歴史都市構想推進会議設置準備会


足利の街並みを守ろう区画整理反対

歴史都市構想推進会議設置準備会

足利源氏2代目義兼公の法界寺

足利高福寺

坐禅をしよう

東松山市区画整理反対

足利市は歴史と文化のある町です。歴史都市構想に基づく[まちづくり]をしなければなりません。日本全国にも提言できることです。

 昨今の日本人の精神構造を思うとき、憂慮に耐え難いものがあります。戦後の急速な経済発展によって、物質的生活水準は裕福になったが、反面、因果応報と言われるように、その弊害として精神面に於いて、社会不安の鬱積や懊悩が現象化して来たようであります。換言すれば、経済効率を過度に優先するあまり、人心を置き去りにして来た結果のトラウマ的後遺症が表出して来たことが伺えられるのであります。薬物乱用、売春行為に陥る少年少女の増加と低年齢化などには暗雲迫る思いがあります。

 現代病とも言えるこの現象の原因には、多種ある中で、古き良き日本風土・歴史・文化・自然を蔑ろにする急速な都市化が大きな要因と考えられるのであります。

 かつて人と自然が共生した里山は子供を養育するが如く歳月をかけ手入れをされていたということであります。同様に、町の造りも長い歳月に裏打ちされた歴史があり、そこに伝統・文化が息づいているからこそ人は安住できるのであります。良く生きるとは、古里の歴史を生活の中に連続させることであり、先祖の魂を時に努めて感得しながらそれを心の糧にすることなのであります。

 足利は幸いに歴史遺産の豊富な町であります。この特点を活かし、教育・文化の立脚点から我が足利を、伝統が薫習している町、歴史が息づいている町、文化の香る町、自然と共生する町にしていかなくてはならないと勘案するものであります。

 以上の理由で歴史都市構想推進会議を早急に設置しなければいけません。

 

足利仏教会より足利市へ

「歴史都市宣言」推進のための組織設置の要望

 

 平成十二年六月二十日の足利市議会における「歴史都市宣言」を踏まえ、足利仏教会として、以下の要望を致します。

 一九六○年代以降の高度成長経済の結果、日本は、世界第二位の経済大国となりましたが、その反面、水俣病などの深刻な公害問題の発生だけではなく、大都市への人口集中によって、地方の過疎化が急激に進みました。

 さらに、一九八○年代の、バブル経済のさなか、悪質な土地の買いあさり、地上げなどが起こり、伝統的な地域環境が大きく揺さぶられました。しかもバブル崩壊によって、地上げされたものの利用されない空き地が各地に見いだされ、地方都市中心部の空洞化が指摘されてきました。

 さらに、地方都市では、少子化と高齢化とが同時進行しております。中心部の商店街の空洞化が進み、地方都市の活気は失われつつあります。

 足利市も例外ではありません。高齢化、中心部の空洞化、少子化による小学校の合併などが生じてきました。

 この現況に対して行政の側から、十分な対応がなされているとは言えません。今まで行われてき

た活性化の手法は、太平記館や美術館などのいわゆる「ハコもの」を作るという旧来型のものにすぎませんでした。近年、構造改革が叫ばれる中、公共事業中心の行政が厳しく批判されるのは、 「ハコもの」や道路造成中心の行政は、しょせん、建物や道路を作るだけで、地域の人と人とのつながりを回復する機運を生み出せなかったからなのです。

 今必要なことは、新しい建物や道路を作り出すことではありません。長年の間つちかわれてきた人々のつながりや町並みのあり方を見直すことではないでしょうか。

 路地によって象徴される日本の伝統的な町並みは、欧米型の都市とは景観が異なります。一九六〇年代以降の高度成長下では、伝統的な町並みが破壊され、どこに行っても同じような都市景観が人工的に作り出されてきました。日本が世界に誇る古都京都ですら、醜悪な高層建築群によって、都市景観に大きな歪みを生み出し、世界の心ある人々から批判を浴びております。

 足利市も、東日本では、鎌倉と並ぶ古い歴史を誇る町です。市内各所に栃木県下一を誇る三九一件の歴史遺産(国指定文化財 三五、県指定文化財 八○、市指定文化財 二七六)、並びに県下最多の古墳群を有しているばかりではありません。中心部には渡良瀬川が流れ、背後には、両崖山、行道山、大岩山など関東各地からハイキング客が訪れる、美しい山並みがひろがる自然環境にも恵まれています。

 今必要なことは、先祖から継承してきた、こうした歴史遺産(文化財や自然環境、町並み)を再評価することではないでしょうか。

 たとえば、現在進行しつつある大日(鑁阿寺)周辺の都市開発計画も全面的に見直すべきではないでしょうか。

 この地域は鑁阿寺一山十二坊の金剛乗院(三島院)、千手院(現在は、創立百年を越える足利幼稚園となっております)、竜福院、安養院などの寺院や足利戸田藩陣屋が存在した地域です。この跡地には、まだ未発掘のたくさんの遺跡・遺構、文化財などが埋蔵されている可能性があります。また古い伝統的な路地文化が息づいている貴重な地域でもあります。

 この町並みは、今後、足利市の貴重な歴史遺産となるものであり、区画整理や道路拡幅によって破壊されるべきものではありません。子孫に残すべき路地文化を破壊することは、賢明な方法ではありません。開発計画は、全面的に見直すべきものと考えます。

 以上の展望にもとづき、足利仏教会と致しましては、大日〈鑁阿寺)周辺の都市開発計画を全面的に見直すことを要望するとともに、足利市を歴史遺産、並びに美しい自然環境と伝統的な町並みを基盤にした「歴史都市」として再興するべく、「歴史都市宣言」推進のための組織を早急に設置することを要望するものであります。

 平成十四年六月七日        足利仏教会

 

 足利市市長 吉 谷 宗 夫 殿


法界寺址について

 足利源氏2代目 義兼公(足利尊氏の6代前)建立の法界寺(現在はなく、この地には樺崎八幡宮社殿があるだけ)を足利市は、樺崎寺という間違った名称で国に遺跡文化財登録申請をし、平成13年1月には間違った名称である樺崎寺という名称で登録されてしまった。

 

足利源氏2代目 義兼(足利尊氏の6代前)は出家をして高野山の宝憧院に居住す。法華坊鑁阿と号し真言密教を行学す。(「高野山御影文書」より)

帰郷して足利市樺崎町に、伊豆、走湯の般若寺の僧、理真阿じゃ梨を住職に迎え法界寺を建立する。高野山に準じて、奥院を鑁阿寺大御堂から北東4キロメータの樺崎町に建立し、下御堂法界寺と名づける。(「鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第」より)

これは妻時子(源頼朝の妻政子の妹)が懐妊したとき(文治4年1188年)、安産祈祷の為であった。(「鑁阿寺古縁起」より)


 樺崎寺址から

元来の名称である法界寺址への名称変更要望

 鑁阿寺は足利義兼公により開創された真言宗の古刹であり、本尊は大日如来であります。大日如来には「鑁」で表す金剛界と「阿」で表す胎蔵界の二種があります。

 金剛界大日如来は宇宙全体の実相とはたらきを仏格化した仏で、その行法の印相は智拳印を結び、智慧徳相を堅固あらしめる智法身仏であります。

 胎蔵界大日如来は生命の根本、宇宙の心髄を仏格化した仏で、印相は法界定印を結び、理徳を養い慈悲を顕現せしむる理法身仏であります。智法身の「法」、理法身の「法」、法界定印の「法界」という字は教義上、頻繁に使われる字であります。

 鑁阿寺の本堂を大日堂また大御堂とも呼んでいます。真言密教を学び大日如来に感化された義兼公は大御堂を壇上とし中心堂宇に位置づけ、樺崎の地に奥院を建立されました。その奥院を壇上である大御堂に対照して下御堂と呼び、真言宗の教義・信仰上から法界寺と命名されたことは充分に推察されます。

 義兼公の嫡子義氏公も同様に「法」の字を付けた法楽寺を創建されています。

 以上の理由で、前澤輝政氏が平成十二年十一月十五日足利市前市長へ、また平成十四年二月十二日足利市教育委員長へ提出された両要望の趣旨に賛同すると共に、奥院の名称を樺崎寺址から法界寺址への名称変更を要望するものであります。


要  望  書

 足利市教育委員長   様

 

          本 書 の 要 旨

 足利義兼公が創建した鑁阿寺の「奥院」につき、跡遺名は

「樺崎寺跡」でなく「法界寺跡」に是非改められるよう要望いたします。

 

    平成一四年二 月 一二 日

                         前   澤   輝   政

一、「足利氏源義兼」 (以下、足利義兼。久壽元、一一五四〜正治元、一一九九)は文冶二年(一一八六)には「入道し鑁阿と号し、高野山に住み法華坊鑁阿と号す(『高野春秋編年輯録』)また「法花坊鑁阿上人、高野山宝憧院に居住す」(『高野山金剛峯寺御影堂文書』)ともある。

二、そして「凡そ本願上人(義兼 鑁阿)の素意は偏に高野山に擬え、当寺(鑁阿寺)を以って壇上と為し、樺崎をもって奥院に准らう」(『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』)ー以下、『仏事次第』という)とある。

三、上記のことから、出家入道し法華坊鑁阿と号した足利義兼は、樺崎の地の「奥

院」に当たる一山に「下御堂号法界寺」を建立した。

四、「法界寺なる下御堂」建立ののち、「赤御堂」(『樺崎八幡社所蔵元録縁起』では、当初義兼が一堂を建てたところという)、「一切経蔵」、「多宝塔」、「竹内地蔵堂」等の建立(『仏事次第』)が知られるが、「下御堂法界寺」は一山を代表する中心堂宇として、「壇上」である鑁阿寺の中心たる「大御堂」に対する「下御堂」であり、一山の寺名のごときものであったと解せられる。

五、なお、「樺崎山崖」に営んだという一字「赤御堂」(『樺崎八幡社所蔵元禄縁起』)を、足利市教育委員会は「上御堂と見立て、それより東側の低地に立地する故に下御堂(法界寺、宝憧院)と称したと考えられる」とするが、上御堂なる堂名は上記の文書他関係文書に見当たらず、「下御堂」とは「赤御堂」より低地にある故でなく、 「壇上」(鑁阿寺大御堂)に対する「下御堂」の意と解される。

六、足利義兼は真言密教の本山高野山金剛峯寺に住み「法華坊鑁阿」と号したのであり、真言密教の主尊たる大日如来、胎蔵界の印相が「法界定印」であれば、鑁阿上人として(鑁は金剛界、阿は胎蔵界の意)としては、そこが一山の中心堂宇であるからこそ「法界」と冠したもので、それは真言密教を奉じたかれ鑁阿上人にふさわしい信仰上の寺名であったと推察される。

 因みにー

 鑁阿上人、義兼の祖父義国の菩提寺は「宝憧寺」であり、父義康は「鑁歳寺」である。ー宝憧寺は「高野山宝憧院」、 「宝憧院下御堂、法界寺」、鑁歳寺は「鑁阿寺」なと密教信仰上の寺名が想われる。そして義兼の子息義氏の菩提寺が「法楽寺」であれば、「法界寺」の寺名がいかにも相応しく思われるのである。

七、法界寺の創建は文治五年(一一八九)乃至 建久初年(一一九○か一一九一)頃の鎌倉初期とみられ、建久四年 (一一九三)には「下御堂法界寺」(『仏事次第』)とあり、正安元年(一二九九)に法界寺が焼失後、法印房源助(左馬頭法印、理真上人八代)が「宝憧(幢)院下御堂、法界寺代」(『仏事次第』とあり、およそ鎌倉時代は「法界寺」の寺名が用いられていたことが知られる。そして「樺崎寺」名は文和三年(一三五四)に「樺崎寺別当」(『足利尊氏御教書』)、貞和二年(一三六三)に「樺崎、鑁阿両寺別当」(『足利基氏 補任状』)等、およそ南北朝〜室町時代に知られる。

 しかも応永二八年(一四二一)、四代鎌倉公方足利持氏が父満兼(三代)のための「勝光院殿御追善十三回并御廟供養」(『足利満兼十三回忌曼荼羅供養供職衆請定』)は「椛崎法界寺道場」とあり、室町時代にも足利源氏の法要等の正式儀式には「樺崎寺」でなく「法界寺」名が用いられていることが知られる。

八、思うに「樺崎寺」とは「樺崎」の地に所在する故、その地名を単に冠したのに相違なく、仏教教義上の寺名でなく俗称であり通称であった。ーそれはかの大和の法隆寺が斑鳩の地にある故に斑鳩寺(鵤寺 伊可留我寺)、法興寺が飛鳥にあるが故に飛鳥寺等と俗称されているのと同じである。

九、また奥州平泉の毛越寺は、「陸奥国平泉円隆寺号毛越寺」(『吾妻鏡胱漏之巻、嘉禄二年一一月八日条』)とありー足利の鑁阿寺の「奥院」が「下御堂号法界寺」であれば、彼は「毛越寺」、我は「法界寺」とこそ称されたのであろう。

十、天保一五年(一八四四)の楽堂(毛ノ国足利北在吐月峯向合主人)著『四十九院地

蔵尊順道詣』の文中に「下御堂法界寺」の寺名が記載されており、江戸時代後期でも「法界寺」名が存在し、用いられていたことが知られる。

十一、『足利市史』上巻(足利市、昭和三年)にはー「下御堂法界寺は鎌倉時代より室

町幕府時代の中世に至まで隆盛を致ししが、永禄、天正の頃より京都将軍家及ぴ関東管領家の衰微と共に其の運命を共にし、織、豊時代及ぴ江戸時代を経て、明治の初年に至り、僅かに薬師堂一宇(八幡官本社より東南約四町の辺)を存せしが、之も今は全く荒廃して徒に麦秀を嘆つのみとなれば里人其の辺を「ホッケ寺」と呼びしときくも、今はそれを知る者なし」とある。ーこの「ホッケ寺」は法華寺であり、「ホッカイ寺」の転訛に相違なく「ホッカイ寺」は「法界寺」である。

 以上のごとく、鎌倉時代初期の創建以来、法界寺の最も盛時たる鎌倉時代は「奥院」

「下御堂号法界寺」の名であり、真言密教を奉じた開基たる足利義兼公の信仰からも「法界寺」と称されていたのである。

 まことに「法界寺」の寺名は開基足利義兼、鑁阿上人(開山は真言密教僧、理真上人

『仏事次第』)の信心の表現であり、創建以来のものであれぱ、これが最も尊重されることが至当であり、その遺跡名は「法界寺跡」が正当である。

 したがって、遺跡名は「樺崎寺跡」ではなく「法界寺跡」とすべきである。

                                   以 上

   法界寺址を是とする同意書

 前澤輝政氏が平成十二年十一月十五日足利市前市長に提出された要望書と併せ此の度の要望の趣旨に

足利義兼公 嫡孫 坂本夫妻(足利市在住)と

足利仏教寺院

 真言宗・天台宗・浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・

 臨済宗・曹洞宗  各宗  二十四 の有志寺院住職は同意をしています。

 平成十四年二月十二日

 

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