|
皇宮の中を多くの女房たちがせわしく立ち回っている。下知を受ける下仕えの者たちはまして忙しい。皇宮の至る所、門前から奥まで、これほどに騒がしかったのはここ数年では船穂皇妃が入内された時以来ではなかろうか。 広々とした庭園を隈なく掃き清め、建物の床や柱を丹念に磨き上げる。平時から美しい緑に囲まれた皇宮がさらに光に包まれたかのように輝いて行く。 秋の吉日、空には薄く雲がたなびいて、涼しげな風が木立を撫でてゆくのも清々しい。そして明日は樹雷第二皇妃となられる方が入内される晴れの日であった。 季節は折りしも秋、纏わりつくような熱気の支配した夏の暑さも去り、騒がしい蝉の声に替わって鳴くきりぎりすの音色が優しく柔らかい。 華やかに騒がしい皇宮とは異なり、厳粛な静けさが三条の社を包んでいた。 ここで生まれ育った少女がもうすぐこの家を出て行くのだ。少女ではなく、大人の女性として。 いかに皆から祝福された婚姻とは言え、長年親しんだ人や住み慣れた邸を後にするかと思うと涙が自然に誘われるのであろう。まだ十代半ばといったその少女は、大きな瞳から零れる雫を隠そうともせず、別れを惜しんでいた。 「美砂樹様、今日はおめでたい日でございますよ、涙を拭かれて。」 「でも、でも、もうここには帰ってこれないんでしょう?」 「その代わり、皇宮にはとても美しい御殿が皇妃様が来られるのを今か今かと待っているのですよ。」 「あの庭の樹も、花たちも・・・うっうっ」 必死に慰める女房の言葉も美砂樹の心を軽くしてはくれなかった。 もともと普段から感情の動きの激しい姫のこと、別れの情は深く尽きず、更に袖を濡らすのであった。 やがて迎えの車にいざなわれ、ゆっくりと名残り惜しげに三条邸の門をくぐって行く。 そんな皇妃の出立を柱の影から見守る少女がいた。歳は美砂樹より四、五ほど下であろうか。大人たちは皆一様に喜び、口々に祝福の言葉を掛けているのに、泣きながら嫁いで行く美砂樹を片時も目を離さず見送る。 (美砂樹姉様・・・泣いてる) 少女は三条の邸で最も年若──下仕えの女童たちをのぞけば──であった。 結婚や男女の仲らいなど、まだまるで知らない純朴な少女は美砂樹の涙の本当の意味を知らない。 ついこの間まで共に暮らし、父母は違えど、姉とも言うべき人であった美砂樹が、いや美砂樹皇妃が、今日という日からは雲居の上の方となり、容易く会うことも出来なくなるという事実のみを心のふるえの理由として受け取る。 それでも涙の伝える波紋を少女は無意識のうちに感じ取ってしまう。 この、言葉に出来ない漠然とした嘆きを津名魅はただ不思議がる他はなかった。 ここは都に知られた神域、三条の社。この社に住まう者は皆神官の家系に連なる者である。才あると認められた者は神職に、そうでなくともほとんどの者がそれに準ずる職に就いている。または、美砂樹のように皇家に入ることも珍しくはない。その代わり、なにがあろうとも里帰りすることは出来ない。美砂樹の言葉通り、ひとたび一族を離れてしまえば、ここに戻ってくることはないのであった。 ここでは一族全ての者が家族であり、親子であり、兄弟である。一族の女たちは幼い頃に都の北の霊山にある修行場へと行き、俗世から完全に離れて生活する。 美砂樹や津名魅ももちろん例外ではなく、事実美砂樹はその地にあってかなりの才能を認められていた。しかし美砂樹自身はお世辞にも修行熱心とは言えず、修行場を抜け出しては大人たちの頭を悩ませてばかりいたのであった。 終いには巫女たちの手にも負えなくなって、 「あの子には堅苦しい儀式や祝詞を覚えさせるのは無理なようです。」 「性格が・・・ですか?」 「ええ・・・あのように落ち着きがないもので・・・素直な子なのですが神職には不向きかと。」 「それならば皇家に嫁がせましょう。いずれ誰かが皇家に入ることになっているのですから。」 「そうですね、それが習わしですから。」 と、一転して妃教育を受けることになったのであった。 それでもまた大人しくはなかろうと皆思っていたが、『お妃さまになる』という憧れが美砂樹にもあったようで、決して大人しくはないにせよ、巫女の修行場ほどには手を焼かすことはなくなったのだった。 一方、津名魅も幼い頃から巫女としての才を示しており、生まれながらにして纏っていた神秘的な雰囲気と相俟って、次の第一位の巫女にと期待されていた。幼い津名魅にはそれがどのような意味を持つかわかろうはずもなかった。だが、巫女の修行は嫌いではなかったし、大人たちも喜んでいるのでそれでいいのだろうと疑問を抱くこともなかった。 美砂樹、津名魅。いやこの家に生まれた全ての者が幼いうちから定められた道を歩くことを自然なこととしていたのであった。 太陽のように周囲に明るさを振る舞っていた美砂樹がいなくなった三条邸は、入内という大行事の後のなにか気が抜けてしまったような寂しさと、もう邸に響くことのない美砂樹の笑い声のみが耳に残って空虚な静けさを招き、秋の深まりとともに神寂びていった。 津名魅は美砂樹を慕って、過ぎた日々を偲ぶことが少なくなかった。しかし皇妃にみだりに文など、と文を送ることも許されなかった。 そして去る人は日々に疎い。忘れることに慣れてしまった大人たちと違い、部屋の片隅に残された毬を見るたびに、あの声を、あの姿を思い返していたが、やがて寂しさが日々の生活に薄められて、渡せなかった文に切なさを閉じ込めて、時の流れのままに諾々と暮らしてゆくほかなかった。 美砂樹の入内からひとつの冬を越えた。 この頃、樹雷皇宮では新しい皇妃である美砂樹もようやく皆に受け入れられつつあり、また、名家・真備家の嫡子で、現第一皇妃の弟君である真備清音が参内し始めるなど、人々を楽しませる明るい話題に事欠かなかった。 そして、藤の花が色鮮やかな房を垂れる季節。津名魅は皇宮付き第二位の巫女として参内した。 初めて訪れる壮麗な佇まいと、行き交う雅人たちに、ともすれば気圧される。さらに自分のような小娘が第二位の巫女になるなど、という正体のない罪悪感に苛まれる心もあった。 (いけない、心を鎮めて) そう自分に言い聞かせて、呼吸を整える。それでも表情からも、身体からも、堅さが抜けきることはなかった。 やがて、任命の儀の時が迫った。案内の女官に先導せれ、貴族や神官たちの待つ広間へと向う。 皇宮の廊下を渡る間、津名魅は波立つ心を落ち着かせようと苦心していた。そのせいで、やや周囲への注意が散漫になってしまっていた。 そこへ。 「津名魅ちゃん!」 津名魅は突然投げかけられた声が誰のものか、どこから聞こえてくるのかわからない。 「津名魅ちゃ〜ん!!」 そして、気が付くと誰かに抱きしめられていた。目に映るのは美しく流れる絹糸のような髪。頬に感じるのは柔らかい女性の胸。全身には懐かしい声と匂いを湛えた温かさが、今の状況を全て忘れさせた。 「美砂樹・・・姉様?」 ようやく自分を抱きしめていた人の顔を見ることが出来たとき、津名魅は思わず呼び慣れた呼び方で皇妃を呼んでいた。それも無理のないことであった。第二皇妃として入内して以来、一度も会っていなかった美砂樹が、あの変わらない輝くような笑顔で津名魅を迎えてくれたのだから。 「会いたかったわ〜、津名魅ちゃん!! 元気だった?」 「姉様こそ・・・会いたかった・・・。」 「嬉しいわ、津名魅ちゃんも皇宮に来れるようになって! これでまた・・・」 そこへ、鋭い叱責の声が飛んだ。 「美砂樹様! いったい何をしておられるのですか!」 息を切らした年嵩の女官である。どうやら美砂樹皇妃の後を追ってきたらしく、美砂樹皇妃はその女官を見るなり無意識に津名魅の背後に隠れるような仕種をしている。 「間もなく式も始まるというのに勝手に抜け出されて、早くお戻り下さい!」 「ううっ、だ、だって・・・」 「さあ早く! 巫女様、申し訳ありませんでした。」 美砂樹皇妃を追い立てつつ、津名魅に詫びている。 「津名魅ちゃ〜ん、また後でね〜〜!」 「美砂樹様!!」 そうして騒がしくも美砂樹皇妃は去って行かれた。 津名魅はやや呆気に取られつつ、遠ざかる美砂樹皇妃の姿を目で追い続けた。 (美砂樹姉様・・・変わってない) そう思うと自然に笑みが浮かびあがってくる。 身に着けていた、皇妃にふさわしく煌びやかな衣装を除けば、美砂樹は何も変わっていなかった。あの笑顔も、泣き顔まじりの声も。そして心も。この屈託の無さを津名魅は嬉しく感じていた。 気が付くと先程まで身体の内側に張り詰めていた見えない糸はどこへともなく消え去り、気分はどこか高揚してさえいる。 津名魅はそのまま任命の儀に臨むことが出来た。そして広間の最も高い席にはあのにこやかな笑顔がまた迎えてくれていたのだった。 津名魅が樹雷皇宮に出入りするようになってようやく二月(ふたつき)あまりが過ぎた。不慣れであった皇宮にも徐々に馴染みつつあり、務めの合間に庭に降りて、美しく造られた庭を眺める余裕も持てるようになってきていた。 池から遣り水へと澄んだ水の流れゆくさま、それに白い影を映す橘の花の輝きに目を楽します。 花びらが零れて、流れのままにゆっくりと運ばれて行くのを見れば、先にはなにがあるのかと、つい後を追ってみたくなる。 そんなふうに庭の景色を見ているところへ、不思議な客が訪れた。 「みゃ〜・・・」 猫の鳴き声が聞こえたように思い、周囲を見回してみると、橘の下を小猫が歩いている。 津名魅は興味をひかれて、猫を驚かさないように気を配りつつ静かに歩み寄った。 「おいでおいで」 「みゃう?」 優しく呼びかけると、その猫は首をかしげながらも近寄ってきた。 鳴き声は猫のようであったが、どうやら津名魅の知らない動物であるらしく、今まで見聞きした生き物の姿にあてはまるものはない。それでもあまりに可愛らしい様子なので膝をついて抱き上げた。人を怖がらないのか、暴れることもなく大人しくしている。 「不思議な子・・・。でも可愛いわ。」 「みゃ〜ん」 「どこから来たの?」 「みゃみゃ?」 そう尋ねたところ、急になにかを思い出したかのように津名魅の手から飛び降りた。 「待って、どこへ行くの?」 あまり出歩いて人目に触れるようになるのは禁じられているのだが、津名魅はその子がどこから来たのか気になって、追いかけた。 猫は真っ直ぐ駆けたかと思うと、ときどき踵を返して別な方向へと走り行く。またときどき立ち止まっては、何かを探すように辺り見回したりしていたので、津名魅は歩きながらでも後を付いていくことが出来た。 遣り水に沿うようにして猫が歩む。 ふとたゆたう水面に目を落とせば、先ほどの場所から流れてきたとおぼしき橘の花びらが白い先駆となって流れのまにまに浮かれ行く。 そうして誘われるままに足を向わせると、遣り水を越えた向かい側に人の姿があった。 「みゃーん!」 「魎皇鬼、どこへ行っていたの? 迷って・・・あら?」 鳴き声に呼ばれた少女が、猫を追ってきた津名魅に気が付いたらしい。 津名魅が声を掛けそびれていると、向こうから言葉を掛けてきた。 「貴女は確か巫女の津名魅殿?」 「は、はい。私をご存知なのですか?」 「まあね、貴女はその歳で皇宮の巫女になられた方だし・・・なにより私の知らない人なんかこの皇宮にはいないわよ。」 自信ありげに言うが年の頃は津名魅とあまり変わらないように見える。赤い髪を束ね、手には日の丸の扇を持ち、身に着けた装束は文官のよう。それでいて女官にも見えず、いったい何者なのか測りかねる姿である。 それでも年の近い少女ということもあって、津名魅はやや安心していた。 「私は鷲羽よ。津名魅殿。」 「鷲羽様ですか。はじめまして、どうぞよろしくお願いいたします。」 「みゃう、みゃあ」 挨拶を交わす二人の足元で、魎皇鬼は後ろ足で立ち上がり、前足を鷲羽に向けてしきりに伸ばしていた。どうやら目の前の遣り水に堰かれて、鷲羽の元に行けない様子である。 津名魅は魎皇鬼を抱き上げ、鷲羽に差し出した。 「この子は鷲羽様の?」 「ええ。その子は魎皇鬼。どこへ行ったかと探していたところなの。」 鷲羽に向けて伸ばした津名魅の手のひらから、魎皇鬼は身軽に鷲羽の手の中へと飛び移った。そして津名魅に向き直って鳴いた。 「みゃ〜ん!」 「津名魅殿に御礼を言ってるのよ。」 「お利口ね、あなたは。」 そう言って魎皇鬼に微笑み掛けると、魎皇鬼は津名魅の言葉が判ったかのように嬉しそうに答えた。 「みゃあ!」 皆微笑み合って、やがて別れた。 わずかにこれだけの出会いであった。 これが後に、互いに知音となる者たちの初めての出会いであったとは、人と人の巡り合わせほど運命的で、不思議なものはない。 それから、しばらく時が経って。 津名魅が鷲羽をお茶に誘った事からか、それとも鷲羽が津名魅を連れて皇宮内を案内した事からなのか、なにが切っ掛けとなったかは判らないが、津名魅と鷲羽は日を追う毎に親しくなっていった。 津名魅は役目のある時しか皇宮にいないのだが、魎皇鬼の一件以来、皇宮に参内した日で鷲羽に会わない日はほとんどない。 二人が会う場所はたいていにおいて津名魅のいる控えの間である。津名魅が部屋に一人でいると、どこからともなく魎皇鬼が現れたり、声が聞こえてきたりするのである。そして今日も。 「津・名・魅☆」 「え?」 部屋の中には津名魅独りで、他には女官の姿もない。そもそも、皇宮で津名魅を呼び捨てにする者など一人だけである。 「ここよ、ここ。」 そう言って部屋の隅にあった唐櫃の蓋が持ち上がり、見慣れた赤い髪が覗いた。しかし、顔は見慣れぬ恐ろしき面相で、並みの者ならあまりの驚きに息を呑まんばかりの有り様である。 「いらっしゃい、鷲羽。」 「少しは驚きなさいよ、張り合いのない。」 はたしてそれは鬼とおぼしき面をかぶった鷲羽であった。 初めて見る面ではあったが、津名魅はもう慣れて驚かない。いつものことなのである。 「今日はいったいなんのお面なの?」 「これにはねえ、こんな話があるの。昔、とあるところに仲の良い夫婦が住んでいたのよ。あるとき、夫がしばらくの間働きに出なければいけなくなって・・・」 面を外しながら鷲羽の口舌が冴える。鷲羽の現われ方はいつも変わっていた。そもそも津名魅の居る所は用もなく立ち入ることを禁じられていて、女性である鷲羽であってもいちいち許しを得なければならない。そんな面倒なことを鷲羽がするはずもなく、忍び込むことが常となっていた。そして忍び込んでくるときは必ず何かしらおかしな被り物をして現れるのである。そうしてまずその被り物の説明から鷲羽の話が始まるのであった。 「・・・というわけなのよ。わかるでしょう?」 「お面の由来は判ったけど、被って来た理由はわからないわ。」 「え〜? しょうがないわねえ、つまり、要するに、」 やれやれと、いかにもしょうがないという様子で話す鷲羽だが、仕種は芝居がかっていて、どこか楽しげに見える。津名魅にしても、説明を受け続けたところでいまだかって被り物の意味はわかったことはない。それでも津名魅にとって鷲羽の話はとても面白く、共に過ごす時間は大切なものであった。 |