森1
仕事の「奥の院」


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以下の文章の中には外国語でアルファベットに
アクセント記号などが付くべきである場合にも
それを省いてしまっています。
文字化けを恐れるための仕方がない措置です。
    悪しからず。


I. 大学で教え始めて

東京でオーバードクターをやった後、名古屋大学の教養部に赴任し、
哲学と哲学史、そして論理学も教えてきました。
今のように大学改革の嵐が吹き荒れているわけではなく、
当時はのんびりと過ごせたように思います。
ライプニッツの『人間知性新論』の翻訳を毎日少しずつやりながら、

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アランの本を講義したり、カントの哲学を解説したりしながら、
ライプニッツを出発点にしながら自分のやるべきことを模索していたわけです。

ちなみにアランの講義は小林秀雄訳の
『精神と情熱に関する八十一章』というやつを使っていました。

精神と情熱とに関する八十一章
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4 抜群の充実度を誇るアランの哲学概論
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原語と読み比べながら講義の予習をすると、
小林訳が不正確な点は幾らでもみつかるけれども、
日本語のうまさにはやはり感心していました。

論理学の講義はオーバードクターのとき初めて非常勤で教えることになった
千葉工業大学の清水義夫先生の書かれた『記号論理学』(東京大学出版会)を使って、
命題論理学から入りました。

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工学部の学生が多かったせいがあるかもしれませんが、
「論理回路」で<電卓の原理>あたりを話すと、
かなり興味を持ってくれたようです。
学生が作る<教官のブラックリスト>では、
論理学の方が哲学よりも評価が高かったのは私としてはちょっと残念ですが。

II. 今は無き教養部の楽しみ

教養部が廃止されて情報文化学部ができてから何年かはクラス担任制が続いた後、
今では指導教官制に戻っています。

もともと教養部では大学の1,2年生を対象に指導教官制が設けられていました。
どの学部に入ろうと好きに教養部の教官から一人選んで
指導教官になってもらうというものです。
主として成績表をわたすことと学生生活の相談がその役目でした。

4月の研究室群はそれを頼みに来る学生で廊下はにぎやかです。
一教官に学生15人が一応の限度なので、人気のある教官はすぐ一杯。
特に指導生コンパなどをやる先生に人気があったみたい。私もやりました。

初めは学生が決めてきたところでやっていたのですが、
いろいろ話していると食事の際のテーブルマナーに不安を抱いている人もいた。
それで知り合いのフランス料理屋さんで
格安のディナーをマナーの修得の意味も含めてやったりしたんです。
簡単にだけどワインの見方も含めて。

III. 本当の教養って何? ---教養をめぐる種々の話題---

教養部は高校の延長だとか言われて、学生の中にも「早く専門に進みたい」
とだけしか思っていない人々もいました。

或る法学部女子学生の話のその一例で、
彼女も教養部はつまらないと言っていたそうです。
そして早く司法試験に受かることばかりが念頭にある。
実際、卒業して3年ぐらいで受かったのかな(平均的だね)。
その後の話。
司法修習生になって、<社会勉強>のためにパチンコをやりに行ったそうな。
そんなことまで「社会勉強」やらなきゃ社会がわからない人に
「裁いてもらいたくないな」と私なら思っちゃう(判事になったようなので)。

そもそもそんなに専門ばかりやりたいんですか?
<専門ばかり>やって<専門ばか>(おっと差別用語かな?)になりたいんですか?

現在でも大学改革の中で、教養部廃止以降、学生の基礎教養が貧弱になったといって
専門基礎教養を充実を叫ぶ声が出てきています。
でも本当の教養って、専門基礎だけではないことを、
どれだけの人々(納税者)が意識しているでしょうか?

私が体験した医学部の学生の話もこれに関連しています。
教養部では英語だけやってこいと公言する医学部教授の言葉を
真に受けてさぼりにさぼったあげく単位を落とされて
文句の投書をするような学生が存在するということです。

実際、私は落とした学生らしき者から「もう少し大人になりなさい」
という非常に不愉快な「匿名の」投書を研究室のポストに受け取っています。

理系教官の文系差別もこの教養についての低い意識の結果でしょう。

名古屋大学の東山キャンパスでは文系学部と理系(主として工学部)とが
グリーンベルトという空間によって隔てられています。
そして或る理系教官は「グリーンベルトの向こうは眠っている」と言ったとか。
名古屋という「ものづくり」を大事にする気風は良い面もありますが、
ともすると文系的な学問を「何の役に立つのか?」といった浅薄な問いと共に
軽視しがちな感じがします。


IV. 専門という<ものごと>

そもそも近代「科学」というものについて考えみる必要があるでしょうね。
「科学」の「科」というものについてです。
病院で内科、外科、小児科等々があるように、
守備範囲の区分けという意味合いがある。
科学者(scientist)という英語の成立そのものが、
「物資世界に関する知識の研究者」という意味での
19世紀前半の新造語なのです。
(藤沢令夫 『プラトンの哲学』 岩波新書 pp.6-7参照)
言うならば、物質世界に領域を限ったわけですね。

プラトンの哲学
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藤沢 令夫
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5 今,この時代こそのプラトン哲学
5 新書ならでは
4 エロスの名訳


近代科学の展開によって、
人は何故こんなところに迷い込んだのでしょうか? 

それは、客観性というものを最も重要なものとし、
それに伴って議論・理論の展開における厳密性がすべての分野で要求され、
あたかもすべてを数学的に展開することが理想のように思われたから
なのではないでしょうか。
「すべての学問は数学をめざす」という言葉さえあります。
どんなものでも証明されることが理想のように見えたのです。

厳密でないもの、客観的でないものは、
「そんなの価値判断でしょう!」と言われて排除されることになるのです。

実際、一個別科学である経済学から出発した私もそうした議論を
論理実証主義に心酔していた友人(とは言いたくない)から吹っ掛けられて、
真剣に悩むことになる。

だからこそ却って大学三年でゼミを選ぶときにも
あえて数理経済学・経済数学のゼミに身を投じたわけです。

数学科出身の二階堂先生の優しい指導の下に学びながら、
先生の『現代経済学の数学的方法』(岩波書店)で展開される
「一般均衡理論の解の存在証明」のエレガントさに惹かれもする。
しかし、その体系の美しさとでもいうものによって取り残されたもの、
排除されたものがあるようにどうしても感じられる。

現代経済学の数学的方法―位相数学による分析入門
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効用極大・利潤極大を目指すHomo Economicus(経済人)の抽象性に辟易する。
「全体としての人間」がどこかに吹っ飛んでしまっているように思えた。
とてもそんな経済学の世界に長く住んではいられない息苦しさを感じたわけです。

V. 個別科学からの脱出

結局、経済学を離れ、哲学に進んでいくことになるのですが、
その過程はひょっとすると、参考になる人もいらっしゃるかも知れません。
当時出版されたばかりの書物、清水幾太郎の『倫理学ノート』は
私が模索していたことに関するヒントを与えるものでした。

倫理学ノート
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清水 幾太郎
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5 思想家 清水幾太郎の肖像−右傾化の手前で


「ケインズ、ロレンス、ムア」という章から始まるこの書物は、
ケインズが独自の経済学を創り、ラッセルが自分の哲学を創っていく際の
雰囲気をブルームズベリー・グループに関する叙述によって、
見事に描き出していました。
そしてあの『チャタレー婦人の恋人』のロレンスが猛烈にそれに反撥する姿をも交えて。

この清水幾太郎の本についての詳しい説明は止めておきますが、
とにかくこれまでの科学は人間を見失ってしまったのではないか
と問うてみる必要がありそうです。
そして、この問いは既に哲学に足を踏み入れている。

VI 合理性について考える

近代思想の主要な流れが、
「合理性」を念頭に置いて展開したことは認めてもいいでしょう。

それが、理論展開における形式論理的な合理性であろうと、
実践的な・政治的な意味での合理性であろうと、です。
実は、この実践的な、つまりは民主制の根幹に関わる「投票」というもの
についての合理性に大きな問題のあることが、
厚生経済学の問題として浮かび上がっていたのでした。
「投票のパラドックス」の話です。
ノーベル経済学賞をもらっているアローの業績もここに関わっています。

<合理的精神>そのものを相対化する議論も少なくありません。
構造主義以来のヨーロッパ中心主義批判、
デリダによるロゴス中心主義批判もありますし。

そもそも<「科学的」なんて言うけれども、そこに胡散臭さはないのかい?>
と問うてみましょう。
自分は科学的だなどと言って他を批判しながら、
自分自身は隠された形而上学を主張していることだってあるのは、
論理実証主義の「検証」の話でおなじみの議論ですよね。

この辺の議論に頻繁に登場するであろう「絶対的妥当性」とか普遍性、
そして数学的な確実性とかいったことが必要以上に
(つまりは他を排除して)強調されすぎてはいないだろうか、
と問うことはできないでしょうか。

実際、デカルト的な(必ずしも<デカルト当人の>とは言わない)合理性に
反旗を翻した人がいないわけではありません。
事実、イタリアの哲学者ヴィーコが最初に
その意味での全面的なデカルト主義批判を行ったわけです。

学問の方法
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3 論理の力にだけ頼ると、かえって真相が見えないこともある


議論を見やすくするには、
「二つの合理主義」論を展開してしまった方がいいでしょう。
ドイツ的な、あるいは普通理解されているような近代合理主義の考え方と、
イタリア的な、あえて言うなら柔軟な(フラジャイルな)合理主義の考え方です。

自分の立てた計画に飽くまでも殉じてしまうのか、
それとも臨機応変に生きるのかという話です。
次の本にこの点についての、面白い記述があります。

光の帝国・迷宮の革命―鏡のなかのイタリア
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4 社会について


私のイタリア好き(従ってイタリアの「奥の院」)にも関わってくるこの議論は、
特に日本人にとっては考えてみるべきものだと思います。

首尾一貫性を求めるとしても、
自分の頭で考えた計画に殉ずるが如くそれにすがりついた首尾一貫性を求めるのか、
それとも臨機応変に生きるという意味でのそれを求めるのかの違いがそこにはあります。
それも思想と生き方がストレートにつながっているものとしての分かれ道があるのです。
ヨーロッパは一つではない。
しかもアルプスの北と南は大きく異なると考えた方が実状に合っているのでしょう。

南には、「人間的な確実性」が存在する。

このような話は、ヨーロッパの精神史の中で考えてみるならば、
私たちが当たり前のように前提としてる考えに
再検討を迫るものかも知れないのです。

古代地中海世界と(内陸を中心とした)ヨーロッパ世界の二分法」
(坂部 恵 『ヨーロッパ精神史入門』 p.7)
を採用してみるという可能性です。

ヨーロッパ精神史入門―カロリング・ルネサンスの残光
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4 実在論のことがよくわかる


この話は私のイタリア好きとも密接に関わっている論点を含みます。
しかし、今は措きましょう。

このような議論に入っていく前の、素朴な私が哲学の道に入っていくところに戻らなければなりません。

VII. 哲学の話

 受験勉強に精一杯だった高校生にとって、
哲学などは世界史の教科書で哲学者とその著書を結びつけ、
精々、<ベーコンといえば「帰納法」>程度のことしか憶えずに終わっているのが、
今でも普通でしょう。
倫理社会だってそれに毛の生えた程度のもの。
今の日本では、です。

それに対して、例えばフランスでの哲学教育は定評のあるところです。
日本語にもフランスのリセ(高等中学校)の教科書が何冊か訳されていますから、
見てご覧になるといい。
フルキエの本とか。レベルが違います。

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4 恐るべき高校教科書
5 なぜ、哲学が必要か


イタリアも同様で、先年買ってきた高校用哲学教科書は300ページ以上のものが
三冊でセットです。

私の大好きな哲学者の一人アランもフランスのリセの高校教師でした。
フランスでは、有名な哲学者は大抵、最初リセの先生となり、
それからデビューするのです。

日本にはそもそも高校に「哲学」という授業科目すらないのですから、
「これでいいのか?」と思ってしまいます。

私が哲学というか思想らしきものに面と向かう必要が生じたのは、
大学に入って取らざるを得なかった講義によってです。
フランス語を使って受験したため、入学後、
フランス語の既習者に対する講義を取ることになったのです。
実はこの講義が助教授と一対一だったのです。
要するに既習者は私一人だったわけ。
[なぜ既習者かというと、私が通っていた学校の創立者は
フランス人の宣教師であったためフランス語は中学からやっていたからです。]

この講義で読んだのがフランスの作家アルベール・カミュの講演録なのです。

毎回、喫茶店でケーキとコーヒーを先生におごってもらいながらも、
非常に苦しい講義でした。
終わると、自分の無知に自己嫌悪の塊となっていたといってもいい。

それからですね、猛烈に本を読み始めるのは。
カミュはいわゆる実存主義の思想家ですから、
自然、そういう系統のものを読みます。
サルトル、ハイデガー、ケルケゴールといった。

すると先に書いた<論理実証主義に心酔した>男から
嫌みったらしい批判を受ける。
それでそっちの方面も読んでみる。でも肌に合わない。

むしろドイツ観念論に惹かれていく。
フィヒテあたりの話から西田幾多郎がクローズアップされてくる。
「独我論」に興味を抱く。
シェリングの芸術哲学が気になる。
そんなこんなでフラフラしながらも、
自分の進路を経済学から哲学へ変更する。
卒論は経済学で書くが、大学院は哲学を目指すことにする。
そんなときに非常勤でいらしておられた故上妻精先生に出会い、
ハイデガーの『存在と時間』を題材に哲学史的知識を含めた
ドイツ語の特訓を受ける。
と同時に福居純先生のカント『純粋理性批判』の読書会に出させていただく。

結局、一度落ち着いて古いところから始めようということになり、
ライプニッツの哲学に深入りすることになるのです。

福居先生の、デカルト解釈に基づいたライプニッツ批判に対して
どのように応えていくかが、重要な課題となりながらです。

ライプニッツの主としてゲルハルト版哲学著作集との格闘が続くことになります。

祖母に借金をして買ったハードカバーの著作集です。
当時、金が無く、床屋に行くのも節約して本にまわしたものです。

そうこうしているうちに就職が決まり、大学で教えることになったわけですが、
教科書に困った。
哲学教科書というものはとにかく使ってみてがっかりするくらいつまらないのです。
(講義を受けた学生にはいい迷惑ですよね)。
そこで、<文章に力のある>ものを使いたい、それでいて<深い>ものを使いたい、
と考えるようになり、使ってみたのがアランだったわけです。

彼の書いたものは、註も無く、学術論文とは違った文体を持っています。

フランスの一地方新聞に文章を書き続けることで訓練された彼の文体は、
非常に短い中に凝縮した内容を持つ
「フランス散文の傑作」となりました。

彼の『幸福論』は是非とも読んで下さい。

翻訳は幾つかありますが、詩人の宗左近訳か、
哲学者の白井健三郎訳がいいかもしれません。
串田孫一・中村雄二郎訳も正確という意味ではいいのですし、
神谷幹夫訳は手に入りやすいのですが・・・。

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5 人間、己の人生の生涯における幸福の本質が示唆してあるかもしれない
1 翻訳がどうも


いわゆる「プロポ(Propos)」という文体を彼が創ったわけです。
講義してみて初めてわかる彼の散文の素晴らしさに魅せられて、
毎年、彼の本を使った講義を一つはやっています。

今ではフランスの『アラン友の会』の会員にもなっています。
ちなみにこの会とアランの生まれ故郷の
『アラン博物館とモルターニュの友の会』に同時入会しても
年会費は40ユーロです。
会報が毎年両方から送られてきます。

彼の思想はサルトルやレヴィ=ストロースといった人のもののように
華々しくブームになるということは無いでしょうが、
読み継がれるものだと私は思います。
今でも美学の分野ではよく読まれているといいます。
実際、私自身もアランの「情念」論に基づく美学的考察に刺激されて、
美学の世界に入っていくことになるのです。

VIII. イタリア哲学について

哲学・思想というと何だかドイツ・フランス・英米が中心で、
「イタリアの哲学ってどんなの?」
という人が多いんじゃないでしょうか。

イタリアが輝いていたルネサンスの時期にも哲学は貧困であった
とまで例えば下村寅太郎は書いています。
(下村寅太郎 『ルネサンス研究』 p.62)

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そして、往々言われるような、
ルネサンスの新プラトン主義やヒューマニズム思想を評価する見解に対して、
むしろ一般にはそれほど知られていないラテン・アヴェロイズムを持ち上げる見解を
紹介しています(同書 p.34)。

デカルト以降の重要な人物としてのヴィーコも日本での知名度は必ずしも高くない。
美学で知られたB・クローチェ、それからグラムシとかは知っている人もいるでしょう。
それからもちろんあの『薔薇の名前』のU・エーコぐらいはね。
いずれにせよ、フランス現代思想のような華々しい話題を提供していない
とは言えるでしょう。

けれども中には面白い動きもあるのです。
例えば、「弱い思想」や「南の思想」の動きがそれです。

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憶えておいて欲しいのは、エーコもこの流れに関わっていることでしょう。

デリダが攻撃するようなロゴス中心主義、それも強い「理性」としてのロゴスを
中心とする考え方を否定する立場の一つです。

弱い思想は、「しなやかな」思想を目指しているのでしょう。
硬直化した理論的合理性を衝くわけです。
実にイタリア的であると言ってもいい。

この思想もまた、いわゆるポストモダンという動きが建築界から出てきたのと同じで、
そこに由来します。
日本で早くからこの「弱い思想」に関心を示し、自ら『フラジャイル』という本を
書いている人物に松岡正剛氏がいます。

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3 こんな試みはどんどんやってほしい


イタリア的な合理主義とでも言うものは
とても大事な問題提起を含むものと私なんぞには思えます。

ああ、ちなみにヴァッティモ氏とは会って話したことがあります。
私がイタリアに行く前の年だから1995年かな。
私の友人が神戸女学院にいて、そこでヴァッティモ氏に話をしてもらうことにしたとき、
私も参加したのです。
まだ私はイタリア語がそれほどしゃべれなかったのでフランス語で少しだけ話しました。
彼がセミナーの最後の時にいった言葉は、"Be weak!"でした。


IX. ライプニッツの話

美学の話に入る前に、一応、
私の専門として通っているであろうライプニッツの話をしておきましょう。

思えば、このドイツの哲学者に付き合い始めてから25年以上が過ぎました。
日本の哲学研究者を批判する場合によく、
彼らは「哲学者」を研究していて哲学をやっていないなどと言われることがあります。
もちろん、そういう面があることは否定できない事実です。

けれども、私なんぞのような、天才ならぬ凡人は、まず、
哲学史上の巨人の胸を借りて思索を深めていくという姿勢を採りましたし、
それが間違っているとは思っていません。

誰かを<乗り越える>だとか言われても、なんだかそれって威勢がいいだけで、
「本当かい?」と言いたくなる方なのです、私は。

また哲学や思想というものは普遍的であって、
フランス哲学とかドイツ哲学だとか言うのはナンセンスであるという人もいます。

それにも賛同できません。
哲学は、生き方という意味での文化に密接に関わっていると私は思うからです。
人生問題は哲学に関わっているのです。

「人生問題なくしてどこに哲学というものがあろう」という
西田幾多郎の見解(全集 12 p.124)に私は積極的に賛同するものです。

ライプニッツに話を戻しましょう。
デカルトのように他我問題を無視してもいられたような
<良い時代>にはライプニッツはもはや生きてはいなかった。
ドイツを荒廃させた例の三十年戦争が終わる二年前に
ライプニッツは生まれているのです。
異なるものがいかに調和するかを必死で求めたとしても
不思議ではありません。
ライプニッツの語る予定調和も
それと無縁ではないような気がします。

ライプニッツには、その思想・哲学を十全に表わしたという意味での主著は
ありません。
『単子論』(モナドロジー)も主著という名には値しないでしょう。

生前に出版された『弁神論』も神学的な議論を中心にしており、
主著ではありません。
主著は無いのに、広汎な分野の草稿などが、
それこそ膨大の量として現存しており全集もまだ完結していないのです。
それ故、彼の思想の中心点ははっきりしない。
それが彼の哲学の特徴かも知れませんけどね。
20世紀は論理学を中心に置く解釈が優勢でした。

とにかく彼の哲学を研究するのは大変です。

本人は主としてラテン語とフランス語で書いています。

ライプニッツはドイツ人ですが、
ドイツ語が哲学のための学問語として定着するのは
彼よりも後ですからね。
書簡でも学者にはラテン語で、
学者ではない普通の教養人にはフランス語で書いています。

研究書にも三大研究書とでも言うべきものがあって、
ラッセルの"A critical exposition of the philosophy of Leibniz"と
クーチュラの"La logique de Leibniz"と
カッシーラーの"Leibniz' System in seinen wissenchaftlichen Grundlagen"です。
三冊とも大部の研究書であり、また英語・フランス語・ドイツ語ということもあり、
これらを読むだけでも相当のエネルギーを必要とします。
ラッセルのだけは昔、翻訳が出ていましたが。

これにミシェル・セールのまた大部な研究書
(Le Systeme de Leibniz et ses modeles mathematiques)を加えると、
初めから怖じ気づいてしまいそうですよね。

いずれにせよ、ライプニッツの哲学は現代思想でも正にセールのような人によって
また活気づけられて甦ろうとしているとも言えそうです。

ドゥルーズも『襞』なんていう本を書きましたしね。

私自身、『モナドロジーの美学』で、
やっと少しライプニッツ的な思考の動きに乗ることができたかな、と思う今日この頃です。

この本を出すまでに出した翻訳の話を次はしてみましょう。

IX. 翻訳の話

ライプニッツの『人間知性新論』を翻訳し始めたのは
まだ大学院生の頃でした。

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始めた頃はとにかく遅々たる進み方で、
何度やめようと思ったか知れません。

しかし、友人の長谷川夫妻に
「ライプニッツを研究しているんだったら、義務じゃないの?」
風のことを言われていたので、
続いていたとも言えるでしょう。

苦しかったのですが、学んだことは大いにありました。

<フランス語の文章を訳す場合に必ずしもフランス語の辞書だけを使うものではないな>
と考えたのも学んだことの一つ。

フランス語の単語からそれに対応している英語やドイツ語の単語を
辞書で引き訳語を工夫することは頻繁にやりました。

もちろん仏仏辞典やフランス語の類語辞典で意味の範囲を確定しながらです。
類語辞典は、H.Benac : Dictionnaire de synonymesが結構役立ちました。

工作舎の『ライプニッツ著作集』でラテン語の論文を訳したときには
ラテン語-フランス語辞典を主として使いました。

ライプニッツ著作集 (9)
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Ch. Lebaigue : Dictionnaire Latin- Francaisです。

残念ながら、ラテン語-日本語辞典は詳しいものがないので、
こうするほかはありません。

いずれにせよ、外国語と日本語との文法構造の違いとかに思いを致すことによって、
日本語というものについて考える良い機会にはなりました。

ちなみに翻訳するときに人名や特に固有名詞を
カタカナでどう表記したらいいのか困るときがありますよね。
そういうときに便利なのはDudenのAussprache-worterbuchです。
主要な言語の発音が出ています。

例えば数学者のBernoulliは
ベルヌーリが正しいことがすぐ確かめられます。

もっともこのくらいなら小学館ランダムハウスの英和大辞典でも
発音記号では出ていますけどね。
訳語ではベルヌーイのままですが。

X. 美学の話

美学という学問は哲学の一分野と言っていいでしょう。
美についての哲学というようなものです。

学問としての成立はカントの直前、バウムガルテンの力が大きい。

感性という「下位認識能力」についての学ということになります。

その後、カントが『判断力批判』で美学的考察を推し進め、
ヘーゲルの『美学講義』も日本語で読むことができます。

もちろん美というものについては
それよりもずっと昔から考察はされていたわけですから、
学として美学が成立してはいなかったとしても
美学的な考察は幾らでもありました。

プラトンの対話篇に副題が「美について」といわれることもある『パイドロス』が
あることをみるだけでもそれは明白でしょう。

新プラトン主義のプロティノスだって重要な美学的考察を残しています。

プラトンやプロティノスが、
あのルネサンス期の芸術に大きな影響を与えているのを考えれば、
こうした美についての哲学が
どんなにヨーロッパの文明に対して大きな位置を占めているかはよく解るでしょう。

例えば、ボッティチェッリの『春(プリマヴェラ)』の背後に
新プラトン主義の思想を読み取る研究は20世紀中葉から盛んになったのでした。

ルネサンスに心惹かれ、イタリア好きの私が美学の方向へと次第に傾斜していくのは
ごく自然なことだったと今では思っています。

しかし私が美学に向かう決定的な素地を築いたのは
やはりアランの著作を読んだことでしょう。

白水社の『アラン著作集』は全部読んでみるに価すると言っておきます。
特にその第五巻は『芸術に関する二十の講義』と題され、
非常に良く書けています。

その他に岩波書店から出ている『諸芸術の体系』は
必読書だとも言いたい。
舞踊から始まって散文に至る諸芸術について
私の眼を開いてくれた書物です。

それに、一応私が専門としているライプニッツも、
バウムガルテンよりも前の人ですが、美についての興味深い考察を残しています。

それをモナドロジーという体系との関わりで解明しようとしてみたのが
拙著『モナドロジーの美学』でした。

そこではライプニッツと西田幾多郎とアランの思想を貫く
モナドロジックなものを取り出しながらそれを美との関係で述べてみたわけです。

この本を書きながら、特に西田幾多郎による「実体批判」について考察する中で、
現代思想のいわゆるポストモダン的な動きの中にも興味深いものがあることに気づきます。

ミシェル・セールの<不動点を排したコミュニケーションの哲学>がそれであったし、
ヴァッティモらの<弱い思想>もそれだったわけです。
そこには、<強い理性>に対する拒否の姿勢があると思います。

セールなどは、自分が何故哲学者であるのかの理由を
「ヒロシマがあったからだ」とまで述べて、
強い理性がやってきたことに対する疑念を表明しています。

両者には非常に興味があるのですが、
とくにトリノ大学の美学教授ヴァッティモはイタリア語の著作が多くあり、
翻訳もあまりないため、もっと日本に積極的に紹介する必要のある人物だ
と思っています。
もっとも今の私にそれらを翻訳するだけの時間は無いのですが。

日本で美学的な講座を持っている大学そのものが少ないのですが、
そこでも美学と美術史とが一緒になって
「美学・美術史講座」なんてなっている
ところもあります。
しかし、美学と美術史は違うものです。

もちろんそうは言っても共に美について扱っているわけですから
関連はあるわけで、
美術史から美学の世界に入っていくこともありうるでしょう。
若桑みどりさんの美術史的な書物などは、
確かに美についての興味を呼び起こすには大いに役立つと思います。

2001年8月27日-31日に千葉の幕張で
第15回国際美学会議が開催されました。

各国からの研究者が400名ほど参加して、
ヨーロッパの伝統的な美学の話から、
日本や中国、韓国そしてインドの美学についてのシンポジウムや
種々のパネルディスカッションそして研究発表があり、
盛会だったと思います。

ヨーロッパの研究者が東洋の美学そして日本の美学にも
熱い視線を向けているように感じられ、
私たちとして語るべき事柄が沢山あるのだという思いを
新たにした次第です。

2000年10月にボローニャで開催された
 FRONTIERS OF TRANSCULTURALITY IN CONTEMPORARY AESTHETICS
のホームページと、そこでの私の発表原稿を見るにはここをクリック。

XI. 情報学の話

 情報学(informatics)という単語を英和辞典で引いてみてください。

載っていないか、あるいはinformation science(情報科学)と
イコールで結ばれているのが普通です。

もう一つ、情報工学(information engeneering)という言葉もありますね。

この三つの学問はどのように違うんでしょうか? 

実は多くの学者がこれらの違いについて
きちんと考察してきていないように思うんです。

情報の理論と言えばシャノンを思い浮かべる人も多いでしょう。
でも彼の場合、ハードウエアからは独立して情報量の理論を展開しているのです。

一方、情報工学の方はかなりハードよりのところで<情報の効率的伝達>を主
題としているように思います。

しかし、情報についての学問はこうしたことだけに留まらないように思うのです。

私がその創設に関わった名古屋大学の人間情報学研究科では、
<既存の学問分野を情報という切り口で整理する中で、学際性を強調しながら、
最終的には既存の学問体系の再編をもくろみ
人間情報学という新たな学問を創造すること>が目指されていました。

そこでは「伝達」ではなくむしろ新たな情報の「創造」の実際を
解明することが重要なのだと思うのです。
物質的秩序の中での例えばレーザーの生成に関わる
自己組織性と情報圧縮や情報創造の話題、
生命発生の過程における遺伝子情報を超えた新たな情報の創造の話、
社会秩序の生成という意味での情報の創造、
文学・思想作品における思想という意味での情報創造の話題。

こうしたものは単に<学際>という言葉でさえ陳腐にしてしまうような
新たなアプローチを必要としているように思うのです。

<個別諸科学に即した科学の問い直し>から出発して
「情報学」という新たな学問を構築する必要がある。

そのためのヒントとなるものとして私の念頭にあるのは
アランの「体系」の考え方、
セールのコミュニケーションの哲学、
マイケル・ポラニーの暗黙知の議論、
そしてもっとコンピュータに近いところでは、TRONプロジェクトなのです。

この話題は現代思想の展開と密接な関わりを持っています。

ロラン・バルト以来の「作者の死」の議論に関わってくるし、
作品といったものにおける間テクスト性の議論を発展させて、
ハイパーテクストというものを解釈して実践していこうとする人々もいるし、
それじゃ「作品」は消えてしまって、
「テクスト」というものしか語ってはならないのかといった話題につながります。

松岡正剛氏の「編集工学」も密接に関わってくるでしょうね。

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 こうしたことについての端緒を付けるために、
『情報学の基礎』という本を出しました。

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