源氏無用物語

【尾花】 〜刻見えぬ夜〜





 皇宮へ戻ってみると、久しぶりの皇宮は心なしか賑やかに感じられる。ここでの時の流れは緩やかでともすれば退屈でもある。それゆえ女官たちはいつも下界の刺激に餓えていて、不思議なほど事情通な者も少なくない。

 この様子からすると何か興味をひく噂でも流れて来たのかも知れないと思いつつ、第二皇妃の局へと足を運んだ。
 その美砂樹皇妃のおられる御殿では、とある人物が皇妃の相手に苦労していた。

「ねっねっ、天地ちゃんの噂本当なの?」
「そういわれましても・・・(汗)」
「貴女なら知っているんでしょう?ねっ、鷲羽ちゃ〜ん!」
「・・・(^^;」

 鷲羽の典侍は困ったように頭を掻いた。いや、本当に困っているのかも知れない。天地の君をはじめとして、多くの人物を軽々と手玉に取っている鷲羽の典侍にも苦手とする人物がいたようである。
 じつを言えば鷲羽の典侍には二人ほど苦手と認める人物がいて、そのうちの一人が今目の前にいる第二皇妃・美砂樹であった。

「いえその、天地の君とは須磨から戻られてからあまり会っていないんで・・・」
「え〜〜〜〜・・・・」

 美砂樹は大きな瞳をうるうるさせて鷲羽を恨めしそうにみつめた。

(困ったねこりゃ・・・逃げられそうにないし・・・。かと言って本当のことを言っちゃねえ・・・)

 と、鷲羽の典侍がいかにこの場を乗り切るか考えを巡らせているところへ船穂皇妃がおいでになった。

「そう鷲羽殿を問い詰めてはお気の毒ですよ。ねえ、鷲羽殿?」
「船穂ど・・・」
「お姉さま!」

 鷲羽の典侍が言葉を言い切らないうちに、美砂樹皇妃は船穂皇妃に抱きついていた。その大胆な愛情表現から開放された頃には船穂皇妃のために用意されたお茶がすっかり冷めてしまっていたそうである。


 ようやく落ち着いた二人の皇妃は鷲羽の典侍を交えて久しぶりの会話に花を咲かせた。

「そうそう、お姉さまが里帰りなさっている間にとーっても面白い噂を仕入れたのよ。」

 美砂樹皇妃はこの上なく上機嫌な様子で話かけられた。一方の鷲羽の典侍は苦笑いしてるようにも見受けられる。

「どんな噂かしら?」
「あの天地ちゃんが明石から女性を連れてきているらしいの。」
「連れてきている?」
「自分の邸にこっそり住まわせているらしいの。」

 瞬間、船穂皇妃の端正な眉がしかめられた。しかしそれもすぐに消え、いつもの穏やかな表情に戻った。

「まあ・・・。それでその女性というのは?」
「なんでも明石の入道と呼ばれる人の娘で、昔は都に住んで居たんですって。宮仕えもしてたらしいからもしかしたら天地ちゃんと子供の頃会っていたのかも知れないわね〜。」
「明石の姫君・・。それは興味深い話ね。」
「でしょう?それで今鷲羽ちゃんなら何か知ってると思って・・・」

 美砂樹皇妃はそう言葉を続けながら、かたわらの鷲羽の典侍の方に顔を向けた。ところが・・・。

「あら?」
「まあ・・・。」

 さっきまで確かにいたはずの鷲羽の典侍の姿はそこにはなかった。替わりに鷲羽の典侍をかたどって作られたとおぼしきぬいぐるみがちょこんと座っているのみであった。

「どうやら鷲羽殿に逃げられてしまったようですね。」
 船穂皇妃はくすくすと笑いながらそっとお茶を口に運んだ。
「鷲羽ちゃ〜〜〜ん(;_;)」

 美砂樹皇妃は鷲羽の典侍に逃げられたことを悲しみつつも、しっかりとぬいぐるみを抱きしめていた。この後、美砂樹皇妃が鷲羽ちゃんぬいぐるみを自室に持ち帰ったことは言うまでもない。











 陽はすでに落ち、夜の気配をともなって吹き出した風が庭の芒をなびかせている。辺りからは虫の鳴く声が聞こえ、ともすれば寂しげな趣きでもある。
 この秋の情趣あふれる邸では天地の君と砂沙美姫が同じ時を共有していた。

 夕食の後、砂沙美姫はしきりに天地の君に早寝を促している。

「天地兄ちゃん、夕食も済んだしもう横になったら?」
「え?でもこんな時間からじゃ眠れないよ。」
「お仕事が増えて疲れてるんだから寝た方がいいよ!」

 砂沙美姫は自分が眠った後に天地の君が出かけていくことを心配しているのであるが、天地の君はそれと気づかないようで、大丈夫だと言う言葉にも砂沙美姫は安心できない。
 あのとき。
 天地の君が須磨に降り、二条邸でひたすら帰りを待っていた日々。
 寂しい、心細いなどと言ったものではない、まるで世界が消失したような喪失感と、暗闇の中に独り足を踏み出すような耐え難い不安。

(もうあんな気持ちになりたくないの・・・!)

 砂沙美姫は自分のしていることが我が儘なことであり、天地の君に迷惑をかけてしまうということもわかっていたが、さりとて自らの想いを押し殺せるほどに大人ではなかった。


 やがて夜も更けて砂沙美姫が眠る時間になってしまった。砂沙美姫はまだ天地の君が出かけてしまうのではないかという不安を拭い切れないでいた。そこで、

「天地兄ちゃん・・・お願いがあるんだけど・・・」
「なんだい?」
「今日一緒に寝てもいい?」
「えっ?」

 天地の君は砂沙美姫の意外な言葉に当惑した。

「ど、どうして?」
「なんだか寂しいから・・・」

 そう言って切なげな瞳で天地の君を見上げた。天地の君はその瞳に抗う力を持たなかった。










 同じ頃、都の外れにあるもの寂しい邸。
庭の木々、草花は手入れされた様子も見受けられず、大気には草の匂いが色濃く混じり、闇にまぎれて妖しきものどもが跳梁跋扈しかねない禍々しき有り様である。
 この人気のない邸にわずかに細い光が灯っていることに誰が気がつくであろうか。
 闇の中、男の声が聞こえる。

「・・・まだしばらく刻がかかりそうでございます。」
「・・・・・・」
「しかし徐々に気運は流れつつあります。どうかご安心を・・・」

 報告を受けているのは女性のようである。しかし辺りは暗く、その姿は輪郭すらとらえられない。跪くようにして淡々と言葉を紡いでいる男は声から察するにあまり若々しい印象は受けない。

「・・・よい。全て、任せる。」

 初めて女性は言葉を発した。その声は年齢を感じさせない不思議な響きを持って闇に木霊した。
 既に男の姿は消え、外の木立からは梟の鳴き声が聞こえてくる。薄明かりの下、そこに見えたのはただその女性の瞳だけ。それは強い意志を秘めた光を宿していた。











 結局、天地の君はどこに出かけることもなく二条邸で床についた。しかし独りではない。かたわらには水色の髪の少女が眠っていた。

 砂沙美姫は天地の君の衣の裾をしっかりと握ったまま眠りについていた。その寝顔は安らかで、心から安心しきった様子である。天地の君はその愛らしい寝顔を見ながらもの想いに耽っていた。

(砂沙美ちゃんがここに来てからもう二年近くになるんだ・・・)

 あのとき偶然出会った少女はすっかり自分の生活に溶け込んでしまった。身元が明らかになるまでと思いつつも、いつのまにかその自然な魅力に惹きつけられ、手放し難い存在になってしまった。
 いつか手放さなければいけないのだろうか。今は砂沙美姫は自分を兄のように頼りにしてくれているが、いつか他の男のところへ駆けて行ってしまうのだろうか。そして砂沙美姫を見る度に重ねてしまうあの女性の面影。それを思うとなおいっそう苦しく、胸が締めつけられる。力づくで奪うことは容易い。しかし不用意なことをしてこの輝きを失うのは手放してしまうのと同じ程に耐え難いことであった。

「天地兄ちゃん・・・」

 はっとして目の前の少女に注意を移せば、砂沙美姫の目は閉じられたままだ。どうやら寝言に天地の君を呼んだらしい。
 天地の君は我にかえって、

(なんてことを考えているんだ)

 このような想いを抱いていることを砂沙美姫に知られればいったいなんと思うことか。天地の君は渦巻いた想いを強いて消し去って、自分も眠りにつこうと身体を横たえた。
 砂沙美姫は穏やかな寝息をたてて眠っている。
 手を伸ばせば届くほどに近い距離にいても、互いの想いはいまだ触れ合わず、霧深い世界を彷徨っていた。











 月と星の明かりのみが道を照らす頃、鷲羽の典侍は皇宮を離れ、三条の邸を訪れた。常ならば何人も軽々しく訪れることを許されていない邸に鷲羽の典侍は夜が深くなっても気軽に出入りしているのであった。

「鷲羽の典侍様がおいでになりました。」
「わかりました。離れにご案内して。」
「はい。」

 女房にことづけた後、津名魅の宮はゆっくりと立ち上がると自らも離れへと足を運ばれる。津名魅の宮が動かれた後にはかすかに淡い芳香が漂って、誰も居ない部屋に艶な風情を残していた。



「元気そうね、津名魅。」
「ええ。今日はどうしたの、鷲羽。」
「津名魅の顔を見に・・・かな。」

 鷲羽の典侍は不思議と穏やかな表情で返事を返した。津名魅の宮はその様子に常とは異なるものを感じていた。

「ちょっと気になる噂があってね。」
「噂?」
「じつはね・・・」

 一通り話終えた鷲羽の典侍は手元のお茶を一口流し込んでひととき喉を潤した。
やや苦みが感じられる。椀をおろしてほうっと一息胸の息を吐いた。

「噂の出所はだいたい見当がつくけどね。」
「そう・・・。」
「どうするの、津名魅?」
「・・・・・・・・・・」

 鷲羽の典侍はいつもように軽い口調であったが表情は真剣であった。津名魅の宮はその問いに答えず、遥か先を見通すかのように虚空を見つめていた。その表情からは鷲羽の典侍にも津名魅の宮の心の内を推し量ることは出来なかった。



 夜の帳は降りてゆく。貴い人、卑しき者の別なくただ等しく訪れる。心を悩ますことごともまた、あらゆる人のもとに訪れる。眠りに心を慰められ、夜が明ける頃にはその心にも朝が来るのであろうか・・・。




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