(西郷隆盛の生涯)薩長同盟から大政奉還まで


坂本龍馬銅像(高知県高知市・桂浜)


(薩長同盟)
 長州藩が蛤御門の変の首謀者を処罰し、さらに五卿を動座させるなど、恭順の意を示したとはいえ、幕府にとって、西郷や徳川慶勝が下した処分は、余りにも軽いものと感じられました。これは幕府の一種驕りとも言えるものですが、幕府はまたもや諸藩に対し、長州再征の準備を進めるよう命じたのです。
 長州が恭順の意を示しているにもかかわらず、さらに再征を行なおうとする幕府に対し、西郷は大きな憤りを感じ、「長州再征は幕府と長州の私闘であるため、出兵は拒否する」という方針で藩論をまとめ上げました。
 また、当時、このような幕府の傲慢なやり方に不満を持っていた土佐藩士の土方楠左衛門(ひじかたくすざえもん。後の久元)と同藩士の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の二人は、これを機に仲違いしている薩摩と長州の手を握らせようと考えました。
 土方と中岡は、同じく土佐藩士の坂本龍馬(さかもとりょうま)にも協力を求め、三人は薩長同盟に向けて動き出したのです。

 中岡は長州藩のリーダー的存在であった桂小五郎(かつらこごろう。後の木戸孝允)に対し、薩長融和に向けての説得を開始しました。
 また、土方は薩摩憎しで凝り固まっている長州藩諸隊の幹部の説得を始め、龍馬はと言うと、西郷を始めとする薩摩藩の重臣らに対し、薩長同盟の必要性を説いたのです。
 幕府の再征が目前に迫った状況を考えれば、長州にとっても薩摩との同盟は「渡りに船」だったのですが、これまでの経緯を考えると、薩摩へのわだかまりがどうしても拭えません。八月十八日の政変や蛤御門の変での経験が、長州藩をして薩摩藩との同盟に二の足を踏ませたのです。

 また、西郷自身はと言うと、薩長同盟の必要性は感じていながらも、国許の薩摩にいる島津久光は、以前から長州に対して悪感情を持っていたため、西郷の独断では同盟に踏み切ることが困難な状態にありました。
 このように薩長同盟への道は、当初から困難を極めました。
 しかし、ここで坂本龍馬は一計を考えました。
 龍馬は自らが設立した「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が、薩摩と長州との間に入り、薩摩藩名義で外国から買った武器を長州藩に売ることを考えました。
 当時、諸外国の貿易商は、長州藩に武器を売ることを幕府から禁止されていたため、長州藩は幕府との戦いに備えて軍備を整えるために、小銃や大砲といった兵器を外国から買い揃えることが出来ませんでした。そのため、龍馬が仲介役として間に入り、薩摩名義で買った武器を長州に横流しすることで、長州藩のわだかまりを払拭しようと考えたのです。

 坂本、土方、中岡の不断の努力がようやく実を結び、京都において、長州藩の代表・桂小五郎と西郷を中心とした薩摩藩首脳部との会見が催されることになりました。
 しかし、長年いがみ合ってきた両藩の確執はそう簡単には消えず、双方とも自重して、なかなか同盟締結の話を切り出そうとはしませんでした。
 そんな中、同盟締結を見届けるべく、坂本龍馬が遅れて京都に入って来ました。
 龍馬はお互いがけん制し合うことで、同盟がまだ締結されていないことに驚き、憤りました。
 龍馬は西郷に対して言いました。

「西郷さん、桂はあっしにこう言いよりました。長州藩が滅亡すれども、薩摩がその後を継いでくれれば本望であると。桂もこれだけ日本のことを考えとるがぜよ。西郷さん、ここはお互いの面子を捨て、薩摩から長州に同盟を申し込んでくれんか。これは長州藩のために頼むがじゃない。今後の日本の将来を考えてのことぜよ」

 西郷は龍馬の言葉に心を動かされ、家老の小松帯刀と相談、許可を得た上で、ついにようやく薩摩藩から長州藩に対し、同盟を申し込んだのです。
 こうして、慶応2(1866)年1月21日、坂本龍馬立会いの元、「薩長同盟」が締結されました。


(第二次長州征伐)
 薩摩藩と長州藩が密かに同盟を結んでいることなど露知らない幕府は、長州藩を徹底的に討伐するべく、長州再征の命令を諸藩に対し下しました。
 それを聞いた西郷は、幕府の失墜を痛感し、自ら筆を取って長州再征に反対する拒絶書を幕府に対し提出しました。薩摩の出兵拒否に驚いた幕府でしたが、ここまで来て後には引けないとばかりに、強引に長州に攻め込んだのです。
 しかし、幕府軍はことごとく長州藩に叩きのめされ、各方面で敗戦を喫しました。
 幕府軍の敗戦の原因は、坂本龍馬の斡旋で手に入れた外国からの新式の兵器を長州藩が効果的に使ったこともありますが、一番の大きな原因は、薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参戦しなかったことにより、幕府軍の士気が一向に上がらなかったことにあると思われます。
 このように幕府軍が各地で連敗する中、江戸から大坂城に入り、戦況を見守っていた第14代将軍・徳川家茂が突然病死しました。
 幕府は将軍の死により、ようやく長州征伐の休戦命令を出すに至ったのです。


(大政奉還と討幕の密勅)
 将軍・家茂の死後、将軍職に就いたのは一橋慶喜(後の徳川慶喜)でした。
 西郷は、若き日、斉彬の命で一橋慶喜を将軍継嗣にするよう働いていたことは前述しましたが、その慶喜が今度は西郷の敵となり、その後、立ちはだかることになるのですから、歴史とは時に不思議な巡り合わせをするものです。
 慶応3(1867)年5月、西郷は、薩摩、越前福井、土佐、宇和島という、当時政治的にも力を持っていた雄藩と呼ばれる四藩に対し、国政のイニシアチブを握らせるべく、合議によって政治を運営する「雄藩連合会議」を京都において開催することに成功しました。
 当時の西郷は、この雄藩連合に全てを賭けて尽力していたのですが、四藩それぞれの思惑や利害関係の不一致、将軍・慶喜の巧みな政略などのため、結局、会議は不成功に終わってしまうのです。
 この雄藩会議の失敗により、西郷は日本の変革を成し遂げるには、幕府を倒し、新しい政体を築くしかない、という考えに達します。

 雄藩連合会議(四侯会議)の失敗後、西郷や大久保は、武力での倒幕への準備を着々と進めることになるのですが、それに対し、土佐藩は、政権を幕府から朝廷に返還させるという、「大政奉還(たいせいほうかん)」を推進します。その運動の中心人物は、土佐藩の重臣であった後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と坂本龍馬の二人でした。
 薩摩藩は、土佐藩の動きを容認する立場をとりましたが、武力倒幕に向けての用意を独自で進め、慶応3(1867)年9月18日、薩摩藩の大久保一蔵は長州藩主の毛利敬親と面会し、薩長は互いに出兵盟約を結びました。
 また、さらに大久保は、朝廷より「討幕の密勅」を降下を願うべく、公家の岩倉具視(いわくらともみ)と共に運動を続けました。
 そしてその結果、同年10月14日、薩摩藩と長州藩に対して、朝廷から待望の「討幕の密勅」が降下されたのです。
 しかしながら、その動きを事前に察知していた将軍・徳川慶喜は、幕府が自ら進んで朝廷に政権を返還すれば、薩長の倒幕の大義名分を無くすことが出来ると考え、土佐藩の建白を受け入れ、大政奉還に踏み切ったのです。
 この慶喜の思い切った行動は、朝廷や薩摩、長州藩に大きな衝撃を与えました。




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