源氏無用物語

【宿木】 〜見初めざりせば〜





 夜空の海に雲の波が立ち渡り、星の瞬きを囃しに受けて月の船が行く。その惑いなく漕がれ行く様は天上の船ならばこそと思う。それに比べて自分の心の船はどうであろうか。日毎揺るぎ揺るがれ、まるで定まるということを知らない。



 天地の君は食が細くなった。いつもなにごとかを思い悩んでいる様子で、天地の君がいかに隠そうとしても色に出てしまっていた。
 そんな天地の君の姿を見ると、砂沙美姫の胸は締めつけられるように苦しい。天地の君を心配する気持ちももちろんある。しかしそれと同時に感じる悲しみと後ろめたさ。そして喜び。
 そのあまりにも複雑な色は言葉にし難く、どうすればよいかもわからぬままにただ砂沙美姫の心を染め上げるばかりであった。

 独り部屋の中で座り込み、額を手で押さえて苦悩する天地の君。今の砂沙美姫に出来ることはただ見守ることだけ。今すぐ側に行って苦しみを取り去ってあげたい。いつものように優しく微笑んで欲しい。でも、できない。
 押し留めるのは姿のない記憶と夜毎に見る夢。失われた物はおぼろげに漂うばかりでまことの姿を見せず、心に跡を残すあの人の影が、静かに砂沙美姫の琴線を弾く。その響きは波紋となり、また心の船を揺るがしてしまう。

(砂沙美は誰? 夢に見る、あの人は誰なの?)

 わからないことが不安にさせる。そしてもっとも不安を覚えることは。

(この気持ちは誰の気持ちなの?)




 天地の君はあの日のことがずっと頭から離れなかった。言うまでもなく津名魅の宮の入内のことである。なぜこうなってしまったのか。どうすればよいのかと。昔物語に例を求めて書物を紐解いたりもしたものの、今は見たくもない悲恋めいた話しかなかった。

(いっそ盗み出してどこかへ逃げようか・・・)

 できるわけがない。皇家に対する不敬、世間の目、後世の誹り・・・いや、違う。そんなものは言い訳に過ぎない。理由は唯一つ。決して捨てられないものがあるからだ。
 それでも津名魅の宮を失うことは天地の君にとって耐え難いことであった。津名魅の宮が手の届かぬ雲居の彼方へ向かわれるまで月の満ち欠けは一巡りとわずか。そのわずかの間になにができるのだろうか。

 いつかこのような日が来るかもしれないと考えなかったわけではなかった。それなのに、なぜなにも手を打たなかったのか? 若さゆえの曖昧な未来への希望、もしくは夢と呼ばれるもの―――そんなものを抱いていたのだ。
 思えば二人の逢瀬はいつも危うげで、何一つとして支えもなく、確かなものは、かき抱いた温もりのみ。それすらも今はここにない。
 胸の奥に絡みついた蔓が際限なく締め上げる。その痛みがこの事実を忘れさせてくれない。考えても光を見出すことはできない。考えないこともできない。なにも、できない。













 真備清音の中将がいつもように皇宮につめていると、思いがけなく天地の君より文があった。開いてみると、今夕某(なにがし)の邸へ来てもらいたいと書いてある。その邸は天地の君が所有しているが普段は使われていない、天地の君の別邸ともいうべき邸で清音の中将も何度か足を運んだことがある。

(ゆうべは何も言ってなかったのに?)

 とやや不思議に思いながらも、清音は呼び出された邸へと向かった。
 この邸はやや小さい造りをしており、普段は家司の者が二、三人いるのみである。ところが今日は輪をかけて人気がない。

 邸の一番奥で清音を待っていた者。それは美星姫であった。

「あんた、なに考えてんの?」

 清音は驚き呆れた。
 言うまでもなく先程の文は美星姫が偽ったものであり、この邸も天地の君に頼んで借りたのだろう。そこまでして一体なにをしようというのか。

「だってだって、清音が来てくれないから・・・」

 ぐしゅぐしゅという感じで泣く美星姫。顔を見ると挫けてしまうから会わずにいたのに、どうしてこうなってしまうのだろうか。

(いっそいま、天地の君と私のことを話してまえば・・・)

 それはひどく甘美な誘惑であった。
 しかし、思いとどまる。

「あーもう、泣くんじゃないわよ! どうしてあんたはいつもいつも・・・」
「うぅ〜、ごめんなさ〜い〜〜怒らないで清音ぇ〜〜〜」
「怒ってないわよ!」
「怒ってるぅ〜〜」

 むかし通りの会話。
 それは逃げであるとお互いに解っていたのだけれど、いつかはそのときが来ると解っていたのだけれど。今はただ、昔のように流れるこの時間に甘えていたかった。













 夜風が涼しく渡り、皇宮を巡っては草花をしっとりと潤していく。おそらくは宴が催されているのであろう、和琴、琵琶の絃を弾く音が風に運ばれてくる。
 かつて津名魅の宮にあてがわれていた部屋に訪希深はいた。津名魅の宮が東宮妃となられることが正式に公表され、訪希深は数年来の肩の荷をおろしたような気分であった。まだまだ気を抜くことは出来ないが、もはや戻れない峠を越えたことは間違いない。

 夜空の星を見上げて遥かな星辰の空に未来を思い描く。津名魅の宮が東宮妃となり、東宮はやがて皇位を継ぐ。そのとき隣りにいるのは津名魅。やがて皇子が生まれ、その皇子は東宮となる・・・。
 それは訪希深が望んだ未来の姿でしかなかったが、今はその空想が現実のものとなりつつある。そして、その空想の中に訪希深自身の在り場所は描かれていない。

「満足そうね、訪希深。」

 声の方へ振り向くと、そこには赤い髪の女性が立っていた。
 訪希深はその人物をよく知っている。

「お久しぶり、鷲羽。」
「どうやら人が変わってしまったというわけではなさそうね。」
「おかしなことを言う。」

 口元に微かな笑みをこぼしながら答える訪希深。そして、しばし無言で視線のみを夜の虚空に交わした。

「止めることはできない、か。」
「勿論。」

 諦めたように首を左右に振り、

「んじゃね、訪希深。今度はもうちょっと明るい場所で会いましょう。」

 そう言い残して鷲羽の典侍は去っていった。
 訪希深はまた空を見上げた。まるで先の先を見通そうとするかのように。














 秋が訪れた。初風が涼しく吹き渡って、夏の名残に別れを告げさせる。琴の音色にも似た風がそよとなびくのもまたゆかしい。
 徐々に涼しさを増していく日々、思い掛けない出来事が起きた。

 津名魅の宮が病に倒れられたのである。

 この事態はたちどころに都中に伝えられた。それにしても、東宮の妃を決める折からうまくことが運ばない。妃選びも何度も話し合いの末、ようやくの決定であったし、この御方に決まったと思えば今度は病である。まるで何者かが、東宮に対して忌まわしき所業を行っているのではあるまいかとつぶやく者も少なくなった。

 皇宮に伝わったとき、美砂樹皇妃の驚きようは只事ではなかった。伝えに来た者を卒倒させる如き声を上げ、取り乱しては側仕えの者達を翻弄した。

(きっと妃の位が重圧だったのね)

 美砂樹皇妃はただちに三条の社を訪れようとして、それを押し留めようとした女官たちと大騒ぎになり一時後宮は騒然としたとか。
 天地の君も手にした器を取り落とすほどに慌てふためいた。今すぐに側に行きたく思うが、出来ようはずもない。
 そしてもう一人。訪希深も。予想だにしない出来事というだけでなく、津名魅の宮がお倒れになったことに激しく動揺していた。

 秋の穏やかさを打ち消すようなざわめきが野分のごとく都を横切る。今まで例のない、不吉な秋の幕開けであった。








 その夜。
 二条邸の砂沙美姫の居室。
 砂沙美姫は眠りながら涙を零している。
 夢を見て泣いている。



   風が寒く響いて
   溶けて消え入りたいほどに
   どうしようもなくて
   ただ泣くほか出来ないでいた
   ごめんなさい
   ごめんなさい天地兄ちゃん、と。






うつしよの たのみがたきに くらされて なほさだまらず ゆるぐやどりぎ






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