源氏無用物語

【胡蝶】 〜浅きゆめみし〜





醒めない夢を見る。             
あの人は私の隣りで優しく微笑んでいてくれる。
春の陽射しのような夢。           
今にも醒めそうな、浅い永遠の夢。      




 春は闌けている。うららかに晴れた、霞みけぶる午後に誘われ、天地の君は一人龍皇池に出向かれた。久しぶりに随身も引き連れずに羽を伸ばそうというのである。

 龍皇池のほとりは天地の君の期待以上に趣があった。
 木立の青々とした輝き、立ちこめる花々の甘い匂いなど、まるでこの世のものではない、話に聞く蓬来山に迷い込んでしまったのではと疑いたくなるほどであった。
 一人で見るには惜しい景色である。砂沙美姫も誘ったのだが、珍しくも断られてしまった。今ごろは二条邸で読みかけの絵巻に耽っていることだろう。

(ここで砂沙美ちゃんと初めて会ったんだよなあ・・・。)

 人の気配のない、それでいてやわらかな光に満ちた陽だまりが過去の記憶を懐かしくさせた。
 あれからいろいろなことがあって時も流れた。今では完全に自分の日常となって、砂沙美姫が来る前の生活がうまく思い出せない。ずっと前から知っているような気さえする。思えば不思議な少女である。不安な身の上にも負けることなく明るく、心許したくなる笑顔。品卑しからぬ立ち居振舞い、それでいてこまやかな心遣いをも備えている。時折、やや背伸びして大人ぶってみせるのも限りなく愛らしく思える。いつまでも側にいて欲しい。天地の君はそう思わずにはいられなかった。







 なにをするというわけでもなく、自分の部屋に戻り、鏡の前に座った。天地の君は今ごろどうしているだろうかと思う心を抑えて、今の自分に心を呼び戻す。いつもの自分。夢の中ではもっと大人びているのに、今の髪型が無性に幼いもののように感じられた。
 
(皇妃様を真似てみよう)
 
 髪留めを解いて、いつもは二つに分ける髪を一つに束ねて結い上げた。鏡を覗き込むと普段の自分ではない、別の誰かがそこにいるように思えた。今向こう側にいる自分はどんなことを考えているのだろう。ふと、そんなことが頭に浮かび、語りかけるように影を見据えた。





 


 ゆらゆらと風がそよいだ。池に漂う藤の花びらが風に誘われ列をなし、みなもにゆるやかな線を描いていく。まるで波紋がのびていくように穏やかに花の綾をうち広げ、心ひかれるままに目で追えば、池の淵には白と紫の藤の房が咲き誇って、水上と水中にと二重に花を匂わせている。
 聞こえてくるのはわずかに小鳥の囀りばかりで他には音もない。周りの景色のあまりの美しさに声もなく、魂さえ引き込まれんばかりであった。
 その香りに誘われ、藤の花に近づこうと池を巡ると、そこには夢にも見た人の姿があった。
手の届かないあの方・・・津名魅の宮の姿が。

(津名魅、さま?)

 あまりの驚きに声も出ない。まさに巫山の夢、漢宮の幻とはこれを言うのではないかと疑いたくなる。しかしそんなとまどいとは裏腹に、天地の君は微笑みかける津名魅の宮の手を自然に取っていた。本当に自然に。
 焦りもなく、さも当然であるかのように時が流れる。
 手の中にはいとおしい重さと柔らかさがあって、目の前の女性が幻ではないと伝えてくれる。 それでいて頭の奥には痺れるような感覚が徐々に満たされて、限りなく現実感を薄れさせていく。
 天地の君は、この瞬間(とき)が、この世界が喪われないようにとばかりに抱き寄せていた。








 
 露に濡れた藤の花。薄紫をさらに滲ませた、淡い色。子供の頃からこの色が好きで、今ではもっと好きになった色。蔓を指先に絡ませ、離れた人もとどめてくれる。
 この国で一番美しい山は、藤の名前を取って呼ばれるようになったのだと、そう教えてくれたのは誰だったろう。もう思い出せないくらい幼い頃。覚えているのに、思い出せない。





 



 気がつくといつのまにか閑静な庵の中にいた。いつか紅葉の降りかかる中連れ去った、あの山中の庵によく似ている。それでいて、いま漂う香りは白と紫を導く藤の花。春の名残と夏の訪れを感じさせる。
 藤の匂いの立ち込めるこの夢心地に、天地の君はたとえ夢でも醒めて欲しくはないと願っていた。

 天地の君の腕を胸の中に抱くようにして津名魅の宮は寄り添っている。わずかな愁いをたたえた濡れた瞳を覗き込むと、目も眩む心地がして、常の意識は更に夢の奥、奈落へと落ち込んでゆく。そのまま、長い口づけのあと、影長い睫毛に閉じられた瞳が開かれるまで見つめ続けた。
 いとおしげなまなざしに導かれて、髪止めをほどく。ほどかれた長くつややかな髪が白い背中を伝って床に滑り落ちた。その髪のなめらかさ、柔らかさは、触れている指先にも時の流れを忘れさせ、その悩ましき芳香は身に甘く、心に狂おしい。
 白磁のように滑らかな手を引き寄せ、自らの頬に導く。もう一方の手には手を重ね合わせ、感触を楽しむ。指のひとつひとつを自らの指先で撫で、手のひらに至る。その指先が髪に沿って流れて、やがて津名魅の宮の頬から首筋、背、胸元へと隈なく巡った。
 津名魅の宮は淡い吐息と共に髪を敷いて押し倒された。長い髪がまるで開いた扇の如く床に広がって、白い足先に一筋、絡みついた。

 もっと。
 もっと近くに。
 もっと近く、呼吸を感じて、鼓動を感じて、肌を重ねて、心と魂さえが溶け合って、身をうち震わせる歓びに、幾千の髪が流れてまた心を乱していく。
 二人は雫の糸を紡いで眠った。
 そして夢を見る。深い契りの果てに見る浅い夢を。



乱れる髪に

    かはるがはる

  胡蝶は舞い

   いざなへる

     夢のみちゆき















 ゆらゆらと風がそよいだ。池に漂う藤の花びらはまた誘われて回るように流れて行く。

「ここは・・・?」

 天地の君は呆然と呟いた。陽はこの池に来たときとほとんど変わらない高さにいる。辺りには人の姿もなく、聞こえてくるのはわずかに小鳥の囀りばかりで他には音もない。ただ藤の花びらの中、胡蝶が舞っていた。








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