過去ログ

現在 冬

2006年度
06年 秋
06年 夏
06年 春

2005年度
05年 冬
05年 秋

05年 夏
05年 春

2004年度
04年 冬

04年 秋
04年 夏

04年 春

2003年度
03年 冬
03年 秋
03年 夏
03年 春

2002年度
02年 冬

02年 秋
02年 夏
02年 春

2001年度
01年 冬
01年 秋
01年 夏
01年 春

2000年度
00年 冬
00年 秋
00年 夏
00年 春

12/24 日曜日 「せこいこと言うなよ」

「シンクロ井村コーチ中国代表ヘッドコーチ就任」

日本人と中国人がいがみ合うのは、現実問題としては仕方ない事だと思う。

だが、俺にはくだらなくてしょうがない。ましてやアスリートスポーツ界での議論としては。。。

「軍人が本物の戦争をしていて、敵の背景にも思いを馳せつつも自国のために、敵と戦うのだから、戦争中には敵に協力するのはおかしい」

というのなら分かる。

しかし、シンクロはスポーツだ。しかもアスリートスポーツだ。アスリートとは心までもが紳士たるものだ。

敵といえども、自分が自分や自国に誇りを持つのと同様に、敵は自分や自国に誇りを持つ。「誇りを持つ」という共通項で認め合う、が、勝負事なので敵とは戦う。

中国に日本のコーチが御呼ばれするなんて、誇り高き、名誉な事じゃないか。

「中国人は日本人を憎んでいる(はずだ)」という立場に立ってものを見ると、憎んでいる相手国に頭を下げてコーチをお願いするという行動を取れるのは立派な事じゃないか?

勘違いしないで欲しいのは、俺は「中国人が憎んでいる」とか「日本人が憎んでいる」なんて発想は幼稚だと思っている。日本人にも中国人にもいい奴も悪い奴もいる。一人の人間の心にも善と悪が共存しているもんだ。だから、何々人とかいう括りはくだらないと思っている。

日本人である自分に誇りを持てばよいだけで、他の国の人間が日本人をどう言おうと、言うだけならほっておけばいいと思う。本物の戦争でも仕掛けてくるってなら、それは戦うしかないが、スポーツは本物の殺し合いではないし、「殺し合いの戦う心理」と「スポーツの戦う心理」は別物で、それを混同するスポーツ選手は、スポーツを極めていないと思う。

つまり、そんな選手には金メダルとかそういう天から与えられるものである「良い運」を手にする事はないと思う。運を引き寄せられないのは、スポーツの極め度が低い事を意味していて、アスリートとは呼べないと思っている。

スポーツはスポーツ、政治は政治、感情は感情とごちゃまぜにせず、しっかり分け物事を捉えるなんてスポーツという世界で見れば立派な事じゃないか。

第一、そんなに憎い中国人という立場を取るのなら、中国側にだって不利はある。日本人井村コーチがわざと中国が負けるように指導する可能性もあるわけだ。でも、そこは、そんな事はしないと信じて、中国側は井村コーチにお願いしているのだ。信頼関係は立派な事であって、非難すべき事ではない。

紳士的にコーチをお願いしてくる中国(つまり、日本のシンクロ界を認めているということだ)、それを受けて立つ日本人の井村コーチ、美談のなにものでもないのではないか。

「中国が強くなって北京で日本が負けてしまう。メダルが取れなくなる」

だからなんだ。どこの誰が教えようが環境を整えようが、勝った方が勝ちで、負けた方が負けだ。

コーチが同じ(同じだった)という同じ条件で、中国が勝てば、その時点で中国は日本より強いということだ。その逆もしかり。

「敵が不利な条件だったが故に、敵が負けて、自分が勝つ。」

世の中はそういうものだから、結果としては仕方がないが、戦う過程として、買った側が本当の勝ちで、負けた側が本当に負けたと言えるか?

言えないね。

有利な状況にある人間は、不利な状況の人間に思いを馳せる余裕があるはずだ。不利な状況の人間が有利な人間をねたむのは余裕がないので、致し方ない(もちろん、妬む事など恥ずべきことではあるよ)。

日本シンクロは、有利な立場でやってきた。世界で勝ち続けて。負け続けてきたチームに、コーチを出す事がどこがおかしいのか?立派じゃないか。

むしろ、それを理由に負けたとすれば、選手として甘いだけだ。

環境は受け入れるものだ。与えられた環境の中でベストを尽くす。

だいいち、井村コーチが中国のヘッドコーチになるのが問題なら、サッカーで日本の監督に強い国を指導した外人を招いているのは誰だ?

強い国から助っ人を頼んでいるプロ野球はどこの国のスポーツだ?

それが悪い事か?お互いの国のスポーツを切磋琢磨させて、同じ土俵で勝負させようという立派な事じゃないのか?

こんな非難が日本で出る事自体、そのせこさに、日本人として恥じるべきだ。

そんなに誇り高き日本人でいたいのなら、それに見合うだけの誇り高き心を持て。持てば、こんなくだらない批判的発想は出てこないはずだ。

アスリートスポーツは体を鍛えて、技を磨き、試合の場で心と心の鍛錬度の勝負をしているのだ。誰が体を鍛えても、技を磨いても関係ない。他人がどうこうではなく、選手自身がどこまで心を磨けたかだ。

濁った心は、アスリートの世界ではみっともない事だ。アスリートなら濁った部分は、スポーツ以外の部分で出すべきだ。

12/21 木曜日 「歴史は面白い4 戦国時代(1500年)」

戦国時代は書き出したら、本一冊くらい語りたいところなので、簡略。

松永久秀は13代将軍を殺して、自分の意で動く14代将軍を擁立する。

織田信長は、松永久秀を追い出し、足利義昭を15代将軍に据える。

が、足利義昭は、本願寺や叡山とか浅井-朝倉と組んで反信長になったので、結局、信長に追放されて、室町幕府は終わる。

信長は、「仏も神も恐れぬ」といわれるが、自分なりの宗教観は持っていたはずで、桶狭間出陣の時に戦勝祈願をした名古屋の熱田神社には、信長が勝利のお礼に作った壁が今でも残っている(熱田神社にいったら是非探してみて。本殿の手前にある壁です)。

お願い事だけして、お礼をしない奴なんていくらでもいるのに、律儀だ。それは信長なりの神や仏という概念があったからだろう。

比叡山焼き討ちも、教科書では、すぐにやったように習うが、実際には数年間政教分離を唱えて説得している。

比叡山は説得に応じず、それどころか、浅井-朝倉をけしかけ、信長の比叡山焼き討ちの時には、一般人を比叡山に入れて、人の盾をとった。

とうとう堪忍袋が切れて、信長は比叡山を焼き討ちにした。気が狂ったのではなく、戦国の世を一刻も早く終わらせなくては、もっと多くの人が死んでしまうという信長なりの正義があっての行動。

お金や権力にまみれて、軍隊まで持って、政治に参加して、時には天皇家までにも楯突いたこの世の欲にまみれ切ったクソ坊主に怒っただけで、信長自身の宗教観は持っていたはず。

俺も、人の死の悲しみに付け込んで、商売をしているクソ坊主連中は大嫌いだ。単なる文字を戒名と称してお金で売り、その戒名であの世の地位が決まるなんて説法は、詐欺だ、霊感商法だ(宗教で救われる人もいるので、存在価値は認めています。ただ、聖職者としての心としては認めれないだけ。現代で織田信長的行動を取れば、それは時代錯誤で、単なる殺戮で正統性はない。じっとしていれば、どんどん人が死んでいくという「戦国の世」という特殊事情が信長の正当性の拠り所です)。

普通の人はあまり知らないだろうが戒名に「院殿」という文字を入れると数千万円もの大金をクソ坊主に取られる。「院殿」の成り立ちを説明するのは、霊感商法の片棒を担ぐ事になるので、やめておく。

人の死の悲しみという人間の「心」を踏んづけて、たかが2文字で数千万円、その金を困っている人のために善に使うのなら立派だが(2文字に数千万もの金を出せる金持ちから金を取る事は別に悪い事じゃない。取った金を「聖職者」が私欲に使うのが俺には許せん)、物欲ベンツになるわけだ。

宗教者は聖職者だ。一般人ではない。聖職者は限りなく清くなければ、聖職者を名乗るべからず。

俺の考える真の聖職者は、宗教では飯を食わない。正確には「食わない」のではなく、矛盾が生じるので宗教では飯が「食えない」のだ。聖職者なら、修行をして突き詰めれば突き詰めるほど、この矛盾が許せなくなるはずだ。

人の死で飯を食う坊主より、医者やボランティアの方が、よっぽど仏神に近い存在だ。お金は善行とは別のところで稼がなければ、聖職者としての矛盾が克服できない。

一般人が誰かのために寄付したとか、無料で何がしかをしたとは良く聞くが、坊主が寄付したとか、タダで何かをしたなんて聞いたことがない。税金すらもろくに払わずベンツに乗ってるくせに。

修行だって、結局自分自身の為にやってることじゃないか、誰かを救うためにやってるのではない。一般人である俺が泳ぐのとなんら変わりはない。俺は金を払って泳いでいる。もらってない。

坊主の修行などたんなるわがままだ。修行など、サラリーマンをやりながらでもいくらでも出来る。むしろ、新興宗教を見て分かるとおり、世間から隔絶された修行など、大きく端に寄りすぎていてバランスが悪い。

こんな奴らのどこが聖職者なのか?口ばっかり清く偉そうな事言って、欲まみれなんて、聖職者として卑怯だ。そんなやつは俺と同じ一般人に成り下がらなくてはならない。

お金はこの世の欲だ。その矛盾を克服せずして、聖職者を名乗るべからず。

既存の宗教で俺自身の宗教観を超えている人を見たことがないので、信長の

「宗教者に対する怒りと自身の信じる宗教観」

という一見すると相反する思想が良く理解できる。

いや、信長を語りだすと尽きぬので「山岡荘八著 織田信長」を読んでみるべし。ま、信長を美化しすぎているのは、ま、それはよし、次。

で、豊臣秀吉、徳川家康とタスキリレーをし、室町幕府以来途切れた幕府を、徳川家康が江戸幕府を開いて戦国時代が終わり、やっと平和な時代がおとずれる。

江戸はもともと江戸氏の領地だったから、江戸なんだって。江戸城は元々は江戸さんが済んでたんから江戸城なんだって。

なるほど、歴史は面白い。

12/20 水曜日 「歴史は面白い3 鎌倉(1200年)〜室町(1400年)」

鎌倉幕府は鎌倉にあるからって分かってたけど、室町幕府ってなんじゃ?

わかったよー。

京都の室町(北小路室町)に足利氏の家があったから。町だよ。鎌倉は市だけどね。(まー当たり前だろうけど、当時の人が室町幕府と呼んだのではなく、後の世で誰か名づけた)

足利氏は天皇とタッグを組むという政治戦略で鎌倉幕府を倒した(鎌倉幕府を朝敵にした)、鎌倉幕府のように軍事的に幕府を開いたわけじゃない。

ので、足利氏は軍事的に非常に弱体。なもんで、政治力も弱い。不安定な政治なので、不安定な政権になり、なもんで、日本中で騒乱になっていって、戦国時代へと突入していったわけだ。

室町末期には京都に双方20万の兵が戦って、京の都が荒廃しまくり。これが応仁の乱。

なるほどねー。

虚弱将軍のイメージの足利氏でも、一休さんでおなじみの三代将軍足利義満なんかは金閣寺とか作って、結構やり手だったようだ。K-1の武蔵の祖先の蜷川新右衛門もこの時代。

鎌倉幕府を開いた源氏は、途中で子種が尽きて、母方の北条氏が政権を握ったんだって。足利氏は北条氏を倒したのね。

源氏 => 北条氏(ここまで鎌倉時代) => 足利氏

となる。聖徳太子時代からの豪族は

蘇我氏 => 藤原氏 => 平家 => 源氏 => 北条氏 => 足利氏

と移り変わっていったわけね。この人たちは何かというと、天皇家に嫁を送り込んで、自分の支配下の天皇を擁立する事で政治の権力を握った人たちね。

12/17 日曜日 「いい顔してるねぇー」

女子フィギアよ。

もちろん、かわいーってのもあるけどさ、やっぱり、いい顔してるよ。

真央ちゃん、いい顔してる。去年まではかわいいだけだったけど、天真爛漫そうに見える真央ちゃんほどの人間でも迷い悩むんだね。

凡人の俺はちとほっとしたよ。

でも、いい顔になった。アスリートの顔になってきた。迷いや苦しみが人間を成長させる。

安藤美姫は、あのオリンピックはかなりいただけなかったけど(オリンピックに出れなかった中野選手たちの事を思えばあんなふがいない戦い方は良くない。結果じゃなくて気持ちがふがいない。けど、ま、俺は彼女のコーチではないし、18歳だから、しょうがないね)、今年はアスリートの顔になってきた。目に力が出てきた。一度失った信頼を取り戻すのは、何倍も努力が必要だけど、腐らずがんばってほしいものだ。

人間の成長は目に出る。

12/13 水曜日 「歴史は面白い2 平安(800年)〜鎌倉(1100年)」

この頃は京をいろいろ移動しているのね。今の京都は平安京なのね。

奈良から、京都の長岡京に遷都したけど、疫病やらで縁起悪いってんで、現在の京都、つまり平安京に遷都した訳ね。

でさ、

千葉、小山、宇都宮、足利、佐野、古河、阿蘇

なんじゃと思う?

北関東の人は分かるよね。地名。阿蘇は阿蘇山の阿蘇ね。

鎌倉時代付近に支配していた氏なのよ。今の市町村はこの

千葉氏、小山氏、宇都宮氏、足利氏、佐野氏、古河氏、阿蘇氏

の支配地域なのよ。それが戦国、江戸の世を経て、未だに地名として残ってるのね。

つくば市近辺に限ると、

境、猿島

なんてのも、境氏、猿島氏なんだよ、これが。

壮大、すごい!

関東地方は結構、この頃の氏が地名になってるのね。関西はこの頃の氏が地名にはなっていない。

たぶん、関東は京から遠いので、いろんな政治的になものに巻き込まれにくくて、結果的に、同じ家が代々、同じ地域を支配できたんだろう。

いや、ほんと、人生、何が有利で何が不利かはわかなんない。政治に不利な距離にいたがために、長く反映できる。でも、生きている間に政治に参加したければ、京の近くにいなくちゃいけない。

あとさ、秋田の方に

「後三年」

って所があるのね。こんな地名があること知った時にはさ、

「ずいぶん後ろ向きな知名だよな。なんで、こんなマイナス思考の知名なんだろう。もっと前向きに生きろよな」

って思ったのね。最近だと、虐待殺人した女が若い頃放火もやってたって事件あったけど、その女が放火したのが「後三年駅」。

でも、違うのね。これは平安時代に東北地方は京の政治支配権が及んでなかったんで、討伐に行ったのね。それが前九年、後三年って2回戦争があったのね。その後三年から来ているのよ。

「後ろ向きだ」なんて思っちゃってすみませんm(__)m

いや、歴史は面白い。

12/12 火曜日 「歴史は面白い 縄文(紀元前1万年)〜弥生〜奈良飛鳥(600年)」

歴史は大嫌いだった。理由は暗記は超苦手だからだ。俺は物事をイメージで覚えているので、意味のない数字の羅列や人名なんてまったく覚えられない。

ところが、20代半ばの無職の頃、「山岡荘八著 織田信長」を読んで戦国時代が大好きになり、この時、初めて歴史というものに興味を持った。

「なんだよ、学校でも暗記じゃなくて、こうやって歴史を教えてくれよ。そしたら、もっと歴史の勉強が面白く感じたのに。。」

と思ったものだ。

で、戦国マイブームが過ぎて10年熟成されて、最近やっと、戦国時代以外の歴史に興味が出てきた。

ので、「図解 日本史」を本屋で見かけて買って読んでみている。

おもしろい!!

縄文時代は1万年も続いている。紀元後わずか2000年しか経ってないんだから、縄文時代もたいしたもんだ。

日曜日、テレビで

「今から100年後の地球の平均気温は2.9度上昇する」

と言っていた。縄文時代は青森があったかくてそこに集落がある。縄文時代は今よりも2〜3度気温が高かったってんだって。

「1万年時間が逆戻りするんだね。後100年で。フムフム」

という事は、今から東北地方の土地を買い占めていれば、子孫から感謝されるぞ!100年後には、土地成金の地主だ。

で、聖徳太子って旧1万円札で名前は良く知ってたけど、実際は誰だか知らなかったのね。そしたら、皇族よ。皇太子なのよ。

この頃の天皇家は、結構、ブイブイやってるのよ。暗殺とかも。武力を持って政治をやってるのね。

聖徳太子の大化の改新に始まった政治改革が、現在の日本の制度として続いているのね。

1500年も前の改革がだよ。現在の国家としての日本は聖徳太子から始まっているのね。そりゃやっぱり1万円じゃわ。

この出発点から、官僚制度をつくり、大宝律令で刑法や法律といった政治制度が出来て、それが少しずつ形を変えながら、現在に至っている。

官僚もやっぱり馬鹿にしちゃいかんよ。1500年もの歴史があるんだから。。悪い事もするんだろうが、やっぱり官僚も、われら凡人とはかなり違うわな。

いや、偉い。遣隋使、遣唐使も、一回行ったら帰ってくるのは20年後とかなのよ。20年も先の事を考えて政治をやってるのね。偉い。

この頃は日本も韓国も仲いいのね。同じアジア人で憎しみあうなんて、完全にアメリカの策略にはまってるよ。馬鹿馬鹿しい事だ。アメリカの陰謀にまんまとはまってないでさ、仲良くは出来ないだろうけど、せめて、お互いの存在は認めるなり、放っておくなりしたらいいんだよ。

で、この頃は天皇家とつながりを持つ事で政治に参加する豪族、のちに武士、がいるのね。それがこの順番でおのおのこの世の春を謳歌してるのね。

蘇我氏 => 藤原氏 => 平家 => 源氏 (この間約500年)

わずかな家が現在の日本の基礎となっているのが驚きね。大多数の観客と少数の選手とその中のほんとの一握りの選手って関係が、納得よ。

観客と選手、どっちがいいのかなぁ?選手は楽しいけど、観客は楽だし。。。

「たのしい」も、「らく」も、「楽」だから大差ないか。

12/8 金曜日 「負けるな大人」

「死にたい奴は、カナダに行け」

というのは、とある所で見たアンケート結果を見て思った事なのだが、カナダ人に幸せかどうかのアンケートをとると、なんと、

「96%の人が幸せ」

と答えるそうだ。

コッチョビが、お金も親もなく、凍傷で腐った足を、自分で、ノコギリを使って切り落としたなんて子供も世の中にはいるというのに、最近、自由で豊かな国の五体満足な奴らのくせに自殺自殺とくだらないニュースを朝から毎日のようにやっていたのを苦々しく思っていたので、「カナダに行け」なんて、俺にしてはめずらしく角が立たないベスト回答だ(自負)。

だいたい、自殺報道自体、自殺幇助だ。アホマスコミの偽正義感ぶった偽善者の報道は、ビルの端に足を乗せ、今まさに飛び降りようと躊躇している「いじめられ苦自殺志願者」に、

「どこどこで、だれだれが自殺したんだよ。そのおかげでいじめていた奴らは世間からたたかれてるんだよ」

と言ってるのと同じだ。それは

「さー、さっさと飛び降りなよ。飛び降りれば、報道してあげるよ。そうすりゃ、いじめた奴に仕返しできるよ。飛び降りないなら、別の自殺者の所に取材に行っちゃうよ。どうせ視聴者も自殺報道にすぐ飽きて、われわれ報道機関もニュースとして扱わなくなるんだからね。ほら、今すぐ飛び降りなよ、今じゃなきゃ、ワイドショーとしての価値がなくなっちゃうんだよ」

と暗に言っているのと同じだ。そりゃ「じゃー俺も」と次々に飛び降りるわな、ガキの脳みそじゃ、簡単にそそのかされるわな。

ま、腐ったアホマスコミは、もうジジーで今更未来がないのでほっておくとして、文部科学省かどっかに「自殺します宣言」をするガキが殺到しているとか。。。

そんなのは全部

「善意の自爆テロ」

だ。「悪意による脅し」の逆手を取った、

「善意に訴えかける脅し」

だ。第一、武士の信念ある切腹じゃあるまいし、自殺なんて、こっそりひっそりするものだ。信念のない自殺なんて、恥ずべき事で、威張る事じゃない。

「死」とは、とても重い事で安易に口にできるものでもないし、安易に選択できる事でもない。

死は「いかに生きるべきか」を考えるためのものであって、生きる事を放棄するための選択肢ではない。どう生きるかというその人の「信念」の上に死が存在しているもんだ。

攻撃の矛先は、悪人や敵に向けるもので、自分の要求を敵に飲ませるために、その周辺にいる善人に攻撃の矛先を向けるなんて、テロの構造と同じだ。

もちろん、黙って死ぬくらいなら、文部省でもなんでもいいから、誰かに「相談」(自殺予告は相談じゃない。テロ予告文だ)してからにした方が良いのは間違いないし、子供の脳みそから出てくる行動はこの程度の幼稚なものなのはもっともなのだが、だからといって、大人はガキの起こしたテロに屈しちゃダメだ。

テロリストの要求を呑むと、次から次へと同様のテロが発生するのと同様に、一度、善意のテロの要求に屈すると、次から次へと自殺予告、しいては、自殺する奴が出てくる。

実際、そうなった。

ところで、親は何しとる?

昔、テレビで障害者の方が言っていた言葉で、非常に心に残っている言葉がある。

「われわれ障害者で一番困るのは善意によるおせっかいだ。悪意による何がしかは、怒ったりなんなりで障害者でも対抗できるが、相手が良かれと思ってやっているおせっかいは、相手の善意で悪気のない事なので、怒る事も、やめてくれとも言えないだけに、とても困る」

といったような言葉だった。善意による攻撃は悪意による攻撃よりも、受けた側にしてみると扱いが難しいんだ、特に善人にとっては難題なんだ。

善行を行うには、相手が「断る権利」を行使できる状況をも用意しておかなくちゃいけない。

善意テロに負けるな大人。がんばれ大人。

毅然とした態度こそ、大人としての威厳が示せて、頼る側も本気になれるってもんだ。子供の仕掛けた善意テロにあたふたする大人を見れば、そりゃ自殺もしたくなるだろ。

大人がガキに舐められたら、舐めている子供は誰に頼ればいいのか。

「やっぱり大人には、かなわねぇ」

という安心感が子供には必要だ。

犬社会でもサル社会でもボスがいるから、その群れは安心していられる。ボスが粗暴でも、他のメスを独占してもなお、それ以上の安心感を享受できるのだ。

いじめは今も昔もずっとあった。それが今更なくなるはずがない。この現実をまっすぐ受け止めてから、考えなくてはいけない。

犯罪のない社会を前提にした仕組みはおかしいのと同じだ。学校教育するだけで警察官はいない状況では、片手落ちなのと同じだ。いつの時代のどんな社会にも犯罪は必ずある。犯罪者を生み出さない努力と、犯罪者を取り締まる努力があって、犯罪が減るのと同じだ。

いじめが良い悪いを議論しているわけではない。そんなもん悪いに決まってる。

「この世は、善も悪もあってこの世だ」

という現実。善だけの世の中、悪だけの世の中、それは、この世ではなく、あの世の話だ。天国と地獄の話だ。善も悪も、表も裏もあるのが、この世だ。

物事は、常に、根本部分に、多角的に、対策を打って改善される。現実はそのまま、まっすぐ、捉えなくてはならない。

いじめも、いじめる奴を減らす努力とともに、いじめられた側の反撃する努力や、そもそもいじめられないような強い子供、せめて並みの力のある子供に育てる親の努力が必要だ。

俺なら学校に空手道場でも作って、いじめられる奴は強制的に道場に入れていじめられる側にも自ら打開策を打てるような物事の考え方や実行の移し方を強制的に指導するな。「強制的に」だ。ボスにはその権利も、「強制する義務」もある。

簡単に手に入らないものを手に入れようとするそれくらいの努力は、いじめられる側もする必要がある。ま、やり方はいろいろある。

死にたい奴は勝手に死ね。選んだ死の価値観が、その人のこの世で生きた人生の価値だ。くだらない死に方を選んだ奴は、自分で自分の人生をくだらないものにしたという事だ。

生まれ変わりも、あの世もありゃしねー。1回限りのこの世でどう生きるかそれだけだ。天から与えられた時間と環境の中で、どう生きるかだ。

いじめた奴が、自分の人生をくだらなくしたんじゃない。

自分の人生に、自分で責任を持てなかった結果、責任を放棄した、その結果だ。こんなに豊かで自由な日本に生まれておきながら、自分で選択可能な自分の人生を他人のせいにするのは単なる甘えだ。

子供が甘えて生きているのは当たり前の事だが、自殺という選択は甘えすぎだ。自分で自分の人生に責任を持て。責任を持てるように大人は育てろ。そんだけだ。

やるだけやって、死んだのなら、それはしょうがない。強い遺伝子を弱肉強食のシステムで残す種の保存法則からなんら外れた事ではないし、また、人間にはどうすることも出来ない、この世の無常でもある。

無情もまたこの世のものだ。無情のない理想はあの世で実現するしかない。この世にいる限り、この世の環境を受け入れるしかない。受け入れる事から道は開ける。

無情を何とかしようと悪戦苦闘する過程に意味があって、結果的に無情が発生したのなら、それは仕方ない事だ。

「悲しい事、辛い事、無情」も「楽しい事、うれしい事、幸せな事」と同じで、この世の人生の内だ。ラッキーだけが人生じゃない。ラッキーもアンラッキーもどっちもひっくるめてひとつの人生、自分の人生だ。

人生は受け入れるものだ。人間に出来る事は、

「どう受け入れるか」

それだけだ。

時にはそのまま受け入れるも良し、時には何がしかの努力をするもまた良し。それがその人の生き方だ、スタイルだ。

話は逸れたが、言い訳している間にカナダに行け。96%もの人が幸せだと即答できる国に行ってから、本当に死ぬかどうか考えた方がいい。急がなくても、動物の死亡率は100%だ。必ず死ねる。

「幸せだ」と即答出きるようになるには、それなりの経験と価値観が必要なのだ。

12/7 木曜日 「ステージ」

30歳を過ぎた頃だろうか。人間にはランクがあることに気づいた。

高いステージにいる人と、低いステージにいる人がいる。一言で言えば人間的に磨かれている人とそうでない人がいる。

財産とか社会的地位とは関係がない。一般的に、多くの苦い体験と少しの成功が人を磨くので、年齢が高くなれば、誰でもステージが上がる。

でも、ステージを駆け上がるスピードが人それぞれ違っているので、同じ年齢でも到達しているステージが違っている。

年相応の人と、年齢以上に磨かれている人と、おいおい、お前の年齢でそんな状態で人生終わるまでに間に合うのか?という人がいる。

高いステージに立っている人からは、低いステージの人が良く見えるけど、低いステージの人からは高いステージの人の考え方が理解できない。

一定以上の差が開いてしまうと、高いステージの人の考え方があまりにも理解できずに馬鹿に見えたりする。馬鹿と天才は紙一重の所以だ。実は馬鹿と天才の境目を見極められない自分が未熟なのだが。。。

これに気づいてからは、「自分を磨きたい」という欲求が大きくなった。俺は

「世間でいう神なんてものはいない、そんなものは、いようがいまいが利用するものだ。神なんて偉大な者は、利用されたって喜ぶ事はあっても、怒ることはない」

と思っているので(俺自身の宗教観は持ってます)、宗教的に磨きたいわけではない。

自分を磨くと周りが良く見えるようになるので、生きやすくなるからだ。偏屈者にとって生きやすいかどうかは、結構重要な問題なのだ。

ただし、磨かれるほどに迷いも増え、迷う内容も難しくなってくるけど。

25歳ころまでは、お金と社会的地位を手に入れたいと思っていた。それが手に入れば幸せになれると何の根拠もなく思っていたからだ。

でも、高いステージに上がるのに必要なのは「経験」であって、お金で買ったり、社会的地位を得て他人からチヤホヤされる事では上がれない。むしろ、お金や社会的地位は、事象をややこしく、難しくする事が多い。

で、自分を磨くのには水泳が一番手っ取り早かった。水泳が唯一、他人より秀でていたし、すでに、だいぶ奥深くまで突っ込んで探求していたからだ。

それに一人でモクモクと泳ぐという単調さがいい。単純で単調な事は奥深く入り込みやすい。

ひたすらプールを行ったり来たりしていると、飽きてきて、いろんな事を考える。従って嫌でも自分に向き合う機会も増える。無の境地とまでは行かないだろうが、無に近い感覚で泳いでいる時もあったりする。

ま、座禅のようなもんだろう。俺はじっと座っているのは耐えられないけど。

実際に生活していて、

「こいつはすげー、まいった、かなわない」

という人には残念ながら会った事がない。少し上のステージの人や、同じ程度の人や、ある部分は俺よりもずっと上手だけど、ある部分は俺よりもずっと下って人とは会う。

何も、俺がステージが高くて、周りが低く見えているからだと言っているわけではない。むしろ逆で

「類は友を呼ぶ」

のだから、当たり前である。自分のステージが低いから、高いステージの人とも出会えないのだ。

自分が高いステージに上がらなければ、自分より高いステージの人は周りにいないわけだ。

ステージの高い人の視点から見れば、何も、ステージの低い人間のつまらない視点に付き合うメリットはないのだから当然だ。

ところが、今はネットという便利なものがあって、たまに、非常に極まれに「こいつはすごい。こいつはすげー強い」という人のブログやHPを目に出来る事がある。

そういう人は、経験があまりにもぶっ飛んでいる。ぶっ飛んでいるが為だろうが、一種の悟りの境地みたいな所に達している。

一般常識とは別の自分の中の常識で行動していて、かつ、反社会的行動はなく、一般社会とうまく折り合いをつけて生きている。

そういう人間の強さと来たら、まいる。表も裏もない。ぜーんぶさらけ出しちゃう。

俺も、ある時から、「世間の普通」に合わせる事や、逆に世間を俺の普通に合わせさせようというをなるだけやめて(つい口にしちゃうけど(>_<))、「自分の普通」に従うようにしているので、その強さを会得する発想は分からないでもない。

でも、俺なんて正義感とか、そういう奇麗事は前に出せるが、自分の恥とかそういう部分はとてもじゃないが人前では恥ずかしくて出せない。簡単に言うと、かっこをつけていなくちゃいられない。

そういう所は俺はとても普通の人間だ。とても、さらけ出せない。人は隠していたいと思う所をつつかれると弱いので、隠す事に力を出す必要があって、弱点を常に持ち歩く不安を持っていなくちゃいけない。

暴力に訴える人は、腕力は確かに強いし、殺されかねない力を持っているが、逆に、「そういう力を持たざるを得ないほど隠したい自分の弱さ」を必死になって隠しているわけだから、別に人間的な強さはない。人間的にはかなり弱い。

が、さらけ出す人間は、弱点すらさらけ出して、逆に相手に自分の弱点の処理を任せてしまう強さがある。

う〜〜ん、一考。

12/6 水曜日 「年賀状」

今年も早くも年賀状シーズンになってしまった。

「必要な事なんだという概念」を多くの人で共有する事で、「ITは便利だ」とか「生産性が上がるんだ」とか「コストダウンになる」とかいう空想を、まるで真実かのように錯覚している人間の妄想がIT技術。ほんとの所は、なけりゃないで済む単なる無駄な技術だ。

便利も普及してしまえば、うっとおしいだけで不便だ。

江戸時代なら東京から大阪まで行くのに3日かかっても誰も文句は言わないし、自分が、いつどこで何をしているかが曖昧であっても別に誰も文句はいわない。そんな余裕が動物には必要だ。

そこは信用とかいう人間の心で繋がっているだけなので、信用という曖昧が許される。携帯電話という物質で繋がっていようとするのは、うっとおしい。

携帯電話やメールなんてのも、男女間の秘め事をコソコソやるためのツールといっても過言でないほど、良い事よりも悪い事(悪くはないか。せこい事かな)に使われる事の方がずっと多くて、持たなかったり、使いこなしていないと悪人の如くいわれる携帯電話などなくなってくれと本気で思っていたりする。

無駄な事に、いかに多くの人に、いかに多くのお金を出させて回すか、それが経済だ。

必須事項だと錯覚して、どんどこITにお金を出してくれる人間のおかげで、俺はSEとして飯を食っていけている。

無駄が回り回って必須事項になって、飯の種を生む。無駄が無駄じゃなくなり、この世の摩訶不思議。

と、悟っているが如くの自分を誇示するために、1995年にインターネットに繋いだ俺でも年賀状は未だに手書きだ。

第一、コメントひとつないすべて機械で刷った年賀状なんて、俺の大嫌いな、

「特に意味はないが、今までそうだったからやらなくちゃいけない。お前も従え」

という無意味の究極じゃないか。手書きで書くから、何か交換できるものがあるんじゃないか。

俺は納得できない事に、力を出す事はわずかな力であっても苦痛でたまらん。

だから、コンピュータで刷るために力を出す気にはなれない。納得の行く手書きの苦労には力を出しても良い。

手書きじゃなくてもよい行事になったのなら、無駄だ、無駄だ、やめちゃったほうがいい。

というもっともらしい言い訳は、ちょっと、いや、かなり誇張で、ほんとは、

「プリンタ買うのめんどくさい」

「住所録を入力するのがめんどくさい」

「例年と違う行動をイメージするのも、実践するのもめんどくさい」

「水泳以外でめんどくさい事はやりたくない。無駄な事に力を出す贅沢の極みは、水泳だけで十分」

=> あ〜めんどくせ、今年も例年通りの手作業でいいや

というのが本音 (^_^;)

いずれにしても、年賀状はかなり苦痛だ。同じ絵で、コメントも少しだけだが、全部手書きなので、どんなに集中しても丸3日ほど、部屋にこもりっきりになって、書いている。

ミスドでもらった景品の小さなテーブルにうずくまるようにして書いているので、腰は痛くなるし、胃が圧迫されて吐き気がしてくる。

この時期の毎年の事だが、この苦痛からの逃避で、コンビニに売っている年賀状を見て見ぬ振りをして買わずにいたら、昨日までコンビニのレジの横で売っていた年賀状が売り切れていた。

まずい、現実と向き合う時が来た (>_<)

 

もどったる