『人形劇ギルド』に寄せて




何故、"バンド"であり"うたうたい"であるBUMP OF CHICKENが"人形劇"という、唄でないものを作るのか?創ったのか?
まずはそこからいってみよう。と、想います。
私は最初「バンプオブチキンが人形劇を作る!」という一報を聞いた時、「あ、とうとうやるんだ」と想った。「ええー!?新曲は!?」
「アルバムまだー?」という周囲の反応に、「ええ?」と戸惑ったくらいだ。
だって、バンプの唄はいつだって起承転結の美しい"物語"で在ったから。
それはほんの数分で語られる、ガラスの目をきらきらさせて大声で唄い、最後に星になったネコが主人公だったり、胡散臭くて安っ
ぽい宝の地図を信じて黄金の海原に漕ぎ出した、無謀なランサーの旅立ちであったり、最後に永遠の祝福に包まれた寂しがりや
のライオンの一生であったり、破り損なった手造りの地図を手に、間違った旅路の果てに正しさを祈る旅人の希望であったりしたか
ら。
バンプの、藤くんの唄はいつだって、そのメロディーとリリックの中に"物語"を内包していると私は想っている。それは目に見えなく
とも、一瞬で夜空にきらきらのガラスの目をしたネコを輝かせ、谷底まで金色に染め上げたタンポポの匂いを起立させ、白金の夜
明けに、コンパスを握り締め最初の一歩を踏み出す旅人の横顔を鮮やかに、脳裏に描かせてくれるからだ。
唄という伝達手段で、ここまで見事に絵を描かせてくれるアーティストは、そうそう居るもんじゃない。
だから、きっとこんな唄を創り出す藤くんの脳内には、常に「うわこれアニメとかにしたらヤバイんじゃないの?」ってくらい、壮大なイ
メージ、劇場が渦巻いているのだろうな、と私は想っていた。
そして、藤くんはいつかそれらを現実の世界に押し出してやりたい、そう想う日が来るんじゃないかとずっと想っていたから。
『SONG FOR TALES OF THE ABYSS』という"サウンドトラック"という、"歌声"の無い(もちろん『譜歌』や『カルマ』もあるんだけど)
音楽でひとつのRPGの世界を表現してみせた藤くんが、次にやるといったらまぁこうなるかなぁ。と一人で妙に納得していた。
私といういちバンプファンにとって、『人形劇ギルド』は本当に自然な、自然な現象のように想えたのだ。

『人形劇』である。
そして『ギルド』という、4thアルバム『ユグドラシル』の中でもなかなかに痛い程剥き出しで、気が狂いそうになる唄がベースである。
まぁ『太陽』程の痛さではないが。
それでも突きつけているのだ「望んだんだろう?選んだんだろう?その姿のままで、お前は生きればいいんだよ」と。突き放してもい
るのである。「仕事じゃないんだろう?お前が選んだんだろう?」と。
そんな『ギルド』をベースにしているくせに、ベルカナちゃんの可愛さといったら、お世辞抜きにバンプファンでなかったとしても「ぉお
おおおおここここれは私にとってはFFCC(ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクルというゲームである)のろんぐちゃん(その
ゲームにでてくるめたくそカワイイまるっこい女の子である)と拮抗しているぉあぁ」と、もうその笑顔を見ているだけで、普段
「EMINEMはやっぱ"WHEN I'M GONE"がたまらんね」とか「LINKINの真髄は"FAINT"のシャウトもそうなんだが、"NUMB"の♪SO〜
NUMB〜〜〜〜♪っていう叫びがたまらなく癒 さ れ る 」とか言っているやさぐれた私まで骨抜きにされる可愛さである。あんな
妹or娘がいたら、私は立派に堅気の人間に更正できる気がする(ぉおい)。だからあの「お前のとうちゃんのひげはへ(ry」というほ
とんど表情のうかがえないマンナズ父さんも、しんどく、暗い場所での力仕事に黙々と毎日通えたのだろう。
マンナズには、守るべき価値ある存在と日々があった。生活が、在った。
ベルカナには、これ以上にないくらい、ささやかで温かな幸せが、在った。

いつまでも、一緒だと、信じていた。

けれどそれは、二人のささやかな"幸せ"であり二人を繋いでいた絆のひとつでもあったであろう、ピアノに"奪われる"のだ。
私はそう表現したい。
あの日、ベルカナが生まれた日に。
マンナズ父さんが隣町までバスに乗り、おもちゃのピアノを買ってこなかったら。
ふたりは、本当にいつまでも一緒に居られたかもしれない。
二人だけの夕食後のささやかな演奏会という幸せの代わりに、一緒に居られたかもしれない。

これは、簡潔に言えば"消失"と"報い"の物語だ。

マンナズとベルカナの親子は、娘の愛するピアノを弾く、という行為のため、「いつか娘のピアノを世界中の人たちに聴いてもらえた
ら…」という、思わず目を背けたくなる程に温か過ぎる親の愛故に、引き裂かれることになる。
ベルカナという大切で愛しい娘のために、彼は本物のピアノを残し、おもちゃのピアノを手に"天国"へ旅立った。
ベルカナはそうしてくれ、など一言も言っていない。
むしろ、「本物のピアノなんていいから、お父さんの傍でずっとおもちゃのピアノでいいから」と想っていたのだろう(藤君の設定資料
にもそれらしきニュアンスのことが書いてある)。
だが、生まれた時にマンナズがベルカナのためにおもちゃのピアノを買ってきた時から、この別れは決まっていたのだろう。マンナ
ズは娘への愛を試され、ベルカナはピアノへの情熱を証明することを突きつけられる。それが二人の『カルマ』だったのだろう。
だから、ひとり残されたベルカナは、ただひたすらにピアノを弾いたのだろう。
楽譜を見たくもない日もあったろう、思わず鍵盤を叩きつけた日もあったろう。
「こんなものさえなければ」と、呪ったこともあっただろう。
だがベルカナは弾き続けたのだろう。
それだけが、それこそが、"天国"へ旅立った父への想いに応える唯一の手段だったのだから。
そしてマンナズは、いつまでも幼いままの娘の面影と想い出を細々と糧に、地の底で黙々とつるはしをふるった。
すべてを投げ出し地上へ、娘のもとへ帰りたくなった時もあったろう。
暗く静かに這い寄る孤独に、耐え切れず泣くこともあったろう。
「あの日ピアノさえ与えなければ」と、呪ったこともあったろう。

だが、マンナズは続けたのだろう。
「望んだんだ 選んだんだ 仕事ではない 解っていた」
と。

だが――運命は容赦なく、これでもかと彼らを試す。
そして「人生とはこんなに辛いものか、すべては無駄な、ただ過ぎ去るだけの意味のないことか」という、悲しさなど軽く越えてしまっ
た"虚しさ"に辿り着こうとする頃、時は満ちるのだ。
「すべてはこの日のためだったんだろう?」と。

この物語の最後はひとつの"奇跡"で閉じられる。
"Ever lasting lie"のように、終らない、報われなくとも終らない誠実な嘘でなく、"グロリアスレボリューション"のように「鍵も自前だ
ろ?自由気ままに放してやれ」と他人に希望を唄いかけながら、最後は「オレにもついてるじゃねぇか えらく頑丈な自前の手錠が」
と乾いたように笑いながら「こういうケースもあるというリアリズム そんな目でオレを見んな」と唄ってしまう、アイロニーでなく。
この物語は、まるで私達が子供の頃に読んだような"正しい童話"のような、奇跡で終わる。
ありえないのかもしれない。現実に、こんなことは起こらないのだろう。
けれど、私達は三次元に押し出された藤原基央の新たな表現方法の"物語"の、その光放ちながら舞い降りる"奇跡"の幕に、涙を
流さずにはいられないのだ。
もしかしたら、こんな奇跡は世界のどこかで本当に起こっているかもしれない。
もしかしたら、こんな奇跡を誰かがそっと、魔法のようにこの世界のどこかで起こしているのかもしれない。
もしかしたら、この奇跡の何分の一かのハッピーエンドを、自分も起こせるんじゃないか。
というか、この『人形劇』に出逢えたことが、そうなんじゃないか。
そう、想ってしまったのだ。想わされるほどの力強さが、確かにそこに在った。
マンナズの動きが止まり、やがて降り注ぐ音の光

「おお…」
「聴こえるよ」
「ベルカナのピアノだ」

そこに声は無い。字幕と、演技をしている人形が在るだけの映像だろうに。
そこには、確かに"すべてはこのため、この時のため""仕事ではない 解っていたんだろう?"という、"この一瞬のために、今まで
息をしてきたんだ"という奇跡が描かれる。それは紛うことなき希望であり、正しい祈りの結晶だけが持つ、限りなく透明な美しさだ。
"美しくもなくて 優しくも出来なくて"と唄いながらも、どうしてもバンプが辿り着くのはここなのだ。
泥だらけになりながら、無様に何度も迷い躓き転びながらも、ただ黙々と繰り返す日常の積み重ねの果てに、一瞬のスパークのよ
うに輝く"瞬間"を、彼らは今も信じている、描こうとしているんじゃいか、ああ、バンプは変わっていくけれど、やっぱり彼らにとって
の"大切なモノ"は変わってないんじゃないかなぁ。そう、想えた。
『FLAME VEIN』で剥き出しの情熱を唄いだし、『THE LIVING DEAD』で八方塞りの"生きているのに死んでいるような"もがきを叫
び、『jupiter』で満天の星空の下で「揺ぎ無い信念」と共に「少しでも傍に来れるかい?」と僕らに唄いかけ、『ユグドラシル』で自らを
"自分"という宇宙樹に吊り下げ様々な刃で傷つけられながら、滴り落ちた血で新たなる境地を描き出した、バンプが――
今、こんなにも素直で夢のような、奇跡で最後を彩ったことに、私は涙が溢れて止まらなかった。
バンプが、藤くんが、チャマが、ヒロが、升くんが事務所を相手に大立ち回りしてまで守り抜いたこの物語に、何の掛け値なしに"感
動"した。心を、動かされた。

信じていい気がした。
信じられる気がしたのだ。
マンナズとベルカナの"消失と報い"の物語に。
この奇跡に。
自分が選んできた道程、これから歩もうとしている道を――こんなに素敵な物語を選べたのだから。このうたうたい達と同じ時代、
同じ場所を選び、生きようとしているのだから。

最後になるが、私はこの人形劇が声優なしの"サイレント映画"の表現手段をとったことも、とても自然なことに想えた。
だって、『ギルド』という唄で、唄声で、もうすでに十二分に物語の登場人物たちの想いを"音"に出来ているのだから。
無声だからこそ、クライマックスで流れる『ギルド』のヴィヴィットなまでの色彩と、最後のマンナズの涙と震えが、これでもかと胸に迫
るのだ。

「おお」
「聴こえるよ」
「ベルカナのピアノだ」

長い長い沈黙を経ても、マンナズは迷い無く、その音を探り当てた。
そして私達の耳にも、きっとその音は届いているのだ。

「お父さん」
「聴こえる――?」

これは父と娘の愛の物語であり、気の遠くなる犠牲と消失の果てにたったひとつの報いを手に入れる、男の話であると想う。
ただそれだけの物語だ。
そう、ただそれだけの物語なのだ。

どうか、「何故歌手が人形劇を」「どうして人形に声を入れていないの?」という疑問はとりあえず横に置いておこうじゃないか。
これはひとつの『人形劇』なのだから。"ただの人形劇"なのだから。
























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