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朔の月は夜毎に厚みを増し、やがて望月へ至らんとする。その移ろう様を眺めて酒を酌み交わし、詩歌を詠み、楽を弾き鳴らした享楽の影もいまだ尽きないというのに、いまや時の足音は不吉な色を帯び、月の顔色を窺って心許無い長い夜を過ごさねばならなかった。 (昔の人は『月の顔見るは忌むこと』と伝えていたけれど、それは本当だったかもね・・・) 毎夜淀みなく光を満たしゆく月を見上げては、もの思いに捕らわれる鷲羽の典侍。天地の君は今ごろ必死に薬を求めているのだろうか。それとも都を目指して馬を急がせているだろうか。 (無茶をしていなければいいけれど・・・) やはり引き留めるべきだった。いや、あんな言葉を漏らさなければ良かった。いったい、どのような顔を天地の君に会わせれば良いのだろう。もう天地の君には心の中で詫びるほかない。それ以外にできることはないのだ。 夜空は晴れて月の光を広く注いでいるが、わずかに雲を残し、闇を守っている場所もあった。 明かりも灯さない庭はひどく暗い。こんな時間だというのに砂沙美姫はいまだ眠りの床に就いていなかった。 砂沙美姫は悩んでいた。 こんなふうに思い悩むのは失っていたものを取り戻してしまったから。失っていたことも、それを取り戻そうと思ったことさえも忘れていたのに。 「なにしてんだ? こんな時間に」 「!」 振り向くと魎呼姫が立っていた。天地の君が都を離れている間、二条邸に居ることにしたのである。 「天地のことが心配・・・ってだけじゃなさそうだな。」 「・・・。」 「なんだよ。悩みごとがあるなら話してみな。」 闇は珍しくも優しげに表情を隠してくれる。 しばらく躊躇した後、砂沙美姫は囁くように話し始めた。 「砂沙美はここに居てもいいのかな・・・」 「あん?」 なにを言い出すのかと、不思議そうに問い返す。 「天地がダメだとでも言ったのか?」 「言わないよ! 天地兄ちゃんがそんなこと言うわけ・・・」 「なら、いいんじゃないか。」 「でも、でも・・・」 言えない言葉がある。 (砂沙美は本当は・・・) 「側にいたいんだろ?」 名を出さずとも通じる。 「うん・・・」 「あたしは天地のことが好きだから天地の側に居る。それだけだ。」 魎呼姫の瞳にはまったく迷いがなかった。 「居ていいか悪いかより、どうしたいかのほうが大事だろ。世間がどう言おうとあたしは天地の側に居る。天地が、あたしを拒絶しない限り。」 暗闇で顔がよく見えないが、きっと魎呼姫の頬は赤く染まっていることだろう。 「風邪ひかないうちに寝ろよ。」 そう言い残して魎呼姫は部屋に戻っていった。砂沙美姫は魎呼姫を見送ったあともしばらく佇んでいた。 (津名魅ちゃん・・・砂沙美は本当にここに居ていいの?) 「なぜだっ!!!」 怒声ともとれる叫びが粗末な庵から轟く。しかしその大声も周囲の竹林に散らされ、消え去ってしまう。天地の君には珍しく声も口調も荒げている。 「あなたはなんのために医術を学んだんだ。人を救うためではないのか!?」 「確かにの。昔はそう思っておりましたよ。」 「ならばなぜ・・・!」 「わしの事などどうでもよいこと。」 ぴしゃりと言って口を閉じる。 ようやく探し当てた老薬師は天地の君の言葉に応じようとはしなかった。手助けを拒むというよりは、他人との関わりを捨て去ろうとするかのように淡々として、悟りきったともあきらめたともいえる姿が端から見ると憎らしい。 天地の君もこの老薬師の心を動かすことはできないとわかった。 「せめて霊芝がどのようなものか教えていただけないか・・・」 「それを聞いてどうなさる?」 「自分で探しに行く。」 打ちひしがれる若い貴公子の危なげな有り様に、さすがに哀れと思ったのか、 「そこまで思いつめておるならば・・・」 そう言って、ほんの一かけらの霊芝を天地の君に渡した。天地の君は驚きながらも老薬師に拝むように礼を言って立ち去った。老薬師は貴公子の去った後をみつめて、嘆きにも似た言葉を漏らした。 「万病に効く薬など・・・どうしてこの世にあろうか。あの薬で助かるやも知れぬし、なんの足しにもならぬかも知れぬ。月の顔のように不実な薬よ。」 陽が傾いて竹林に霧と闇が濃くなった。白と黒が溶け合い、視界が失われるにつれ、庵は霧の中へと溶けて消えてしまった。 都では女君たちがそれぞれに天地の君の身を案じていた。美星姫は特に心落ち着かず、清音の中将に文を何度も送るのだが、清音の中将は船穂皇妃に呼ばれ忙しく、とても会うどころではない様子であった。 皇宮の池にかかる橋の上で二人は顔を合わせた。訪希深と鷲羽の典侍、表情にはともに憂いを帯びている。いまや訪希深にあの鋭利さは影も形も無い。項垂れて思いしおれ、幼子のように縮こまっていた。 あの方に相応しい場所は、この世で最高の位であるはずだと。訪希深はそう信じていた。女性として最高の位・・・妃となって玉の台(うてな)に登り、国母となる。しかし、津名魅の宮はそれを望まず、悲しみの心に暗されて、ついには病へと追い込まれてしまった。いや、追い込んでしまったのだ。 「私は、ただあの方に」 幸せになって欲しかったのだと。 望んでいたのは、ただそれだけだったのに。 「そう・・・あんたも津名魅が好きだったんだ。」 二人の間に交わすべき言葉はもうなかった。 偽りの栄華の夢は秋の木の葉となって地に落ちた。鼎の脚がひとつ失われ、支えを失った何かが零れ落ちてゆく。それは懐かしい過去の日々か、それとも未来の明かりなのだろうか。いずれにせよ、現在(いま)という瞬間はとどまらず、形を変え、絶えることなく流れてゆく。 この深山では日が暮れれば会う人もなく、嶺の風の音ばかりが聞える。天地の君は都を目指してひたすら急いだ。懐に手を重ね、矢の如く馬を走らせる。 (津名魅様、待っていてください、もう少し、もう少しで・・・!) 天空に浮かぶ月が満ちていく。どうか待ってくれと天地の君は願うが、遠き空の上には想いは届かず、時は着実に足音を刻む。あの月が満ちた時、天の衣を着せられ、月の車に乘りて昇りゆくのか。 天地の君は自らの不吉な想像に身震いした。 (この霊薬を届けさえすれば!) 届けさえすれば、どうなるのだろう? 『病が治ってももう会うことは出来ないのよ』 不意に、都を発つ日のことが天地の君の脳裏をかすめた。 『そして津名魅は東宮のものとなる』 『でも、もし津名魅の病がこのままならば』 『そうすれば津名魅は貴方のもの・・・永遠に』 甘い痛みを伴う迷い。天地の君はそれを忘れるために全力で馬を走らせた。それでも囁く声は自身の影の如く頭を離れなかった。 天地の君が都に辿り着いた時、空にあったのは円に極めて近づいた十三夜月。かろうじて間に合ったのだと安堵する。いや、安堵する暇などない。鷲羽の典侍のもとへ急ぎ、一刻も早く薬を手渡さなければ。 「ごくろうだったね、休まれたほうがいいよ」 「そんなことより早くこれを!」 「天地殿・・・。」 鷲羽の典侍は息の詰まる思いがした。本当に、手に入れてきたのだ。あのとき、余計なことを言わなければ良かったと何度悔いたことか。わずかの間にやつれ、憔悴したこの方の顔を見ると決心が鈍る。しかし、もはやそれ以外に出来ることはないのだ。 鷲羽の典侍は意を決して天地の君の目をまっすぐに見て答えた。 「天地殿・・・それは、もう、必要なくなったの。」 「え・・・?」 「必要、なくなったの。」 鷲羽の典侍の声が悲しげに響いた。 |