(西郷隆盛の生涯)西郷城山に散る


南洲翁終焉之地(写真)
西郷隆盛終焉之地(鹿児島市)


(西郷、城山に散る)
 鹿児島において意気揚揚と挙兵し、陸路熊本を目指した薩軍でしたが、結局、最後まで熊本城を陥落させることが出来ず、その後、「田原坂(たばるざか)」での大激戦や、大分、宮崎など各地において政府軍と戦いますが、多勢に無勢、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に対し、薩軍はどんどん追い詰められていきました。
 最終的に西郷は、宮崎日向北方の長井村(現在の宮崎県東臼杵郡北川町大字長井)において、正式に軍を解散し、残った薩軍幹部らと共に、険しい日向の山道を乗り越え、一路故郷の鹿児島に向かって引き返そうとしました。生まれ育った故郷・鹿児島で、最後の決戦を行い、死のうと考えたのです。
 鹿児島に戻った薩軍は、旧鶴丸城背後にそびえる峻険な城山を占領して、土塁を積み上げ、陣地を作り上げました。
 しかし、すぐに政府軍も、その城山を幾重にも包囲し、城山の本営目がけて徹底的に集中砲火を浴びせたのです。

 そして、迎えた運命の明治10(1877)年9月24日。

 西郷隆盛と薩軍幹部ら生き残りの将兵は、本営の洞窟前に整列し、「潔く前へ進んで死のう」と決意を固め、城山を下山し始めました。
 政府軍の集中砲火が雨のように飛び交う中、西郷らは城山を降りて行ったのです。
 西郷に付き従った人々は、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れていきましたが、それでもなお、西郷は前へ前へと進みました。
 その時、一発の銃弾が西郷の体を貫きました。
 流れ弾が西郷の肩と右太ももに当たり、西郷はその場でがっくりと膝を落としました。
 西郷にはもう歩く力はありません。
 西郷は傍らにいた別府晋介(べっぷしんすけ)に対し、

「晋どん、もうここいらでよか……」

 と言いました。
 別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせ〜」と大きく叫んで、西郷の首を落としました。
 西郷隆盛49歳、波乱の人生の幕切れでした。

 若き日、島津斉彬に見出されて世に出て以来、西郷は常に人々の人望や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる原動力となりました。
 しかしながら、西郷自身はそのことに少しも驕ることなく、常に民衆のことを考えた政治を行い、自らも無欲で質素な生活をすることを常に心がけました。
 このような庶民性や人間性をもった英雄は、日本には彼一人しか存在していません。
 西郷隆盛は、日本史上最も清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えるでしょう。




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