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降り続く長雨の、まだ梅雨もあけきらぬ頃、人々の心は空の色にも似てうち沈んでいた。六条の御息所のお隠れは言うまでもなく、さらにはこまごまとした心晴れぬ物事が重なり、暮れ塞がることが少なくなかった。 清音は悩んでいた。届いたばかりの文を開くことなく下に置く。開かずとも内容はわかりきっていたから。どうせまた美星姫からの呼び出しである。この文が何通目になることかもう忘れてしまったが、美星姫と最後に会ってから五十をゆうに越える文が届いたことだろう。 清音は、美星姫と天地の君との婚儀以来、九羅密邸へ足を運んでいなかった。人妻となった姫のところへ表向き男ということになっている清音が訪れるのは憚られることではあるが、それも言い訳でしかない。 (美星に会いたくない) 今でも親しく思っている。それでも、会って冷静でいられる自信はない。そして天地の君。六条の御息所が亡くなられてからは一度も会っていない。近頃では魎呼姫を二条邸に引き取るという噂も囁かれていて、またも心が騒がせられる。会いたいのに会いたくない。独り自室に身を置くと考えたくもない嫌な想像が雨に打たれる水面の如く心に波紋を生み、かき乱してはまた消えてゆく。 振り払うように庭へと視線を移した。それなのにもの思いの種はどうしてこうも尽きることがないのであろうか、雨に揺らされる池を目にするにつけてもまたあの日のことが思い出される。 あの蜻蛉の少女はどこの姫だったのだろうか。あれからそれとなく調べてはいるものの、素性を知ることはできなかった。 (知ったからといってどうなるものでもないのだけど・・・) 天地の君のこと、美星姫のことを考えると不思議とあの少女のことを思い浮かべてしまうのであった。 そんなとき、ふと庭先の木の下に人影らしきものが目に入った。 「そこにいるのは誰です!?」 鋭い声を投げかける清音。今は真備の中将としての顔である。 人影は逃げるそぶりもせず、呼ばれるままにこちらへとやって来た。姿を現わしたのは、市女笠を被った女房姿の若い娘であった。見慣れぬ顔で、この邸に仕える者ではない。長いこと雨に打たれていたのであろう、衣服は大部分濡れ、足元は泥に汚れていた。 「何者ですか。」 「ご無礼とは知りつつも、どうしても真備の中将様に聞いていただきたいことがございまして忍び込みました。」 娘は清音の中将の前まで来ると地面に手をついて言った。雨で緩んだ地面が更に娘の服を汚す。 「お叱りはお受けする覚悟です。ですが、どうかお話だけは聞いていただけないでしょうか。」 「どんな話です?」 「蜻蛉の姫のお話を・・・」 「!!」 清音の中将は娘を着替えさせ、邸の内で改めて話を聞くことにした。 この娘の来訪が一人の少女の運命を転変させ一人の女性の心を決断させることとなった。それが誰にとって望まれ、誰にとって望まれぬものであったかは知り得ないことであった。 六条の邸が落ち着いた後、天地の君は二条邸で大人しく過ごしていた。降り続く雨も手伝っているのだろうが、やはり一番の理由は別のところにあるようである。 魎皇鬼が円座を占領して昼寝をしている隣りで、天地の君と砂沙美姫は物語りの巻き物を広げていた。 「天地兄ちゃん、この『露と答へて消えなましものを』ってどうゆう意味?」 「『自分も露のように消えてしまえばよかったのに』と嘆いているんだよ。でもこの話は・・・」 「そうなんだ〜、光る露のようにはかなくか・・・はあ、すごく奇麗なお話だね〜!」 「あ・・・う、うん。」 目を輝かせる砂沙美姫に、つい言い損ねる天地の君。 「さて、今日はちょっと寺の方へ出掛けなきゃいけないんだ。」 「こんな雨の日に?」 「あまり延ばすわけにもいかないことだから。大丈夫、今日中には帰ってくるよ。」 砂沙美姫は少し寂しげな表情をした。 それを紛らわすように天地の君が声を上げる。 「そうだ、砂沙美ちゃんに贈り物があったんだ。」 「え? 贈り物?」 天地の君が取り出してきたのはひとつの手箱であった。 「奇麗な箱だね!」 「開けてみて。」 葉をあしらった蒔絵の手箱を開けてみると、中には奇麗に並べられた櫛が納められていた。それも一枚や二枚でない。歯の粗密ごとに数枚、更に装飾を施された挿櫛が二枚ほど。櫛以外にもいくつかの化粧道具が入っている。 「これ・・・砂沙美に?」 「うん、前から砂沙美ちゃんには必要だろうなって思っていたんだ。遅くなってごめんね。」 「ううん、そんなことないよ!これ、ほんとに、ほんとに砂沙美がもらっていいの?」 微笑みつつ頷く天地の君。 「ありがとう天地兄ちゃん!!」 早速新しい櫛箱を手に鏡に向う。 「やってあげようか?」 「天地兄ちゃんが!?」 「あ、馬鹿にしてるな。まあ見ていてごらん。」 砂沙美姫が驚いたのは天地の君が思ったようなことではなかった。恥ずかしいという思いがあったからである。頬が熱い。赤くなった顔を天地の君に見られたくなかった。 (どうしたんだろ、今まで平気だったのに) 髪留めを外して髪をほどくと、今まで頭の上にあった髪が背中へと流れた。鏡に向って砂沙美姫が座りその後ろで天地の君が櫛を手にする。 「痛くない?」 「う、うん、だいじょうぶ。」 天地の君は砂沙美姫の柔らかい髪を梳かしながら、くしけずる感触を楽しんでいた。砂沙美姫は心地良さそうに目を閉じている。その姿があまりにも無防備で、却って天地の君の手足を縛った。いとけない様でありながら艶やかに長い髪と、細い頤(おとがい)から白さの滑り落ちる着物の重ね目が大人びて見せた。 回る車輪が大路に流れる水を心ならずも巻き上げる。水捌けの悪さを感じつつ車は進み続ける。雨と風の音が耳障りなほどに喧しい。車に乗っているのは鷲羽の典侍一人。外界を遮断するかのように目を閉じて、ひとり思考の海に沈んでいた。 津名魅の宮が巫女を退くまでもう一月ほどと迫っている。 それにしても訪希深は何を企んでいるというのか。昔の日々を思い出しても彼女が津名魅に敵意を持っているとは思えなかったのだが・・・それとも時の流れが人を変えてしまったというのか。 いずれにせよ。 「このまま見過ごすわけにもいかない。」 鷲羽の典侍はそうひとりごちた。 寺への奉納を無事終え、天地の君は帰途についた。 疲れからか、天地の君は浅く微睡んでいた。そして、夢現のはざまにあの日のことを思い浮かべていた。胡蝶舞う春の日の夢を。あの日は、あの日の逢瀬は全て夢だったのだろうか。あのときの事の様を思い返してみればやはり夢と思う他ない。だが、それでも夢と思い切れないことがあった。 津名魅の宮がこちらを見ている。 なにかを訴えかけるようなまなざし。 その姿が砂沙美姫に重なり。 二人の姿が交互に現れては消え。 辺りのものすべてがおぼろげになってゆく。 やがてその姿が遠ざかり、降り掛かる紫色の花びらの中に見失った。 雨が車の屋根を叩く音で天地の君は目を覚ました。 にわかに空はかき曇り、日が落ちてしまったかと思われるほど暗い。雨粒の立てる音は不吉なまでに激しく、神懸りたる雨の匂いにこのまま突き進むのは危うく思われた。 どこかに雨を凌げるところはないかと見渡すと、わずかに離れたところによきほどの家がある。竹の編み戸をはかなげにしつつ、こぢんまりとした趣きのある様子であった。 従者を向わせ、事の次第を告げると、 「どうぞここでお休み下さい。」 と申し出てくれた。 しばしの間天地の君の一行は有り難く雨宿りさせてもらうこととなった。 激しかった雨も上がり、雲の隙間に空が見えるほどになった。 お暇(いとま)しようと天地の君は邸の主に挨拶すべく向った。通された部屋は正面に御簾が下ろされていて、左手は戸も障子も開け放たれており、小さいながらもよく整った庭が見えた。 「休ませていただき助かりました。日が暮れないうちにお暇しようと思います。後ほど改めて御礼をさせていただきます。」 「いえ、御礼をとおっしゃるのならばどうぞいましばらく・・・」 天地の君は驚いて顔を上げた。 聞き覚えのある女性の声。御簾越しに薫る、心惑わず香り。 「貴女は・・・まさか・・・」 御簾がゆっくりと引き上げられ、奥に座る人物の口元までが顕わになった。そして御簾の内より更に甘い香りが漂ってくる。紅をさした唇が妖しく踊って言葉を紡ぐ。 朦朧とした天地の君の耳に、風が一響き、届いた。 入り相のころ、梢吹く松の響き、竹煙松霧を透かして渡る笛の音、いずこより来るのかと聴く者の心を惹かずにはおれない。清らかに身も心も澄み渡る心地がして、その響きが天地の君の心を引き戻した。 慌てて礼を述べて邸を辞する。そのまま門の外に出て懐かしい笛の音を運ぶ風を探して走った。 わずかに離れた場所に派手ではない落ち着いた造りの女車が停まっていた。天地の君が近づくと車の簾が引き上げられ、 「───お待ちしておりました。」 と、黒髪の美女が振り向いた。雨上がりの雫が葉をすべるかのように黒髪が靡いて輝いていた。 帰り道、天地の君は清音の車に相乗りしていた。 「あの家で」 「え?」 「なにを、していたの?」 「なにって・・・ただ雨宿りさせてもらっただけだよ。それだけなんだ。」 本当のことなのにひどく言い訳じみて聞こえた。 「信じます。」 「本当に?」 「私には信じることしかできないから。」 いっそ忘れて、中空に消えゆく笛の音であったならもっと楽に生きられたのに。そう思ってもやはり自分の心には逆らえなかった。 「でもどうしてここが?」 「鷲羽様が長雨の憂さ晴らしにシメてきなさいと。」 そう言ってにっこりと微笑む。なまじ魅力的なだけに怖さもひとしおである。 「シ、シメてこいですか。ははは・・・。」 車の中に天地の君の諦めにも似た笑い声が響いた。車の外は雨上がりのしっとりとした大気であるのに、乾いた笑い声であった。 |