源氏無用物語

【薄雲】 〜還りし後〜





 天地の君は都に戻ってからは須磨とは打って変わって忙しい日々を送っていた。
 それというのも近頃、皇の体調が優れず、以前よりも多くの公務が天地の君に任されることになったためであった。
 もともと人々からの信頼の厚かった天地の君はいまや宮中ではなくてはならないほどの重職に就いておられた。右大臣家の人々はそれを面白くなく思うが、今となってはどうすることもできない。
 身分の重くなった天地の君は、昔ほど自由に出歩くこともできなくなり、やっと須磨から戻ったというのに津名魅の宮とはお会いすることもできない。なかなかに悩みの絶えない、気の毒なお二人であった。



 今現在、最も天地の君と多くの時間を供にしているのは二条邸で天地の君の帰りを待っていた砂沙美姫である。
 天地の君が邸に居るときには必ず側にいて、かいがいしく身の回りの世話を焼くのだった。

「天地兄ちゃん、お仕事お疲れさま!お茶の用意出来てるよ!」
「ありがとう、砂沙美ちゃん。」
「お菓子もあるから食べてね。それとも果物の方がいい?」
「そうだなあ、柿でももらおうかな。」
「じゃ、ちょっと待ってね。今切ってくるから。」
「あ、うん。」

 またあるときは、

「お帰り〜!お夕飯と湯浴み、どっちにする?」
「え、あ、じゃあ湯浴みを・・・」
「はーい!ゆっくり疲れをとってね!砂沙美はその間にお夕飯の支度をしておくから!」
「砂沙美ちゃん、少しは女房たちにまかせていいんだよ?」
「いいのいいの!砂沙美、好きでやってるんだから!」
「そ、そう・・・」

 ・・・とこのような有り様だったので、天地の君も他の女君たちに悪いとは思いつつも、おいそれとは出かけずに、二条邸にとどまることが多くなってしまうのであった。









 左大臣邸の阿重霞姫はこのところやや御機嫌が悪かった。それというのも、天地の君がせっかく都に帰ってきたというのになかなか邸を訪れてくれないためであった。
 もちろん、まったく来なくなったのではなく、三日に一度は必ず顔を見せてくれるし、たまには泊まっていくこともある。
 しかし、須磨に行く以前よりはどう考えても少ない。

「天地様、このところかなりお忙しいご様子ですね。」
「え、ええ、公務が急に増えてしまいまして、正直まいっていますよ。」
「公務だけ・・・ですか?」
「も、もちろん。他に何があるというのでしょう。」
「いえ・・・(そうですわよね、私以外の訪れる女性など・・・)」

 このとき、阿重霞姫の脳裏に嫌な想像が過ぎった。

(ま、まさか、この私を差し置いて六条の魎呼姫が・・・!)



──── 阿重霞姫の想像 ────



「天地ぃ、あんなお嬢ちゃんの相手なんかつまんないだろ、それよりアタシんとこに泊まって行けよぉ〜〜〜☆」
「で、でも、これから阿重霞姫のところに行くつもりなんだけど・・・(汗)」
「いいから、いいから、お嬢なんか待たせときゃいーんだよ。」
「いや、そういうわけには・・・」
「天地ぃ〜、今夜は離さないぜぇ〜☆」
「わっ、ちょ、ちょっと、魎呼・・・!」
        ・
        ・
        ・
        ・



(なんてことになっているんじゃ・・・!)
「阿重霞姫?」
(そんなこと、断じて許せませんわっ!!)
「阿重霞姫、どうかなさったのですか?」
「(はっ)い、いえ、別に、ほほほほほほほほ。」
「?」
 しかし、魎呼姫に問いただすわけにもいかず、阿重霞姫は最後の手段とばかりに密偵を六条邸に放つことにした。これで天地の君が左大臣邸と六条邸のどちらに多くの時間いるか調べようというのである。
 もちろん、天地の君はそんなこととは知る由もない。









 同じ様なことを考える人間は案外居るものである。
 六条の魎呼姫もこのところの天地の君の訪問回数に疑問を抱いていたのであった。

(どぉーーーもこのところ天地のやつ、アタシんとこに来るのが減ってる・・・いくら公務が増えたからって・・・怪しいよなあ・・・)

 と、天地の君を怪しんでいた。

(まさか、新しい女が出来たんじゃねえだろうな。)

 しかし、その考えはすぐに打ち消した。
 都に戻ってからの天地の君は、世間の注目の的になり、重くなった身分と相まって迂闊なことをすればすぐに都中の噂になるはずであった。まして、新しい女性が出来たとなれば、その女性の家が黙っていないはずである。かりそめでも天地の君に心をかけられれば、すぐさま世に発表して女君の立場を主張するはずである。

(となると・・・まさかあの阿重霞んとこで・・・)



──── 魎呼姫の想像 ────


「天地様、今宵はこの邸でゆっくりしていかれるのでしょう?」
「あ、その、これから六条の魎呼姫のところに行くつもりなんですが・・・」
「いけません!あのような粗野な女の側にいたら天地様の高貴な品位にキズがつきますわ!」
「そ、そんな大袈裟な・・・(汗)」
「いいえ!とにかく今日は我が家にお泊まりいただきますわ。これも正妻として天地様のことを思えばこそです。さっ、もうお休みなされませ。」
「あ、あの、阿重霞姫・・・」
        ・
        ・
        ・
        ・


(・・・なんてことになっているんじゃねえだろうな!)
「魎呼?」
(ふざけやがってあのアマ〜!!)
「魎呼、どうしたんだよ?」
「(はっ)い、いやあ、なんでもねえよ。」
「?」

 しかし、阿重霞姫に問いただしても無駄であろうから、魎呼姫は左大臣邸に密偵を放つことにした。これで天地の君が左大臣邸と六条邸のどちらに多くの時間いるか調べようというのである。
 当然、天地の君はそんなこととは知る由もない。
 この阿重霞姫と魎呼姫の行動が、天地の君にとって大いなる修羅場をうむことになろうとは誰が予測し得ただろうか。













 皇宮からほど近い所に立派な邸がある。
 その邸の前にきらびやかな車が訪れた。まわりを多くの随身に守られており、誰かは知らぬが身分卑しからぬ有り様であった。また、その車の訪れた邸も、負けず劣らず見事なものであった。
 広い庭は全てよく手入れされており、建物も刻まれた歴史を感じさせる壮麗な様であった。並みの貴族ではない、ひとかたならぬ人の住む邸と思われる。


 秋の日差しが柔らかく降り注ぎ、庭の木々の影を薄く映している。邸の奥、外の大路の喧騒もここまではとどくまいと思われる場所で、二人の人物が静やかに言葉をかわしていた。

「あまり私を心配させないでね。貴女は昔から無茶な事をするから・・・。」
「はい・・・。申し訳ありません。」

 一人は高貴そうな女性、もう一人は貴公子のようである。
 今、頭を下げているのは貴公子の方だ。
 どうやら、女性は貴公子よりやや年上のように見受けられる。

「それにしても・・・」
「はい?」
「ここには私たちしかいないのですから、その他人行儀な言葉遣いはおやめなさいな。」
「いえ、仮にも皇妃に対してそのようなわけには参りません。」
「変わりませんね貴女は・・・天地の君の前でもそうなの?」
「!あ、姉上様!!」
「あら、ようやく堅苦しさが解けましたね。」

 そう言って口元を隠してくすくすと笑った。
 貴公子の方は顔を真っ赤にしてそっぽを向いている。

「ここに帰ってくるのも久しぶり。今回は私も宮中での疲れを癒しに戻ってきたのですから貴女も着替えてはどうですか?」
「私は・・・」
「貴女にはいつもすまないと思っているのよ。貴女にばかり重荷を背負わせてしまって・・・。」
「姉上様。私は平気です。以前は悩んだこともありました・・でも、いまは自分の境遇をむしろありがたく思っています。」
「清音・・・」

 そう、この貴公子とは清音の中将のことであった。
 この邸は都でも指折りの名家である真備家の邸であり、現樹雷皇妃の船穂はこの真備家の生まれであった。
 つまり、船穂と真備清音の中将は父を同じくする姉妹であった。
 もっとも、このお二人が姉弟ではなく姉妹であることを知る人物はほとんどいない。

「それも、天地の君のおかげなのかしら?」
「さあ、どうでしょうか。」

 清音は答えようとはしない。しかし、普段人前では凛々しすぎるほど端麗なその顔に少女のような笑みが浮かべられ、それが全てを語っていた。
 船穂もまた微笑みながら、

「そうね、きっと別の悩みも増えたことでしょうね。」

 と生真面目な妹に言えば、清音はまた顔を赤らめてあらぬかたに視線を外す。昔から清音は船穂にはかたなしなのだった。
 そんな清音を船穂はとてもいとおしそうに見つめていた。














 一方、皇宮では第一皇妃が里帰りなさっておられるのでそれを寂しがる者も少なくなかった。
 ましてや、普段船穂の話し相手となっている女房たちは言うまでもない。
 しかし船穂の里帰りを最も寂しがっている方は別におられた。


 格子を外して庭を眺めやすくした局から空を見上げて瞳を濡らしている女性がいる。身につけている衣装はどれも非常に心配りされた品ばかりで、かりそめにも卑しいお方とは思われない。

「お姉さま、いつ戻っていらっしゃるのかしら〜(うるうる)」

 船穂皇妃の不在をひときわ嘆いておられる女性。
 この方こそ樹雷皇家第二皇妃の美砂樹である。美しい水色の髪を高い位置で結い上げ、真っすぐに背中へと流している。周りにいる女房たちも皆それぞれに美しいが、美砂樹と並ぶと霞んで見えてしまう。船穂と美砂樹が隣り合って座っているときなどはまるで大輪の花が咲き誇っているようで、その華々しさ、美麗さは筆舌に尽くし難い。

「美砂樹様、それほど嘆かれなくとも・・・船穂様がお里に帰られてからまだ二日しか経っていないではありませんか。」

 と、やや年上の女房が言う。

「まだ、じゃなくてもう二日、よ!お姉さま〜、早く帰っていらして・・・」

 女房一同、困り果てる始末である。
 普通、第一皇妃と第二皇妃などと言えば、仲違いのひとつもありそうなものなのだが、このお二方に限っては全く逆で、実の姉妹よりも仲が良い。特に美砂樹は船穂をこの上なく慕っており、船穂がいるときは船穂の局に入り浸って噂話などに花を咲かせているのであった。

 そんな美砂樹の気をまぎらわそうと、女房の一人が噂話を持ちかけた。

「そう言えば美砂樹様、実は近頃とても興味深い噂を耳に挟んだのですが。」
「ん〜?どんな〜?」

 こちらを振り返りもせず、うわの空といった様子の返事が返ってきた。

「なんでも天地の君様にまた新しい想い人が出来たとか・・・」
「まあ、本当に?」
「流石は天地の君様。都に戻ってきてまだ間もないと言うのに。」

 女房たちが口々に噂に答える。天地の君に関する噂はいつも女房たちの気をひくものであった。

「その噂、もっと詳しく!」

 いつのまにか美砂樹がきらきらと目を輝かせながら側に来ている。さっきまでの沈んでいた表情などどこにも見受けられない。女房たちはいつものこととはいえ、後頭部に汗を浮かべつつ、やや圧倒されながら美砂樹に答えたのだった。
 このように美砂樹様は大人の女性の美しさと女童のような心を持ち合わせたお方であった。















 後宮でそんな嘘ともまこととも取れぬ噂が囁かれていた頃、もし真実が世に知れれば噂どころではない、身の置き場もなくなるであろう御方はどうしておられるだろうか。

 三条の邸の内庭でひとり木々を眺め、景色の様に季節の流れを感じ、もの思いをしている。

 天地の君とは須磨に降られた春以来、一度も逢えずにいる。もともと世の男性とは言葉を交わすことさえない閉じられた世界で暮らしている身なので強いて機会を作ることも難しい。
 近くにいるのに逢えないことはかえってもの思いの種になるかもしれない。
 それでも、津名魅の宮は天地の君が無事に都に戻ってきたことを喜ばずにはいられなかった。

「天地の君様、ご無事に戻られて・・・」

 このような独り言も側仕えの者に聞かれれば怪しまれかねない。
 津名魅の宮は自らの身の上を業の深いものと思い悩みつつも、想いを振り切ることも忘れることもできないのだった。

(また・・・お逢いできるでしょうか?)

 それはいつになるともしれない。もしかしたら永遠に来ないかもしれない。津名魅の宮はただその日のことを夢見、待ち続けるのだった。





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