源氏無用物語
【葵】 〜阿重霞なる〜
さて、この麗しき天地の君の北の方−つまり正妻はときの左大臣の娘で気高く美しいと噂の阿重霞姫であった。
この姫は噂に違わず美しく、艶やかな黒髪、紅玉とみまごうばかりの深紅の瞳、そして樹雷皇家の血をひく高潔な気性。
まさに誰もがうらやむ素晴らしき女性なのだが・・・なぜか天地の君との夫婦生活は
おせじにもうまくいっているとは言い難かった。
「天地様、昨日文を差し上げていた方はどなたですの。」
「え、えーとあれは何でもない、そ、そう親友の中将に・・・」
「嘘をおっしゃらないで下さい!私、ちゃんと存知あげておりますのよ!」
「いや、だからつまりその・・・・」
「天地様は私では物足りないとおっしゃるのね。樹雷皇家の血を引き、左大臣の娘である私を・・・」
と言ってさめざめと泣くのである。
決して天地の君は阿重霞姫を軽んじても嫌ってもいないし、阿重霞姫の方でも天地の君を嫌悪しているわけではなかった。むしろ、父大臣の力で数ある女性をおしのけ、天地の君の正妻の座を手にしたのだ。好いてこそあれ、の乙女の切なる行動であった。
ではなぜにうまくいかないかというと、この国の結婚様式が男の通い婚であったからである。つまりは複数の妻をもつことが当然であるため、姫の高い自尊心と天地の君の生来の優しさ(優柔不断とも言う)があいまって互いに心ならずも不和な夫婦を演じてしまうのだった。
「姫、決してそのような気持ちはありません。どうか私の真心を信じて下さい。」
「ほんとうに信じてよろしいのですか?」
「もちろんですとも!」
「天地様・・・・・」
「阿重霞姫・・・・」
二人の影がゆっくりと寄り添う。天地の君は阿重霞姫の肩に手を回し、滑らかなおとがいから視線を移してそっと唇をひきよせる・・・・。
と、そのとき御簾を隔てた廊下より、
「天地の君様、さる御方より文が届いております。」
召使いの声である。
すっかり水をさされて阿重霞姫はまた機嫌を悪くした。
(なによもう。いいところだったのに・・・・)
間が悪いので天地の君はとりあえず文を読んだ。
(こ、この筆跡はもしや・・・)
すばやく文を懐に入れると阿重霞姫に告げた。
「申し訳ありません。急に皇宮に参らなければならなくなりました。皇のお召しなのです。」
阿重霞姫は不満に思ったが皇のお召しとあっては仕方がない。無理に引き留め、皇の怒りにふれれば天地の君といえどもただではすまない。
「・・・皇のお召しならいたしかたありません。でも天地様、御用が済みましたら直ぐに阿重霞の所に戻ってきてくださいね。」
「わかっております。できるだけ早く戻るようにいたします。ですが、もう夜も更けた。先にお休みになって下さい。」
「いえ、天地様がお戻りになるまでまっておりますわ。夫が出仕しているのに妻の私が休むわけには参りません。どうかお気をつけて・・・」
一度言い出したらそう簡単には考えを変えない女性と知っていたので天地の君は仕方なく、
「わ、わかりました。あまりご無理をなさらぬよう。それでは。」
先ほどの喧嘩が嘘であったように優しい微笑みを浮かべ自分を見送る阿重霞に天地の君は心の中でそっと謝った。
(阿重霞姫、許して下さい)
天地の君は後ろめたさを感じつつも、これから行く所への期待に歩を早めるのだった。
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