|
潮風が力強く吹き、日差しが地面に真っ黒な影を映し出している。木々の葉は青々と色づき、空もまた抜けるように青く、数日前までの大雨はその気配すら感じられない。長かった梅雨もようやく明け、この明石の地に夏が訪れようとしていた。都からはやや離れた、栄えているとは言いがたい土地だが、自然の美しさはたとえようもないほどである。 そんな美しい風景を一望できる海辺に、この土地には不似合いなほど見事な邸が建てられていた。皇家の別荘かと見まがうほどの優美な邸であったが、果たしてその邸の主は皇家の縁の方ではなかった。 この豪奢な邸は住む者の心を表しているのだろうか。 この地の主、明石の入道はかって樹雷の皇宮に出入りなさっていた方であったから。 この明石の入道には一人の娘があった。 幼い頃から器量も良く、また利発な方であったので、都にいた頃には皇宮に上がり、皇后のお側に仕えたこともあった。そのせいか、明石の入道はこの娘を大変可愛がり、いつかは高貴な方のもとへ嫁がせたいと考えていた。 明石の浦で近頃人の口にのぼる噂は、都からこの近くの須磨に降られた貴公子のことであった。なんでもその方は都にあってもたいそう有名な、とりわけ高貴なお人らしい。 その貴公子は、人々から天地の君と呼ばれていた。 「なんでも天地の君がここから程近い須磨に降っておられるというではないか。これは天地の君とお近づきになれるまたとない好機であろう。」 と、北の方に話しかけた入道は、やや興奮した様子であった。 「まあ、あなた。まさか、おかしなことを考えておられるのではないでしょうね。」 「おかしなこととはなんだ。あの娘にとってもこれほどのお相手は他にないぞ。」 「それがおかしなことと申しているのです。」 「なぜだ?」 「聞けば天地の君様には都に美しい女性を何人も恋人になさっているとか。そのような方々に私たちの娘がどうして太刀打ちできましょうか。」 「何を言うか。あの娘が、日羽がひけをとろうはずがなかろう。とにかく、私は天地の君をここにお迎えしようと思う。日羽にもそう伝えておけ。」 北の方は深いため息をついた。 この入道は一度言い出したら後には退かない性分である。天地の君をここに招いたとしても、とても入道の思うとおりにはいくまいと思うがどうしようもない。日羽も会うことを望んでいまいと思いつつも、伝えるしかないのであった。 ここは明石の入道の愛娘・日羽の住んでいる邸である。外の者は決して立ち入れぬように作られた離れであった。まるで皇の後宮のようだと思いつつも、北の方は重い足を進めた。 「日羽。入りますよ。」 はい、と明るい声が返ってくる。 障子を開けるとそこには黒い髪をした女性が座っていた。 まだ少女の面影を大分残した、花のような笑顔の姫であった。 「どうなさったの、お母様?なんだかお疲れのようですけど・・・」 「疲れもしますよ。また、お父様が突拍子もないことを言い出したのです。」 「何をおっしゃったのです?」 「今、須磨に天地の君様が降っておられることは知っていますね?」 「(!)は、はい・・・」 「お父様は、天地の君様をこの邸にお迎えしようというお心なのですよ。おそらくはおまえに縁談を持ちかけることでしょう。」 「そうですか・・・」 「まあ、天地の君様のような高貴なお方がこんな田舎者のことを気にかけて下さるとは私は思っていませんが・・・一応、心づもりだけはしておいてね。」 日羽は母親の声をなかば呆然としながら聞いていた。 日羽の心は、幼い頃、天地の君と供に過ごした時間へと旅立っていた。それは父母さえも知らない、皇宮での楽しい日々の記憶であった。 「日羽、お務めにはもう慣れた?」 「うん、もう平気平気!天地くんのおかげかな?」 そのころ日羽は皇宮に仕え始めたばかりの少女であった。 身分の高い人々に混じっての宮仕えはおせじにも楽しいとは言えなかった。そんな息苦しい皇宮で、天地の君とともに過ごす時間は、日羽にとってたとえようもなく楽しいものであった。 皇宮で暮らす天地の君にしてもそれは同じであった。一部の例外を除けば、皇宮には子供がほとんどおらず、日羽は数少ない友達だったのである。 二人はよく皇宮の庭内で遊んだ。 「あれ?あそこになにかいる?」 「え、どこ?」 「ほら、あの樹の根元に・・・」 そこには一羽の小鳥が鳴いていた。 「わあ〜、可愛い!この子、まだ子供だよ?」 「どうしたんだろ?もしかして、この樹から落ちたのかなあ・・・?」 見上げると樹の枝ははるかに上の方にある。とても登っていけそうにはなかった。ましてや二人はまだ子供であった。 「このままだとこの子死んじゃうかも・・・ねえ、天地くん。この子、私たちで育ててあげようよ!」 「うん!それがいいよ!」 こうして二人はこの小鳥を『有漢』と名付けて一生懸命に世話をした。 有漢が一人前に成長した頃・・・日羽の父が都を降ることになった。その理由は日羽にはわからなかった。だがしかし、日羽には選択の余地はなかった。 「日羽、行っちゃうの?」 「うん・・・」 「じゃあ・・・有漢のことよろしくね・・・」 「いいの?あたしが連れてって?」 「うん・・・その方が有漢も喜ぶだろうし」 有漢の篭を手渡す天地。 日羽の目尻には涙が浮かんでいた。 「さよなら、天地くん・・・。また、会えるよね・・・」 「うん、きっとまた・・・」 須磨に仮の暮らしをしている天地の君は困った事態に直面していた。なんと、邸が半壊していたのである。 数日前のある晴れた日の事。にわかに空が曇ったかと思うと、須磨の空一帯に轟音が鳴り響き、天地の君の邸の庭の大木に神鳴りが落ちたのである。人々が恐れおののいている間に、その大木が倒れ、邸の屋根を押し潰してしまったのであった。 幸いにも怪我人はなかったが、神鳴りが落ちるとは不吉なことよ、なにかのたたりではないか、と不安がる者も少なくなかった。 天地の君は腹心の阿座化に当惑した様子で尋ねた。 「阿座化、どうしたものだろう?」 「そうですなあ・・・いかにこれから暑くなるとはいえ、これでは少々風通しが良すぎますな。」 「冗談を言っている場合ではないだろう。雨でも降った日にはたまったものではないぞ。」 「申し訳ありません。やはりここは、方違えをかねて一時的にでもどこかへお移りなさるのがよろしいかと。」 「うん・・・そうは言ってもどこへ行ったものか・・・」 天地の君らが途方に暮れているところへ、一人の使者がやってきた。 「こちらに阿座化殿はおられますか。」 「私がそうだが。」 「これはこれは。私は明石の入道様からの使いで参った者で、折りいって阿座化殿にご相談したいことがあるそうでして・・・」 阿座化はややいぶかしみながら、明石の入道のことを思い出そうと試みた。 「相談?入道殿が?」 「はい、ただ今近くまで来ておられます。」 「天地の君・・・どうしたものでしょう?」 「わざわざ出向いてくれたのだ。会ってみるが良いだろう。」 そこで、阿座化が入道に会ってみることになった。 明石の入道が持ちかけた話の内容は、阿座化を大変驚かせるものだった。 「・・・そんなわけで、是非、天地の君を我が邸にお招きしたいのです。阿座化殿から天地の君に、その旨、よろしくお伝え願えませんか。」 「しかし・・・」 「こうして出会えたのも神のお導き、どうか聞きとどけて下され。」 確かに渡りに船、と言える申し出ではあるが、明石の入道の強かさを知っている者としては素直にうなづけなかった。 困り果てた阿座化は、天地の君に判断を任せる事にした。 「明石の入道が私を?・・・なぜだろう?」 天地の君もまたいぶかしんだ。 明石の入道とは面識はなかったし、今の天地の君に取り入ったところで利があるとは思えない。まさか同情だけでこのような申し出をしてくれるほど情けが深いわけでもあるまい。 とりあえず、直接会って話をしてみることにした。 「入道殿は、なぜ私を招いて下さるのですか?」 「都に名高い天地の君がこのような所に住まわれているのを耳にするにつけても世の無常を感ずるばかりでありまして、せめて私の邸でお心を和ませて頂けれればと思った次第です。」 「ご好意は大変嬉しいのですが、今の私はいわば皇宮から追放された身。貴方にもご迷惑がかかるやも知れないのですよ。」 「そのようなことは一切お気になさらず。どうか、私めを助けると思ってお聞き入れ下さい。」 あまりに明石の入道が熱心に頼むので、天地の君は、「とりあえず、今の邸の修繕が終わるまで」という約束で明石に移る事にした。これを聞いた入道は、天地の君の気が変わらぬ内にと、早速天地の君を連れ出した。そして、陽が沈む前に、明石の邸に到着してしまったのである。 都で天地の君の帰りを待つ女性達の中で、どうにも待つことに飽きてしまった女君がいた。 六条の魎呼姫である。 この姫はもともと気が短い上に、静かな暮らしが苦手な方であったので、なんとしても須磨へ行き、天地の君に会いたくなってしまった。しかし、天地の君が都を去るときに「待っている」と約束してしまっていた。魎呼姫には天地の君との約束はどうしても破れるものではなかった。 しかし、追いかけて行きたいという衝動はつのる一方である。 そこで仕方なく、自分の代わりに側仕えの麻真という女房をひとり、須磨へ出向かせようと思いついた。なかなかに無茶なお方であった。 「ま、そんなわけで、ちょっと天地の様子を見に行ってきてくれ。」 「わ、私がですか?」 「そう。」 「し、しかし、私は・・・」 「しょうがねえだろ!本当ならアタシ本人が行きたいところなんだけど、天地との約束でここで待ってなくちゃいけねーんだから。」 「(だからって何故私が・・・?)」 「須磨だと天地にばれるかも知れねえから、明石に行ってくれ。須磨と明石は目と鼻の先だし、明石には知り合いも多いだろ?」 「は、はあ・・・」 「・・・嫌なのか?」 「い、いえ、とんでもございません!喜んで行かせていただきます!(T_T)」 「んじゃ、よろしく頼むぜ。あ、くれぐれも天地に気づかれないようにな。」 「はい・・・(T_T)」 ・・・こうして麻真は喜んで明石の地へ向かうこととなった。 明石の地の風光明媚なことは都においても語られるほどであった。 まして、明石の入道の邸は、松の木や玉石などを面白く整えた、心ひかれる庭があつらえてあった。 天地の君も久方ぶりにみる精錬された邸の有り様に、都での暮らしを思い出していた。そうなると自然と心に浮かんでしまうのが女君たちの姿である。 (そうだ、都に明石へ移った事を知らせる文を書かないと・・・) そう思っているところへ、明石の入道が玉砂利を敷き詰めた小道を渡ってくるのが目に入った。 「天地の君、どうですか?なにか不都合なことはございませんか。」 「いえ、まったく。それにしても素晴らしい庭ですね。」 「いやいや、都にはこの程度の造りは数知れませんことでしょう。ところで・・・」 「はい?」 「実は天地の君に少々お願いがありまして・・・」 「なんでしょうか?」 「私には娘が一人ありまして、昔は皇宮に昇ったこともありました。しかし今ではこんな片田舎に住まわせるばかりで・・・。それで、せめて都の様子などを娘にお話し頂けたらと思いまして、天地の君にお願いする次第でございます。」 「ええ、かまいませんよ。」 「そうですか!それでは今夜にでも場を設けるといたしましょう。」 そう言って明石の入道は嬉しそうに立ち去っていった。 天地の君は明石の入道の娘とはどんな女性かと気になったが、今は都に残してきた女君たちのことが気がかりで、とても他の女性に心を動かす気にはなれないのだった。 その日の夕刻、天地の君は本邸からやや離れたところに建っているひときわ眺めの良い離れに案内された。周りを柴垣と透垣で囲まれた、まるで外から人を寄せつけないような造りの建物である。そこは、明石の入道の娘、日羽の住む邸であった。 「それでは天地の君、よろしくお願いいたします。私は阿座化殿らと話をして参りますゆえ。」 「え?あ、あの・・・」 そう言い残すと、入道はさっさと居なくなってしまった。天地の君が呆然としていると、衣のすれる音が聞こえてきた。音のした方を見やると、御簾の向こう側に女性の影が見て取れた。 「天地の君様・・・ですか?」 「は、はい。貴女が入道殿の?」 「どうぞこちらへおいで下さい。」 「はい・・・。ところで、貴女のお名前をお教え願えますか?」 「・・・あててみて下さい。」 手が口元へと動き、女性は笑ったように見えた。 「そう言われましても・・・なんの手がかりもなしでは・・・」 「では、あれを見られてはいかがでしょう?」 女性はいたずらっぽい口調で話ながら、部屋の隅を指さした。 先ほどまでまるで気づかなかったが、そこには木で組まれた篭が天井から吊るしてあった。 「え?これは・・・」 この篭には見覚えがあった。 そして何よりも、その篭の中にいた鳥はかって自分が世話していた鳥であった。 「有漢?それじゃまさか・・・」 「覚えてた?」 御簾の影から顔をだした少女の笑顔は、まぎれもなく記憶に残る幼なじみの笑顔だった。 「日羽!」 「天地くん、元気だった?あ、天地様、かな?」 「くん、でいいよ。それにしても・・・驚いたよ。まさか明石の入道の姫が日羽だったとはねえ・・・。」 「姫なんてものじゃないけど。天地くん、全然気づかないんだもん。もう忘れられちゃったのかと思った。」 「そんなことはないよ。でもまさか、こんな所で会うとは・・・」 「そういえば、どうして都を追われちゃったの?噂では政争に巻き込まれたって聞いてるけど・・・」 「それが・・・」 天地の君は都を追われた理由を「後宮の女性に手を出したと誤解されたため」と説明した。さすがに、清音の中将の事などは話せるはずもない。しかし、それはあくまでも清音の中将の立場を思っての事であった。 (清音はどうしているかな・・・砂沙美ちゃんも元気だろうか・・・) ふと、都の自邸のことを思いだした。 日羽は、天地の君がぼんやりとしているのを見て、ついからかってみたくなった。 「あーーーっ、天地くん、鼻の下が伸びてるよー!」 「え、ええっ?」 いやらしいことを考えていたわけではないが、あながち的はずれでもない、というところだろうか。 「天地くん、しばらくここに居るんでしょう?」 「ああ、須磨の邸が直るまではお世話になるよ。」 しばらく談笑した後、天地の君は日羽の住む離れを後にした。 入道は、離れから歩いてきたときの天地の君の表情が楽しげだったのを見て、娘が天地の君の目にかなったものと誤解し、ひとりほくそ笑んでいた。 都の六条から送り出された女房はようやく明石に到着した。 初めは魎呼姫に無理難題を押しつけられたような悲壮感が漂っていたのだが、いざ明石に来てみると、そのようなものは微塵もなくなってしまった。明石は景色の美しいことではどんな土地にもひけを取らないし、なんと言っても二年前まで暮らしていた土地である。麻真はまるで休暇をもらったような気分になっていた。まったく現金なことである。 知人の邸に腰を落ちつけ、さて、天地の君様の噂でも集めようかと邸の者に尋ねてみれば、意外な言葉が返ってきた。 「天地の君様が明石におられる?」 詳しく聞いてみると、数日前に神鳴りで須磨のお邸が壊れ、そこへ明石の入道が天地の君を自分の邸へ招いたという。 明石の入道と言えば、この明石の地では知らない者はいないほどの有名な男である。かっては、都で皇宮に仕えたこともあったのだが、後ろ盾を失ってからは明石の地に降り、一人娘に多大なる期待をかけている高望みな人物であった。 その入道が天地の君を自邸へ招いたということは・・・。 麻真はすぐさまに都の魎呼姫へ文をしたためた。 明石の地での暮らしは、天地の君にとって久々に心休まるものであった。 なんと言っても住まいが須磨とは比べものにならない。都で育った天地の君にとって、須磨でのわび住まいは苦労の絶えないものであった。 天地の君は、都にいたときのようにくつろいだ気分を味わっていた。いや、ある意味それ以上に心を和ませていたのかも知れない。日羽との再会は、何も悩みのなかった幼い頃の気持ちを思い出させてくれていた。 「どうしたの、ぼーっとしちゃって。」 「ぼーっとはないだろ、日羽。人がくつろいでいるってのに。」 「でも、端から見てるとぼーっとしてるようにしか見えないわよ。」 日羽はそう言ってくすくすと笑った。天地の君もつられて笑い出した。 再会して以来、日羽と天地の君は毎日のように会っていた。年頃の姫が家族でもない男性とこのように昼間から談笑するなどおかしな話なのだが、当の二人は気にした様子もない。こんな二人の様子を聞いて、邸の者達は二人はまるで若夫婦のようだと噂しあったものである。 そこへ、都から天地の君へ文が届いた。一通や二通ではない。都にいる女君たちからまとめて運ばれてきたのである。 それを見て、日羽は天地の君を一人にするべく立ち去ろうとした。 「じゃあ、またね、天地くん。」 「あ、うん。またな。」 天地の君の心は既に都から送られてきた文に釘付けだった。 日羽は天地の君の部屋をあとにしながら、天地の君に文を送ってきた女性たちのことを考えずにはいられなかった。 そのころ、明石の入道は離れた部屋で北の方と言葉を交わしていた。 「どうだ、おまえ。私の言った通り、いや、それ以上ではないか。この分なら天地の君と日羽が夫婦(めおと)になるのは時間の問題だろう?」 「・・・そうでしょうか?」 「いったいなにが気に入らないのだ?」 「気に入らないわけではありません。ただ日羽が・・・」 「日羽がどうしたというのだ。」 「何か思い悩んでいるような・・・そんな気がするのです。」 「なにを言っている。天地の君の相手をしているときの日羽はそれは楽しそうな顔をしているではないか。」 「そうなのですが・・・でも・・・」 「おまえの気の回しすぎだ。そんな心配より、結納の支度でも考えておけ。」 そう言うと、明石の入道は笑いながら出ていった。 そんな入道の様子を見て、北の方はそっと溜息をついた。 (所詮、父親といえど男・・・。娘の、いえ女の気持ちなどわかろうはずもないということなのですか・・・) 左大臣邸、二条邸では信じがたい、いや信じたくない噂が伝えられていた。 天地の君が明石である女性に心をかけているという。しかも今では既に一緒に暮らしてるとのことだ。にわかには信じられなかったが、遠く隔てた明石の地のことをこの目で確かめる術はなかった。 天地の君からの文には、事情により一時須磨から明石に移ったとあるだけで、女性のことはいっさい触れられていなかった。 「中将様、天地兄ちゃんの噂、ホントなのかなあ・・・」 「噂はあてにならないものですよ。砂沙美姫が心配するようなことはないでしょう。」 「でも、もし本当だったら天地兄ちゃんもう帰ってこないかも・・・」 「!」 清音の中将は砂沙美姫の言葉に少なからず衝撃を受けた。 確かに、都に帰ることができないとなれば、彼の地の女性とそのまま、ということも十分に考えられる。 「天地の君はそんな方ではありませんよ。もうこの話はやめにしましょう。」 なかば自分に言い聞かせるように、清音は言った。そうしなければとても平静ではいられなかった。 清音の中将が皇宮に向かった後、砂沙美姫は一人天地の君のことを考えていた。 天地の君が砂沙美姫にとっていかにかけがえのない存在であるか。天地の君は気づいているのだろうか? そもそも、砂沙美姫にはこの二条邸に引き取られる前の記憶がほとんどないのだ。 天地の君以外に頼れる人もおらず、また心を許せる人もいない。今の砂沙美姫にとって、世界のほとんどが天地の君で占められているのだ。それなのに、いま天地の君は側にいない・・・。 砂沙美姫は誰も居ない二条邸の庭を眺めながら、小さい胸を痛めていた。 天地の君が明石へ移ってから、はや二週間が過ぎた。 天地の君と明石の姫君の様子は、日毎に情が深くなっていくように見受けられる。 明石の入道も二人の様子を見る度に満ち足りた気分になるのだった。初めは天地の君の身分を期待してのことであった。しかし、娘の、日羽の楽しそうな顔を見るにつけ、いっそこのまま天地の君が都にお帰りにならなければいい、そんな思いさえも浮かんでくるのだった。 しかしこの世は常に儚いもの。 その日、須磨から使いが来て、天地の君の邸の修理が滞りなく終わったと告げた。 これを聞いて天地の君は、須磨へ帰ることを決めた。 「入道殿、すっかりお世話になってしまいました。あまりに居心地が良いのでつい長居してしまいましたが、邸が直ったからには須磨に戻ろうと思います。」 入道は慌てて天地の君を引き留めた。 「天地の君、なにもすぐに戻られなくても・・・。もうしばらくはこの邸にご滞在なさってはいかがでしょう?」 「入道殿のお心遣いはありがたいのですが、今の私は都の皇に対して謹慎の意を示さねばならないのです。いつまでもここで安穏と暮らすことは許されないでしょう。」 入道は天地の君を引き留めることが出来ないと悟り、せめて送別の宴を催すので明日までは、と言うのが精一杯だった。 夜、明石の邸では宴が催された。天地の君を送るためのものだが、それにしてはややおおげさとも取れるほど盛大であった。陽の落ちた庭に多くの篝火を散らし、そこかしこに楽器を携えた者たちを並ばせ、細波の如き音を泳がす。 このような明石の入道の心遣いも、天地の君にとっては都での日々を懐かしむ助けになるだけであった。 それというのも、天地の君は明石の入道が自分を招いてくれたのは日羽が入道に頼み込んでくれたためと、解していたせいであった。 それゆえ、天地の君は入道の意図にも、そして日羽の気持ちにも気づかないままであった・・・。 夜の帳はすべて降りきり、漆黒の空には細い月と星のみが煌めく。宴は既に終わって、庭を照らしていた篝火はその役を雲上へと譲っていた。 わずかな光のもと、天地の君と日羽はふたり静かに話していた。 「明日の朝・・・行っちゃうんだよね・・・」 「ああ。でも、すぐ近くだからね。」 「そうかな・・・」 「え?」 日羽は天地の君に顔を向けずに、夜空ばかりを見ていた。 「ねえ、天地くん。ひとつだけ聞いてもいいかな?」 「なんだい?」 「あのね・・・」 「・・・・・・」 「天地くんって都に女の人が大勢居るんでしょう?」 「え・・・いや・・大勢って・・・」 「もてるんだね、天地くんって。」 「いやその・・・」 天地の君は責められているような気分になって、視線を宙に漂わせた。 「天地くんの好きな女性ってどんなひと・・・?」 「えっ!?」 突然の言葉だった。 驚きながらも天地の君の脳裏には都にいる女君たちの顔が次々と浮かび、消えていった。今まで出会った女性たちすべて・・・。 「俺の・・・好きなひとは・・・」 「待って!やっぱり聞かなくていい。」 「え・・・」 「聞かなくていいの・・・」 日羽はすっと後ろに下がり、天地の君から離れていこうとする。 「日羽・・・?」 「さよなら、天地くん・・・。また、会えるよね・・・」 「ああ、きっとまた・・・」 日羽は微笑んでいるように見えた。それは子供の頃の笑顔とは違った、女性の微笑みだった。 そのとき、天地の君は突然に理解した。 もうお互いに子供ではないと言うことを・・・。 翌日、天地の君は須磨へと去っていった。 それを見送るにつけても入道は残念でならず、娘のことを思い、日羽を慰めようとして離れへと向った。 「日羽・・・寂しくなるが、なに、すぐにまた会えるさ。」 「そう・・・ですね。」 日羽には解っていた。次に天地の君と会える時がきても、もう二度と今までのようには会えないということが・・・。 明石で荒れ狂った嵐が去って、ようやく秋らしい穏やかな雲が空を漂うようになった頃。天地の君は皇より都への帰還の勅令を受け、都へと戻っていった。 雪のように白い手が、香を焚きしめた空色の文を乗せている。 日羽は送られてきた文を読み終えると、そっとたたんで厨子にしまい込んだ。そしてゆっくりと立ち上がり、有漢の篭を手に取る。 空の見える廊に立って篭を開き、有漢を虚空へと放ってやる。 しかし、有漢はしばらく空を舞うと、再び日羽の所に戻って少女の肩に静かに降りた。 有漢はそのまま少女に寄り添い、とどまり続けた。 やがて少女の肩が揺れて、崩れるように柱にもたれ掛かった後でも。 |