源氏無用物語

【浮雲】 〜うつろひ〜





 今度は貴族の乗る車が襲われた。桜が散り切った頃からか、何某と呼ばれる盗賊共が横行し、都の夜を騒がせてやまない。何年か前にも都を脅かし、果ては皇宮から直接討伐の令が下るほどの盗賊がいた。こたびの者どもはそれに肩を並べられるほどではないものの、短い月日に悪業を重ねること、並み一通りではない。



 天地の君が女君のところに出かけられることはあっても、女君が天地の君の邸においでになることは珍しい。そうなると世の口さがなき人々は何事か起きたのかと思いたくもなるのだが、このたびは違っていたようである。

「阿重霞姫、わざわざありがとうございました。」
「そんなことありませんわ。一人ではどうにも気乗りしないのですが砂沙美が一緒ですと私も出掛ようという気になるのですから。」

 阿重霞姫は砂沙美姫を連れて縁起参りに行き、その帰りに二条邸に送ってくれたのであった。砂沙美姫は帰るなりお茶の用意をしている。お疲れであろうと女房たちが進み出るが、譲ろうとしない。
 砂沙美姫が支度をしている間に、

「ところで天地様・・・あの方の御容態は・・・」

 と、阿重霞姫はやや言葉を濁して尋ねた。

「あまり良いとは言えません・・・。」

 答える天地の君の声も重い。
 それきり、二人とも口を噤んだ。


 半月程前に初めて知らされて以来、天地の君も阿重霞姫も心が晴れない。まるで空の有り様と呼応するかのように日に日に陰っていくようにも感じられた。それだけ二人にとって軽んじ難き御方なのだ。

「お待たせー」

 折敷を運んで砂沙美姫が入ってきた。
 その後話は縁起参りの話に終始し、身振りを交えて砂沙美姫が楽しそうに話していた。

















 薄墨色の息苦しい空のもと、天地の君は六条邸に到着した。邸内は帳、簾を垂れ籠めてあるせいかひどく薄暗く感じられる。
 六条の御息所の御容態は芳しくなく、むしろ日に日に悪くなっていくように思われた。
 雨が降り始めた。今は梅雨、この雨空が過ぎても夏と、病に伏せる人には優しくない季節が続く。せめて今、この邸だけでも過ごしやすくならないものかと思わずにおれない。雨露を受けた紫陽花のみが瑞々しく見えた。
 普段は騒々しいこの邸も御息所が伏せった翌日より急に静かになった。仕える者たちもみな言葉少なに、ただ淡々と、それでいて落ち着かない様で自らの務めを続けていた。


 その夜、まだ雨の降りしきる最中、天の雫がしめやかに屋根を叩く音を別れにして、ついに御息所は儚くなられてしまった。
 突然というほどではないものの、まさかあの若さでお隠れにと、邸の者はみな動揺を隠し切れない。まして長年仕えてきた女房たちは悲しみに心惑い、どうして良いのかわからず泣き騒ぐばかりであった。

「魎呼・・・」

 天地の君は言葉が思い浮かばず、ただ名を呼んだ。

「うん・・・。」

 魎呼姫はただ雨の降る庭を眺めている。いや、庭を見ているのではなく、顔をこちらに向けたくないだけなのかもしれない。
 言葉のないその後ろ姿は、普段よりはるかに大人びて見えて艶のある風情であった。

「魎呼」

 天地の君はその背中に語り掛ける。

「こんなときに言うことではないのかもしれないけど・・・」

 暗声は休むことなく響いている。
 天地の君の言葉に魎呼姫が端正な横顔をわずかに覗かせた。切れ長の瞳に揺らいだ景色が映って見える。

「二条邸に?」
「ああ。」
「そう・・・そうだね・・・。」

 それだけを言って、魎呼姫は口を閉ざした。

















 御息所がお隠れになられたという伝えはすぐに皇宮に届けられた。かつては東宮妃であられた御方。御息所を知る人は皆涙にくれた。
 鷲羽の典侍も事を耳にした。

(思えばあの方も苦労の多い道を歩まれた)

 せめて娘を任せられる人に出会えて心残りがなかったであろうことを密かに祈るのみであった。


 訪希深にも御息所のことは伝わっていた。
 しばしの黙祷の後、目を開いた訪希深は考えるべきことへと思考を巡らし始める。

(しばらくは天地の君への接触を控えたほうが得策か・・・)

 天地の君はこのようなことに関しては生真面目な方、今は余計な手出しをしてもどうにもなるまい。喪が明けるときが逆に好機やもしれぬと、訪希深はまた新たなを計画を描き始めていた。





 昼になると雨は弱まった。それでも空は喪の色に染まり、さればこそこの悲しみはしばらく晴れることはないのだと重ねて思わされる。
 左大臣邸には天地の君が直接伝えに来られた。知らせを聞いた阿重霞姫は魎呼姫にいかなる言葉を贈ればよいのかと思わずにおれない。

「ついては魎呼を二条邸に呼び寄せるつもりです。」

 天地の君のその言葉に、阿重霞姫は胸締めつける痛みを感じた。しかし、今はそんなときではないと自らを戒め、

「それが宜しいと思います。」

 とだけ答えた。
 そして、これはあの方の残された、私への罰なのかもしれないという思いが心のうちを掠めるのであった。















 悲しみに濡れる都に、また別の悲しみを湛えて袖を濡らす姫もいた。右大臣家の姫君である。 婚礼の日取りも決まり、いっそう日々の哀しみが色を増していた。
 姫の乳母子であり、常に側に仕えている千鳥がなにくれとなく言葉をかけている。

「そう悲観なさることはありません、女は殿方と妹背の仲になってこそ新しい運命が開けるものです。きっと姫様には良い縁になりますよ。」

 しかし姫はうち沈んだままであった。

(ごめんなさい千鳥・・・)

 自分のことをこんなにも気遣ってくれる千鳥に言葉ひとつ返してやれない自分が嫌になる。なればこそ、このような境遇も全て自らが招いてしまったように思えて、ますます我が身が疎ましくなる。
 それでも真備の中将への想いが振り切れない。あのとき、もっと冷たくあしらってくれたのなら、自分自身にあきらめもついて他人の手で象られた人生を歩くことも出来たのに。

「姫様・・・」

 千鳥も慰めの言葉につまっていた。姫とは幼い頃から姉妹のように育った間柄、消え入らんばかりに悲しみ伏せっている姿を見るにつけても継母である北の方が憎くてならない。

(いっそのこと、婿を迎えるのではなく男君が姫様を連れ出してくれたのならあの意地の悪い北の方様に苛められることもないのに)

 そんな口に出せない思いを抱いていたのであった。
















 葬儀も一通り終わり、六条邸は新たな静けさに包まれていた。
 天地の君はあれから何度か魎呼姫に邸を移るよう勧めたが、はかばかしい返事は得られなかった。無理に言ってもと思い、天地の君はしばらく日を置くことにした。

 ひとまず帰ろうと立ち上がる天地の君に、呼びかける声があった。

「天地。」

 魎呼姫は相変わらず庭を向いたまま。

「例のこと、だけど」
「ああ」
「ごめん・・・今は、いい。」
「・・・そうか」
「いつかは、ね。でもしばらくは母上の暮らした邸にいたいんだ・・・。」



 帰り道、天地の君は魎呼姫の言葉を思い返していた。

『知ってたかい? この邸はね、母上が生まれ育ったところなんだ』


 雨は途切れることなく、もの言わず降り続いていた。









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