源氏無用物語

【賢木】 〜六条の御息所〜





 都の六条には皇家ゆかりの女性が女主として住んでいた。先皇の御妹にあたられる方で、若かりし日は並ぶ者なしと噂されるほど美しかった。時が過ぎた今でも昔ほどではないが、かなりの美貌の持ち主であった。
 人はこの方を六条の御息所(みやすんどころ)とよんだ。



 この六条の邸に一人の貴公子が訪れた。
 天地の君である。前にここを訪れてから秋と冬が流れ、今また春も去ろうとしている・・・天地の君は今までの人生でも移ろいの激しかったこの一年の出来事を思い返していた。
 梅雨が近づきつつある曇り空の日のことであった。



「御息所、お久しゅうございます。」
「全くです。天地の君はますます素晴らしい殿方になられた・・・」

 と御簾ごしに挨拶をかわした。

「なにをおっしゃられる。貴女が都をさられたのは昨年の神無月のことではありませんか。」
「そうでしたね。あれからまだ一年も経っていないのですね・・・。私にはもうずいぶんと昔のことのように思われます。」
「御息所・・・」



 話は昨年の天津川の祭りのときまでさかのぼる。
天地の君が物の怪を退治する勅命をうけ、その出陣の儀が行われたときのことであった。
 天津川に沿って行進する天地の君を一目見んとする大衆で河原は溢れ返った。
 左大臣の姫君も例外ではなかった。
 自分の許嫁が戦いに赴く姿をなんで見ずにおられようか。しかし、運悪く邸を出遅れたためどこにも車をたてるところがなかった。仕方なく悪いこととは知りつつも、自分より身分の低い車を押しのけて強引に車をたててしまった。
 そのとき押しのけられた車の主が六条の御息所であった。
いかにときの左大臣の娘とはいえ、世が世なら后の位すら持ち得た自分がおとしめ、辱められたとの念は振り払えなかった。
 ましてや、その相手が天地の君の正妻となるべき女性だとしたら・・・。
 そして天地の君が見事物の怪を調伏し、無事に戻られた頃、六条の御息所は都から姿を消していた。
 天地の君は車争いの件を聞き、御息所にお詫びしたいと思ったが、もはや遅かった。
 何故御息所が何も言わずに会うのを避けるが如く去っていったか−−−それは天地の君が左大臣家の婿として御息所に謝りに来るのを恐れてのことであった。



 今、天地の君も御息所の心を感じとり、あえて詫びることをしないのだった。

「ところで御息所、私にお話とは何でしょうか。」
「じつは私の娘のことなのですが・・・天地の君は覚えていられるでしょうか?貴方さまと同い年で五つの頃まで皇宮で一緒に遊んだ姫を・・・」
「え?」

 突然のことに天地の君は戸惑った。
 幼い頃自分のそばにいつも居た姫・・・・確かに覚えはあるがどんな娘だったかは思い出せない。

「覚えはあるのですが、記憶がいまひとつはっきりしません。」
「そうですか・・・・まあ、むりもないでしょうね。」
「その方がどうかなされましたか?」
「皇宮をでた後、あの娘は遠く明石の地で育てられました。この度、私とともに都に戻って参りました。」
「それはおめでたく存じます。」
「そこで天地の君に私からたっての頼みがあります。」
「なんでしょうか?御息所のたっての願いとあらば、なんなりと。」
「姫をもらっては下さりませんか。」
「は?」
「貴方様の妻として姫を迎えては下さりませんか、と申しているのです。」
「ええっ!!い、いやしかしそれは・・・」
「今しがた『なんなりと』とおっしゃってくれたではありませんか。」
「そ、それはそうですが・・しかし・・」
「これは私の一存ではありません。姫自身の願いでもあるのです。姫は貴方様と離れた後も忘れることなく今日まで想い続けてきたのです。」
「え・・・」
「聞けば天地の君の妻はいまだ左大臣の姫ひとりとか。天地の君程のお方なら、なんの不都合もございますまい。」

 このとき、天地の君の脳裏には阿重霞姫と砂沙美姫の怒った顔と、あの方の寂しげな顔が交互によぎった。

「無理にとは申しません。ですが、せめて姫に会ってはくださりませんか?」
「・・・承知しました。」
「姫の名は魎呼。魎呼姫です。」


 そして天地の君は姫の部屋のある東の対に案内された。
 十数年ぶりの再会は二人の間に何をもたらすのだろうか。





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