源氏無用物語

 【落花】 〜春の終わりに〜





 津名魅の宮は巫女を辞めることとなった。しかしそのことは未だ限られた者にしか知られていない。
 都の大路を三条の社へと下る車の中、津名魅の宮は独り思い悩んでいた。悩みの行き着く先は言うまでもない、天地の君のことである。皇宮の使者が闇を纏って現れた夜。まさか自分が東宮の妃に選ばれようとは夢にも思っていなかった。あまりにも、あまりにも唐突すぎる出来事に、言葉ひとつ返せなかった。伝えられたそのとき、津名魅の宮の心に思い浮かんだのは天地の君の御姿。そして、その御姿が果てしなき彼方へと離れていってしまった、底知れない喪失感。
 思いがけないことと言えば天地の君とのこともである。生まれてからずっと被(かづ)いてきた巫女という名の衣を突然奪い去って、激しい感情の渦巻く世界へと自分を連れて来た。
 あの日から、津名魅の宮の世界は全て変わってしまったのだ。
 ただ周囲の言葉に流されて過ごした生きがいのない時間、その時と色を全て塗りかえて、この世に在るという喜びと涙の本当の意味を教えてくれた。
 あの日から、醒めない夢を見るようになってしまった。
 しかし東宮の妃となってしまったのなら、その夢は終わりを告げる。離れて想うだけでもというささやかな願いさえ許されなくなってしまう。
 いや、それ以前に自分は畏れ多くも東宮のもとへ嫁げる女ではないのだ。罪を犯し、世の人々を騙し続けている。なにより畏れ多いことは嫁ぎたくないと思っていること・・・。世を欺きながらも、最も気に掛かっているのは更に別のこと。

(このことを知ったら天地の君様はどう思われるでしょう・・・)

 車はやがて三条の社に辿り着いた。裏腹に、時はただ流れる。
 三条の社に着いて、津名魅の宮は天地の君への文をしたためた。今の想いをほんの一部でも伝えるために。この、哀しいほどに熱をはらんだ想いを。















 甘い色の花が散りゆくにつれ、生命の息吹に溢れた緑が広がりつつある。儚さを示す一方、日の光を正面から受け止めて、更に輝きを返すほどの強さを示している。わずかではあるが、夏の気配を感じさせた。
 こぢんまりとした離れに、美砂樹皇妃は珍しくひとり居た。
 美砂樹皇妃がこの場所に来るのは希であるが、ここに来るときはいつもなにがしかの深い悩みがあるときであった。
 さらさらと流れる遣り水の音に耳を傾け、もの思いにふけっている。
 目には緑多い景色を映しているものの、心に浮かんでいるのは柔らかい微笑みを湛えた少女の姿であった。

(津名魅ちゃん・・・)

 美砂樹皇妃は津名魅の宮が東宮妃に選ばれたことに複雑な思いを抱いていた。津名魅が東宮妃になれば、今よりも気安く会えるようになるかもしれない。それはとても嬉しいことであったが、津名魅が妃として迎えられて幸せになれるかが心配なのだ。
 かつて、自分が皇宮に入内した日を思い返す。自分も初めはなかなか皇宮に馴染めず、独り枕を濡らした日もあった。それでも思いのほか早く溶け込むことが出来たのは、皇とその第一皇妃の船穂のおかげであった。津名魅は誰にでも優しいが、妃ともなれば辛く当たる者も出てくるだろう。
 東宮とうまくやっていけるのか? 妃の位に苦しめられたりしないか? それはわからなかった。

(津名魅ちゃんには神職が似合っていると思っていたけど・・・ずっと独り身でいるのも勿体無いし・・・これで良かったのかな・・・)

 しかし美砂樹皇妃も、津名魅の宮が既に恋に落ちていたことまでは知り得なかった。















 そのころ皇宮の太政官では天地の君が溜まった公務に追われていた。美星姫との結婚、それに関わる様々な物事により、しばらく出仕できなかったためである。
 そんな仕事にも一段落し、廊を東へ進んでいたところ、美砂樹皇妃の局のあたりから御簾を通して姦しい声が聞こえてくる。女房達がいつものように噂話に花を咲かせているのだろう。天地の君はなんとはなしにその言の葉の雫に耳を傾けた。

「六条の通りで盗賊に襲われたと聞きます。都も物騒になったものですわ。」
「命までは取られなかったそうですが、車をまるごと持っていかれて邸に戻るまで生きた心地もしなかったと・・・恐ろしいことです。」

 どうやら、話題に上がっているのは近頃の都の治安の乱れのようである。
 美砂樹皇妃の声が聞こえないところからすると、今は女房達しか居ないのかもしれない。

「六条といえば、六条にお住まいの御息所さまのお身体の具合がすぐれないとか。」
「まあ、初耳ですわ。」
「あの御方もなにかと苦労をなさっておられる身ですからねえ・・・」
(もう皇宮まで伝わっていたのか・・・)

 天地の君はもちろんこのことを知っていた。今朝も皇宮に来る前に六条邸に寄って来ているのだ。魎呼も強がってはいるが、御息所の身を案じているのがありありとわかって、一人にしておくのが心苦しい気持ちであった。
 そんな天地の君の思いとは無縁に、女房達の噂話は続いた。

「右大臣様はもう参内なさることはないのでしょうねえ?」
「それはそうでしょう、今となっては・・・北の方が躍起になって姫君との縁談先を求めているようですが誰も耳を貸してくれないとか」
「だって皇家ゆかりの方とか権勢のある方とか、あまりにあからさまなんですもの、誰だって落ち目の家と縁続きになりたいとは思いませんよ。」
(なかなか辛辣なことを言う女房だな・・・的を射ているけど)

 右大臣家の噂は天地の君にとってあまり面白い話題ではなかった。頭の弁の末路も、自業自得とはいえ、思い出すと苦々しい。
 右大臣家の姫はそれらの責めを負わされて憐れにも申し訳なくも思うが、自分のことを怨んでいるかも知れないと思えばなにもしてやれそうになかった。

「ところで、九羅密の姫と天地の君様のご結婚、その後どうなのでしょうね?」
「どう、とは?」
「天地の君様には既に左大臣家の姫と六条の姫がおられるではありませんか。その中に入って天地の君様が誰に一番お心を掛けられていられるのか・・・」

 その言葉を聞いた途端、女房達が急にざわめきだした。
 みな口々にどちらの姫がどうこうだの、天地の君とこのようなことがあっただのとを話し出し、いったいどこから聞いてきたのかと思われるばかりである。

(ああまったく、勝手なことを・・・)

 影で聞きながら、心の中での反論に空しさを覚えて、いい加減去ろうとしたところ、また声が聞こえた。

「いいえ、あの三人の姫だけとは限りませんわ」
(なっ!?)

 驚いて耳をすましてみると、先程辛辣なことを述べていた女房の声である。

「あの天地の君様のことですもの、きっと三人の姫以外にも心をかけている女性がいるに違いありませんよ」
「あの方々と張り合えるなんていったいどういう女性なんでしょう?」
「鷲羽の典侍様との仲が・・・」

 流石にいたたまれなくなって、天地の君は静かにその場を離れた。
 それにしても、今現在でこれだけの噂が飛び交うとは、砂沙美姫や清音、果ては津名魅の宮のことまで知られたらいったいどんなことになるのだろうと天地の君は空恐ろしくなったものである。







 夕刻間近になり、天地の君は務めを切り上げ、自邸へ下がろうと皇宮を歩いていた。なんとはなしにひらけた方へ目を向けると、広々とした庭を挟んでいくつもの殿舎が建ち並んでいるのが見える。
 文を運んでいるのだろう、童女が元気よく駆けて行く。それを彩るかのように庭先には夏色の花がわずかに姿を見せ始め、わずかづつ、それでも確実に春が過ぎ行くのを感じさせた。
 そんなとき、天地の君へ声を掛けてくる者があった。
 見かけない顔の女房であった。その女房は頭を深々と下げ、畏まりながら、

「巫女様が天地の君様にお話があるのでお出で頂けないかと・・・」

 という。
 巫女という言葉が出た以上、天地の君が断るはずもなかった。



 案内されるままに行くと、皇宮の庭の、木々の葉の色の濃く繁った辺りまで来た。辺りに甘露のような花の匂いが漂っている。

(これは桃の花? しかしどこから・・・)

 女房は去り、独りいぶかしんでいると、衣擦れの音が聞こえた。
 蘇芳色が近づいてくる。

「天地の君様、おひさしゅうございます。」

 そう微笑んで現れた女は、天地の君の予想しなかった、この春新たに選ばれた皇宮付きの巫女であった。
















「よいですね、美紗緒っ!」

 右大臣邸では日課のように北の方の叱責の声が響いていた。
 ようやく伴家との婚姻の約束を取り付けたというのに、姫がまるで乗り気でないのが癇にさわるのであろう、よくも声が嗄れないものよと感心したくなるほどの大音声(だいおんじょう)である。
 叱られている姫は、長く美しい黒髪をした、見るからにたをやめの、大人しげな少女であった。北の方の言葉と迫力に怯え、翠玉の瞳にうっすらと涙すら浮かべている。
 散々に怒鳴りちらし、北の方も気が済んだのか姫の部屋を立ち去った。入れ替わるように入ってきた姫の乳母子の女房が慌てて駆け寄ってくる。

「姫様、姫様、大丈夫でございますか?」
「千鳥・・・」

 千鳥の声に、姫はようやく伏せた顔を上げた。
 千鳥は姫をかき抱くようにして背を撫で、慰めようとする。
このような毎日が続いては気の弱い姫の心身が保たないと思うものの、たかが一女房の身ではどうすることもできない。

「北の方様のなさり方はあんまりです!こんな、こんな・・・!」
「でも・・・仕方ないの。」

 あきらめたように呟く。兄の頭の弁がいた頃は、お母様もこれほどつらくは当たらなかったものをと思い返すたびに過ぎ去った昔が偲ばれてならない。
 いっそのこと、はかなくなってしまえばと、昼はものがたりをめくるたび、夜は燈台の揺らめくたびに溜息する。
 人を怨むという術を知らない少女は、ただ嘆くほかなかった。

















 思いがけず現れた女性に、天地の君はとまどいを隠せない。

「私をお忘れですか?」 
「訪希深様、でしたね・・・」
「覚えていて下さったのですね・・・嬉しゅうございます。」

 一瞬の悲しげな表情の後、ひどく慕わしげな、甘いまなざしを投げかけてくる。もし、普段の訪希深を知っている人間がこの場にいたのなら、その男を蕩かすような笑みに別人かと疑うことであろう。

「なぜ貴女が?」
「あら、ではどなたと思われたのでしょうか?」
「い、いえ、別に誰ということではないのですが。」

 顔が熱い。
 身体の内で脈打つ音が聞こえてくる。
 天地の君は完全に調子を奪われていた。
 意外な展開もそうだが、先程から・・・そう、訪希深が目の前に現れてから、頭の芯が痺れるような感覚が走って、うまく思考がまとまらないでいた。
 巫女とは思えない妖艶さを湛えた唇、細いおとがいから流れ入る胸元、そしてこの桃の花の甘い薫り。

「一度、天地の君様とゆっくりお話してみたかったのです・・・二人で。」

 そう言って、身体を寄り添わせる。
 もはや天地の君の意識は朦朧としてますます濃密になる甘露な薫りに酔い痴れていた。
 天地の君の左手が訪希深の肩に届こうとしたその時。

「天地の君さまーー? 天地の君さまーー?」

 その声にはっとする天地の君。
 樹の枝を透かして声のする方を見やると、天地の君を探しているのだろう、童女が辺りを見回しながら駆けてくるのが目に入った。慌てて訪希深から離れ、使いの童女から訪希深の姿が見つからないようにして文を受け取る。童女に労いの言葉をかけながら、背中に感じる訪希深の視線を誤魔化すように文を開いた。

(! この御手は・・・)

 名も書かれていない文。書かれていたのは歌ひとつのみであった。それでも天地の君はそれが誰の手によるものかすぐに解った。

 花落ちて 我が身はひとり 嘆くのみ 心に宿り 消せぬ君ゆゑ 


 途端、天地の君は弾かれたように動き出した。

「申し訳在りません、急用が出来ましたので、また!」

 そう言い残して、殿舎の方へ走り去ってしまった。わけの知らない童女が天地の君の後ろを面白そうに追い駆けていくのが微笑ましくも、奇妙な様であった。
 ひどく慌てた様子で天地の君が去った後、訪希深はそのままに天地の君の去って行った方を見つめていた。

(・・・・・・。)

 天地の君の前で見せていた笑顔は跡形もなく消え、冷たく鋭利な瞳が残るのみであった。










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