源氏無用物語

【朧月夜】 〜扇の君〜





 春。冬は去り、穏やかな日差しが心地よく感じられ、一年でもっとも花々の美しい季節がやってきた。
 皇宮では桜が見事に咲き誇り、桜の宴が催されることとなった。昼を少し過ぎた時刻から始まった宴は日が暮れた後も興が尽きず、そのまま夜になっても続けられていた。

 天地の君は夕暮れの頃から宴に参じていたが、酒はあまり飲むつもりではなかった。ただ、桜の美しい色を友と愛でていようという考えだったのだが、運悪く剣術指南の勝仁につかまり無理矢理に飲まされてしまったのだった。








 酔いを醒ますべく夜桜を眺めながら皇宮の庭を歩いていた。空には月が懸かり、風雅な有り様であった。
 月を見るたびに天地の君は一人の女性を思い出す。そう、あの夏の夜に出会った撫子の姫である。あの後今日までなんの手がかりもつかめなかった。だが天地の君はまた撫子に逢えることを予感していた。何故かはわからない。ただ、漠然とそのような気がするだけなのだ。それとも天地の君は無意識のうちに何かを感じとっていたのだろうか。



 頭の弁は宴で酒を呷りながらも不機嫌な様子であった。さきほど天地の君が貴族達に囲まれ酒を飲んでいるところを見て夏の夜の管弦の遊びを思い出してしまったのだ。

(あの男め、どうやって九羅密卿にとりいったのだ・・・!)

 頭の弁はまた杯を傾けた。




 一人庭を歩いていた天地の君はいつのまにか皇の後宮のそばまで来ていた。

(これはいけない。これ以上近寄るとあらぬ噂をたてられぬとも限らないしな。)

 そう思い、引き返そうととした天地の君の耳に美しい笛の音が聴こえてきた。聞き覚えのある旋律−−−そうこれはあの扇の君の笛の音であった。天地の君はどこからこの笛が聞こえてくるのかと辺りを見回したところ、どうやら後宮の側仕えの者の控所から聞こえてくるようである。

(危険だが・・・後宮からはやや離れているし大丈夫だろう。)

 天地の君はこっそりと控所に近づくと耳をそばだてた。
 笛の音は確かにこの中から聞こえてくる。そして近くで聴けばこの音色は撫子のものとしか思えない。天地の君は意を決すると物音を立てないように建物の中に忍び入った。

 控所の中は人の気配がなく、ただ風流な笛の音だけが響いていた。やがて笛の音の主が居るとおぼしき部屋にたどり着くと障子をわずかに開けて、中を覗き見た。すると月明かりに照らされながら笛を吹く美しい髪の女性が居た。天地の君は撫子に間違いないと思ったが、万一の人違いを懸念して、直接声をかけずに自分の扇にあの夜、撫子が残した歌を途中まで書いて渡すことにした。
 開けた障子の隙間から『忍びつつ 胸を惑はす 我が恋に』と書いた扇を差し入れ、わずかに音を立てた。
 すると、笛の主はこちらに気がついた様子で月明かりが入り込んでいた窓を閉め、ゆっくりとやってきて扇を手に取った。そして再び窓際に戻り扇を見ているようであった。
 しばらくしてその女性が扇を障子の隙間より差し出してきた。そこにはあの美しい字で『巡り逢ひたる 夏の夜の夢』と書き加えてあった。天地の君は撫子に間違いないとわかり、嬉しさにまかせてすぐにでも部屋に入って行きたかったが、努めて心を抑えて静かに声をかけた。

「桜の美しさに酔って月に誘われるままにここに来てしまいました。どうかしばらくここで休ませていただけませんか。」

 するとあの時のように消え入りそうな声で、

「・・・どうぞお入り下さい」

 と返事があった。天地の君はそっと障子を開け、撫子に近づいていった。










 宴の席ではいまだ多くの人々が飲み、歌い、騒いでいた。

「そういえば天地の君の姿が見えませんな?」
「さきほど酔いを覚ましてくると言って散歩に行ったようじゃが。」

(ふん。あんな奴、どこかでのたれ死んでおればよいのだ。)

 頭の弁は口に出さずに悪態をついた。この頭の弁という男は家柄・身分など恵まれた人物であったのだが、生来の嫉妬深さのため皇宮の人々からはあまり良く思われていなかった。
 そもそも天地の君を恨むようになったのは天地の君が左大臣の姫・阿重霞姫と婚約したことであった。かつて頭の弁は都でも指折りの美女と噂の高かった阿重霞姫をもらい受けたく左大臣に申し込んだのだが、左大臣は頭の弁の人柄をあまり好ましくなく思っており、かつ阿重霞姫が天地の君に想いを寄せていたのを知っていたので阿重霞姫には知らせることなく断ったのであった。
 このことがあって以来何かにつけて天地の君を敵視するようになってしまったのである。






 中天の月は傾き、夜はますます更けてゆく・・・




 天地の君は撫子の白い肩を抱きながら囁く。

「貴女はいったいどなたなのです・・・顔すらよく見せてくれはしない」
「・・・恥ずかしくて・・・」
「私はあれから貴女を捜していたのですよ。ですが見つけられなかった・・・」

 撫子は天地の君に背中から抱かれたまま、振り向こうとしない。部屋の中はなんの明かりもなく、たとえ振り向いたとしてもよく見えないであろう。それでも、撫子は天地の君と向かい会おうとはしないのだった。

「お許し下さい・・・天地の君さま・・・」

 かたくなに素性を隠す撫子。
 しかし、天はそれを認めてはくれなかった。先刻月明かりを閉め出し、薄暗かった部屋にわずかながら月明かりが戻ってきた。いつのまにか月が移動し、欄間から光が差し込んだのである。
 その瞬間、天地の君は撫子の横顔を見てしまった。初めてみる顔ならわからなかっただろう。しかし、その顔はあまりにも見慣れていた顔であった。

「ち・・・中将?」

 思わず漏らした声に撫子の身体が激しく動揺した。天地の君は信じ難い思いで撫子を力づくで振り向かせた。そこには・・・涙を湛えた清音の中将の顔があった。

「中将・・・貴女は清音の中将なのですか?」
「て、天地の君・・・申し訳ありません・・・」

 涙をこぼしながら撫子・・・いや清音の中将は天地の君に詫びていた。

「私は・・・耐えられなかったのです・・・貴方と・・・貴方と女としてお逢いしたかった・・・」

 それだけ言うのが精一杯であった。涙が頬を伝い、嗚咽が漏れ出る。心は千々に乱れ、言葉にならない。

「ち・・・中将・・・」

 天地の君もまた驚きのあまり言葉がでない。あまりにも、あまりにも予想をこえた撫子の正体にただ清音の中将を見つめることしか出来なかった。
 その様子を見ても清音は心がまどい、乱れた。

(私は天地の君を騙し、裏切った・・・親友としても女としても・・・)

 長い間親友として分け隔てなくつきあい、共有した時間、そして誰よりも寄せてくれた信頼。二度の短い逢瀬の中で感じられた天地の君の優しさ、男らしさ、そして恋という愛情。それら全てを失う時が来たのだ・・・!
 はじめからから分かっていたのだ、いつかこのような日が来ると言うことは。素性を隠したままの逢瀬などいつまでも続けられるわけがない。だが、そうとわかっていながらもこの狂おしいほどの想いをとどめることは出来なかった。
 あの夏の夜・・・一度だけと心に言い聞かせながら天地の君を誘い、愛し合った。しかしその後も天地の君への恋慕の情は尽きることなく更に燃えさかった。あの夜、もっと弱く抱きしめてくれたのなら・・・あるいは思い切ることが出来たかも知れない。
 あのぬくもりにもう一度、もう一度触れたい・・・。
 だから。
 再び天地の君を誘い出してしまった。
 清音は乱れた衣を手で押さえながら、ただ泣いていた。天地の君に申し訳なく、このまま死に絶えてしまいたいという思いが心を占めていた。

 天地の君は清音の泣いている様を見て、心に強い痛みを覚えていた。清音が今までどれほど悩み、苦しんでいたか自分はまるで気づいてやれなかった。あれほど近くにいたというのに。今更ながら自分の愚鈍さがくやしく思われる。

(私はこの女性を失いたくない、中将も撫子も・・・!)

 天地の君は清音を抱きしめ、強く言った。

「貴女と過ごした時間はいつも楽しかった・・・そしてこれからも貴女と楽しい時を過ごしたい。どうか私に貴女を失わせないでくれ。」

 清音は天地の君の言葉に耳を疑った。まさかそのような言葉が聞けるとは夢にも思わなかった。自分のした行為を天地の君は恨んではいないのだろうか。清音はようやく言葉を口にした。

「私はずっと天地の君を欺いてきたのですよ・・・そんな私をどうして・・・」
「欺かれていたとは思っていません。それに何より・・・今までの貴女との日々をまぼろしにしたくない。」
「でも、私は、私は・・・」
「どうか・・・。お願いです。」
「天地の君・・・。」
「貴女を失いたくないのです。」

 天地の君の言葉に清音はまた涙を流していた。しかしそれは悲しみの涙ではなかった。天地の君に抱きしめられながら清音はそっとつぶやいた。

「夢なら・・覚めないで・・・」
「夢などではありませんよ・・・」

 天地の君は清音を抱きしめながらいとおしそうに髪を撫でていた。


乱れ落つ 嘆きの涙 消え去りぬ 朧月夜に 浮かぶまぼろし





 しかし刻はまだ二人を祝福してはいなかった・・・






 やがて夜明けが近づき、二人は戻らねばならなかった。清音はせめてと思い天地の君を戸口まで見送った。天地の君も名残が尽きず、振り返って声をかけた。

「また、逢えますよね。貴女に・・・」
「はい・・・」

 清音は微笑みながら恥ずかしそうに答えた。
 天地の君はその笑みを見て安心したように歩き出した。清音は柱にもたれ掛かりながら天地の君の背中を見送っていた。


 なんの因果であろうか。この恋人たちを見ていた者が居た。
 後宮の方向からかの天地の君が歩いてくるのを不審な思いで見ていると控所の戸口に女性が立っているのが見える。ここからでは離れていて顔は分からないが衣服からして高貴な女性らしい。何よりこの男が居る場所より向こうには何人も立ち入れぬはずであった。

 天地の君にとって不運だったのはこのような下仕えの者にもわかるほど有名であったことと、この男が頭の弁に仕えている者であることだった・・・。





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