源氏無用物語

【舟琴】 〜いにしえの響み〜





 朝晩に霜の姿がほのかに現れ来るようになった。白銀の洗礼を浴びて木々の葉はますます紅葉し、やがて儚くも枯れ散ってゆく。天に届くばかりの大樹も、時が移りゆけば、そこにあったという跡さえもなくいずれ消え去ってゆくのだろうか。



 朝陽のまだ低く、霜の影の残る庭に琴の音が響いている。懐かしき音色の鳴り渡り、人ならぬ者さえもともすれば楽に心を奪われかねないのではと思われる。

 天地の君が目を覚ましたとき、まず耳に入ったのは琴の音色であった。身体を起こすと、わずかに離れた部屋の、几帳の向こうから響いてくるとわかる。天地の君はその調べに導かれるように起き上がり、いつものように身支度を整え始めた。

 顔を清め、髪と装束を整えた後、挨拶を交わす。

「おはようございます。」
「おはようございます、天地様。」

 几帳の向こうでは、やはり思った通り阿重霞姫が琴を弾いていた。当世の左大臣家の姫君は幼い頃から楽を愛され、その御手は第一皇妃、六条の御息所と並ぶ名手と噂されるほどであった。
 天地の君が阿重霞姫の御手を誉めると、阿重霞姫は恥ずかしそうにして、はぐらかすように言葉を紡いだ。

「天地様は『枯野』という名の琴をご存知ですか?」
「いえ、知りません。」

 阿重霞姫は琴を弾く手を休めることなく話を続けた。

「樹雷皇家に伝わる、古き大樹から作られた琴があるそうです。今ではあまり人目に触れることも少なくなったのですが、とても素晴らしい音を奏でるといわれています。」
「へえ・・・それは初耳です。」

 皇宮に長く出入りしている自分にも知らない名器があったとは、と天地の君はやや驚いた様子であった。

「一度、弾いてみたいものですわ。」

 瞼を閉じて、また琴の方へと心を込める阿重霞姫。白く透き通った手が張りつめた弦を弾いて空気を震わす。その様子も普段より勝って麗しい。やや前へと傾けた背に緩やかに流れる長い黒髪も滑らかに、たとえあの髪に露が零れてもそのまま白玉となって滑りゆくのではないかと思われるほどである。
 天地の君はそのまま皇宮に出掛けるまでの時間を琴の音色とともに過ごした。









 二人の貴公子が肩を並べて皇宮の廊を進んで行く。
 途中、すれ違った女官たちが見惚れるように振り返っているのもこの御二方なれば、と思われる。
 皇宮へ参内した天地の君はちょうど出仕してきた清音の中将と出会い、いつものように様々な話をしながら歩を進める。
 ちょうど御池庭に面した渡殿にさしかかった頃、雅なる風が耳に届いた。幽かに、震えるように響く音、まぎれもなく琴の音色である。
 天地の君は今朝阿重霞姫から聞いたことを思い出し、清音の中将に尋ねてみたく思った。

「中将は枯野という名の琴をご存知ですか?」
「枯野というと皇家の宝物のひとつに数えられているあの琴のことですか?大層見事な音色を響かせると聞いていますが。」
「聴いたことがあるのですか?」
「いえ、話だけです。」

 やはりそうおいそれと聴けるものではないのかと天地の君が思っていると。

「どうしたのです、急に?」
「いえ、じつは今朝・・・」

 天地の君は先程の阿重霞姫との会話を清音の中将に語って聞かせた。
 ところがどういうわけか清音の中将は話を聞くうちに気分を害したようで、話を聞き終わった途端、

「用事を思い出しましたので。」

 とばかり言い残してさっさと先に行ってしまった。

(なによ、阿重霞姫、阿重霞姫、って・・・!)

 せめて清音の中将が女性であると判っていれば天地の君も何か感づいたであろうが、天地の君は親友の貴公子がなぜ怒ったのかさっぱり判っていなかった。せいぜい、

(なにか気に障ることを言ったかな?)

 この程度であった。





 一人残された天地の君は所在なげに楽に耳を傾けていた。
 奏でられている曲の名は判らなかったが、どこかで聴いたことがあるような、不思議な懐かしさを感じさせる響み(とよみ)であった。

「誰が弾いているんだろうなあ・・・」

 ぼんやりと他愛の無いことを思い浮かべていると、こちらに見慣れた人影が向ってくるのが見てとれた。色の少なくなった季節に赤い髪が殊更に映えて見える。

「あ〜ら天地殿、こんなところで何を呆けてるの?」

 開口一番、思わず苦笑を返すほか無い挨拶である。

「珍しくまともに現れたと思ったらこれだもんなあ。」
「なによ、それじゃ普段はまともじゃないと言ってるみたいじゃないの。」

 鷲羽の典侍は自覚が足りなかった。

「鷲羽ちゃんは枯野って知ってる?」
「琴の枯野?なら知ってるわよ。なにせ謂れのある楽器だものね。」
「いわれ?」
「あら知らないの?なんなら説明してあげましょうか。」

 天地の君が肯くと、鷲羽の典侍は嬉しそうに説明を始めた。

「神代(かみよ)の頃、一本の巨きな樹があった。その影はひとつの山を越して届くほどであったという。あるとき神託があり、その樹を切って一艘の船を造ったところ、美しくもおそろしい船が生まれ、その船は矢のように疾く進んで皇の言葉を各地へ運んだ。しかし、その船にもとうとう寿命が尽きる日が来てしまった。そこで船を薪として燃やしたのだけどどうしても焼けない芯が残った。不思議に思った皇はその芯で琴を作らせた。その琴は七里に渡って鳴り響いた───その琴の名を曰く、枯野と呼ぶ、ってわけよ。」

 天地の君が感心しながらその話を聞いている間も、懐かしい響みは絶えること無く辺りに鳴り渡っていた。










 その日の夜、天地の君は自邸である二条邸へと帰っていた。
 いつものように砂沙美姫が用意してくれた夕餉を共にして、寝る前までなにくれとなく話をする。
 こんな時間が砂沙美姫はもちろんのこと、天地の君も好きであった。特に、このところ天地の君はわけあって左大臣邸や六条邸に泊まる日が続いたので、砂沙美姫とこうしてくつろぐのもやや久しぶりという気がする。

 砂沙美姫は天地の君の隣に腰を下ろし、心持ち身体を天地の君に持たれかけている。

「あのね、天地兄ちゃん」
「なんだい?」
「砂沙美ね、ここしばらく管弦のお勉強してたんだ。」
「それはすごいな、ちょっと聴かせてくれるかい?」

 砂沙美姫はうんと小さく肯くと、楽器の用意をしに駆けて行った。
 ほどなくして支度が整うと、果たしてその楽器は筝の琴であった。

「まだ全然上手く弾けないんだけど。」

 と恥ずかしそうに言うと、やや緊張した様子でゆっくりと弦を弾きはじめた。まだ未熟ながら柔らかい調子で、身体に比べて大きい琴を真剣に演奏する姿も愛らしく思えた。


 天地の君はそんな砂沙美姫を眺めながら、今日は琴に縁のある日だと心の内で思っていた。
 砂沙美姫の奏でる琴の音は昼間の琴の音・・・そして在りし日の母の琴の音を思い出させた。天地の君は砂沙美姫の琴を聴きながらおぼろげなる母の記憶へと心を漂わせていった。





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