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結局、東宮の妃選びは振り出しに戻った。 この方こそ、と思われていた右大臣家の姫君が候補から外されてしまったのである。その理由はどうにもはっきりと伝わってこないが、世の人々は政治的な所以であろうと目していた。事実、右大臣は思いがけず美砂樹皇妃の口添えを得たために、こたびの件にかなりな期待をかけていたらしく、その落胆ぶりは相当なものである。 右大臣にはお気の毒としか言いようがないが、右大臣をあまりよく思っていない多くの人々は安堵の溜息を漏らしていた。 天地の君はいつになく強張った面持ちで左大臣邸を訪れていた。さもありなん、これから阿重霞姫に美星姫との結婚の件を話すのだから。今回は六条の魎呼姫の時とは違って結婚の話はまだ世に広まっておらず、阿重霞姫も他所から噂に聞いたりしてはいないはずである。天地の君自身も当人の美星姫以外には誰にも話してはいない。 「今日は阿重霞姫にお話したいことがあります。」 「なんでしょう?」 「じつは・・・」 天地の君はやや緊張した口調で阿重霞姫に語り始めた。阿重霞姫は身じろぎ一つせず、天地の君の言葉に耳を傾けていた。 「・・・という次第です。」 話し終えた後、天地の君は憚るようにして阿重霞姫の様子を目に映す。 すると阿重霞姫は伏せがちにしていた瞳を天地の君に向け、静かな、それでいて確かな意志を宿した声を発した。 「天地様。」 一瞬、身を硬くする天地の君。 「自らお話に来て下さった御心、嬉しく思います。私の気持ちの整理はあの夏の夕べに出来ております。天地様ほどの方ですもの・・・当然のことですわ。」 「阿重霞姫・・・。」 気丈にも笑顔をつくって話す阿重霞姫の振る舞いに天地の君は胸が締め付けられるような痛みを感じて、思わず阿重霞姫にいざり寄った。 阿重霞姫は天地の君から離れるように身を傾け、隠れるように衣の袖で顔を覆う。そんな意識しない動作にも品位を損なわない。 「阿重霞姫、どうかこちらを向いてください。」 力なく逃げようとする阿重霞姫の瞳の端に光るものを見て、やや強引に肩を抱いて引き寄せる。抗うのをやめ、沈んだ気色ながら抱き寄せられているさまなどは美しく可憐であった。 「私・・・まだそれほど強くありません。」 「・・・・・・。」 「明日・・・明日になればきっといつものようになれますから・・・。」 「ならばそうなれるまで側にいます。」 腕の中で囁くように言う阿重霞姫が愛しくて、天地の君はそのまま何も言わずに抱きしめていた。 翌朝、阿重霞姫は昨夜の慰めと、もの思いするけだるい寝覚めに、なかなか床から起き出せなかった。天地の君も常になく遅く、昼過ぎてからようやく左大臣邸を後にしたのだった。 東宮の妃候補の談義の後、船穂皇妃は心を悩ませていた。談義は右大臣家の姫君が候補を外されて以来話が全く先に進んでおらず、それも悩みの種と言えなくもないが、それ以上に美砂樹皇妃のことが心配であった。 美砂樹皇妃は政治的な背景に囚われることなく、姫君自身が気に入って推していたのであるが、結局候補から外される運びとなってかなり意気消沈していたのである。 (なにか慰める方法はないかしら・・・。) と、考えを巡らせていたところ、唐突に美砂樹皇妃が現れた。 「お姉さま!」 並みの人物ならばあまりの唐突さに驚くところであるが、船穂皇妃は慣れた様子で、むしろ美砂樹皇妃が普段通りであることにやや驚いていた。 「どうしたの?ずいぶん機嫌が良いようですけど。」 「それがね、とおっっっても可愛らしい子を見つけたの!」 にこにこと嬉しそうに話す美砂樹皇妃を見て、船穂皇妃は自分の心配が杞憂であったことにほっとしていた。その後、美砂樹皇妃は日が暮れるまで熱心に船穂皇妃と話しこんでいたそうである。 皇宮で少女と出会ってから幾日か過ぎた物思いする午後、清音の中将は再三の美星姫からの呼び出しの文に折れ、九羅密邸へと車を向かわせていた。 道々、清音はあの日のことを思い返す。 「真備の中将様、ずっと、ずっとお慕い申し上げておりました・・・!」 いきなりの告白に普段から冷静な清音も驚いて、とっさに言葉が返せなかった。言葉を失った清音がなにか返事の言葉を紡ごうとするうちに、少女は今にも消え入りそうな声で言葉を続ける。 「天津川の祭りの折り・・・」 清音ははっとして少女の顔を見つめた。 「初めて・・・初めて中将様の御姿をお見かけしました。あの日から中将様のお姿が寝ても覚めても心の内より出て行かなくなってしまって・・・。決して叶わぬ道とは判っていたのに、どうしても・・振り切れなくて・・・来て、しまい・・ました・・・。」 最後の方は切れ切れとして言葉にならなかった。 瞳には清音の中将の姿を映し、必死で涙をとどめようとしている。 清音は返答に窮していた。いままでも幾度となく女性から言い寄られたことはあったが、このように真っ直ぐに、思い詰めた瞳をした女性は居なかった。 いや。 清音は思い返した。この瞳をかって見たことがあると。あの夏の日、湖畔に映った揺れ惑う瞳が、耐え難き想いを秘めた瞳がいままた目の前にあった。 「貴女の・・・名は?」 「蜻蛉、と呼んで下さい・・・。」 どうすべきか。とても口先でこの場を誤魔化すわけにはいかない。かと言って、清音の真実を告げるわけにもいかない。 「申し訳ありません・・・。私は・・・・」 そんな言葉が清音の口をついて出た。 蜻蛉と名乗った少女は無言で悲しそうに目を伏せた。 そして清音に背を向け、長く伸ばした黒髪を揺らして駆けていく。 清音はそれを追わなかった。 自分の姿を重ねるまでもなく、少女の純粋な想いは痛いほど感じられた。少女の心を傷つけるのは心苦しいがそれでも恋は同情で出来るものではないのだから。ましてや清音は女である。決して実ることのない恋なのだ。真実を告げるわけにもいかず、こうする以外に道はなかった。 (ごめんなさい・・・。) それ以来、どうにも自責の念にかられて、皇宮にも出仕せず邸に篭っていたのであるが、いつまでもこうしているわけにはいかないとようやく美星姫の呼び出しを受け入れて出掛けたのである。 しかし、九羅密邸で清音を待っているものは更なるもの思いの種であった。 九羅密邸に到着し、美星姫の部屋に来たあとも清音の中将は気が晴れない様子で、凛とした美しい横顔にも憂いが見て取れた。 一方の美星姫も清音の中将ほどではないにせよ、常とは違った様子である。 「あの〜ぉ、清音ぇ?」 「うん」 「あのぉ、なんていうか、」 「うん」 「私ね、今度ね、」 「うん」 いつもなら怒り出しかねない美星姫の要領を得ない話ぶりにも生返事ばかりである。 「天地の君様と、そのぉ、」 「うん」 「結婚するの!」 「うん・・・って、ええっ!!?」 さすがに聞き流せなかったらしく、清音の中将は否応なく美星姫の話に意識を向けた。 「今まで先延ばしになってたんだけど、須磨の件も落ち着いたし、そろそろかな〜って思ってたんだけど・・・」 清音は急に早まった胸の鼓動に目を背けながら、表向き平静を装って、祝いの言葉を述べる。 「お、おめでとう、美星。」 「えへへ、ありがとう、清音!」 美星姫は幸せそうにはにかんでいる。 (何も驚くことはないわ、覚悟していたものが来ただけなんだから。) 清音は必死にそう自分に言い聞かせて、美星姫に心の内を悟られないよう言葉を続けた。 「これからはあんまり来れなくなるわね。」 「え?どうして?」 「どうしてって、世間では私は男ってことになってるんだから人妻の所にそうそう出入りするわけにいかないでしょ?」 「そうなの?」 「そうなの!」 「そうなんだぁ・・・。」 清音はなんとか笑顔を保ってはいたが、身体の内では嫉妬、羨望、または罪悪感といった負の感情が黒く渦巻き、そんな自分自身への嫌悪すら感じて、このまま消え入ってしまいたく思われた。 「ねえ清音?」 「なによ」 「天地の君様って清音が女だってこと知ってるの?」 「な・・・何言ってんのよ!!知ってるわけないでしょ!!馬鹿なことばっかり言わないでよ!!」 「だってえ、もし天地の君様が清音が女だって知ってたら今まで通り会えるかな、って・・・」 「そんなに世の中うまくいくわけないわよ!!私、もう帰るわ!」 「あ、待って、清音!」 「天地の君に余計なこと言わないでよ!」 そう言い放って清音は美星姫の部屋から出ていった。後に残された美星姫はまだなにかを考えこんでいた。 九羅密邸から離れながらも、清音はどこへも行きたくなかった。なにもかも忘れて、全てを捨て去って、このままどこか見知らぬ地へ行ってしまい、そんな想いにかられていた。 身につけた男物の装束に滴がこぼれて染みを作る。それを見て清音はまたこの間の少女のことを思い出した。 あのとき、少女は泣いていた。清音の前では堪えていたものの、去り際に頬を伝って流れるものを清音は見てしまっていた。 少女のことを思い出しながら、清音は自分も天地の君と公に結ばれることは決してないという現実を突きつけられていた。 天地の君のことを忘れるか。それとも妻になれなくとも想い続けるか。 清音は今まで気づかないふりをしていたことに、自分の心に、決断をしなければならない刻が来たことを知った。 |