意次の幼名は龍助といった。少年期の意次は「利発で、書・画・歌はいうまでもなく、舞・謡・鞠・茶の湯・将棋など六芸一つとして長じぬものはなく、人々はみな稀代の童児とたたえた」という。(『田沼意次・その虚実』)
 意次の少年期を記した正式な記録はない。最初に歴史の舞台に登場するのは、十四歳で将軍吉宗に初お目見えした時である。そして、二年後に吉宗の長男家重の小姓に上がった。家重は次の将軍となる人物だった。小姓としての働きが認められれば、次期政権において将軍のブレーンとして活躍する道も開けてくる。
 自らも吉宗の小姓だった父意行は、長男意次も将軍の小姓にすべく、厳しく教育していったと思える。また、家重は将軍になるための教育として当時第一の学者である室鳩巣の講義を受けた。意次は小姓として常に側に付いていたので、それを聞くことが出来た。意次は低い家柄のため学問が無いとの中傷もあるが、実は将軍跡取りと同じ英才教育を受けていたことになる。持ち前の明晰な頭脳に、最高の学問が加わっていった。
 さらに意次は両親の容姿を受け継ぎ、とびきりの美男子だったという。意次の肖像画は若い時のもの(相良町資料館蔵、p23)と、壮年のもの(勝林寺蔵、p27)の二点が残されているが、「細面の苦み走った好男子」と評されている。
 笹沢佐保の小説『失脚』では、意次の容姿を次のように描いている。

  町娘たちは田沼意次だと気がつくと、頭を深く下げたまますれ違った。        田沼意次をチラッとでも見てしまうと、胸がドキドキして息苦しくなるからだった。
  「江戸にいちばんの男前となれば、田沼さまのほかにどなたさまがおいでかい」
  「そうだねえ。このひろい大江戸でも、田沼さまほどの男前にはお目にかかったこと  はないものねえ」
  「いま評判の役者が十人そろったところで、田沼さまの前に並んでごらん。見劣りが  して、どうしょうもないよ」
  「お武家さまでもあれほどの男前となると、話にも聞いたことがないよ」

 意次の容姿のよさ、父ゆずりの性格のよさは、人々の人気をえて、出世していく上で大きな力になっていたと思われる。特に、大奥での評判のよさと後押しは、幕府内で権力を得る上で必要不可欠のものだった。
 しかし、生来の容姿と人柄だけでは、権力の頂点まで昇りつめることは不可能である。意次は政治の表舞台において、非凡なる能力を発揮することで、将軍の絶対的な信頼を得て、田沼時代と呼ばれる一時代を築いていった。





出世の軌跡

 意次が身分社会が確立していた江戸時代中期において、破格の出世を遂げていった様子を年代をおって見ていく。(年齢は数え年)

 享保十七(一七三二)年、十四歳の田沼龍助(意次)は将軍吉宗に初お目見えする。  享保十九(一七三四)年、西の丸にいる次期将軍家重の小姓になり、三百俵を拝領する。  この年、父意行が死去する。十六歳。
 享保二〇(一七三五)年、十七歳で田沼家の家督(六百石)を相続し、元服して意次と  称す。二年後、父と同じく従五位下主殿頭となる。
 延享二(一七四五)年、吉宗が隠居し、家重が九代将軍になり、意次も本丸に移る。  寛延元(一七四八)年、小姓組番頭となり、二千石に加増。三十歳
 宝暦元(一七五一)年、大御所吉宗死去。家重の御側衆(御側御用取次)となる。
 宝暦五(一七五五)年、五千石に加増
 宝暦八(一七五八)年、相良一万石の領地を拝領し、大名となる。四十歳。
 宝暦十(一七六〇)年、将軍家重隠居。家治が十代将軍となる。
 宝暦十二(一七六二)年、一万五千石に加増
 明和四(一七六七)年、将軍家治の側用人となる。四十九歳。二万石に加増
 明和六(一七六九)年、二万五千石に加増、老中格になる。
 明和九(一七七二)年、三万石に加増、正式老中になる。五十四歳。
 安永六(一七七七)年、三万七千石に加増
 天明元(一七八一)年、家斉(一橋家)が将軍家治の養子となる。4万七千石に加増。 天明四(一七八四)年、長男意知、江戸城内で佐野善左衛門政言に殺される。
 天明五(一七八五)年、五万七千石に加増
 天明六(一七八六)年、将軍家治死去。老中を解任される。六十八歳
 天明八(一七八八)年 意次死去。七十歳

 江戸時代の武士の身分、すなわち家格は、石高に反映する。特に下級武士は、石高が生涯ほとんど変わることはない。しかし、田沼意次は父から相続した六百石から始まり、十回も加増になり、最終的には百倍近い五万七千石になっている。役職も加増にともない上がっていき、幕府における最高職の老中にまで上りつめている。まさに「封建の異端」と言える。


将軍の信頼

意次の異例の出世を、歴代将軍とのかかわりの面からみていく。
 八代将軍吉宗は「幕府中興の祖」と言われている。徳川本家の血が絶えたため、御三家である紀州徳川家から養子に入った。新たな血が入ることにより、幕府は生まれ変わり、徳川将軍家が十五代までもった。
 その吉宗が紀州から連れてきた田沼意行を自分の小姓しに、さらに田沼意次を家重の小姓にした。吉宗はそれだけ田沼父子を信頼していた。
 なお、吉宗には三人の男子がいた。長男が家重、二男が宗武、四男が宗尹だった。(三男は早くに亡くなっていた。)通常なら跡取りは長男・家重ですんなり決まるはずだが、
ここで問題があった。家重は病弱なうえ言語不明瞭で、およそ将軍の器とはいえなかった。一方、二男・宗武は文武に優れており、こちらを将軍に推す動きがあった。結局は吉宗の決断で、長子相続の秩序を重んじて長男の家重にきまった。このような家重だからこそ、周囲には有能な人材を配しておき、家重の代にはブレーンとなって活躍してくれることを期待したのではないだろうか。意次の小姓抜擢には、そのような意味合いがあると思われる。 
 なお、吉宗は二男・宗武に田安家、四男・宗尹に一橋家、そして、後に家重の二男・重好に清水家を創設させて、これを御三卿とした。万が一、家重の系統が絶えたとしても、
御三卿からも将軍が出せるようにした。

 意次が家重の小姓になった時、上司(小姓頭)に大岡忠光がいた。忠光はテレビドラマなどで有名な南町奉行・大岡越前守忠相の一族だが、三百石の小旗本の出である。十四歳で家重の小姓になったが、二つ年下の家重は忠光になつき、いつもそばにいた。この間、忠光は不明瞭な家重の言葉を読み取れるようになっていった。家重が将軍後継者となり、やがて九代将軍になるに至って、家重の唯一の通訳者である忠光は、異例の出世を遂げていった。小姓、小姓頭、御側衆を経て、一万石の大名となり若年寄になっている。やがて、側用人の制度が復活し忠光が就任した。側用人は吉宗が柳沢吉保、間部詮房らの「側用人政治」の弊害から廃止していたが、言語不明瞭な将軍家重には、それを理解できる側近がどうしても必要になった。
 忠光は家重政権の実質的な最高権力者になった。忠光が三百石の小旗本から二万石の大名、側用人へと進んだことは、意次の破格の出世の先例になった。
 なお、大岡忠光は政治的にはそれほど能力を有していたとは思えない。家重の言葉を唯一理解できたということで、異例の出世をした。側用人とはいえ、独自色出して自ら政治を行なったわけではなく、その意味では側用人政治ではない。家重があっての忠光とも言えた。家重が隠居すると、忠光は隠居し間もなく死去している。
 一方、小姓の意次も家重に気に入られ、小姓組番頭、御側御用取次へと出世していった。この間、意次も家重の言語を理解できるようになり、家重の信頼を強めていった。宝暦八年(一七五八年)には、四十歳で一万石の大名になり、「執政と同様に評定所に出て訴訟をうけたまわるよう」と命じられ、幕府政治に本格的に参加していった。
 家重の世の後半は、政治的には意次の比重が高まっていった。家重は十代将軍家治に,
「主殿(意次)はまとうぞ(完全な人)のものなり、行々こころを添えて召し使はるべし」と遺言している。家来に対してこれ以上の賛辞はない。
 家治は聡明な将軍だったと言われているが、自ら政治は行わず、意次の政治家としての技量を見込み、政治をまかせきった。将軍家治の全面的信頼のもと、意次は政治手腕を十二分に発揮し、後に田沼時代と呼ばれる全盛期を築いていった。
 明和四年(一七六七年)、意次は側用人となり、家治の側近第一位の地位を得た。あわせて、従四位下となり、二万石に加増され大岡忠光と並んだ。さらに、老中格を経て、明和九年(一七七二年)に正式老中になった。由緒ある譜代大名以外から老中になったのも異例だが、将軍の特命により側用人の職もそのまま兼任するのも異例中の異例であった。
 家治には跡取りとして家基がいた。唯一の男子であったが、極めて健康で、十一代将軍就任は間違いないと考えられていた。家重以上に意次を信頼している家治であるから、次に将軍になる家基にも、意次やその子意知を重く用いるよう伝えるであろう。そして、さらに田沼時代は続くはずであった。ところが、十八歳になった家基は、鷹狩りの帰途、にわかに気分が悪くなり急死してしまった。
 家基の突然の死は、陰謀説がささやかれている。中には意次が関係しているとの噂もあったというが、意次にとっては大きな痛手になって、何ら利益のないことである。この頃より、反田沼派が動き始めてくる。そして、将軍家治の死とともに、意次は失脚することになる。
 八代将軍・吉宗に見込まれ、九代将軍・家重、十代将軍・家治の信頼があったから、低い家柄の出ながら、田沼意次はその政治的手腕を思う存分に発揮できた。

側用人と老中

 幕府における最高権力者は、将軍であることは言うまでもない。ただ、初代将軍の家康、八代将軍吉宗を除き、将軍自ら政治を行なうことはなく、数人の老中の合議による集団指導体制が幕府政治の実体だった。老中になるには、大名で、しかも名門の家柄でなけらばならなかった。
 しかし、家柄と実際の政治を行なう能力とは別ものである。ここでいう名門の家柄とは、戦国時代の戦功に対して称したものである。江戸時代も中期になると、戦の能力は不要となる。社会経済体制が自給自足から、商品・貨幣経済に変わり、幕府の貯財が底をつき深刻な財政難になってくると、高度の経済知識が政治に必要になってきた。そこで登場してきたのが側用人である。
 側用人の制度は五代将軍綱吉のとき始まったもので、当初は将軍と老中との間の政治向きの連絡役であった。設立のきっかけは、江戸城内で綱吉が信頼する老中・堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に斬り殺された事件だった。現場は、将軍の居間である「御座の間」の一部である「大溜」だった。「大溜」で老中たちは仕事をし、隣の部屋にいる将軍と相談しながら政治が行われていた。将軍のそばで殺傷事件が起こったことは、大きな衝撃だった。そこで、将軍の安全を守るため、老中たちの執務室を「御座の間」から離し、「御用部屋」とした。さらに、「御座の間」と「御用部屋」の間に将軍の側近(御側衆)を配置した。老中も直接将軍に近づけないので、連絡役である側用人という役が設けられた。
 やがて、単なる連絡役でなく、側用人自身が政治を取り仕切るようになっていった。「側用人政治」の代表は、綱吉の信頼の厚かった柳沢吉保、六代家宣、七代家継時代の間部詮房と続き、田沼意次に至る。
 家柄は低いが、特に経済に明るい有能な人物が、将軍と老中の間にあって政治を取り仕切ったのが側用人政治である。老中による政治が表の政治構造なら、側用人政治は裏の政治構造といえる。歴史学者・大石慎三郎氏は、これを剛構造、柔構造と呼び、「徳川幕府は、老中体制すなわち身分制体制という剛構造と、側用人政治という柔構造を、どちらにアクセントをおくかは別として、ずっと併用することで生き延びていく」としている。
 田沼意次は同時期に側用人と老中を兼ねており、政治の表と裏、剛構造と柔構造を両方をもった最高実力者であった。これは、江戸時代において、他に例がない。
田沼屋敷の様子

 田沼意次は破格の出世をしたが、それだけ有能であり、他人の何倍も仕事をした結果である。一ヶ月のうち、二十日は城内に泊まり込んだという。屋敷に戻った日は来客があふれ、夜遅くまで対応におわれた。
平戸藩主松浦静山の書いた『甲子夜話』には、田沼家へご機嫌伺いに集まる者たちのことが次のように記されている。
 
 静山が二十歳のころ、田沼家へご機嫌伺いに行くと大勝手に通された。その座敷は三十畳もあったが、人がいっぱいで座敷の外にまであふれていた。主人が出て来ても外側の人は顔が見えないくらいで、挨拶するにも主客が互いに顔を接せんばかりで、(大名である自分に対して)無礼である。刀は次の間に脱いでおくのだが、刀が幾十とあり、あたかも海波を描けるごとくだった。

 田沼屋敷に集まる人々は、当然お土産をもってきた。何か頼み事がある場合は、それに要する金額は大きかった。これが賄賂とされた。来客の目的は依頼事ばかりでなく、情報収集もあった。賄賂伝説については後に述べるとして、ここでは情報基地としての田沼屋敷の位置づけをみていきたい。

 大きな事業をやるために必要な三要素は、人・金・情報である。情報化社会といわれる現代において、特に情報の比重が高まってきているが、武士の世でも情報の重要性に気付いたものが勝利を収めている。二つの例をあげる。
・桶狭間の戦いで、戦力的には劣勢な織田信長が今川の大群を破ったのも、的確な情報によって奇襲攻撃の機会を見逃さなかったからである。
・紀州藩主徳川吉宗は、八代将軍の座を尾張継友と争った。そこで吉宗は将軍継承にかかわる情報を的確に収集していた。七代将軍家継が危篤になり召集がかかった時も、吉宗は既にこの情報を得ており、準備万端整え、二人の家老と供廻りの者を連れ最初に江戸城に乗り込んできた。一方、尾張家では、緊急の召集にあわて、藩主が馬に乗り駆け出し、家臣がそれを追うという醜態を演じている。結局、その日のうちに、吉宗が将軍後見職になり、将軍を継ぐことが決定した。尾張家では情報収集の不備ばかりか、内部情報も吉宗側に筒抜けだったらしく、家老たちの責任追及が行われた。吉宗は将軍になってからも、幕府の正式な情報機関である、服部半蔵の流れをくむ隠密組織以外に、紀州から連れてきたお庭番衆を使って情報収集を行ったという。
 
 田沼意次も紀州派であり、若い頃より吉宗の政治を身近で見てきた。意次も政治を行う上での、情報の重要性を認識していたと思える。江上照彦氏は意次の情報網を、次のように述べている。                                    幕政を司る要所要所には多くの腹心がおかれている。と同時に、いたるところに彼  の手先がもぐりこんでいて、気脈は四方八方に通じているから、外部のいろんな動き  が手に取るようにわかる。得た情報を吟味して先手先手と手を打っていくから、相手  は面くらい気を呑まれ、なんだか身動きできないような気持ちになり、はては自分か  ら進んで手の内を見せて、ますますのっぴきならなくなったあげく、ついには意次一  派に荷担するようなものさえでてくる。

 意次の屋敷にも多くの人が集まってきた。直属のスタッフやブレーンだけでなく、諸大名の江戸留守居役や旗本たちが連日やってきた。意次が非番で屋敷にいる日などは、誠意を示そうと、朝の暗いうちから門前に並んでいたという。前述の松浦静山『甲子夜話』にあるように、座敷には人がいっぱいで外にまであふれた。意次はそのような人の波の中に入り、膝が触れんばかりの状態できさくに話をした。
 一般に老中相手となれば、正式な手続きをしても、なかなか面会できないものである。それが、田沼屋敷はほとんど開放されており、いつでも気易く受け入れてくれた。他に聞かれてはまずい時は別室で話をしたが、大座敷でのオープンな談話からも情報は得られていった。意次は屋敷に集まってくる様々な人に会い、そこから新たな情報や知識を吸収して政策へ生かしていった。そこに集まる人たちも、意次を通しての情報だけでなく、メンバー同士の情報交換ができた。諸大名の情報担当重役は江戸留守居役だが、彼らやその配下は、田沼屋敷に常駐に近いかたちで通った。日本中の情報は江戸に集まってきたが、その中心にあったのが意次であった。


賄賂伝説

(1) 経済力を重視
 現在の田沼家に直筆の「田沼意次遺訓」というものがある。これは遺書とよばれているが、毎年正月に家中の者全員に読み聞かせるよう注意書きがあることから、家訓とも考えられる。この遺訓は、意次の人柄を知る上での貴重な資料とされているが、意次の経済観、金銭感覚を知ることもできる。遺訓は全部で七か条あるが、第七条には財政に関して次のような意味のことが書いてある。

 諸家の勝手向き(財政状況)をみると、不如意なのが一般的である。貯えがないと公儀の御用さえ勤めにくくなる。もちろん軍役も勤めにくく、領地を拝領している意味がない。家の経済を立てるのは大切至極のことである。
 (そして、このことは特に重要とし、別紙を添えさらに細かく指示している。)
 収入を見積もっていても、領地の不作で減ることがある。支出を見積もっていても、不時の支出がある。これを繰り返していたら、勝手向きは行きづまる。借金をしていくと、利子もかさみ大借金になり立て直せなくなる。このことをよく心え、奢りなく、倹約に努めよ。もし、やりくりが悪くなったら、できるだけ早く改善せよ。かといって、領内の取り立てを無理に強く申しつけるようなことをしてはならない。百姓町人に無慈悲なことをするのは、家の害である。正道をもってすべてのことに臨むように。

 意次は経済力を何より重要なものと考えていた。武士としての本来の勤めも、経済力があってはじめて可能だということに気づいていた。やがて、幕府旗本の経済力の低下が、財政改革に成功した薩摩、長州の近代的な軍事力に敗れることになる。
 また、田沼意次を描いた長編小説『田沼意次』(村上元三著)に次のような場面がある。 
 父意行が他界して、十七歳の意次が家督を相続した。そのための費用として五百両が必要だった。意次は札差の武蔵屋に自ら出向き、五百両の借金を依頼した。そこで意次は、五百両の必要性と、金銭がいかに大切かを素直に打ち明けた。それに対し武蔵屋は、
「あなた様は、正直に物をおっしゃる。金銭は卑しいものとして、お旗本がたはめったにお口になさらぬものでございます。それをあなた様は、札差のわたくしを対手に、思うことをそのまま言葉にお出しなされた。よろしゅうございます。五百両、抵当なし期限なしで、ご用立ていたしまする。あなた様がご出世をなさるおかた、と見たわたくしの眼に狂いがないと存ずるゆえんでございます。」
と言って、快く引き受けてくれた。それ以後、武蔵屋は、出世を遂げるまでの意次の経済を支えることになる。
 
 これはあくまでも小説の一場面だが、意次の金銭観を如実に表わしていると思われる。金銭を大切に思う者のところには、金銭は集まってくる。意次政権の背後には、成長著しい商業資本の経済力があった。                           
 意次の領地は、最終的には五万七千石になったが、六百石からのスタートだけに、田沼家にはそれまでの蓄積はほとんどないはずである。意次の個人的な財源は、やはり賄賂と呼ばれるものだったろう。ただ、意次はこの金を個人的な贅沢にだけ使ったわけでなく、政治のためにどんどん使っていった。微禄から登用した官僚群(スタッフ)の面倒をみなければならないし、平賀源内のような在野のブレーンにも資金を提供する必要があった。収入も多かったが、支出も多かった。私利私欲のための蓄財をせず、うまく金を使っていったからこそ、短期間にあれだけ多くの仕事を成し遂げられたのだろう。この意味で、意次の得た「賄賂」には、現在でいう政治献金の意味合いもあり、政治資金として使われた。

(2) 賄賂伝説
 意次への贈り物についてもいろいろ紹介されている。意次の下屋敷が完成したとき、池を見て、「この池に鯉または鮒の類を入れたら面白かろう」と言った。登城して帰ってみたら、池には鮒だの鯉だのが入っていた。また、意次が暑気あたりでふせていた時、ご機嫌伺いに来た者が、家来から、意次が岩石菖(常緑植物)を盆に置いて観ていると聞いた。すると、二三日の間に、諸家から各種の岩石菖が届けられ、座敷二つ分になった。
 意次への贈り物は、皆様々な意匠が凝らしてあった。或家の進物は、小さな青竹のかごに魚(大鱚)七、八匹と少しの野菜と柚子一つだったが、柚子には数十金に値する後藤という名人が彫刻した小刀がさしてあったという。
 大老井伊直幸は、その地位を得るために、意次に数千金の賄賂を贈った。阿部正敏は隣家の意次が屋敷を広げたいと望んでいることを聞き、自分の別邸屋敷地を幕府に返上した。その屋敷地は幕府から意次に譲られ、まもなく阿部は大阪城代になった。伊達家の文書にも、伊達重村が昇進の希望をもって、意次にいろいろ手をまわしている有様がある。
 『古今百代草叢書』(国立国会図書館蔵、四代目東流庵裕山作)には「まいない鳥の図」と「まいないつぶれの図」の落書きがある。「まいない」すなわち賄賂をとる鳥や虫を描き、賄賂政治を風刺している。

(3) 江戸時代の賄賂とは
 田沼意次というと「賄賂政治家」という悪評が定着している。意次は幕府の最高実力者であるから、膨大な量の贈り物や、賄賂というべき金品が集まってきたのはまちがいない。ただ、江戸時代における賄賂の性質は、現代のものとやや違っている。
 幕府は全国の大名を支配してはいるが、基本的には地方分権に近いかたちをとっていた。大名は自分の領地の徴税権を全面的にもっており、幕府も独自の財源(領地、鉱山等)があることから、大名から税を取るようなことはなかった。そのかわり大名が力をもたないように、参勤交代や河川、道路修理などの賦役を命じることで、経済力を押さえていった。 大名は賦役を命ぜられると大変なので、それを免れるため決定権のある老中等に賄賂を贈る。大名は賦役を命じられても、それから免れるためにも莫大な失費を要した。よって老中など幕閣が何かにつけ大名から金品をもらうことは、大名の経済力を低下させることになりむしろ幕府へのご奉公だと考えられた。
 大名だけでなく、一般でも賄賂は社会の風潮として行なわれていたらしい。作家の笹沢佐保氏も『失脚』の中で、次のように述べている。

   江戸時代の賄賂となると、意味がまるで違ってくる。賄賂は「不正な金や品物」で  はない。賄賂は贈り物であった。場合によっては贈収賄にも問えるが、よほどのこと  がなければそうはしなかった。
   つまり、賄賂は公認されていたのだ。(中略)自分の望みを叶えてくれる相手、約  束を守ってくれた人には金品や贈り物で謝礼する。これが当時の礼儀という考え方な  ので、贈収賄は悪事だなどと罪の意識はなかった。

 松平定信も、老中就任直前に将軍に出した田沼排斥の意見書の中で、かつて溜間詰の職を得るために、敵ともいえる田沼邸へ日々のように見舞い、不如意の中からも金銀を運んだと述べている。現代風にいえば、定信が贈賄、意次が収賄の同罪となるようなことを将軍へ言えるくらいだから、定信自身も賄賂に関する罪悪感はそれほどなかったのではないだろうか。
 このように賄賂は公然とはできないが、現実には人間関係の潤滑油として黙認されていた時代において、意次が「賄賂政治家」の烙印を押されてしまったのは、意次を失脚させた反田沼派の政治宣伝によると考えられる。
意次の人脈

(1) 田沼一族
 田沼意次にとっての負い目は、家柄の低さであったという。そこで、次々と名門の大名家と縁組みを行なっていった。これは、意次から望んだものもあるが、意次の異例の出世に相手から望んできた場合のほうが多かった。
 意次の妻は伊丹直賢の娘である。義父・伊丹直賢は千石の幕府旗本だが、意次の父意行と同じく、元紀州藩士で吉宗に随伴して幕臣になった。結婚当時は身分も釣り合い、父親同士は紀州時代からの仲間という縁もあった。ただ、意次の子供たちは皆大名家と結婚し、一大閨閥(婚姻関係によりできた派閥)を形成した。
 意次には七人の男子があったが、三人は早く死去し、四人が成人した。長男意知には老中松平康福の娘を嫁に迎えた。四男意正は遠江沼津藩主・老中水野忠友、六男雄貞は伊勢薦野藩主・土方雄年、七男隆祺は丹波綾部藩主・九鬼隆貞へとそれぞれ養子に入った。また、娘二人も遠江横須賀藩主・西尾忠移、越後与板藩主・井伊直朗へ嫁入りした。さらに、意次の弟意誠とその子意致が御三卿の一つである一橋家の家老になっている。
 幕府の人事権は当然のこととして将軍にあるが、側近の意次の発言権は大きく、実質的な人事権は意次にあったといってもよい。名門大名との縁組みにより、意次が出世したというより、意次のおかげで彼らが出世している。水野忠友は若年寄から、意次の跡を継ぎ側用人になり、老中にまでなっている。松平康福は老中としては先輩にあたるが、意次の斡旋により老中首座に昇進し、一万石の加増にもなっている。大老井伊直幸とは直接縁組みはしていないが、意次の娘が井伊家一族の井伊直朗に嫁いでいる。そして、直朗の姉は直幸の妻となっている。
 井伊直幸は意次の力で五代将軍の時以来空席だった大老の職に就いている。大老は臨時職だが老中より上席である。大老ですら意次に恩があり、頭が上がらないところがあった。
 田沼時代最後の幕閣は次の通りである。
  大老 井伊直幸(田沼派)
  老中 松平康福(田沼派)
  老中 田沼意次(田沼派)
  老中 水野忠友(田沼派)
  老中 鳥居忠意(中立派)
  老中 牧野貞長(田沼派)           
 将軍は意次を絶対的に信頼している家治で、次期将軍は一橋家から養子に入った家斉に決まった。家斉には一橋家家老だった田沼意致(意次の甥)が、側近としてついていた。 ただ、縁組みなど当てになるものではない。現に意次の失脚後、関わりを恐れ、皆離縁してきている。実利的な意次にとっては、名門との縁続きなどという表面的なものより、幕閣と将軍周辺を自派で固めることで、円滑な政治執行を図る意味合いのほうが強かったのではないだろうか。意次は、細心な気配りにより敵を作らぬよう心がけた。


(2) スタッフとブレーン
 田沼の新政策は、ほぼ同時期に多方面にわたり展開している。これは、政策を企画立案し実行する優秀なスタッフ(官僚)とブレーン(有識者)を多数抱えていたからできたのである。田沼政治の真髄はこの人脈にあったといってもよい。
 田沼の改革は経済改革が中心である。田沼政権では、有能な経済官僚が次々と登用された。明和八年(一七七一年)に河井久敬、安永八年(一七七九年)に松本秀持、天明二年(一七八二年)に赤井忠晶が勘定奉行になっている。河井久敬は勘定吟味役から勘定奉行になっており、五匁銀や四文銭の発行など、貨幣政策で力量を発揮した。松本秀持は勘定吟味役から、赤井忠晶は京都町奉行から勘定奉行に登用され、蝦夷地開発や印旛沼干拓など、大仕事を手がけた。特に松本秀持は、最初は米百俵の微禄の身であったが、田沼政権で出世をとげ、最後は五千石になった。
 意次は江戸以外の要所要所の地方長官にも有能な腹心を配していった。京都伏見奉行の小堀政方、長崎奉行久世広民らである。久世広民は、オランダ商館長チチングが感心した進歩派で、長崎で入手した海外情報を意次にもたらした。
 以上のように、田沼時代には多くの有能な人材が大胆に登用されている。本来なら要職には決して就けないような、百俵、二百俵の小禄の者もいる。封建の世において、能力主義の人事を実行できたのは、そのような道を歩んできた意次のならではのことといえる。
 
 意次はまた、官職にない在野のブレーン(有識者)のアイデアにも耳を傾けた。その代表が平賀源内である。源内は科学者、本草学者(植物、薬草、動物、鉱物の研究)、発明家、画家、小説家、エッセイスト、浄瑠璃の戯作者…と多芸多才の天才、あるいは山師といわれた。山師とは、良く言えば専門技術者、悪く言えば投機家、詐欺師といった意味がある。そのような浪人が、田沼意次の屋敷に頻繁に出入りした。あるとき源内が帰るおり、意次が自ら砂糖折を与えた。半月ばかりして、源内がこれを開いたら底に小判百両が入っていたという。明和六年(一七六九年)、意次は浪人源内に「オランダ本草翻訳御用」という幕府の役を与え、長崎遊学をさせている。源内は長崎土産として、雲中を乗る大船(飛行船)を持参したとある。意次のオランダ好みは有名で、西洋の珍品を集めて喜んでいたというが、源内の持ち込んだものであろう。また、意次の開国思想にも、源内のもたらした西洋文化の影響があったと思われる。
 意次の屋敷には多数の来客があったが、大名だけでなく、平賀源内のような天才、奇才もどんどん受け入れた。権力の頂点に立つと、思考が硬直化してしまうものだが、意次は彼らとの交流を通して、知的好奇心と柔軟な思考を維持したのではないだろうか。
 また、仙台藩の医師工藤平助は、『赤蝦夷風説考』を書き、ロシアとの北方問題の重要性を説き、ロシアとの貿易を提案していた。日本の外交政策の根幹にかかわる意見書で、一歩間違えば、幕府から処分されかねない内容であった。現に後の松平定信政権では、『開国兵談』を書いた林子平を厳しく処罰している。ところが、田沼政権では民間人である工藤の意見を取り上げ、蝦夷地調査隊の派遣・開発計画という幕府の事業へと発展させていった。

田沼の改革全貌

(1) 田沼の改革の構造
 幕府にとって最大の課題は、財政の再建だった。そのためには、支出を減らし収入を増やすという両面が必要だが、改革によって比重のおきかたが違っていた。
 江戸時代の三大改革というと、徳川吉宗の「享保の改革」、松平定信の「寛政の改革」、水野忠邦の「天保の改革」である。この中である程度成功を収めたのは、将軍吉宗が陣頭指揮した「享保の改革」の前半くらいで、あとは散々たるものであった。「享保の改革」においては、倹約と共に、増税や新田開発による収入増加を図った。他の二つは倹約を中心とした消極的財政政策をとった。世の中が落ち込んでいるとき、消極策をとると、人々の気持ちはさらに落ち込んでしまい、明日への希望も意欲も失せてしまうものである。
 田沼時代は封建の因習にとらわれずに、大胆な能力主義の人材抜擢が行われ、振興勢力の町人の力を生かした積極策が次々と出された。この政治を反映して、田沼時代は、自由闊達で華やいだ雰囲気が江戸の町に満ちていた。(反対派はこれを、人心の退廃というが…)この意味で、田沼時代の政治こそまさに「改革」の名にふさわしいのではないだろうか。田沼時代の政治をあえて「田沼の改革」と称し、田沼意次が目指した政治を再評価してみたい。
 
 もちろん田沼の改革においても、支出削減の減量政策を無視したわけでなく、初期の段階では、倹約令が次々と出されている。まず宝暦十三年(一七六三年)に、諸役所に対して、経費の節約令を勘定奉行が出した。そして、明和八年(一七七一年)四月には、前年夏の干ばつにより年貢収納が減ったため、今後五年間、毎年四万両の倹約をするよう命じた。そして、倹約の内容を細かく示していった。畳代は、六千両から二千両に減らされた。諸役人に支給する料理も、予算を一万三千八百両から一万両へと減額された。老中、若年寄の料理は、三汁五菜だったものが湯漬けにされた。その他役人は、香の物と一汁二菜とした。そして、料理に付いていた酒はなくなった。老中、若年寄のほうが、率先して倹約した。 倹約は幕府役人だけでなく、将軍や大奥にまで及んだ。御納戸金・賄金という、将軍の私生活に関する予算も大幅に削減されている。意次失脚後に出た「田沼罪案二十六か条」に、「上様に差し上る御膳部やお召物、すべて粗末すぎる。倹約と吝嗇(けち)の区別わきまえないのか」というのがある。また、意次は大奥に人気があったが、倹約令に関しては批判をあび、大奥内には意次の失脚を望む勢力があったことも確かである。
 倹約による減量経営には限界があった。田沼の改革は、増収を図る積極政策に比重が移されていった。これが田沼の改革の中心部分になる。個々の詳細は次節以降に述べるので、ここでは概略を示す。
 幕府の収入源は、天領からの年貢収入、鉱山収入、貿易収入の三つであった。その中心は年貢収入であるが、年貢率の引き上げに限界があることは、享保の改革の後半で痛感していた。ない者からは、これ以上取れない。ある者から取ればよい。ある者とは、成長著しい商人である。株仲間制度を発展させ、商業を活性化し、利益を運上金、冥加金として幕府に納めさせる。農民だけでなく、商人にも課税する税制の構造改革を行なった。
 また、商業活動の活発化に伴い、通貨制度の改革を行なった。目方を量って取り引きする秤量通貨制度から、額面通りの通用価で統一した表位通貨制度へ変更した。さらに、関東の金経済と、関西の銀経済の一元化を図った南鐐二朱判を発行した。田沼時代の最後には、大商人、さらには全国民に出資させ、大名に貸し出すという金融構想を打ち出している。この時代において、日本は重農主義から重商主義への転換が行なわれようとしていた。
 一方、年貢増収に関しては、新田開発の方に力を注いだ。吉宗時代に着手し、失敗した印旛沼、手賀沼の干拓に再度挑戦した。さらに、蝦夷地開拓という広大な計画へと発展していった。
 鉱山開発にも積極的に取り組んだ。特に、中国貿易に必要な銅山の開発に力を入れた。 貿易に関しては、銅と俵物の輸出に切り替え、銀の流出を防いだ。さらに、海外の金貨、銀貨を輸入するという外貨獲得を行ない、国際収支を貿易黒字へと導いた。また、貿易相手を拡大し、経済発展を図ろうという開国思想にまで広がっていった。
 文化面では基本的には自由放任にしたため、活気づき、学問、芸術、言論面で江戸の町人文化が発展した。辻氏も「化政時代が江戸文化の満開であるならば、田沼時代はそのまさにほころびんとする蕾である」と述べている。吉宗によって解禁され、研究が進んできた蘭学も、『解体新書』の出版により、華開いていった。
 以上の諸政策は、系統だてた一連の計画のもとで実施されていったわけではない。収入を増やすという大目標のもと、有能な経済官僚群を用い、次々と増収政策に手をつけていった。一つの方法が行きづまると、ためらうことなく別の方法に切り替えるという柔軟姿勢をとっていた。

(2) 産業振興・税制改革
 吉宗の享保の改革以後、幕府及び諸藩は財政対策として年貢増収に力をいれたが、それに伴い、全国各地で一揆が多発していった。この一揆の中で、特筆すべきなのが郡上八幡藩(現岐阜県)の郡上一揆である。藩主金森頼錦は、幕府の奏者番という役に就き、やがては若年寄、老中への可能性がある幹部候補生のルートに乗った。出世の野望に燃えた藩主は、出世のための資金調達の必要性から、有毛検見法という最も過酷な税法を農民に課してきた。これによって、検地後の生産力向上分や、隠し田畑が洗い出されてしまい、増税になることはまちがいなかった。たとえば、武蔵国西方村では、年貢率二十六パーセントだったものが、有毛検見法では四十パーセント台にも増えたという。         この課税に驚いた郡上八幡の農民は、千人を動員して有毛検見法の撤回を求める強訴を行なった。これに対し、藩は幕府に働きかけ、美濃郡代を派遣してもらい、幕府の圧力で庄屋三十六人に新税法を承認させてしまった。憤激した農民は、本格的な一揆に突入し、五年間も続いた。この間、農民側のリーダー格が次々と処刑されていった。最後に、追いつめられた農民側は幕府に訴え、ついに幕府評定所で処理することになった。この時、意次は一万石の大名となり評定所出座を命じられて、この審理(裁判)に参加した。
 評定所の審理の結果、藩主金森頼錦は領地没収の上、奥州南部藩へ永預けとなった。農民側も、死罪十三名を初めとして、多数が処罰された。安定してきた江戸中期以降に、藩の取り潰しという重い処分が下されたのは、一揆の大きさもあるだろうが、課税の過酷さが度を過ぎていたとも考えられる。さらに、幕府重臣たちが、金森頼錦にからんでいたと重い処分を受けている。老中本多正珍は役儀取り上げ、逼塞。若年寄本多忠央は領地没収、永預け。その他、大目付け、勘定奉行、郡代等が解任、追放になっている。
 意次は、評定所出座により幕府政治に関わり始めた時点で、年貢収入をこれ以上増やすことの不可能さを痛感した。
 年貢以外の税収入として、意次が着目したのが、商工業者に課す運上金と冥加金である。運上金は、商工業などの営業従事者に一定税率で納めさせたもので、営業税、免許手数料などの性質をもつ。冥加金は、幕府などが営業者への公認保護を与えたことに対する献金の性質をもつ。冥加金は献金であるから一定の税率はなかったが、やがて幕府は財政に確実に組み入れるため税率を定め、完全な税と化した。
 冥加金の対象は、幕府により公認された株仲間である。株仲間は、吉宗の時代に大岡越前守忠相が物価統制のためにつくらせたもので、江戸や大阪の問屋や質屋の株仲間には冥加金を上納させていた。意次はこれに目を着け、株仲間の数を増やし、課税範囲を拡大していった。天明年間を中心に、大阪だけで一三〇の業種が株仲間を認められた。
 幕府は運上金、冥加金という主に商工業者を対象とした税収入を増やすために、産業の振興を図った。商品経済の発達とともに、商工業者の数が急増してきたが、零細な業者がほとんどだった。そのような業者同士の無用な競争を防ぎ、健全な育成が図れるよう、業者をたばね独占的な利益を保障したのが株仲間であった。同じように、特定の事業を専売制にしたのが座である。吉宗の時代に、銅座、人参座、朱座という専売機関があったが、意次はこれをさらに拡大し、銀座、鉄座、真鍮座、竜脳座などをつくった。また、明礬会所、石灰会所なども新しく公認した。(会所とは、株仲間の事務所のこと。)
 それまで、税といえば農民からの年貢収入だけだった幕府において、商工業者に正式に課税したのは意次が最初だといわれている。課税対象の拡大と、貨幣による納税は、根本的な税制改革といえる。
 なお、意次の失脚により実施されなかった税制に、「貸金会所」の令がある。これは全国民に出資してもらい、その金を貸金会所が大名に貸し出すという、金融機関の構想である。この出資金は、利子付きで現在の国債のようなものだが、全国民に強制的に出させ、返却の取り決めが明確になっていないことから、実質的には税の性質をもっていたようだ。

(3) 通貨政策
 通貨というものは、国内のどこでも同じ価値で使えなくては意味がない。ところが、江戸時代の通貨制度は三貨体制で、金、銀、銭という別々の貨幣が存在していた。金は金貨として鋳造したもので、両、分、朱という四進法の単位をとっていた。銀は、その塊の重量を量って価値を決める秤量通貨で、重さの単位である貫、匁で表わした。銭は、銅あるいは鉄で鋳造したもので、貫、文という十進法の単位をとっていた。
 銭は小額貨幣として全国で使用されたが、高額貨幣の金は江戸を中心とする東日本、銀は大阪を中心とする西日本でと、通用区分が別になっていた。そして、金と銀の間には、固定した交換比率がなく、金経済圏と銀経済圏の経済状況に応じ交換相場が変動した。これは、ちょうど現在の外国為替相場と同じで、円とドルのレートが時々刻々変動しているように、金と銀のレートが変動した。これでは、日本国内に経済的には別々な国が存在しているようなもので、全国規模の商品流通上、都合が悪かった。商工業を振興させる上で、通貨の一元化が必要だった。
 幕府は安永元年(一七七二年)に「南鐐二朱判」を発行した。「南鐐二朱判」には、八枚で金の小判一両と交換できると刻印されており、銀貨であるが、金貨の単位の「朱」で表わしている。「南鐐二朱判」は、金と銀の単位を統一したもので、通貨一元化をさらに進めたものである。これに対しても両替商は、南鐐一〇〇両対金一二五両との独自の相場を立てて抵抗した。結局、「南鐐二朱判」は意次の失脚で鋳造中止になったが、田沼時代に試みられた通貨の一元化は、通貨制度の近代化の第一歩となった。
 
(4) 貿易拡大・開国へ
 鎖国下のおいても、長崎で幕府が独占的に貿易を行なっていた。幕府は、中国、オランダから生糸や西洋の珍品を輸入し、豊富に所有していた金、銀で決算していた。この頃、海外での金銀相場を日本は知らず、国際相場より非常に安い値で金銀を輸出していた。そのような日本の政治において、国際収支の考えを初めてとったのが、六代、七代将軍のブレーンとして活躍した儒学者新井白石だった。白石によれば、日本は完全な輸入超過の貿易赤字で、幕府が始まってから百年の間に、我国の金の四分の一、銀の四分の三が流失したという。そこで、正徳五年(一七一五年)一月に「正徳長崎新令」を出し、貿易に厳しい制限を加えた。中国との貿易は、船三十艚、取り引き高銀六千貫まで、オランダとは、船二艚、取り引き高銀三千貫とした。さらに輸出品目も、銀や銅の量を制限し、他は俵物や昆布、するめ、美術品に限定した。しかし、白石はこの翌年、吉宗が将軍に就任したことで引退してしまった。
 白石は貿易を制限(縮小)することで、海外流出を減らそうとした。意次は、逆に輸出を拡大することで、貿易黒字にするという積極策をとった。
 宝暦十三年(一七六三年)には、中国貿易において銀の輸出をやめ、全て銅にした。それ以後は銅七割、俵物三割とした。銅は中国が銅銭の材料として輸入するようになっており、銀で日本の銅を買い付けていった。幕府は貿易で用いる銅を確保するため、未産出や休山の諸国銅山や、銅鉱脈の有無の調査を命じ、銅の増産を奨励した。
 もう一つの輸出品である俵物とは、アワビ、イリコ、フカのひれ、なまこ、昆布などの干物を俵に詰めたものである。これらは、中華料理の高級食材として、中国へ盛んに輸出できた。幕府は俵物に関しては、運上金(税)を免除し、増産を奨励した。蝦夷を治める松前藩における、一年間の俵物の生産額に関し、次のような記録が残っている。
  イリコ  銀 六八八貫七〇匁
  アワビ  銀 四三〇貫六五〇匁
  昆布   銀 四〇四貫九七五匁
 これらの合計を金に換算すると、二万五四〇〇両にもなる。これは、一藩分の記録であるから、日本全体ではさらに大きな額になるはずである。
 一方、中国、オランダからは、中国、チベット、安南、オランダ、ヨーロッパ諸国の金貨、銀貨を輸入した。田沼時代に日本に流入した金は一六七貫、銀八二一七貫になる。  さらに、意次は貿易相手国を拡大しようとした。例えば、工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見を入れて、蝦夷地調査団を派遣したのも、ロシアとの密貿易の噂を調査し、場合によっては正式な貿易に踏み切ろうとの思惑があったからだという。(この件は、次で触れる。)
 意次が開国思想を抱いていたことは、オランダ商館長イサーク・チチングの記録からも知られている。田沼時代において幕府は、外国人を自由に国内に入れてもいささか国に損害がない事を知ったのみならず、それによって優秀なる科学芸術を学ぶ機会を得ることを知って、国内を開放しようとしたという。これは、明和六年(一七六九年)に若年寄松平摂津守忠恒が建議したしたもので、大船を建造して海外との交通を開き、外国人を国内に誘致しようとのものだった。しかし、摂津守がまもなく死んだため、この建議は行なわれなかった。さらに意次の腹心である長崎奉行久世広民が、チチングにバタビア(ジャワ)から船大工を連れてきて、大小船舶の建築を教授してもらうことを求めた件がある。これも実現しなかったが、チチングはバタビアから船の雛形模型と説明書を持ってきて、久世に渡している。意次は海外に目を向けていた。
 開国、貿易拡大の考えは、幕府創世期よりの政策に反するものであるが、実利を求める意次にとっては、鎖国も聖域ではなかった。開国への道は意次失脚により消え去ってしまい、約一世紀後のペリー来航という外圧で、幕府の意とせぬまま実現する。もし、幕府の力があった田沼時代に自ら開国へ進んでいたら、歴史は大きくかわっていたかもしれない。

(5) 蝦夷地開発
 意次が蝦夷地に関心をもつようになったのは、工藤平助の『赤蝦夷風説考』による。工藤平助はもと紀州藩の医者工藤太雲の子であるが、幼くして仙台藩の医者工藤丈庵の養子になり、やがて養父の跡を継ぎ藩の医者となった。しかし、もともと医業はその志でなかったので、頭を剃らず、刀を帯び武士のような格好をし、政治に関心をもっていた。かつて医学修業のため長崎に行き、オランダ人に学んだおり、当時の世界情勢も聞いており、ついに日本外交に関する意見書ともいえる『赤蝦夷風説考』を著わした。
 『赤蝦夷風説考』の概要は次のようなものである。
 蝦夷の奥、北東の方角に赤蝦夷(ロシアのこと。以下、ロシアと称す。)という国がある。ロシアは領土を拡大し、大国になってきており、我国の北面もうかがっている。近頃、日本人の漂流民を養育し日本語を研究したり、彼らを通訳にして、我国に交易を申し込んできたりしている。我国としては正式には交易はできないが、蝦夷地に出入りしている商人のなかには抜荷(密貿易)をしている者がいる。ロシアとの事は、打ち棄てておけないので、子細に吟味すべきである。まず、要害を固めること。そして、密貿易を禁止しなければならない。しかし、密貿易は段々巧みになっているので、この際、禁止するより正式にロシアと交易をしたほうがよい。そうすれば、ロシアの人情や風土が明らかになる。また、ロシアと交易することで、長崎における中国、オランダとの貿易と比較でき、彼らが不当な利を貪っていることも明らかになろう。なお、蝦夷地には金山が多くあるから、これを調査し、金銀銅があれば掘りだし、これをロシアとの交易にあてることができる。そして、この交易の利潤をもって、蝦夷地を開発してもよい。

 『赤蝦夷風説考』が完成したのは、天明三年(一七八三年)のことである。工藤平助は、この書を幕府に示し、外交上の注意を喚起したかった。当時、幕府の最高実力者は進歩的な老中田沼意次であった。工藤平助は、田沼家用人の三浦庄二につてを求め、『赤蝦夷風説考』を提出した。三浦庄二はこれを見て驚き、意次に報告した。意次はかねがね、家来たちにも、改革について思いついたことがあれば、何でも申し出るようにと伝えてあった。そして、どんな愚案であってもじっくり耳を傾け、提案した者をねぎらった。だから、意次のもとには次々とアイデアが集まってきた。『赤蝦夷風説考』は意次に衝撃を与えた。 ロシアとの正式な交易は、鎖国政策に反するものである。蝦夷地に眠る金銀銅を使って、ロシアから、中国、オランダ貿易で得ているのと同じものをで手に入れるというのは、むしのいい話であった。このような言語道断で、破天荒な意見書は、普通だったら黙殺されるか、悪くすれば処罰の対象にもなるものだった。ところが、意次はその壮大な案に魅かれ、腹心の勘定奉行・松本秀持に調査を指示した。
 江戸時代、蝦夷地は松前藩が支配していた。当時、蝦夷地では米がとれなかったので、松前藩は石高なしの藩であった。(ただ享保四年に五万石格という、大名としての格付けは与えられた。)その代わり、幕府は松前藩に、アイヌとの独占交易権を与えた。そして、藩は家臣に知行(給与)の代わりに、蝦夷地の沿岸各地を割り振り、そこでの交易権を与えた。蝦夷地では、年貢米に代わりアイヌとの交易の利益が、藩や家臣の収入であった。しかし、家臣は自分で交易するのでなく、その権利を松前や日本国内の商人に又貸しした。権利を借りた商人は、「場所請負人」といい、直接アイヌと交易をやるようになっていった。交易の相場は、針一本と鮭五本、半分水を混ぜた酒二升と鮭二百本というふうに、アイヌから暴利を貪るものであった。蝦夷地には、松前藩の者しか入れないきまりになっていたが、場所請負人の船に、一シーズンに一回くらい松前藩の役人一人を同乗させることで、取り繕っていた。よって、交易の現場は、幕府にも、松前藩にもわからない状態にあった。もしロシアが密かにやってきて、場所請負人と密貿易をしてもわからなかった。
 松本秀持は、以上のような松前藩の仕組みを確認した後、密貿易等の事実調査のための「蝦夷地調査の伺書」を作成し、天明四年(一七八四年)五月、意次に報告した。
 天明五年(一七八五年)四月、神通丸、五社丸という二艚の御用船に乗った蝦夷地調査隊は品川沖を出発した。隊員は、幕府勘定奉行の御普請役五名、下役五名、それに松前藩よりの案内役、通訳、医者などであった。蝦夷地南端の松前に着いた一行は、そこから東回りと西回りに別れていった。東蝦夷地調査隊は、厚岸、キタッフを経由してクナシリ島まで渡った。さらに、エトロフ島、ラッコ島まで渡る予定でいたが、秋になり波風が強くなってきたため、来春にまわし引き上げた。西蝦夷地調査隊は、江戸からさらに一艚まわってきて二艚になった。宗谷で合流した二艚は、二手に別れ、一方はカラフト島に渡り、もう一方は奥蝦夷(北海道のオホーツク海側)を調査した。カラフト隊は海岸沿いに九〇里進んだが、物資の補給ができず宗谷まで戻り、越冬することにした。奥蝦夷調査隊は海岸沿いを調べていき、東蝦夷地調査隊がいる厚岸までいったが、彼らは松前に引き上げた後であった。そこで、奥蝦夷調査隊(元西蝦夷地調査隊)も、松前へ向かったが、結局蝦夷地を一周したことになる。松前で合流した両調査隊は情報交換と、来春の計画を立て、御普請役佐藤玄六郎が報告のため江戸に帰ることにした。
 十二月二日、佐藤玄六郎の乗った神通丸が江戸に帰ってきた。なお神通丸は、アイヌとの交易で得た鮭などを満載していた。調査隊の費用の一部を穴埋めするために、調査隊は江戸から米、酒、木綿、古着、鍋釜などを積んでいき、場所請負人にまじり、交易をやってきた。幕府の正式な御用船が商売をした。しかも、幕府が場所請負人と同様、交易の荷物口銭(税)を一大名に支払った。前代未聞のことであるが、体面などにこだわらず、実利を求める意次らしい考えである。
 蝦夷地調査隊の報告では、ロシアとの密貿易の事実はないとのことだった。ただし、ロシアが交易を望んでいることは事実なので、こちらからも話を持ち出せば正式な交易はできるであろう。しかし、ロシアの交易品は日本であまり必要としない毛皮が中心で、オランダが持ち込んでくるような品物ではなかった。ロシアとの正式貿易の件は、中断となった。
 ところが、調査隊の報告で耳寄りな情報があった。蝦夷地でも十分に穀物がとれるという。現在、穀物はとれないのでなく、交易で利益を得ている松前藩が、アイヌが農耕民化しないように禁止しているだけだという。広大な土地をもつを蝦夷地を開発し、農地化したら、とてつもない増収が図れるのではないだろうか。松本秀持の試算によると、蝦夷地の面積の一割を新田畑に開発し、その石高を国内の半分としても、約六〇〇万石にもなる。幕府直轄領(天領)が四〇〇万石だから、その一・五倍にもなる。もし蝦夷地開発が成功し、試算通りの田畑が得られれば、幕府の財政難など一気に解決してしまう。密貿易から正式貿易へという話から始まった蝦夷地調査だったが、六〇〇万石の新田開発という一大計画へと発展していった。松本秀持は、天明六年度の調査計画と蝦夷地開発計画を意次に提出し、二月二十六日付けで許可された。この大計画を携えて、佐藤玄六郎が蝦夷地へ戻っていった。
 しかし、蝦夷地開発は現地で調査が進められている時、幕府内で政変が起こり、意次が老中を解任されたことで中止になった。
 
(6) 印旛沼干拓
 享保の改革における積極政策として、新田開発が推奨された。その一環として、下総国(現千葉県)印旛沼の干拓が行なわれた。享保九年(一七二四年)に、千葉郡平戸村の染谷源右衞門から開発願いが出され、幕府は実地調査をしてこれを許可した。幕府は六〇〇〇両の補助金を出し、源右衞門らを請負人として工事にかからせた。しかし、工事は困難をきわめ、総額三十一万両を投入したにもかかわらず、十分な成果が得られないまま中止になってしまった。
 田沼意次は老中になると、印旛沼干拓事業に再び着目した。ここでも、勘定奉行松本秀持や赤井忠晶らの、意次腹心の経済官僚が活躍した。まず幕府の命により、代官宮村孫左衞門が地元名主に指示して、安永九年(一七八〇年)に干拓目論見帳という干拓計画案を作成させた。印旛沼は利根川下流付近にある大きな沼で、鹿島川と神崎川が流れ込み、長門川を通して利根川に排水していた。かつて沼の面積は二〇・五平方キロメートル、周囲六〇キロメートル、最深一・八メートルだった。利根川が増水した場合、長門川からの逆流が起こり、印旛沼周辺は水害に見舞われていた。そこで、沼の西端の平戸のところから、江戸湾に面する検見川までの十七キロメートルにわたり、幅十メートルの堀割(運河)をつくり、印旛沼の水位を下げようとした。これにより、印旛沼の干拓を行なうとともに、増水時には、利根川からの水を堀割を通して江戸湾に流し込み、洪水を防ぐという治水の意味もあった。また、鹿島灘(太平洋)と江戸湾を、利根川、印旛沼、堀割を通して結ぶ水路ができ、水運の便が向上するという利点も見込めた。
 工事費用の見積りは六万六六〇両で、延べ二四二万六四二五人の人足を動員する計画だった。干拓工事は、印旛沼だけでなく、その西方にある手賀沼も同時に実施することになった。工事費用は、大阪の天王寺屋藤八郎、江戸浅草の長谷川新五郎が出資し、計画案を作成した地元名主平左衞門と次郎兵衛が地元世話人となった。完成した新田は、金主が八割、地元民が二割を取ることに決められた。工事を民間請負にし、幕府は出資することなく新田の年貢を得るという、意次流の計画だった。新たに普請計画書が作成され、天明二年(一七八二年)七月に工事実施が決定した。工事のための現地役所が設置され、幕府勘定奉行所から役人が派遣され、工事監督にあたった。天明六年の春には、印旛沼は工事の三分の二以上が、手賀沼は九割完成していた。
 ところが、関東地方では五月からの長雨の上、七月には豪雨に見舞われ、未曾有の大洪水となった。利根川流域の草加、越谷、粕壁、栗橋をはじめ、付近一帯が浸水し、死者、流失家屋は多数にのぼった。干拓事業も工事途中であったため、壊滅的打撃を受けた。この一カ月後、意次は老中を解任され、印旛沼干拓事業も、蝦夷開発同様中止となった。意次失脚後流布された「田沼罪状二十六カ条」には、「無人島蝦夷印旛沼の儀は沙汰に及ばず」とあり、意次の悪政として数えている。
 印旛沼干拓は、将軍吉宗時代に始めたものだが、吉宗が失敗したときは何ら非難はなかったが、引き継いだ意次に対してはごうごうたる非難が浴びせられている。なお、印旛沼干拓はこの後、老中水野忠邦のときに、三度目の着工をしたが、やはり失敗している。江戸時代の人海戦術中心の干拓技術では、印旛沼の干拓は不可能であった。
 結局、昭和三八年(一九六三年)になって、水資源公団の開発により、一三・九平方キロメートルの中央干拓地ができ、ようやく成果を得ている。南北に別れた沼は調整池となり、農業用水、京葉工業地域の工業用水、付近都市の飲用水として利用されている。

 
長男・意知暗殺事件

 天明三年(一七八三年)十一月、意次の長男田沼山城守意知が若年寄になった。「なった」というより、実質的人事権は意次にあったので「した」と言ってもよい。若年寄は、臨時職の大老を別にすると、幕閣では老中に次ぐ地位である。意次は世間で言われているように、能力のない者を、賄賂により要職につけるようなことはなかった。身分が低くても、能力さえあれば、格式にとらわれずに抜擢人事をしてきた。たとえ息子であっても、若年寄として十分能力があると判断しての抜擢であろう。オランダ商館長チチングは意知のことを、「豪邁な精神を有しておって、非常な才識があり、父主殿頭(意次)と共に種々の改革を企てようとし…」と評している。
 父が老中、子が若年寄とは前例のないことであった。世の中が安定していれば、この異例の出世をとげた父子を、身分社会の壁を破る快挙として人々は賞賛したかもしれない。しかし、現実社会は、天明の大飢饉の最中にあり、七月には浅間山の大噴火もあり、人々の生活はどん底にあった。そのような時期の、この人事である。人々の怒りの矛先は、田沼父子に向いていった。
 天明四年(一七八四年)三月二十四日夕方、一日の仕事を終えた田沼意知は、三人の同僚とともに、若年寄部屋から退出した。新参若年寄の意知は、三人の後にしたがった。中の間を抜け、桔梗の間に入ったところ、隣の新御番所に控えていた侍のうちの一人が、最後尾の意知に突然駆けより、斬りかかった。意知は肩先に長さ九センチ、深さ二センチの傷を負った。三人の若年寄は、その場から逃げ出した。手傷を受けた意知も、その後に続いた。桔梗の間に駆けつけた者たちは、意知をかばうことも、侍を押さえることもせず、茫然としていた。侍は意知を追い、倒れたところをめがけ、二度ほど突き刺した。傷は股から骨にまで達する深手となり、激しい出血があたりを染めた。やがて、七十歳になる大目付の松平対馬守忠郷が駆けつけ、侍を羽交い締めにした。さらに、目付の柳生主膳正久通がやってきて、侍から血塗れの刀を取り上げ、取り押さえた。
 重傷の意知は城内で応急手当を受けた後、かごで神田橋の田沼屋敷に運ばれた。名医がよばれ必死の治療を行なったが、その甲斐もなく、四月二日、意知は息を引き取った。まだ、三十六歳であった。
 意知を暗殺した侍は佐野善左衞門政言という、御新番役の下級旗本であった。第一部で述べたが、田沼家は鎌倉時代に佐野家から分かれている。本家である佐野は、田沼の主人筋にあたる。佐野善左衞門の家は、傍流のまた傍流であろうが、その姓が示すように佐野家の血筋を引いているという。そのような、佐野と田沼の古い関係をたよりに、善左衞門は田沼屋敷に出入りするようになっていたようだ。善左衛門は意知に斬りかかったおり、三度ほど「覚えがあろう」と叫んでいることから、二人は以前に接触があり、いくらかなりとも関わりがあったようだ。
 善左衞門は、意知が死んだ翌日、乱心ということで切腹になった。事件発生から、九日しかたってなかった。事件の動機は、善左衞門が取り調べられたときの口上書によれば、次のようなものだった。
@ 意知に頼まれて、佐野家の大切な系図を貸した。その後、何度も返してもらいたいと 催促したのに、返してくれなかった。
A 上州の善左衞門の領地に、佐野大明神という神社があった。そこへ田沼の家来がやっ て来て、田沼大明神と改め、横領してしまった。
B 元来田沼は佐野家の家来筋である。この頃、自分の家も微禄なので、何か役に付きた いと頼んでおいた。意知は、六百二十両を受け取りながら、便宜を図ってくれなかった。C 昨年十二月の狩りの時、自分が鳥を射止めたのに、意知は他の者が射止めたものだと いい、自分の手柄を言上しなかった。
 この向上書を見ると、善左衞門の意知、あるいは田沼家に対する個人的な恨みが、意知暗殺の動機となる。特に@の系図に関する件が、主たる理由だと世間では言われたが、既に老中という最高位を極めた田沼家にとって、いまさら系図を整えたところで何のメリットもない。善左衞門から、系図を奪い取る必要などなかった。他の理由にしても、仮にそうだとしても、江戸城内で大罪を犯してまでやるような理由とは考えられないない。
 佐野善左衞門の背後には、反田沼派の大きな勢力がいたとの見方がある。
 反田沼派は、善左衞門をそそのかし、意知を暗殺させると同時に、田沼父子の悪政に立ち向かった英雄として祭り上げていった。田沼を悪玉、善左衞門を善玉とする落首が乱れ飛んだ。この時、偶然か、高値だった米価が下がりはじめた。人々はこれを善左衞門のおかげとして、「世直し大明神」と崇め、善左衞門を葬った浅草徳本寺参拝に押し寄せた。一方、意知の葬儀の列は、行手を阻まれ、石を投げつけられた。この好対称な一連の騒動も、反田沼派の演出ではなかったかと思える。
 さらに、その後数年間の政変をみると、意知暗殺事件は、政権をめぐる二大勢力間闘争の幕開けとなる、重大な政治テロ事件との見方ができる。もっとも、そうだとしても、次に政権をとった反田沼派は、証拠となるような史料を残しておくはずはない。その証拠隠しの圏外にあったのが、オランダ商館長チチングの『日本風俗図誌』である。彼の記述によると、この暗殺事件の背後には、顕著なる地位の人物が関係しているという世評があったという。田沼父子の種々の改革を阻止しようとした人々が、年をとっている意次はやがて死ぬだろうから、年の若い意知の方を今のうちに倒そうと考えたのだという。  
 この史料から、反田沼派が目的達成のためには暗殺も辞さないと考えていたことがわかる。反田沼派は、田沼父子に対して、それらしい動機をもつ佐野善左衞門を暗殺者に選び、個人的な恨みによる死闘にみせかけたのではないだろうか。


松平定信

 反田沼派の中心人物、田沼意次の最大のライバルとして、今までにも松平定信の名前を挙げてきた。チチングが記するところの、意知暗殺の背後にいた「顕著なる地位の人物」は、まぎれもなく松平定信である。定信は将軍家斉にあてた意見書に、自分は懐に剣を忍ばせて、殿中で意次を刺し殺そうと機会をうかがったことがあるとまで書いている。
 松平定信がなぜそこまで意次を憎んだのか、まず、その血筋から見ていく。
 吉宗は御三家の他に、自分の系統から御三卿をつくった。御三家、御三卿は将軍家に最も近い親戚であり、将軍になる資格があった。
 定信は御三卿筆頭の田安宗武の三男(七男との説もあり)として生まれた。定信は吉宗の孫、九代将軍家重の甥、十代将軍家治の従兄弟にあたる。足軽の身分から成り上がった意次とは正反対の、超エリートの血筋を定信は有していた。
 定信の父田安宗武は、武術に優れるだけでなく、学者、歌人としても優れた才能を発揮し、多方面にわたり多くの著書を残している。このような名門で、好学な家庭に育った定信は、少年期より秀才の誉れ高く、十二歳で自戒書『自教鑑』を著わし、十七歳までに和歌七千首を読み、二十四歳で「国本論』を著わし儒教的政治観を示した。一年に四百冊の書籍を読破したともいう。定信は八歳の頃より、将来は大老、老中になって将軍の政治を補佐したいとの志をもっていたと、後に自ら述べている。単なる学者、歌人でなく、政治家としての野心もあったと思われる。御三卿の一員であることから、大老どころか将軍になる資格さえも有していた。
 ところが、定信が十七歳になったとき、幕府の命令で奥州白河藩・松平定邦の養子になることが決められた。その時、田安家は定信の長兄治察が継いでいたが、治察は重病で跡取りもいなかった。兄弟も亡くなるか、養子に出ており、最後に残った定信まで養子になっては、治察で田安家が絶えてしまう。そこで、田安家では定信の養子縁組み解消を幕府に願い出たが、それが認められないまま治察は亡くなり、定信は白河松平家へ養子に出されてしまった。
 定信を田安家から強引に出してしまったのは、意次の陰謀だったと言われている。秀才の誉れ高い定信が田安家に残り、もし将軍にでもなられたら、意次は自分勝手な政治ができなくなるからだという。しかし、定信は意次より四十歳も下であり、意次が恐れるほどのことはなかった。まして、将軍家治は壮健で、跡取りの家基もいた。この時点では、定信が将軍になることなど、意次の眼中にはなかったと思える。
 ここで、定信を恐れたのは、一橋治済だった。御三卿として、特に田安家と一橋家はライバル意識が強かった。一橋治済にしてみれば、秀才の定信が田安家にいては、将来将軍継承問題が起った場合、田安家が優位になることは明らかだった。そこで、一橋治済が意次に強引に働きかけ、定信の養子縁組みを進めた。一橋家の家老には、意次の弟意誠、その子意致がなっており、田沼家との縁が深かった。
 兄治察の亡き後、自分が田安家を継ぐと思い込んでいた定信は、強引に養子に出され、田安家も絶やされることに憤りを感じていた。この陰謀の黒幕は意次だと思い込んでいた。 さらに、定信の意次に対する憎悪に火をつける出来事が起こった。定信が養子に出た四年後、次期将軍に決まっていた家基が、十八歳の若さで急死してしまった。将軍家治には、家基以外に男子がなかった。ここで、御三卿の存在意義が復活した。もし、定信が田安家に残っていたなら、吉宗の孫ということで将軍への最有力候補になるはずだった。しかし、他家に養子に出た現在、その資格を失っていた。結局、一橋治済の長男豊千代(家斉)が、将軍家治の養子になり、将軍を継ぐことになった。豊千代は吉宗のひ孫で、定信より血縁は遠かった。豊千代の養子縁組みには、意次が果たした役割が大きかった。その功に対して、家治は意次に銘刀を与え、一万石の加増をしている。定信の意次への恨みは、自ら認めているように、意次を刺し殺そうと思いつめるまでになった。
 定信が養父松平定邦の跡を継ぎ、二十六歳で白河十一万石の藩主になったのは、天明三年(一七八三年)のことである。このとき東北地方は天明の大飢饉の最中にあった。定信は藩政改革に乗り出した。徹底した倹約をするとともに、飢饉対策として、藩の食料庫から放出したり、裕福なものに米や金を上納させ、それでも不足する分は他藩や江戸、大阪から穀物を買い付けた。そして、定信の領内から一人の餓死者も出さなかった。定信の書物上での秀才ぶりは知られていたが、白河藩主としての成功は、現実政治における有能さも証明したかたちになった。
 定信のもとには、かつての名門で、今は政権の圏外に置かれている譜代大名が集まりだした。本多忠籌、本多忠可、戸田氏教、奥平昌男、堀田正穀、松平信享、松平信道、松平信明、加納久周、牧野忠精、牧野宣成、松平定奉、有馬誉純、松平忠告らであった。反田沼派が結成されてきた。そして、田沼意知の暗殺事件が起こった。

意次失脚

 意知の死は、意次にとって大きな痛手であった。六十歳半ばを過ぎた意次としては、長男意知に、今まで進めてきた諸改革を引き継ぎ、そこで完成させることを期待していた。まだ早いかとも思えたが、若年寄に抜擢した。それが、反田沼派を刺激し、このような強行手段に走らせてしまったのかもしれない。
 事件の翌日、重傷の意知の若年寄辞任を将軍に申し出るため、意次は登城した。将軍家治は、辞任には及ばない、手厚く看護するよう意次に言った。この意次の登城を、水戸家の藩主治保は、「産穢さえ七日は遠慮いたすのに、実子は深手、快気のほどもおぼつかなければ、しばらくは遠慮すべきはず」と非難した。水戸家を中心に、御三家も、露骨に意次への反感を示し始めた。
 通常の人なら息子の死により意気消沈し、政界から引退して、静かな余生を送っていたかもしれない。意次もそうしていたら、あれほどの悪評をばらまかれることもなかったろう。しかし、気を取り直した意次は、かえって改革の事業を拡大していった。意知なき今、意次自身で改革を進めなければならないと決心した。二年前に着手した印旛沼干拓を、本格的に進めていった。蝦夷地開発計画は、意知の死後に始めたものである。さらに全国民を対象とした、本格的な収入源も模索し始めた。
 反田沼派が台頭し、御三家が批判しようとも、幕府内部は田沼派で固めていた。そして、何よりも将軍家治が意次の味方であった。意知の死んだ一年後、意次はさらに一万石の加増になり、五万七千石になった。表面上は、田沼政権はまだまだ安泰にみえた。
 一方、松平定信は、この頃しきりと田沼屋敷を訪問するようになった。意次としても、定信が反田沼の中心であることは、十分承知していた。何気ない挨拶をする中にも、殺気がみなぎり、両者間の腹の探り合いが続いたものと思われる。定信は、後に、「自分から見れば、誠に敵とも何とも申しようのない盗賊同然の意次へも、日々のように見舞いをして交って、田沼に屈して自分の不如意の中からも金銀を運んで、仇敵に賄賂して、外見から見れば如何にも多欲なる定信であると笑われるのもかまわず‥‥‥」と述べているように、意次への猟官運動を続けた。意次も、そのような定信の魂胆はわかっていたはずだが、天明五年(一七八五年)十二月、定信を「溜間詰」にしてしまった。溜間詰とは、老中と政務を協議したり、将軍に意見を上申できる重要な職であった。奥州の一大名であった定信が、中央政界で活躍できる足場ができた。なぜ意次がこのようなことをしてしまったのかは、大きな疑問とされている。まだ若い定信の力を過少評価していたのか、巨大になってきた反田沼派への妥協だったのか。ともかく、この定信の溜間詰就任から、意次の勢力にかげりが見えてきたのは確かである。この一カ月後に、意次の腹心だった伏見奉行の小堀政方が、悪事露見ということで罷免になった。
 天明六年(一七八六年)になった。この春から、将軍家治の身体にむくみが見られるようになり、体調が思わしくなくなった。七月には、関東一円を大洪水が襲い、意次が進めてきた印旛沼の干拓工事も大打撃を受けた。水害の後始末に追われている中、家治の病気はますます重くなっていった。八月十五日の月次登城では、家治に代わって養子の家斉が群臣の拝謁を受けたことで、城内は家治重病を知りざわめいた。
 意次は頼みとする家治の回復を祈り、毎日見舞った。しかし、病状は重くなる一方であった。あせる意次は、八月十九日、それまでの奥医師に代わり、名医の評判が高い町医者の日向陶庵と若林敬順を登用した。二十日、家治を診察した両医師は、それまでと違う薬を調合した。これを飲んだ家治は、急に容態が悪化した。意次は大きな失態をしてしまった。二十二日から意次も体調を崩し、自宅で静養するようになった。家治の急変は、意次が医師に命じ毒をもったからだという噂が流れた。
 八月二十四日、印旛沼の干拓工事が中止になり、貸金会所の令が廃止になった。意次が不在のうちに、意次が推進してきた改革事業が勝手につぶされてしまった。
 翌二十五日、家治危篤の情報が意次に入った。急きょ登城した意次は、家治の病室の前で御側衆に行く手を阻まれた。この時、将軍の側近としては、御側御用取次が最も位が高く、常に将軍の側に付いているはずであった。御側御用取次の横田筑後守準松、稲葉越前守正明、本郷大和守泰行は、意次の忠実な腹心である。当然彼らが意次を迎え、直ちに家治の所へ案内すると思っていた意次は、はるかに下役の御側衆が現れ、入室を拒んだことに愕然とした。家治の上意により、意次を通さないという。家治自身が意次に対し、その様なことを言うはずはなかった。強引に通ろうとする意次を、多数の御側衆が取り囲み、刀に手をかけ、実力で阻止しようとしていた。これで、将軍の周辺は、反田沼勢力によって押さえられてしまったことが明白になった。意次は、直ちに下城して自宅にこもった。

 八月二十七日、意次は将軍家治の命により、老中を解任になった。この前後のいきさつは、『徳川十五代記』によると次のようになる。(要旨を口語訳)            二十四日 これらのこと(中止になった印旛沼の干拓工事、貸金会所の令)は、皆田      沼意次と水野忠友がやったことで、民の心に背くことであると将軍に言う者      があった。将軍ははじめてこれを聞き、大いに憤慨した。
  二十五日 病気が軽くなり、田沼意次を退けるように命じた。
  二十六日 病気がまた重くなった。
  二十七日 田沼意次の職を解き、雁の間詰にした。稲葉正明も御側御用取次を解任に      なった。                              
  これより老中、尾張、紀伊、水戸、御三卿が相談して政治を行う。

 都合よく将軍家治の病気が軽くなったり、重くなったりしているように思える。ともかく意次を退け、御三家、御三卿が政権を握ったことはたしかである。さらに『徳川十五代記』では、次のように記している。
  将軍の死は、実は二十日だったが、秘密にして喪を発表しなかった。故に、田沼、稲  葉を解任したのは、将軍の意志ではない。御三家と諸老のしたことである。

 家治があれほど信頼していた意次を解任するはずはない。すでに死んでしまった家治の名をかたり政権を奪取する、いわゆる政治クーデターが始まっていたと考えるのが妥当であろう。
 家治の発病、死去に乗じて、意次を遠ざけたのは御三家、御三卿の勢力であったが、その中心にいたのが、一橋治済だといわれている。治済は松平定信の養子縁組みや、長男家斉の将軍家への養子縁組み等を意次に依頼した。それは実現し、治済は意次に大きな借りがあった。また、意次の弟、そして甥が一橋家の家老になっており、田沼家と一橋家は太いパイプで結ばれていたはずだった。それが、土壇場になって裏切り、意次追い落としの中心人物になっていた。
 一橋治済と松平定信は、既に手を握っていた。松平定信は政敵意次に接近し、溜間詰の職を手に入れると、今度は、やはりライバル関係にあった一橋治済に接近してきた。意次と一橋治済の盟友関係を断ち、定信と治済の新連合を築くために、定信はある提案をしてきた。それは、跡取りがなく廃邸寸前の田安家に、一橋治済の子供を養子に迎えたいとのことだった。治済には男子がたくさんおり、長男は将軍家治の養子となり、次の将軍になることが決定していた。さらに、自分の子が田安家を継ぐとなれば、願ったりのことである。
 意次には恩があるが、その利用価値はなくなった。家斉が将軍になった場合、かえって意次は邪魔な存在になる。治済と定信は従兄弟の関係にある。この際、評判の悪くなった意次と手を切り、上り調子の同族の定信と組んだほうが得策と、治済は考えた。この後、治済の三男斉匡が田安家に養子に入り、廃邸が決まっていた田安家が復活している。治済と定信の密約を裏付けるものである。
 九月五日、田沼派の中心にいた水野忠友が、養子に迎えていた忠徳(意次の四男意正)を離縁した。これに続いて、田沼と縁のある者は次々と離縁義絶してきた。養子縁組み、嫁入りによって築かれてきた田沼一族が崩壊していった。
 九月八日になって、将軍家治の死が公表され、十月四日に上野寛永寺に埋葬された。まだ正式な将軍宣下はなかったが、家斉の世になった。ただし、家斉はまだ十四歳だったので、実質的には御三家、御三卿の助言がものをいった。特に実父の一橋治済が中心で、おそらく盟友になった松平定信も深くかかわっていたと思える。将軍の上意ということで、田沼派の官僚が次々と解任になっていった。                     十月  新将軍の御側御用取次・田沼意致(意次の甥)解任                 勘定奉行・松本秀持 解任                        十一月 勘定奉行・赤井忠晶 解任                        また、意次自身にも十月五日に処分が言い渡されていた。              ・五万七千石のうち、二万石の減封                        ・神田橋御門内の上屋敷と大阪蔵屋敷没収                     ・江戸城への出仕禁止

 意次が老中を解任になり、追って処分が言い渡された理由は、「諸々の悪事露見」という曖昧なものだったという。このころ「田沼罪状二十六か条」という、幕府が意次に罪状を言い渡したという宣告文が流布した。意次の悪事を述べた落首も乱れ飛んだ。実態は政権奪取を狙った政治クーデターだったので、理由は後からつけられた。意次解任を正統化するための政治宣伝によって、意次の悪評がつくられていった。
意次は六十八歳になっていた。政治生命は完全に絶たれたかに思えたが、それでも意次はまだ踏みとどまっていた。幕府の正式な政治機関である大老・老中組織は、依然田沼派で押さえてあった。また、大奥も田沼派が多かった。一方、御三家、御三卿側も、松平定信を老中にしようと、将軍、大奥、大老等に盛んに働きかけた。しかし、大老、老中らの幕閣や大奥は、定信の老中就任を拒んでいた。この頃、定信も、意次も将軍に自分の立場を述べた文書を提出している。
 定信の意見書は極めて長文で、賄賂を禁ずる事、質素倹約の事、売女屋の事、御家人の風俗矯正の事、その他細かい点にまで渡り、自分の政治に関する意見を述べていた。さらに、意次を批判し、かつて意次を刺し殺そうとまで考えたと言っている。そして、この邪気(意次のこと)を遠ざけた後は、賢良の人(定信のこと)を選ぶようにと、自分を推薦している。
 一方、意次も将軍家斉に、漢文の上奏文を提出している。これは、意次が自分の立場を弁護した唯一の現存する史料である。口語文に直してみたものを次に示す。

      将軍家斉あて 田沼意次上奏文                    源 意次 謹言
 大元帥(将軍)様の御前に意次申し上げます。父意行、吉宗様が将軍家を御相続のとき紀州よりお供し、ことにお目をかけていただき一家をなしました。
 意次がまだ若い折に、吉宗様にお目通し以来、家重様、家治様にお仕えでき、たくさんのご恩を受け、その上老中職につき、禄高も上げていただきました。
 ご厚恩は年月とともに重く、高きこと山の如く、深きこと海の如くでございます。そのため、昼夜力のかぎりご恩に報いるため励みました。他意はございません。
 ひたすら天下のためと、自分のことはかえりみずやってきたことは、天も日月もこれをご覧ください。神も仏も共にお分かりいただけると思います。それなのに、去る天明六年の秋、(将軍家治様)ご病気のとき、急にご機嫌が悪いことを教えてくれた人がございます。しかし、意次は疑われるようなことをした覚えはございません。昨日までご機嫌よくあらせられたのに、急にご機嫌を損ねられられたのは、意次の不運にてぜひもなく自分の愚かなことを恨む外はありません。しかし、一時は疑われても自分に間違いはないのですから、後日申し上げればお分かりいただける時もあろうかと存じて居りましたのに、辞職を勧める者がありました。それゆえ、仕方なく病気を理由に辞職いたしました。
 その時、家治様、少しのご配慮もなく辞職を受理され、かつ謹慎はせずによいと仰せられました。それなのに、親族、縁者はいろいろ知っているであろうに、縁を切り付き合わなくなりました。ただ、家治様は長く将軍でおられましたので、天の神のいつわりのない道理、意次のいつわりのない忠誠を一度は疑っても、いつかは分かって下さると、御時世の長いことを祈って居りましたところ、お亡くなりになりました。意次、胸もはりさけそうで寝食も忘れ数日たち、ついに病気になりました。
 その後、今の将軍様により減俸になりました。何という不幸でしょう。更に何があるか覚悟しなければなりません。老中職にあるときは粉骨砕身して天下のためと務めましたのに、凡人の故いろいろ到らぬことがあったのか、かえってためにならず運のないことを歎いてもしかたがありません。
 かつまた、小さな事でも一人で取計らず相談してから申し上げていましたのに、意次一人のことと思われているのはいかなる災難でしょう。
 どうぞ将軍様、まわりの言うことを耳を傾けられず、忠勤怠りなく、いささかも歎かぬ心にお慈悲をかけられて、すみやかに御廟の参拝、また、当代の将軍様にお目通りさせてください。そして再び親族仲良くなり、私を悪く言う人々に、意次の少しも偽りのないことを知らせ、世間の評判を捨て、何も恨むことなく過ごせますよう心より申し上げます。
  天明七年(一七八七年)五月一五日                                                  源 意次 稽首三拝  印

 意次としては誠心誠意、将軍のため、天下のため働いてきた。それなのに、奉禄を削られ、現在の立場に置かれているのは不本意である。自分をそしり、憎む人々に、意次の誠意を伝え、元通り一同が相和できるようにと、将軍に願っている。
 なお、この上奏文を見ると、意次は老中を一方的に解任になったのではなく、辞職を勧める者があったので、仕方なく病気を理由に辞職したとある。意次自身が残した唯一の史料に書かれている事だけに、このほうが真実と思える。意次に辞職を勧めたのが誰かは、これだけでは確定できない。しかし、幕府の正式な最高権力者である老中の意次に、辞職を勧められる人物となると、特別の地位(身分)にある御三家、御三卿か、その意を受けた老中の誰かとしか考えられない。この圧力に、意次も心ならずも辞職していると明言していることから、この上奏文からは復権への意欲も感じられる。
 反田沼派としては、意次を解任したものの、定信の老中就任が難行し、政権奪取ができずにいる。ぐずぐずしていると、意次が復活しかねない状態にあった。両派にらみ合いのまま、政治空白が続いていた。
 そのような中、相次ぐ災害と物価高に苦しむ人々が、全国各地で次々と暴動を起こした。五月二十日には、江戸でも打ち壊しが始まった。赤坂、青山から始まり、翌二十一日には芝、高輪に広がり、夜には日本橋、浅草、大伝馬町、横山町の大商家が襲われていった。暴徒の数は増していき、二十二日には、騒動は江戸中に広がった。暴徒は思い思いに集まり、鐘や太鼓を打ち鳴らし、昼夜の分けなく商家を襲い、穀物を大道に引きだし、奪い取っていった。三日間で八千軒の商家が壊され、江戸の町は無政府状態となっていた。 この打ち壊しの責任を、なぜか田沼派の御側御用取次の本郷泰行、横田準松がとらされた。御側御用取次は将軍の側近であるので、町で起こった打ち壊しとは無関係である。それが、将軍家斉の上意により解任された。理由は、打ち壊しの事実を、将軍に伝えなかったからだともいう。将軍家斉の実父である一橋治済が、背後から将軍を動かしたという説もある。
 ともかく、田沼派の御側御用取次の解任によって、政局が動き始めた。意次は将軍との連絡役を失い、将軍の動向を掌握できなくなった。大奥老女の大崎は、尾張家を訪ね、松平定信の老中就任に反対しないと伝えた。そして、六月十九日、松平定信は老中に就任した。しかも、新任でありながら、いきなり最上位の老中首座となった。


意次の死

 十月二日、意次に対する厳しい処罰が下された。
・さらに二万七千石の減封。(残りは一万石でやっと大名を維持できるのみ)
・意次は隠居し、閉門の上謹慎。
・相良城は没収の上、破却。
・家督は孫意明が相続し、陸奥、越後の痩地一万石に異封。
 これで、意次の政治生命は完全に絶たれた。そして、意次が進めてきた改革事業は、ことごとく廃止されていった。人事面でも、意次に登用された勘定奉行、町奉行、諸代官をはじめとする官僚群が一人残らず解任された。中には、勘定組頭の土山孝之のように、公金横領の罪で死罪になる者までいた。また、大奥においても田沼派の老女・大崎をはじめとする数十人に遠島・追放などの処罰が与えられた。
 さらに、翌天明八年(一七八八年)三月二日には、一橋治済や御三家の働きかけで、定信は将軍補佐役に就いた。これで、定信は将軍を背負う立場になり、老中に対しても人事権を遠慮なく行使できるようになった。三月二十八日に水野忠友、四月三日には松平康福が解任された。大老井伊直幸は既に自ら辞任していた。田沼派の大老、老中が一掃されると、定信は同士の譜代大名を、次々と老中にしていった。
 天明八年(一七八八年)四月四日、松平信明
 寛政元年(一七八九年)四月十一日、松平乗完
 寛政二年(一七九〇年)四月十六日、本多忠籌
           十一月十六日、戸田氏教 
この定信派の幕閣が、寛政の改革を推し進める原動力になっていった。

 引退させられた意次は、下屋敷で閉門の上謹慎を命じられていた。大幅に減ってしまった田沼家の家臣たちは、家督を継いだ意明のところへ行き、意次のもとには、身の回りの世話をする者たちがわずかに残ったのみであった。閉門のため誰も訪ねてこない屋敷で、日中でも雨戸を閉め、一室にこもりきった意次は、何を考えていたのだろうか。
わずか六百石の小旗本から出発して、一代で五万七千石の大名となり、老中兼側用人という最高権力の座にも就いた。「遅れず、休まず、働かず」という官僚が多い中で、必死に働き続けた。幕府の財政を根本から立て直そうと、大胆な改革事業に次々と取り組んで
きた。やりすぎたのか。やりすぎて人の恨みを買ってしまったのか。ほどほどに出世したところで、当たり障りのない仕事をして目立たずいれば、成り上がり者との陰口や、悪評をまき散らされずに済んだかもしれない。しかし、そんな人生なんて…。
封建の世において、意次の異例の出世と改革事業は、うたかたの夢のようであった。暑い夏の日が続いた。意次は寝込むようになり、うとうと眠ることが多くなった。そして、 天明八年(一七八八年)七月二四日、意次は七十歳の生涯を閉じた。


田沼時代とは

田沼意次が側用人、老中として活躍した時期を日本史上では、「田沼時代」としている。
個人の名前が時代名になったのは、他に例がない。
 明治以降、歴史学者の辻善之助氏や、徳富蘇峰氏がともに『田沼時代』という題の著書で田沼意次について述べている。江戸時代に反田沼派が残した史料に基づいているので、意次に関しては好意的でない。近代の意次の悪評は両書によっても形成されていった。
田沼意次の政治に関しては前述したので、ここでは田沼時代の世相を見ていく。

 辻氏は『田沼時代』において、「従来田沼時代における現象について、最も世の非難を受ける事柄を調べてみると、およそ八カ条ばかりある。」と全十二章のうち、始めから八章までかけ、田沼時代の悪評を述べている。
 「役人の不正」                                 ここでは、意次本人でなく、役人全般の賄賂について述べている。資料としては、反田沼派の松平定信や、植崎九八朗のものを引用している。町奉行の与力や同心は、訴訟の場合や、悪事を隠すときなど、賄賂を贈ると遠慮なく受け取る。中には、自分から進んで賄賂を要求する者などいて、分限不相応のぜいたくな暮らしをしているという。また時めく役人などは、諸侯へ争って賄賂を贈っている。その人の好む品や、流行している物を我先にと贈っているので、同じようなものが多数集まってしまう。例えば、そのころ時計が流行していたが、諸侯の屋敷の居間には二、三十ないし四、五十も置いてあった。武器ならいくらあってもよいが、このような用もない物に金銀を費やすなどとんでもないことである。
 このように、役人が賄賂を収めることは、一般の風潮になっていたという。幕府は、宝歴九年(一七五九年)と明和二年(一七六五年)に、役人らに贈物を堅く禁じる令を出している。
 また、京都でも宮中役人の不正が急増していたことを述べている。宮中の賄方が出入りの商人と結託して、賄賂を収めていたことがわかった。不正役人を検挙した幕府に対し、天皇、女院から長く召使っておった者なので生命は助けてほしいと思召があった。しかし、幕府は「朝廷の御ためを存じて吟味した次第である」と、総計百二十四人を死刑、流刑、追放とし、さらに、贈賄側の商人八百余人を追放したとある。これはむしろ幕府が不正に対し、断固とした態度で臨んだ例といえる。安永三年(一七七四年)、意次が老中職にあり幕府の実権をにぎっていたときの出来事である。                幕府役人だけでなく、宮中役人も同様であり、辻氏は「これで見ると賄賂公行ということは、一般に時代の風であったので必ずしも田沼の悪政にのみよるという訳でもなかろうと思う」としている

 「士風の廃頽」                                 旗本の風儀が堕落した十七の例を、新聞の三面記事のごとく記している。酔っ払って溺死したり、酔った上での喧嘩や器物破損、賭博、遊女との心中、古参役人の新参いじめなど、武士とは思われない醜態の数々が列挙してあるが、そこから極端な一例を要約して示す。                                      ・ 天明七年〈一七八七年)一月、新参番頭の水上は、先輩の小堀、大久保、酒井、能勢、 三枝、小笠原、内藤から、宴会の亭主をするように言われた。水上は家が裕福でないので迷惑だったが、先輩からのことで断ることもできず、仕方なく承知した。宴会当日、水上宅には、先輩たちが勝手に指図した仕出し料理屋の働き手七、八人、芸者五人がやって来た。この費用は駕籠代まで含めて、すべて水上の負担になった。宴会が始まると、先輩たちは水上に嫌がらせを始めた。大久保は餅菓子を持参し、酒を飲み始めた水上に無理やり食べさせた。最初遠慮した水上に、毒など入っていないぞと怒鳴り、段々に怒りだしていった。餅菓子を芸者に投げつけ、悪口雑言をはいた。他の先輩もこれに加わり、家の道具を壊したり、便所に投げ込んだりした。鳥かごの小鳥を逃がし、庭の水仙の鉢を壊していった。ついに大久保は飯椀の中に大便をし、三枝は茶碗に小便をするという始末だった。酒、飯、汁はまき散らかされ、火鉢の火で畳は焦がされた。このような大騒ぎをして、七名は帰っていった。これを見ていた料理屋の手代は、度肝を抜かれたという。二月に 幕府は小堀、大久保を免職、他の四名を差控とする処分を言い渡している。

 これほど露骨なものはめずらしいが、古参役人の新参いじめは頻繁に行われていたという。

「風俗の淫靡」                                 ここでは、武士だけでなく、一般民衆の風俗も乱れてきた例をあげている。この時代の風俗は渋いとか粋といわれながら、一方からみればだらしない優柔な風が流行ったとしている。例えば、この頃から三味線が広まってきた。女性ばかりか、男子でもひく者が多く、長男からはじめて、次男三男と続いた。野も山も、毎日朝から晩まで三味線の音の絶えることがなかったという。さらに、芝居のまねをしたり、素人狂言をしたりで、歴々の旗本までが芸人の真似をしては騒いでいた
 女芸者が盛んになったのもこの頃で、遊所だけでなく普通の所でも芸者の二、三人はいた。芸者が流行したので、下町で少しでも見目の良い娘は、皆芸者に仕立てていった。また、この頃の湯屋(銭湯)は男女混浴だった。                    
 「天変地妖」                                  田沼時代には大災害が続発した。明和七年(一七七〇年)から毎年のように大旱魃(日照り)が続いた上、明和九年には江戸行人坂の大火事や、大風雨や洪水が相ついだ。明和九は「めいわく」で縁起が悪いと、十一月に安永と改元したが、翌安永二年(一七七三年)には疫病が流行り、江戸で十九万人が病死した。その後も大風雨洪水や疫病が続き、さらに伊豆大島や桜島では噴火があった。天明三年(一七八三年)には、浅間山の大噴火があり、縦二十五里、横七、八里の間がほとんど一物もなく焼失し、三千七十八人が死んだという。 また、この頃から天明六、七年にかけ天明の飢饉が起こった。

 「百姓町人の騒動」                               相つぐ天災地変の対策として、幕府は種々の政策を試みたが、そのため直接間接に百姓町人の負担が重くなっていった。百姓町人はついに奮起し、江戸を始め全国各地で、百姓一揆や打ち壊しが多発していった。この章では、次のような騒動が記されている。    ・ 明和元年(一七六四年)の上州、武州の百姓蜂起。農民への負担として、年貢の他  に人馬を提供する助郷という役があった。この頃、助郷の負担が相次いだため、上州、  下野、秩父、熊谷あたりの農民が蜂起した。幕府に訴えるために七、八万人が群をな  して江戸に向かい、途中の本陣、問屋、名主宅などを荒らしまわった。多数の死者を  出し鎮圧されたが、島原の乱以来の大騒動だった。
 ・ 明和五年(一七六八年)の佐渡の農民の乱。苛酷な政治に苦しんだ農民六万余が蜂  起し、島廻りの旗本と佐渡奉行を殺害した。江戸から諸大名に加勢を申しつけ鎮撫し  た。
 ・ 明和六年(一七六九年)には幕府が強訴鎮圧の令を出した。公領の民が騒動を起こ  したら、近傍の領主より人数を出して、私領ならその領主だけでなく近傍からも力を  合わせて、十分に討伐すべしというものであった。その後も農民に対し、徒党を禁じ  る令をしばしば出した。それだけ徒党強訴が頻繁にあった。
 ・ 安永二年(一七七三年)の飛騨の騒動。新規の運上をかけられて難儀している上に、  新たに検地をやるというので、農民が徒党を組んで代官に強訴に及んだ。代官は周辺  の領主に出兵を依頼し、鎮圧した。この時、徳川氏の代始まって以来、初めて鉄砲で  農民を殺したという。
 ・ 安永六年(一七七七年)の信州の百姓騒動。課役の納期延期が認められなかったた  め、代官宅に押し寄せた。この首謀者二人が獄門、六人が遠流、多数が追放になった。
 ・ 天明三年(一七八三年)の信州の農民強訴。浅間山の噴火で田畑が荒廃した農民が  徒党を組んで、領主に救いを求めた。三度訴えたが、領主よりはかばかしい返答がな  かったので、城内へ押し入ろうとして騒動になった。これにまぎれて、民家に押し入  り金銀、米、衣服、器具を奪う者があった。領主は兵を出し鎮圧した。
 ・ 田沼没落後の天明七年(一七八七年)には、江戸、大阪をはじめ、全国の主要都市  で大規模な打ち壊しがあった。農民だけでなく、町民も蜂起した。
                    
以上を総括すると、田沼時代は役人の不正や賄賂がはびこり、士風がすたれ、風俗が乱れて、天災も相次ぎ、困窮した人々による一揆や打ち壊しが多発した暗黒時代ととれる。
 ただ、役人の不正や旗本の醜態に対しては、放置されていたわけでなく、厳しく処罰されている。

 一方、江上照彦『悲劇の宰相・田沼意次』では、田沼時代を「田沼様ご執政の世の中になって、なんだか春の日射しが雪を解くように、政治の肌ざわりが急にのんびりと明るく自由になった感じである」と描いている。

 士風や風俗の乱れは、後の松平定信の改革で徹底して取り締まわれた。当初、人々は定信の清らかな政治を歓迎したが、やがて反発しはじめた。
 人間の本性からすれば、禁欲的な定信の時代より、自由闊達な田沼時代のほうが良かったのではないだろうか。
  「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
 定信による「寛政の改革」のあまりの窮屈さに、人々は田沼時代を懐かしんだ。



第三部 意次の後


相次ぐ不幸

 意次以後、田沼家がどのような運命をたどったかみていく。
 天明七年(一七八七)年意次隠居の後、孫(意知の長男)の意明が家督を継ぎ、奥州下村に転封になった。意明の領地は陸奥七千石、越後三千石の合わせて一万石だったが、土地が荒廃しており、実質は四、五千石程度だった。
 転封の翌年七月、意次が七十歳の生涯を閉じたが、その二カ月後に幕府は田沼家に、川普請費用として六万両の上納を命じた。前年の相良城没収の際にも、一万三千両を引き渡しているので、二年間で計七万三千両を田沼家は支出したことになる。この金額は、後藤一朗氏の試算によると約十万石となり、藩の実質的な収入の四、五十年分に相当する。意次死後も、幕府(定信)はこのような追い討ちをかけてきた。
 成人した意明は、織田左近将監信浮 の娘と結婚し、大阪へ赴任したが直後に死去している。二十六歳だった。なお、織田信浮 は織田信長の二男・信雄の子孫にあたる。
 意明には子がなかったため次弟意壱が跡を継いたが、四年後に死去している。さらに、末弟意信が跡を継ぐが三年で死去した。そこで、意次の甥意致の四男意定を養子にし、家を相続させたが九カ月で死去した。このように、田沼家では意知暗殺以後、わずか八年間に五人の跡取りが相次いで亡くなるという不幸に見舞われた。全員若者であった。
 これだけ不幸が続けば単なる偶然でなく、陰謀説もささやかれている。それでも、田沼家が一万石の最低基準ながら大名の家格を維持できたのは、本当は意次には「お家取りつぶし」にするだけの悪事がなかったからではないだろうか。

 
田沼家の復権

やがて、意次の四男の意正が相続した。意正はかつて、老中水野忠友の養子になって忠徳と称していたが、意次失脚直後に離縁になって田沼家に戻っていた。意正は大阪二条城の城番などを経て、文政二年(一八一九年)には若年寄に昇進した。この時の勝手掛老中格は水野忠成だった。忠成は意正が水野忠友の養子を解消された後、その後がまとして養子になったという因縁がある。
 さらに、文政八年(一八二五年)には、将軍家斉のもと水野忠成が老中、意正が側用人になった。かつての田沼時代の田沼・水野コンビが、子の代でも復活した。水野忠成は、「水の(水野)出て もとの田沼に なりにけり」と詠まれたように、田沼意次の再来と言われた。水野は貨幣改鋳を行い、巨額の差益を得て、一時的には赤字財政を建て直した。さらに、田沼時代のような開放政策をとり、文化文政時代の江戸を中心とする繁栄をもたらした。意正はこの政権で、九年間も側用人を勤めている。また、文政六年(一八二三年)には、意正の願いがかない三十六年ぶりに旧領相良に帰封し、相良藩田沼家を復活した。これで、田沼家の名誉が完全に回復したことになる。(なお、意正の代では、松平定信も一橋治済の影響はなく、将軍家斉の判断で人事ができた。)

 その後、意正、意留、意尊の三代にわたり相良を治め、幕閣を勤めた。
 意尊は若年寄となり、元治元年(一八六四年)には、「水戸天狗党の乱」の鎮圧軍総統として幕府軍を指揮し、反乱軍を平定した。意尊の軍が古河(現茨城県古河市)まで来ると、「田沼在住の有力者三十六名は旧主のためと称して、稲荷神社で戦勝のゴマを焚きたいと願い出た」という。(京谷博次『わが町さんぽ』より)
 かつて佐野領田沼村は田沼家の領地であったが、江戸時代初期、大名であった佐野家が改易になってからは、本田家、後に井伊家の領地となっていた。嘉永六年(一八五三年)には、後に大老になる井伊直弼が五日間にわたり視察をしている。井伊直弼は「桜田門外の変」で、水戸浪士らによって暗殺された。その水戸尊皇攘夷派の残党が起こした天狗党の乱を、井伊家以前の田沼領主であった田沼家の子孫が征伐したというのは因縁めいている。また、田沼村の人々は、幕末になっても遠州相良・田沼家が旧主と縁があることを知っていたことになる。
 明治元年(一八六八年)、意尊は上総小久保藩一万石に転封になり、二年後の版籍奉還で藩知事になった。意尊の女婿である望は、子爵となり明治天皇の侍従を勤め、貴族院議員にもなっている。そして、現在でもその系統は続いている。  

明治維新で実現

 田沼意次の政治自体は、悪政ではない。アメリカの日本史研究者J・W・ホールは、意次を「近代日本の先駆者」と称し、その進歩的経済政策を高く評価している。そのあまりにも進歩的で大胆な考えは、当時の人々には理解しがたく、まして低い身分から成り上がった者の独走を許さないという逆風が、近代的政策を葬り去ってしまった。      しかし、意次が行なおうとしていた政策の多くは、明治維新において実現している。
 
 農民以外も、利益を得たら貨幣で納税するという税制改革は、地租改革で実現した。
 蝦夷地の開発は、北海道開発へとなった。新政府は、旧幕府軍との戦闘が続いている段階で、開拓のための役所を函館(箱館)に設置したくらい重要視した。そして、函館五稜郭での戦いが済むと、明治二年に開拓使をおき、積極的な開発に着手した。
 貿易拡大のために開国しようという考えは、幕末での強制的開国と、明治維新の積極的な貿易、海外文化の吸収によって実現し、国力を増したことで欧米の植民地になることを防いだ。
 通貨の統一は、明治の「円」による統一で実現した。
 貸金会所という金融構想は、銀行となった。

  田沼の改革は、百年早すぎたといえる。その構想は、完全な構造改革であり、まさに「改革」の名にふさわしいものだったと思える。(次に田沼の改革と明治維新の比較を示す。)



田沼家墓所の再興

 十八世紀の末、江戸では老中松平定信による「寛政の改革」の嵐が吹き荒れていた。 「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 寝てもいられず」と狂歌にあるように、人々の生活にまで干渉した、政治、経済、文化の多方面にわたる改革が急激に実行されていた。それは、意次の政策を完全に否定するものであった。
 田沼意次の居城であった相良城は徹底して破壊されている。意次が相良領(現静岡県相良町)を治めたのは宝暦八年(一七五八年)からの約三十年であるが、相良城が落成したのは安永九年(一七八〇年)のことである。落成からわずか八年後に意次は所領を召し上げられ、相良城を没収された。幕府はこの真新しい城を再使用することなく、直ちに取り壊しにかかった。天明八年(一七八八年)の一月十六日から始め、二月五日までかけ、最高一三〇〇人もの人夫を動員し、本丸御殿、やぐら、蔵、役宅、長屋から塀に至るまでことごとく破壊した。
 四年後、相良を訪れた小林一茶は、何もなくなった城跡に立ち、次のように詠んでいる。

  石運び なげき照りつむ しめし野の 人のあぶらに 光る城かな

 江戸での改革の余波は、地方へも及んでいった。下野国の田沼村に、西林寺という鎌倉時代初期に建立された由緒ある寺があった。その寺の開創者の墓が徹底して破壊されてしまった。墓はかつてこの地を治めていた田沼家のもので、失脚したばかりの老中田沼主殿頭意次の祖先にあたる。墓を破壊したのはだれか、正式な記録は残っていない。幕府から派遣された者なのか、または、田沼意次との関わりを恐れた地元の者なのかは定かでない。ともかく、墓石は引き倒され、砕かれ、裏の畑の中に埋められてしまい、田沼家の墓が初めからなかったかのように、完全に葬り去られてしまった。(現西林寺住職瀧口玄英氏談。『田沼の改革』の序より)                       
 以上のように幕府、というより松平定信は、執念深く田沼意次の跡を消していった。
 なお、田沼家の墓は、昭和二年になって再建されている。現在、西林寺庚申塚墓地に、田沼家の小さな墓所があり、横の石碑には、次のような記録が刻まれている。

  昭和二年七月
  田沼重綱公累代墓跡改築費
       三三三円九九銭
   (寄付をした人々の名前)
  西林寺二五世住職 後藤大心忠翁
  代 本光寺住職  高田 儀光

また、田沼家墓所は昭和四十九年に、田沼町史跡に指定されている。それを記した田沼町教育委員会の立て札が、墓所のわきにある。そこには、

「 西林寺田沼家系図によると、鎌倉時代初めのころ、佐野家より分かれた田沼九郎重綱が田沼家を興し、西林寺の前身である玄松院を開創した。その後、田沼家は数百年続いたが、天正十三年(一五八五年)田沼綱重が、主家の佐野宗綱と共に須花坂で討ち死にしたという。現在この墓所には重綱と光房の供養塔二基が建てられている。」
とあったが、当初田沼意次との関わりについては記されていなかった。
 平成十七年、合併によって佐野市となり、翌年に立て札が書き換えられた際、田沼意次との関係も追加記載された。

佐野市指定史跡          田沼町 庚申塚墓地
   田沼家墓所
昭和49年3月31日指定
 この田沼家墓所には、重綱、光房の墓塔がある。
 重綱は佐野実綱の子で、田沼家の祖・田沼九浪山城守である。田沼地域を領有し、建長6年(1254)、東光山玄松寺(後に下田沼に移り、佛国山西林寺となる)の開祖となった。
 光房は、初代重綱から6代の子孫に当たる。相模から下野へ移り、永正3年(1506)に没した。光房から分家した家系は、後に相良田沼家を興し、意次、意知、意正、意尊が出て幕政に参画している。
 なお、(本家)田沼家は、天正13年(1585)、佐野宗綱に従った田沼綱重が、下彦間、須花の戦で討ち死にしたため断絶した。   (田沼家系図)略
  平成18年1月 佐野市教育委員会

意次評価の変遷

 江戸時代の史料でみれば、田沼意次は「悪口の言われっぱなし」だった。意次の子孫が旧領に復帰し、幕府の要職に就くことで田沼家の復権が実現しても、意次を擁護する動きはなかった。江戸時代の悪評は、明治以降にも引き継がれ、政治腐敗が社会問題になるたび、その名前が引き合いに出されてきた。歴史上の評価を受ける上で、自らの史料がほとんどないための悲劇である。
 それでも、歴史上の通説に疑問をいだき、特に「悪人」とされてきた人物を再評価しようとする動きも、最近盛んになってきた。ここでは、現代(明治以後)の田沼意次を扱った図書や文献にみられる、意次への評価をみていく。

 大正四年初版の辻善之助『田沼時代』が、現代の田沼意次研究書の起点となる。そこでは、世の非難を受ける事柄が数多く紹介されているが、最後の「結論」では、次のように田沼時代と意次像を総括している。

 辻善之助 『田沼時代』大正四年 より
○田沼時代の総合評価
 「田沼時代は一面においては混沌濁乱の時代であるがまた他の一面においては新気運の勃興せんとする時代で、新文明の光の閃きを認める時代である。(中略)
 いわばこの時代は新日本の幕開きである。日本最近世史の序幕を成すものである。幕末開国の糸口はこの時代に開かれたのである。明治の文化はこの時代において胚胎したのである」
○意次の政策の大胆さ
 「殊に田沼の開国主義の如きに至っては、殆ど他に類を見ざる大度胸であって、彼が政治家として大なるゆえんもまたかかる処に存すると思われる。幕末、天保・弘化の間に内藤安房守忠明という人の書いた『内安録』というものの中に、幕末異国船の来た時の方略の事をのべていう事に、(中略)
 相良侍従即ち田沼意次であったならば、かかる国歩艱難の時に際しても、思い切った英断を施して先例に拘泥せず、傑出した策を施すであろうと言っているのである」
○政治家としての意次評
 「思うに、公平なる眼を以て見れば、田沼には政治上の大手腕を具えて居ったという事はいうとも差支なかろうと思う。しかしながら彼には政治上に高遠の理想がなかったという非難はせられても致方がない。言換えて見れば彼には政治上の主義というものがなかった。何でもただ一時の便宜に適するように権宣な政策を執って行ったという事が彼の欠点である。その権宣の政策を執るについて、一方に政治的良心が欠けておったという処から、多少不正を行ったという事は、免すべからざる大なる欠点である。」
 「吉宗の方はその器局が如何にも小である。清らかであってそうして正しき健全な人であるけれども、その政治家としての度量は如何なるものであろうかと思う。これに反して田沼は政治家として大に採るべき点があるだろうと思う。その大手腕家たる処を、彼について大に見てやらんければならぬと思う」

 以上のように、辻氏は意次のことを、多少の不正を行なったのは欠点であるが、政治家としては、吉宗よりはるかに大で、その政策は大度胸であったと評価している。

 戦後になると、昭和三十年にアメリカでJ・W・ホール『タヌマ・オキツグ』が刊行された。ホール氏は、意次を「近代日本の先駆者」と称し、徳川歴代の政治家中、第一等の人物と評価した。
その後、日本で刊行された図書、文献の意次評を、刊行順でみていく。

 土肥鑑高「田沼意次」『日本と世界の歴史』』第十八卷、昭和四十五年 より     「享保の路線をいちおう継承しながらも、積極的に商業資本への依存を高めていった点は、看過しえないとことである。そのために田沼の経済政策は、いろいろな非難をうけなければならないはめにおちいっている。事実、賄賂とて無視できない。(中略)その企画性の雄大さは、評価すべきではなかろうか。いずれにせよ、祖法としての鎖国をすら、絶対的なものとしてうけとらず、大胆にも、進歩的企画をすすめていった田沼政権にたいしては、それなりの評価を加えていくべきであろう」

 江上照彦・松本清張「田沼意次」『日本史探訪』第9集、昭和四十八年 より
 江上氏「権力者でありながら、彼はそんなに格式ばっておらず、いばってもおらず、かなり気安くいろいろな人と交わったということです。
 『甲子夜話』によると‥‥彼の屋敷には日夜多くの人がおしかけてきた。控えの間を見ると、幾十、幾百となく刀掛けが置かれてある。それに掛けた刀が、あたかも海の波を描いたようだったと、こんなふうに言われています。ところで屋敷にはいりますと、ここも押すな押すなの人でこんでいるわけです。そこへ田沼が現れます。普通、これほど偉い権力者が現れると、相当、間隔をおいて、平伏して挨拶するのが普通のしきたりなんですが、彼の場合はそういうことはしようにもできない。まるで芋の子を洗うような中に、割ってはいってすわる。そしてやあやあと、だれかれに声をかけて、挨拶をかわすというぐあいでした。
 で、こんなふうな彼の自由闊達な態度が、政策にも反映して、彼の時代になると、従来何か窒息しそうな感じの社会の空気というものが、きわめて明るいものに変化した。私は少なくとも、彼の時代の前半においては、彼は相当皆に人気があったのだと思います。」
 松本氏「田沼はね、それほど偉大な男ではないと思うけれども、しかし、あのころの中では、見るべき官僚政治家ではなかったかと思います。(中略)泰平になった徳川家もますます毛並みを尊重する時代になりましたからね。いうなれば官僚制度の強化。官僚制度というのはエリート尊重です。田沼はエリートではない。そういう毛並みのよくない意次を既成のエリート官僚が排斥する。御三家という官僚制度のトップが田沼を排斥する。もし、彼が毛並みがよかったら、もっと仕事もしやすかっただろうし、他の反対もなかっただろうし、したがって、もっと実力も出せたかもしれない」

杉浦明平「封建の異端」『人物日本の歴史』十五、昭和五十年 より         「老中田沼意次はとんでもない異端者だった。というのは、彼は文武だの先王の道だのという武家としての正統な徳目を無視し、もっぱら金の威力を賞賛したのである。(中略)すでに貨幣経済はひろく行き渡っていて、金銀がなくては、幕府自身のやりくりさえつかない時代になっていたのに、今までの為政者たちは、金を儲けることを考えず、もっぱら農業を振興し、農民から貢米を一粒でも多く取り立てることに固執していた。しかし、もう米の生産も発達するどころか、衰退の傾向をみせていたから、幕府の財政も諸大名の経済も楽になるはずがなかった。
田沼は、従来の政策を一変して、鉱山その他の採掘、商業の奨励、耕地の拡大から蝦夷地(北海道)の開発と、思いきった手を打った。それは、ほんとうの意味での幕府政治の改革につながっていた」
  
 神坂次郎「偉大なる進歩的政治家の運命」歴史街道 一九九一・八 より
 「信じるべき資料によると意次は、細面の美男で、切れ者の官僚にありがちな驕ったところがなく、挙措おだやかで謙虚な人柄であったという。下僚に対しても物腰ひくく、人間関係の達人で、政治家としても当時の、猫の目のように移り変る経済社会を広い視野で眺め、鎖国のまま立ち遅れている日本を開国に転じ、沈滞した経済の活性化をはかろうとしていた」

 鈴木旭「意次は何を目指し、何と戦ったか」歴史街道 一九九一・八 より      「一カ月のうち、二十日間は江戸城内に泊まって仕事をこなし、たまに屋敷に帰ったとしても来客の対応に明け暮れるという毎日で、夜の十時前に就寝の床につくことはなかったと言われている。できる男の周りには人が集まる。当然の成り行きであった。
 と言うと猛烈社員のようなイメージが出てくるが、人を押し退けてまで自己主張するような真似はせず、人当たりがよい。幕閣の会議では上役や先輩の顔を立て、敵に回すようなことは決してしなかった。軽輩の言うことにも耳を傾け、権力にモノを言わせて意見を葬り去るような真似をしない。要するに聞き上手だったのである。
 しかも、理屈だけでは世の中は通らないことも知っていた。口うるさい大奥には付け届けを欠かさず、機嫌取りを忘れない。将軍お気に入りの愛妾には特に念を入れ、息の掛かった奥女中を送って、至れり尽くせりのサービスに努め、情報収集を怠らなかった。
 新参旗本として身を起こした自分の弱点を知っていたからこそ、四方八方に目を配りながら幕政運営にあたった男、それが田沼意次だったのだ。出世風を吹かせて威張り散らすような男ではなかったのである。」

 田沼意次の進歩的政策は、誰もが高く評価している。人間的にも、幕府における実質的最高権力者でありながら、奢ることなく、謙虚で気さくで、気配りがきいた人物と好評である。一方、賄賂政治家の悪評は、避けて通れない意次の汚点となっている。しかし、この悪評に対しても、最近の研究では、史料の信憑性が否定され、反対派により政治的につくられたものとの見方がでてきている


第四部 追記
(平成十九年以後の研究)

田沼家の系譜と居住地
 一 田沼家の興り
 藤原秀郷から十五代目、佐野実綱には系図上では七人の男子がいる。末子の田沼九郎重綱が田沼村を分割相続して、田沼家が興った。鎌倉時代初期、元仁元年(一二二四)のころである。
 田沼村とは、栃木県の旧田沼町大字田沼、現在の佐野市田沼町にあたり、それほど広い範囲ではない。重綱の兄たちも、五郎宗綱が戸奈良、六郎行綱が芝田(現在の多田)、七郎親綱が戸室、八郎為綱が山越と、隣接する地域を佐野家から分割相続している。
 佐野家は佐野庄の地頭だった。(大名になるのは後の戦国時代から)
 鎌倉時代の土地(荘園)は荘園領主と幕府任命の地頭による二重支配にあり、やがて地頭が実質的な領主になっていった。佐野家の一族である田沼家が、地頭の権限も分割相続したかどうかはわからない。ただ、田沼重綱は頼経将軍(幕府)に仕え、鎌倉に住んだとあることから、鎌倉幕府の御家人であったことは間違いない。田沼重綱は文永二年(一二六五)に鎌倉で没している。
 田沼町には「元屋敷」という字名が残っている。田沼家墓所のある西林寺庚申塚墓地に隣接する通称・上町東部あたりである。おそらく、田沼重綱の屋敷は「元屋敷」にあり、御家人として鎌倉勤務していたのだろう。重綱の子孫たちも実際に居住したのは田沼でないほうが多い。
 田沼意次につながる分家筋の遠州相良田沼家は、もっと広範囲に居住地を変えている。
 ここでは、系図を参考に田沼本家と遠州相良田沼家の居住地を整理していきたい。
(『田沼町史』には、田沼意次につながる田沼家系図を「遠州相良系図」と記載している。田沼町における田沼家系図と区別するためと思われる。これに基づき、本稿では「田沼本家」、「遠州相良田沼家」と呼ぶことにする。)
 
 二 田沼本家の系譜と居住地
 西林寺蔵田沼家系図に基づく。
○初代・田沼重綱
田沼村に住し、田沼家を興す。建長六年(一二五二)、西林寺(当時は玄松寺といった)開祖。鎌倉幕府に仕え鎌倉に住み、文永二年(一二六五)その地で没する。
○二代目・田沼重村
 鎌倉山内に住す。文保元年(一三一七)没。
○三代目・田沼重行
 相州山内(鎌倉)に住す。
 『寛政重修諸家譜』では、勅命により上野国世良田へ行き新田義貞に属したとある。
 建武二年(一三三五)七月、越前で戦死。葬地不明。
○四代目・田沼→千本重信
 母は千本内蔵助の娘。父討死の後、名を隠し千本と改める。これは母方の姓なり。
 このとき浪人となる。父討死のとき十二歳。
(時代は足利尊氏の世になっており、改名は父が新田義貞に属したためと思われる。父の死後浪人となったが、後に佐野家に仕えた。西林寺)
○五代目・千本重隆
 母は赤見六郎の娘。田沼の内、千本屋敷に住す。
 鎌倉山の内、長沼に住す。
 永享十二年(一四四〇)寺を再建。玄松寺を改め西林寺と号す。
(田沼姓でなく田沼姓のまま。鎌倉管領に仕え、鎌倉に住んだ。鎌倉管領は室町幕府の役職で上杉家が務める。なお、田沼町には千本屋敷という旧字名がある。元屋敷の西側)
○六代目・千本重正
 相州(鎌倉)長沼に住す。文正元年(一四六六)八月、田沼に立ち帰り住す。
(重正の弟田沼光房以後の系統は遠州相良田沼家系図に記される。惣領は千本姓だが、弟は従来の田沼姓を名乗っていることに注目したい)
○七代目・千本重忠
 田沼に居住す。この時、本知行は一万五千石領す。
 重正に実子なしのため西佐野家より養子。
(重忠は佐野家の有力な一族である西佐野家からの養子。知行地増はそのためか?)
○八代目・千本重久
 居住は大関屋敷。
(大関は千本屋敷の南側。田沼の中で屋敷を移動している)
○九代目・田沼重光
 田沼と本名を改める。
 西佐野家と申し合わせ、大関に引籠住す。
 天文二十三年(一五五四)没。
(この代で田沼姓に戻っている。ただ、西佐野家と何らかの「申し合わせ」があり、大関に引き籠もることになった)
○十代目・田沼重村
 母は高瀬山城守の妹なり。大関住。
 この代に至り本家佐野家と訳有りて、上野国館林領に引っ越し住。
(田沼村を出て隣国の館林に移る。佐野家との間に何らかの問題があったようだ)
○十一代目・田沼光村
 館林に住す。
 北条家に仕え、元亀二年(一五七一)没。
○十二代目・田沼重行
 下野国藤岡に居住する。藤岡佐渡守の家臣となる。
 天正五年(一五七七)城の内にて自滅する。
○十三代目・田沼綱重
 永禄十一年(一五六七)三月十八日、藤岡村から田沼に立ち帰り、本家に付す。
 天正十三年(一五八五)正月元旦、同国下飛駒村にて佐野宗綱と一所に討死す。
 (須花坂の戦い)
 女子三人あるが他家に嫁ぐ。綱重家断絶。
(綱重は系図上三男のようだが、田沼に帰り本家に付するので、十三代目とした。二人の兄は藤岡村や古河に居住。二人の母は「関根伊賀守の娘」とあり、関根系図には関根民部泰秀の娘が「田沼家室」とある)

 三 遠州相良田沼家の系譜と居住地
 西林寺蔵・遠州相良田沼家の過去帳では、千本(田沼)重正が田沼家六代目で、弟の田沼光房を遠州相良田沼家七代目としている。 
光房、重綱、忠高の三代は西林寺蔵田沼家系図、それ以後は『相良町史』掲載の田沼家系図(現当主田沼道雄氏蔵)に基づく。

○七代目・田沼光房
 相州(鎌倉)より下野に移住する。永正三年(一五〇六)没。
(子は女子一人。男子の跡取りなし)
○八代目・田沼(高瀬)重綱
 高瀬喜右衛門、後に左京。田沼と改め山城守と云う。
 実は高瀬山城守二男。永正十七年没。
 野州小野寺古江に住。
(古江は佐野領。高瀬家の本拠地は上野国高瀬村。重綱の祖父の代に古江に移住。高瀬系図では重綱は長男で、田沼姓に改めたとの記載はなし。妻は田沼光房の娘)
○九代目・田沼忠高
 田沼刑部、後に山城と改める。下野国田沼村芝宮(現佐野市戸奈良町)に住す。
 後に武田氏に随身す。永禄十一年(一五六八)没。
(忠高は父・重綱と母・光房の娘の三男。兄二人は高瀬姓。高瀬家系図では、忠高は母方の姓である田沼に改となっている)
(『寛政重修諸家譜』では、忠高の時に父方の源氏に改姓とある。よって、子孫の田沼意次も田沼家本来の藤原氏でなく、高瀬家の源氏を称している)
○十代目・田沼重高
 武蔵国・忍城主・成田親泰に仕える。岩槻城の戦いで丸墓山地蔵堂前で討死。
 武蔵国忍に住。武州埼玉郡上野村龍渕寺葬。
○十一代目・田沼重次
 武蔵国・忍城主・成田家に仕える。(参加した合戦の記録あり)
 忍に住す。文禄二年(一五九三)没。
○十二代目・田沼忠吉
 武田家に属したが、武田勝頼滅亡後、浪人となり信州で蟄居。伊那の人。
○十三代目・田沼吉次
 慶長二十年(一六一五)大阪の陣に供奉。その後、駿河大納言頼信卿(紀州徳川家初代)に仕える。紀州(和歌山)住。紀州金龍寺葬。
○十四代目・田沼吉重
 紀州藩に仕える。金龍寺葬。
○十五代目・田沼吉房
 紀州藩に仕える。
(病気により職を辞して和歌山城下の民間で静養した。子・意行は伯父の田代七右衛門のもとで養われ、後に再び紀州家に召し抱えられた)
○十六代目・田沼意行
 田沼主殿頭。紀州藩に仕え、後に幕府旗本。紀州→江戸住。江戸の勝林寺葬。
(紀州藩主吉宗に仕えていたが、吉宗が将軍になっため江戸に伴われていき幕府旗本に取り立てられた)
○十七代目・田沼意次
 旗本から大名、老中まで出世。
(相良藩主であるが、将軍側近であるため参勤交代はなく、領地には二回しか行っていない。江戸で生まれ、終生江戸に住む。勝林寺葬。
○意次以後も大名として江戸に居住し、明治を迎え子爵となる。

 田沼意知暗殺事件の詳細

徳川林政史研究所『江戸時代の古文書を読む・田沼時代』には、田沼意知暗殺事件の史料が記載されていた。それらを参考に、私なりに推理した事件の詳細を『意次夢想』という小説の中で描いてみた。
失脚後、下屋敷で蟄居謹慎している意次のもとに龍次という瓦版屋が訪れ、意次に取材していくという設定である。
 ここに、小説『意次夢想』の意知暗殺事件に関する部分を示す。

(瓦版屋龍次の説明 1)
天明四年三月二十四日、江戸城中衆目の中で、若年寄・田沼意知が旗本・佐野善左衛門に斬られ、その傷が元で死亡するという事件が起こった。
 同日夕刻、執務を終えた意知は三人の同僚と共に若年寄部屋を出た。若年寄は五人いたが、伊勢八百藩主・加納久堅は残務があり部屋に残り、武蔵金沢藩主・米倉昌晴は加納の様子を確認した後、部屋を出た。田沼意知、遠江掛川藩主・太田資愛、出羽松山藩主・酒井忠休の三人は連れ立ち、米倉昌晴はやや遅れて歩いていた。
 「土圭の間」、「中の間」を過ぎ、「桔梗の間」にかかろうとした時、新番組の詰め所に控えていた五人の新番士の中の一人佐野善左衛門が突然走り出してきた。佐野は二尺一寸の太刀を抜き、「覚えがあろう」と叫んで田沼意知の背後から斬りつけた。振り向いた意知は、肩先から袈裟懸けに斬られた。四十畳敷きの「中の間」には、十六人の者がおり、意知と共に三人の若年寄もいたが、その目前での犯行だった。
 意知は脇差しを持っていたが、殿中なので刀を抜かず、鞘で受け止めようとしたが防ぎきれなかったようだ。佐野は二の太刀を振り下ろしたが、「中の間」と「桔梗の間」の境の柱に当たった。傷を負った意知は、後ずさりしながら「桔梗の間」に逃げ込んだ。柱にくい込んだ刀を引き抜いた佐野は、抜き身の刀を持って人々の間を抜けて追いかけた。
 意知に追いついた佐野は、とどめを刺そうと腹を突く。意知は鞘で払う。刀はそれたが、股に刺さった。佐野は刀を引き抜くと、もう一度同じあたりを刺し深手を負わせた。意知はうつぶせに倒れ、善左衛門も疲れてよろけた。七十歳になる大目付の松平忠郷は離れた場所にいたが、騒ぎを聞いて駆けつけ、善左衛門を後ろから羽交い締めにした。さらに目付の柳生久通が、血まみれの刀を取り上げ、ようやく取り押さえた。
 意知は御番医師二名の応急手当をうけた後、登城時に乗ってきた駕籠で、父意次の神田橋上屋敷に運ばれた。老中田沼意次は先に帰宅しており、着替え中に城中での事件の知らせを受けた。
 田沼家掛かり付けの医師が来て、意知の手当が行われた。傷は肩に一カ所、背中に三カ所、股に二カ所あった。特に股の傷は、深さ四寸で骨にまで達している。それが、応急処置だけで駕籠に揺られて運ばれてきたのだから、既に大量に出血していた。傷の縫合が行われ、手厚い看護がなされたが、意知は四月二日に死去した。享年三十六歳。
佐野善左衛門は事件後、城内の一室に監禁された後、北町奉行に預けられ取り調べられた。四月二日に意知の死去が公表されると、翌日、「乱心」という理由で切腹になった。
 善左衛門は二十八歳。年老いた両親と妻がいるが、子供はいない。上野国甘楽郡の知行地五百石は没収され、佐野家は断絶になったが、家族はお構いなしで家財はそのまま下された。
一方、現場に居合わせた関係者に対しては、徹底した取り調べが行われた。松平忠郷だけは、七十歳という高齢にもかかわらず善左衛門を取り押さえた功で二百石加増されたが、他の者たちは意知を見殺しにしたも同然と多数が処罰された。
 対象者は若年寄、奉行、大目付、目付、新番士など広範囲に渡るので、取り調べと処分は、若年寄より上格の老中たちが行った。田沼意次は身内なので外れ、老中松平康福が中心だった。もっとも、康福も娘が意知の妻になっているので、義父にあたる。老中水野忠友も、意次の四男で意知の弟の意正を養子に迎えているので、やはり縁者になる。この時の大老、老中は皆田沼派といってよい。
 結局、二十七人が罷免、謹慎、叱責という処分を受けた。佐野善左衛門の乱心による犯行となっているにもかかわらず、周囲にいた者たちも職務怠慢ということで責任を問われた。
佐野善左衛門の亡骸は浅草徳本寺に埋葬されたが、連日、同情した人々が押し寄せ、線香が絶えることがないという。善左衛門は「世直し大明神」と讃えられた。
 一方、被害者の意知の葬儀の列は、乞食の群れに行く手を邪魔された。さらに町人も加わり、一緒になって投石をしながら悪口雑言を浴びせたという。加害者と被害者の立場が逆転している。
 なお、佐野善左衛門の取り調べ時の口上書なるものが、その後になって流布された。

・意知に頼まれて、佐野家の系図を貸した。その後、催促しても返してくれない。
・上州の善左衞門の領地に、佐野大明神という神社があった。そこへ田沼の家来がやって来て、田沼大明神と改め横領した。
・元来田沼は佐野家の家来筋である。主家としてそれなりの役に付きたいと頼んでおいたのに、意知は六百二十両を受け取りながら、便宜を図ってくれなかった。
・昨年十二月の狩りで、自分が鳥を射止めたのに、意知は他の者が射止めたものだと言い、手柄を認めてくれなかった。

これが意知殺害の動機だという。個人的な遺恨であるが、あえて命を懸けてまで、実行するほどの理由なのか。結局、表向きの理由は「乱心」となっている。

意次はじっと目を閉じて、話に耳を傾けていた。いつもなら、目を閉じるとすぐに眠くなるのだが、今は頭が冴えきって、一言一言が染み入って来る。自分は武士だと強がってみたが、息子の死をあらためて聞くのは辛かった。
「以上です。今までの話で、何か間違いはありませんでしたか」
「特にない。わしの知っている事とほぼ同じだ」
「それでは、お聞きします。この事件以前に、佐野善左衛門という者をご存じでしたか」
「知らない。わしの在宅時には、大名から町人に至るまで大勢の来客がある。来る者は拒まずの方針だ。大名家の江戸留守居役の中には、常駐して情報収集する者までいた。個人的な請託は別室で聞くこともあったが、大部屋での雑談は常に人があふれていた。その中に善左衛門がいたかもしれないが、記憶にない。来客を取り次いでいた用人の三浦にも聞いてみたが、覚えがないという」
「佐野善左衛門が殿中で意知様に斬りかかるとき、『覚えがあろう』と叫んだのを大勢の者が聞いております。善左衛門と意知様との間には、何らかの関係があったのでしょうか」
「意知は別の屋敷に住んでいた。そちらに善左衛門が訪ねていたかもしれない。しかし、意知から善左衛門の名を聞いたことは一度もない。また、重傷を負い我屋敷に運ばれてきたとき、意識があったが、何でこの様な事になったのか分からないと言っておった」
「それでは、善左衛門の口上書の内容には、根拠がないと」
「そうじゃ。一つ一つ詳細に反論もできるが、それで意知の名誉回復をしても詮無き事である。乱心した善左衛門の妄想か、誰ぞに吹き込まれた事ではないかと考えておる」
 意次は田沼家と佐野善左衛門との関係を否定した。封じ込めていた善左衛門への怒りが蘇ってきた。
「田沼家が佐野家の家来筋だというのも妄想ですか」
「田沼の総本家は、藤原秀郷の流れをくむ下野の佐野家の分家だ。鎌倉に幕府があった時代に、佐野家の九男重綱が佐野領田沼村を分割相続して田沼家を興した。佐野家の一族だが、分家だから家来筋とも言える。わが家はその田沼家のさらに分家で、田沼村を出て流浪した後、紀州徳川家に代々仕えた。主君吉宗公が将軍になられた際、供をして江戸にやってきた。上野国の佐野善左衛門が下野国の佐野家とどういう関係かは分からないが、今さら家来筋だと言われても困ったものだ」
「田沼家の系譜についても確認したい事が多々ありますが、それは後として、今は意知様暗殺について核心に入りたいと思います」
「核心とはどういうことじゃ」
「本当の犯人は誰かということです」
「犯人は佐野善左衛門であろう」
「善左衛門は実行犯ですが、単なる手先だと思います。私が知りたいのは黒幕です」
「黒幕か」
意次は唇をかんだ。
「そうです。田沼様も黒幕がいると思っているはずです。その黒幕が、田沼様を失脚にまで追い込んだわけです。意知様暗殺はその序章だと思います」
「そうか。そこまで言うのなら、龍さんの推理を聞かせてもらおうか」
 意次自身、黒幕について思い当たることはあるが、龍次の考えをまず聞きたかった。
 龍次は先ほどの暗殺事件のときのように、記事風に話し出した。

(瓦版屋龍次の説明 2)
四月三日、若年寄・田沼意知殺害犯の佐野善左衛門の切腹が行われた。場所は揚屋敷(牢屋敷)の庭。検使役は目付山川貞幹、介錯人は同心高木伊助。庭には畳二枚が敷かれ、善左衛門はそこに着座させられた。前方の台には、半分紙で包んだ短刀が置かれていたが、本物の刀でなく木刀である。善左衛門が短刀に手を掛けたと同時に、介錯人高木伊助の刀が振り下ろされた。首は皮一枚でつながっており、添介錯人がそれを上げ、検使役山川貞幹が確認した。切腹というより、実質的には斬首だった。
この後、老中松平康福を中心に、現場にいた者たちへの徹底的な取り調べと処罰が行われた。これは、老中たちが佐野善左衛門だけでなく、同調者が他にも大勢いることを感じていたからではないか。田沼政権に対抗する一大勢力が形成され、活動を始めたと思われる。
 善左衛門取り調べの口上書では、意知との個人的な遺恨が動機とされているが、両者とも死亡しているので確認できない。善左衛門がここまではっきり動機を述べたのなら、正気であり乱心というのはおかしい。それに、善左衛門が述べたという証拠もない。
 さらに、後になって善左衛門が犯行直前に書いたという「田沼罪状十七箇条」なるものが出てきた。そこには、意知でなく、意次の悪政、悪行の数々が列挙されている。反田沼勢力の本当の目的は、こちらの流布にあったのではないだろうか。善左衛門は「田沼罪状十七箇条」を懐に入れ、意知殺害の犯行に及んだという。それなら、意知でなく意次を狙うはずである。
 意知殺害の口上書には、意次への直接的な言及はない。「田沼罪状十七箇条」が懐にあったのなら、取り調べ時に犯行の動機として意次非難があって当然だ。
 よって、この文書は、善左衛門の名を使って、何者かが書いた偽作の可能性が高い。
以上より、次のように推測できる。
 黒幕は反田沼勢力で、田沼政権の転覆を考えていた。意次は六十歳代半ばにあり、先はそれほどない。じっと待っていればよい。ところが、三十歳代の長男意知が若年寄という要職に就いた。若年寄の次は老中職が待っている。意次の跡は意知が継ぎ、田沼政権は継続する。このまま待ってはいられない。後継者の意知を亡き者にする必要がある。
 しかし、自分たちで手を下すわけにはいかない。実行者は誰がよいか。そこで、浮かび上がったのが下級旗本の佐野善左衛門だった。姉が十人いる。父が四十四歳、母が四十八歳でようやく授かった待望の男子だという。
 甘やかされて育ったに違いない。自尊心が強く、思いこみが激しいという。そして、何よりも重要なのは佐野という姓だ。田沼家は下野の佐野家の分家である。善左衛門が下野の佐野家と関係あろうとなかろうとかまわない。佐野と田沼を利用しよう。
 黒幕は善左衛門に接触した。成り上がりの田沼は、元は佐野家の家臣だと伝えた。田沼意次の悪政も有ること無いこと吹き込んだ。そして、悪人田沼父子を倒し、世を正すのは主筋の佐野家の使命だと思いこませ、成就すれば佐野善左衛門の名は赤穂義士以上に讃えられるとおだて上げた。
 同時に黒幕は、大名、旗本たちの中にもくい込んでいき、田沼政権が終わりに近づいていることを匂わせた。長引く飢饉や浅間山の噴火は、天が今の政治に対し怒っているのだと、心理的な不安も抱かせた。世間にも瓦版などで噂をまいていった。
 そして、城中において意知殺害を決行。周囲にいた者たちが意知救済を躊躇したのは、黒幕への遠慮があったためではないか。助けるどころか、その場を逃げ出した者も多数いた。黒幕の一味が先導した可能性も否定できない。誰かが逃げれば、つられて逃げることもある。結局、意知は致命傷を負うまで何度も斬られた。
 田沼政権側の老中たちが、必死になって関係者の取り調べを行ったのは、そのような疑いを抱いていたからではないか。
 佐野善左衛門の口はすぐに封じて、個人的な犯行として幕引きが行われた。そこにも黒幕の手が伸びていた可能性がある。
 善左衛門の墓へ押し寄せる参拝者や、意知の葬儀の列への妨害も、黒幕が糸を引いていた。取り調べ口上書と「田沼罪状十七箇条」も、黒幕の偽作であろう。その様な工作をして、世間に佐野善左衛門を正義、田沼父子を悪という虚像を広めていった。
 黒幕は組織的で、大名や幕府内の役人にまで影響を及ぼすことが出来るほど強大なものである。

 龍次は話を終えた。
「かなり大胆な推理だな」
「いかがでしょうか。田沼様のご意見は」
「一つだけ加えたいことがある。老中たちが執拗に城中にいた者を取り調べたというが、実は最も激怒したのは当時の上様、家治様だ。いつも穏やかな家治様が、あれほど感情を露わにされたのは初めて見た。徹底した調査と処分、そして結果報告を命じられた。若年寄たちが謹慎処分に決まったとき、さらにご自身でお目通り禁止を追加された。大名にとって将軍へお目通りできないのは不名誉なことで、ある意味では重罰だ。他にも、上様の指示で、さらに重い処分を追加した者が何人もいる」
「何故、上様ご自身がそこまでなされたのですか」
「家治様も唯一の跡取りの家基様を十七歳で亡くされている。意知の葬儀終了後、ご挨拶に伺った際、家治様はわしの手を握り、そちの無念の気持ちはよく分かると涙を流された。壮健だった家基様の急死には、不審な点が多々あった。毒殺説もささやかれた。だから、意知殺害も善左衛門の単独犯行でなく、もっと大きな力が働いていると家治様も感じられたのだと思う」
「大きな力とは、黒幕のことですね」
「そうじゃ。二年後、家治様も四十八歳で病気によって急死された。同時に、わしも失脚して現在の境遇となった」
「似ております。家治様も田沼様も、先に跡取りを亡くされています。意知様の暗殺事件は単独のものでなく、将軍家を巻き込んだもっと大きな陰謀の一端のように考えられます。ということは、黒幕の正体とは…」
 龍次は次の言葉を飲み込んだ。意次は目を閉じて考えている。黒幕の見当は付いているが、それを今更明らかにしてもしょうがない。自分の胸にしまい込んで、墓まで持っていくつもりだった。しかし、龍次も黒幕の存在に気付き、正体を明らかにしたがっている。
「黒幕が誰か、龍さんは見当がついておるのか」
 しばらくの沈黙後、意次の方から尋ねた。
「大体の予想はついておりますが、私ごとき者が軽々しく申せません。さらに気になる点を田沼様に伺って、周辺を固めてから核心に迫ろうと思っております。何としても、闇に隠れている黒幕を白日の下にさらしてみせます」
 押し殺した龍次の口調の中に、激しい怒りが込められているのを意次は感じた。





東日本大震災で田沼家墓所破壊

 栃木県佐野市田沼町の西林寺・庚申塚墓地に田沼家墓所がある。
 墓所は江戸時代中期、田沼意次失脚後破壊されたといわれ、昭和二年になって有志の寄付によって再建したものである。江戸時代の破壊は西林寺の伝承であり、昭和二年の再建については墓所横の石碑に刻まれている。
 ここには、田沼重綱、田沼光房の墓塔がある。(旧田沼町の史跡立て札では供養塔となっていたが、現在の墓塔と表記する。)
 【田沼重綱】 田沼家初代      文永二年(一二六五)没(鎌倉時代中期の人)
【田沼光房】 重綱から六代目(二男) 永正三年(一五〇六)没(室町時代中期の人) 二人の間には、六代、約二百五十年の隔たりがある。
 次ページ写真1は、平成十八年に撮影した。光房の墓塔の方が明らかに古い。さらに数カ所に亀裂があり、セメントのようなもので補修した跡が見られた。これは、昭和二年の再建時に修復したものではないかと思った。  
 平成二十三年三月十一日の東日本大震災では、佐野市の震度は5強程度だった。家屋の全壊こそなかったが、一部破損や、ブロック塀の倒壊が各所でみられた。
 田沼家墓所においても、写真2のように光房の墓塔が完全に破壊された。四つの比較的大きな塊のほかは無数の石片となって飛散していた。他に丸石を積み上げた塔も崩れていたが(写真3)、重綱の方は全く無傷だった。

 以上のことから、重綱の墓塔は、昭和二年の再建時に田沼家初代のものとして新規に作られたが、光房はそれ以前の古いものだと推察できる。田沼意次失脚後、墓所と共に破壊されたものを、昭和二年にセメント等で修復したと思える。光房こそ田沼家系図によれば、意次の系統への分岐点となる人物である。
 幕府自らか、あるいは意次との関わりを恐れた地元の者により破壊されたという西林寺の伝承が、地震による光房の墓塔の破損状況から裏付けられたのではないだろうか。(あくまでも筆者の私見である。)  田沼家墓所は東日本大震災から二年後の平成二十五年三月、改修工事が完了した。
 昭和二年の再建に次いで、二度目の大改修である。光房の墓塔は全く新しく作り直された。かつて人為的に破壊されたと思われる痕跡は、今はない。
 墓所全体もすっかり新しくなり、かつての面影は薄れてしまったが、大震災という未曾有の天災の影響とあれば致し方ない。
 本書にその顛末を留めおくことにしたい。

 なお、西林寺の仲介で今回の改修工事を行った川田石材店のご主人に話を伺うことができた。
 まず、昭和二年の工事は、川田石材店の先代が行っており、二代にわたって田沼家墓所の大工事を担当したとのことだった。
 また、光房の墓塔の破損に関しては、柔らかい材質で、しかもバラバラになっており、修復は困難な状態だったという。材質を問うと、「白河石」ではないかと教えてくださった。柔らかいので、かつて手作業だった時代には石材としてよく用いられたという。
 白河石とは、福島県白河市で産出する安山岩。加工が容易で古くから石塔、墓地外柵、石垣、石塀、倉庫、住宅などに使用された。
川田石材店のご主人は、あるいは栃木県北産の船生石かもしれないとおっしゃったが、私は「白河」が妙に気になった。

 「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」

白河石の産地・白河は、田沼意次の宿命のライバル・松平定信の領地である。
 白河楽翁(定信)の田沼憎しの怨念が、下野国田沼村にある祖先の墓所を破壊し光房らの墓塔を砕き、もしそれが白河石だったなら、何と皮肉なことであろうか。

「あとがき」にかえて

『通史 田沼意次』 あとがき 平成十九年(二〇〇七年)五月十一日
平成十五年四月二三日、NHKテレビ「その時歴史が動いた」で「改革者か悪徳老中か?田沼意次、江戸の経済改革に挑む」が放映された。その内容は、後にNHKホームページで紹介され、書籍にもなった。
サブタイトルにある「改革者か悪徳老中か?」の課題に対して、「改革者」の面を強調した内容だった。「悪徳老中」か否かに関しては、大石慎三郎氏が、
「彼が賄賂を受け取ったとして、ああいう証拠がある、こういう証拠があるといってあげられている史料は全部、田沼意次とはなんの関係もないことです」と述べ否定した。
 なお、この番組の参考文献の一つとして、拙著『田沼の改革』が採用されていたことを後で知った。
 「閉塞した時代、因習を破った積極的な改革が行われた。しかし、時代はそれを許さず、賄賂政治家の悪名のもとに改革を葬り去った」と『田沼の改革』の書籍帯に記した。
 現在、時代は田沼意次の改革を高く評価し始めた。

追記          今回
『通史 田沼意次』発刊の四ヶ月後、思わぬ出来事があった。その時の様子は個人ホームページに掲載してあるので、ここに転記する。

*『通史 田沼意次』がベルリン国立図書館へ
 神田・神保町の古書店から「通史 田沼意次」購入依頼がありました。
 田舎の自費出版本をなぜ?と経緯を尋ねたところ、ベルリン国立図書館からの依頼だというのです。
 「通史 田沼意次」は日本の国立国会図書館へ納本しましたから、日本全国書誌に登録されています。日本全国書誌は世界中の図書館にも渡るので、ベルリン国立図書館の司書の方がそれを見たのだろうとのことでした。
 自費出版本なので、通常のルートでは入手できないので、古書店に問い合わせたのではないかと思います。
 その神田の古書店は、創業百年の老舗で世界中の図書館、大学、研究所とも取引があるそうです。
 古書店には定価より少し安い値段で譲りました。
 今、「通史 田沼意次」の一冊がベルリンにあるのかと思うと、感激です。
 「田舎に居ても、世界的な仕事を」と夢見ていましたが、一歩踏みだせたようです。








参考文献

・関根徳男『田沼の改革』 郁朋社  一九九九年  『通史 田沼意次』の原本
・関根徳男『通史 田沼意次』 思門出版会 二〇〇七年 これが本書の原本
・辻善之助 『田沼時代』 岩波文庫 一九八〇年(初版 大正四年)
・徳富蘇峰『田沼時代』明治書院 昭和十一年
・大石慎三郎 『田沼意次の時代』 岩波書店  一九九一年
・後藤一郎著 大石慎三郎監修 『田沼意次 その虚実』 清水新書  昭和五十九年
・後藤一郎 『今日の相良史話』 相良町教育委員会 昭和五十年
・大石慎三郎 『将軍と側用人の政治』 講談社現代新書 一九九五年
・村上元三 『田沼意次』 講談社 昭和六三年
・佐藤雅美 『主殿の税−田沼意次の経済改革』 講談社文庫  一九九一年
・笹沢佐保 『失脚ー改新派・田沼意次の深謀』 祥伝社  平成八年
・江上照彦 『悲劇の宰相・田沼意次』 教育社 昭和五十七年
・川原崎次郎 『凧あげの歴史−平賀源内と相良凧』 羽衣出版 平成八年
・吉田光邦 『日本を創った人びと21 田沼意次』 平凡社 一九七九年
・樋口清之 『お金と日本人』 講談社 一九七九年
・津本陽、童門冬二 『徳川吉宗の人間学』 プレジデント社 一九九五年
・大石慎三郎 『徳川吉宗とその時代』 中央公論 一九八九年
・北島正元編 『徳川将軍列伝』 秋田書店 昭和四十九年
・藤田覚 『松平定信』 中公新書 一九九三年
・『日本全史』 講談社 一九九一年
・『世界大百科事典』平凡社 
・堺屋太一『あるべき明日』PHP研究所 一九九八年 
・『徳川十五代史』 新人物往来社 昭和六十一年
・『日本史探訪』第9集より「田沼意次」松本清張 江上照彦 角川書店 昭和四十八年・『人物日本の歴史』13より 江戸の幕閣 「田沼意次」城山三郎
              「松平定信」奈良本辰也  小学館 昭和五十一年
・『人物日本の歴史』15より 「封建の異端」杉浦明平 小学館 昭和五十年
・『日本の歴史』20より 幕藩制の転換  大石慎三郎 小学館 一九七五年
・『日本と世界の歴史』18より 「田沼意次」 土肥鑑高
               「定信の登場」竹内誠 学習研究社  一九七〇年
・『国史大辞典』9より 「田沼意次」 吉川弘文館
・『国史大辞典』6より  佐野氏関係 吉川弘文館
・『教科書にでる人物学習辞典』3より 「田沼意次」 学習研究社  昭和六十一年
・『ジュニア版・日本の歴史』3より  「世直し大明神」 読売新聞社
・『日本の歴史』4より 「賄賂政治がはびこる−田沼之政治」毛利和夫 旺文社
・『日本史展望』9より 「江戸の町人文化」 旺文社 一九八一年
・『田沼町史』第6巻 通史編(上)
・『歴史街道』一九九一年八月より
  「偉大なる進歩的政治家の運命」 神坂次郎
  「不透明な時代を生き抜く知恵」 木村尚三郎
  「幕政諸改革の光と影」 大石慎三郎
  「意次は何を目指し、何と戦ったか」 鈴木旭
・遅澤俊郎著『栃木の名字と家紋』 下野新聞社 昭和五十九年
・徳川林政史研究所『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』東京堂出版 二〇〇五年
・NHK取材班『その時歴史が動いた』22 KTC中央出版
・安蘇史談会『史談』会報 第十九号 「特集 伝説の田原藤太秀郷」 平成十五年
・安蘇史談会『史談』会報 第二十六号 平成二十二年
・京谷博次『わが町さんぽ』 ふろんてぃあ 一九八六年
 (安蘇史談会の京谷会長には、郷土史に関してご教示いただきました。感謝致します。)
・『寛政重修諸家譜』
・田沼家系図(西林寺蔵)
・高瀬(関根)家系図 (佐野・関根家・屋号「はなひこ」蔵。筆者の本家に当たる。    (本系図は意次の遠州相良田沼家の起源を知る上での傍証となる貴重な新史料。)
                  
(発行年は初版時。元号か西暦かは、文献の表記に従った。)