『君の名は』





 1

 ある晴れた日の午後。
 柾木神社の境内へと通じる長い階段を、ゆっくりと上がっていく人影がひとつ。青みがかった髪を短く切り揃えた、理知的な顔立ちの、大人びた雰囲気を漂わせた女性である。 彼女は階段を昇ぼり切ると、神社の境内をグルリと見渡した。そして目的の人物を見つけると、声をかけながら近付いて行く。
「阿重霞さん」
 そう呼ばれて、社務所の前を竹箒で掃除していた阿重霞は、そこで初めて顔を上げ、女性の存在に気が付くと笑顔を見せた。
「あら、どうしたんですか?」
「阿重霞さん、ご苦労様です。あとは私が代わりますので、少しお休みになられては…」
 女性に話しかけられた阿重霞は、少し考えるような表情を見せてから、控え目に首を横に振った。
「あと少しで終わりですから、このまま最後までやってしまいますわ」
「そうですか?では、どうかご無理はなさらずに」
「ええ、ありがとうございます。…えぇと…んー…」
「…ノイケです。もう半年も一緒に暮らしているのですから、いい加減覚えてくれても…」
「お、おほほ!覚えていますとも。いやですわ。私ったら、少〜しド忘れしてしまって」
「はぁ」
 引きつった笑い声を上げる阿重霞に、少し不審気な表情を浮かべながら、女性――神木(旧姓酒津)ノイケ。瀬戸の養女にして、瀬戸が強引に決めた天地の婚約者――は、神社の境内から引き上
げた。

 2

 柾木家の台所では、今や砂沙美の調理作業がクライマックスを迎えようとしていた。
 あともう少しで、夕飯の完成である。
 家へと引き上げてきたノイケは、その良い匂いに誘われるかのように、台所へと顔を出した。
「砂沙美ちゃん、何か手伝える事はありますか」
「あ、…………。お、お姉ちゃん。もう少しで出来上がるから、ここは大丈夫だよ」
「…砂沙美ちゃん」
「な、な〜に?」
「今、一瞬、私の名前が出てこなかったんじゃ…」
「や、やだなー。そんな事あるわけないじゃない、ノイケお姉ちゃん!」
「でも…」
「あ、お鍋吹いてる。あー忙しい忙しい。ご免ねノイケお姉ちゃん、出来上がったら呼ぶからね」
「そうですか…」
 納得のいかなそうに首を傾げつつ、ノイケは台所を後にした。

 3

 居間では、鷲羽が部屋の中央に何やら大きな機械を設置して、怪しげな研究の真っ最中だった。その周囲を美星が子犬のようにまとわりついている。
「ねえねえ鷲羽さん、今度は何の研究をなさっているんですか〜?」
「だー!勝手にボタンを押すんじゃないっての!説明したって分かりっこないんだから、お願いだから大人しくしてて!」
 くそ〜研究室でバルサン焚いてさえいなければこんな所で作業せずに済むのに…等と、小声でぼやく鷲羽に、思わずクスリと苦笑を漏らすノイケ。
『宇宙一の天才科学者も、美星には形無しね』
 だが、あのままでは鷲羽が気の毒だ。彼女は助け舟を出すことにした。
「美星。アンタ、鷲羽様の研究の邪魔をしないの」
「だって〜」
「せっかくの非番なんでしょ。天地様にお願いして、どこかに連れてって貰えばいいじゃない」
「そ、そんなの…、それってまるで天地さんとのデート…きゃーっ、もうあたしってば何を考えてるんだかもうイヤンイヤンイヤン…」
 頬を上気させて、勝手に自分の妄想世界に突入して全身をくねらせる美星。端から見るとかなり危ない光景だが、鷲羽はノイケに感謝の視線を向けた。
「ありがと。助かったよ」
「いいえ、どういたしまして。プロフェッサー鷲羽の研究のお手伝いが出来て、何よりですわ」
「……」
「どうかしましたか?」
「それはそうと…あんた誰だっけ?」

 ガ―ン

 ショックのあまり、よろけるノイケ。1歩、2歩と後ろに下がり、堪らず床に崩れ落ちてしまう。今の一言は相当なダメージだったらしい。
「ノイケです、ノ・イ・ケ!瀬戸様の養女で、天地様の許婚の!」
「あー、そうだったそうだった」
「もう半年近く一緒に暮らしてるのに、それはあんまりな仕打ちです!」
「いやー、わたしってばここんトコ研究室に詰めっぱなしだったじゃない?で、どうにも記憶が曖昧になっちゃってて…。ゴメンゴメン。ホント悪気はないんだよ」
「悪気がない方がもっと深刻です!」
「どうしたんですかぁ?」
 今の騒ぎで正気に戻ったのか、美星が二人の方に近づいてきた。
 ノイケは思わず、このギャラクシー・ポリス時代の元同僚の腰に縋り付く。
「聞いてよ、美星!鷲羽様ったら酷いのよ。面と向かって私にあなた誰って…」
 冷汗を浮かべつつ、こめかみを掻く鷲羽。全く持ってその通りなので言い訳もできない。
「そりゃあ、確かに私はこの中では新顔だけど…」
 愚痴をこぼし続けるノイケに、美星はふっと柔らかな笑みを浮かべると、しゃがみ込んで彼女の背中を優しく抱き寄せた。
「馬鹿ねぇ、そんなこと気にしてたの?子供みたい」
「あなたは大丈夫よね?」
「当たり前じゃない。あたし達は親友でしょ。……ノイケ?」

「その一瞬の間と、最後の「?」は何なのよぉぉぉーーーーーーーーっ!」

 泣き声のエコーを残しつつ、家から物凄い勢いで飛び出していくノイケ。
 その後姿を見送りつつ、鷲羽は思わず額をピシャリと叩いた。
「あちゃー」
「なんだ。元気じゃない」
「…あのね」
 取り敢えず、鷲羽は美星に小さくツッコミを入れた。

 4

 柾木家から、少し離れた場所に作られた林道。

「どうせ私は、TV版天地ファンには『誰?あんた』なキャラですよ!」
 その細い道を、殆ど前も見ずに突っ走っていたノイケは、

 ドン!

「あ…」
 前方から歩いて来ていた誰かにぶつかって、ようやくその動きを止めた。
 美しい外見とは裏腹に、生体強化を受けた彼女の突進を、こともなく抱き止められる人物は、そうはいない(普通の人間にとっては、ダンプの前に飛び出す自殺行為にも等しい)。
 ハッとなって顔を上げると、目の前には。
「天地様…」
「どうしたんですか?そんなに急いで」
 案の定、丸い、人当たりの良さそうな顔に不思議そうな表情を浮かべた、彼女の許婚…柾木天地の姿があった。

 5

「なるほど。そんな事があったんですか…」
 畑仕事を終えて帰宅の途中だった天地は、背中に背負った大量の人参入りの篭を降ろすと、よっこらしょとばかりに道端に座り込んだ。ノイケもその隣に腰を下ろして、天地に向かって頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。取り乱した所をお見せしてしまって…」
「いいえ、いいんですよ。そんな事があったんじゃ無理ないですからね」
 天地のその言葉に、ノイケはこれまでの出来事を思い出して目を臥せた。
「それなりに長く一緒に暮らしてるつもりだったのに、まだ名前もしっかり覚えて貰っていなかったなんてショックで…」
「あんまり気にする必要はないと思いますよ?」
「…やっぱり私って、まだ阿重霞さん達にとってはお邪魔虫な存在でしかないんでしょうか?」
 そう言って、はぁ…と沈鬱なため息を漏らすノイケ。
 天地は、その憂いを含んだ横顔の美しさに少し見惚れてた。それから、はっと我に返ると慌ててブンブンと頭を振って、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。
「そんなことはありません」
「でも…」
「いや、確かに人の名前を忘れてしまうのは、褒められた事じゃないです。でも、それと阿重霞さん達が貴方のことを、邪魔者扱いしてるかどうかは別問題だと思います」
 断固とした口調の天地に、ノイケは黙って話しの続きを待つ。
「上手く言えないんですけど…、魎呼だって、阿重霞さんだって、砂沙美ちゃんだって、絶対あなたの事が好きですよ。でなければ、半年近くも一緒に暮らしたりなんか出来ませんよ。みんな、家族の一員だと思ってるはずです。まぁ、ウッカリ者が多いですから、人の名前を忘れちゃう事もあるかもしれませんけどね」

 6

 同時刻の柾木家。
 女性陣、一斉にクシャミ。

 7

 天地のその言葉に、ノイケは思わず笑みを漏らした。
 確かに、その通りだ。裏表のない柾木家の女性陣のことである。自分が嫌いなら、堂々とそう公言することを躊躇わないだろう。なのに「嫌われてるのでは?」などと勝手に思い込むのは、独り善がりもいいところだ。
『一緒に暮らしてる人のことを分ってなかったのは、私の方なのかも』
 未熟者。小さくそう呟くと、ノイケは吹っ切れたかのような笑顔を天地に向けた。
「私も、その通りだと思います」
「そうですか。ハハ…、よかった」
 その笑顔に、急に自分の台詞が恥ずかしくなったのか、そわそわと視線を逸らす天地。
 その彼の態度に、ノイケは自分の中にイタズラ心がもたげて来るのを意識した。
「ねえ、天地様?」
 意味ありげに、天地の顔を覗きこむ。
「何ですか?」
「天地様も、私のこと、お好きですか?」
「へ……」
 『ギシッ』と擬音が聞こえそうな勢いで、一瞬にして石化してしまう天地。そのあまりに予想通りの反応に、ノイケは思わず心の中で吹き出した。やはり、この人はかわいい。魎呼や鷲羽がからかいたくなる気持ちが、少し分かったような気がした。
「答えて下さい。でないと私、不安で…」
 ともすれば、顔に浮かびそうになる笑みを必死に押さえながら、迫真の演技を続けるノイケ。
 しばらくの間、天地は落ち着きなく瞳をさ迷わせていたが、やがて、意を決したかのように大きく深呼吸を一つ。
 そして、まっすぐにノイケの目を見つめると、
「勿論。俺も大好きですよ」
 そう言って、にっこりと微笑んだ。
 まったく、何の含みも感じさせない、穏やかな笑顔。
「あ…」
 ノイケは、自分の顔が急激に赤くなるのを意識した。天地の顔をまともに見れなくなって、俯いてしまう。きっと今の自分は、耳どころか首筋まで真っ赤になってしまっているに違いない。
「あの…ありがとう…ござい…ます…」
 指先をこちょこちょとこすり合わせながら、馬鹿ね年下の男の子相手になに赤くなってるのよこれじゃあどっちがからかわれているのか分からないじゃないのゴニョゴニョ…、俯いたまま、口の中で小さく呟き続けるノイケ。
 そんな彼女を「?」顔で見ながら、天地は立ち上がると、大きく延びを一つした。
 そろそろ、西の空が赤く染まり始めている。
「もう、こんな時間なのか〜」
 天地はノイケの方に振り返ると、まだ俯いたままの姿勢の彼女に話しかけた。
「さ、帰りましょう。砂沙美ちゃんの夕御飯が待ってますよ」
 その言葉で、ノイケはハッと我に返った。
「ね?」
 笑顔で、自分に向かって手を差し伸べている天地。
 まだ顔は火照ったままだったが、ノイケは気にせずにその手を取った。
「はい」
 天地の手を借りて立ち上がったノイケは、彼と目が合って、何となく笑い合う。2人の周囲に、魎呼や阿重霞あたりが目にしたら、問答無用で割り込みをかけて来そうな微妙な雰囲気が漂った。
「あの」
 ノイケは目を伏せながら、しかしハッキリとした口調で天地に話しかけた。
「私…今日ここで天地様に会えて良かった」
 その言葉に、ガシガシと頭を掻きながら照れまくる天地。 
「あ、あはは…」
「本当ですよ?」
「やだな。そんなこと言われると照れちゃいますって」
「だって私、天地様のことが…」
「も、も〜、からかわないで下さいよ…」



 「清音さん」






 ビシリ。




どっとはらい





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