ミラルタの鏡


BY 如月星羅


『鏡と民間伝承』

如月星羅編

 鏡に纏わる物語は世界各地に残されている。私はこの本、『鏡と民間伝承』の編纂に当たって世界各国の民俗学者の研究を参考にした。私が参考にした文献の幾つかをここに引用したいと思う。まず、初めに、ドイツの偉大なる民俗学者であり、この道の権威であっったユイマー=キリヒ氏(1827〜1895)編纂の『ドイツ〜鏡と民間伝承〜』の中から「ミラルタの鏡」と呼ばれる物語を引用しよう。ユイマー=キリヒ氏の解説も併せて引用するので是非、読んでもらいたい。


ミラルタの鏡

 昔、ドイツのアウグスブルクに、ハインリヒ=フォン=ローゼンベルクという騎士がいた。この若い騎士は父親を亡くした際に、父親のアウグスブルクの居城や、金や銀、宝石など、財産の全てを相続した。
 父親の遺産の中に一枚の、豪華な銀製の枠に入った、大きな鏡が在った。その鏡はハインリヒの寝室に置かれていたが、彼がその鏡に自分の姿を写すことは滅多に無かった。それと言うのも、ハインリヒは剣の技を磨くことに夢中で、その修業のためには服装などに気を使う時間はない思っていたからである。もちろん、彼は騎士の名に恥じない程度の装いはしていたが、必要以上に着飾り、その姿を鏡に写し、楽しむことよりも、父親の形見の長剣を振り、体を鍛える事を好んでいたのだった。
 ある日、ビュルテンベルクの伯爵が、城での舞踏会にハインリヒを招待した。ハインリヒはいつものように質素な服装で出掛けるつもりだった。しかし、父親の代からローゼンベルク家に仕えている侍女のクラウディアが、彼をたしなめた。その伯爵は服装で人を判断するということがもっぱらの噂であるので、舞踏会へは豪華な礼装で出掛けたほうがよい。さもなければ、ローゼンベルク家の名が汚されるだろうと、クラウディアはハインリヒに言って聞かせた。ハインリヒは気が進まないようであったが、彼女の再三の勧め と家名が汚されるかもしれないということを聞いて、仕方無しに首を縦に振った。彼は父親の残した上等で、美しく、豪華で優美な服に身を包んだ。
「どうだろう?自分では似合っていないと思うんだが…」
 ハインリヒの言葉にクラウディアは答えた。
「御主人様。寝室の鏡で、どんなにお似合いか、御覧になるといいですわ」
そこで、ハインリヒは寝室に入り、大きな銀縁の鏡に自らの姿を写した。鏡には、頭の上から足先まで見事なまでに着飾っている青年が写った。ハインリヒは美しい青年だった。鏡の中の金髪の青年はエメラルドのような緑色の瞳でハインリヒを見つめていた。
「クラウディア」
 ハインリヒは侍女の名を呼んだ。
「すこし派手じゃないか?」
「いいえ、御主人様。それくらいは普通ですわ」
「そうかい?」
 ハインリヒはもう一度鏡の中の自分を見つめた。まるで誰か別の人物に見られているかのように感じ、照れたように微笑むと、彼は舞踏会へ向かった。

 ハインリヒは知らぬことであったが、この大きな鏡の中には、鏡の命、つまり鏡の精が宿っていた。この鏡の精は名をミラルタと言い、腰まである流れるような銀髪と何処か悲しげな薄紫の瞳の美しき乙女であった。
 ミラルタは鏡の中から、時折、ハインリヒの姿を見掛けていた。彼女は鏡を相続した この若き騎士に興味を持ったが、ハインリヒは寝室の大きな鏡の前に立ち止まらず、いつも鏡の前を通り過ぎるだけであった。ところが、ある日、ビュルテンベルク伯爵の舞踏会へ行くために、着飾ったハインリヒがその華麗なる姿をミラルタの前に現した。ミラルタの鏡面がハインリヒの全身を余す事なく写し出した。
『何て立派な方でしょう』
 ミラルタは感嘆の声をあげたが、ハインリヒには聞えなかった。何故ならば鏡の中のミラルタの声はそれを聞こうとしないものには聞こえないからである。
『何て美しい若者!』
 ミラルタはハインリヒに心を奪われた。彼はそれほどまでに美しく華麗であった。舞踏会に出席するためにハインリヒが鏡の前から立ち去ると、ミラルタは溜め息を着いた。ミラルタの胸を熱い思いが焦がしていた。
 ミラルタの思いにもかかわらず、ハインリヒは、相変わらず、ミラルタの鏡を覗くということは殆ど無かった。鏡の中のミラルタは必死で呼び掛けたが、その声もハインリヒには届かなかった。絶望した鏡の精霊ミラルタは神に祈った。
『ああ…神よ。どうかあの方が私の前に立って下さるように…』
 ミラルタの願いは適えられた。ハインリヒは毎日のように鏡に向かい、美しく着飾るようになった。彼は毎日、楽しげに自分の姿を鏡に写した。ミラルタはハインリヒの突然の変化に驚いたが、毎日ハインリヒの姿を眺め、彼に声を掛けた。ハインリヒは彼女の呼び掛けには答えなかったが、それでもミラルタは幸福だった。
 ある日、ハインリヒはいつもにまして念入りに身だしなみを整えていた。彼の姿は輝くばかりに美しく、その表情も明るかった。
「クラウディア。これでどうかな?」
 侍女に向けられた質問にミラルタは答えた。
『とても素晴らしいわ』
 しかし、その声はやはりハインリヒには届かない。聞く耳を持たない者にミラルタの声は聞こえず、見る目を持たない者にはミラルタの姿は見えないのだ。
「お似合いですよ、御主人様。これならばクリスティーネ様もきっとお喜びになりますわ」
 ああ、何と言う事であろうか。ミラルタはこの時、初めてハインリヒが鏡に向かうようになった理由を知った。恋だ。ハインリヒは恋をしているのだ。
 ハインリヒが恋する相手は、クリスティーネ=カストルプという可憐な女性であった。クリスティーネはある伯爵の娘で、流れるような亜麻色の髪の乙女であった。ハインリヒは彼女を愛し、彼女もハインリヒを愛した。二人の愛を邪魔することは誰にも出来なかった。悲嘆したミラルタはその日から、鏡の奥に引き籠もり、ハインリヒを忘れようと努力した。彼女には、愛するハインリヒの幸福を密かに願うことしか出来なかった。

 それから、約一年後のある日、ミラルタはハインリヒの苦悩の叫びに気付き、鏡の奥から姿を現した。彼は助けを求めていた。
「誰でもいい。私を助けてくれ…。ああ、我が愛しのクリスティーネが死んだのだ…。」
 若き騎士ハインリヒと伯爵令嬢クリスティーネの恋は誰からも祝福され、その幸福を奪うことの出来る者はいないと言われていた。しかし、その幸福は意外なまでにあっさりと崩れ去った。二人の恋に死神が嫉妬したのかもしれなかった。美しいクリスティーネはハインリヒと遠乗りに行った際に落馬しその怪我が元で命を落としたのだ。
「ああ…彼女を死なせたのは私だ。私が遠乗りになど誘わなければ…彼女は死なずにすんだのに」
 ミラルタの紫色の瞳は苦悩するハインリヒを写していた。
「誰でもいい。私をこの苦痛から救ってくれ」
 ハインリヒは叫んだ。
『私の愛しき人。そんなに自分を責めることはありませんわ』
 ハインリヒはハッとして、俯いていた顔を上げた。助けを求めるハインリヒの心がミラルタの耳からは聞こえない言葉を拾ったのだ。
「誰だ!!」
『私の名はミラルタ。鏡を御覧なさい』
 相手がミラルタの声に答えた時だけ、ミラルタの鏡面は鏡の前に立った相手の姿ではなく、ミラルタ自身の姿を写すことが出来るのだ。
「ああ…」
 ハインリヒは息を飲んだ。何と言う事であろうか。ミラルタはクリスティーネに瓜二つであったのだ。クリスティーネは亜麻色の髪であり、ミラルタは銀髪という違いはあったのだが…。
「クリスティーネ…」
『愛しき人。ここへきて私を抱き締めて下さい』
 ハインリヒはミラルタの鏡に近付いた。
『私はあなたを苦悩から救えるわ』
 ハインリヒの体が鏡面に触れた。一瞬のひんやりとした感触。そして、すぐにミラルタの暖かい体に触れた。
『愛しき人。愛しているわ』
 ミラルタはハインリヒの頭に銀の冠を乗せた。その瞬間にハインリヒはうつつの記憶を失った。
「君は?」
『愛しき人。私の名はミラルタ』
「私は…。私の名は…?」
 ハインリヒは自分の名を思い出すことができなかった。
『名前なんて必要ありませんわ。私の愛しい人』
「そうだな…ミラルタ」
 ミラルタとハインリヒは美しい愛の夢の中に落ちて行くのだった。
「御主人様。何処ですか…」
 侍女のクラウディアがハインリヒの寝室へ入って来た時、ハインリヒ=フォン=ローゼンベルクの姿は何処にも見当たらなかった。ハインリヒは二度と戻っては来なかった。彼はミラルタの鏡の中で永遠の愛の夢を見ているのだと伝えられている。


 ・・・・この物語はドイツのアウグスブルクに伝えられていたものである。
 このミラルタの物語に類似した物語はドイツの各地に伝わっている。地方によってディテールは異なっているが、どの物語にも必ず大きな銀枠の鏡が登場しているのは興味深い。これは、当時の人々の鏡についての神秘的な考え方をよく表していると言えるだろう。このミラルタの物語の他にも鏡について語られた話は多い。鏡という物はやはり、人々に幻想的なイメージを抱かせる物なのであろう。
(1889.5.26 ユイマー=キリヒ)

【FIN】

1989.5.26 finished
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