ベタ展開小説

 

 

 
  「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・・」

 

 

 

玉音放送からまもない1946年、新円切り替え日の朝、突如として玄関に響いた男の声。

 

「松本!ただいま帰りました!」

 

まるで生粋の軍人かのように直立不動で玄関に立っていたのが、戦地に駆り出されつつも生還した俺のおじいさんである。

おばあさんなどあまりの突然の出来事に、泣きながら「松本が・・・松本が・・・」と近所に駆け出していったそうだ。

平和で豊かな国となった今の日本では、まず一生涯味わう事のないワンシーンであろう。

家族と近所の境目が、まだ曖昧で、日本人どうしが今よりも一体感を持っていた戦後の復興期。

生きながらえたお互いが助け合いながら生きるのは当然の事であり、東京南千住という下町ではなおさらの事であった。

松本の家にも、近所の人が家を建てるとなると、仮住まいとして庭を貸してひとつ同じ敷地で生活をし、戦火を潜り抜けたお互いの家の子供達が遊ぶ事も普通の事であった。

平成という時代となってもなお、住み慣れた南千住という下町に暮らし、息を引き取っていくような濃厚な人間関係は、今の時代となっては、なかなか体験できない関係だ。

そんな環境で育った子供達もやがて成人し、各々の家庭を持って世間に散らばっていく。遠い幼少期の記憶は薄れ、どこで、誰が、どんな人生を歩んでいるのかなど、気に止める事もなく・・・・・

そんな幼少期を経た娘も成人し、東京板橋区中台にある旭化成の技術研究所に勤務する高橋に嫁いだのが、俺の母親であり、そして父親である。

結婚後すぐに、宮崎に転勤となり延岡という片田舎で俺は育つ事になる。体の弱かった俺にとっては、都会で育つよりも結果的に良かったのかもしれない。

書道、ソフトボール、ピアノ、水泳と一週間まるまる習い事の子供時代を送る。

どちらかといえば運動神経も鈍く、かなづちだった俺が不思議と水泳の平泳ぎに限っては、多少秀でていたようで、小学校を卒業する頃には、温水プールすらなく冬でも水で練習するような県ながら、一番速く泳げるようになり、習い事は水泳一本に絞られていく事になった。

子供の頃から「屁理屈」「生意気」と言われるような思い込みの激しい性格が幸いし、中学に入ると選手として急成長して、全国でも通用する選手となった。

高校進学では、数え切れないほどの高校からスカウトを受け、水泳の強豪校であった東京の日大豊山高校へと進む事となった。

親元を離れた俺の生活の場は、日大豊山高校水泳部の寮へと移る事となった。

その水泳部の寮は、元は旭化成の技術研究所があった土地に建てられたものであった。

(ただし、当時の中台グラウンドは、旭化成と豊山高校で共有しているグランドであった。豊山高校は都心の一等地「護国寺」にあるため、今でも体育の授業は中台グランドまで、高速で40分ほどかけて行っている。)

俺の父親も、自分の職場であり独身寮で生活していた同じ場所に、まさか将来、まだ見ぬ自分の息子が生活を始めるとは夢にも思わなかった事であろう。

実際、俺が豊山高校に進学する事になった当時、この妙な縁を家族で不思議がった。

ただ、そんな運命的ともいえる縁とは反対に、俺の水泳の結果は低迷した。

思い込みの激しさから、「オリンピックに行くのは当然」と思っていた俺が、

「目標が達成できない」

という幼稚な理由ひとつで競泳から引退するのは当然といえば当然の結果で、

「もう絶対泳ぐもんか」

と、ふて腐れて競泳界から引退していった。

そんなモヤモヤとした引き際では、鬱憤は晴れるどころか年々鬱積し、引退から10年後、再就職をきっかけにまた泳ぎ始める事となった。

当初は気楽な水泳再開ではあったが、出場資格年齢に達する2001年宮城国体が近づくにつれ、

「高校時代の鬱憤を晴らしたい。なんとしても表彰台にあがりたい」

という思いが強くなり、練習量は現役並みに増え、いつしかまた、「水泳」から「競泳」へとなっていった。

その甲斐もあり、「9位と0.01秒差」の「7位、8位同着」でギリギリ予選通過した宮城国体50M平泳ぎ決勝で、人生初で、かつ、最大級の一発大逆転のレースを展開し、3位表彰台へと上る事が出来た。

このレースによって、高校時代までの「競泳への係わり方」「競うための水泳」に自分の中で"はっきり"決着が付き、心のどこかにドンヨリとたたずんでいた鬱憤は晴れ、知らず知らずに10年以上足踏みして来ていた自分の人生にも、新たな一歩を踏み出していけるような気分になれた。

ところで、この国体レースというのは、個人レースだけで終わりではない。県の代表として戦うリレーもあるのだ。

システムエンジニアとして、筑波大学に出入りする俺は、茨城県の国体代表だ。200Mメドレーリレーでも平泳ぎ担当の第二泳者として代表入りしていた。

このメドレーリレーに至っては、練りに練った作戦が、神がかり的に噛み合って優勝をさらい、表彰台の一番高い所へと上がる事となった。

 

 

 

このレースの茨城アンカー、岡田禅さんの絶妙なタッチは、「禅(ゆずる)タッチ」と呼ばれ、今でも語り草だ(^^)

 

 

禅タッチ

 

 

 

2001年から50年も前の松本家。

その庭に仮住まいとして住み、同じ屋根の下で俺の母親と遊んだ娘が、九州の福岡へと嫁いで男子をもうけ、水泳を始めただけでなく、筑波大学に進学して競泳を続け、引退し、それから10年の後、茨城代表として200Mメドレーリレーのアンカーとして「禅(ゆずる)タッチ」を決める母となる事など、誰も空想すらしなかった。

 

「幼少期のほんの一時期いっしょに過ごしただけで、それぞれまったく別の人生を歩んだ友達同士。半世紀の時を経て、知らず知らずのうちにお互いの息子同士の運命がまた近づき、そして交差する」

小説なら、ベタベタな展開のこんな話など、俺も、親も、祖母も、誰も知らなかった。もし、神が書いたというのなら、神はB級の作家だ。

時間を現在から過去へ見るとあり得そうな縁でも、時間の流れ通りに未来へ向かって見ると偶然とは思えない縁の繋がりがあったりもする。

俺と禅さんにそんな縁の交差があったと知ったのは、宮城国体が終わって1年も経ってから、お互いのおばあさんの住む南千住8丁目での事だった。

 

おしまい。

(これは、ノンフィクションです)

2009.5.11