源氏無用物語

【細雪】 〜忘れじの面影〜





 砂沙美姫は二条邸の庭に降りしきる雪を眺めていた。
 ひらひらとまるで白い花びらが舞っているかのように、ゆっくりと、ゆっくりと雪が降りてくる。二条邸に暮らすようになって二度目の雪。砂沙美姫はその光景になにか不思議な感覚をおぼえていた。

「砂沙美ちゃん、どうしたの?こんなところに立って。」
「あ、天地兄ちゃん。なんでもないの。雪が降るのを見てただけ。」
「珍しくたくさん降ってるね。このぶんだと積もりそうだよ。」
「うん・・・・・・」
「なにか・・・気になることでもあるの?」
「ううん、そのなんて言うか・・・懐かしいような感じがして・・・」
「懐かしい・・・?」

 砂沙美姫がこの二条邸に来てもうすぐ二年になろうとしていた。しかし記憶はまるで戻る気配がなかった。初めのうちは天地の君もなんとか記憶を取り戻す術はないものかといろいろと手を尽くしていたが、時が過ぎるにつれ無理に戻さなくとも良いのではないかと考えるようになっていた。
 そして砂沙美姫もまた、強いて記憶を取り戻そうとはしなかった。もし記憶が戻ったのなら・・・砂沙美姫の本当の帰るべき場所がわかってしまったのなら・・・二条邸に居続けることはかなわないことであろうから・・・。

 天地の君と砂沙美姫はお互いに何も言い出せず、ただ庭を眺めていた。
 雪はまだ静かに降り続けていた。















 一年の終わりも近づき、あと数日で新年を迎えるとあって、人々は皆それぞれに慌ただしい日々を過ごしている。
 天地の君は久しぶりに皇宮に宿直することになっていた。そして今夜は毎年皇宮であることが行われる日でもあった。
 年の終わりに今年一年の皇宮の神事についておもな神官や巫女たちが話し合いをなされるのである。皇宮の神事に関わっていることとなれば津名魅の宮も当然皇宮に参内なさっているはずであった。



 弱々しい冬の陽光がまだかろうじて残っている頃に、天地の君は冷たい空気に身をさらしながら簀子を早足で進んでいた。
 人目を忍んで皇宮の渡殿をいくつも渡り行き、ついに津名魅の宮が控えているはずの殿が見える所まで来た。しかしここから先は容易に進むことが出来ない。目指す殿には低いながらも垣が設けられていて、外から人を寄せつけない。更に建物と建物の間を渡る遣り水が距離を隔てて、天地の君の想いを隔てようとする。少し先に形ばかりの橋が架かっているが、そこを渡れば人の目に触れることは必至である。
 このままでは津名魅の宮の所まで行くことが出来ない。
 天地の君は津名魅の宮がおられるとおぼしき部屋を見つめて知らずのうちに焦りを覚えていた。

(この機を逃せばいつ逢えることか・・・たとえ逢えなくともせめてあの方の声ぐらいは聞けないものか・・・)

 冷えきった匂欄に両手を置き、しばし食い入るように見つめていたところ、突然背後から声を浴びせられた。

「天地の君ではありませんか?」

 この声に天地の君は心臓が飛び出すほどの驚きを覚えたが、強いて平静を装って殊更ゆっくりと首を巡らせた。

「おお、やはり。」
「どうしたのです、こんなところにお独りで。」

 声を掛けてきたのは九羅密卿と信幸の朝臣であった。

「いえ、別に。雪の中を流れる遣り水を眺めていたのですよ(汗)」
「なるほど、雪の合い間を流れ行く様、ですか。風流ですなあ。」

 信幸の朝臣がいつものように気楽な口調で話す。どうやら不審がっている様子はないようである。天地の君は内心、胸をなで下ろした。

「お二人こそ、どうしたのです?」
「なに、年の瀬も押し迫って来ましたので今年を振り返ってしみじみ飲もうかということになりましてな。」
「雪見酒というのも良いでしょう。」

 そう言っては同時に笑い出す。天地の君はあきれた口調で、

「これからなにかにつけて酒の出る機会が増えるというのに、もう飲むのですか?」
「まあまあ、そう固いことをおっしゃらずに。」
「天地の君もおいでになられては?」
「い、いえ、私は・・・」
「いや、逃がしませんぞ。引きずってでも来ていただきます。」

 その言葉通り、九羅密卿は天地の君の腕をとり、力強く歩きだした。その後ろを信幸の朝臣がにこにこと続き、有無を言わせず連れ去ってしまった。

(うう・・・こんなときに・・・(T_T))

 そんな天地の君の心の嘆きは誰にも届かなかった。



 音低く流れる遣り水を挟んだ向かいの一室で、この一連のやり取りを耳にしている女性がいた。その方こそ、天地の君が一目でも逢いたいと願っていた津名魅の宮その人であった。
 津名魅の宮は控えの間で談議が始まるのを待っていた。
 もうそろそろ時間かと思っていたところに外から男達の話し声が聞こえてきたのだ。その中に、津名魅の宮の心に確かに響く声が含まれていた。

(天地の君様・・・!!)

 冬の風が離れた声を運んで、一人の女性の心に細波をたてる。自分に向けられたわけではない、なにげない会話でさえも、天地の君が今、声が届くすぐそこにおられると思うと嬉しさに身体が震えてくる。
 声が聞こえてきたのはほんのわずかの間であった。やがて足音とともに遠ざかり、人の気配もなくなってゆく。
 間をおかずに今度は先程とは逆の方角からはっきりとした声が届けられた。

「宮様、お時間でございます。こちらへおいでくださいませ。」

 皇宮の女官が津名魅の宮を呼びに来たのである。
 津名魅の宮はその女官の案内に従い、歩いてゆく。その間、記憶の中の微笑みを思い浮かべてみても、怪しいほど胸が高鳴り、身体が内側から熱くなっていくようで、前を歩く女官にこの胸の鼓動を聞かれてしまうのではないかと本気で心配したほどであった。寒さのせいではない頬の赤らみに、津名魅の宮は平静を保つためにかなりの努力を必要としていた。















 やがて夜は進み、明かりの惜しい者達は皆眠りにつく頃となった。
 天地の君は薄く積もった雪の上をひとり、急いでいる。
 空は漆黒に澄み渡り、照り映えるはずの月の行方は杳として知れない。
 広々とした皇宮の庭は今はただ心細く、言いようのない孤独感を招くのみであった。

 (津名魅様・・・・・・)

 終わりを知らない酒飲み達からようやく逃げ出した天地の君は陽が落ちる前に見つめていた殿を目指していた。夜のこととはいえ、仮にも皇宮の敷地内ではいささか危険な行為である。
 神事の打ち合わせがまだ続いていたので津名魅の宮がまだ皇宮におられるであろうことだけはわかっていた。だが、行ってどうなるというのか。人目に触れることは許されず、遠くから声を掛けることも出来ないというのに。
 約束があるわけではない。それでも、行かずにはおれなかった。この焦燥感を癒すことが出来るのはただ麗しき女神の微笑みだけであった。




 かくして、どうにか誰にも見られることなく遣り水を越えることが出来た。建物の縁に触れられるまでの位置に来たものの、ここから先はどうにも方法がなかった。御格子は当然全て降ろされており、おそらくはあらゆる戸には内側から掛け金が掛けられているに違いない。
 天地の君は内側より漏れるわずかな光を見上げながら、立ち尽くすことしかできなかった。


 津名魅の宮は落ち着かなかった。表面こそはいつものように穏やかなる様子であったが、話し合いの場に来てからも先の声が忘れられなくて、気がつけば意識を建物の外へと離してしまっていたのであった。

(どうしてこうも心を騒がせるのですか・・・?)

 そう思うにつけても、恨み言を言うべき人の姿は遠く、その声は響かない。そして津名魅の宮の悩める心に気づく者もその場には一人としていなかった。
 こうして、さしたる事もなく話し合いも終わり、気がつけば夜もかなり深くなっている様子であった。


 控所への廊下を渡りながらも、津名魅の宮の心は揺れ動いていた。
 天地の君が会いに来てくれるかもしれないという甘い期待と、皇宮の中でそのような事があるわけもないという冷静な思考。そのかすかな期待と不安が入り交じっていつまでも落ち着くきざしをみせない。
 そんな津名魅の宮に天地の君が御格子一枚隔てたところにおられたなどと、気がつく術があろうはずもなかった。

 一方、戸外にたたずむ天地の君。空はあくまで暗く、雪は降っていないが、雲がかかっているのかひとつの星も見あたらなかった。身を切るような寒さと静けさだけが突き刺さり、なす術もなく時だけが過ぎていった。




 どのくらい経った後か、にわかに殿の最も大きい両開きの戸のあたりから騒がしい音が聞こえてきた。どうやら車が寄せられているようである。天地の君は見つからないよう姿を隠しながら、内心ひどく落胆していた。

(あれはおそらく帰りの車・・・やはり会えないのか・・・。)

 この寒さの中立ち尽くしたことよりも時間を無駄にしたことよりも津名魅の宮に会えなかったことが天地の君にはひどく堪えて、寒さに震えながらも急に重くなった足を引きずるようにして人々と車から離れていった。

「津名魅の宮様、今お帰りの準備を整えております。もう少々お待ち下さい。」

 そう声をかけられて、津名魅の宮は思考を現実へと引き戻した。

(やはり会えなかった・・・)

 このような場所で会えるはずがない、これが当然のことと、自分を納得させつつも、どうしてもあきらめきれない自分がいることに津名魅の宮は気づいていた。
 頭を冷やそう。外を見て、誰もいないことを確かめたらあきらめようと、津名魅の宮は静かに木戸を開き、かりの履物で人気のない裏庭へと降り立った。

 人の気配がする。
 誰もいるはずのないこの場所に。
 津名魅の宮が緊張した面持ちで見やる。
 そこには。
 驚いたようにこちらを見て立ち尽くす天地の君の姿があった。



 雪に覆われ、凛々とした冷たい夜気の中、二人は言葉もなく立ち尽くしていた。
 月も星もなく、建物から微かにもれる光が銀色の地面に反射して、全てが朧げなる様に、幻を見ているかのような錯覚に囚われる。

 天地の君は声が出せなかった。
 はじめ、建物から明かりが延びてきたときには驚いて隠れようとしたが、逆光の中一瞬見えた記憶に揺れる髪がそれを押しとどめた。
 津名魅の宮も言葉を失っていた。
 自らにあきらめさせるために来た場所で想い続けた人に会おうとは。

 雪の上に立つ津名魅の宮はたとえようもなく美しかった。
 暗い銀色の闇夜にほのかに浮かびあがった髪は淡く優しく、その姿は仮初のように儚げで、見る人の心を奪い去ってしまう。
 それは津名魅の宮自身の心情も感じさせていたのかもしれない。
 目の前に天地の君が立っている。
 離れていてもいつも身近にあった面影が全ての悩みも苦しみも溶かして、津名魅の宮の心は甘く和んでゆく。

 やがてどちらからともなくゆっくりと歩み寄り、ついにお互いを確かめるように触れ合った。

 津名魅の宮は天地の君の頬に手を伸ばして静かに触れた。

「こんなに冷えて・・・。」

 津名魅の宮の手は暖かく、冷えた心にも沁み渡るようだった。



 天地の君は柔らかな眼差しを投げかける紅く透明な瞳に、形の良い唇に、吸い込まれるように身を傾け、津名魅の宮は自然に瞳を閉じながら、素直に受け入れた。

 唇を重ねたまま二人はしばらく動かなかった。

 名残り惜しげに離れた後、津名魅の宮の溜め息にも似た甘く白い吐息を感じて、言葉を使うことなく抱きしめた。心とかす髪の香り、柔らかな温もり、そして求めてやまない心――――全てが今この腕の中にあった。



 時は待つことを知らず、次の約束も交わせずに二人は別れた。
 天地の君は皇宮の宿直所へと戻り、津名魅の宮は三条の邸に帰る。
 それはほんのわずかな時間の逢瀬だった。それでも二人にとってはなにものにも変え難い時間であった。





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